03:ラプラスの悪魔

「エリック。それよりお前、今までどこで何をやっていたんだ? 婆さんひとりを寄越したっきり、音信不通になりやがって」

 ルイスは本来の目的を思い出し、軽い頭痛をこらえてエルリックにたずねた。

「そうそう、そうだった――いや、実は遠出していてね」

「遠出?」

「うん。それについては後で話すよ。その前に、一息入れよう」

 エルリックはトランクの蓋を閉めると――もっとも、中身が溢れているのだから閉まるはずがないのだが――勢い良く立ち上がった。

 早足で部屋を後にしたエルリックは、意外にもすぐにまたルイスの元へと戻って来た。

「お待たせ」

 エルリックが小さな銀のトレイに乗せて運んできたものは、ワイングラスが二つと、たったいま栓を開けたばかりのワインボトルだった。

「お茶だと言った覚えはないよ」

 呆気にとられているルイスに含み笑いを返しながら、エルリックはトレイを傍らの小さなテーブルを占拠する本の、その上に置くと、グラスに酒を注ぎはじめた。

 幽霊屋敷で散々な目に遭ったというのに、少しも懲りていないらしい。

 ルイスの呆れた視線をものともせず、エルリックは酒杯を差し出した。グラスの中では、並々と注がれた薄赤色の液体が揺れている。

「酒と美しい娘は二本の魔の糸、ってね。それに、お互い、これ無しじゃ話せないこともあるだろうし」

「……そうだな」

 ルイスは苦笑を返し、グラスを受け取った。

「それじゃぁ、まずは僕らの再会を祝って」

 乾杯、と酒杯を上げるエルリックにつられ、ルイスも手にしたそれを軽く掲げた。

 真っ昼間から働きもせずに飲酒など、この場にセルマが居たなら、不道徳だの何だのとうるさく小言を言われていただろう。

「それで、さっきの話の続きだけど」

「ん?」

「遠出していたって言っただろう? どこだと思う?」

「俺にわかるわけがないだろう。いちいち勿体ぶるな」

 ルイスが不機嫌そうにグラスへ口をつけるのを見ながら、エルリックはにんまりと笑い、言った。

「ウィディコムさ」

 地名を耳にした途端、ルイスは盛大にせた。

「うわっ、汚いなぁ」

 そう言いながらも、エルリックはルイスの反応を予想していたのか、素早く体を引いて被害を免れる。

「済まん――じゃなくて」

 ルイスは思いのほか取り乱している自分に気付き、袖で口を拭いながら何とか動揺をおさめようと努力した。けれども、それは全くな無駄な行為だった。

「ウィディコムだって!? 何だってお前、あんなところへ――」

 つい声が大きくなってしまう。そんなルイスの取り乱しようとは裏腹に、エルリックは極めて落ち着いた態度で受け答えた。

「何って、本の買い付けだよ」

「本? どこの?」

「幽霊屋敷のに決まってるじゃないか。二階の書部屋は、君も知っているはずだけど?」

 エルリックは一旦書斎机のところまで戻り、名刺入れから一枚を取り出した。そうして、さっぱりわからないといった顔のルイスに差し出す。

 ルイスは名刺を受取り、そこに印字された字を読み上げた。

「『古書骨董取り扱い、オークウッド商会』? 『買い取りも致します』?」

「僕の店だよ」

「はぁ!?」

 耳を疑うどころの騒ぎではない。ルイスにはエルリックの言っていることが全く理解できなかった。そんなルイスに、エルリックも困惑の表情を浮かべてみせる。

「うーん、言い方が悪かったかな。僕の、もうひとつの店だよ」

「もうひとつ?」

「そう」

 エルリックは大きく頷くと、書斎机に戻り、椅子をひいてそこへと腰を降ろした。

「というよりも、こっちが本業というべきかな。オークウッドは祖母の実家でね。店は、美術品が好きな彼女のために祖父がはじめたもので、最初は趣味の延長程度の店だったんだけど、今は僕が継いで本格的に経営している」

 言って、山積みの本を軽く叩いてみせる。

 ルイスはグラスを持ったまま、もう片方の手を額に当てた。

「じゃぁ、俳優は何だったんだ」

「ちょっとした寄り道だね」

「魔術の研究も?」

「それは趣味だと最初に言わなかったかな」

「だったら、劇団への投資は」

「それは副業。本業は、あくまでもこっち」

 ルイスの矢継ぎ早な質問に淀みなく答えながらも、エルリックはすっかりお馴染みとなった悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。この調子では、まだ他にも自分の預かり知らぬ分野での顔なり肩書きなりを持っているに違いない。

 田舎での事件の衝撃が大きすぎて、何もかもを後回しにしたツケを、ルイスは苦々しく思った。こちらロンドンへ戻ってきたら、すぐに調査するべきことだったのだ。しかし、今更後悔してももう遅い。

 ルイスはあまりにもすんなりと自分の範囲へと溶け込んだ、この厄介でしかし決して憎めぬ新たな友人に向かって、長い長い溜息をついた。

「しかし……お前、本ならもう何冊かくすねていたじゃないか」

 ウィディコムから引き上げる際、エルリックはすでに何冊かを持ち帰っていたはずだった。ルイスがそのことを指摘すると、エルリックは心外だとばかりに顎を上げ、反論した。

「それは誤解だ。僕は貴重なものを先に預かっておいただけだよ。大体、あの村の人間が、この本の価値をわかっていると思うかい?」

「まぁ、それは、確かに……」

 ルイスにも、あの村の住人がこの虫食いだらけの黴臭い本に、エルリックの言うような価値を見出すとはとても思えなかった。むしろ、あの忌わしい事件と恐怖の記憶を一刻も早く拭い去るべく、真逆の行為を選択するだろう。

 今はまだ警察が屋敷周辺を警戒しているはずだから、容易に事を起こすことはないかもしれない。

 しかし、警察が犯人だと睨むマーシュはすでにこの世にはおらず――とはいえ、そのことを知っているのはルイスとシェプリーとエルリックの三人だけなのだが――、その証拠もほとんどはすでにディシールが処分していた。

 一人だけだったとはいえ生存者はいたのだし、これ以上成果が見込めない捜査は遅かれ早かれ打り切られる運命にある。そうなった場合、あの屋敷とそれにまつわる物品がどんな扱いを受けるのかは、火を見るよりも明らかだった。

 エルリックは自分の行いに絶対の自信をもっているのを示すように、胸を張ってみせた。

「僕は、歴史的にも形而上学的にも大きな損失となるだろう過ちを、未然に防いだだけだよ。それに、今回はちゃんとその分もあわせて支払ってきたんだから、何も問題ないだろう?」

