04:幽霊屋敷(2)
時計台の鐘が、正確な時刻をすべてに等しく告げる。
遠く響く音に誘われてルイスがその翡翠色の瞳を窓へと向けると、ペールブルーの空へと一斉に散る鳥の姿が見えた。鐘楼に居着く鳩の一団だろう。
幾つもの尖塔が並ぶ石造りの街ロンドン――その谷間にある小さな店で、彼は親友のグレン・チェスターとともに、遅い朝食をとっていた。
エリノアの示した記事の写しから、彼女の娘コニーとその友人数名の失踪事件の捜査を、他でもない親友が担当していたことを知ったからである。
そうして以前共によく利用していた店へと呼び出し、捜査の進展具合をたずねてみたのだが、
「良くはないな」
グレンは飲んでもいないのに赤くなっている頬を膨らませ、渋面をつくったのだった。
「まったく、地方の奴らには困ったもんだよ。大した成果も出せないくせに、プライドの高さと縄張り意識だけは立派なんだから」
「今にはじまったことじゃないだろう」
ルイスはそう言ってグレンをなだめたが、進展のない捜査により事件担当から外されてしまったグレンの気持ちは簡単には収まりそうになかった。
「誘拐や殺人の可能性はないんだな?」
「ああ。それは間違いない。居なくなった五人とも、家や郵便、電話にも張り付いてみたが、身代金の要求や脅迫などは来なかった。現地でも、そういう手合いがうろついていたり、似たような事件が起こったという報告もない。宿の主人も村人も全員詳しく調べたが、何も掴めなかった。本当に、煙のように消えちまったとしか言い様がない」
「学生達がプリマスやトーキーに向かって、そこからどこか別の場所へ移動した可能性は?」
「俺もそう思ってあちこち探させたんだが、該当するような人物は見当たらなかった。非番の警官もかり出して、沼地までさらってみたんだが、いつ死んだのかもわからん犬の骨と、錆び付いた銅貨が出てきただけだったよ」
あの広大な湿地に這いつくばり、底なし沼に飲まれる恐怖に震えながらも得た戦利品がたったそれだけとは。ルイスは名も知らぬ勇敢な警察官を労うと共に、底に沈んでいたのが学生達の死体でなくて良かったと思った。
「じゃぁ、屋敷についてはどうなんだ? 持主について教えてくれ。なんでも、向こうでは結構な有名人だったそうじゃないか」
グレンと会う前に片っ端から集めて読み漁った新聞記事をもとに水を向けると、
「ああ、そうだな」
グレンは冷めきったハムエッグを口に放り込み、ナプキンで口元を拭った。
「屋敷の持主はスタンレー・ヘンドリクセンといって、以前はサウスフィールズに住んでいた。十二年前にあっちの館を買って、家財全部持って移り住んだが、それからすぐにカミさんと子供が死んで、そう間を置かないうちに、本人も死んだとさ」
「親類や関係者は?」
「甥が一人いたが、先の戦争で戦死している。他に係累はなし。今は、昔からいた下男が一人で住んでいるだけだ。正式な遺言状がないから生前の口約束ってところだけど、幸い名乗り出てくる奴がいないんで、あの館の権利は宙ぶらりんのままだそうだ。――で、」
グレンはそこで一旦口を噤むと、周囲に眼をくばりながら身を乗り出した。大して客のいる店ではないのだから声を潜める必要などはないのだが、こうして勿体ぶるのはグレンの昔からの癖だった。
「奇妙なのは、その館に住んだ奴が例外なくコロコロと死んじまったってことだ。スタンレーの前の所有者は、住み込んで五年で死んだ。その前の奴は、わざわざ土地ごと買い上げて館までおっ建てたのに、数年後自慢の庭木に縄をかけて首を吊った。どうやらノイローゼ気味だったらしい」
「ノイローゼ?」
ルイスは情報を書込んできた手帳から顔をあげ、親友の顔を見た。
グレンもまた、人なつこい犬のような丸い目でルイスの顔を見つめ返す。
「あぁ。当のスタンレーも、死ぬ数年前に精神病院へ通っていたとか」
「精神病院……」
ルイスの漏らした呟きは、そのまま彼自身の思考の中へと埋もれてゆく。グレンは、ルイスが聞いていようがいまいが全くお構いなしに話を続けた。
「別人のようになっちまった、って話だ。以前のスタンレーを知っている奴なら誰もが口を揃えて言うんだが、絵に描いたような紳士だったってのに、神経質そうにいつも屋敷内をうろついて、近付く者は全て追っ払ったらしい。一度はライフルまで持ち出して、大変な騒ぎになったこともあるとか」
「原因は?」
「さぁ?」
グレンは身を起こし、首を竦めた。
「土地の利権絡みかとも思ったが、そうでもないようだし、決定的な理由はわからない。それに、詳しく調べる前に捜査の打切りが決まって、帰って来いと言われちまったからな。ともかく、そういうことが積もりに積もったおかげで、あの屋敷は地元の住民からは毛嫌いされていて、聞き込みするのにも随分と苦労させられたよ。屋敷も〈幽霊屋敷〉だなんて呼ばれてはいるが、半分以上はそうした軋轢と迷信との結果じゃないかと俺は思うね」
「じゃぁ、下男とやらはどうなんだ? どんな印象だった?」
「あの爺さんか」
グレンの表情が一層渋いものものになる。ナイフの先でマッシュポテトをほじくりながら、グレンは口を開いた。
「正直、よくわからんよ。あの爺さん、マーシュ・ベネットというんだが、結構な年寄りでな。もしかした奴さんが何かしたのかもしれんが、女も含めた学生とはいえ、身体だけは大人な連中を相手にどうにかできるようものでもないと思うし、屋敷からも何も見つからなかったんでな」
「なるほど」
ルイスは腕を組み、再び考え込んだ。が、
「しかし、わからんな」
「何が?」
ルイスの呟きに、グレンが手を止めて顔を上げた。
「何故そんな辺鄙な場所へ行く必要がある?」
ポテトの塹壕を凝視しながら首を傾げるルイスに、グレンは言った。
「全員、オカルトサークルに入っていたんだろう? その関係じゃないのか?」
真贋はともかくとしても、幽霊付きの物件ならロンドンにも沢山ある。学生たちがわざわざウィディコムなどという僻地まで足を伸ばす理由が、どこかにあるはずなのだ。納得できないという顔のルイスに、グレンはたった今思い出したことを付け足した。
「そうだ。居なくなった連中の中にチャールズ・モーズレイという奴がいるんだが、そいつの祖母だったか祖父だったかが、あの村の出身なんだそうだ」
