10:消失点

 声は音となり、濁流にも似た流れの中へと引き裂かれていった。

 あらゆる色が混じり合う粘性のある闇は、時間というものが全く感じられず、翻弄され、蹂躙され、シェプリーはそれらがもたらす微細な変化さえ受け止めることが適わなかった。

 底の見えない不透明な闇は果てることを知らず、窩洞かどうを貫く光に支配され、シェプリーはどうすることもできず、ただその闇の中を降下してゆくしかなかった。

 永久に続くかと思われた嵐はしかし、遡ってみればほんの一瞬の出来事でしかなかった。

 まるで列車がトンネルを抜けたときのように、唐突に世界が開けた。

 変化についてゆけず、シェプリーは呆然とした。

 黒一色だった世界は、暖かな光に満ちたものとなり、不安定だった足下は、しっかりとした床となっていた。

(ここは……)

 見覚えのある光景だと、記憶が告げる。

 そして、自分が放り出されたのがどこなのかに気付き、シェプリー狼狽えた。

(まさか……そんな、まさか)

 どこか遠くの空で雷鳴が轟いていた。

 室内を廻る湿り気を帯びた緩やか風が、シェプリーの頬をなぞってゆく。

 ――間違いない。四年前の嵐近付く夜。師であるエンジェルが失踪した、あの部屋だ。

 だが、少し違うところもあった。

 壁にはあの時見たような血飛沫が描く模様はない。雷は鳴っているが、まだ雨は降り始めていない。

 何より、あの当時に感じた毒を孕む空気は、まだ存在していない。

 それは彼が何度も夢見で覗こうとし、その度に底知れぬ深遠の暗さに阻まれ、挫折していた時間の中だった。

 今迄にもシェプリーは自らの力を使い、自分の記憶を辿ろうとした。

 世間の誰一人として信じてくれなかった事件のあらましを唯一知る者として、何が起こったのかを解明しようと躍起になって夢見を繰返した。

 けれど、それはいつも失敗に終っていた。

 扉を開けた先にある闇が恐ろしく、足を踏み入れることが出来なかったからだ。

 真相を知りたいと願う気持ちより勝る、恐怖の記憶に、シェプリーはそこで何が怒ったのかを見届けることが、どうしても出来なかったのだ。

 しかし今、シェプリーはその扉を越えていた。脳随を貫く冷たい光に導かれるまま、気付かぬうちに通り抜けていた。

 当時エンジェルが宿泊していた部屋の中央で、シェプリーは呆然と立ち尽くしていた。

 何故、今になってここに辿り着いたのか。何故今でなければならなかったのか。その疑問に対する答えは、耳を撃つ大きな羽ばたきによって示された。

 音のした方向――後ろを振り向いたシェプリーは、そこにある人物の姿を認め、言葉を失った。

 吹き込む風を気にすることなく、開け放した窓の前に立つ後ろ姿。どれだけ手を尽くしたところで取り戻せるはずがないとわかっていた時間が、人が、今ここにあることを、シェプリーの理性は即座に受け入れることが出来なかった。

 だが、感情は違っていた。

「フォスター先生……?」

 懐かしさと怖れとが入り混じったシェプリーのつぶやきに、その人物は優雅ともいえる動作で鎧戸を閉じ、窓の鍵も下ろした。

「待っていたよ」

 鼓膜を確かに震わせるその声さえも、どこか夢うつつのまま聞いていた。少しも褪せることのない記憶と同じ姿で、同じ動作て、〈彼〉はシェプリーへと振り返る。

「よく来てくれた……よく間に合ってくれた」

 世にも稀な色をした双眸が、シェプリーのそれと交錯する。

 その奥には、悲しむかのような影が見え隠れしていた。

 どういう意味なのか、何をそんなに憂いているのか問うような余裕は、シェプリーはなかった。彼の――エンジェル・フォスターの言葉の真意を瞬時に悟りながらも、頭の中が激しく混乱していたからだ。

 そう――エンジェルは、確かにこの瞬間を待っていたのだ。隣室で居眠りをしているであろうシェプリーではなく、エンジェルを失った後のシェプリーが、四年という歳月を越えてこの部屋を訪れるのを。

「たった今、荷を運ばせたところだ。あとは……」そう言って、エンジェルは自身の左手から、小さな指輪を抜き取る。

「これを、君に託すだけだ」

 差し出された銀の塊を前に、シェプリーは瞬きすることすら忘れた。

 託す? 彼は一体何を言っているのだ。

 そんなシェプリーの内心を知ってか、エンジェルは憐れむような視線を送った。

「理由は言えない。まだ今は、言うべき時ではないから」

「……どういう意味ですか」

 エンジェルの言葉にシェプリーは奥歯を嚙み締めた。

「一体、何が起こっているんですか。どうして……こんな……!」

 まさしくこの場に立つ肉体が知覚しているものだと実感しながら、エンジェルに詰め寄る。

 沸き上がる泉のように、多くの疑問が一度に噴出する。だが、言いたいことが多すぎて、シェプリーは言葉に詰まってしまった。縋り付いて泣き出したいのを堪えながら、もどかしい思いと格闘する。

「いずれわかる。それまでは、私の口から明かすべきことでは――」

「僕が聞きたいのはそんなことじゃない!」

 涙を溢れさせながらも昂る感情を必死に抑え込もうとしているシェプリーに、エンジェルはだた一言だけ言った。

「済まない、シェプリー」

 シェプリーは愕然とした。

 それは、どう声をかけてよいのか考え倦ねての言葉ではなかった。あらかじめ、用意されていたものにすぎなかった。

 やはり彼は知っていたのだ。この後、自分の身に何が起こるのかを。その後、残されたシェプリーがどんな道を歩むのかも。そして、こうして時を経て自分の前にあらわれるであろうことも、すべて知っていたのだ。

 その考えを肯定するかのように、エンジェルが言葉を続ける。

「これから私がとる行動で、君がどれだけ苦しむことになるのか、私は充分にわかっているつもりだ。本当に済まないと思っている。しかし、私には、こうするしか他に方法はなかった」

 エンジェルは、立ち竦むシェプリーの手をとり、指輪を握らせた。掌に触れるその冷たさに、シェプリーは反射的に手を引っ込めて拒もうとしが、信じ難いほどしっかりとした力を発揮するエンジェルの手からは逃れられなかった。

の君なら、これが何であるか知っているはずだ。これが何なのか、私は君に、あえて教えずにいた。それは、まだ君が充分な資質を備えていなかったからに過ぎない。可能ならもっと早くに教えてやりたかった。避けられるのなら、避けたかった。しかし、それはやはり無理だった……」

 エンジェルはそこで一旦口を噤んだ。断罪されることを覚悟してではなく、シェプリーからの詰問を待っているのでもなく、外の音を聞くために。

 シェプリーは困惑しながらも、エンジェルに倣って耳を済ましてみた。

 あの当時と同じように、外からの風は強くなりはじめていた。もうじきに、雨も降り始めるに違いない。

 シェプリーがそのことに気付くと同時に、エンジェルの端正な顔に焦りが浮かんだ。

「早く行きなさい。見付かる前に」

「……見付かる前に、って……誰に?」

 シェプリーは涙で濡れる顔をあげた。今までエンジェルと共に過ごしてきた中で、そのような不穏な話は一切なかったはずだ。

「彼等はどこにでも存在する。この世界のすべてが、彼等そのもだから」

 エンジェルは、戸惑うシェプリーに向かって言った。

「だから、慎重に事を運ばねばならなかった。彼等の眼を欺くためには、自分自身も、君さえも欺かなくてはならなかった……」

 そうして、一瞬眼を伏せる。だが、再び瞼を上げた時には、その眼にはもう何の迷いも躊躇いも見られなかった。

「しかし、残念だが、今ここで君に説明をしてる時間はない。大丈夫だ。君なら出来る。君になら、このリングの意味を理解できる。君には誰にも成し遂げられなかったことを果たす力がある――私はそう信じているよ」

