(10)驚愕の巡り合い

 目指す画商の店の前で馬車から降り立った優雅なドレス姿のグレイシアは、侍女のお仕着せを着込んだリディアを振り返り、穏やかに声をかけた。


「さあ、それではリディア。行きましょうか」

「はい」

 そして浮き立つ気分を押さえきれず、満面の笑みで頷いたリディアは、店のドアを押し開けてグレイシアを先に通しながら、しみじみと己の幸運を噛み締めた。


(はぁ……、仕事で連日の様に、王都で名だたる画商を訪問できるなんて、なんて役得なの。特にこのキーリング商会なんて、規模や取り扱う美術品のランクが、王都内でも一・二を争う所なのに)

 そんな事を考えているうちに、従業員が呼びに行ったらしく、奥から出てきた当主にグレイシアが気軽に声をかけた。


「ザールス殿、お久しぶりね。お元気そうで何よりだわ」

「これはグレイシア様! いらっしゃいませ。こちらに足をお運び頂くのは、一年ぶりでしょうか?」

「ええ。暫くゴタゴタしていて、すっかり足が遠のいてしまったわ。漸く身辺が落ち着いたので、新居に飾る絵を新しく求めようかと思って、あちこち回っているのよ」

 すると彼女の夫であるケライス侯爵が亡くなった後の継承問題を、ザールスも耳にしていたらしく、一瞬気の毒そうな表情になったものの、すぐに穏やかな口調で応じた。


「そうでございましたか。お任せ下さいませ。グレイシア様のお気に召しそうな絵は、幾つもございますので」

 しかしそんな彼の申し出に、グレイシアが苦笑しながら釘を刺す。

「気合いを入れて見せていただくのは嬉しいのですが、私はもう現当主夫人では無いから、贅沢はできないのよ。以前みたいに大金を払えるとは、思わないで下さいね?」

「そこら辺の事情は、私どもも承知しております。しかしグレイシア様程のお方なら、高ければ良い絵だなどと盲信する筈が無い事も、承知しておりますので」

「それなら安心しました」

 そうして互いに笑顔で、店内に所狭しと飾られている絵の何枚かについて、議論を始めた二人の様子を見て、リディアは改めて感心した。


(さすがグレイシアさん。『実家も婚家も、美術道楽が過ぎる家だっただけよ』と言っていたけど、単にそれだけだったら画商に顔が広くないし、ここまで話が盛り上がる筈も無いわ)

 その感想は間違ってはいなかったらしく、少ししてザールスは苦笑しながら申し出てきた。


「相変わらず、グレイシア様の目は厳しいですね。やはりこちらに飾ってあるレベルの絵では、ご満足頂けそうにありません。少々お値段は張りますが、それなりの価値がある物をお見せしたいのですが」

「ありがとう。是非そうして頂きたいわ。いつ奥に通して貰えるかと、お待ちしていましたのよ?」

「本当に敵いませんね。こちらにどうぞ」

 そして先導して歩き出した彼とリディアに、グレイシアが声をかけた。


「リディアも付いていらっしゃい。構いませんね?」

「はい。侍女殿も絵に興味がおありですか?」

「ええ。と言うか、その価値の分からない者に、取扱いなどさせるつもりはありませんわ」

「やはり手厳しいですな」

 通常は表の店舗や部屋で待たされる使用人も、さり気なく同行させる様に押し切った彼女の手腕に、リディアは益々感心した。


(うん、さすがの貫禄だわ。そしてここもやっぱり奥の方が1ランクも2ランクも上………、え!?)

 そしてせっかくだから調査も兼ねて、滅多にお目にかかれない絵を鑑賞させて貰おうと、飾られている絵に目を向けたリディアは、何枚目かの絵を目にした瞬間、自分の目を疑って固まった。


(まさか、あの絵!! どうしてこんな所に!! そんな筈は!?)

