第二章:魔女の記憶

01:預言者


Pie Jesu, Domine, Dona eis requiem, Dona eis requiem sempiternam.


――慈悲深きイエスよ、彼らに安息を与えたまえ、彼らに永久に続く安息を与えたまえ。




「少尉。マクファーレン少尉」

 ジョシュアは名を呼ばれたことに気付き、軽く身じろぎをした。

 遠く鳴り響く砲撃音に導かれ、意識は浅い眠りの世界から現実へと帰還する。

 横たわっていたのは、堅い板の上に布を敷いただけの寝台だった。お世辞にも上等とは言い難いが、しかし、これでも土嚢どのうの上で毛布を被るだけの下士官たちに比べれば、かなりましな方だった。

「お休みのところを申し訳ありません、少尉」

 再び、名を呼ばれた。

 軍帽をずらし、防水シートをかけただけの簡素な扉へと目をやれば、そこには先日補充されたばかりの新兵が怯えた様子で覗かせていた。

「何だ」

 身を起こすことなくジョシュアが問うと、彼は叱られたわけではないのに首を竦めた。

 青白い顔にそばかすの残る頬。数カ月前に兵士となったばかりの少年は、慣れぬ生活の中で上官に怒鳴られてばかりの毎日を過ごすうち、すっかり畏縮しきっていた。

「申し訳ありません。あの……少尉のお話を伺いたいと言う人が来て……」

「話?」

「〈天使〉の話だよ、マクファーレン少尉どの」

 おどおどとした少年兵の後ろから、聞き慣れない野太い声がする。声の主は驚いている少年を押し退けてシートを捲りあげ、作戦室とは名ばかりの掘建て小屋へと入り込んだ。

 ジョシュアは軍帽を取り、身を起こした。

「これはこれは」

 薄暗い室内、あらわになる白いかおに、闖入者である男は口笛を吹いた。

「薄汚いドブ鼠の巣でこれほどの別嬪さんにお目にかかれるとはね。砲弾の下を、必死に這いずって来た甲斐があったってもんだ」

 男の軽口に不愉快そうな表情を浮かべるでもなく、ジョシュアは軍帽を深く被り直した。そして、まだ入口で所在なげに突っ立ったままでいる少年を叱責する。

「何をしている。持ち場に戻れ」

「は、はい!」

 少年は慌ててその場から走り去った。戻ったら戻ったで、伍長あたりにまた殴られるのであろうが、それについてはジョシュアが口を出すことではない。

 ジョシュアは目の前に立つ男をまじまじと眺めた。

 日に焼けた肌に無精髭。いかつい顔に刻まれた幾つもの皺。垢じみたコート。膨らんだ胸ポケットからは、使い込まれたペンが頭を覗かせている。

「記者か」

「ま、そんなところだ」苦笑をうかべ、男は頭をかいた。「俺はラルフ・ボーマン。暫くあんたの部隊に世話になる」

「挨拶なら私ではなく、ライト中尉にしたまえ」

「おぅ、俺もそれが筋だと思ってたんだけどよ」

 差し出した手に目もくれようとしないいジョシュアに、ラルフと名乗った男はおどけたような表情で首をすくめてみせた。

「生憎と、中尉どのはお取り込み中だそうで」

 この小隊の責任者であるはずの男の顔を思い浮かべ、ジョシュアは小さく舌打ちした。

 リチャード・ライト――イギリス遠征軍第一軍団に所属する将校であり、階級は中尉。陸軍省に勤める父親と、体裁と面目とを何よりも大切にする上流階級出身の母親に推されてフランスへの派兵となったものの、その臆病さと無能っぷりは士官学校時代から有名だった。

 彼はこの最前線で元から細かった神経を更にすり減らし、今ではアルコールの力を借りねば平静を保てないほどにまでなっていた。今も、壕の各所に作られたあなぐらに隠れ、恐怖を忘れるために酒神パンへの祈りを捧げているのだろう。