「そんなこと、言われたって……」

 シェプリーは途方に暮れた眼でエンジェルを見詰め返す。何一つ聞かされていないというのに、これからどうすればいいのかなど、わかるはずもない。

 エンジェルは僅かに身を屈め、シェプリーの眼を覗き込んだ。碧の瞳に映り込む虚像に向かって、微笑みかける。

「心配は要らない。指輪が導いてくれる――さぁ、もう行きなさい。時間がない」

 優しく肩を押されたシェプリーは、けれどもそこから動くことは出来なかった。

「先生は……?」

 シェプリーは、師の言葉の意味を理解しようという努力を放棄していた。ただ、脳裏に焼き付いて離れないでいるあの忌わしい事件から、いかに師を遠ざけ守ろうかを必死に考えていた。

 もし今、あの怪物がここにあらわれる前に、エンジェルがこの宿から立ち去れば。あるいは、少なくともこの部屋から離ることが出来れば。

 決して叶うことはないだろうと思っていたことが、時間の壁を越えたこの瞬間なら可能になるかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなかった。

シェプリーの願いを、エンジェルも充分わかっていたことだろう。しかし彼は悲しげに微笑むと、数年分の歳を重ねた弟子に向かって、ゆっくりとかぶりを振ってみせた。その眼に浮かぶのは、すべてを見透かしたかのような澄んだ光だった。

 もし今、シェプリーの願うとうりにエンジェルがこの場所を離れたとしても、彼の身に降り掛かる厄災からは逃れることはできないだろう。何故なら、今この場所にシェプリーが立っていること自体が、すでに過去にあった出来事を意味しているのだから。それを知っているが故に、エンジェルはあえてこの場に留まったのだ。最小限の犠牲で済むようにと。

 エンジェルが見せる覚悟に、シェプリーは気が遠くなった。

 残酷な託宣を享受せねばならない預言者のように、避けることのできぬ運命の冷徹さを思い、身体の芯が冷えてゆく。

「急ぎなさい。これ以上ここに留まっていてはいけない。〈猟犬〉に嗅ぎ付けられる前に、早く」

 野を渡る風が鎧戸を叩き、降り始めた雨がそれに続いた。

 雷は徐々に近付いている。あの瞬間が、確実に近付いている。

 視界がぼやけはじめ、徐々に暗くなってゆく。その正体は、密度のある黒い霧だった。部屋の隅から滲み出すその奥から、身の毛もよだつ気配と、凍り付くような冷気が押し寄せて来る。

 闇に灯る赤い眼が、獲物を求めてフラフラと彷徨うのが見えた。腐臭にも似た刺激のある臭いが強くなる。

 奴が来るのだ。四年前の今、まさにこの瞬間に、何者かが放った異形の化物がエンジェルの肉体を引き裂くために、次元を越えてやって来る。

「行きなさい、シェプリー。早くここから離れるんだ」

 エンジェルの声に宿る激しさ。それは、かつて一度もみせることのなかった焦躁だ。

「嫌だ!」

 押し戻す手を払い除け、シェプリーは尚も縋った。

 離れたくなかった。引き裂かれたくなかった。エンジェルが望むことではないと知りつつも、どうせ助けられないのなら、この後苦しむのがわかっているのなら、いっそのこと自分もここで師と共に命を終えたいとさえ思った。

 息苦しさに胸が痛む。荒れ狂う波のごとき感情が、シェプリーの内を駆け巡る。しかし、やはりそれは許されぬことだった。

「シェプリー、聞き分けのないことを言わないでおくれ。今ここで、君とその指輪を失うわけにはいかないんだよ」

「指輪が何だって言うんですか! こんなもの、僕とどう関係があるって言うんですか!」

「シェプリー!」

 エンジェルに一喝され、シェプリーは身を竦めた。

 叱られた子供がそうするように、不貞腐れ、俯く彼を、エンジェルは辛抱強く諭す。

「わかってくれとは言わない。許してくれとも言わない。ただ、これだけは信じて欲しい。私は、君にすべてを託したんだ。君と、君の〈力〉に賭けたんだ。だから、どうか、その期待を裏切らないでおくれ」

 今や室内に宿る気配は悪意に満ちていた。部屋の片隅から沸き上がる黒い霧が、徐々にはっきりしとした輪郭を描きはじめる。もはや一刻の猶予もないことを察知したエンジェルは、それでも一向に動きだそうとしないシェプリーに対して、最後の手段をとった。

「行くんだ――早く!!」

 信じがたい力で突き飛ばされたシェプリーは、ショックのあまり踏み止まることも出来なかった。

 膨れ上がる濃厚な闇の気配の中、何もかもがひどくゆっくりと過ぎて行く。

 窓の外からは、黒い風雨が激しく吹き付ける音がした。照明が悲鳴をあげるかのように瞬き、闇がこの場を支配する。変わりに灯るのは、異形の獣が放つ紅の輝き。

 凍てつく視線に貫かれそうになったシェプリーの前に、エンジェルが立ちはだかる。そして――。

「フォスター先生――!!」

 喉から迸る声は、続く雷鳴に容易くかき消された。

 殺戮に酔う赤い瞳の前で、エンジェルの肉体はまるで飴細工のように引き裂かれた。縋ろうと伸ばしたシェプリーの指先は虚しく空を切り、頬をうつはずの熱い血飛沫もなく。

 激しい目眩に足下を掬われて、シェプリーは再び底のない闇の中へと放り出された。



 懐中電灯の灯をたよりに長い地下道を一気に駆け降りたルイスは、そのままの勢いで立ち塞がる扉を思いきり蹴り開けた。

 古く錆び付いた蝶番は悲鳴をあげてその身を軋ませ、侵入者の来訪を奥に潜む者へと告げる。

 隠し扉となっていた石造りの壁は、開いたままとなっていた。その先にある実験室内の照明も付けっぱなしになっている。ルイスは荒い息をつきながら、光溢れる室内を険しい表情で見据えた。

「いけすかない野郎だ」

 書庫に残されたメッセージを見たときからわかっていたことだった。敵は、ルイスを誘っているのだ。

 片手には懐中電灯を、もう片方の手には、館の捜索中に見付けた鳥撃ち用の短い散弾銃を握りしめ、ルイスは固唾を飲んだ。ガン・キャビネットから引っぱり出してみたものの、いにしえから生き続ける魔術師にこんなものが通用するだろうか。

 もちろん、身体を乗っ取られているであろうエルリックを射殺したいわけではないが、前回のこともある。用心するに越したことはない。

 今一度、自分の意志を確認するかのように顎を引いたルイスは、慎重に実験室の中へと足を踏み入れた。

 室内は以前に見たときからの変化はないように思えた。しかし。

 前とは異質な感触が満ちているような気がし、ルイスは眉を顰めた。

 煌々と照る照明のお陰で、周囲は昼のように明るかった。なのに、なぜか室内全体は暗く濁っているような感じがするのだ。

 異様な気配に、ルイスは立ち止まった。

 視線の先にあるのは、床上に開いたままの入り口。更に奥へと続く階段だ。

 ルイスは淀む闇の中へと目を凝らした。エルリックから聞いた話から推測するに、この先にある地下牢にシェプリーは囚われているに違いない。

 ルイスは懐中電灯の灯を、黒々とした穴へと向けた。

 密度のある濃い闇がわだかまり、まるでそこから先は奈落へと落ちたかのよう何も見えなかった。

 あるのは、ただ闇ばかり。何者をも拒む、障壁のような――

「何!?」

 不意に、黒い壁が動いた。まるで意志ある生物のように沸き上がり、外へと吹き出す。

 咄嗟に後ろへ飛び退ったルイスは、しかしその光景から目を逸らすことが出来なかった。

 密度のある黒い霧の中から何かが這い出してくる。そして、背筋を凍り付かせる〈声〉がルイスの耳へと届く。

 それは、例えるなら遠吠えであった。しかしその本質は、聞く者全てに恐怖と嫌悪の念を抱かせるに充分な異質さを備えていた。

 闇の塊から吹き出す冷気とともに、徐々にそれが形を表す。

 ほどなくしてルイスの前に姿を見せたものは、子牛ほどの大きさをした黒い犬のようなものだった。だが、決して犬などではあり得なかった。

 長い口吻の先に付いた大きな鼻は醜く潰れ、そのすぐ下には思うまま肉を裂き貪ってきたとしか思えない凶悪な牙がびっしりと並ぶ。

 だらしなく開いた口からは長い舌が垂れ下がり、唾液であろうか、緑色の粘液めいたものをこぼしている。そして、どの生物とも結びつかない形状をした舌の先端には穴が空いていた。