「支払うって、誰にだよ」

「いろんなところにさ」

 おそらく、近隣住人への口止め料もいくらかは含まれているに違いない。ルイスは、もういちいち驚いたり呆れたりするのはやめようと決意し、手の中のに残るわずかな酒を、半ばやけくそ気味に飲み干した。

「もう一杯いく?」

「貰おう」

 ルイスは自分でボトルに手を伸ばし、空となったグラスへと注いだ。普段飲んでいるものとは違う味に舌と胃が違和感と物足りなさを訴えたが、今はアルコールだったら何でも良かった。

「それでお前は、婆さんを俺達に押し付けて、あの屋敷の書庫でお目当てのものをじっくり吟味していたってわけか」

「そう怒らないでくれ。僕だって、何も考えずに行動していたわけじゃないんだから」不貞腐れるルイスに、エルリックは苦笑を返す。「僕は、情報が欲しかったんだよ」

「情報?」

「うん。あの書庫にはスタンレーの所有物だけじゃなくて、それ以前のもの……つまり、前のディシールが所有していたものも混じっているだろう? 近代に発行されたものなら、僕だって持ってる。でも……」

 それ以前の古いものならば。真贋怪しい書籍ではなく、数百年前の〈真の秘術師〉が所有していたものであれば。

「あの子のことも、それからシェプリーのことも、何かわかるかもしれないと思ってさ」

 エルリックはまだ半分ほど酒が残っているグラスを弄びながら、顎で目の前にある本の山を示した。

 趣味とはいえ、エルリックはかなり真剣に研究を続けてきた。身近なところに形而上学の権威もいるのだから、実感はできずとも、たいていのことなら理解もできる。

 しかし、いまだ解明できていない現象や、謎につつまれた部分については完全にお手上げだった。そして、幽霊屋敷で体験した出来事は、まさにそんな領域のものであった。エルリックは、それらを解明するに必要な物は何なのかを確実に見抜き、いち早く行動していたのだ。

「……それで、何かわかりそうなのか?」

 ルイスはすっかり染み付いた眉間の皺をほぐしながら呟いた。

「さぁ?」

 エルリックは首を竦めた。

「ディシールとそのマスターとやらが、何百年もかけて準備してきたことだよ? 数日で理解しちゃったら、失礼じゃないか」

「だからって、俺はそんなに長生きできんぞ」

 ルイスが憮然と呟く。

「僕だってそうさ。だからね、実は、その道の人に助力を請おうと思っているんだよ」

 もうわかっていると思うけど――と前置きをし、エルリックはその人物の名を挙げる。ルイスの眉間には、一層深い皺が刻まれた。

「部外者を巻き込むつもりか?」

「大丈夫。ちゃんと信用のおける人だから」

「そう願いたいもんだ」

 これ以上ややこしいことになるのは御免だと、ルイスは再びグラスの中の酒を一気に呷った。

 多少の不思議な出来事くらいなら、今までの人生の中では何度も経験してきた。はっきりと幽霊の姿を見るようになったのは、シェプリーと組むようになってからだが、ある程度なら子供の頃から慣れていた世界のはずった。

 しかし、あの体験は違う。幽霊屋敷で目の当りにしたのは、今までにルイスが経験したことを全部ひっくるめて足したとしても、足下にも及ばないほどの強烈なものだった。転生を遂げた銀髪金眼の赤子さえ側にいなければ、ルイスは間違いなく自分の記憶を否定し、封印をかけていただろう。

「……あれは何だ」

 空になったグラスの中で、光の残像が鮮やかに蘇る。おそらく、エルリックも同じ光景を〈視〉ていたはずだ。だからこそ、こうして共に酒の力を借りている。

「俺が壊した水晶……あのとき〈視〉えた光景ものは」

 化物も、ディシールも、彼が〈マスター〉と呼ぶ存在の思惑も。一度考えはじめるともう止まらなかった。何もかもがルイスの理解の範疇を越えていた。なのに、それについて考えることを放棄できない。

 シェプリーならばまだ多少はわかるのだろうが、彼が自分から打ち明けてくれるような可能性は低かったし、こちらから聞くこともできなかった。今は一切の謎を抱えたまま、痛いほどの沈黙の中で互いの距離を測るしかない。そしてそれは、エルリックも同じなのだ。

 ルイスの思いを肯定するかのように、エルリックが目を伏せ、小さくかぶりを振った。

「正直いって、僕にもまだよくわからないよ。概念はわかるけど、どうにも筆舌し難い」

「それを研究しているのにか?」

「それはお互い様じゃないのかな。君だって身近に感じてはいるけど、認めたくない、認めるには抵抗がある」

 ルイスは不機嫌そうに押し黙った。その様子をみて、エルリックが苦笑しながら続ける。

「先に言っておくけど、僕は確かにこういうことに携わっているけど、盲目的な信奉者なんかじゃなくて、懐疑的な研究者のつもりでいる。理屈や科学では証明できないことがあるというのも理解しているけど、丸っきり頭からすべてを信じているわけじゃない。だから、一概にこうだとは言えない……いや、言うには細心の注意を払いたいんだよ」

 そう言うと、エルリックもグラスに残った酒を一息に呷った。酒を愉しむ彼らしからぬ動作で。

 エルリックは空のグラスを置き、代わりに伸ばした手で、目の前にあるケースから煙草を取り出した。

 ルイスもつられて己の懐を探ったが、生憎とパッケージは空になっていた。ここへ来る最中に吸っていたのが最後の一本だったらしい。舌打ちするルイスに、エルリックがケースを取り上げ、蓋を開いた状態で差し出した。

「よかったらどうぞ。灰皿は君の後ろにある」

「どうも」

 身を乗り出して煙草を取りながら、ルイスは今のこの状況が酷く滑稽なものに思え、苦笑を漏らした。

 はじめて訪れる部屋で飲み慣れない酒を飲み、どうにも理解しがたい現象について話し合おうとしているなんて、今の今まで全く想像もつかなったことだ。

 ルイスは首を廻らせ、エルリックの示す灰皿を探した。ソファーの影に寄り添うように置かれた小さなテーブルには、ガラス製の灰皿と煙草道具一式が置かれていた。エルリック自身が使用するものなのか、それとも来客用のものだろうか、パイプに嗅ぎ煙草まで揃っている。

