ラムネ逃避行
新樫 樹
ラムネ逃避行
夏休みの合宿はクラス単位で、校内にある専用の会館を使って行われる。
目的は親睦を深めるためなのだそうだ。
休みに入る前に何度かホームルームで相談し合い、細かく係を決めていた。
活動内容はもちろん、食事や寝具の手配、部屋割り、何から何まで自分たちでしなくてはならない。先生は付き添うだけで手出しをしないのがルールだ。
もちろんマニュアルがあるから初めての一年生にだってできるようになっている。合宿二度目のわたしたちがスムーズにできないことはない。のだけれど。
「千夏が連絡するって言ってたじゃない」
「え、ちょっと待ってよ。そんなこと言ってない。わたしのせいなの?」
「やだもう、どうすんのよ」
「どうするって、なんでわたしだけの責任になってんのよ。真紀だって係でしょ」
言い合う声がし始めて、わたしの周りの人たちがチラチラとこちらを見てくる。なんとかしなさいよって無言の声がする。
クラス委員になったのは自分の意志ではない。
誰もするひとがいなくて、しかたなく先生が口を出し、わたしに振ってきたものだからそのまま決まってしまった。
誰にでも親切。いいひと。
そう思われたくてそうしているんじゃないけれど、ありのままに振舞ってしまったら、わたしの周りから誰もいなくなってしまうような気がして。
だってわたしの心の中は真っ黒だ。
自分でもわかっている。
それでもどうしていいかわからないから、わたしはいつまでも親切でいいひとのままだ。
「どうしたの?」
声をかけると、千夏と真紀は待っていたように尖った声で言い立てた。
「明日の朝のパン、千夏が注文し忘れたの。信じらんない」
「真紀だって同じ係でしょ。なんで人のせいにばっかりすんの」
心の中でふーっと溜息を吐く。
押し付け合う前に、ふたりで協力してなんとかしようと思わないんだろうか。
「これから連絡すれば間に合うんじゃないの? 毎年夏休みは同じ時期に注文受けているんだから、お店だってわかってるんじゃないかな。とにかく電話してみようよ」
ふくれっ面の千夏が携帯を取り出して、パン屋に電話する。
マツモトベーカリーは昔からうちの高校の購買にパンを納品している店で、それとは別にこういう行事のときにも協力してくれていると聞いている。学校行事の年間スケジュールを知っているはずで、向こうだって商売でうちは大口なんだから、どうにかなるんじゃないか。そう考えながら千夏の様子を見守る。
「……はい、はい。ありがとうございます。はい、それで大丈夫です……」
ほら。
携帯に耳を当てて話していた千夏の顔が、ぱぁっと明るくなる。
それを見ていた真紀の顔もほっとほぐれていく。
「ちょっと待ってください」
と、千夏がわたしを見た。
「手が足りなくて納品に来られないんだって」
「……わたしが行くから。取りに行きますって言っていいよ」
「わかった」
わかった、じゃない。なんのための係だ。わたしもわたしだ。なに言ってんの。
胸の内で毒づきながら、わたしは微笑んでる。
「よかったぁ。ありがとう」
うんと曖昧に返事を返したところで、担任が集合場所に来た。
みんな揃っているか聞いてくるから、それを確認する係の子を教える。
先生、ホームルームで係を決めたときにいたじゃない。なんで覚えてないの。
「楽しみだね」
すぐそばで声がしてふと隣を見ると、にこにこと陽子がわたしを見上げてくる。
曇りのない笑顔。
「そうだね」
歌でも歌い出しそうにしている陽子になにも罪はないけれど、突き飛ばしたくなる。そうして、そんな自分を蹴とばしたくなった。