 逞しい肉付きを曝した前肢、その先にはこれまた猛禽類を思わせる大きな鍵爪が備わっている。

 狂人の夢想か、悪夢の中でしかお目にかかれぬ歪んだ造形。世界の法則を完全に無視した、生物ではない生物。悪魔的な姿は、まさに魔獣と呼ぶに相応しいものだ。

 ギラギラとした輝く紅い瞳に射すくめられ、ルイスは銃を構えたまま呆然としていた。頭の芯が痺れていて、何も考えられない。

 手から力が抜け、懐中電灯が落ちる。

 悪夢から抜け出したとしか形容のしようがないその化物は、ルイス目の前で僅かに体を沈ませた。あり得ない構造の骨格につく筋肉が動き、盛り上がる。捲れ上がった口唇から覗く牙。絶え間なく流れる唾液の間から、しなやかな鞭のようにうねる長い舌が伸びて――

「――!!」

 間一髪、我に返ったルイスは、反射的に銃の引き金を引いた。

 耳を聾する銃声が周囲に響き渡る。しかし魔獣は軽やかにこれを避け、少し離れた場所へとその四本の足で降り立った。

 先まで彼が居た場所には無数の小さな穴が空き、僅かな埃が舞い上がっている。

 攻撃には反撃を。自分へと向けられる敵意に魔獣は――〈悪魔の猟犬〉は――即座に反応した。

 もっとも、ルイスの方も最初の一撃を外した後、いつまでもその場でグズグズしてはいない。

 速やかにその場から離れ、魔獣の攻撃を避けるべく走る。

 すぐ背後の棚に獣が頭から突っ込み、騒々しい音を響かせながら機材を薙ぎ倒した。すかさずルイスは音の方向へと振り返りざま、散弾銃を撃つ。

 この世のものとは思えぬ悲鳴が獣の口からあがり、緑色の体液が周囲に飛び散った。

「やったか――!?」

 確かな手応えに、ルイスは声をあげた。しかし、その声はすぐに驚きのものへと変わる。

 獣の体には確かに散弾によって穿たれた無数の穴があった。が、そこから吹き出しているのは赤い血でもなく、周囲に飛び散っているような緑色の体液でもない。

 しゅうしゅうと音を立てる勢いで吹き出しているのは、黒々とした煙。地下の入口から沸き立った、あの黒い蒸気と同じものだ。

 黒煙は空気中へと拡散せずに獣の周囲で渦を巻くように蠢いていたかと思うと、すぐに開いた穴から胎内へと戻っていった。それにつれて穴が徐々に塞がってゆく。

 獣は不機嫌そうな唸り声をあげ、再び立ち上がろうとする。紅く燃える瞳には、痛みとは違う感情が閃いていた。ぐっと締め付けられるかのような感覚がルイスをその場に縛り付けようとする。しかし、恐怖が思考を捉えるよりも前に、ルイスの体は反応していた。

 素早く踵を返し、隠し扉の部屋まで後退する。仕掛けのある位置を拳で殴りつければ、石壁は開く時と同じように滑らかに動き、魔獣とルイスとを隔絶した。

「畜生、何だよあれは」

 一瞬にして暗闇に閉ざされた中で、ルイスは壁に背を付け、そのまま座り込んでしまいそうになるのを耐えた。上着のポケットに無造作に詰め込んできた銃の弾を取り出し、暗闇の中を手探りで装填し直してみるものの、どちらにしろ今対峙している相手には傷一つ付けられないことに気付く。

 そして、あれが、かつてシェプリー見たと言っていた存在ものだと、ようやく理解した。

 シェプリーの言葉を信じていなかったわけではない。だが、頭のどこかでは否定していた自分に気付き、ルイスは動揺した。

 そしてシェプリーもわかっていたはずだ。信じていると口では言うものの、本当は決して信じてはいなかった自分のことを。

 他の者達と同様に、結局は目に見えるものしか認識し、評価してない自分を。

 安易な慰めが与える残酷な痛みに、苦々しい思いが胸の内に溢れる。しかし、ルイスは強くかぶりを振ると、それを打ち消した。

 今はそんなことを悔いている場合ではない。今立ち向かわねばならないのは、友への懺悔ではなく、あの化物をどうするかだ。

 だが、まるで闇そのものが形を変えて生まれでたような怪物を相手に、一体どうすればいいのだろう? どう立ち向かえと?

 このままでは、自分の身を守ることすら難しい。ルイスは関節が白く浮き出るほど力をこめて銃を握りしめ、必死に考えを廻らせた。

 煙で構成されているものに銃が効くはずがない。だが、憎らしいことに相手は物理的にちゃんと存在している。棚に衝突したのが何よりもの証拠だ。

 床の上に飛び散ったあのおぞましい体液もそうだ。粘性のある緑色のそれを、耳まで裂けんばかりに開いた口から始終垂らしているさまは、気の弱い者であれば見ただけで失神してしまうだろう。ルイスでさえ、最初の遭遇でやられなかったのが奇蹟だと思えるほどだった。

(どうすればいい? どうすれば――)

 しんと静まり返る中、自分の荒い息の合間に、胸郭の内側で激しく鼓動する心臓の音まで聞こえてくるようだった。

 現実離れした現実。もしかしたらこれは、屋敷の厨房で寝転がりながら見ていた夢の続きなのではとさえ思ってしまう。

 その時、ルイスの脳裏にある考えが閃いた。目に焼き付いた光景が、記憶の中から鮮やかに蘇る。

 沸き上がる微かな希望。しかし次の瞬間、彼は幾度目かの衝撃に息を飲まざるを得なかった。

 闇に灯る赤い灯――自分を包む暗闇の中に、禍々しい輝きが突如として生まれたのだ。

 物理法則は、その世界に縛られるものだけに与えられた枷にすぎない。〈契約の印〉により次元の彼方から召還された魔獣には、石で出来た壁など存在しないも同然だった。

 〈悪魔の猟犬〉、あるいは〈ゲイブリエルの猟犬〉――人によって呼び名は違えども、それらは本質的に同一の存在を指していた。それは、常識など一切通用しない歪んだ世界に住む住人であり、遥か過去に次元の彼方へと封じられた頃より課せられた、永久に癒されることのない餓えを抱える生物だった。

 常に餓え乾き、その牙で獲物を引き裂く為だけに暗闇と時間を跳梁する彼等には、知能も意志もなかった。ただ、上位のものに命令されれば、それに従うのみだった。

 そして、今もまた。〈契約の印〉によって現実世界へと召還された彼は、与えられた使命を全うすべく、その力を如何なく発揮した。

 闇の中、紅い火が一層禍々しく輝き、半ば実体化した口がその光に照らされながら大きく開かれる。

 間近に迫る臭気と、圧倒的な気配。

「くっ――!」

 咄嗟に、ルイスは銃口を前へと突き出した。先端で何か柔らかいものを突いたような手応えを感じると同時に、引き金を引く。

 湿った音とともに魔獣の頭部は形を崩したが、やはりそれもほんの一時のことだった。闇の中に浮かぶ紅い光は消えることなく宙空に浮き、再び形を成そうと蠢いている。

 ルイスはたった今閉じたばかりの扉を開こうと、後ろ手で仕掛けを探した。しかしこの闇の中、手探りではなかなか仕掛けの位置がわからない。

「この――っ!!」

 半ば焼け糞で叩いた拳が、壁の中に埋まる。

 途端に差し込む眩い光の筋。切り裂かれた闇の中、蹲る異形の影を振りきり、ルイスは実験室へと身を投げ出した。

 もつれる足で床を蹴り、手していた散弾銃を投げ捨てて走る。

 その後を追うべく、獣もまた実験室へと身を乗り出しかける。

 が、獣は一瞬、外へと足を踏み出すのを躊躇した。規則正しい物理法則が支配した光溢れる世界は、獣にとって不愉快極まりないものであったからだ。加えて、〈契約の印〉による新な枷が、彼の行動の逐一を鈍らせていた。