「何だと?」
思わず身を乗り出したルイスがテーブルに手を付いた拍子に、それぞれのグラスから水がこぼれ、離れた場所で暇そうに欠伸をしていた給仕が驚いたように身を竦めた。
「どうしてそれを先に言わないんだ!」
「聞かれなかったからに決まってるだろう」
悪びれもせず言い切るグレンを、ルイスは心底呆れたといった表情で見返した。が、手を振ってグレンに話の続きを促すだけにとどめた。言いたいことは沢山あれども、ここで言い争っている暇などはないからだ。
グレンは苛立っているルイスに苦笑を返したが、本気で怒りだされる前に求めに応じることにした。
「……それで、そのチャールズは、所属するオカルトサークルの中心に常にいて、あちこちの猟奇事件や怪奇伝説をよく調べていたそうだ。博物館に通いつめて気味の悪いミイラを一日中眺めたり、図書館でおかしな内容の本を漁ったりとかな。ウィディコムへ行こうと言い出したのも奴だから、多分、子供の頃から聞かされた古い言い伝か何かをアテにしたんだろうな」
「その内容は?」
「知らんよ。バカげた昔話なんて、警察が扱うものじゃない」
グレンは苦笑しながら両手を広げてみせる。
ルイスは一瞬グレンを睨み付けたが、小さく舌打ちをしてすぐに引き下がった。代わりに、手帳に書込んだ文字を眺めながら、自分の首筋に手をやった。
「ルイス、落ち着けよ」
グレンは苦笑しながら、今にも唸り声をあげそうにしているルイスに声をかけた。
「そういえば、お前んところのボスはどうしてる? 元気か?」
グレンが指しているのはシェプリーのことだ。今の幽霊屋敷の話で思い出したのだろう。
二人が直接顔を会わせたことは数度しかないが、シェプリーはルイスがグレンを介して多くの調査をこなしてきたことは知っているし、グレンもルイスがシェプリーに雇われていることは知っていた。そして、ソールズベリーで起こった惨劇についてもよく知っていた。
「元気じゃぁないが……まぁ、何とかやってる」
今朝のシェプリー様子を思い出し、ルイスは再び不安に顔を曇らせる。
無茶をしていなければいいがと思うものの、そんな心配などするだけ無駄だということもわかっていた。シェプリーは風邪で高熱を出しているようなときでさえ、大人しく横になろうとはしないのだから。
ルイスは再び首筋を撫でた。
ちりちりと皮膚が焼け付くような不快な感触――それは、前日にエリノアから依頼を受けたときからすでにしていたものであり、彼が昔から外したことのない予感めいたものの兆しだった。
「……あれから何年経ったんだったかな」
「四年だ」
指折り数えはじめるグレンにルイスが教えてやると、
「そうか。もうそんなに経つのか」
グレンはしみじみと呟いた。
エンジェル・フォスターという人物が謎の失踪を遂げたのは、ルイスは警察官を辞めたばかりの頃で、グレンは私服刑事に昇進したばかりの頃だった。当時は相当注目された事件だったが、今では記事の内容どころか、事件があったことすら覚えている者は少ない。
長いようでいてその実短かった年月に対し、ルイスは胸の奥で抱えるものを口に出さぬようコーヒーで飲み下した。
「わかった――ありがとう。忙しいところを済まなかった」
「もう行くのか?」
給仕を呼びつけて席を立とうとするルイスに、グレンは非難たっぷりの視線を向ける。どうやら手伝ってもらいたい件を山程抱えているようなのだが、ルイスはそれどころではなかった。
「悪いな。また今度にしてくれ」
そう言うと、ルイスは二人分の勘定をテーブルに置いて店を出た。
それからルイスは、混雑する狭い路地を抜けて近場の駅へと向かった。列車に乗るためではなく、電話をかけるためにだ。
そろそろ社交シーズンも本番を迎えつつあるというのもあって、ただでさえ人口が過密気味な街はどこもかしこも混雑していた。
慢性的な渋滞を改善しようとあらゆる策を投じる警察と交通局も、結局は高貴な血筋を持つ一部の人間の気紛れな動きに常に翻弄されっぱなしである。それでも善良な市民たちは、黒塗りの立派な車が通るたびに起立し、礼儀正しく、ときには熱狂的に手を振りながら彼らの通行を見守るのだ。それが一層の渋滞を引き起こすとも知らずに。
憎たらしいほど珍しく澄んだ空を睨みつけ、大きく息をつく。列車から吐き出される煙と似たような勢いで人々が出てくる改札口の脇で、ルイスは幾つかの新聞社に電話をかけた。
ウィディコムでの事件の記事を書いた担当者から、詳しく話を聞こうと考えたのだ。しかし、生憎とそう簡単にはことは運ばなかった。
記者たちは、誰もがそれぞれが追う新しい事件のために出払っていたからだ。社に戻るのは夜だとか暫く戻ってこないとか海外に言っているとか、どこまで本当かは知らぬが一向に相手にされず、ルイスは半ば頭にきながら受話器を叩きつけるようにして、電話ボックスから飛び出した。
「クソっ、バカにしやがって!」
悪態をつきながらルイスが周囲を見渡すと、たまたま目が合った新聞売りの少年が顔を引き攣らせ、慌ててそっぽを向いた。
自分が人でも殺しそうな顔になっていたことに気付き、ルイスはきまりの悪い笑みを浮かべると同時に、妙な脱力感に襲われた。
脅かして悪かったと心で詫びながら、少年から新聞を一部購入する。それは、今朝読み漁った中にはない銘柄の豆新聞だった。
ルイスは人通りの少ない駅裏まで行き、そこで新聞を広げた。
人目をひく写真や図で構成されたゴシップ記事は、扇情的な文字が踊る他紙と大差なかったが、行方不明になった学生たちのことなどは全く書かれていなかった。人々の興味は、もうすでに学生たちにはない。
(こんなところで時間を食ってる場合じゃないんだがな)
渋い顔で首筋を撫でながら、ルイスは溜息をついた。
エリノアの娘コニーと共に行方不明となったオカルトサークルの学生たち。その中心に居たというチャールズが目を付けたものは何だったのか。おそらく、それがこの事件の原因であり、シェプリーがいつも以上に強いこだわりを見せた理由なのだろうとは思うのだが、肝心のそれに全く近寄れそうもない自分がどうしようもなく腹立たしく、ルイスは眉間に刻んだ皺を一層深くするしかない。
(やっぱり、もう一日待てと言っておくべきだったか?)