 その多趣味ぶりに驚くと同時に呆れつつ、ルイスは灰皿を取り、傍らのトレイ上に置いた。これから聞かされるであろう、ろくでもない内容にじっくりと耳を傾けるために。

 軸の長いマッチを擦るのと同時に、先に煙草をふかしていたエルリックが口を開いた。

「〈ラプラスの悪魔〉というのがいる――」

 ルイスは視線をエルリックに戻した。エルリックも煙の彼方から視線を返し、いつのもごとく人を喰ったような曖昧な笑みを浮かべる。

「悪魔といっても、理論上の仮想存在でしかないんだけど、とにかく、そう呼ばれるものがあってね。そいつは、あらゆる未来を予想出来るらしい」

「未来を?」

 訝し気に問うルイスに向かって、エルリックは大きく頷いた。

「僕は数学や物理学に関しては門外漢だから、間違ったことを言ってるかもしれないけど、今僕たちがいるこの世界は、全て分子や原子といった微細な物質の集合で出来ているんだってさ。そして、それらは各々の決まった法則に乗っ取って、動いたりくっついたり離れたりして、僕達の世界を構成している。

 その動きが全て計算によって数値に置き換えられるのであれば、ダイスの目や盤上の駒の動きを読むように、これから起こりうる反応がどういう方向に向かうのかを、ずっと先々まで予測計算できるという理論だ」

「そいつはまた随分と極端な話だな」

「その点については僕も同感だ。あまりにも漠然としすぎているし、今現在ではさすがにそれは無理なんじゃないかとも言われている。でも、一方で、僕はその悪魔の存在を否定しきれないでいる」

 椅子に深くもたれながら、エルリックは大きく紫煙を吐き出した。そして、思い描く何かを煙の中から探すように、目を細めた。

「錬金術や魔法における理論を考えてみようよ。あれも、結局は似たようなものだ。微視的ミクロなものと巨視的マクロなものを同列なものと考え、それらを置換し、還元する。

 わかりやすく言えば、自然の法則を人工的に再現し、投影することによって、そこから現実を超越した力を得たり、普通ではあり得ない現象を引き起こそうとする方法だ」

 エルリックの言わんとすることの輪郭を捉え、ルイスはぼんやりとしたその内容を記憶の中から懸命に探る。

「……前に、暗在とか明在とかいっていたやつのことか?」

「そう、それのこと。人間が塩と硫黄と水銀でできているなんて、そこの大学病院のお偉方に言ってみてごらんよ。鼻先で笑われるどころか、正気を疑われてしまうだろうね。でも、現実にはどうだい? 僕達のところには、あの子がいる。正確にはホムンクルスではないのかもしれないけど、でも確かに魔術的なものを行った結果として、あの子は……ディシールは今も存在している」

 不可能を可能にしてしまう力――それは、幽霊屋敷から命からがら逃げ出した後、宿でシェプリーも交えて語りあったことだった。ルイスにとっては理解しがたい内容であり、いまだに納得できるものではなかった。しかし、確かに今こうして現実として存在する以上、認めざるを得ない。

「話を元に戻そうか」

 エルリックが煙草をふかしながら言った。先端で燻る火が小さな音をたてて赤々と燃え、思索の淵に沈みかけていたルイスの意識を引き戻す。

「ラプラスの悪魔は仮想存在だけど、こうして僕らが足を突っ込んでいる分野でも、似たような思想は昔からある。それが〈アカシックレコード〉だ」

「アカシック……レコード?」

 その言葉を効いた途端、ルイスの脳裏に眩い光が蘇る。あまりに強烈な感触に、ルイスは思わず瞼を閉じ、顔をしかめた。

「どうかした?」

 急にルイスが片手で目を覆ったのを見て、エルリックが怪訝そうにたずねる。

「煙が滲みただけだ。気にするな」

「ならいいけど……」

 そう言いつつもまだ不審そうに見つめるエルリックから、ルイスは顔を背けた。目が眩んだのではなく、慣れない酒に酔っただけだと自分自身に言い聞かせながら。そして、手にしていた煙草の灰が落ちそうになっているのに気付き、ルイスはあわてて灰皿へと持っていき、ついでに揉み消した。半分も吸っていなかったが、何となくもう必要を感じなかった。

「それで、その何とかレコードというのは何なんだ?」

「え? あぁ――」

 話の続きを促され、エルリックは我に帰った。エルリックももまた吸いさしの煙草を灰皿に押し付けて揉み消すと、軽く咳払いをし、自分がどこまで話したのかを思い出す。

「……〈アカシックレコード〉というのは、この宇宙における、過去から現在、そして未来までに至るまでの記録が詰まっている図書館のようなものだと考えてくれればいい。

 それを〈世界樹〉と称する人もいるし、心理学なら集合無意識だと言うだろうし、宗教関係者なら神と言うのだろうね。定義はいろいろあるけど、根本的にはおそらく同一のものだと僕は考えている。

 今までに僕が知り合ってきた霊能者や研究者が口を揃えて言うことなんだけど、魂というものは、もとは一つの大きな存在なんだって。僕達の魂は、そこから発生したものであり、今もその一部であり、肉体が死んだ後には、またそこへと戻ってゆく循環サイクルの中にいるんだそうだよ。

 そして、もしその流れから抜け出して循環の全体像を眺めることができれば、これから起こりうる可能性についてを、ある程度までなら予測することもできかもしれないというんだ」

「それが、〈アカシックレコード〉の本質というわけか?」

「おそらく。だから、もしそこに直接触れられるのであれば、あらゆるものごとに関しての歴史を繙くことができるし、遠い未来についてを知ることもできるだろうとも云われている」

「とても信じられん話だな」

「まぁね。過去はともかく、未来は単一の現象じゃない。様々な要因が複雑に関わり、常に形成され続けてゆく事象のことなんだから。でも、予知、予言、予兆……あらゆる形で、僕達は稀に、断片的にではあるけど、未来を知ることがある。君だったらわかるんじゃないかな。嫌な予感はよく当たるって言ってたよね?」

「嫌な予感しか当たったことはないけどな」

 渋面をつくり、ルイスは視線を足下に落とした。シェプリーのような他に誇れるような力ではないにしろ、ルイスには確かに彼以上に適中する鋭い勘を持っていた。子供の頃から薄々勘付いていた、ただ疎ましいだけの特異な力を。

 そして、ルイスは唐突に、エルリックが何を言いたいのかを悟った。

「……まさか?」

「そう、そのまさかさ」

 エルリックは腰を上げると、ルイスの目の前に立った。

「未来を知るにはいろいろ方法があるけど、大きくわけると二つになる。予測と、予言だ。

 予測は株価や競馬など、僕達が現実に得られる情報の範囲で想像がつくもの。でも、予言の方は必ずしも現実である必要はない。占い師がカードや水晶や夢などを通して、将来起こりうることを見る方法もそうだ。そして、予言にはもう一つの解釈ある。いわゆる〈お告げ〉というやつだね。精霊や天使などの、僕達の世界よりも上の存在から知らされる〈預言〉だ」