 もっとも、前線を守る部隊としての機能に支障はなかった。伝令が運ぶ本部からの指令書はジョシュアが処理をする立場にあり、リチャードはただその内容を聞いて承認するだけで済んでいたし、そもそも作戦の決定権を掌握しているのは、遥か後方に陣を構える本部部隊の司令官だった。

「それで?」

 ジョシュアに促されたのだと気付くまでに、ラルフは暫く時間がかかった。軍帽の下から垣間見える双眸そうぼうに、知らず見れていたらしい。

 動揺を悟られぬよう、ラルフは上着の内ポケットから煙草を取り出した。

 土と埃とで薄汚れたカーキ色の軍服。闇のように黒い髪。何もかもが暗く沈む室内にあっても、わずかな光を捉え輝く氷色。それは例えるなら、凍てつく冬の夜空で輝く星々のような力強さであり、獲物を狙う猛禽のような猛々しさでもあった。

 ひと回りも歳の離れた若造に何を気圧されているのやら――ラルフは自分のペースを取り戻すべく、わざとたっぷり時間をかけて煙草に火をつけた。

「さっきも言っただろ。〈天使〉の話さ」

「それならわざわざこんな所まで来なくとも、好きなだけ聞けるだろう」

 物好きめ、とジョシュアが口中で呟き、目を細める。

 ラルフは鼻先にわだかまる煙を、自分へ向けられる侮蔑の視線と共に払い除けながら、黄色い歯を見せて笑い返した。

「ありゃぁ駄目だ。連中、自分の目で見ていないことを頭から信じ込んじまってる。俺が聞きたいのは、2年前のモンスで、ドイツ兵と真正面から撃ち合って生き残ったあんたが、その目で見た事実の方だ」

 そう言って、ラルフは部屋の隅にあった椅子を手許に引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。

 ラルフがジョシュアの噂をきいたのは半年前だった。従軍記者として海を渡ったものの、書いた記事のほとんどを軍によって検閲される日々にいい加減うんざりしはじめた頃、〈天使に護られた兵〉の噂を小耳に挟んだのだ。

 モンスの丘にあらわれた天使の話はラルフも知っていた。同時に、それがただの作り話にすぎないこともよくわかっていた。しかし、この異国の地で耳にした噂は、そういった類いの風説などではなく、実際にあの激戦を体験して生き残った者達が声をひそめて囁きあうものだった。

 以来、ラルフは前線での記事を書くのをやめた。必死の思いで契約をとった新聞社にも未練はなかった。彼らが求めるのは、雨のように降り注ぐ砲弾や毒ガスによって倒れゆく新兵の亡骸なきがらが累々と横たわる光景ではなく、憎き敵を倒して華々しい活躍をする若き兵士たちの姿であり、その程度の内容なら、銃弾も砲弾も飛んで来ない綺麗なオフィスでも書けることだった。

 思い立つや否や、ラルフはすぐに行動を起こした。あらゆる手をつくして兵士たちの元を訊ね歩き、そしてようやく探し当てたのが、目の前にいるジョシュア・マクファーレンという若い将校だった。

 後方の本部から行軍する補給部隊に混じっている間も、ラルフはジョシュアの噂をよく耳にした。彼の鋼のような精神と、そしてずば抜けた幸運ぶりとを。

 不思議なことに、ジョシュアは常に最前線で戦うことを志願してきたという。そして配属された場所は、念願叶ってどれもが激戦地だった。

 前線に出る以上、敵の銃撃に曝されるのは当然のことだ。突撃兵の多くは敵陣に辿り着く前に、敵兵の斉射によってなぎ倒される。それは下士官であろうと将校であろうと同じであり、むしろ将校の方が狙われる確率の方が高かった。彼と共に戦った者のほとんどがその運命に殉じてきたというのに、けれどもジョシュア・マクファーレンは決して戦線から脱落することはなかった――どの戦場でも、どんな状況下においても。

 そんな彼のぶりが真に発揮されたのが、モンスにおけるドイツ軍との交戦だった。

 運河沿いに作られた即席の防衛陣地目掛け、兵力にものを言わせたドイツ軍が突撃と砲撃とを繰り返す一方、ジョシュアが所属していたイギリス第二軍団は後方からの支援が間に合わず、大挙して押し寄せる敵をライフルだけで迎撃せざるを得なかった。

