02:余韻

 水面に落ちた滴が幾つもの円を描く。

 波紋は新たな波紋とぶつかり、幾重にも重なる細波となる。

 千々に乱れるその中に垣間見える、秩序ある動き。それは、目を開かずとも、思い描くだけで容易く変化する。

 無秩序にみえて、その実すべてが単一の波紋、波長に支配される世界。そして、その世界を制御しうる力をもつもの――〈契約の印〉。

 信じ難い体験の末に手に入れた小さな指輪。それは今、シェプリーが首から下げる細い鎖に通され、シャワーから降り注ぐ湯にさらされている。

 シェプリーはこれを手に入れて以来、こうして肌身離さず首から下げていた。師と同じように指に嵌めるにはどこか抵抗があったし、第一、自分にその資格があるとも思えなかったからだ。

 ぼんやりと考えながら、シェプリーはシャワーの栓に手を伸ばし、湯を止めた。

 雨のように絶え間なく降り注いでいた暖かな湯は止まり、うっすらとした湯気が名残り惜しげに肌にまとわりつく。水滴が鎖を伝うように、指輪もまた重力に従うように、シェプリーの魂をどこかへと導こうとする。

 指輪はほんの小さな物質にすぎないのに、まるで海中に沈むいかりのようだった。もちろん、実際に重さを感じているわけではないのだが、その重圧は、ひとたび気を抜いてしまえば、浴槽も浴室の床も通り抜けて、遥か下層の地獄にまで連れてゆかれそうなほどだった。――もっとも、今でさえ既に辺獄リンボへと放り込まれたかのような状況ではあったけれども。

 ならば、シェプリーの魂をしきりに導こうとするこの指輪は、地獄の門を開く鍵か。あるいは、行き先を示す詩人か。

(でも、僕はその〈言葉〉を知らない)

 シェプリー眉根をきつく寄せ、唇を噛む。

 エンジェルからは何も教わっていない。彼は慎重に言葉を選び、機会を避け、あらゆる状況において、常にこの指輪からシェプリーを遠ざけることに尽力していた。

 何故なのか――しかし、それを問おうにも、問うべき人物はもういない。

 シェプリーの胸に、じくじくとした鈍い痛みが蘇る。その波長に合わせて、指輪が再び何事かを囁く。甘い、あまりにも甘い誘惑の言葉を。

 シェプリーは力を込めて指輪を握りしめた。誘いに屈してしまわないように、何より、自分自身の魂を肉体の殻へとしっかりと落ち着けるために。

 指輪は、屋敷の地下室でシェプリーに見せたあの世界へと誘っていた。

 シェプリーはこれまでにも、夢を通して過去と未来を垣間見ることはあった。意識を集中すれば、漠然とした情報を読むこともできた――しかし、は違う。この指輪は違う。は違う。

(〈アカシックレコード〉……)

 あのビジョンを思い出しただけで、シェプリーの肌には粟が立つ。

 霊媒として今までに漠然と感じ認識していた世界ではなく、更に上の構造を目の当たりにしてしまった今、シェプリーは尚更自分にもたらされたこの力が純粋に恐ろしかった。

 おそらく、知ろうと思えばすべてを知ることも可能だろう。これから自分が成すべきことも、行き着く先も、何もかも。

 そこに理解は必要ない。肯定すれば良いだけだ。それがあるのだと、認識するだけで充分なのだ。

 しかし、万が一道を見失ったら?

 読み解く道順を誤ったら?

 それ以前に、受け止めることすら適わなかったら?

 すでに一度、シェプリーはもたらされた情報を受け止めきれなかった。

 あのとき、怒濤のごとく流れ込む情報に、シェプリーの意識は粉々に砕け散りそうになっていた。ルイスが水晶を破壊するのがあと少し遅かったら、あのまま限界を越えてしまっていたら、一体どうなっていただろう。

(無理だ)

 シェプリーはバスタブの中にしゃがみこみ、膝に額を押し付けた。

 自身の〈力〉すら制御も危ういというのに、こんな自分に一体何ができるというのか。

 指輪によってもたらされるものを利用すれば、不可能はなくなるかもしれない。けれど、忘れてはならない。光り輝く世界のすぐ側には、餓えたものたちがうごめく闇があるということを。

 力を使うということは、諸刃の剣を振るうのと同じことである。鞘から抜き放つ度に自身をも傷付ける可能性があることを、一時たりとも忘れてはならない。第一、印の意味もわからないのに、正しい道が読めるはずがない。

 迷い、手繰る糸を誤れば、迷路からは抜けだせない。最悪の場合、糸は切れてしまうかもしれない。そうなったが最後、あとは餓えた獣たちが待ち受ける袋小路に迷い込むだけだ。

 獲物の気配を察知したが途端、彼らは闇から躍り出て、一斉に喰らいつくだろう――ソールズベリーの安宿で、エンジェルの肉体を貪りつくしたように。

「――っ!」

 鮮明に蘇る光景に、シェプリーの顔が悲痛に歪む。

 幼い頃に感じていた驚異が幻ではなかったのだと自覚した途端、世界の仕組みは音を立てて変わってしまった。

 ――否、変わったのではない。

 元に戻ったのだ。幼い頃に感じていた、あの世界に。

 だからこそエンジェルは、この指輪からシェプリーを可能な限り遠ざけようとしていたのかもしれない。けれど、廻る運命の輪を止めることはできなかった。エンジェルは死に、シェプリーは今こうして未来を覆う影に怯えている。

 冷気が足下から首筋までを駆け昇り、シェプリーは大きく震え、身を竦めた。

 浴室に充満していた蒸気は、いつの間にか冷めてしまっていた。バスタブに溜っている湯でさえ、今はもうシェプリーの体温よりも遥かに低い。それなのにシェプリーの手の中にある指輪は、この小さな指輪だけは、奪った熱をため込んでいるのか、逆にほんのりと熱を帯びていた。

 シェプリーはこの金属の塊を、心底憎らしく思った。

 こんな指輪は今すぐ窓の外にでも投げ捨ててしまいたかった。このまま排水溝に流して、淀んだ川に棲む魚の餌にしてしまうのもいい。だが、それは絶対に無理だということも、シェプリー自身がよく理解していた。

 シェプリーはのろのろと顔をあげ、ずっと握りしめたままだった手を開いた。

 指輪は沈黙している。

 緻密で精巧なレリーフに多くの謎を刻みながら、シェプリーが進むべき方向を示している。

(フォスター先生――)