 未来を知るという点だけを見れば、どちらも相違は無い。違うのは、未確定の事柄なのか、それとも覆しようもない決定事項なのかだ。その分かれ目は、〈アカシックレコード〉にどこまで触れられるかによって変化する。

「だけど、それを読むには、僕達の頭脳と寿命は、あまりにもちっぽけで短い」

「寿命が関係あるのか?」

「大有りさ。人類の黎明はもとより、この地球や宇宙の年令を想像してごらんよ。そこにあった全ての記録を、たかだか二十数年しか生きていない僕と君が全部読みきれるとでも?」

「無理だな」

 ルイスは素直に首を振った。想像してみろと言われても、その言葉だけでもうそれ自体を放棄するしかない。

「だろう? 僕は、ある意味では、それは人に与えられた〈救い〉だと思ってる。人は、せいぜい手の届く範囲を想像するだけで充分幸せな生物なんだ。だけど、中にはそうじゃないのもいる」

 そう言うと、エルリックは不意に、先程自分で空けたグラスを上に掲げてみせた。

「例えばこのグラスだけど、この手を離したら、どうなると思う?」

「……落ちるに決まってるじゃないか」

 何を当たり前なことを言うのかと、口には出さずとも目で訴えかけるルイスに、エルリックは続けて言った。

「じゃぁ、もうひとつ質問をしよう。落ちたグラスはどうなると思う? 割れる? それとも割れない?」

 唐突な質問に、ルイスは眉根を寄せた。それでも彼の意識は、提示された問題に向かって速やかな移動をはじめる。

 ルイスも割と長身な方だが、エルリックはそれ以上に背が高かった。その手にあるグラスは、軽く見積もっても床から5フィート以上の位置にあるだろう。グ

 ラスは薄手の、かなり高級なものだ。通常ならば落下の衝撃に耐えられず、割れてしまうはずだ。しかし、足下には毛足の長い上等な絨毯が敷いてある。うまくそこへ着地することができれば、もしかしたら――

「あ――」

 ルイスは思わず声をあげた。エルリックが、ルイスの答えを待たずしてグラスを持つ手を離したからだ。

 咄嗟に伸ばした手が、地面からあと数インチのところでグラスをつかみ取る。

「割れなかったね」

 しれっと言うエルリックに、ルイスは抗議した。

「脅かすなよ。一体何が言いたいんだ」

「どうもこうも、今やったとうりのことだよ」

 エルリックはルイスをまっすぐに見返しつつ、机の縁にもたれるように腰をかけた。

「グラスが割れる未来と割れずにいる未来の二種類があって、前者を良しとしない君という存在が、これを回避するために介入した」

 グラスを持ち、中途半端に腰を浮かせた状態のまま、ルイスは息を飲んだ。エルリックはそんなルイスの手からグラスをそっと取りあげると、衝撃に硬直する友人を、空のグラス越しに眺めながら、話を続けた。

「……でも、現実に君ができることはそこまでだ。この先、このグラスがどういう扱いを受けてどういう結末を迎えるかについて、君が知ることはまずないだろうし、四六時中干渉することもできない。セルマが洗っている最中に割ってしまうかもしれないし、僕が酔っぱらって落っことして割るかもしれない。

 でも、もし君がこのグラスに起こりうる可能性を事前に知って、時々『気をつけろ』と忠告したり、割れないように気遣ってくれたら?」

 介入を恒久的に続けることができれば、いずれは割れる運命が実現してしまう可能性は、極めて低い数値を保ち続けられるだろう――それが可能であればの話だが。

 しかし、エルリックの言葉を聞きながら、ルイスは反論できずにいた。反論することさえ忘れていた。

「それから、これは何もこのグラスに限ったことじゃない。例えば、僕が道ばたを歩いていて何らかの事故に巻き込まれる可能性があったとして、これを回避することだって理論的には可能になるはずだ。あるいは、僕と君とがこの後また会う約束をしたとして、もしそれを由としない存在がいたとしたら、彼はどういう行動をとるだろう?

 または、全く接点のなかった僕達が、こうしてこんな会話をすることを望む存在がいたとして、どうにかして引き合わせようと働いた結果が、今この瞬間だとしたら?」

 いつになく饒舌なエルリックの言葉が、ようやく途切れる。

「……あり得ない」

 ルイスにはそれだけ言うのが精一杯だった。

 もし、未来が決定されたものであるのなら。あるいは、ある程度確定したものであるのならば。

 いかに回避策をとったとしても、その未来からは逃れられるわけがない。それはルイス自身がよくわかっていることだった。どれだけ気をつけ、回避策をとろうとも、歪められた道筋は必ずどこかで辻褄を合わせようとして、いつも手酷いしっぺ返しをルイスに叩き付けてきたのだから。

「あり得ない」

 もう一度、ルイスは呟いた。意志の力で非現実を現実にできるのであれば、言葉にして否定することで、その逆もできるのだと思いたかった。けれど、絞り出した声はあまりにも弱々しく、そしてルイス自身、エルリックの説を完全には否定できないでいた。

 植物に見事な華を咲かせるために剪定を繰返すように、未来を常に監視し、定期的に手を加え続けることが可能だとしたら。あるいは、あらゆる可能性を先読みし、百パーセントの対策をとれたとしたら。

 事実、ディシールはマスターから水晶眼をもつ者を待つよう命令され、ずっとあの地で待っていた。そこへやってきたのがシェプリーだった。しかも、全くの偶然とは言い切れぬ導きによって。

 では、かつてあの指輪を所持していたというエンジェル・フォスターは、一体何者なのか。何故その指輪を持っていたのか。彼の目的は何だったのか。

 暗在と明在――現実と非現実の境目などは、極めて曖昧なものだというのなら。

 認めるか認めないか、つまりは、その状況に置かれた者が、肯定するか否定するかの違いでしかないというのなら。

 では、それを受け入れることによって起こる変化は何だろうか。何が変わり、どのような連鎖を引き起こすというのか。

 シェプリーが持つ小さな指輪。その小さな指輪が繋ぐ、過去と未来の関係――ルイスは、自分がまるで盤上に並ぶチェスの駒にでもなったような気分になった。そして、自分だけではなく、シェプリーやエルリックや、今まで自分と接してきた多くの人々が、見えざる手によって操られているのだとしたらと考え、吐き気を催した。