 しかし驚愕しているリディアに気がつかないまま、グレイシアとザールスは絵についての話で暫く盛り上がっていた。


「そういえば……、絵もそうですけど、こちらではキャステル製の額縁を取り扱っていますか?」

 さり気なくグレイシアが話を振ると、彼が事も無げに応じる。


「はい、幾つかございます。ご所望ならお持ちしますが」

「普通のタイプなら不要なの。ゴーシュ彫りやパレルマ彫りがされているタイプの物があればと思ったのだけど」

 グレイシアが付けてきた条件を聞いて、ザールスは忽ち難しい顔つきになった。


「それは……、値段が高いと言う以前に、最近あまり流通しておりませんね」

「そうなのですか? 他でも聞いてみたのですが、やはり通常の廉価版の額縁ならともかく、高級品は在庫が殆ど無いみたいで。何か理由があるのかと不思議だったの。キャステル材が出回っていないというわけでも無いのでしょう?」

「はい。そういう噂は、耳にしておりませんね。……ああ、それならグレイシア様、ペーリエ侯爵様にお尋ねしてみてはいかがでしょう?」

 表情を明るくしてザールスが口にした名前に、グレイシアは辛うじて笑顔を保ちながら理由を尋ねてみた。


「……兄に? どうしてですか?」

「実はこの店にキャステル製の額縁を納めていた額装師が、ペーリエ侯爵様のお抱えになって、そちらの仕事しかできなくなったと去年断りを入れてきたのですよ」

「額装師がお抱え? そんな話、聞いた事がありませんが……」

 今度ははっきりと眉間にしわを寄せてしまったグレイシアだったが、ザールスも困惑顔でそれらしい推論を述べた。


「私も妙な話だとは思ったのですが、ペーリエ侯爵家は先代様が類い希な絵画収集家でいらっしゃいましたし。所有している絵画の額縁を、全て最高級のキャステル製に取り替えるおつもりなのでは? いやぁ、豪勢なお話ですな」

「そうですか。兄に聞いてみて、買いあさっているようなら譲って貰う事にします」

「それではグレイシア様。こちらのアグレー作の絵など、如何でしょう?」

「まあ、やはりあなたの薦める絵は、どれも素敵ね」

 そこで話題が目の前の絵に戻ったが、グレイシアはそれ以上余計な事は聞かずに、絵の批評に移った。しかし先程聞いた話が、頭の中で引っかかりを覚える。


(美術品は、単にお金になるかならないかでしか判断できないあの兄が、わざわざ全ての所蔵品の額縁をキャステル製に替える? しかも父の代からの放漫財政で、回せるお金に余裕が無くてあれだけ主人と私にたかっていたのに、考えられないわ。一体どういう事かしら……)

 そんな事を考えながら場所を移動し、リディアが視界に入ってきたところで、グレイシアは漸く彼女の異常に気が付いた。


(あら? どうかしたのかしら?)

 何故か顔を青ざめさせ、壁に飾られている一枚の絵を微動だにせず凝視している彼女に、グレイシアは声をかけてみた。


「リディア、その絵がどうかしたの?」

「……っ! い、いえっ! なんでも、ありません……」

「大丈夫? 何でもないという顔色では無いけど」

 声をかけられて、漸く我に返ったと言う風情のリディアが、動揺しながら返事をしたが、その様子と彼女が見ていた絵に、グレイシアは密かに疑問を覚えた。


(本当にどうしたのかしら。それにこの絵、どこかで見た覚えがあるのだけど……)

 しかしその疑問の片方は、ザールスの台詞で氷解した。


「いやぁ、さすがグレイシア様にお仕えしているだけあって、こちらのお嬢さんもお目が高い! こちらの絵は、マークス・ダリッシュ様の初期の作品ですよ!」

 それを聞いたリディアはピクリと体を震わせたが、グレイシアはそれには触れずにザールスに話を合わせた。


「まあ……、あのダリッシュ伯爵の三男の?」

「はい。篤志芸術展の初回に出展した時、最優秀は逃しましたが、その技量と名門貴族のご子息と言う事で評判になりましたから、グレイシア様もご存知ですよね?」

「ええ、芸術展は毎年拝見していますし。どこかで見た覚えがあるかと思ったら、芸術展の二回目か三回目に出展された作品ではないかしら?」

 記憶を辿りながらグレイシアが口にすると、ザールスが満面の笑みで応じる。


「さすがグレイシア様。確か二回目に出展された四作品のうちの一つだと、伺っております。マークス様の作品は殆どが風景画で、このような肖像画は珍しいです」

「本当ね。それにこの服装だと、これはご家族と言うわけでは無くて、領地の子供が遊んでいるところを描写した物のようね」

「はい、変に着飾っているよりも、こちらの方が春の妖精と言う感じがいたします」

「まあ、なかなか詩人だったのね。知らなかったわ」

 そこで二人で笑い合ってから、ザールスが話を元に戻した。


「マークス様は通常、ブレダ画廊としかお取引が無いもので、私どもが滅多にその作品にお目にかかる機会は無いのですが、今回は偶々この絵を購入されていたチェルシー子爵が、急にお金がご入り用になったと仰いまして」