 鈍い光を放つ指輪を見つめ、シェプリーは思った。

 知らなければならない。

 指輪の言葉を。これが示す〈契約〉の意味を。

 彼が、自分に何を期待してこの指輪を託したのかを。

 そもそも、エンジェル・フォスターは、何故この指輪を所有していたのだろう。

 シェプリーが彼と知り合った時には、すでに彼の左手には指輪があった。ならば、彼はどのようにしてこれを手に入れたのだろうか。

 彼は何を成そうとしていたのか。一体どこまで知っていたのか。そして、彼自身が何者なのかも。

 闇夜にあっても、自ずから輝きを放つ金の双眸――エンジェルは常に濃い色のレンズを嵌めた眼鏡をかけ、その色を隠していた。

 シェプリーの両親も、そして二人いたメイドたちも決して口には出さなかったが、彼らはどこかでエンジェルの瞳を見るのを怖れていた。怖れなかったのは、幼いシェプリーただ一人だけだった。

 そのことに関しては、エンジェルはシェプリーに、先天的な病気のせいでこうなったのだと説明していた。だからシェプリーは、素直にそういうものだと信じていたし、疑うことも知らなかった。

 けれど、今は違う。

 エンジェル・フォスターと同じ色の瞳を持つものが、ここには存在している。

 今この瞬間にも階下の部屋で安らかな眠りを貪っているそれは、一度はシェプリーたちの命を脅かした人ならぬ生物だ。まさかあれほど慕い憧れた色が、何よりも恐ろしいものに思える日々が訪れようとは。

「我が門を過ぎる者、一切の希望を捨てよ、か……」

 偉大なる詩人が書いた叙事詩の一節を呟き、シェプリーは疲れ切ったような笑みを浮かべた。

 希望などすでに無い。

 エンジェルの死を認めてしまったときに、シェプリーが心の支えにしていた柱は盛大な音をたてて折れてしまった。空洞となった胸の中で、まだ心臓が動いているのが不思議なくらいだった。ならば、今更恐れるものなど、もう何もないのではないか?

 そもそも、自分は何も知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。与えられた情報に安穏とし、安寧に浸りきっていたのだ。

 これからは、そんな怠惰は許されない。一切の妥協も許されない。何故なら、今のこの苦しみがその代償であり、罰なのだから。

 シェプリーは目を閉じると、水に濡れる小さな指輪にそっと口付けた。

 至高天エンピレオまで辿り着きたいとは思わない。辿り着けるとも思っていない。けれど、せめて地獄を抜けるまでは導いて欲しい。

 この小さな指輪は、そしてあのホムンクルスは、自分の水先案内人となってくれるだろうか。それとも、瀝青タールの沼へと突き落とそうとする悪魔となるだろうか。


   †


 何故だ。

 ルイスは今日までに何度同じ疑問を抱いたか、もはやまともに数える気にもならなかった。

 埃ひとつ落ちていない床。ピカピカに磨き上げられた窓と鏡とキャビネット。綺麗に洗濯され、きちんと畳まれたシーツ。糊のきいたシャツの襟と袖口は、折り目もしっかりプレスされている。

 ほんの数日の間で、この建物内のあらゆるものが、見違えるほど綺麗になっていた。

 そして今、見慣れているはずなのに違和感の固まりとなった事務所の中で、彼は腕の中にひとりの赤子を抱いている。

 ルイスの両腕を揺りかご代わりにしているのは、すっかりこの事務所の住人と化したディシールだった。結局あれからどうすることもできず、ここで面倒を見ていたのである。

 ディシールが最初にみせた驚異の成長ぶりは一旦落ち着いたらしく、ここ暫くは特に目立った変化はなかった。まさかこの子がほんの少し前にこの世に生まれたばかりだとは誰にもわからないであろうし、もし知ったとしても、とても信じることはできないだろう。

 心配していた食事に関しても、特に問題はなかった。

 ホムンクルスなら人の血が必要なのではないかと怖れていたのだが、幸いディシールがそのようなものを要求するような素振りは全く見せなかった。

 彼は普通の赤ん坊と同じように砂糖を加えた牛乳を飲み、柔らかく煮潰した野菜や穀物、臓物料理などを口にした。今のところ、好き嫌いは特に無いようで、どこからどうみても普通の赤ん坊だった。

 自分の腕の中で安らかな寝息をたてるディシールを眺めながら、しかしルイスは盛大な溜息をついた。

「勘弁してくれよ、まったく」

 やはり何度呟いたかわからぬ台詞をまた呟き、項垂れる。

 何故なら、ディシールが今身につけているのは、可愛らしいレースのフリルがふんだんに使われた女児用の服だったからだ。

 服はエルリックからの差し入れだった。いつまでもバスタオルじゃ可哀想だと、彼自らが選んで買ってきたものだ。

 抱き上げる度にシャツをべたべたに汚すのを防ぐ涎掛けと、特異な髪色を隠すボンネットの存在は有り難かったが、必要以上に可愛らしい色をした生地と過剰なフリルは明らかに余分だった。これでは、大の男が人形を抱いているようにしか見えない。端から見れば、さぞかし滑稽な光景に違いない。

 このような姿をグレンやラルフが見たら一体何と言うか。特にラルフには、絶対に見られたくはなかった。あの酔いどれが嬉々として自分の噂を吹聴する様子を思い浮かべ、ルイスは一瞬、このままどこかえ消え去りたくなってしまった。

「一体何を考えているんだ、あの馬鹿は」

 途方も無い疲労感に目眩をおぼえながら、ルイスは力無く呟いた。しかし、だからといってこの服をエルリックに突っ返したところで、代わりに着せられるようなものは無い。それ以前に、文句を言おうにも、差し入れた当の本人の姿が見当たらない。

 エルリックは、何故かここ数日事務所に顔を出していなかった。ただし、その代わりの人物なら、先からキッチンで忙しく動きまわっている。

 半ば呆然としていたルイスは、控えめなノックに気付いた。答えるよりも早く事務所の扉が開き、次いでひとりの老婦人が顔をのぞかせる。

「今晩の御食事は何になさいますか。御希望があれば伺いますよ」

 彼女は湯気のたつ小皿を乗せたトレイを手にし、中へと入ってきた。この数日間、エルリックの代理として事務所に出入りしているセルマという名の老婦人である。彼女が運んできたのは、これからディシールに与える離乳食だ。

「あぁ、いや、特には……」

 気の利いた言葉が咄嗟に出ず、ルイスは気まずい思いをした。頭ではわかっていても、誰かにこうして仕えられるのはどうしても慣れない。

 セルマは今年の夏でちょうど五十歳になる。若い頃からノーマン家に奉公し、寛大な主人のもとで息子と娘がそれぞれ独立して家庭をもつまで、家政婦ハウスキーパーとして勤め上げた。