へとへとに疲れて帰ってくると家には誰もいなかった。
午前9時。買い物という時間じゃない。
妹のプールの当番はまだ先のはずだし、今日はなにもないはずだけど。
ふとテーブルに白い紙が乗っているのが見えた。
『おばあちゃんのところに行くことにしました。しばらく泊まってくるからあとはよろしく。香奈は連れて行きます。お金はいつものところにあります』
またか。
わたしが高校に入ってから、こんなことがよくある。
お父さんが出張のときはほとんどこんな感じだ。
お母さんはくたびれるとすぐに自分の母親のところに行く。電車とバスで3時間ほどかけていく町はお母さんの生まれ育った町で、父親は亡くなっているけれど、母親は今も仕事をしながら元気に暮らしている。
わたしにとっても妹と同じく「おばあちゃん」のはずだけど、わたしはあまりおばあちゃんのところに連れて行ってもらったことがない。理由はわからないけれど、年の離れた妹ばかり連れて行く。妹は、わたしの中学入学と同時に生まれた。わたしには部活というのが始まって、勉強も忙しくなって。そういういろいろな事情のせいなんだろうと勝手に自分を納得させているけれど、なにもわたしがいないときを見計らったみたいに行かなくてもいいじゃないか。一緒に連れて行けなんて駄々をこねたことなど一度もないのだから。
キッチンの棚の二番目の引き出し。いつもそこに茶封筒に入ったお金がある。
今回は1万円も入っていた。いったいどれだけ泊まってくる気だろう。
カレンダーを見ると、父さんの出張は今週いっぱいだ。今日が月曜日だから、まる一週間ひとりということなんだろうか。
今さら寂しくなんかない……って言ったら、どこかに放り出されてしまうような気がして言えない。
わたしにとって家族は、とても儚くて不安定で、いつ壊れるかわからないようなものだ。
本当にそうなのか、わたしがそう思っているだけなのかはわからない。
けれど、ふっと力を抜いて寄りかかれるような場所は、わたしには長いこと家のどこにもなかった。しっかり自分で立たなくてはならない。そんな緊張感がいつもある。
合宿の洗濯物を洗って干して、ベランダから外を眺めた。
5階の部屋はさして高くはないけれど、目が合う高さの窓がないから気が楽だ。タンクトップにホットパンツでも恥ずかしくない。
『美奈はスタイルいいんだから、もっと足出したらいいのに』
ずっと前。まだ中学生のころ。いつも私服がデニムパンツのわたしに、誰だったかが言った。そういう彼女は大きく肩を出した短い丈のワンピースを着ていて、花柄のそれがまぶしかった。白いすらりとした足にピンクのミュールが飴細工のように絡みついていて。
わたしはそう?って笑って見せて、心の中でうなだれた。
スタイルがいいなんて、スタイルのいいひとに言われたくない。
コンプレックスというなら、わたしは自分の全部がコンプレックスだ。
容姿も心もすべて。
自分が、嫌い。
とってもキライ。
自分自身がこんなに嫌いなのに、他人がわたしを好きになるはずないのかもしれない。
だから家族もそばにいてくれないの?
そんなことを考えるのも、大嫌い。
夏の空はあんまり好きじゃない。
青すぎて不安になる。
とくに今日のように雲一つない日は、かえって閉じ込められているような気分になる。
きゅっと蓋をされた瓶の中、わたしは息ができなくなりそうになる。
どこかに行きたい。
ふと思って、でもどこも浮かばなかった。
こういうとき、わたしには誘えるような相手がいない。
電話やラインを急に「今何してる?」ってできる相手をつくれない。