 アルコールによって上昇しかけていた体温が、急激に冷えてゆく。

 胃に流し込んだ酒は、ただの苦い液体に変わってしまったようだった。ゆるゆると立ち上がりながら、ルイスは鳩尾の辺りを支配する痛みに歯を噛み締めた。

 険しい表情で立ち尽くすルイスを横目に、エルリックはトレイ上に忘れられていたボトルに手を伸ばし、これを取り上げた。

 残り少なくなったワインを、ルイスが置いたグラスと自分が手にしているグラスへと注ぐ。注ぎ口はグラスの縁に何度も触れ、カチカチという音を小刻みに立てた。

「僕も、恐ろしくてたまらないよ。そうやって時々物事に介入を続けてきた存在がいるということが。その流れに関与してしまったということが」

 そして、そのルートはまだ終っていない。二人にとっても、シェプリーにとってもこれは始まりでしかなく、おそらく逃げることも叶わない。

「でも、僕は逃げたくない」

 エルリックはきっと顔を上げ、その水色の瞳に強い意志を漲らせる。

「逃げられないというのなら、せめて行く末を見極めたい。そして、出来たら、運命というものを牛耳る奴に言ってやるんだ。『クソくらえ』って――そうは思わないかい、ルイス?」

 ニヤリと浮かべる笑みは、いつものエルリックにしては少しぎこちなかったかもしれない。けれど、例えそれが酔いと勢いに任せた戯言だったとしても、今のルイスには何にも替え難いものに思えた。

「……そうだな」

 ルイスは小さく頷く。しかし、だからといって胸の内を被う不安が全て消えたわけではなかった。

 視線を窓へと向ければ、空はすっかり雲で覆われていた。漠然とした不安をそのまま映すような灰色の空に、ルイスは目を細める。そして、同じ曇天の下にいながら、自分達とは隔絶した世界のただなかに立つシェプリーのことを思った。



 どうやら雨が近いらしい。

 微かな頭痛が報せる予兆に、シェプリーはそっと溜息をついた。

 中央から放射状に配置された閲覧用の細長い机。そのうちの一席で、シェプリーは直したばかりの眼鏡を外し、広げたままのノート上へと無造作に放る。そこには、シェプリーが可能な限り思い出せる言葉の数々が乱雑に書き留められていた。

 博物館の象徴、白亜のドーム。その下にある円形大閲覧室で、シェプリーは目の前の山積みになった本を開いては閉じ、開いては閉じという行為を、かれこれ一時間ほど繰り返していた。

 しかし、いかに多くの探究者にその知識を分け与えてきた膨大な書物といえど、シェプリーが知りたいと願う情報についていえば、ただの紙切れも同然である。

(やっぱり、ここでも無理か……)

 シェプリーは溜息をついた。それは、ここを訪れる前からすでに理解していたことだった。

 病弱で学校に通えなかったシェプリーにとっては、この図書室が学校のようなものだった。数えきれないほど大量な蔵書だけでなく、館内に展示してあるものを指しながら、エンジェルがシェプリーに教えた内容は多岐に渡る。

 世界中から集めた数百万冊に及ぶ書物と多くの実例を示しながら、エンジェルはシェプリーにあらゆることを教えてくれた。

 歴史を、美術と芸術を、科学と化学を、生物学、天文学等々――実際に身になったのはごく一部でしかないが、それでも普通の少年が学校で教わること以上のものを、シェプリーは師から教わってきた。

 そのように通い慣れた場所であるから、当然、シェプリーはどの棚にどの種類の本が納められているのかを把握していたし、彼が今必要としているものがこの閲覧室内に無いことも、すでに知っていた。

 それでもここに来たのは、他に頼れるものがなかったからである。

(せめて閲覧許可証があればなぁ……)

 この大閲覧室ではなく、地下にあるという小部屋を、シェプリーは思う。そこでは、一般の利用者には見せられない書物や資料が収められているという話だった。

運良くそれらを目にする機会を得たとしても、何ひとつとして理解できない可能性もあったが、何もしないよりはましだった。少しでも手掛かりになる可能性があるのなら、何が何でもそれを手に入れたいと、シェプリーは考えていた。

 しかし、金庫に眠るそれらを拝めるのは、監視員付きの特別閲覧室内でのことであり、それも一日のうちわずか数時間しか許されていなかった。当然のことならが、貸し出しなどはもっての他である。

 博物館側は本の劣化を防ぐための処置であるとしているが、実際には過去に何度かあったとされる盗難を防ぐ意味もあるのだろう。近頃では学芸員や各界の名士からの紹介状がなければ、閲覧を申請するのも難しいと聞く。

 シェプリーは、今まで事務所に訪れた依頼主の顔を順番に思い浮かべてみたが、しかし頼りになりそうな人物は一人もいなかった。

 もっとも、今までにそういった権威ある依頼主があらわれなかったわけではない。ただ、シェプリーは彼らの依頼内容が気に喰わず、ことごとく蹴ってきたのだ。

 今になって後悔する気持ちが涌かないでもなかったが、かといって自分の力を見世物の余興程度にしか考えていないような者たちと友好関係を結べるとも思えなかった。であるから、あれはあれで良かったのだと思うことで、シェプリーは己を慰めるしかない。

 もっとも、運良く閲覧できたとしても、そこに必ずしも答があるとは限らないという可能性もあったが、それについては今は考えたくなかった。

(あと頼れそうなのは、父さんとエリックか……)

 眼鏡のレンズを通さないぼやけた視界。そこに思い浮かべた二人の顔を睨みながら、シェプリーは唸る。

 父であるオースティンには、これ以上の負担をかけたくはなかった――というよりも、負担をかけることで、逆にこれ以上彼からの干渉を受けることを避けたかった、と表現した方が正しい。そして、エルリックに至っては。

 シェプリーはまた大きな溜息をつく。彼は迷っていた。この件に、これ以上エルリックを関わらせてよいものだろうか、と。そしてそれは、今までずっとシェプリーを支えてくれたルイスについても同様であった。

 本人達が耳にすれば猛然と抗議をするであろう。が、これはそのようなレベルの問題ではない。

 師の失踪の謎を追いはじめた当初から、シェプリーには、自分が踏み込んではいけない領域に入り込んでいるという認識が少なからずともあった。けれど、師の死を認めたくない一心で事件を追ううちに、そしてなかなか姿を見せぬその正体を掴もうと調査を続けるうちに、とうとう後戻りできない地点にまで来てしまった。

 シェプリーは胸に手を当て、その下に隠れる小さな指輪の感触を確かめる。

 今ならまだ間に合うかもしれない。立ちはだかる謎という名の扉を開く前なら、進むべき道を示す手掛かりが見付かる前であれば、二人を道連れにしなくてすむかもしれない――ほんの一瞬だけではあったが、深淵の恐ろしさを身をもって知ったシェプリーだからこそ、そう思うのである。