 彼女は昨年、ようやくその長い勤めを終えて引退したのだが、エルリックの父に頼まれて、現在はブルームズベリーで一人暮らしをしているエルリックの面倒をみることになっていた――そのはずだった。

 つい先日、彼女は突然そこを閉め出され、代わりにこの事務所に派遣された。エルリックがそうしろと言ったからである。

 不承不承ながらも、セルマは律儀に主人の命令に従った。主人の命の恩人の、手助けをするために。ただし、その仕事ぶりには、幾分かの未消化の怒りもこめられていた。

 とばっちりを受けたのは、ルイスただひとり。セルマは初めてここへやってきたその日、シェプリーとルイスを見比べ、彼女の体力の衰えを補うための代わりの手足として、ルイスを選択したのだ。

 務め人としての自尊心を満足させるためなら、他人の生活リズムを乱すくらいどうということもないのだろう。セルマは、事務所はもとより、ルイスとシェプリーの部屋や物置きとなっている部屋に至るまでをルイスに徹底的に掃除させ、その様子を監督しながらディシールの面倒を見、食事の支度をした。もちろんシェプリーも多少は使われたが、やはり体力的な問題もあるせいか、ルイスの方が断然仕事量が多かった。

 これで料理の腕が悪ければ、ルイスは石鹸水で重く湿った海綿を床に叩き付け、出て行けと怒鳴っていたか、あるいは自分がここを出て行くところだ。

 しかし、生憎とセルマも無駄に長い間家政婦をしてきたわけではなかった。

 若い頃からノーマン家に入った彼女は、裁縫、台所仕事、接客、子守に至るまで、メイドの仕事の何たるかをみっちり仕込まれていた上に、彼女自身、料理は得意中の得意であったのだ。

 ノーマン家とは違って安い材料費しか出せぬこの下宿でも、上手くやり繰りし、こうして御丁寧にディシール用の離乳食まで作ってみせる。ノーマン家当主御墨付きだと自慢するそんな彼女の料理を口にしては、文句など言えるはずもなかった。

 とはいえ、ルイスもシェプリーも、全く無関係の人間をこの事務所に出入りさせることに抵抗を感じなかったわけではない。少なくとも、最初は二人は反対していたのだ。

 だが、空腹や排泄によるおしめの不快感、眠気からくる不機嫌などなど。数時間ごとに、それこそ昼だろうが夜だろうがおかまいなしに泣きわめくディシールを前にしては、ルイスとシェプリーの反対の意志は、呆気無く破れ去る運命にあった。

「大丈夫。僕が保証する」

 胸を叩き、自信たっぷりにエルリックは言った。

 セルマはずっとノーマン家に仕えてきており、口の堅さについては充分に保証できるということと、彼女の子守の腕が確かなことを。

 実際、子守としてのセルマはとても有能だった。あれほど激しかった夜泣きが、彼女に面倒をみさせた途端にピタリと止んだのだから。

 赤ん坊の世話に途方もない苦労を強いられていたのと比べれば、まだ一日中床磨きをしている方が遥かに楽な作業だ。壮絶だった日々を、ルイスはぼんやりと振り返る。その腕から、セルマがディシールを取り上げた。

「御機嫌いかが、おチビさん」

 眠りから揺り起こされたディシールは不機嫌そうにむずかったが、セルマがふっくらとした白い頬にキスの雨を降らせると、くすぐったそうに身をよじり、きゃっきゃと声をあげて笑った。

「おしめはまだ大丈夫そうね。そろそろお腹が空いたでしょう。今日はあなたの大好きな鶏肝のスープですからね。沢山食べて大きくなるのよ」

 意外にも、セルマはディシールのことを気に入っているようだった。まるで自分の子か孫にでも接するように、惜しみない愛情を注いでいる。その様子は、単なる子守女とその対象にしか見えないだろう。しかし、ディシールは決してではないし、セルマもそのことは充分理解している。

 セルマは一番最初にディシールの瞳をみたときには息をのみ、初めておむつを交換した際には思わず目を閉じ、震えながら十字をきった。しかし、それでも彼女はこの不思議な赤ん坊の素性や身体的な特徴に関して、深く詮索するようなことは決してしなかった。この事務所へと使いに出されるときに、エルリックからよく言い聞かされていたのだろう。そしてそれを忠実に守っている点に於いては、確かにエルリックの読みに間違いは無いと言える。

 ルイスが眺めている前で、セルマは椅子に腰を下ろし、ディシールを膝に抱き直した。その側のテーブルには、先に運んできた離乳食が置いてある。

 まだ少し湯気のたっているそれを、セルマはスプーンで掬い、ふうふうと息をかけて充分冷ましてからディシールの口へと押し込んだ。

 まだ歯こそ生えてはいないものの、ディシールの食欲は旺盛だった。口の中に入った食べ物を一生懸命咀嚼し、飲み込むと、もっと寄越せとばかりに口を大きく開けてみせた。

「あら、そんなに慌てなくてもいいのよ。まだまだ、たっぷりありますからね」

 そんなディシール様子が、まるで雛が親鳥に餌をねだっているようにも見えて、ルイスはほころびそうになった口元を、慌てて右手で隠した。

 そうしながらルイスは内心で、皮肉なものだとひとりごちる。

 かつて夢みた光景。叶える前に消えてしまったものが、今、どういうわけかここにある。噛み潰した笑みが苦くなるのを感じて、ルイスはそっと目を閉じようとした。

「ところで、ケアリーさん」

 ディシールに夢中になっているはずのセルマに名を呼ばれ、ルイスはぎくりとした。

「紳士たるもの、身だしなみには人一倍気を付けていただかないといけませんよ」

「あぁ……」

 ルイスは苦笑を浮かべて言葉を濁した。

 この数日、シェプリーほどではないにしろ、気分がすぐれず外に出なかった。出る必要がなかったのもあるが、おかげで少々手入れをおろそかにした分、まばらに生えた髭が目立っていた。

 厳格なる女王の時代から生きてきたセルマには、それが気に障るらしい。掃除も家事も一段落した今、彼女の関心ごとは、目の前にいる男のろくでもない格好をいかに早く更正させるかに移ったとみえる。

「何でしたら、わたくしがお手入れして差し上げましょうか? でも、先にお断りしておきますけど、わたくしはお裁縫は得意でも、理髪に関してはあまり存じ上げておりませんの。それでもよろしければ、この子の食事が終ったら、すぐにでも剃刀でそのお顔をあたって差し上げましてよ」

 セルマはどんな時でもおっとりとした口調で話し、決して声を荒げることはない。けれど、いくら丁寧な物腰であっても、それを毎日毎日、何度も聞かされれば、いい加減うんざりしてくるというものだ。