だからずっとこんな感じ。
ひとりには慣れている。
慣れているけれど、それが心地いいわけじゃない。
もしも、いつでも遊べる仲間がいたら。
もしも、彼氏がいたら。
そんな妄想じみたことを考えてみることもあるけれど、妄想の中でさえも何を話したらいいのかわからない。
仕事ばかりで家にいない父。ふいっといなくなる母。ずいぶんと年下で話し相手にもならない妹。大嫌いな自分。
そんな暗い話を聞きたい子はいないだろうと思った。だから自分のことはうまく言えないでいて。
言えなくて黙っているうちに、気付いたら誰からも誘われなくなって遊ばなくなった。
学校で会えば「友達」だけれど、学校から一歩出たらなんだか違う。
行き先も思い浮かばないまま、とりあえず支度をはじめた。
いつものトートバッグに財布や定期や携帯をぽとりぽとりと入れていく。
入れながらいつもの癖で、コルクボードの隅に張り付けてあるハガキに目が行く。
あいつは今ごろ、何をしているだろう。
そっと外して手に取る。
しゅわしゅわと千切れた白い雲たちが、青い空に散ってラムネみたいだ。
その空の上に、黒いマジックで『元気でな』たった一言。
あいつが撮った写真で作ったハガキ。
中学の卒業記念に、クラスで作ったハガキ。
大切にとっておくつもりだったのに、わたしの分のハガキにあいつがペンで勝手に書いた。
元気でな……って。
15センチ・10センチの四角い空。
あいつに会いに行ってみたい……。
あいつのいる街に。
思ってから自分で自分に驚いた。
いつもならそんなこと思いもしない。
でも、いま、どうしてもあいつの顔が見たかった。
『え!? 倉橋!?』
「……うん」
『お前どうしたん……いや、その、久しぶり』
「うん。久しぶり。突然、びっくりした?」
『……まぁな』
数回のコールで、懐かしい声がした。
いや、ほんの少し、耳が覚えている声よりも低い声。
「今、大丈夫、かな?」
『お……おお、いいよ』
ちょっと会いに行ってもいい?
その一言がなかなか出てこなくて、自分でもびっくりした。
あいつの声が聞こえた瞬間、心臓が変に跳ねて言葉がつまってきて。
なにしてるんだろう。早く言わなくちゃ。そう思ったとき。
『倉橋、今日ヒマ?』
「……え、あ、うん」
『あのさ……ちょっと、会わないか?』
跳ねた心臓が速度を落とすことなく鳴り続けている。
わたし、何か言ったっけ。
ほんのわずかな間の記憶をたどるけれど、会いたいなんてまだ言ってない。
「……いいの?」
『いいから言ってるんだろ。相変わらずだな』
ふっと声が笑んだ。
『そうだな。場所は……』
「そっち、行ってもいい?」
やっと言葉に出した。
『そっちって、俺んとこ?』
「……うん」
なんもないよ。このへん。
いいの。
もう一度、笑顔になったのが気配でわかった。
『じゃあ、駅まで来て。迎えに行く』
「わかった。……ありがとう」
あいつの家の場所をわたしは知らない。
だいたいこのあたり、ということしか。
ハガキの写真はあいつの携帯の待ち受けだった。
学校は携帯持ち込み禁止だったから、それを見つけたのはたぶん、あいつといつも一緒にいた誰かだろう。
仲のいいクラスだったから、思い出に何か作ろうなんていう話はごく自然に出てきて、そこでなぜかあいつの写真のことが話題になった。
「あれ、いいんだよなぁ。むちゃくちゃきれいでさ」
なんて、そんなものとはまったく無縁のような男子たちが言うものだから、一度見せてよということになり、それを目にした女子も沸き立った。
ハガキにでも加工してあげようか?