 何より、世間から狂人と罵られ蔑まれる屈辱を、彼等にまで味わせたくはなかった。

 自分が見たものを主張すればするほど、医者も学者も、自分の父親さえも、シェプリーの正気を疑った。量を増やした精神安定剤を医者の顔に投げ付け、家を飛び出してからはや数年。父親との約束の期限も、気付けばあと1年足らずとなっていた。

――そう、息子の頑固さに折れた父オースティンが提示した幾つかの条件。その一つは、彼の目の届く範囲に必ず居ることだった。

 住む場所と捜索の拠点である事務所を確保し、父親自らが契約を交わして寄越した探偵を付けてくれたのは、オースティンにとっての最大の譲歩だったのだ。

 そしてもう一つ、忘れてはならない条件があった。それは、五年間だけという期限であった。

 オースティンが出す条件に、医者は渋々ながら同意した。五年もかければ、シェプリーが現実を――エンジェルはもう居ないのだという事実を――受け入れるであろうと判断したのだ。

 ある意味では彼らの読みは正しかった。だが、彼らの目論みは、シェプリー自身でさえも予想もしていなかった方向から打ち砕かれた。

 シェプリーは、もはや癖になってしまったように溜息をつき続ける。

 探し求めた手掛かりを今更掴んだとして、どうなるというのか。しかもその手掛かりは、これまでかけてきた時間よりも、もっと長く険しい道を歩まねばならないというのがわかる代物である。

 これからどうしたらいいのか。考えることは沢山あった。調べなくてはならないことも、沢山あった。ありすぎて、どこから手をつければいいのかさえわからない状態だった。

 一体全体、どうしてこんな事態になってしまったのだろう。

 エンジェルと出会い、エンジェルから多くを学び、そして彼と共に世界各地を旅をしているときに、まさか今のような状況が訪れるとは想像もつかなかった。

(いや、違うな……)

 シェプリーは憔悴しきった表情で項垂れる。

 エンジェルが失踪したから、シェプリーがこのような道に踏み込んだのではない。

 事件を追い求めた結果、この指輪を得たのではない。

 エルリックの身体を乗っ取ったディシールが〈契約の印〉と呼んだ、この小さな金属の固まり。これこそが、エンジェルを介し、遥かな過去からシェプリーを引き寄せたのだ。

 思い起こせば、エンジェルがシェプリーに語って聞かせたものは、過去を教えながらも、その実すべてが未来を示していた。

 〈世界〉を知れと。己の力を知れと。そして、進むべき道を見失うなと。

 彼は常に未来を見据えていた。運命に抗いながらもそうと気付かれぬように、そして来るべき時が訪れてしまったときのために、彼はシェプリーを育ててくれたのだ。

 しかし、エンジェルは死んだ。運命に抗おうとしたからなのか、運命をねじ曲げ、この指輪をシェプリーから遠ざけようとしたからなのか。真相はわからないが、彼がその〈世界〉に抹殺されたのは紛れもない事実だった。

 それならば、〈世界〉は――運命という筋書きを紡ぎ続けるその相手は、シェプリーに何をさせたいのだろう?

 いかにエンジェルが慎重に道を示してくれたとしても、そればかりはシェプリーにもわからないし、想像のしようもない。

 指輪によって見せられた〈もの〉――漆黒の闇の中で輝く、生きている巨大な泡。それこそが師の指す〈世界〉だというのなら、ちっぽけな人間ごときに一体何が出来るというのか。そもそも、〈契約の印〉という名が示す〈契約〉が何なのすらわからないのに。

 無限大とは限り無く広がっているようでいて、その実表と裏とが地続きになっている世界に過ぎない。だが、それでもその世界の表面に張り付いて生きる者にとっては、とてつもなく広大な世界である。その可能性の多さを想像するだけで、シェプリーは目眩に襲われ、息継ぎをするのさえ困難になる。

 あらゆる可能性が存在する中で、選択によって綴られる未来という名の織物タペストリーを前に、シェプリーはあまりにも非力だった。

 そして、これら一連の出来事があらかじめ予定されていたものであれば。決定されていた未来であったのなら。

(……逃げ道なんて、どこにも存在しない)

 シェプリーはシャツの襟首に指をさしこみ、細い鎖をたくし上げて指輪を取り出すと、目の前に掲げ、じっくり観察した。

 指輪は、どこにでもあるような単純な形をしていた。飾り石も台もない。だが、そのすべての面には、内側にさえも細かな装飾がびっしりと彫り込まれ、無機質な金属に彩りを添えていた。

 模様は、一見しただけでは単純な繰返しにしか見えないが、ルーペなどで拡大してそこに描かれたものの全体を目にしたのなら、誰もがその技術の高さに驚愕するであろう。

 一つの曲線は多くの小さな曲線の集合体であった。その曲線もまた別の曲線の一部となっており、そういった繰返しが渦を巻き、互いに交差し、完全なる調和と均衡を保っていた。

 強いて表現するのであれば、古代にピクト人やゲール人が遺した渦模様や結び目ノット図に似ていなくもない。だが、これはそれらよりも遥かに複雑で、そして緻密であった。

 いくら手先の器用な彼らといえど、小さな指輪の表面に、これほど緻密な模様を刻めるものなのだろうか? そもそもこれは、どこからもたらされたのだろう?

 シェプリーは、エルリックの身体を乗っ取ったディシールが、屋敷の書庫で言った言葉を反芻する。

 彼の言葉が真実だとすれば――おそらくそうなのだろうが――、これらは人の歴史などという限られた尺の中で培われたものではなく、それよりも遥かに遠い、人類をも凌駕する存在によってもたらされたものとなる。

 ならばやはり、いかに栄華を誇った大英帝国の財力と世を席巻した啓蒙活動に後押しされ、地球上の学問を網羅すべく集められた図書室の蔵書をいくら繙こうとも、人類が生誕するよりも遥か過去にあったであろう出来事を窺い知る術は無いのだ――指輪がしきりに誘う、あの世界を辿る以外には。

 何度考えても、行き着く答は同じだった。もしかすると、今の自分に必要なのは、この指輪の力をいつ使うかという決断なのかもしれない。

 シェプリーは指輪をシャツの下にそっと仕舞った。そうして、なだらかに弧を描く高い天井を仰ぎ、目を閉じながら首の後ろで手を組む。

 途端、微かなざわめきと希薄ながらも多くの気配がシェプリーを取り囲む。

 礼拝堂に響く祈りの囁きのようなそれは、皆、この閲覧室にいる利用者が発している思念の響きであった。

 それが、シェプリーの肌を緩く撫でるように何度も掠めては去ってゆく。

「くそっ、まただ――」

 思わず口をついて出た悪態に、たまたま近くを通り過ぎようとした男が振り向き、訝し気な視線をシェプリーに向けた。その形容しがたい感触に、シェプリーは思わず身を竦める。