ルイスは、単身ウィディコムへと向かったシェプリーの事を考え、表情を曇らせた。
『何でもいいから手掛かりが欲しい。その為なら、僕は何だってするし、何処にだって行くつもりだよ』
エリノアを送りだした後で事務所の真ん中で睨み合ったとき、シェプリーはそう言いきった。娘の身を案じて憔悴した母親の姿を、自分自身の境遇と重ね見てしまったのだろう。
シェプリー自身も師の生存を信じ、手掛かりを探しつづけている身なのだから、それはルイスにも充分理解できるし、もし同じ立場であれば、やはり似たような結論を出していただろうとも思う。しかし、それで全てが解決するほど世の中は甘くない。
人は失敗を経験しなければ成長しないというが、生憎とルイスはそこまで突き放して考えられるほど、冷徹にはなれなかった。
気を落ち着かせようと懐から煙草を取り出すが、どうにもいろんなことが頭の中を駆け巡って仕方がない。
ルイスは火の点いていない煙草を銜えたまま、手許にある文字の羅列を凝視した。だが、それはルイスが抱えている焦燥感を一層強くするだけの行為だった。
「くそっ――!」
ルイスは乱雑に畳んだ新聞を道端のゴミ箱に放り込むと、上着のポケットに両手を突っ込んで歩きだした。
電話が駄目なら、直接新聞社に乗り込んでいって、机にかじりついている記者達をタイプライターから引き剥がしに行こうかと考えたのだ。
しかし、その足がすぐに止まる。
ルイスはぐるりと頭を巡らせ、東区とよばれる下町の方向を見遣った。そこに行けば会えるであろう人物の存在を思い出したのだ。
「そうだ、あいつなら――」
何かわかるかもしれない。
呟きを言いきらぬうちに、ルイスは歩き出していた。
澄まし顔の貴婦人や紳士たちの間をかき分け、様々な店が並ぶ市場へ向かう。そして、そこからまた更に東を目指して歩き続ける。
市場を抜けて河口の船着き場付近に到達したところで、ルイスはそれまでの華やかな雰囲気が一気になりを潜めたのを肌で感じた。
出会うのは無骨な労働者や煤けた浮浪者ばかりとなり、古い煉瓦造りの建物も例外なく黒く汚れている。
人がすれ違うのがやっとというような路地に至っては、年中陽の入らない湿った土が、その近辺から溢れ出した汚猥にまみれ、常に臭気を放つという有り様だ。
立っているだけで気が滅入るような場所だった。
しかし、ここに住んでいる者にとっては、そのようなことは些細な問題でしかない。文句を言ったところで、改善されるはずもないのだから。
数え切れない不満と、それに対する諦観――生まれ落ちたその瞬間から後の人生の大半を決定付けられてしまうことを多くの者が知っているように、悪環境も慣れてしまえば気にならない。
つい先ほどまで華やかで活気に満ちていた喧噪からは、想像もつかないような光景だが、しかしここは間違いなくロンドンという都市の一部でもあった。
近代都市として発展の一途を辿る都市に存在する、落ちこぼれたものたちが棲む場所――そんな貧民街の更に奥深くに、ルイスの目指す場所はあった。
見慣れぬ者への警戒と興味とを隠しもせずに己を凝視する輩を無視し、ルイスはお目当ての看板の下で立ち止まる。
〈
長い間風雨と煤に晒され続けた看板は痛みきっていた。描かれていたであろう図柄は、店の名前と、ほとんど剥げ落ちてしまった塗料の欠片から推測するしかない。
〈青花亭〉には、青い花を手にした女の幽霊が出るのだという噂が、まことしやかに流れていた。ルイスが生まれるよりも前に起こった凄惨な事件の被害者であるとか、それよりももっと古い時代に餓えて死んだ花売りがその正体だとかいう様々な説があったが、誰も本当のことは知らなかった――シェプリーを除いては。
「雰囲気を楽しむのなら、ちょうどいい場所だね」
虚ろに響く足音を伴奏にしながら薄く笑ったシェプリーの横顔を、ルイスは今でも覚えている。
共に組むようになってすぐの頃、この店に出入りする常連に用があって訪れたその帰りの出来事だ。
シェプリーは店の幽霊の正体について、いるとも、いないとも言わなかった。ただ、時折見せるひどく無機的な表情を浮かべ、一言感想を延べただけだった。
ルイスにはシェプリーが何を〈視〉て、何を感じたのかまではわからなかった。けれど、彼が抱えている葛藤は理解しているつもりだった。
他と違うことで受ける差別的な扱いは、気にしないふりをしていても、心の奥底には刻まれる。
最初は単なる契約相手ではあったものの、日を追う毎に、依頼をこなす度に、消えるどころか広く厚くなってゆく見えない壁の存在を、ルイスはどうにかしてやりたいと思いはじめていた。
そのためには、まずは一刻も早く有益な情報を集め、ウィディコムで待つシェプリーのもとへと届けなくてはならない。
ルイスは溜息をつき、中折れ帽を目深に被り直す。それから、ようやく看板と同様に汚れきった店の扉に手をかけた。
店内は窓のわずかな隙間から漏れる光と、ほとんど役目を果たしていないような照明のせいで、日中だというのに暗かった。目が慣れるまでの間、ルイスは戸口に立ち、中の様子を窺った。
店内には、正面カウンターの奥でグラスを拭いている店主と、端の席で酔いつぶれでもしているのか俯せになって寝ている男のと、そして奥の席で賭けカードに興じている数人の客の姿があるだけだった。
賭をしているのは、近隣に住む労働者だちだろう。彼らは声を潜めて戸口に立つルイスの様子を窺っていたが、すぐに意識を賭のテーブルへと戻した。見慣れない訪問者について詮索するよりも、次に配られる札を考えることの方がはるかに重要だったからだ。
ルイスも、彼らには用はなかった。うさん臭そうな視線を寄越す店主を横目に、カウンターで眠っている男の隣に座る。
「幽霊退治はお断りだよ」
店の外観とは裏腹に上等な酒が並ぶ棚を背に、青花亭の店主が言い放つ。
「安心しろ。看板娘に用があって来たわけじゃない」
ルイスが犬を追い払うように手を振ると、店主は鼻白んだ素振りをみせたが、素直に引っ込んだ。
「〈語り部〉に上等なやつを。俺にはソーダ割りで」
店主がカウンター上に置かれた硬化を数えている間に、ルイスは相変わらず隣で寝こけている男の肩を叩く。
「ラルフ、起きてくれ。聞きたいことがある」
ラルフと呼ばれたその男は、ぶつぶつと何事かを呟きながら身を起しかけたが、再び眠りの方へと戻ろうとした。
白髪混じりの短い頭髪に、まばらに生えた無精髭――上着の肘はとうに擦り切れ、充ててある布さえももう随分と薄くなっている。
「ラルフ」
ルイスはもう一度、今度は少し強めに肩を叩いた。だが、
「うるさい」
