04:手掛かり

 閉館時間が過ぎても帰ろうとしない利用者を追い立てる学芸員の声を背に受けながら、シェプリーは冷たい灰色の階段を降りた。日が沈む時間にはまだ早かったが、低く垂れこめた雨雲のせいで、外はずいぶんと暗かった。

 大通りまで歩き、タクシーを拾う。発作が治まったとはいえ、こんな日はバスも地下鉄も避けたかった。雨が降っていたのもあるし、そうでなくともこれ以上人混みの中にいたら、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 運転手のとりとめもない世間話を上の空でやりすごし、事務所の前でタクシーを降りる。

 と、立てた襟の隙間に雨の雫が入り込んだ。シェプリーは身震いをひとつすると、ステップを駆け上がり、玄関の扉を急いで開けた。

 脱いだコートについた雫を払おうとして、シェプリーはふと建物の内部が静まり返っているのに気付いた。いつもならばセルマが出迎えに顔を出すはずだが、どういうわけか、その気配すらない。

 シェプリーはコートを玄関脇のハンガーに吊るすと、すぐ側にある事務所の扉に手をかけた。

 隙間から顔をそっと覗かせると、煌々と灯る照明の下、来客用の長椅子に身を横たえて眠りこけているルイスと、その腹の側にちょこんと座り、彼の弛んだネクタイの端に齧り付いているディシールと眼が合った。

「あー」

 シェプリーに気付いたディシールが満面の笑みを浮かべ、それまで齧っていたネクタイを口元から落とす。糸を引く涎に、シェプリーは思わず顔を引き攣らせた。

 この小さな赤ん坊の姿をした彼が一体何を考えているのか、シェプリーにはよくわからなかった。時折何らかの意識を感じることはあるが、ほとんどの場合明確な形をとっておらず、幽霊屋敷で垣間見たような、あのどす黒い感情の影さえ見当たらない。限り無く空白に近いそれは、赤ん坊の思考そのものだった。

 それでも、シェプリーはディシールという存在が怖かった。

 ディシールはエルリックの体を通し、シェプリーの眼を〈水晶眼〉だと言った。他の次元を覗き見し、そして他者の心にも影響を及ぼす力があるのだと。

 あまりにも受け入れ難い内容に、シェプリーは彼の言葉を否定した。

 しかし、もしそれが真実だとしたなら。

 うたた寝を続けるルイスを見ていると、どうにも心苦しくて仕方がなく、シェプリーは視線を無理矢理引き剥がし、小さく息をついた。

 そっと体を室内へと滑りこませ、彼を起こさないように、そしてディシールの手の届く範囲を避けて、奥へと進む。

 きちんと片付いた事務所には、やはりセルマが居るような気配はなかった。

 その代わり、シェプリーはいつも自分が使っている事務机の上に、蓋付きのトレイが置いてあるのに気付いた。

 蓋を開けてみると、そこにはつやつやと黒く輝くケーキがあった。ジンジャーの香りがする、甘いケーキだ。

 ケーキは綺麗に切り分けてはあるものの、まだ誰も手をつけた形跡がなかった。どうやらセルマはこれを作った後、そのままどこかに出かけたらしい。

 勝手に食べてもいいものか迷っていると、不意に目の前にある電話がけたたましい音を立てた。

 シェプリーは慌てて受話器を取り上げた。

「やぁ、シェプリー。元気かい?」

 名乗るよりも先にかけられた挨拶に、シェプリーは盛大な溜息をつきそうになった。久しぶりに聞くエルリックの声は、やけに陽気な雰囲気をまとっていた。

「まぁね……何とかやってるよ」

「ルイスは大丈夫かい? ちょっと飲み過ぎたみたいでさ」

「あぁ……」

 なるほど、とシェプリーは声に出さずに呟いた。言われてみれば、どことなく室内が酒臭いような気がする。

 シェプリーは、最近ルイスの酒量が多くなっていることに薄々気付いていた。が、特に口出しはしなかった。そうさせている原因が少なからずとも自分にあることを、何となく察知していたからだ。