わいわい盛り上がっている生徒たちに担任が言ってくれて、あれよと言う間にクラス人数分のハガキが配られた。
真っ青い空に砕けた真っ白い雲たち。
「べつに……近所だよ」
どこで撮ったの? と聞かれて、あいつは答えていた。
わたしはハガキに目を落とす。
「……こんな空、毎日見てたら、窒息しなくてすむのかな」
つい呟いて顔を上げたら、あいつと目が合った。
聞こえていたはずはない。
本当に本当に小さな呟きだったのだから。
それなのに、じっとわたしを見ているあいつに、よくわからなくてとりあえず微笑んだ。
はっとしたように外された視線。
その後だった。気付いたらハガキにマジックの文字を書かれていた。
あいつだとすぐにわかった。
ものすごい癖字。
文句を言おうとしたけれど、言えなかった。
あいつからの特別なメッセージを喜んでいる自分に気付いていたから。
そのままわたしたちは卒業して、それぞれの道を歩き始めて、わたしはほとんど当時のクラスメイトと連絡を取ることもなくなった。
あいつの声を聞いたのは、卒業以来。
1年数か月ぶり。
なぜかいつも声をかけてきてくれるあいつは、わたしにとって特別なひとだった。そんな男子は他にいなかったから。
けれど、その特別に見合うほどの親しみを彼に見せたことはないと思う。みんながしていたみたいに一緒に帰ったり遊んだり、そんなことは一度もなかったし……。
なにより、自分の中に淡く育った甘やかなものを、わたしはずっと無視していたのだから。わたしなんかっていう言葉でもって。
急に電話なんかして、何の用だと言われて終わりかもしれないと覚悟もしていた。
でもあいつは会おうと言ってくれた。
もしかしたら、わたしの様子が変だと思ったのかもしれない。
あいつは誰にでもとても優しい。優しいからすぐに気付く。
そうして、気付いたなら放っておけない。
「美奈は優しいよね。そんなのほっとけばいいじゃない」
よく言われることだけれど、わたしのそれはあいつとは違う。
わたしのは、偽善だ。作り物だ。
今日の空は青い。
雲一つない。
息が詰まって怖い。
やっぱり、あいつの、ラムネの空がいい。
「よぉ」
昨日も学校で会った、くらいなテンションで、あいつはわたしに言った。
駅の前で立つわたしのところに、まっすぐに歩いてくるあいつを見た瞬間、それは間違いなくあいつなのだけれど、たった一年でぐんと背が伸びてしかも私服で。大人びた笑顔にとっさに返事ができなかった。
「……竹内、急にごめんね。ありがとう」
「いいよ。どうせ何もなかったし。だいたい、会おうって言ったの俺だよ」
笑顔が深くなる。
「どうする? 行きたいところあるの?」
「うん……あのね……」
トートバッグからハガキを出す。
「これ、覚えてる?」
浮かんでいた笑みが、ほんの少し硬くなったように見えた。
「……へぇ。ちゃんと持ってたんだな」
「きまってるじゃない。誰かがこんなもの書いてくれたけどね」
おどけたふりでペンの文字を指さすと、竹内の笑みが苦笑に変わる。
「バレてたか」
「大事にしようと思ってたのに」
「いい記念だろ」
「まぁね」
微笑んでみせると、ふっと竹内が真顔になった。
「どうしたの?」
「いや、いいんだ」
いいんだ。
もう一度口の中で呟いて、彼はにこっと笑った。
「なんで急に、こんな懐かしいもの持ってきたの?」
「あのね……この写真撮った所に、行きたくなって」
さっきから、竹内の顔がときどき硬くなる。
ほら、いまも。
このハガキになにかあるんだろうか。
それとも、写真自体のこと?
どっちにしても、我儘を言うつもりなんてない。
そんなふうに思いながら、心がどんどん小さくうずくまっていくのがわかる。
されることは山ほどあっても、自分が誰かにお願いごとをするのは慣れていない。小さいときから、親に何かを願うたびに我儘を言うなと言われてきた。よその家ではみんな普通に親からしてもらっていることも、うちは忙しいのだからと我儘になった。いまでも、誰かに何かをしてもらうのは悪いことをしているみたいな気持ちになる。
自分ですればいい。
空だって、じぶんで探せばいい……。
「……べつに、どうしてもってわけじゃないの。変なこと聞いちゃったかな。もしかして秘密の場所だった?」
ことさら明るい声で言ってみれば、竹内の顔がさらに硬くなる。
来なければよかったと、思い始めたとき。
竹内の口からふぅっと大きな息がもれた。
「倉橋はいつもそうだな」
「え……?」
「こんなとき、行きたいって言い続けない。俺が連れて行きたくないんじゃないかって思ったんだろ? だいたい、こっちに来たいなんて言ったのも、なんかあったからなんだろ? なのにきっと、それも言わずに帰るつもりなんだ」
きゅうっと心が甘く握りこまれたみたいになる。
そうして。
哀しいわけじゃないのに、鼻がツンとするみたいな痛みが胸を刺す。