呂律の回らぬ台詞とともにその手を振り払われ、ルイスの頬が引き攣る。次の瞬間、ルイスの手はラルフの襟首を掴み、思いきり引き上げていた。
突然の出来事に、ラルフの眠気は一度に吹き飛んだ。不安定な格好のまま手足をばたつかせ、危うく椅子から転げ落ちそうになる。
「よぅ、ラルフ。真っ昼間から一杯とはいいご身分だな。新しい金蔓でも見付けたのか?」
襟首を掴んだまま意地の悪い笑みを見せてやると、ラルフはこれ以上ないほどの大きさに目と口とを開いた。
「なっ――、何しに来やがった、この厄病神が!」
歯を剥いてルイスの手を振りほどくラルフに、ルイスは苦笑した。
いつだったかにこの男から得た情報のせいで、逆にその当人が被害を被ったことがあったのだ。巡り巡って訪れたものではあるが、以来ラルフはルイスの顔を見ると酷く機嫌を損ねるようになった。
「そう邪険にするなよ。折角会いに来てやったのに」
「俺はお前なんかにゃ会いたかないね。警官崩れは商売の邪魔なんだ。とっとと失せろ!」
しかしそっぽを向きながらも席を移動しようとしないラルフに、ルイスは苦笑を漏らしただけだった。
「こいつは、あんたの話が聞きたいんだとよ」
言いながら、店主がカウンターの奥からラルフの目の前にグラスを置く。
「話?」
ラルフは奇妙なものを見るような目付きでルイスに振り返った。
「劇場通りの幽霊か? それとも郊外の墓地の墓泥棒か?」
「俺が聞きたいのは、そんなお伽話じゃない」
ルイスは懐から煙草を取り出し、火を点けた。一瞬照らし出される横顔から、ラルフはうんざりとした溜息をつきながら目を逸らした。
「お前のことだから、ウィディコムでの事件は知ってるよな?」
「ああ」
ラルフは憮然としながらも頷いた。
「それから、スタンレー・ヘンドリクセンとチャールズ・モーズレイという名前に聞き覚えは?」
「ある」
思いがけず即答され、ルイスは逆に驚いた。
「どっちに?」
ルイスの探るような視線に、ラルフは無精髭に覆われた口端を吊り上げてみせた。
「両方だよ」
「それはいつの話だ」
「まぁ待て。まずは、こいつで喉を潤してからだ」
ラルフは思わず詰め寄るルイスを押し返すと、酒のグラスを手にとり、ゆっくりと味わうように口に含んだ。
仕方なく、ルイスも自分の注文したもので唇を湿らせ、焦る気持ちを落ち着かせる。
「まさしく〈命の水〉だな。安酒とは違う」
薄明かりにグラスを掲げて力なく笑うラルフに、ルイスは無言で同意する。確かに、これさえあればたいていの嫌なことは忘れられた。
独特の苦味と焼けるようなアルコールの熱さは、
液体が喉を通過し、胃へと流れ落ちる頃には甘美なものへと変化する。身体中へと浸透する熱に誘われ、脳は酩酊への道を辿る――しかし、忘れてはならない。酒神の誘惑は、堕落への一歩でもあることを。
「アメリカではこれが御法度なんだってな。まったく、上の連中が考えることは、俺にはさっぱりだ」
「ラルフ」
痺れをきらしたルイスの声色が、低く、厳しくなる。
「わかってるって。そう慌てなさんな」
そう言って、ラルフは黄色く汚れた歯を見せて笑った。
代償さえいただければ、相手が誰であろうと構わない。記者だろうが警官だろうが、知っていることであれば全部話してやるし、たとえ今知らない情報でも、数日の猶予さえ貰えれば、欲しがっている情報を全て揃えることもできる――それが、ラルフ・ボーマンの糧だった。
夜毎、青花亭を訪れる客の大半は、看板娘の幽霊に用があるのではない。この垢じみた浮浪者まがいの男から話を聞くために、夜陰に紛れて汚れた扉を押し開くのだ。
「チャールズって奴は、ウィディコムで失踪したっていう学生だろう?」
ルイスが頷くと、ラルフはまた一口酒を舐めた。
「会ったことはないが、少し前にあちこちから俺のところに聞きに来たからな。なんでも、先祖があの村の出身らしいが、まぁ、よくいる好奇心の塊みたいな奴だな。大方、掘り下げんでもいいところをぶち抜いて、どこかの暗がりに嵌まり込んだんだろうよ」
そう言って、ラルフは歯の間から空気を漏らしながら笑う。ルイスはその仕草に少し眉を顰めつつ、更に尋ねた。
「スタンレーの方は?」
「スタンレーか」
問われ、ラルフの視線が遠くなる。だが、その目はすぐにルイスの元へと戻った。
「ありゃあ、錬金かぶれのイカレた奴さ」
ラルフはカウンターに肘をつきながら、無骨な手で顎をさすりつつ言った。
「錬金?」
「錬金術だ。幽霊退治なんてのをやってるんだから、聞いたことくらいはあるだろう」
「別に、退治をしているわけじゃない」
ルイスは憮然と呟き、ポケットから何枚かの紙幣を取り出した。
「生憎とお前と戯れあってる暇はないんでね。手っ取り早く済ませてくれ」
目の前でちらつくものに、ラルフは両肩を竦めてみせたが、それ以上噛み付いてはこなかった。
「そうさなぁ……かれこれ十五年くらい前だったかな。まだ俺がデスクにかじりついていて、 お前が小便臭ぇガキだった頃だ。とある魔法使いについて、その頃たまたま俺が記事にしたのがあって、それに飛びついてきたのさ」
「魔法使い? 錬金術じゃないのか?」
思わず聞き返すルイスに、ラルフはにやりと笑ってみせる。
「同じだ。厳密には違うとか言い出す奴もいるが、昔は全部ひとくくりにされていた。普通の人間にはできないことをやってのける奴は、全部魔法使いとされたのさ。現在の医者だって、昔の奴から見れば充分魔法使いに見えるだろうし、お前さんの懐にある物騒な鉄の塊だって、見ようによっちゃ魔法だと思われるかもしれんし、お前さんが組んでるあの坊ちゃんだってそうだ」
不意打ちでシェプリーの〈力〉のことを言われ、ルイスはどきりとした。
シェプリーの持つ〈力〉だけでなく、世間一般に言われる霊能力というものについて、ラルフは特別な思い入れはなかった。強いていえば、特殊な趣味を持った金持ちに対する金儲けの道具であり、その点に於いては手品などのトリックを使うペテン師と同等だという認識しかない。
見解の相違というはあまりにも離れた認識と侮辱に、シェプリーは激高した。以来、彼は一度もラルフのもとを訪れていない。
「……ああ、済まん。話しが逸れたな」
ルイスの複雑な表情を、ラルフは違う意味に捉えたようだった。グラスに残った酒をちびちびと嘗めながら、続きを話しはじめる。
「ウィディコムはダートムアのど真ん中にある村だよな? あの辺は、昔から魔女、魔法使い、妖精なんかの言い伝えが沢山あってな。もっとも、それはそこに限ったことじゃない。ウェールズ、コーンウォール、ヨークの辺りもそうだ。魔法使いといえば、大陸なんかはもっと歴史が古い。古代エジプトにはじまり、サラセン人やアラブ人たちが記した魔術の秘法書なんてのも実在する」