「送り届けたのはいいけど、そうしたら今度はセルマがどうしてもうちに来るってきかなくてね。ルイスに、車は借りたままだって伝えてくれるかな。明日返しに行く」

「わかった。伝えておく」

「それと、セルマからは、食事はもう作って置いてあるから、適当に温めて食べてくれって」

「そう……わざわざありがとう」

「あー、それから――」

 受話器を外しかけたシェプリーが、まだ続くエルリックの伝言に眉を顰める。

「まだあるの?」

「そんなに嫌そうな声を出さなくてもいいじゃないか」

 苦笑まじりのエルリックの言葉に、シェプリーはぎくりとした。途端、幽霊屋敷で聞かされたあの台詞が脳裏に蘇る。

 視線を感じて背後を振り返ると、不思議そうに自分を見つめているディシールと、再び目が合った。

 秘術師が放った毒針が、胸の深い部分に突き刺さったままであることを自覚する。

 シェプリーは慌てて顔を背けると、無垢な仮面を被ったその存在をできるだけ意識の外に追いやろうと努力しながら、こうしてエルリックと話しているのが電話越しで良かったと思った。今の自分はきっと、とても人には見せられないような醜い顔をしているはずだから。

 そんなシェプリーの葛藤を他所に、エルリックはくすくすと受話器の向こうで笑い声をたてた。

「実はね、シェプリー。君に、いいものをあげようと思ってさ」

「いいもの?」

「そう、いいもの。返事はまた後日聞かせてもらうよ。それじゃぁ」

「あ――」

 無機質な音を鳴らすだけとなった受話器を片手に、シェプリーは立ち尽くす。

 いつものことながら、エルリックのやることは突飛で、意図が全く読めない。悪気がないのがせめてもの救いではあるが、付いて行くには相当の気力と忍耐が必要とされる。

 今度は一体何を企んでいるのやら――シェプリーは戦々恐々としながら受話器を置き、室内を改めて見回した。

 部屋の片隅に見慣れない大小の箱が幾つか置いてあるのに気付いたが、エルリックの様子から考えると、どうもそれらとは違うもののように思えた。

 けれど、いくら考えてもわからなかった。想像すらつかない。

 シェプリーは、あっさりと考えることを放棄した。もう今日は、考えるという行為そのものに疲れ果てていた。

 溜息を漏らしながら視線を落とせば、黒いケーキがシェプリーの疲れ切った目に飛び込む。

 食欲はなかったが、胃は切実に目の前に鎮座するそれを欲していた。欲求に促され、シェプリーの手がケーキに向かって伸びる。だが、

「そんなもの喰ったら、腹壊すぞ」

 唐突にかけられた声に、シェプリーは慌てて手を引っ込めた。

「……ったく。コレは食い物じゃないって、何度言えばわかるんだお前は」

 普段に輪をかけて不機嫌そうな顔付きで身を起こしたルイスが、ディシールの口からネクタイを取り上げる。さっぱりと短くなった髪をがしがしと掻きながら室内を見回し、そして、シェプリーが戻ってきていることにようやく気が付いた。

「何だ。帰ってたのか」

 ルイスはディシールの涎をたっぷり含んで湿ったネクタイを外し、傍らのテーブル上に放った。

「うん……それより、大丈夫かい? 何だか辛そうに見えるけど」

「あぁ、大丈夫だ。何ともない」

 シェプリーの問いかけに返答はするものの、ルイスの視点は定まっていない。何度も大きな溜息をついては、眼を瞬かせている。

「水、持ってこようか?」

「いや、いい――」ルイスは頭を振りかけて、顔を顰めた。「だからこれは食い物じゃないって言ってるだろ!」

 ソファから身を乗り出してネクタイを取ろうとしているディシールを、叱る。

 しかし、

「ふぇ」

 ディシールの顔がくしゃりと歪み、大きく開いた口からは空気の漏れるような音が出ると、ルイスは大いに慌てだした。

「あぁ――わかった! わかったから泣くな!」

 そうして取り上げたばかりのネクタイを、結局ディシールに持たせてやる。

 ルイスにしてみれば、ネクタイ一本で鼓膜を破らんばかりの騒音を聞かされずに済むのなら、それに越したことはなかった。どうせ元々それほど高級な品でもないのだし、洗濯はセルマかクリーニング屋がするのだ。それに、エルリックに言えば、ディシールのためならといくらでも代わりを買ってくれるだろう。