よくわからない。
こんなのは、よくわからない……。
「行くぞ」
「……どこに?」
「写真撮った場所に行きたいんだろ?」
手が。
竹内の手のひらが、わたしの手首をつかんだ。
「え……?」
振り向いた彼が微笑む。
そのまま優しく引かれて、歩き出す。
手を払う気なんて全然湧いてこなかった。
まるでそこだけが特別な何かに生まれ変わったみたいにとても熱くて、わたしの手首は心臓になった。
初めて触れられる手は、思っていたよりずっと大きい。
中学の頃は野球部にいた。
高校でも続けているんだろうか。
少しざらりとした感触。
マメでもできているんだろうか。
汗と土の匂いの似合う少年は、すらりと背の高い青年の背中になった。
斜め後ろから、見えそうで見えない横顔を見る。
手首の心臓から駆け巡る血液は、いつもよりもずっとずっと温度を上げて、いまは頬まで熱くしている。
やっぱり。
わたしは、このひとが好きだ。
ずっとずっと好きだったのだ。
遠い過去からやってきた竹内とのささやかな日々が、頭の中に浮かんでは消える。
彼だけは、わたしが何も話さなくても退屈がらなかった。
そばにいてくれた。
見ていてくれた。
ただなんとなく流れた時間たちが、あたたかい。
彼への特別な気持ちは、恋だった。
ぎゅっと目を閉じたくなった。
「竹内……」
「ん?」
「あの……手、もう、大丈夫だから」
「あ、ああ。そうだな」
するりと手が離れて、それでも熱かった。
まだ竹内の手があるみたいに、熱い。
隣に行けなかった。
だからやっぱり、斜め後ろを少し下を向いて歩く。
落ち着け、わたし。
大丈夫。
もう、昔のことなんだから。過ぎたことなんだから。
いまは、もう、違うんだから……。
中学の校区内でもはずれの方にある竹内の街は、まだ広い田んぼや畑がある。
いつのまにか道は農道になっていた。
ふぅっと空気が変わった気がして顔を上げると、遠く連なる山々まで遮るものがなくなっていた。きりっと伸びる稲たちを抱えた田んぼは、深い緑の絨毯のように果てしなく続き、風になびくたびに翻る葉が銀の波を生む。
山は青い。
「……きれいだね」
思わず呟くと、竹内がこちらを向いたのがわかった。
「そうか?」
「うん、すごくきれい。いいなぁ。うちから見えるのは家の屋根ばっかりだもん。山だってなんだかオマケみたいにしか見えない」
「オマケ、か。倉橋らしいな」
ふっと笑う。
目が、合った。
何か言おうとしたような竹内は、けれども口をつぐんで、そうしてもう一度前を向いて歩きながら言った。
「倉橋、その……いま、カレシとか、いるの?」
「……え?」
「いや、言いたくなけりゃいいんだけどさ……」
「やだな。いるわけないじゃない。わたし女子高だよ」
「あ、そうか、そうだったな」
そうじゃないよ、女子高だって彼氏いる子なんていっぱいいるもん。
わたしだからだよ。
……竹内は?
聞いた方がいいのかな。
竹内にはいるのかな。彼女が。
……あ。
もしいたなら、迷惑をかけてしまうんじゃないだろうか。
だから、聞いたの?
わたしにも付き合ってるひとがいるかもって、思って。
なんでそういうこと、考えなかったんだろう。
わたしは馬鹿だ。
こいつは優しいんだから。
誰にでも、すごく優しくて、きっとこうして一緒に歩くし、手も引いてくれるし、急に電話しても嫌なおとを出したりしない。
なんで、忘れてたんだろう。
なんでわたしは。
なんで。
「わっ」
突然、大きな背中にぶつかって慌てた。
ごめんて言おうと口を開いたら、声を出す前に背中がくるりと回る。
竹内がこちらを向いて立った。
「倉橋。俺の言うこと……黙って聞いて」
見たことがないくらい、真面目な顔だった。
やっぱり。
いいのに。わたしなら。
そんなに気にしなくていいのに。
迷惑だったなら、そう言っていいよ。
こんなにきれいな景色見られただけで。竹内と見られただけで。
それだけで……。
「ハガキ、見せて」
「……え?」
思いもしなかったことを言われて、ぽかんとした。
差し出したハガキを、竹内は手に取って空にかざす。
「覚えてないと思わなかったんだ。だから、俺、ちょっとムカついてさ。言いそびれた。バカだよな」
なんのことだかわからなかった。
「中学二年の夏休み。学校の近くの橋のところで、倉橋がぼんやり空を見ていたことがあったんだ。まわりには誰もいなくて、セミが鳴いててさ。俺は自由研究に空の観測でもするかって、携帯で写真撮ってまわってて、偶然」
青い空が広がった。
風の気まぐれで細かくちぎられた雲が、浮いている。
「……その……すげぇきれいだったんだ。倉橋が」
心を塞ぐ蓋を砕きたかった。
あの雲のように。
そう思って、見ていた。
「気が付いたら携帯向けてて。このひとをとっておきたいと思ってた。そしたら……」
こんにちは。同じ学年だよね。どうしたの?