「いや、折角だけど、遠慮しておくよ」

 にこにこと笑みを浮かべるセルマの申し出を、ルイスは丁重に断った。そして、再びディシールの相手に夢中になりつつあるセルマを残し、そっと事務所から抜け出した。

 ここの住人は自分たちであるはずなのに、何故こうも気を使わねばならないのか。すっかり固くなった首筋を揉みほぐしながら、ルイスは廊下で大きな溜息をつく。そこへ、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。

「どうかした?」

 廊下の奥、上階へと続く階段の中程のところに、不思議そうに小首を傾げるシェプリーが立っている。

「いや、何でもない」ルイスは手を振って、苦笑を浮かべた。「出かけるのか?」

「図書館へ行こうと思って……それから、眼鏡屋にも寄らないと」

「眼鏡?」

 聞き返してから、ルイスは思い出した。〈幽霊屋敷〉での一件の際に、シェプリーは眼鏡のつるを見事にへし折られていたのを。

 折った張本人のせいでなかなか外に出られずにいたため、シェプリーは折れた側のフレームを針金で巻いて繋ぐという応急処置のみで不便な生活を送ることを強いられていたのだった。幸い、レンズは無事だったものの、しょっちゅうずり落ちそうになる眼鏡に苛ついているシェプリーの姿を、ルイスはよく見かけていた。

「そうか。なら、途中まで送ろう。俺も、これから出ようと思っていたところだから」

「え? でも……」

 シェプリーはわずかに言い淀み、ルイスの背後にある事務所の扉を見た。ディシールとセルマだけを残していっても大丈夫なのかと言いたいのだろう。

「婆さんのことなら心配ない。俺だって外の空気は吸いたいし、それに、エリックのことも気になる」

「ああ……そうか。それもそうだ」

 ルイスの言葉に、シェプリーも小さく苦笑をかえす。

 使用人を寄越すようになって以来、エルリックからの連絡はぱったりと途絶えていた。電話をかけても何故か出ようとしないし、セルマも自宅から直接ここへ通ってくるため、主人が今どうしているかを知らないでいる。

 大方、何かに没頭しているのだろうとは思うが、万が一新聞の紙面を騒がせるような事態にでもなっていたらと思うと気が気でない。

「お出かけですか?」

 音を聞き付けたのか、セルマが事務所の扉を開き、廊下に立つ二人にたずねた。その腕には、相変わらずディシールを抱いたままだ。

「ええ、ちょっと、図書館まで」

 シェプリーが答えると、

「まぁ。でしたら、ついでにエルリック様のところへ行っていただけますか? わたくしが心配しておりますと、お伝えください」

 セルマは心底悲しそうな顔で訴えかけた。子供の頃からずっと面倒をみてきたエルリックに突然すげなくされて、寂しくてたまらないのだ。

 そんなに心配ならこんなところで律儀に子守なんかしていなくてもいいのにと、シェプリーが口に出さずとも表情で答えるのを、ルイスは手で玄関へと押しやりつつ、二階の自室へと向かうべく、階段に足をかけた。

「もちろんそのつもりだ。シェプリー、外で待ってろ。すぐ支度する」

「お戻りはいつ頃になりますか?」

「え?」

 一瞬、誰に向かって話し掛けられたのかわからず、シェプリーは言葉に詰まった。

「お夕食は、いかがなさいますか?」

 再度そうたずねながら、セルマが怪訝そうにこの事務所の主人の顔をのぞき込む。

シェプリーは、こちらを振り返りもせず自室へと入ってゆくルイスの姿と、じっと自分の答えとを待つセルマを見比べながら、少し考えた。

「そうだね……じゃぁ、帰ってきてから食べるよ。多分、暗くなる前には戻ると思うから」

「かしこまりました」

 セルマはシェプリーの返答に満足そうに頷いた。そこへ、ルイスが上着の袖に腕を通しながら階段を駆け降り、戻ってくる。

「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

 連れ立って玄関をくぐろうとする二人に向かって、セルマはディシールのぷくぷくの手をとり、振ってみせた。ディシールも、すぐ目の前に立つシェプリーへと満面の笑顔を向ける。

 だが、シェプリーは怯えたように顔を引き攣らせ、急いで外へと出て行った。

 ディシールにしか目を向けていなかったセルマは、シェプリーのとった行動には気付いていないようだった。気付いたのは、ルイスだけだ。

 帽子を被りながらそれを横目に見送ったルイスは、しかし何も言わなかった。何故ならルイス自身も、シェプリーと同じ思いをうっすらと胸の内に抱いていたからだ。


 先に眼鏡屋へ行きたいとシェプリーが言ったため、ルイスは彼の指定する店鋪のあるリージェント・ストリートを目指し、車を走らせた。

 主要道路は常に混雑し、いつでも渋滞気味だが、事務所からはそれほど遠くはない。二人を乗せた車は数分もしないうちに目的地に到着し、シェプリーはそこで下車した。

「ありがとう。ここまででいいよ」

「わかった」

 短い会話を交わしただけで、ルイスは再び車を発車させる。

 ちらりとバックミラーを覗いてみれば、シェプリーが眼鏡の看板が掛かる店へと入ってゆくのが見えた。

 シェプリーが通う図書館は市内に幾つか存在するが、たいていは博物館の大閲覧室のことを指している。いずれにせよここからはさほど離れてはいないし、交通手段もいくらでもある。心配することは何もない。あるはずがない――そう何度も自分に言い聞かせ、ルイスは視線をミラーから引き剥がす。

 だが、意識を別のものへと向けようとしたところで、一向に進まぬ車列がルイスの苛立ちに拍車をかける。

「何だってこんなに混んでいやがるんだよ」

 ロンドン中の主要道路が集中する地区なのだから、文句を言ったところでどうしようもない。ルイスは苛立ちを紛らわすために懐から煙草を取り出し、くわえた。しかし、今度は火を付けるか付けないかのタイミングで、前に並んでいた車が動き出す。

「おい、寝てるのか!?」

 後続車の運転手がクラクションを鳴らし、窓から身を乗り出して怒鳴った。

「煙草くらいゆっくり吸わせろ」

 役目を終えたマッチを投げ捨てたルイスは、アクセルを踏みこみ、大通りを避けて脇道へと入ることにした。多少遠回りになったとしても、混雑で一向に進まない道を律儀に走り続けなくてはならない義務など存在しない。

 ストランドとブルームズベリーの中間あたりまできたところで、ルイスは一旦車を停めた。何のことはない、床屋を探すためである。

 西にソーホー、南にストランド、そして北にはブルームズベリー。商店街、劇場街、市場に美術館に博物館に大学に病院。どちらへ行っても人通りの多いこの場所なら、床屋の一つや二つはすぐに見付かるだろうと思ったのだ。