 早朝から日没まで戦闘は続いた。夥しい数の死体が炭坑のボタ山のごとく周囲に積み上げられてゆく中でも、ジョシュアの幸運は続いていた。手榴弾や砲弾が足許に落ちたこともあるが、一度はたまたま近くにいた別の兵が代わりの犠牲となり、一度は不発弾だった。

 起こり難いことが一度でも起これば、それは単なる奇蹟にすぎない。が、二度三度と重なれば、そうではなくなる。

 その後もジョシュアは部隊が再編成されるたびに前線に留まり、その度に幸運の伝説を確かなものにしていった。そしてそれは、まだ現在も続いており、彼が第二軍団から最前線の第一軍団へと引き抜かれたのも、そういった数々のの結果だろう。

 そうして生き延びる度、いつしか兵の間では、ある噂が広まっていった。マクファーレンは、何か強力な存在に守護されているに違いない。だから大した負傷もせず、今日までを生き残ってこれたのだろう――と。

 実際、土嚢に据えた銃座に着いていたとき、隣に並ぶ兵が敵からの狙撃で頭を吹き飛ばされてもジョシュアは怯まなかった。

 仲間の屍体に狼狽うろたわめく新兵たちとは対照的に、ジョシュアの飛び散った血と脳漿のうしょう全身に被りながらも、顔色ひとつ変えることなく応射し続けた。その姿は、まるで自分は決して死なないのを知っているかのように見えたという。

 そんな話を散々聞かされてきたため、ラルフはジョシュアのことをさぞかしすごい人物なのだろう思い込んでいた。しかし、こうして実際に対面したのは、彼が想像していたような百戦錬磨の屈強な男ではなく、ともすれば女と見まごうばかりの容貌をした、若く美しい青年だった。

 とはいえ、その整った容姿にはそぐわぬ鋭い眼光は、見かけどうりの人間ではないということを充分に物語っていたのだが。

(まいったな、こりゃあ)

 ラルフは内心で舌を巻き、苦笑する。

 少なくとも今迄にラルフが見てきた〈温室育ち〉とは違う雰囲気を、この若い将校は纏っていた。それは、長い前線暮らしというある種の極限状態で得た経験と緊張感のせいでもあるだろう。あるいは、噂通りに自身を加護する奇蹟を知っているが故のものなのか。

 人よりも若干高い位置にある目尻と、同じく眉間から力強く描かれたような眉のせいで、ジョシュアの鉱石めいた輝きをもつ瞳は、一層その硬度を増しているように思えた。その色が、初めて対面した瞬間からラルフの意識を掴んで離さない。

 それは、最初にこの作戦司令室に踏み込んだときからそうだった。ラルフには汗と土埃で汚れた制服も、泥だらけの軍靴も見えていなかった。そこにあるのは、すべてを見透かすかのような瞳の輝きだけだった。

 この短い対話の間中、ラルフはひどく落ち着かなかった。ジョシュアの視線という圧力から逃れるために目を逸らしても、いつの間にか引き戻されてしまっていた。そしてまた視線に射抜かれ、狼狽えるというのを、すでに何度も繰り返している。

(何をやっているんだ、俺は)

 焦りが表情に出ないように勤めるが、それももはや限界に達しようとしていた。額に滲む汗が滴となる。そのとき、不意にジョシュアの視線が対象物から――ラルフの顔から――逸れた。

「知ってどうする」

 ジョシュアの視線は、足許に転がる小石と踏みつぶされた吸い殻とに向けられていた。

「別に」

 ラルフは内心ほっとしながらも、平素を装った。

「知りたかったからあんたに会いに来た。それじゃ不服かい、少尉殿」

 極度の緊張と恐怖とを前に精神を病む者が多いこの前線で、何故彼はこうも平然としていられるのだろう? 何故彼だけが常に生き残ってこれたのだろう?