「ラルフ。俺は、歴史の講釈を聞きに来たわけじゃないだが」
眉間に皺を寄せるルイスに、ラルフもまた不満そうに鼻をならす。
「物事には順番ってのがあるんだ、黙って聞いてろ」
「いいから要点だけを話せ。時間が無いんだ」
「わかったよ」
不満げに口を尖らせる中年男に苦笑を返しつつ、ルイスはカウンターの隅に引っ込んでこちらの様子を窺っている店主に、指で追加の酒を注文した。
「おお、気が利くじゃねぇか。それで、ええっと……どこまで話したんだっけかな? ああ、そうだ、スタンレーが俺んところに来たってところだったな」
ルイスの眉間の皺が一層深くなるのを察してか、ラルフが悪ふざけが過ぎたとでも言うように首を竦めた。
「その前に、スタンレーの先祖について話させてもらうぞ。奴の先祖は奴隷商でな。そのうちの一人に、魔法や錬金術にやたら系統していた奴がいたらしい。奴隷として連れてきた黒人どもから、ヴードゥーや何やらの妖しい術の存在を知ったんだろうな。それで、その〈血〉ってやつを、スタンレーが濃く受け継いだ。そして、奴が特に興味を持っていたのが、錬金術に関することだったのさ」
その噂は、かなり以前から何度も耳にしていた。
赤新聞と呼ばれるゴシップ誌の一記者だったラルフのもとには、毎日様々な情報が届けられていたからだ。
教会や夢で神の啓示を受けただとか、世紀の大発明は実は自分が考え出したのだとか言って騒ぎ出す人間は沢山いた。そういった嘘つきや気狂いじみた連中からの情報提供は日常茶飯事だったから、ラルフがその男のことを特別気にかけるはずはなかったし、直接会う機会もなかったはずだった。
好事家と呼ばれる物好きたちが陰で何をしているのか、ラルフはその鋭い嗅覚でよく嗅ぎ当てては飯の種にしていた。降霊会と称して霊媒といかがわしい行為をする未亡人たち、雁首揃えていながら鼻先で行われるペテン師の手品を見破れぬような知識人たち――だから、最初はまともに取り合わなかった。取り合うつもりもなかった。
その頃のラルフがよく記事にしていたのは、かつて辺境と呼ばれていたような地にまつわる伝説や――教会の定める行いに反するような――悪しき風習だった。
陳腐な伝説も、ほんの少し脚色するだけで背筋が凍り付くような血のしたたる事件に生まれ変わる。そして読者もまた、そういった刺激的な内容を好んで求めたものだ。そうして幾つかの記事を書いていたある日、ラルフはスタンレー・ヘンドリクセンと名乗る男と初めて対面した。
このロンドンに、バーツの実験室も顔負けな設備で錬金術を真面目に研究している男がいる――何度も耳にしていたがあえて扱わなかった情報を思い出したのは、男の差し出す切り抜きを読んでからだった。
スタンレーはかん高く神経質そうな声で軽く自己紹介をした後、手にした記事を差し出して、こう切り出した。
「貴方がお書きになったこの記事。その元になったお話を、是非お聞かせ願いたいのです」
『ウィディコムの魔法使い』という見出しのついたそれは、確かにラルフが書いたものだった。
内容は、たまたま耳にした噂話を利用して、館の持ち主の相次ぐ死と村人の間で密かに囁かれる伝承とをかけあわせ、多少の脚色と誇張を加えてそれらしく仕立てた上げただけのものに過ぎない。
だが、そうであるにも関わらず、スタンレーのくすんだ青灰色の瞳は妙な熱気と輝きに彩られていた。丁度、自分が今調べているものに関して、極めて類似した点が幾つか見受けられたために興味を持ったのだと言うが、ラルフにはにわかには信じ難い話だった。しかし、話をしているうちに相手が本気であり、望む情報を手に入れるまでは梃子でも動かないという決意を持っているのがわかると、さすがにラルフもスタンレーに対する考えを改めざるを得なかった。
奇妙なものを見るような目付きでいるラルフに、スタンレーは含みのある笑いを見せた後、先とはうってかわった穏やかな口調で言った。
「貴方がお忙しいのは、重々承知しておりますよ。ですから、埋め合わせは充分にさせていただくつもりです」
ラルフは自分が仕入れたネタの出所を明かすのを躊躇ったが、断わるのが愚かしく思えるほどの金額を提示されては、そんな懸念も綺麗さっぱりと消えしまった。
「なるほど。記事の元ネタと、スタンレー自身が手に入れた情報が一致していたから、お前にその場所を聞いて、移り住んだということか」
「そういうことだ」
話の腰を折られた上に端折られ、ラルフはむっとした。
「スタンレーって奴は、俺が見た限りでは、やっぱりどこか頭の線を数本繋ぎ損ねた奴だったな。まぁ、錬金術なんてのにのめり込んでりゃ、仕方ないか。多分、水銀中毒か何かだろうよ。知ってるか? あのニュートンでさえ錬金術の実験に没頭して、被害妄想を書き連ねた手紙を何通も書いたっていうんだからな」
ラルフの言葉に、ルイスは低く唸った。
水銀を扱う際に皮膚に直接触れなくとも、蒸留時に出る煙を吸飲していれば、この有害な物質は体内に取り込まれ、蓄積されてゆく。神経過敏になり、幻覚や幻聴を体験したり、酷い時には重度の神経障害を引き起すこともあるという。
スタンレーが本気で錬金術に傾倒していたのなら、村人との諍いや騒動話もその影響たったのかもしれない。
「……それで、スタンレーは何を調べていたんだって?」
「俺の話を聞いてなかったのか? 魔法使いだよ、魔法使い。それと、あの館……いや、土地に関連する昔話だ。時は中世真っ盛り、ジェームス一世の御世の頃だ」
「前口上はいい。要点だけを話せ」
「おいおい。これじゃぁ、まるで尋問じゃないか」
ラルフは抗議するが、ルイスの方も取り合うつもりはなかった。
「俺も先に言っただろう、戯れてる暇はないとな。お前の話に真面目につきあってたら、それこそ夜が明けちまう」
「酷ぇな。いくら何でも、そこまで長くはならねぇよ」
そう言ってラルフは口を尖らせたが、実際のところ、彼の話は長かった。
もっとも、ただ長いというわけではなく、中には貴重で重要な情報も多々含まれていることもあるのだが、今のルイスにはじっくりと腰を落ち着けて、最後まで付き合ってやるような余裕はなかった。
話がオカルト方面へと傾いていることに、ルイスは当初から自分が感じていた嫌な予感を改めて強く認識させられていた。