空。空撮ってた。
空? 自由研究かなにか?
まぁな。見る?
いいの?
いいから言ってんだろ。ほら。
あ、この空だ。きれいだよね。わたしも今日の空すごく好き。
ああ、ほんときれいだよな。俺も……好きだ。
「とっさに倉橋から空に向けて撮ったら、けっこうきれいな空が撮れて。俺何やってんだろって思った。けど、倉橋の好きな空だと思ったら……この空を一緒に見たんだと思ったら、俺にとっての特別な写真になって。ずっと待ち受けにしてた」
それから、倉橋のことが気になって。
三年で同じクラスになって、すげぇうれしかった。
みんなの嫌がること引き受けるし、誰にでも優しいし。なのに自分のことになると何も言わなくて。近寄りがたい感じがしてた。いつもひとりだったし。
だから、俺から近寄ろうと思ったんだ。
そうやって一緒にいたら、倉橋が本当はどんなやつか、ちょっとわかった。
思ったよりずっと面倒くさくて、思ったよりずっといいやつだった。
先生が写真をハガキにして配ったとき。
倉橋は気付くと思ったのに、全然覚えてないみたいで。
俺ガキだったから。
面白くなくて。
「本当はそのときに言おうと思ったのに、言えなかった。ずっと、後悔してた」
足元がゆらゆらする。
夢みたいっていうけど、ほんとに夢の中にいるみたい。
自分の都合のいい夢を見ている気分。
たとえ覚めても、幸せは残るような、そんな夢。
なのに心が求めてる。
もっともっと幸せになりたくて、期待する。
蓋が開く。
割れそうに。
割れて、砕けて、青が、流れ出る。
「俺、倉橋が……」
「好き」
「……え?」
「竹内が好き。ずっとずっと、好きだった」
ラムネの空が弾けた。
「バ……バカ、先に言うなよ」
真っ赤になった竹内が、後ろ頭をかく。
わたしの顔もきっと、真っ赤だろうなぁって、ぼんやり思う。
ふわふわして、きゅっとなって、かぁっと熱い。
しゅわしゅわ甘くて、少し、酸っぱい。
「あぁ、やばいな。すっげぇうれしい」
竹内が、にかっと笑うと、中学のころの顔になった。
送るよ。
帰り道、竹内はそう言って並んで歩いた。
楽しかった。
こんなに何もかも自由で楽しい時間なんて、最後に過ごしたのがいつだったのか覚えていない。
竹内の隣は心地いい。
わたしがわたしになっていられるって、こんな気持ちなんだ。
こんなにうれしいものなんだ。
一緒に食べたハンバーガーだって、初めて食べたごちそうみたいだった。
夏の夕暮れは遅くってまだ空が青い。
雲一つない青だったけれど、わたしは怖くなかった。
やがてきれいな景色は遠ざかり、見慣れた家並みがあらわれる。
もうすぐ家に着く。
ずぶずぶと、心におもりが入ったみたいに沈んだ。
「倉橋、大丈夫か?」
「……大丈夫だよ。どうして?」
「なんとなく、元気がなくなってきたからさ」
なんでわかるの?