 記事になるかどうかはもはや関係なかった。ただ純粋に、ラルフの内で疼くものが、どうにかして目の前で堅く引き結ばれる口元を開かせ、彼の渾名あだなの由来を聞き出したくて仕方がなかった。

 一方、ジョシュアは暫くの間、何も答えなかった。最初に見たときと変わらぬ表情で、沈黙を続けていた。だが、その沈黙の中にも何らかの感情が揺らいでいるのをラルフは敏感に察知していた。

 やがて、「いいだろう」とジョシュアは呟き、顔を上げた。

「その野次馬根性に敬意を表して、特別に話してやる」そして、口端を吊り上げ、付け加える。「ただし、後悔しても知らんぞ」

「へっ。後悔なんざ、こっちに来てから毎日してらぁ」

 ラルフが嬉々としてポケットから手帳とペンを取り出そうとした、その時だった。

 甲高い笛のような音がしたかと思うと、至近距離で耳をづんざく爆音と衝撃が響いた。敵の撃ち込んだ砲弾が、この指令室のすぐ近くに着弾したらしい。

 ぎょっとして腰を浮かしたラルフは、自分が最前線に居るというのをすっかり忘れていたのに気付き、冷や汗を浮かべた。ひっきりなしに鳴り響く砲撃音に、いつの間にか耳が慣れてしまっていたらしい。

 わずか数百ヤード先にはドイツ兵が潜んでいる。パラパラと降り注ぐ土塊と共にその事実を改めて突きつけられ、ラルフの顔が強張った。

 しかし。

「あのとき私が見たのは、天使などではない」

 囁くような声が耳朶を打ち、ラルフははっとした。

「もっとも、あれを天からの報せとするなら、あながち間違いではないとも言えるだろうな」

 外の喧噪とはまるで正反対な声色を振り返ってみれば、そこには先と全く変わらぬ様子のジョシュアがいた。

「あのときだけじゃない――私には、いつも〈それ〉が見えていた」

 もう一発。小屋の外では、負傷者の呻き声や悲鳴、上官らしき男の怒号と、慌ただしく駆けまわる兵士たちが走り回っていた。そんな中にあっても、ジョシュアは少しも浮き足立つことはなかった。

「〈それ〉が何なのかを知ったのは、まだ幼い頃だ。庭に植えてあった大きな樹のまわりに、〈それ〉はいた。私が生まれる前の年に落雷にい、枯れてしまっていたけれど、祖父が家の守神だと言って自慢にしていた立派な樹だった」

 唐突にはじまった述懐に、ラルフは急いで手帳とペンを取り出し、戸惑いつつも書き留める。そうしながらも、彼はジョシュアがこれから打ち明けようとするのが、とんでもない内容であることを察知し、鳥肌をたてた。

 外の喧噪はもう気にならなかった。ラルフの耳は、囁き声が紡ぐ言葉を一言も聞き漏らすまいと集中した。

「長雨が止んだ次の日の午後、その樹は突然倒れた。風雨に曝されるうちに、幹の中が腐りきってしまったんだろうな。たまたま近くにいた祖父は、下敷きになって死んだよ。私は自分の部屋にいて、窓から一部始終を見ていた」

 視線が遠くなったのは、記憶を辿っているからだろう。それでも、軍帽の廂の下の眼光が衰えることはない。

「次に〈それ〉をみたのは、父が死んだ日の朝だった。自動車で出かけて、崖から車ごと落ちたんだ。出かける前に『お前も来い』と誘われたけれど、私は家に残ったよ。〈それ〉が見えていたからね」

 文字を綴るラルフの手が止まる。けれど、ジョシュアの言葉は止まらなかった。

「よく覚えている。買ったばかりの車だった。銀色に輝くエンブレムと、綺麗に磨き上げられたガラス……そうだ、確か乗る前に、写真を撮っていたな。父は誇らしげにポーズをとっていた。制服を窮屈そうに着る運転手もいた。頭上で〈それ〉が飛び回り続けているというのに、二人とも全く気付いていなかった。その後も時々、私は〈それ〉の姿をみかけたよ。母を名乗る女が病院で息を引き取ったときも、同級生が学校の敷地内にある池で溺れ死んだときも」