店の薄暗い照明とこの界隈の空気とのせいで、そんな気がしているだけなのかもしれないが、首筋の焼けるような感触は一向に消える気配がなかった。それどころか、頭の片隅に靄のようなものが沸き上がり、しかもそれが時間が経つにつれて大きくなり、しかも何かしらの悪意めいた意志までもを持ち始めているような気がして、どうにも落ち着かなかったのだ。
あらゆる心配が取り越しに終わるのを切に願いながら、ルイスは自分のグラスに口をつける。すっかり炭酸が抜けきったそれは、とても飲めたものではなかった。気付けば、煙草もろくに吸わないままに灰と化していた。
軽く舌打ちしながら新たな一本を出そうと懐に手を入れたとき、背後から複数の笑い声があがった。
店の隅で賭けカードをしていた男達の勝敗が決まったのだ。大きくはないが、小さくもない笑い声は、ルイスの苛ついた神経にひどく障った。
「ちぇ、あいつが勝ったのか。隣の奴が勝つと思ったんだがなぁ」
ルイスを避けるように大きく仰け反りながら男たちの方を見遣り、ラルフが呟く。誰が勝つのかを、密かに賭けていたらしい。カウンターの隅では、グラスを磨き終えて暇を持て余していた店主がにやにやと笑っていた。
ルイスは男達の方をちらりと横目で眺めただけで、すぐに雑念を全て追い払った。
「話を元にもどそう。それで、その昔話ってのは?」
「別にどうってことはない、よくある昔話さ。悪い魔法使いが住んでて、近辺の村から生まれたばかりの赤ん坊が居なくなっただとか、元気だった奴が急にコロリと逝っちまっただとか、そんな類いのやつだ。まぁ、昔ってのは、事故でも何でも、何か得体のしれないもののせいにする傾向があるからな。けど――」
「けど?」
言葉尻をとって先を促すルイスに、ラルフは状況を愉しむかのような薄笑いを浮かべる。しかし、その目は決して笑っていなかった。
「あの辺に魔法使いといわれる奴がいて、何か悪さをしてたというのは、事実だ」
「恐れるな――君が常に自分を保ってさえいれば、君を脅かすものなど、どこにも存在しない」
そう言って、彼は黄昏時の空にも似た瞳に柔らかな笑みを浮かべたものだった。
少年は彼に憧れていた。
仕事で年中家を空けている父よりも、人形のように押し黙ったままで、膝の上に抱き上げてもくれない母よりも、常に彼のことを慕っていた。
彼は何でも知っていた。
海の向こうにある大陸の話に、遠い過去に滅んだ国の話に、宇宙の果てで微かに瞬く光の話など――彼の口から紡ぎ出される数々の話は、どれもが煌めき、不思議な色に彩られていた。
病弱で家から出ることすら満足にできず、自分の住む街のことさえも知らなかった少年にとっては、彼から教わることだけが世界の全てだった。
そして、少年の持つ不思議な〈力〉についても詳しかった。
「君は皆と比べて、少しばかり敏感なだけなんだ。だから、何も気にすることはない」
彼は少年を否定しなかった。
忌み嫌われ、恐れられていたその〈力〉がどんなものなのかを教え、更にその制御の仕方も教えてくれた。
霊魂と呼ばれるアストラル体やエーテル体の存在と、人体との関係――そして、意識と無意識の分離と統合によって得られる成果――幼い少年は難しい理論を理解することはできなかったが、彼の言葉が意味するものを実感することによって、より多くの事柄を学ぶことができた。
「強くなりなさい。世界を知りなさい。そうすれば、きっと、君にも〈視〉えてくるはずだから――」
いつからか、少年は彼の一語一句を聞き漏らすまいとし、その挙動をも見逃すまいと必死で彼の後を追うようになっていた。
少年は彼に憧れていた。彼のようになりたいと思っていた。
彼の瞳の色を気味悪がり、恐れる者もいたが、少年は気にしなかった。
琥珀色をした瞳は本物の宝石のように美しく、一日中眺めていたいと思うほどに綺麗な色をしていた。
少年はまた、彼がいつも左手の人指し指にしていた銀色の指輪も好きだった。
異国の文字にも似た不思議な規則性をもつ紋様は、ほんの一言呪文を唱えれば、虹色の輝きを放ち、まるで生きているかのように身をくねらせるのではないかと密かに思っていた。
彼と一緒なら、何でも出来るような気がしていた。
――そう、きっと、空だって飛べるに違いない。空を覆う天蓋の外、凍てつく光を放つ星々の間へと抜け出し、共に地上を見下ろすのだ。
なぜなら、彼は神が自分へと遣わしてくれた天使なのだと、本気で信じていたからだ。
恐れるものなど何もなかった――なかったはずだった。
あの夜が来るまでは。
地下通路に無気味に響く音を聞きながら、シェプリーは奥歯を噛む顎に更に力を込めた。握り締めた掌にも、じっとりとした不快な汗が滲んでいる。
マーシュの案内で荒れ果てた庭を抜け、敷地の隅に隠れるようにひっそりと作られた地下の倉庫に入ったときまでは良かったのだが、そこでは思わぬ事態がシェプリーを待ち受けていた。
「ここですか?」
缶詰や長期保存の効く食料が保存してある倉庫に立ち、つまらなそうな表情を見せるエルリックに、マーシュが言ったのだ。
「いいえ、とんでもない。もっと奥ですよ」
「奥?」
怪訝そうに顔を見合わせる二人の訪問客に、マーシュは壁の一画を指差す。木材が立て掛けてあるその後ろに、小さな扉らしきものがあった。
「あそこは石が積まれていたんですが、時々隙間風が吹いてましてね。それで、ちょいと不思議に思って調べてみたんですよ。前にお住まいだった方が塞いだんでしょうが、その方は奥に何があるかまではご存知なかったようで」
「秘密の部屋が、そこに?」
興味津々といったていでエルリックが口を挟むが、マーシュはにやにやと笑いながら首を振った。
「秘密の部屋に通じる通路です」
マーシュが言うには、通路は昔この辺りで行われていた錫の採掘跡を利用したもののようだった。
人の手で作られた曲がりくねった坑道跡は、3マイルほどの狭い範囲に縦横無尽に走っていた。範囲が狭いのは、期待したほどの量が取れなかったため、早々に見限られたのだろう。
「案内してもらえますか?」
「もちろん、そのつもりですよ」
今にも飛び上がらんばかりに喜んでいるエルリックの後ろで、シェプリーは表情を強張らせたまま、ぴくりとも動けなかった。
ソールズベリーで衝撃的な事件に遭遇して以来、シェプリーは暗闇を苦手としていたからだ。
四年が経過した今ではその恐怖も幾分か和らいではいたが、それでもふとした拍子に蘇るあの恐怖と絶望感は、日中明るい場所にいながらもシェプリーを苛むことがあった。
もちろんシェプリーも、エルリックほどではないが、スタンレーが運び出したという書物が収まっていた部屋には興味があった。しかし、狭く暗い通路を、古くさいカンテラひとつで3マイルも歩かされることなると、話は別だった。