そう喉まで出かかって飲み込む。
不思議な気分だった。こんな問いかけをされたのは初めてだ。
そうか……蓋は、割れたんだ。
竹内が割ってくれた。
もう、閉じ込められた、わたしはいない。
だから。
だったら。
「あのね……あのね。わたし……自分が、嫌い。一緒にいてくれない家族も、嫌い。でも、でもね……」
竹内は黙って聞いている。
黙って待ってくれている。
優しい、沈黙。
「……好きになりたいと思うの」
なれるかな。
「なれるよ。絶対に。でも、もしも、好きになれなくっても、そのときは倉橋の分も俺が好きになってやるから。大丈夫」
妄想にだって思い浮かべたことのない言葉に抱きしめられて、泣きたいくらいにあたたかい。
ぷっと笑ってしまった。
うれしすぎて、笑ってしまう。
なんだよ、ここ笑うとこじゃないだろ。ひとが思い切って言ったのに。
あははは……
こら。
言いながら竹内が微笑む。
ほんわりした目が、微笑む。
だからわたしも笑う。
心のままに、笑う。
自分であることを、もう怖がらない。
そうして、わたしなんて……って、思わないようにするの。
だって、竹内が、好きになってくれたわたしなんだから。
洗濯物を取り入れて、サッシを閉めたら電話が鳴った。
お母さんからだった。
「もしもし」
『ああ、美奈。ちゃんとご飯食べた?』
「うん」
『合宿。どうだった?』
「うん……特になにも。無事に終わった」
『そう』
「そっちは?」
『それがね、香奈が少し熱を出しちゃって。たいしたことはないから大丈夫なんだけど、お姉ちゃんに会いたいって言いだして』
「え? わたし?」
『そう。あの子、美奈のこと大好きだからね』
そんなの、聞いたことない。
家にいたってたまに一緒に遊んであげるくらいで、ほとんどかまってあげてないのに。
『電話、代わってもいい?』
「え……うん」
おねぇちゃん。
いつもより弱弱しい声がした。
「香奈、お熱出たんだってね。苦しくない?」
『うん。でもごはん食べたくない』
「そっかぁ。……何か飲める?」
『お水とリンゴジュース、のんだ』
「そう。頑張ったね。なら、大丈夫だよ。飲み物だけでもちゃんと飲んでたら、きっと良くなるから」
『おねぇちゃんと、あそびたい』
「……帰ってきたら遊んであげるから。早く元気になろうね」
うん。
おねえちゃん、まってて。
『美奈』
声がお母さんに変わった。
『……いつもありがとうね』
「……どうしたの? 急に」
『おばあちゃんに怒られちゃった』
「え……?」
『美奈は学校忙しいし、家に香奈がいれば邪魔ばっかりするし。だから気を利かせていたつもりだったの。でも、おばあちゃんに、いい加減に娘に甘えるのはやめなさいっていわれて。駄目ねぇ、お母さん。ごめんね』
なんだろう。こんなこと、急に。
波立つ胸が、心地悪い。
なにをいまさら。
なんでそんなこと言うの。
大丈夫。
竹内の声がしたような気がした。
大丈夫。
ひとつ息を吐く。
そうだよね。
決めたんだから。踏み出さなくちゃ。
いま。
「……じゃあ、お土産買ってきて。……なんでもいいから」
『わかった。楽しみに待っていて』
すぐに、明るい声が答えた。
どうしてだかお母さんの声を久しぶりに聞いた気がした。
電話が切れてからも、しばらく画面から目が離せなかった。
胸が、どきどきしている。
お姉ちゃんが好きとか、ごめんねとか。
そんなの急に言われても、心が追い付かない。
でも、お土産買ってきてってわたしは言えて、お母さんは我儘だと言わなかった。
バッグからハガキを取り出す。
小さな四角いラムネの空がくれた一日は、奇跡のような一日で。
でもその奇跡は、きっと、わたしの中からうまれてきた。
ラムネの空は、いつもここにある。
わたしのなかに。
ラムネ逃避行 新樫 樹 @arakashi-itsuki
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