 頭蓋の奥では、身を焦がすような餓えと、自身に課せられた命令とが、常に拮抗していた。ともすれば、永遠にも近い制止した時の中で味わった開放感が、仮染めの開放だということすら忘れさせようともしていた。しかし、印による契約の力の方が上回っていた。

 魔獣は不愉快だといわんばかりに、たてがみを振う獅子を思わせる動作でその巨体を震わせた。途端に、周囲に拡散していた闇が収束する。闇は、散弾によって砕かれた細胞であったものだ。一旦霧のように拡散したそれは、さらに微細な原子へと戻った後、再び新たな肉体となるべく結合する。

 存在する矛盾を一笑に附すかのように、獣は喉奥から低い唸り声を出した。そして。

 かつえた躯が欲するままに、獲物に向かって猛然と走り出した。


 闇が次元の法則のもとに変換され、実体あるものへと変異するさまを、ルイスは見ていなかった。しかし、背中へと叩きつけられる気配だけは、しっかりと感じ取っていた。

 それは、捕食者の意識――魔獣の餓えた紅の瞳が、己の胎内で脈打つ心臓を狙っている。

 シェプリーほどではないにしろ、常人よりは感度の高いアンテナが、魔獣の怒りをルイスへ伝える。

 怒り――そう、かれは怒り狂っていた。もともと餓えに支配された思考は、それをも遥かに凌駕する怒りによって溶岩のごとく滾り、あるはずのない肉体の中を駆け巡っていた。

 三次元の檻と、〈契約の印〉という枷に拘束されても尚尽きぬ飢餓が、獲物の血潮を求めている。

 ルイスは走った。何も考えず、同時にただひとつだけのことを考えて。

 余計なことを考えていたら、後ろから迫る気魄に押し潰されてしまう。恐怖に竦んでしまっては、たちまち追い付かれ、あの凶悪な牙と爪に引き裂かれてしまう。

 地響きにも似た足音が加速しはじめる。餓えと怒りに満ちた気配が近くなる。胸に突き刺さる餓えた視線を、否応なく意識させられる。

 鋭利な刃物が喉元を掠めるような感触。視界が赤く染まる。息が詰まる。

(――まだだ!!)

 一瞬よぎった死のイメージを、しかしルイスははね除けた。

 背に叩き付けられるのが怒りならば、それを振り切るのも怒りであった。

 得体の知れない錬金術師の罠。目の前に突然顕われた魔物。そもそも、そんな化け物が存在するということ。あらゆる要素における超自然的な存在。それらが、今まさに己の命を刈り取ろうとしていることに対して。

 激情が恐怖に打ち勝った瞬間、竦みかけた四肢に、再び力が宿る。そして、目前に迫る作業台――

 ルイスは渾身の力を込めて固い床を蹴り、横っ跳びに跳んだ。急激に方向を変えたことで、一瞬獲物を見失った獣は、そのまま真直ぐ滑っていき、ルイスが目標とした作業台もろとも、その背後に控える棚に突っ込んだ。

 頑丈な棚は壁に打ち付けるように設置してあったため、獣の体当たりを喰らっても吹き飛ぶことはなかった。しかし、衝撃の大きさに、収納してあったものが次々と落下した。

「これならどうだ!!」

 天地が逆転する中、咆哮と共に火花が炸裂する。

 脇と腰、二つのホルスターから抜いた拳銃で、ルイスは元の持ち主が死んだ後も絶えず補充を続けられていた大量の強酸の壜を撃ち抜いた。

 ガラスの破片と強酸の雨が、床上に蹲る獣へと降り注ぐ。雨は、獣の身体を構成する酸とも激しく反応し、瞬間、ルイスの視界は白い煙に奪われた。

 突如襲った焼け付く痛みに、獣は驚愕した。

 酸の量は獣を全て焼き尽くすには足りなかった。しかし、獣を縛る契約――彼自身を捕らえる魔法の枷から目覚めるには充分だった。

 獣は物質を通り抜ける時のように、拡散して驚異から逃れようとした。しかし、この焼ける液体は、しっかりと獣の身体を覆い、逃そうとしない。それどころか、凝固の状態をやめた途端、酸はますます激しく反応をはじめるではないか!

 獣はこの瞬間、おそらく生まれてはじめて戸惑い、そして狼狽えた。

 それまで支配されていた重圧から開放され、かわりに沸き上がるのは、死への恐怖――本能的が悟る、消滅への恐れである。

 不死に近い存在故、今まで彼が全く意識することのなかった感情が、その口から飛び出す。次元牢に閉ざされた中を永遠に生きる身であっても、逆らえぬ法則はまだ存在するのだ。

 尽きぬ飢餓も、〈契約の印〉による命令も、獣の意識から消え去った。

 怒りと痛み、そして恐怖の入り交じる叫びを残し、獣は己が属するべき世界へと逃げ帰った。後に残るのは、原形をとどめぬほどに破壊された作業台と、残った粘液と反応を続ける酸と、粉々に砕けた硝子の破片だけだった。

 転倒した際にあちこちをぶつけたらしい。身体中が悲鳴をあげていたが、ルイスはそれに応えてやる余裕はなかった。

 固く握りしめた両手の中の拳銃。その銃口からたちのぼっていた細い白い煙はすでに消えていた。それでも、小刻みに震えるそれぞれの照準は、すでに原形どころか、存在の痕跡すら残さずに消えたものへと向けられたままだった。

 銃の重みに手が痺れはじめた時、ようやくルイスは我にかえった。

 のろのろと立ち上がり、床を変色させた大きな染みを眺める。空になった弾倉を見てもまだ、あの化物を倒したのだという実感は涌かなかった。ただ、自分はまだ生きているということだけは理解できた。

 渇いた笑いと共に、どっと押し寄せる疲労。そして、腹の底から込み上げる衝動。

「はっ、ざまぁみろ」

 えずく胸を抑え、ルイスは悪態をついた。そして、奥歯を噛み締め、歩き出す。

 よろめいたのは、最初の数歩だけだ。足取りは徐々にしっかりしたものとなり、靴は音を立てて板張りの床を踏み締める。恐怖を払い退けた怒りが、今度は新たな活力をルイスに与えていた。

 打ち捨てられたままだった散弾銃と懐中電灯を拾い集め、再度下層へと繋がる道の前に立つ。

 黒々とした坑は、そしらぬ顔で沈黙を守っていた。

 ルイスは一瞬、またあの化物が出て来るのではないかと思い、怯んだ。しかし、醒めぬ興奮が、すぐにそんな妄想を打ち消す。

「ふざけやがって、見てろ!」

 一歩一歩、固い石段の感触を確かめるかのように、ルイスは慎重に下へと降りていった。



 青い膜に満たされた空気が、一瞬ひきつるような気配をみせる。

 瞼を閉じたままじっと念をこらしていたディシールは、報せに気付き、顔を上げた。

「何と。猟犬を追い返したか」

 呟く言葉には、驚嘆と賞讃がこめられていた。だが、悪魔の猟犬を召還した術は不完全なものだった。

 魔の召還は、それ自体が危険な行為である。己の力に自惚れ、過信すれば、牙はすぐさま術者へと翻る。そうして召還され支配された魔物を祓うのもまた、並み大抵なことではない。