「どうかしたのかい?」
シェプリーの異変に気付いたエルリックが、小声でたずねる。返答に窮してもじもじとしているシェプリーを見て、エルリックは何かを思い付いたらしく含みのある笑みを見せた。
「まさか、暗いのが怖いのかい? 子供じゃあるまいに」
からかいの言葉は、痛いほどシェプリーの急所を突いた。
さっと顔色を変え、しかし反論できずに拳を握り締めているシェプリーに、エルリックは追い打ちをかける。
「君はここで待っていなよ。僕が一人で確かめてきてあげるから」
「そんなわけにはいきません!」
咄嗟に出た大声に、シェプリーは慌てて自分の口を塞いだ。
埃の被ったカンテラを手にしたマーシュが、怪訝そうな顔でシェプリーを見る。
「気にしないでください。ちょっと興奮しただけですから」
エルリックはマーシュに向かって手を振ると、シェプリーの袖を引っ張り、倉庫の片隅へと移動した。
「大丈夫。たった3マイルなんだ。すぐに終るさ」
そうだといいんだけど――思わず口にしそうになった言葉を飲み込み、シェプリーはぎこちなく頷く。
可能ならば今すぐ逃げ出したかったのが、昨晩ルイスに向かって言った言葉を思い出したからだ。
自分は、手掛かりを得るためなら何でもするし、どこにでも行くと言ったのではなかったか? ならば、今更怖気づいて逃げ出すわけにはいかない。
「よろしいですかな?」
火を灯したカンテラを手にしたマーシュが入口に立ち、二人にたずねる。その背後、立て掛けてある木材を退けて開放された扉の向こうには、黒々とした闇が詰まっていた。
エルリックが、大丈夫だとでも言うようにシェプリーの腕を軽く叩き、マーシュの側へと進む。仕方なく、シェプリーも力の抜けそうな膝を叱咤しながら、エルリックの後に続いた。
どこかで外に繋がる坑でもあるのだろうか、奥から流れてくる風に首筋を撫でられ、シェプリーは思わず首を竦ませた。
通路の入口付近は人の手によって加工された石で覆われてはいたが、奧へ進むにつれてその数も減り、所々で坑を支える柱と土肌がむき出しになっていた。
所々には横道とおぼしき坑があり、墓石こそないもののその様相は
坑のほとんどは板で覆われ、釘でしっかりと打付けられていたが、長年湿気た地中にあったということもあり、腐敗し、封鎖の意味を成していなかった。
「意外と複雑な構造をしているんだな」
横坑のひとつに首を突っ込み呟くエルリックに、マーシュが注意する。
「気を付けて下さいよ。そこらへんは雨水が滲みて、崩れ易くなっていますからね」
エルリックは慌てて首を引っ込め、マーシュの後ろに戻った。
「まだ奥へ行くんですか?」
「半分も来てませんよ」
マーシュの返答に、シェプリーは信じられないといったふうにかぶりを振った。もうかれこれ30マイルは歩いたような気がしているのに、まだ目的地に到着できないとは。
先程から感じていた息苦しさが一層強くなる。シェプリーは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、襟元を少し緩めた。
屋敷内でも妙な感触がしていたが、この地下も相当におかしな場所だった。
人一人が進むのがやっとという狭さに加えて天井が低いせいもあるのだろうが、シェプリーはこの通路に足を踏み入れてからというもの、奇妙な感覚に囚われていた。
それは、屋敷で感じたものよりも強く、そして大きな揺れだった。
地盤が緩いせいなのか、他に原因があるのかはわからないが、陸にいながら船に揺られているようで、シェプリーは何度も立ち止まっては自分の立つ場所が固い地面の上だと確認し、あがった息を整えなくてはならなかった。
空気が薄いせいだろうかとも思ったが、先を行く二人にそのような気配はない。
自分はこんなところで何をしているのだろう――エリノアの依頼を請け、また自分が見た夢の手かがりを求めてこの地にやってきたはずなのに、どうしてこんな地下で脂汗をかいていなければならないのか。
その原因となった張本人はといえば、興味津々といったふうにマーシュの後にぴったりとくっつき、遅れがちになるシェプリーの方を気遣う素振りも見せない。存在すら忘れているかのようだった。
シェプリーは離れてゆくエルリックの背中を睨みつけたが、そうしたところでどうにかなるものでもないと思い直し、再び歩きはじめた。
「それで、先程の魔法使いについてですが……」
シェプリーが苦労して追付いた頃、エルリックが場所を変えたことで中断された話の続きをマーシュに催促した。
「詳しく聞かせていただけませんか? どうして村の人たちがあれほどの反応をするのか、不思議で仕方がないんです」
「ああ、それですか。迷信深い人たちには困ったもんですやね、まったく」
くつくつと喉の奥で鳴るマーシュの声は、小さな反響を伴って坑内へ拡散した。不快な場所で聞く不快な声色に、しかしシェプリーには彼の言わんとしていることが不思議と理解できた。
無知は恐怖を生み出す。異邦人を警戒し、見慣れぬ風貌や風習を必要以上に怖れ、そして見通せぬ闇の向こうに何があるのか、ありもしない妄想にかき立てられて取りかえしのつかぬことをする。それは古くから繰り返されてきた、人としての習性だ。そして、それは時として理性をも凌駕する本性となって牙を剥く。
だからこそ師は――エンジェルはことあるごとにあらゆることを知れと言っていた。知ることで、己の身体を強張らせて足を竦ませる恐怖に打ち勝つのだと。
けれど、エンジェルはその闇に消えてしまった。
歯を一層強く食いしばり、俯くシェプリーの耳に、マーシュの乾いた声が届く。
「魔法使い……正確には錬金術師だと旦那樣は仰っておりましたが、昔この屋敷が建っている丘に、ひとりの錬金術師が住んでいたそうです」
「
エルリックが立ち止まり、首を傾げる。マーシュもそれに合わせて足を止めると、手にしたカンテラを掲げながら、身ぶりを交えて話を続けた。
「ええ、
村人たちは、それが錬金術師の仕業だということを知っていたが、誰も咎めには行かなかった。
なぜなら、相手は常に恐ろしい姿をした小悪魔を付き従えていたからだ。
風にのって荒れ狂うように鳴り続ける太鼓と笛の音、そして、人とも獣ともつかぬ叫び声が聞こえる日などは、村人たちはかたく扉を閉めて震える互いの身体を寄せあいながら、各々が信じる神へと済いを求め祈り続けるしかなかった。
しかし、恐怖ばかりが村人の行動を抑制していたのではなかった。
「御存知かどうかはわかりませんが、この辺は、昔から