 路脇に駐車している先客に習って空いている場所へと愛車を停め捨て、周辺をぶらぶらと歩きだす。思惑通り、店はすぐに見付かり、ルイスは迷わずそこへと飛び込んだ。

 以前によく通っていた店に行っても良かったのだが、生憎とここからは遠すぎたし、何より昔の自分を知っている者とは顔を合わせたくはなかった。


 ――それから約一時間後。

 すっかり綺麗に髭まであたってもらったルイスは、今度は一枚の小さな名刺を片手に、大学方面を目指して歩いていた。名刺は、シェプリーがウィディコムでエルリックから受け取ったものである。

 ルイスはそこに印刷されている住所を探しながら、まだ知り合って日も浅いくせに自分達の生活を一変させてしまった青年について、ぼんやりと考えた。

 セルマによれば、エルリックは以前この地区に住んでいた叔父の部屋をまるまる譲り受け、気侭な生活をしているのだという。

「気侭、ねぇ」

 ルイスはエルリックの奔放さ思い浮かべ、苦笑した。彼のそれは、明らかに自分達とは一線を画したを得ている者の行動であった。

 実際、エルリックは正真正銘、由緒正しき本物の紳士ジェントルマンだった。

 彼の父親は爵位こそ持っていないが、田舎に曾祖父の代から受け継ぐという土地と館をもつ資産家であり、母親にいたっては貴族に遠く連なる血筋だという。叔父は叔父で医師としての功績を認められ、数年前に〈ナイト〉の称号を与えられたと聞いた。

 普段の行動と人柄からはとてもそうは見えないが、エルリックは、本来ならばルイスのような一般市民が気軽に付き合えるような人間ではないのだ。

「ですから、本当なら無理に働かなくてもよろしいのに」

 セルマは不憫そうに愚痴をこぼしていたが、ルイスには、あの好奇心の塊のような青年が、黴の生えた古い時代の家訓に従って大人しく紳士の勤めをしていられるわけがないと思えるのだった。それよりも、こういった活気のある場所で自分の好きなものを追い求め、没頭している方がよほどエルリックらしい。

 ルイスは懐から取り出した煙草に火をつけると、紫煙を肺の隅々まで行き渡らせながら、久々に味わう外の光景をじっくり眺めた。

 街角で立ち話をする学生らしき青年たちの後ろを、これからサークルでの会合に向かうのだろうか、華やかに着飾った淑女たちが微笑みながら通り過ぎてゆく。

 路を行き交う車の合間を駆け抜けた少年が雑誌売りの屋台へと飛び込めば、そのすぐ側では、買ったばかりの新聞を広げた紳士が煙草をふかしながら、紙面に踊る文字を眺めている。

 かつて国王の猟場だった公園近くの地区のような豪華さでもなく、時計の針のような正確さで人々が働く金融街でもなく、もちろん川向こうの鄙びた下町でもない。

適度に活気がある場所でありながら、大通りから一本道を隔ててしまえば、落ち着いた佇まいの建物が並び、公園が静かで穏やかな空間を造り出す場所、それが、この界隈の特徴だった。

 ここでは、手をのばせばすぐに世界中から掻き集めた叡智や美を堪能することができ、望めばそれを得ることもできた。そういったものとは無縁なはずのルイスにとってもこの場の空気は心地よいものであり、久しく忘れていた安らぎをもたらしてくれた。

 ほとんど事務所に引き蘢っているシェプリーと一緒に居るようになってからは、めっきり機会が減ってしまっていたが、元々ルイスは、活気づいた人の群れを見ているのが好きだった。海原を漂流するブイのようにふらふらと人の波をかきわけ、そこに生きている者の気配を直に感じていると、わけもなく楽しい気分になれたものだ。

だが、浮かれた気分はすぐに消え失せる。

(〈悪魔の猟犬〉か……)

 今でも思い出す度にぞっとする。

 闇の中からあらわれ、そして消えた怪物。あれは、まだどこかの闇に潜んでいるのだろうか。建物の隙間や下水の影など、ガス灯の光の届かぬような場所から。あるいは、室内の照明が照らし出さぬような物陰や、使っていない部屋の片隅などで、禍々しい気配を押し殺し、今も獲物が近付くのを待っているのだろうか。

 この街の光景を前にしていると、あの辺鄙な田舎で体験した出来事が、まるで嘘だったのかのようにも思える。たちの悪い冗談だったのだと言ってしまえば、確かにそうだったのかもしれないとも思う。けれども、地下室で遭遇した得体のしれない化物――その存在を、あの恐怖を、簡単に忘れてしまえるわけがない。

 あれからほぼ毎晩、ルイスは夢の中であの魔物と対峙していた。現実では奇跡的に勝利を得たが、夢の中ではいつも魔物に殺されていた。

 銃は的を外し、酸は効かず、部屋の隅に追い詰められた挙げ句、凶悪な爪と牙とで身を引き裂かれ、存分に血肉を貪られた。

 脳髄をすすられ、骨を噛み砕く音を聞かされ、最後に死に淀んだ眼球を踏み潰されたところで、ようやく悪夢から開放される。繰返される夢はあまりにも生々しく、ルイスは飛び起きる度に、自分が本当に生きているのかを確かめるため、ベッドの中で何度も自問しなくてはならなかった。

 それでも、悲鳴を押し殺し、嫌な汗をかきながら飛び起きているうちはまだいいのかもしれない。例え寝る前に流し込む酒の量が少しずつ増えていようとも、ただの夢だからと現実から切り離して考えられるうちは。

 しかし、シェプリーは? 彼のような力をもつ者にとってはどうだろうか。

 そうでなくとも、シェプリーは以前にも恐ろしい体験をしている。敬愛する師を異形の魔物に殺され、その影に、暗闇に、ずっと怯え続けてきた。けれど、世の人々はそれを理解しない。してはくれない。声を大にして訴えかけたところで、信じてくれる者はいない。

 それらの仕打ちが精神へと与える負担は、一体どれほどのものであろう。少なくとも、ルイス自身が今感じているそれとは比較にもならないはずだ。

「……しまったな。やっぱり、一人で放り出すんじゃなかった」

 ルイスは今朝のシェプリーの顔色を思い出し、舌打ちした。

 今はセルマが半ば強制的に食事を摂らせているから持っているようなものだが、普段どおりの生活を送っていたのであれば、間違いなく寝込んでいるところだ。おまけに、今は今で、日中でも気が休まる隙さえない。