 方法は三つ。簡単なのは、敷かれた魔法陣を崩し、呪術的効果を打ち消すか、あるいは術をかけた術者本人に、その儀式を中断させるかである。

 そして残る一つは最も困難な方法で、召還された魔物を、術者よりも強固な意志と力でもって追い返すというものだ。

 そして一体どのような手法をとったのか、あの黒髪の男は、この一番困難な方法をやってのけたのだった。

「少々見くびっていたやもしれんな。なれど……」

 宙に浮く青白い炎――多重の屈折をもつ水晶の中に、懐かしいものの姿をみとめ、年ふりた秘術師は歓喜にうち震えた。

 かつて、ソロモンと呼ばれた王がいた。その手には、あらゆる魔を支配する指輪があったと伝えられていた。

 ディシールはその指輪を知っている。長い年月を経、彼方に霞む記憶の中にあっても、決して色褪せることのない幾何学模様、その真の正体を。

 かつて自分をこの世へと送りだした主人の手にあった、小さな指輪。それがどうなったのか、ディシールは知らない。主人の消息すら不明だ。

 自分のように隠遁し続けたか、あるいは異端狩りの中に消えたか。長い時を渡り歩く間、ディシールはそれらについての噂を一向に聞かなかった。かわりに流布するのは、過った情報。

 幾多の伝説の中で、特別な力をもつ指輪と記号の存在は、まことしやかに囁かれ続けた。けれども、そのどれもが真実の姿を示すものではなかった。おそらく、主人がうまく隠蔽したのであろう。意味をなさぬ記号の中に真意は埋もれ、やがて〈印〉そのものの存在も失われた。

 しかし、これらが永久に消失したわけではないことも、ディシールは知っていた。

「だからこそ、わしは今、ここに居る」

 己の使命を確認するように、呟く。

 経過はどうであれ、結果は必ず一つの場所へと辿り着く。

 ディシールは、水晶の下に横たわる青年へと一瞥をくれた。降り注ぐ光のせいで、血の気を失った横顔は一層青白い。ゆらめく炎が影を震えさせるのに合わせて、固く閉ざされた瞼が微かに痙攣をしていた。

(もうすぐだ)

 もうじきに、指輪は再びこの世界に顕現する。まだ今は水鏡に像が写し出されただけにすぎないが、しかしそれももはや時間の問題といえた。

(あとは……)

 顕現した指輪を、誰が継承するのか。

 この水晶眼か? それとも――?

 ディシールがそのことに思いを巡らせた時だった。ふと、そのくらい光の宿る瞳が揺れる。

「く……っ!」

 端正な顔が苦痛に歪む。鋼のような精神にひび割れを生じさせたのは、左手に走った痛みだった。

 魔獣を召還するべく傷付けた指――それを足掛かりに、エルリックがディシールの意識を追い出そうと動きだしたのだ。

 指先から肘を突き抜けた痛みは、脊髄に直結した神経を伝って、肉体を魔術師の描く〈夢〉から醒めようとしている。

「このようなときに……!」

 部屋の片隅に転がる杯へと眼をやり、ディシールは歯噛みした。

 精神を肉体から分離させる効果をもつ蜂蜜酒は、この部屋には置いてない。急ぐあまり、シェプリーに飲ませた分しか持ってきていなかったのだ。

(急がねば)

 急激に支配を受け付けなくなった肉体に、ディシールは焦燥を露にした。よろよろと壁際まで歩き、がくりと膝をつく。傍らに立て掛けておいた鉈へと伸ばす右手が、ディシールの意志とは関係なく翻り、空をきる。

「ええぃ! 邪魔をするな!!」

 秘術師の放つ怒りの波動に、水晶の輝きが反応する。光は、びくりと身を竦めたかのように瞬いたが、すぐにまた元の輝きを取り戻した。

 そして。

「おぉ……」荒い息をつきながらもディシールは身を起こし、両腕を広げた。水晶からとめどもなく溢れ出る光を受け止めるかのように。


 ――我は死から起き上がり、我を殺す死を、殺す。


 遠い過去、夢うつつの中で聞いた言葉が脳裏に蘇る。

「我は、我が創造した肉体を再び立ち上がらせる……」

 続く句が、知らず、口からこぼれた。

「……我は、死の中で生きた後、我自身を破壊する」

 本来水色であるべき瞳は、金の輝きに彩られていた。ディシールは、恍惚とした表情でその瞬間を待った。アラベスクのような規則性をもつ奇怪な紋様の刻まれた指輪があらわれるのを。

 感極まった吐息が漏れる。その時、それまで青一色だった光が変化した。



 闇に閉ざされた中で、シェプリーは呆然としていた。

 衝撃のあまり、悲しむことすら忘れてしまっていた。狂えるオフィーリアのように、緩やかにうねる闇に身を任せ、ただ押し流されていく。

 四年前に何が起こったのか。それは、錯乱状態から醒めた病院のベッドの上で、シェプリー自身がすでに理解していたことだった。

 冷気も熱もない闇の中、感じるのは、自分の手の中に残る小さな指輪の感触だけだった。

 このちっぽけな金属の塊を未来の自分へと託すためだけに、エンジェルは魔物を従える効力があるという〈契約の印〉あえて手放した。

 何故彼はそのような回りくどいことをしなければならなかったのだろう。

 何故これを自分に託したのだろうか。そもそも、何故彼がこの指輪を持っていたのだろうか。

 けれど、もはやそんな理由などは、今のシェプリーにはどうでもよいことだった。沸き上がるのは、彼の死の原因となったこの指輪と、それを手にしながら何も出来なかった自分に対しての怒りと悔しさばかり。

(こんな……、こんなもののために……!)

 指輪を投げ捨てようと上げた手を、しかしシェプリーは、そのまま振り下ろすことができなかった。

 周囲を取り巻く暗闇に、蠢く何者かの気配があることに気付いたからだ。


『彼等はどこにでも存在する。この世界のすべてが、彼等そのもだから』


 エンジェルの謎めいた警告が象徴するように、肉食動物が獲物に注ぐ視線のような冷徹なそれらは、闇の中で時折苛立たしげなざわめきを送ってよこした。

 姿の見えない彼等は、指輪が灯す小さな灯によって、シェプリーに近付けないでいるのだろう。

 シェプリーは一瞬、自らを守ってくれているこの障壁を取り去って、得体の知れないものに喰らい尽くされてしまおうかと思った。

 けれど、やはりどうすることもできなかった。それらを認識した途端、胎動する闇が恐ろしくなったからだ。

 幼い頃からシェプリーは暗闇が怖かった。否、正確には、暗闇の奥から漂う、何かの気配に怯えていたのだ。

 無知な子供の他愛もない妄想などではなく、現実に存在するものの気配を、既にその頃から察知していたのだ。

 そして、もう一つ。


『待っていたよ』


 自らの命と引き換えに、シェプリーへとこの指輪を託したエンジェルの遺志を、無駄にするわけにはいかなかった。

 エンジェルは言った。指輪が導くと。

 ならば。

 シェプリーは、ゆっくりと掌を開き、そこで小さな輝きを放つ指輪へと眼を向けた。

 知ることで償えるのなら。その機会が訪れる可能性があるのならば。

 もとより、そのつもりだったのだ。あの嵐の夜を経て、ウィディコムという片田舎に辿り着き、闇に葬られた謎の糸口を見つけたその瞬間まで。

 シェプリーの決意に呼応してか、指輪の輝きが増した。それにつれて周囲の闇も変化しはじめる。色のない黒一色の世界が、徐々に明るくなる。そして。

「うわ、あ――っ!?」

 唐突に、シェプリーが感知できる〈世界〉そのものが拡大した。


 空を飛ぶ方法を知らぬまま、遥か上空に投げ出されたようなものだった。

 内から膨れ上がる膨大な力と、押し潰されそうなほどに圧倒的な重圧とに挟まれ、息が詰まる。

 自分以外の思考、記憶が次々と飛び込んでくる。目紛しく変わる光景、交わる様々な思考、感情、そしてあまりにも激しい情報の流れ。

 濁流の中に消えてしまわぬように、シェプリーは自我を保つのが精一杯で、それらの一つ一つを気にとめる余裕もなかった。

 指輪に導かれるままに、シェプリーは自身の肉体はおろか、魂さえも存在しなかった遥か始源まで時代を一気に遡った。奔放に伸びる路の中から選ばれた、一つのルートを辿って。

 ――これは夢だ。

 目の前に広がる光景に、シェプリーはぼんやりと思った。

 自分は悪夢を見ているのだ。そうだ。そうに違いない。悪い夢に決まっている。悪夢でなければ、何故あんなものが視える?