 普段であれば、この程度の視線に煩わされたりはしなかった。だが、幽霊屋敷での一件以来、シェプリーは自分の〈力〉をうまく制御できずにいた。

 元々シェプリーは、他人の心の動きを或程度察知することはできていた。人の心を覗きたいと思っているわけではないのに、相手が何を考えているのかわかってしまうのだ。触れるだけで物に宿った記憶や空間に残った記録を読むのは、この〈力〉の応用にすぎない。

 だが、意図せずとも人の心を知るという行為は、シェプリーにとって深い罪悪感と苦痛をもたらす以外の何ものでもなかった。だから、普段は常に己の意識の周囲に見えないカーテンのようなものを張り巡らせ、これを遮断するように心掛けていたのだ。

 しかし、あれ以来、シェプリーと他者のプライバシーを守る意識のカーテンは、どういうわけか容易くかき消えてしまうことが度々あった。

 遮蔽物のない状態で押し寄せる数々の思念は、耳を閉じても聞こえる騒音にも似ている。吹き付ける嵐さながらにシェプリーの内へと侵入したそれは、彼の意識を無遠慮に踏み荒らした。

 これが幼い頃であったなら、シェプリーは簡単にパニックに陥っていただろう。実際、彼が子供の頃はもっと酷く、聞こえないはずの声に常に翻弄されていた。

 知りたくもないことを知らされ、口にしてはいけないことを口にし、そして、怖れられた。

 今こうして辛うじて平静を保っていられるのは、エンジェルの指導の賜物だった。

 シェプリーを取り巻く周囲のざわめきは、大半がそれぞれの胸の内で呟かれる独り言であり、彼らが手にとった書物を、無意識に朗読している〈声〉であった。

 稀に、シェプリーに視線を投げて寄越した男のような、対象物に向ける視線も含まれていたが、それらは大概、一瞬だけ針のような刺激をシェプリーの肌に残し、すぐに逸れた。

 分厚い壁を隔てた先では、数千年の眠りを妨げられたであろうミイラたちが横たわっていたが、彼らの気配などは生きた者が発する思念に比べれば微風にすぎない。シェプリーが真に警戒すべきなのは、死者ではなく生者の想念や、強い情念だった。

 だからこそ、シェプリーは他者と深く付き合うことができずにいた。人が多い場所へ行けば、自分が孤独だということを嫌というほど思い知らされるだけ。今も、多くの心の声と気配に囲まれていながら、彼はどこまでも孤独だった。

 シェプリーは目をさらにきつく閉じ、唇を噛んで耐えた。そうして、散漫となった意識を鎮めるべく、集中する。

 自らの内に篭り、ささくれ立つ精神を鎮めようと懸命に努力を続けた。それなのに、眉間と目の奥を支配する鈍い痛みが治まる気配は一向に訪れない。

 どうやら運命を司る神は、自分の精神には少しの平穏も与えるつもりはないらしい。その底意地の悪さに辟易としながら、シェプリーは尚も抗うように、痛みと神経を逆撫でする思念とをできるだけ無視することに決めた。代わりに思うのは、それまでの人生の中で、一番幸福で充実していた時期のこと。エンジェルとの調査旅行で巡った、世界各地の遺跡の記憶だ。

 二人は国内各地に点在する環状列石にはじまり、数年であらゆる地を巡った。大半はすでに発掘調査が行われ、多く学者による見解のもと分類され、今も調査が続けられている遺跡であったが、エンジェルはシェプリーの家庭教師となるよりも以前から、それらについての研究に手をつけていた。

 彼らが巡った土地には、有史以前の遺跡やそれに関連するものもあれば、ごく最近(といってもせいぜい数百年前であるが)のものもあり、シェプリー自身、その助手を勤めていながらも全く関連を見出せずにいた。ただ言えるのは、どれもが石を使っていたということと、どれもが天体の運行と関連していたであろうということだけである。

 それは、最後の地となったストーンヘンジでさえ例外ではなく――

「そうか!」

 唐突に叫んだ上、派手に椅子を蹴って立ち上がったシェプリーに、周囲の者が一斉に注目した。

 視線が与える苦痛はもとより、シェプリー自身も頭痛がするのに急激に動いたことで、星が見えるほどの衝撃を脳に感じていたが、それどころではなかった。

 シェプリーは、たった今気付いたのだ。

〈言葉〉ではない。

〈星〉だ、と。

「どうして気付かなかったんだ」

 ――気付くはずもない。何故なら、これは地上からみた星の位置などではないからだ。

 太陽系ではない。この銀河系でもない。もっと広範囲の、高次の次元での星図なのだ。

 それは、屋敷の地下で高次の宇宙を視せられたシェプリーにしかわからないことだった。だからこそ、どれほど高名な学者に見解を求めても、地上から離れることのできない彼らから答えが引き出せるわけがなかったのだ。

 シェプリーは再度指輪を取り出し、紋様を見た。

 彼はこれをずっと言葉だと思っていた。しかし、言葉ではなかったのだ。

 否、ある意味では言葉そのものであった。「光れ」と、大いなる意志によって生み出された宇宙の、それらの残響エコーが奏でるものだったのだ。

(僕はなんて馬鹿なんだ!)

 指輪の模様は、輝く水晶によって見せられた、あの〈世界〉が描く軌跡に極めてよく似ているように思えた。となれば、指輪の模様も、一冊に纏められた〈印〉も、星の位置を繋いでできる図形、あるいは、その軌跡を追ったものに違いない。

 師は、何も語らずにいたわけではなかったのだ。

 彼と共に行った調査旅行――それらは常にある一定の法則によって描かれたものを、順に追っていたのだ。

 太古の昔、星々を観測するために地上に築かれた場所。それらの軌跡。地上に写し取られた図形。

 効果のある形を模すことで、同じ効果を期待するという魔法がある。J・G・フレイザーが著書で示した〈共感魔法〉というものだ。それらは太古の昔より受け継がれてきた魔術の基本形であった。

「そうだ――、そうだよ」

 はじめから答えは目の前にあった。なのに、何一つとして理解していなかったのだ。

 シェプリーは己の間抜けさに心底呆れた。こんなボンクラには目玉も脳も必要ない。くり抜いて、代わりにガラス玉とおがくずを詰めておけばいいのだ。

 こみあげる笑いを、シェプリーは抑えられなかった。

 そんな自分を周囲の者が気味悪気そうに眺めているのはわかっていたが――実際、頭のおかしな奴だと思う者もいたが――、それすら可笑しくてたまらなかった。

 ひとしきり笑ってしまうと、身体からは力が抜けた。醒めぬ興奮に後押しされ、頭痛は最高潮に達していた。目眩も息切れもしていたが、シェプリーは机を支えに辛うじて立ち続け、そしてまだ考えていた。

 おそらく、この指輪とあの羊皮紙の束に描かれた模様は、天上の星あるいは地上からは見えない位置にある星々が、一定の位置で一定の軌道を描くときに得られる効果を、この地上でも同じ様に発揮するためのものだと考えていいだろう。

 では、〈契約〉とは何だ?