 ふと陽が翳ったのに気付き、ルイスは立ち止まり、いつのまにか俯いていた顔を上げた。

 空には雲が広がっていた。そのうちの一つが太陽を遮り、地上に影を落としたのだった。

 不意に強く吹き付けた風が地面の埃を巻き上げ、屋台に張り出された何枚もの広告を捲り上げる。急な風に帽子を飛ばされそうになった婦人が小さな悲鳴をあげ、慌てて手で抑えた。過ごし易い夏になったとはいえ、この国の天気は本来ならばいたって気紛れであり、常に灰色がちなのだ。この分では、夜には雨が降るだろう。

 そうして訪れた夜を、道路沿いに立ち並ぶ街灯が煌々こうこうと照らし出すさまを想像しても、ルイスの心は一向に明るくはならなかった。

 今頃、シェプリーはどこにいるだろうか。まだ眼鏡屋だろうか、あるいはもう図書館へ向かっただろうか。それならば、自分もすぐ近くまで来ている。雨が降るかもしれないのだし、外で倒れられる前に事務所へと連れ戻し、強引に酒でも飲ませて無理矢理睡眠をとらせるべきだろうか。

 とめどもない考えがルイスの頭を流れてゆくが、しかし身体少しも動かなかった。

 必要以上に干渉をした場合、シェプリーがかえって意固地になるのがわかっていたからだ。そこにあるのは、もはや単なる遠慮などではなく、完全なる拒絶である。

「どうすりゃいいんだか」

 自然に下がってゆく視線に、ルイスは苦々しく溜息をついた。友人としてだけでなく、仕事上のパートナーとしても一向に埋まらぬ溝がもどかしく、情けなく、そして憎らしい。しかし、だからといって改善の可能性までが失われたわけではない。

 ルイスは手にしたままの名刺をもう一度見直した。気付いてみれば、いつの間にか目的の場所の近くまで来ていた。数フィート先に見える角を曲がれば、目指す物件はすぐそこだ。

「多分、生きているとは思うが……」

 セルマに文句を言い続けられるのも御免被りたいが、それ以上に、ルイスはエルリックという新たな可能性を失いたくないと思っていた。

 エルリックの裏表のない快活さと強引さは、ルイスにとっての救いだった。特に、シェプリーにとっては、いろんな意味で貴重な味方となるに違いない。

 ルイスは名刺をポケットへとねじ込み、吸い付くした煙草を道路脇の側溝へと落とした。

 さて一体何と挨拶してやろうかと考えながら角を曲がったルイスだったが、そこで群がる人だかりに進路を阻まれ、歩みを止めざるを得なかった。

 群がる人々の視線の先を追ったルイスは、人々が注目している輪の中心を見て、あんぐりと口を開けてしまった。

 道行く人々が己の目的さえ忘れ、つい立ち止まってしまうほどの激しい口論を繰り広げている二人の男。その片方が、ルイスが今まさに会いにきたエルリック・ノーマンその人だったからである。

「だから、その件については何度も言っただろう! 僕はもう関係ない!」

「そんなことを言われても、こっちも困るよ!」

 どうにか無事に生きていたらしい、などと呑気に思ったルイスだったが、同時に、初めて目にするエルリックの意外な一面に驚いてもいた。

 いつもは何があっても飄々とした態度を崩さないでいるあのエルリックが、ああまであからさまに嫌悪の表情を浮かべることがあろうとは。

 エルリックが相手にしているのは、小柄なくせにやたら肉付きの良い壮年の男だった。背の高いエルリックと並んでいるせいで、より一層小さくみえる。その男が、突然衆目の前で膝を折り、エルリックに縋り付いた。

「頼むよ、エリック! うちは、君がいてくれないと困るんだ!」

「そんなのは僕の知ったことじゃないね」

「そ、そうだ。ギャラを上げようじゃないか。前回の、そうだな、三割増しはどうだ? いや、四割? 何だったら倍にしても――」

 しかし、エルリックはそっぽを向くと、ぴしゃりと言い放った。

「そういう問題じゃない」

「じゃぁ、どうしたら戻ってくれるんだ! 公開まで、もうあと二十日もないんだぞ!? 今度の公演に失敗したら、私は一家揃って首を括らねばならん!」

 ルイスは、一体何をそんな剣幕で言い争っているのかと疑問に思ったが、そういえば、と思い出した。いつだったか、エルリックは劇団を辞めるつもりだと漏らしていた。とすると、この口論の原因はまさしくそれなのだろう。

 男は、エルリックが所属していた劇団なのだろう。服装から想像するに、興行主かそれに近い立場の人物のようだ。ただし、お世辞にもセンスが良いとは誉められぬ着こなしではあったが。

 顎の下にたっぷりとついた脂肪がきつく締めたネクタイで強調されているさまは、醜悪な風刺画カリカチュア以外の何ものでもない。

 それにしても、あまりの剣幕であった。通りすがりの者だけでなく、近くの住人でさえも何事かといった様相でガラスとカーテンとを開けて見入っている。このままでは、警官が駆け付けるのも時間の問題だろう。

 他人の揉め事にあえて首をつっこむか、はたまた収まるまでもう暫く静観すべきか。遠巻きに眺める野次馬の背後でルイスが考えはじめたときだった。

「マーカス!」

 舞台で観衆の意識を一言で掌握するような、まさにそんな鋭い声をエルリックが発した。

「何度も言ったけど、僕はもう劇団とは何の関係ない。代役でも何でも、勝手に立てればいいじゃないか。どうせ突っ立ってるだけの役なんだ。顔だけなら、緞帳係のクリスでも充分だろう? さぁ、帰ってくれ。僕から話すことは、何もない」

「し、しかし……」

 尚も縋ろうとする相手の顔に向けて、エルリックが鋭く指を突き付けた。

 マーカスと呼ばれた興行主は、たったそれだけで全ての動きを封じられてしまったかのように硬直し、情けない顔を曝す。

「君も諦めが悪いな。いい加減にしないと、こっちにも考えがあるぞ」

 だめ押しの一言を宣言され、マーカスは汗と涙にまみれた顔を白蝋のようにし、固まった。その隙をつき、エルリックは玄関の扉を閉めてしまう。

 マーカスは暫く放心したようにその場にうずくまっていたが、やがてふらふらと立ち上がった。彼は引き潮のように道を開ける人垣を抜け、離れた所で事の顛末を眺めていたルイスの方へと歩きはじめた。

「くそっ、若造が――覚えていろ!」

 最初はこのまま昏倒するのではないかと周囲が心配するほどの様子だったマーカスだが、こみあげる怒りが彼の活力を蘇らせたのだろう。青かった顔を再び赤く染めてギラギラとした怒りに燃える目で前を見据え――たまたま視線の先にいただけのルイスに向かって――怒鳴り声をあげた。