 そんなルイスの胸の内を知ってか知らずか、ディシールは手許に戻ってきた獲物をそのふくよかな小さな指で握りしめると、再び満面の笑みを浮かべて齧りついた。

「何なんだ、お前は。そんなに腹が減ってるのか?」

 さっき食べたばかりだろうと、時計を確認しながらルイスがぼやく。

 シェプリーは暫くの間、言うか言うまいかと迷っていたが、途方にくれるルイスの様子があまりにも可哀想に思えてきたので、遠慮がちに口を開いた。

「多分、痒いんじゃないかな」

「痒い? どこが?」

 むっつりと不機嫌な顔を隠しもせずに、ルイスがシェプリーを睨む。

 シェプリーは思わず笑いだしたくなったのを懸命に堪え、言った。

「だから、口の中が。もしかしたら、歯が生えかけているのかも」

「何?」

 ルイスはディシールを抱え上げてテーブルの上に座らせると、まじまじと観察した。

 確かに、ディシールはネクタイを食べ物として認識しているというよりも、ただ単に齧りついて、その感触を楽しんでいるだけのようにも見える。

 ルイスは暫くの間、自分のネクタイが咀嚼されているさまを無言で眺めていたが、 おもむろに手を上げると、何を思ったか唐突にその指をディシールの口に突っ込んだ。

「ぅいー?」

 ディシールが声にならぬ声をあげ、その大きな金眼を更に見開く。

「本当だ――すごいな」

 小さな口の中、上下にあるわずかな盛り上がりをみせる歯茎から、小さな白いものが頭を出しかけているのを発見し、ルイスもまた子供のようにはしゃいだ声をあげた。

「もうこれ以上は成長しないのかと思ってたけど、そうじゃなかったんだな」

 またも泣き出しそうになったディシールを抱き上げながら、ルイスが感心したように呟く。

 再びぐずりかけたディシールは、ルイスの胸にしがみつくように身を擦り寄せた。

 すっかりお気に入りとなったネクタイを握りしめる手は相変わらずだったが、そうこうしているうちに、眠気をおぼえたのか動きが徐々に鈍くなり、とろんとした表情で瞼を下げはじめる。

「いいぞ、そのまま大人しく寝てくれ」

 ルイスが小さな額に唇を近付け、囁く。その眼には、それまで彼がこの赤子に対して抱いていたような警戒心は跡形も無かった。

 ルイスの翡翠色の瞳に見える、穏やかな光――ふと、そこに図書室で出逢った少女の面影がよぎる。

 シェプリーは慌ててかぶりを振ると、たった今思い浮かんだ幻を消し去った。

(どうかしてる――)

 本当に、今日の自分はどうかしている。疲労感に押しつぶされそうになりながら、シェプリーは胸の内でひとりごちた。

 やがてすっかり眠りに落ちた赤子を、ルイスは彼指定の寝床である揺かごへとそっと寝かせてやった。あと数時間後にはまた何らかの要求のために目を醒ますのであろうが、ともかくこれで当面の静寂は確保できたわけである。

 ルイスはやれやれと呟きながら揺かごの側から離れると、いつもこの部屋で飲んでいるスコッチのボトルを、壁際のキャビネットから取り出した。

 まだ飲むのかと思わず声をかけそうになったシェプリーだが、結局何も言わないまま、小さなグラスに琥珀の液体が注がれるのをじっと眺めていた。

 ルイスは注いだ酒の半量ほどを一気に呷り、口元を袖で拭った。

「歯が生えかけてるなんて、よくわかったな」

 キャビネットの上に肘をつき、グラスを弄びながらシェプリーを見る。

「飼っていた犬がそうだったから」

「犬?」

「うん……」シェプリーは壁に背を預け、付け加える。「子供の頃の話だけど」

「へぇ……」

 ルイスはそう言うと、視線をグラスの中身に落とした。

「初めて聞いた」

 ぽつりと漏らされたその響きに、シェプリーは微かな苦笑を返す。

 エンジェルの失踪事件に関すること以外について、シェプリーはルイスに話したことはない。ルイスが初耳だと言うのも当然のことだ。

 もっとも、話したところで、感じの良い話などはほとんどない。聞かされた方も、今以上に気まずい思いをするだけだ。

 そもそも、ルイスが探偵としての能力を発揮すれば、シェプリーがどんな道を辿ってきたのか、或程度は把握できているはずだった。それをしてないのは、ルイスがシェプリーに対して遠慮があることと併せて、彼自身もまたシェプリーに知られたくない過去を背負っているということなのだろう。