 輝く闇の向う側に広がる世界。幾つも連なった平行線。錯綜する色――ねじ曲がった角度、その向うで、淀んだおりが光を放ちながら渦を巻いているのが見えた。

 人智を超えたものを神とするならば、確かにそれも神であったのだろう。あるいは、それこそが、神そのものだったのかもしれない。

 そう――そこに、神は在った。

 光と闇の混在する渦の中心、泡立つ総色が輝く最中さなか、天地開闢かいびゃくの根源として。


 泡立つ虹。薄い皮膜で隣り合う境界。生まれ、消え、世界が廻る。

 すべてのはじまりであり、根源である存在。多くの世界を内包する輝きは、生きていた。

 支離滅裂とも思える涌きたちの中にも、明確な法則があるのに気付き、シェプリーは息を飲んだ。

 至極単純ではあったけれども、大きな流れが小さな流れの集合であるように、それらは相似の形を有していた。極小が集まり、極大を形成する。極大が分裂し、極小へと戻る。時という流れに沿って、それらは成長と衰退を続けていた。その痕跡が描く線もまた、生い茂る樹木の枝葉のような、一定の秩序を備えていた。

 過去は過ぎ去るが決して消えはしない。彼方へ流れつつも蓄積し、未来に繋がる領域を現在と共に共有する。

 無は有へ。有は無へ。渦を巻く輪廻の世界。幾多の平行線、境界線の向こうで決して交わることのない世界の扉は、閉じていると同時にまた、幾多の方向に向けて開いてもいた。

 究極に閉じた世界と、究極に開けた世界。それらは今、この指輪によって拓かれた空間で、己に蓄積された情報を惜しげもなくシェプリーに見せていた。

 物質とエネルギーが存在する空間は、時間と空間の双方を包括する。内なる世界は外なる世界と互いに共鳴し、対極に於いても相似の均衡を崩すことはなく、複雑に絡み合う因果の糸はその実極めて単純で明確な法則の中で展開し、あらゆる可能性を超えて顕在する。そして事象は加速し、果てのない世界で延々と廻る。幾つもの条件が揃うことを予見した、何者かの敷くレールに沿って。

 膨大な領域を有する無限にも近い情報。それらは、夢を通してシェプリーが知ることのできる範囲を、遥かに超えていた。

 激流の中、意識は徐々に限界に近付いてゆく。

 消耗しきった身体と精神とを、甘い痺れが支配しはじめる。

 目紛しく変わるビジョンを受け止めるだけで精一杯だったシェプリーだったが、それらの見せる光景が、再び自身に繋がるルートを再度辿っているということ

に気付いた。


 荒れ果てた草原。

 風にのって運ばれる太鼓の音。

 炎を取り囲んで踊り狂う幾つもの影。

 かん高い耳障りな笛の音が、太鼓のリズムの合間から止む事なく奏でられている。

 黒衣を纏った13人の人影は、どれもが口元まで隠れるほどの大きなフードを被っていた。

 そのうちの一人が、おもむろに動きを止め、フードをとった。

 白い貌を縁取る金の髪が風に曝され、散々に乱れる。その奥に見える、双眸の輝きは。


 淡い燐光を帯びた碧眼が虚空を映し、広大無辺な宇宙から幾多の思念が押し寄せる。

 凄まじい感覚が脳で弾け、渦の中心、図り知れない深淵の最中へと、膨大な情報の波に飲まれた意識がいしきがイシキガ――――――


「シェプリー!!」

 シェプリーの口から声にならない叫びがあがるのと、虹色の光が荒れ狂う室内へとルイスが飛び込んだのは、ほぼ同時だった。

 いかなる手段で留め置かれたものか、宙に浮く輝く水晶からは、虹の輝きがとめどもなく溢れていた。

 その下で横たわるシェプリーは、成す術もなく全身でこの異次元からの光を受け止めている。

 ルイスはこの異様な光景に目を奪われ、一瞬、立ち竦んでしまった。降り注ぐものがただの光ではないことを、視覚だけでなく肌でも感じ取ったからだ。

 シェプリーの意識はすでに、この光に囚われていた。何の戒めもないはずの台上で、見えぬ拘束に四肢を拘束され、悲鳴をあげ続ける。

 身体も意識も、降り注ぐ色に染まる。その最中、いまだ宙空にて活発な輝きを放つ光源から、小さな銀の固まりが生まれ落ちようとしていた。

 無意識に軌跡を追うルイスの視線は、しかし、最後までその行き先を見届けることはできなかった。

 背後に潜んでいたディシールが金切り声をあげ、闖入者に向かって鉈を振り下ろす。ルイスは咄嗟に構えた散弾銃で、これを受け止めた。銃身と鋼の刃とが激しくぶつかり、火花を散らす。

「エリック!」

 間近に見る顔は、別人の形相だった。虹色の輝きを受け、瞳はギラギラと光る。

彼はその外見には似つかわしくない恐ろしいほどの力で、徐々にルイスを押しはじめた。拮抗は見る間に崩れ、銃身に深く食込んだ刃が、嫌な音を立てて軋む。

 形勢が不利だと判断するや否や、ルイスは膝で相手の腹を蹴り上げた。怯んだところを更に、銃の台尻でもって殴り倒す。

 鈍い音と共に仰け反ったディシールは鉈を放り出し、両手で顔面を押えながらよろよろと退いた。ルイスはその腕を掴んで引き戻すと、固めた拳を容赦なく相手の顎へと打ち込んだ。ディシールが身体を支える力を失い、膝をつこうとしても、襟首を掴んで無理矢理立たせ、殴り続ける。

 ほどなくして、弱々しい呻き声と共にディシールが地べたに倒れ附した。それを見届けることもせず、ルイスは部屋の中央へと向き直る。

 銀の雫は、まだそこにあった。輝く水晶と共にゆるゆると揺らぎ、重力に耐えている。

 何をどうすればいいのかは、この部屋に飛び込み、この光景を見た瞬間に理解していた。シェプリーが全身全霊で放つ悲鳴を聞き取っていたから。

 ルイスは、足下に落ちている鉈を拾おうと手を伸ばしたが、

「させぬ!」

 再び肉体の支配権を取り戻したディシールが、横から強烈なタックルを浴びせた。

 血の混じった泡を口角から飛び散らせながら、彼はルイスの上に馬乗りになり、その喉を締め上げる。

 誰もが誉めそやす整った顔は、今は見る影もなく、無残に傷ついていた。開いた傷口と鼻から滴り落ちる血が、ボタボタと音を立ててルイスの胸に染みをつくる。

 異様な輝きを増す金の瞳と、口から紡がれる呪詛にも似た言葉が、ルイスの意識をも支配しようとその魔手を伸ばす。

「エリック……!」

 ずきずきと疼くこめかみの血管。あれほどに眩かった景色が薄暗くなる。ルイスの歯を食いしばる顎の力が、ふと緩みそうになる。しかし、空気を求めて喘ぐために開かれた口から放たれたのは、惨めな命乞いの言葉でも、秘術師が望む断末魔の声などではなかった。

「いい加減に、しろよ、この――」

 地面に積もった埃と、細かな石が混じった砂を掴み、

「大バカ野郎!!」

 怒号と共に邪眼へと叩き付ければ、脅威は悲鳴をあげて跳び退る。すかさず、ルイスはガラ空きとなった胸へと蹴りをお見舞いした。勢い良くはね飛ばされた秘術師の身体は、固い石壁に叩き付けられた。