周囲を荒野と湿地に囲まれ、どこからも孤立していた村にしてみれば、薬を調合してくれる者の存在は、例え悪でも貴重な存在に変わりはなかったのだろう。
ましてや、当時はまだ教会の勢力もそれほど強くはなかった。都市ならまだしも、辺境では王の決めた信仰対象よりも、昔からその土地で崇められていたものの方が遥かに民衆の心を掴んでいたのだから。
「しかし……」
エルリックが尚も首を傾げたまま、言葉を続ける。
「それなら、彼を賞讃する話があってもいいんじゃないですか? 悪いことだけじゃなくて、良いこともしていたんでしょう? それに、その話は大昔のことなんだから、今この時代にまでひきずるようなものじゃ……」
「無駄ですよ。そんな理屈、ここの連中にゃ通用しません」
行為こそなかったものの、マーシュの顔にははっきりとした感情が浮かんでいた。唾棄されるべきものはどちらの方か。シェプリーは俯き、胸を抑えたまま弱々しく微笑んだ。
忌み嫌われる伝承の残る土地で、まさにその現場である場所に居を構え、そして言い伝えの元であり、本来ならば忘れられたまま朽ちていたはずの地下室を発見したのだ。
魔法使いが魔物を従えていたという話にどこまでの信憑性があるかは不明だが、それでも科学万能とうたわれる現在にあっても、いまだその恩恵を受ける機会のない僻地に於いて、昔の伝承にすぎなかったものを片鱗とはいえ現実へと蘇らせた者に与えられた仕打ちはいかほどのものであったか。
シェプリーが前日にバーミンガムで顕霊をしてみせたときの若い夫婦の反応など、まだ可愛いものだろう。
そうして、シェプリーはロンドンを出てからまだ半日しか経過していないことに思い当たり、言い様のない疲労感に目眩をおぼえた。
顔をあげると、マーシュはすでに背を向け、再び奥へと歩きはじめていた。エルリックも、後に続こうと足を踏み出しかけている。
奇妙な揺れは、まだ続いてた。
いっそのこと、これも夢の続きであってくれればいいのにと、シェプリーは思わずにはいられなかった。
マーシュの話にあった、姿を消したという村人がどうなったのか。それは神のみぞ知るといったところだろう。多くの者が安易に想像するような冒涜的な実験の材料にされたか、あるいは従えていたという魔物の餌食となったのか。
科学が電気を発明し、都会だけでなく田舎からも闇を追い払いつつある今、暗闇にまつわる伝説や怪物の存在を真にうける者は少なくなった。けれど、それらは決して無知な人々がたてた妄想や狂言などではないことを、シェプリーは知っている。
闇に輝く紅い双眸――燃え盛る炎、あるいは、血の結晶を思わせるような禍々しい気配に彩られた光。
悪い夢を見ていたようだとも思う。しかし、シェプリーの記憶は、あの雷鳴響く夜に起こった出来事すべてが、紛れもない事実であると告げていた。
目を閉じても尚はっきりと思い出せる血溜りの様子は、全く根拠のない出鱈目な空想や想像から生まれでたものではなく、現実に存在するものの視線と息遣いだった。そして、そこから滲み出るような気配は、今もシェプリーの全身を震え上がらせる。
闇から現れ、闇へと消えていったもの。それは、今もどこかに潜んでいるのだろうか。
――もしかしたら。
ざわり、と空気が揺らいだのは、気のせいだろうか。シェプリーは慌てて頭を振ると、たった今思い浮かべたものを即座に打ち消した。
胸に押し当てた手に伝わる心臓の鼓動は、外に音が洩れないのが不思議なくらいに激しいものになっていた。
エンジェルは、恐れるなと言った。しかしシェプリーは恐怖に押し潰されてしまいそうだった。
もう嫌だ。外に出たい。喉元までせりあがる声を飲み込み、シェプリーは歩いた。力の入らない膝を内心で叱咤し、遠ざかる灯を懸命に追う。
できるだけ関係のないことを考えて気を紛らわせようと思ったが、しかし意識はそれを許してくれなかった。
水面に細波がはしるように、本能で感じる不安は一向に鎮まる気配はない。屋敷といい、この地下といい、一体何があるというのか。
通路は大人数人が並んで歩けるほどの幅はあったが、天井自体はそれほど高くはなく、身長の高いシェプリーはかなりの圧迫感だ。否、実際、彼は先程からかなりの息苦しさを感じていた。
暗所にいる恐怖感からくる発作もあるが、それ以上に何か尋常ならざる空気が、この地下通路には充満している。
もう限界だ。息が詰まって死んでしまいそうだ――心の奥底で悲鳴をあげている自分を無理矢理押さえ込み、シェプリーはどうにかして冷静になろうと努力を続けた。
きっと、普段からやり慣れない事をして、神経が過敏になっているのだろう。村人の反応と、屋敷の外観から受けた印象とが相乗効果となって、何かしら邪悪めいた気配を纏っているような気にさせるのだ。
(でも……)
本当にそれだけが原因だろうか。
ふと、仄暗い光りをとらえる碧眼に影がさす。
もっともらしい理屈を並べて理性を保とうとしても、シェプリーの鋭すぎる感性は、絶え間なく警告を送り続けている。本能で感じる不安は一向に鎮まる気配はない。
そもそも、屋敷の玄関ホールで感じた強烈な違和感についても、気になる所である。あれも、一体何だったのだろう。
いわゆる幽霊というものを相手にした時、極稀にこれに似た気配を感じる事はある。が、しかし、この地下や屋敷で感じたものとは、微妙に違った。空間に照射されたアストラル体の痕跡とも違う、もっと異質な感覚――そう、例えるなら、空間そのものが歪んでいるような――
そこまで思い至り、シェプリーははっとして顔を上げ、後ろを振り返った。そして、ぎょっとした。
暗闇だ。
つい今しがた、自分達が歩いてきたばかりの道が、すべて暗闇に覆われていたのだ。
それはただ単に、通路が微妙に角度を変えていたために、入口を確認できなくなっているだけなのだが、今のシェプリーには、物事を冷静に考えるような余裕はどこにも存在しなかった。
広がる暗闇は沈黙のまま、ただ前方から得られる小さな灯火によってもたらされる影だけが佇んでいる。それが尚更その奧にある暗闇を強調し、嫌が応でも彼の内に眠る忌まわしい記憶を呼び覚ます。
そうだ。あの時も、石柱の側でおかしな感覚にとらわれたではないか。無機質で、無感覚で、それでいて妙に存在感のある気配が――!
シェプリーは急いで暗闇から眼を逸らそうとした。が、恐怖に硬直した身体は素直に従ってはくれない。
釘付けになってしまった視線を引き剥がすべく、無理矢理首を前へとねじ曲げた、まさにその時。
シェプリーの顔面に、固く、生暖かいものが衝突した。
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