「そうでしたか」

「偶然、そちらのお嬢さんと絵の被写体の少女の髪と目の色合いが同じですし、目についたみたいですね」

 そこで笑顔のザールスにいきなり話の矛先を向けられたリディアは、益々狼狽しながらも、辛うじて笑顔で答えた。


「え、ええ……、思わず見入ってしまいまして……」

(リディア? やっぱり様子がおかしいわ)

 そこで確信したグレイシアは、すぐに結論を下した。


「今日は色々見せて頂いて、目の保養をさせて貰いました。申し訳ありませんが、また寄らせて頂きますので」

 あっさりとこのまま帰る旨を告げたグレイシアだったが、ザールスは気を悪くする事なく、穏やかな表情で頭を下げる。


「そうでございますか? お気にいる物を揃えておらず、申し訳ありません。こういう物は出会いですので、またお寄り下さい」

「ええ、また寄らせて頂きます。リディア、行きますよ?」

「はい、失礼します」

 そしてリディアを引き連れて店を出たグレイシアは、すぐ側に馬車を停めて待機していたデニスに、幾分険しい表情で言いつけた。


「お待たせしました。次はオルーダン画廊の予定でしたが、王宮に戻って下さい」

 側にリディアがいる手前、馴れ馴れしい物言いはできないまでも、恋人の常には見せない険しい表情に、デニスの声は自然に低くなった。


「……何かありましたか?」

「あったかもしれないわ」

「分かりました。王宮に戻ります。お乗り下さい」

 そして二人が馬車に乗り込んだのを確認して扉を閉めたデニスは、まっすぐ王宮に向かって馬車を走らせ始めた。その座席に向かい合って座りながら、グレイシアが静かにリディアに尋ねる。


「リディア。先程から様子が変だけど、何かあったの? それにあの絵を凝視していたけど、何か変な所でもあったのかしら?」

「あの絵……」

「ええ、あのマークス殿の絵がどうかしたの?」

 優しく尋ねてみたグレイシアだったが、それで色々振り切れたらしいリディアは、いきなり絶叫した。


「違います! あの絵は私の絵です!!」

「え? リディア? それはどういう」

「あの絵の少女は私です! 私が貰ったんです!! それにマークス・ダリッシュなんて人は描いていません!!」

 そう叫ぶなり馬車の床に崩れ落ち、グレイシアの膝に掴まって「うわあぁぁぁっ!!」と盛大に泣き叫んだリディアを見て、グレイシアはさすがに狼狽した。


「リディア、今の話はどういう事? 落ち着いて、話を聞かせて頂戴?」

 そしてその騒ぎがさすがに御者席にも聞こえたらしく、荒っぽく馬車が停められ、デニスが扉を開けて険しい顔を見せた。


「シア、どうした? 何かあったのか?」

「デニス、往来の邪魔にならない所に移動して馬車を停めて。それから万が一にも他の人間に話を聞かれないように、近付く人間は排除して頂戴」

「分かった」

 必要最低限のやり取りを済ませたデニスは、彼女の指示通り往来が激しく無い通りまで移動し、道の端に馬車を停めてから自分は御者席から降りて周囲の警戒に当たった。そして暫くしてから、グレイシアが扉を開けて姿を見せる。


「どうした」

 その問いかけに、グレイシアは先程よりも険しい表情で答えた。


「大至急、さっきのキーリング商会に戻って。急用ができたわ。その後、王宮に戻ります」

「ああ、分かった」

 どうやら何か問題が発生したのは分かったものの、彼女を信頼しているデニスは何も聞かず、彼女の指示通りキーリング商会へと馬車を走らせた。

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