 堰をきったかのようにとめどもなく語られるジョシュアの記憶。爆撃の際にも落ちなかった煙草が、ラルフの口からこぼれ落ちた。けれど、それを惜しいと思う余裕は今のラルフにはなかった。

「そ、〈それ〉ってのは、何なんだ」

 ラルフはどもった。口の中がカラカラに渇いていた。

「天使じゃないって言うのなら、あんたが見たっていう、その正体は、一体」

「わからない。だが、〈それ〉はどこにでもいる。モンスの丘でドイツ兵と鉢合せしたときも、〈それ〉は我々の部隊と、敵陣営との間を飛び回っていた――そうだ、今だって」

 言いしな、ジョシュアは手を伸ばし、入口を覆うシートを捲りあげた。

「こうして窖に隠れている我々の上にも、ドイツ人の上にも」

 ラルフの心臓に、氷の手で鷲掴まれたかのような衝撃が走る。

 シートの隙間から見えるのは、穏やかに晴れる夏空だけだった。戦場とは思えぬほどに澄み切った青――けれど、ジョシュアの目は確かに追っていた。ラルフには見えない何かの動きを。

 一瞬、精神的に追い詰められたものが見るという幻覚ではないかとも疑ったが、そうではないことをラルフは肌で感じ取っていた。

 ジョシュアには、〈視〉えているのだ。人間達が地上で殺し合いを続けている様を、上空から窺っている存在が。

 再び言葉を紡ぐべく、薄い唇が開かれる。

「奴らは待っているんだ。その瞬間が来るのを。ああして飛び回って、獲物を探している。だけど、奴らは私には近付かない――いや、もしかしたら近付けないのかもしれないな。何故なのかは私にもわからないがね」

 落ち着いた声色とは裏腹に、その肩は小刻みに揺れていた。

 ――否、震えているのではない。笑っているのだ。

 その証拠に、ラルフの耳にはジョシュアのくすくすという忍び笑いが聞こえていた。

 それまでラルフがジョシュアに対して抱いていた畏敬の念は、今やすっかりなりを潜めていた。代わりに思い出されるのは、ジョシュアを天使に守護されたものと称える者が多い中で、ただひとりだけ違う渾名を口にした兵のことだ。

 ジョシュアと同じ部隊に所属し、至近距離で炸裂した手榴弾で片足と片腕、そして両目の視力とを失った兵士は、戦場から遠く離れたはずの病院にまで届く砲撃の音に怯えながら、ラルフに向かってこう言ったのではなかったか。ただ一言、〈預言者〉と。

 彼は、ジョシュアから聞いていたのだ。

 ジョシュアが決して斃れない理由を。

 そして、その代わりとして召し上げられる者達のことを。

「ああ、あんなに沢山……」

 どこか陶酔したような眼差しを空に向けながら、ジョシュアは呟いた。

「今度のパーティーは、随分と派手なものになりそうだ」

 皆まで聞かず、ラルフは小屋を飛び出していた。これから起こるであろうことへの恐怖に耐えかねて。


 ドイツ陣営への砲撃は尚も続いていた。つい今し方負傷者を出したばかりだというのに、狭い通路のそこかしこでは勝利を確信し緩みきった若い兵士がたむろしていた。

 そんな彼らを突き飛ばし、泥濘ぬかるみを覆うために渡された板の隙間に足をとられながら、ラルフは走った。迷路のように張り巡らされた塹壕の中では、どこにも逃げ場がないことを知りながら。



 ――1916年7月1日。フランスはソンム、ボーモンハーメルにて、英国陸軍は、後に「今世紀最大の愚行」と語り継がれる作戦を行った。

 突撃開始のホイッスルが鳴ってから、わずか二時間。

 二万もの兵がその命を散らせたが、ジョシュア・ヒュー・マクファーレンの名が墓碑に刻まれることはなかった。

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