「何だ貴様! 見世物じゃないぞ!」

 ルイスは何も答えずに首を竦めただけで、すれ違う小さな丸い体を見送った。肩を怒らせてのしのしと歩く様は、歯を剥き出して威嚇するブルドッグそのものだった。

 一瞬でも心配した自分が馬鹿だったと思いながら、ルイスはすぐ隣にいた名も知らぬ紳士達と共に苦笑を交わした。

 集まっていた野次馬達がぱらぱらと散りはじめ、一帯が静寂を取り戻す。ルイスは気を取り直すと、目的の建物の前にようやく立った。

 エルリックの部屋に通じる呼び鈴を押す。

「しつこいな! 警察を呼ぶぞ!」

 扉が開くよりも先に飛んできた怒声に、ルイスはもはや怒鳴り返す気力も湧かなかった。

「おいおい。それが心配してやってきた友人に向かってきく口か?」

「何だ、ルイスじゃないか」

 先のブルドッグがいるのだと思っていたのだろう。気勢を削がれたエルリックは、玄関先でぽかんと口を開けたまま、ルイスを見下ろした。

「何だとは御挨拶だな」

 ルイスは心底呆れた表情で腕を組むと、久しぶりに会う青年の顔を憮然と睨み付けてやった。

 まだ少し長さが足りないようだが、エルリックの口と顎には綺麗に切りそろえられた髭があった。ウィディコムから戻ってきてから伸ばし始めていたのが、暫く見ない間にようやく様になってきたようだ。ルイスがさんざん殴った顔の痣も、もうほとんど消えていた。

「心配して様子を見に来てやったのに、顔も見ないでいきなり怒鳴るのが、お前の礼儀なんだな」

「それは些細な行き違いというやつだよ」エルリックは苦笑し、降参だとでも言うように、両手を上げた。

「気を悪くしないでくれって言っても、もう遅いかもしれないけど。それについては謝るよ。ごめん、僕が悪かった」

「いや、謝るのは俺の方だ」

 仮にも俳優の顔を殴ったんだからと、ルイスが言うと、エルリックは屈託のない笑みを見せた。

「それなら何の問題もない。ほら、もうすっかり治ったし、あれは僕が招いたことでもあるんだから」

「そう言ってくれると助かる」

 二人は互いの目を見て、苦笑を交わした。

 こうしていると、ルイスはエルリックが自分とは育ちが違うのだということを忘れてしまいそうだった。かといって、いきなりかしこまり、へりくだっても不自然というものだろう。第一、ルイスにはそんな芸当は出来ないし、もし出来たとしてもエルリックの方も困惑するに違いない。彼がそのような関係を求めていないのは、短いとはいえ今までの付き合いの中でも充分理解できている。

 ルイスは結局、今までどおりの接し方をすることに決め、何気ないふうを装って、ブルドッグが立去った方向を指差した。

「大丈夫か? ああいうタイプは根に持つぞ」

「平気平気。口先だけの奴だし、もし何かしようものなら、それこそ本当にあいつの最後ってものさ――ああ、楽しみだね。あいつがまだ知らないでいる劇団後援者の目録を突き付けられても、まだ同じことが言えるかどうか!」

 けらけらと笑うエルリックに、ルイスは哀れな興行主の末路を思うと同時に、この青年だけは何があっても決して敵に回すまいと心に誓った。

「そうだ、こんなところで立ち話も何だから、上がってくれ。昨日、叔父のところでいいものを手に入れたんだ。それでも飲みながら話そう。それにしても……」

 エルリックは久しぶりに見る友人を横目に眺め、くすりと小さく笑った。

「随分さっぱりしたね」

 理髪店で塗られた整髪料で悟ったのだろう。奥へと通されながら、ルイスは適当な返答を返した。

「おかげさまでな」

「シェプリーとデイスは元気? セルマは?」

「元気とえいば元気だが……それよりあの婆さん、何とかしてくれ。そのうち屋根や外壁まで磨くとか言い出しそうだ」

「あはは、そりゃ結構」

 何が結構だこの野郎、磨かされる俺の身にもなれと、ルイスは内心で毒吐いた。


 ルイスが通された部屋は、日当たりの良い応接間らしき場所だった。しかし、普段は書斎としても使っているのだろう。部屋の一画には不釣り合いなほどに立派な書机と、乱雑に積み重なった書類らしき紙束と、そして山積みにされた本があった。

 シェプリーの部屋も似たようなものだから特に珍しくは思わなかったが、それ以上に渾沌を極めている一画を目にし、ルイスは唖然とした。

 書斎机と対面する位置に置かれたソファーには蓋を開け放したトランクが無造作に置かれ、脱ぎ散らかした着替えとおぼしき衣類が溢れていた。おまけに、丁寧に梱包された、あるいは半分ほど解かれた大小様々な荷物が、かくも賑やかにトランク周辺を彩っている。セルマが見たら、卒倒するに違い無い。

 エルリックはルイスに、勝手にくつろいででくれと言い置き、別室へと消えたのだが、

「どこで寛げばいいんだよ」

 ルイスは憮然と呟き、室内を見回した。椅子という椅子はすべて物置き台と化している。本棚や机上から溢れたものを、とりあえずそこに置いたといった具合だ。

 たかが本とはいえど、何冊も束ねると、それらは相当な重量となる。ここ暫くの大掃除で嫌というほどそのことを思い知らされていたルイスは、それらに近寄る愚を避けた。そうでなくとも、いかにも年期の入っていそうな骨董品を素手で手荒に扱い、後で文句を付けられるような過ちを犯したくはない。

 部屋を見渡したルイスは、一番無難そうに見えるソファーを選んだ。

 座面を占領する品々を適当に避けて隙間をつくろうとしたルイスは、しかしその最中に沸き上がった嫌な予感に導かれ、トランク周辺に散らばる沢山の荷物の中へと目を向けた。

 半分ほど解かれた包装の隙間から見えていたのは、繊細な針使いで編み込まれたレースたっぷりの白い布地。ずるずると引っぱり出して広げてみれば、それは子供用の可憐なワンピースだった。