 ルイスは跳ね起き、今度こそ鉈を手にした。狙いを定め、力一杯薙ぎ払う。

「やめろ!」

 ディシールがあげる制止の声。

 渾身の力を込めたルイスの一撃が水晶を砕く直前、銀の固まりが虹色の軌跡を引いてシェプリーの胸の上に落ちた。


 粉々に砕け散る破片。刹那、光の嵐が吹き荒れた。

 無音であるはずの中で、それぞれの耳は、聾するほどの衝撃を捉える。

 堪え難い感覚に貫かれ、悲鳴があがるが、もはや誰の口からのものかわからない。

乱舞し、錯綜する情報と。

 ――そして、唐突に訪れる静寂。



 何かの破片が渇いた音を立てて地面に落ちた。

 その音に、一番最初に我にかえったのはルイスだった。

 冷たい地面の上に座り込んだまま、何があったのかを思い出す。

 まだ瞼の奥に光の軌跡が残っていた。ルイスはかぶりを振り、何度も目を瞬かせながら、闇に閉ざされた周囲を見回した。

 今や、この部屋にある灯は、足下に転がっている懐中電灯の光だけだった。その光が、部屋の隅で蠢くものを捉える。

「あ痛……、痛たた……」

 声の主は痛みに呻きながら体を起こし、灯の中に身を曝した。

「酷いなぁ、もう。折角のいい男が台なしじゃないか」

 彼はそう嘆きつつ、すっかり汚れてしまったシャツの袖で、何度も鼻血を拭う。

 瞳が本来の色に戻ったのを確認するまでもない。ルイスはエルリックに向かって吐き捨てた。

「知るかよ。自分で蒔いた種だろう」

 そうして、急いで立ち上がり、台座の側に駆け寄る。台座の上からだらりと垂れ下がる腕に気付いたからだ。

「シェプリー?」

 既視感に目眩をおぼえつつ、ルイスは恐る恐る名を呼んだ。

 頼りない灯の中でも、げっそりと憔悴しきった顔には苦悶の跡が残されているのがわかった。そして、その手には。

 後ろから心配そうに覗き込むエルリックも、ルイスと共に固唾を飲む。

 シェプリーの左手は、胸の上で固く握りしめられていた。ルイスがシェプリーを抱えて台座から下しても尚、拳は決して弛まなかった。

「……生きてる?」

「ああ。どうやら、そのようだが……」

 ルイスが言い終えぬうちに、シェプリーが身じろぎをする。

 ゆっくりと開く瞼。息を詰めて見守る二人は、そこに見えたものに背筋を凍り付かせた。

 底のない淡い碧――限りなく透明な水面はあまりにも深く、見えぬ底を覗き込むようなシルエットが、僅かな灯の下に照らされているだけ。

 だが、それもほんの一瞬のことだった。硝子玉のような冷たさは消え、変わりに生気が蘇る。焦点の合わなかった目が像を認めた途端、シェプリーは跳ね起きた。

「うわ、びっくりした! 何?」

「シェプリー!?」

 驚くエルリックとルイスの問いかけにも答えず、シェプリー左手を開き、それを凝視する。

 食込む爪跡が残る掌の上、時空を飛び越えて出現した指輪は、闇の中にあっても記憶の中にある姿と寸分違わぬ輝きを放っていた。


 その時、何かの破片がまた音をたて、三人は揃って身を竦めた。

 彼らは互いに顔を見合わせ、次いで、音のした方向へと目を向けた。

 そこにあるのは、浴槽ほどもある大きな水槽だった。薄汚れた硝子には大きなひびが入り、中で蠢く何かの影が見える。

 ルイスはシェプリーをエルリックに任せ、慎重に水槽へと近寄った。

 つい先程まで黒い溶液で満たされていたはずの中には、何もなかった。微かなぬめりと淀んだ腐臭が残りはするものの、ただ一つのものを除いて、すべて消えてしまっていた。

 震える両手をそっと差し入れ、ルイスはを抱え上げた。

「そんな――」エルリックが痛みも忘れて叫んだ。「そんなことって――!」

 深い闇に閉ざされていたこの地下で、長い眠りの果てに生まれ落ちたもの。

 それは、生まれたての人の嬰児の姿に限りなく近く、そして同時に、決して人ではあり得ぬ生物だった。

「ホムンクルス――!」

 まだ残る衝撃の余韻に眩みながら、シェプリーが掠れた声で呟く。

 魔法と疑似科学で製造された人造生命体。稀代の錬金術師パラケルススが記した秘術の一つ。

 物憂げな眠りから醒めたそれは、驚愕の眼差しで己を見つめる者達に向かって、その金の瞳で無邪気な笑みを返してみせた。



 初夏の爽やかな風が、喧噪に埋もれるロンドンの目抜き通りを駆け抜ける。

 それを窓越しに眺めていたルイスは、外の爽快さとは程遠い空気につつまれた室内へと視線を戻し、もはや何度めかも数える気にもならない大きな溜息をついた。

 ウィディコムという僻地で信じ難い体験をした日から、既に一週間が経過していた。

 その間というもの、シェプリーとルイス、そしてエルリックは、疼く傷と夢にあらわれる地下室での記憶に悩まされつつも、諸々の処理を済ませるために、ロンドンの一画、〈心霊事象調査事務所〉と看板を掲げるこの小さな建物の内で、毎日互いの顔を突き合わせていた。

「彼女、来週末の便で、南仏へ旅つ予定だって。親戚が居るそうだよ」

 つい先程届いたばかりの手紙に目を通したエルリックが、ぎこちない笑みを浮かべた。顔に幾つも貼られている大きな絆創膏のせいで、うまく表情がつくれないでいるのだ。いまだに痣も残っており、痛々しい印象ではあったが、しかし見た目ほど酷い状態ではないらしく、本人は全く気にする素振りを見せなかった。

 彼が今読み終えた手紙は、エリノア・リトルウェイからのものだった。中身は、感謝の言葉と近況とをしたためた便箋と、謝礼にはいささか多すぎる金額が記された小切手である。

「そうか。そりゃよかった」

 ルイスはそう答えながらも、多くの友人を永遠に失ったことを知り、心痛のあまり神経症を患ってしまったコニーを思い、表情を曇らせた。

 ずっと眠ったままだったコニーの意識が戻ったことを知らされたのは、彼らが疲労困憊の身体を引きずって宿へと戻った時のことだった。おそらく、ルイスが輝く水晶を破壊したからだろう。水晶の檻に囚われていた魂が開放され、肉体の元に戻ったのだ。同様に囚われていたエルリックは、

「実に貴重な体験だったよ」

 と言ったが、そうは言いつつも、できることなら二度と体験したくなさそうな表情をしていた。

 幸か不幸か、コニーの記憶は、彼女の失踪した時点でぷっつりと途切れていた。しかしそれは、彼女自身だけでなく、周囲にとっても善いことであったといえよう。

 よしんば覚えていたとしても、誰かに話たところで真に受けてもらえる内容ではなく、また耳を傾けてくれる者がいたとしても、それは監視付きの郊外の精神病院に収容されるであろうことを容易に想像させるからである。

 行方不明となった学生、そのたった一人の生還というニュースに飛びつきそうな記者も居るには居たが、エリノアはもとより、事件に関わったシェプリー、ルイス、エルリックの誰一人として、あの屋敷内で起こった出来事を一切話すつもりはなかった。

 故に、口さがない隣人と煩わしいマスコミから逃れる為にリトルウェイ親子が選んだ南仏行きは、一番の良策だといえた。

 ルイスもシェプリーもエルリックも皆、プロヴァンスの温暖な気候とのどかな景色が、少しでも母娘の心の慰めになるようにと願わずにはいられなかった。

「それはそうとして」

 先程から堂々回りを続けている議論に戻すべく、ルイスが口を開く。

 が、やはり続く言葉は、他の二人の口からも一向に出る気配はなかった。

 宿に戻った後、そこで何があったのかを聞きたがっているハミルトン夫妻を躱すのは至難の技であったが、それでも三人はどうにかこの話題から興味を逸らし、また同時に彼らが持ち帰ったものについて一切の詮索を許さなかった。