 何故ディシールはこの指輪を〈契約の印〉と呼ぶのだろう?

 そして、〈誰〉と交わした〈契約〉なのか。

 ひとつ解けただけでは何もわからないと同じだった。それでも、シェプリーは嬉しかった。本当は、自分がエンジェルに見捨てられてしまったのではないかと、密かに怖れていたのだ。

 いつしかシェプリーは膝をついて机に伏し、声を殺して泣いた。ここが図書室で、開館中で、まだ多くの利用者が居て、彼らの注目を浴びているのもわかっていたが、止められなかった。

 そんなシェプリーを、誰もが奇異の目で見ていた。彼らは一様に、この青年の突飛な行動と感情の爆発に驚き、そして気味悪がっていた。

 近付いて気遣う者など居るはずがない。シェプリーもそれは理解していた。何故なら、それは幼い頃からずっと彼が受けていた視線と同じだったから。だから、今更気にすることなど何もない。

 誰にも邪魔をされることなく、シェプリーは気が済むまで泣き続けていられた――そのはずだった。

「あの……大丈夫ですか?」

 不意にかけられた声に、シェプリーはややあってから気付いた。

 眼鏡のないぼやけた視界は、涙のせいで更に歪みを増している。そこに、白いものが飛び込んだ。小さなハンカチだった。

 シェプリーはのろのろと顔をあげ、ハンカチを差し出すその人物を見た。

「大丈夫ですか?」

 ふわりとした花の香りが鼻腔に届く。

 シェプリーの側に立っていたのは、ひとりの少女だった。小首を傾げ、シェプリーの様子を心配そうに窺っている。

 若い溌溂とした輝きを放つ緑の瞳に見つめられ、シェプリーは我にかえった。急激にこみあげる恥ずかしさに耐えられず、慌てて顔を背ける。

「大丈夫、です。何でもありません」

 だが、袖で涙を拭おうとしたその腕を止められた。少女はシェプリーにハンカチを握らせると、後ろでひっくり返っていた椅子を立直した。そして、そこにシェプリーを座らせると、彼の顔を覗き込み、にっこりと微笑んだ。

「あまり無理しない方がいいですよ。具合が悪いときは特に――ね?」

シェプリーは目を見張った。少女は、かなり前からシェプリーの様子をずっと気にかけていたのだ。

「顔色が良くないわ。係員を呼びましょうか?」

 大きな瞳に真正面からじっと見つめられ、シェプリーは困惑した。

「いえ、そんな、大したことじゃないんで……頭痛がするだけですし」

「まぁ!」

 小さな叫びをあげ、少女が大きな瞳を更に大きく見開いた。

「どの程度の痛みなのかしら。痛み止めはお持ちかしら? もし無ければ、わたしのアスピリンを分けてあげますよ?」

「結構です」

 ぴしりと言ってしまってから、シェプリーは少し後悔した。少女が息を飲み、自分の放った言葉に畏縮したのがわかったからだ。

「本当に、もう、大丈夫ですから」

 いたたまれず、シェプリーは身体ごと向きを変えて、少女の視線から逃れた。

 少女は暫くの間、何か言いたそうにしていた。が、結局それ以上口を開くことはなかった。やがて、「わかりました」と、諦めにも似た小さな溜息をつき、立ち上がった。

「ごめんなさい。余計なお世話でしたね」

 少女の言葉に、シェプリーの胸の奥で何かがちくりと痛んだ。しかし、彼女の気遣いがシェプリーの抱える悩みを解決してくれるわけではない。

 少女は軽く頭を下げて、シェプリーの側を離れた。同時に、それまで彼の側にあった暖かな気配が遠退く。

 僅かに芽生える罪悪感と、やっと居なくなって清々したという気持ちの間で、シェプリーは彼女がこの閲覧室から出て行くまでずっと息を詰めていた。

 間もなく、周囲でこのやりとりを眺めていた者達の〈声〉も薄れはじめた。今頃になってようやく〈力〉の制御が戻ってきたのだ。

 まるで何事もなかったかのような平静さを取り戻す閲覧室で、けれどもシェプリーは一人、動けないでいた。

 おためごかしの同情など、適当に薬を与えて黙らせるだけの医者と変わらない。そんなものは欲しくない。そう思っていたのに、少女が立去ることに抵抗を――言い知れぬ寂しさを――感じていたのだ。

(……どうかしてる)

 シェプリーは頭に響かない程度にゆっくりと首を振る。そして、手許に残されたハンカチの存在を思い出した。

「あ――」

 慌てて目で彼女の姿を追うが、しかし、もう遅すぎる。

 シェプリーは彼女を追おうかとも考えたが、結局諦めた。

 大体、追い掛けてどうしようというのか。汚れたハンカチを返してもらって喜ぶ者などいるわけがないだろうに。それとも、彼女の気遣いを無駄にしたことを謝罪するのか? それからどうすればいい? 世の男達がするように、彼女を食事や観劇にでも誘えと?

(――冗談じゃない)

 ルイスやエルリックでさえこれ以上自分の運命とやらに付き合わせるのを躊躇うのに、全く見ず知らずの人間を――それもまだ年端のいかない少女を――巻き込む切っ掛けを作るわけにはいかないではないか。

 そう考えると同時に、シェプリーは恐怖も感じていた。

 もし、これも未来への布石の一つであったとしたなら。

 だとしたら、また彼女とはどこかで会うだろう。おそらくは――否、必ず。それも、近い内に。

 シェプリーは少女の残したハンカチを広げてみた。

 四角い白の布地、その角の一辺には、小さな刺繍が縫いこまれていた。色鮮やかな紫で描かれているのは、一輪の可憐なすみれだ。

 束の間忘れていた目の奥の痛みが蘇る。

 博物館の外では、雨が降り始めていた。

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