「それ、お土産なんだ。後で事務所の方に持っていこうと思ってたんだけど、先に君の方が来ちゃったから」

 隣室に繋がる扉の影から顔だけを覗かせて、エルリックが笑う。

「あいつはまだ赤ん坊だぞ」

 ワンピースは、どうみても十歳前後の少女が着るものだった。呆れればいいのか、それともきっぱりと怒った方がいいのか、ルイスは悩んだ。

「何言ってるんだい。子供はすぐに成長しちゃうんだよ?」

「馬鹿野郎。こういうのは将来、お前に可愛い娘ができたときのためにとっておけ!」

 ルイスはワンピースをぐしゃぐしゃに丸め、荷物の山へと叩き付けた。

「わぁ! 何てことを!!」

 エルリックが悲鳴をあげて駆け寄るのを横目に、ルイスはソファー上の荷物を押し退け、どっかりと腰を降ろした。

「知るか。ただでさえ目立つのに、これ以上注目を浴びるような格好をさせてどうするんだ。大体、何で女物ばかりなんだよ」

「うん?」ルイスの疑問に、エルリックが小首を傾げる。「何で、って。だって〈ディシール〉だろう?」

「あぁ?」

 顔を歪めて聞き返すルイスに向き直り、エルリックは言った。

「〈ディシール〉というのは、北欧の女神の名前だよ」

「女神?」

「いや、女神とは少し性質が違うか。何と説明すればいいのかな……」

 エルリックは、ルイスから酷い仕打ちを受けたワンピースを広げなおし、丁寧に畳みながら少し考えた。

「そうだねぇ……この国で例えるのなら、妖精に近いかな。単体ではなく、複数の存在の総称みたいなものだけど、〈ノルニル〉という運命を司るもので、一族や土地に付いて、守護してくれるんだ。北欧の戦乙女ヴァルキリーなら聞いたことはあるかな? あれに近い存在だよ」

「だからって、あいつは――」

「男でも女でもない」エルリックはルイスが濁した言葉を継ぎ、にっこりと微笑んだ。「だったら、どっちを着せても問題ないじゃないか」

 反論しようとしたルイスだったが、エルリックのもっともな意見に返す言葉を見失ってしまった。

 エルリックはしてやったりといった笑みを浮かべたが、ふと真顔に戻り、視線を手許へと落とした。

「そりゃぁ、僕だってあの子のことは怖いさ。だけど、今のあの子を見てごらんよ。小さくて、無力で――どこからどう見てもただの赤ん坊だ。誰かが面倒をみて、しっかり守ってやらないといけない。それが出来ないのなら、連れて帰らなければよかったんだ」

 唐突に思わぬ非難を受け、ルイスは絶句した。

〈幽霊屋敷〉からディシールを連れ帰ったのは、生きて動いているものを強酸の中に沈めるという恐ろしい行為が出来なかったからにすぎない。

 だが、もし連れ帰らずに置き去りにすることを選択したとしても、良心の呵責からは逃れられなかっただろう。衆目の前にこの特異な存在を曝さないように巧妙に隠したとしても、あの真っ暗な地下室の中に血肉の暖かな小さな存在を置き去りにするなど、できるはずもない。

 ならば、連れ帰った以上、その責任は果たさなければならない。ディシールは確かに人間ではないかもしれないが、犬や猫などとも違うのだから。

 中途半端な覚悟をなじられ、ルイスは何も言い返せなかった。それでも、まだどうしても理解できないことがあった。

「何だってそこまで……」

 エルリックの言い分はわかるが、だからといってあそこまで過保護にする必要はないのではないか。ルイスのもっともな疑問に、エルリックは手許に視線を落としたまま、呟くように答えた。

「わかってるよ。でもね、僕は、知ってしまったんだ」

「……何を?」

「〈彼〉の心の中」

 エルリックはそう言うと、思い出すのも辛いといったふうに目を伏せた。

 幽霊屋敷で輝く水晶に惑わされ、そしてディシールによって肉体を乗っ取られていたとき、エルリックの記憶と意識をディシールが覗き見をしたように、エルリックもまたディシールの記憶と意識の片鱗を垣間見ていたのだった。

「まるで砂嵐だった。渇ききった風が荒れ狂って、どうしようもないほど餓えていた」

 見ようと思ってみたわけではなかった。だが、あまりにも強いディシールの意志は、エルリックに向けて己の内に溜った感情をぶつけてきた。

「使命を全うさせるだけなら、人に似せた姿形などにしなければよかったんだ。心なんか持たせなければよかったんだ。でも、ディシールはそこから逃げだすことはできなかった。そのために生み出されたんだからね。だから彼は苦しんで、怒って……でも、ひたすらに救いを、役目から開放される日を求めていたんだ。彼だって、本当は暖かい陽の下でのんびり暮らしたかっただろうに」

 特異な容姿による偏見や異端狩りによる迫害。それらをやり過ごすには、ディシールはあまりにも個としての意識と感情を持ちすぎていた。そして、その思いを知ってしまった以上、エルリックはディシールのことを気に掛けずにはいられなかったのだ――彼が自分たちを万が一の事態に備えるために殺し、その血肉を彼の新たな器へと利用しようと考えていたのを知っていても。

「今のあの子に必要なのは愛情だ。沢山抱き締めて、人の温もりと優しさをきちんと教えてあげるんだ。でなきゃ、あの子が可哀想じゃないか。大体、今は二十世紀なんだよ? 魔女狩りや異端狩りなんて、絶対にさせるもんか」

 エルリックはそう言って、折り畳まれた小さなワンピースを何度も撫でた。

「しかし、あれがあいつと同一だとは限らないんじゃ……」

「いいや、同じだね」

 あまりにもきっぱりと言い切るエルリックの勢いに、ルイスはたじろいだ。

「何か根拠でもあるのか?」

「僕の勘がそういっている」

 普段のルイスなら、何を馬鹿なことを言っているのだと切り捨てていただろう。だが、彼はそうしなかった。

 エルリックにはシェプリーやルイスのような〈力〉はないはずだったが、もしかしたら、あの奇妙な水晶によって一瞬でも交わった魂が、今も互いに途切れずにいるのではないだろうかという考えが、ルイスの脳裏をよぎったからだ。

「なるほど……お前の言い分はよくわかった」

 エルリックの言う勘と、自分の直感。それぞれの感触に似たものを感じとったルイスは、諦めたように溜息をついた。エルリックの心情も、もう充分理解できた。

「……だが、その服は却下だ」

「えぇぇーっ!?」

 途端にエルリックが抗議の声をあげるが、ルイスはこれだけは聞き入れるつもりはなかった。人形相手にままごとをしているような気分になるのは、もう沢山だった。

「駄目といったら駄目だ。絶対に認めんぞ。どうしても女物を着せたかったら、もっと地味なのにしろ」

「何言ってるんだよ! 女の子の服は、可愛くなきゃ意味がないじゃないか!」

「お前こそ何言ってやがる! あいつがもっと大きくなって、自分でそれを着たいって言うなら別だが、今はお前の趣味だけで物事を進めるな!」

 エルリックは不服そうに口を尖らせたが、「わかったよ」と言うと、渋々服を荷物の中に仕舞い込んだ。その際、似たような荷物がちらりと顔を覗かせたが、ルイスは何も見なかったことにした。

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