 悲しみに濡れていた瞳を感激に潤ませながら興奮するエリノアと、自分の置かれている状況が理解できずに呆然とするコニーの世話にハミルトン夫妻が右往左往している間に、三人は自分達の上着で慎重に包んだそれを、あてがわれた部屋へと持ち込み、扉に鍵をかけた。

 そのまま朝まで、彼らは一つの部屋で、床の上で折り重なるようにして眠った。疲労に押しつぶされ、夢も見ない泥のような眠りを貪った。

 そうして翌朝、ルイスとシェプリーは、まだ日も昇らぬうちに宿を引き払った。エルリックもジョ-ジに街の医者の所まで送ってもらった後で、二人を後を追うようにロンドンへと戻った。

 その後の村の様子と屋敷についてどうなったかは、推して知るべしといった具合だ。

 ルイスが親友であるグレン・チェスター警部にそれとなく聞いた内容は、次の通りである。

 シェプリー達がウィディコムを離れた翌日、彼は匿名による通報をもとに、現地へ乗り込んだ。地元の警察隊を率い屋敷の捜索をし、その際に、彼らは地下室の更に奥にある隠し部屋を見付けたのだった。そして実験室の片隅にあるゴミ捨て場から、不明だった学生のものと思われる衣服の一部を発見した。

 警察の公式見解は、マーシュが犯人であるとほぼ断定していた。主人の遺した数々の魔術書にかぶれ、同じく遺品である実験道具を使い、学生たちを殺害したのだと。

 地元の住人も、概ねその見解に同意していた。

 ただ一人、宿の主人であるジョージだけが、それは絶対に違う、何かの間違いだと言い張っていたようだったが、地方紙の記事に小さく取り上げられただけで、それっきり何の音沙汰もなかった。

 グレンは、屋敷の現在の持ち主であるはずのマーシュが行方不明となっていること、非常線を張って彼の行方を探していることなどを、ルイスに事細かに説明したが、ルイスもシェプリーも、暗澹たる思いに囚われざるを得なかった。

 しかし、屍体に魔法使いが取り憑いて殺人を犯していたなどと、一体どこの誰が信じてくれるというのだろう。

 水晶と水槽が置かれていた部屋にあった、瓶詰めの小人たちは、警察に知られることはなかった。三人が地上に戻る前に、実験室に残る酸を使ってすべて処分をしていたからである。――ただ一つの存在を除いては。

「それで?」

 ルイスが再度口を開き、決断を促す。

「結局どうするんだ?」

「どうするって聞かれても……」

 シェプリーもまた、困惑の視線をルイスに返すしかない。

 ソファーの上で安らかな寝息をたてているのは、産着代わりのバスタオルに包まれた幼子だった。

 地下室で三人が処分を躊躇った唯一の存在は、マーシュやエルリックに憑りついていたときの禍々しさが嘘だったかような愛らしい寝顔を惜しげもなく曝していた。

 屍体ならいざしらず、明らかに生きているものを強酸の中へ沈めるという決断を、彼らはどうしても下すことが出来なかった。とはいえ、あのまま放置するわけにもいかず、仕方なくこうして連れ帰ったのだったが。

「やっぱり、育てるしかないんじゃない?」

 遠慮がちに言い出したのはエルリックだった。

「誰が」

 ルイスは不機嫌そうに、エルリックを横目で睨んだ。

「誰って、決まってるじゃないか。僕達でさ」

 予想していたとうりの最悪な返答に、ルイスは勘弁してくれと言わんばかりに天井を振仰いだ。

 この一週間、やったこともない赤ん坊の世話に大わらわだったのだ。これ以上そんな生活を続ける忍耐は、今の彼にはなかった。

「だって、事情を知ってるのは僕達だけだし、それに……」

 困惑したエルリックは、視線でシェプリーに助けを求める。が、シェプリーもどう答えればいいのかわからない。

 実際、一時期ではあったが、三人はこの子を孤児院へ預けることも考えた。出生についての記録なら、幾らでも誤摩化しが効く。だが、それだけでは済まされない問題が立ちはだかっていたのだ。

 白い肌、柔らかな産毛。血の通う肉体は暖かく、紛れもなく人としての生がそこにあることを示している。けれど、厳密にいえば、やはりこの子は決して人間とはいえない存在であった。

 発見した当時は生まれたての嬰児にも似ていたのだが、それからわずか数日で驚くべき変容をはじめ、たった一週間で生後1年程度の大きさにまで成長した。

 姿形こそ人の子と見分けがつかないのだが、この子は明らかに普通の人間とは違う特異な外見を持っており、それが三人をこうまで悩ませる要因となっていた。

「ホムンクルスかぁ……」

 マシュマロを連想させるふくよかな頬をエルリックが指で触れれば、幼子は血管の薄く透ける瞼をあげ、自分を覗き込む大人達に無邪気な笑みを返す。

 天使のような愛らしい笑顔とは、まさにこのことを言うのだろう。しかしそこにあるのは、闇夜にあってもおのずから燗々と輝くような黄金色の瞳と、細長く閉まった縦長の虹彩だった。

 しかも、驚異はそれだけにとどまらない。この幼子は、性別を示すものを一切備えていなかったのだ。そんな特異な存在を、おいそれと外部の人間の手に渡すわけにはいかない。

 創造の神というものが本当に存在するのならば、おそらくこれは、彼による最高で最低な冗談に違いない――この場に居る誰もがそう思わざるを得なかった。

「名前、どうしようね」

 いつの間にかすっかり育てる気になっているエルリックに、ルイスは呆れ返り、これ以上付き合っていられないとばかりに事務所から出て行った。

「待ちなよ、僕にいい考えがあるんだ。ねぇ、ルイス。聞いてる?」

 エルリックが慌てて後を追い、事務所にはシェプリーと、名も無き幼子が残される。

「ディシール……」

 シェプリーは金の瞳をもつこの幼子に、かつてそう呼ばれていた秘術師の名で呼び掛けた。

「君は、どこまで知っていたんだ? 君のマスターは、こうなることを予測していたのか?」

 この子が学生達を殺害し、自分達をも襲った人物と同じ存在であるという確信は持てなかったが、それでも問いかけずにはいられなかった。けれど、答える術を知らぬ幼子は、ただ不思議そうにシェプリーを見詰め返すだけだ。

 失望したシェプリーはシャツの襟に指を差し込み、そこから、鎖を通して首から下げていた指輪を取り出した。

 ルイスもエルリックも気を使っているのか、この指輪の存在と、地下室でシェプリーが体験したことについて、一言も触れようとしなかった。シェプリーの方も、どう説明すればよいのか皆目見当も付かず、結果、自分が視たものについて、一言も話せずにいた。

 書庫で見付けた魔法書については、いつの間にくすねたのか、エルリックがちゃっかりと持ち帰っていた。何冊かは自分のものとしたようだったが、ただ一冊だけは「これは君が持っているべきだ」と、シェプリーへと手渡した。

 数々の〈印〉を記した羊皮紙を束ねたもの――それは今、シェプリーの背後にある机の、鍵のかかる引出しの中に収まっている。けれど、彼はまだそれに目を通す決心がつかなかった。

(……フォスター先生)

 秘術師が〈契約の指輪〉と呼んだこの指輪を自分へと託した彼は、一体どこまで知っていたのだろうか。

 ディシールがマスターと呼んだ存在は、何者なのだろうか。

 シェプリーは掌の中の指輪をじっと見つめるが、奇妙な紋様の刻まれるそれに答えが記してあるはずもない。

 そして、そんな己の姿を、すぐ側で金の瞳が同じように凝視していることに、シェプリーは言い様のない不安を憶えるのだった。



第一章:錬金術師の夢〈終〉

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