 ルイスが今までどんな人生を歩んで来たのか、特に何故警官を辞めたのかについて、シェプリーはルイスから打ち明けられたことはなかった。シェプリーも、自分からも訊ねようとも思わなかった。その結果、四年近くの付き合いになるというのに、二人はいまだに互いの詳しい生い立ちについて、ほとんど知らないままだ。

 だからといって、今更話すようなことは特に何も無いように思えた。少なくとも、シェプリーは友人が欲しくてルイスを雇ったのではないのだから。

「そうだね……僕も、今の今まで忘れていたことだから」

 シェプリーはそう言って口噤むと、ルイスから顔を背けた。

 そもそも、はっきりと思い出せて会話の種になりそうな出来事は、ほとんどが物心ついた後のこと。エンジェルと知り合い、ロンドンに引っ越してからのことが多い。それ以前のシェプリーの記憶は、霧の中に浮かび上がるシルエットのように不鮮明な事柄ばかりだ。

 シェプリーはぼんやりとしたその記憶を、そっとなぞってみる。

 エンジェルと出会ったのは、シェプリーが五歳の誕生日を過ぎてすぐの頃だった。

 その当時で比較的しっかりと覚えているものといえば、古い石造りの町並みを見下ろす丘と、その上に建つ大きな古い屋敷のことだけ――ブリストル海峡を臨む崖の上に建つ、シェプリーの生家での出来事だ。

 家族は――それを家族と呼べるのであれば、だが――仕事で年中家を空けている父と、病弱な母。母に付き添うメイドと家事をみるメイドの二人。そして、小さな犬が一匹だった。

 犬は、パ-シバルと言う名前だった。

 シェプリーはパーシバルのことが嫌いだった。何故なら、彼はいつもシェプリーの靴やお気に入りのおもちゃをボロボロにしてくれたからだ。

 何度新しく買い替えても、念を入れて隠しておいても、結果はいつも同じだった。パーシバルはお目当てのものを必ず探しあて、容赦なく粉砕してくれた。彼の寝床の中で無惨な歯形をつけられている品々を見つける度に、シェプリーは悲しい思いをしたものだ。

 それが子犬の成長期に伴う行動なのだということを知ったのは、大分後になってからのことだったが、それでもやはりシェプリーは彼の存在を受け入れることができなかった。

 憎たらしいパーシバル。耳障りな声で哭きながら庭を走り回り、常に母の膝の上を一人占めしていた、茶色の塊。いつの間にか家からいなくなっていた、スパニエルの仔犬――

(……え?)

 唐突に、ひやりとした感触がシェプリーの喉元を過ぎる。

 パーシバルの姿がいつから見えなくなったのかを全く覚えていないことに、たった今気付いたからだ。

 シェプリーは恐る恐る顔を上げ、ルイスを見た。

 ルイスはシェプリーの動揺に気付いていないようだった。新たに注いだ酒ををちびちびと舐めながら、揺かごの中で寝息をたてるディシールを眺めている。

 シェプリーはルイスの気を引かないようにそっとその場から離れると、いつも自分が腰を落ち着けている肘付きの椅子に座った。

 目を閉じて深呼吸をしながら、己の記憶を慎重に辿る。

 青く繁る芝生の上。大きなにれの樹と、その根元に広げたブランケット。

 降り注ぐ木漏れ日。潮の香が混じった風。そして、足下にまとわりつく、茶色の仔犬――

 霞んだ記憶はまるで紙芝居を見ているかのような感触ではあったが、間違い無くそれはシェプリー自身の記憶の中に残っているものだった。

 ――なのに、何故こうも胸騒ぎがするのだろう?

 断片的な映像は、辿れば辿るほど現実味が薄くなっていくような感じがして、シェプリーは酷く落ち着かない気分にさせられた。

 木漏れ日。犬の名を呼ぶ誰かの声。夕焼け――

 ざらりとした不快な気配――締め付けられるような感覚と得体の知れない重圧とが、シェプリーの頭上に圧しかかる。

 燃えるような色をした空と雲。どこまでも広がる空は夕闇に映えて、赤く、紅く、アカク――

 襟元をまさぐる指が小さな指輪を探り当てると同時に、ずきりと目の奥が痛んだような気がして、シェプリーは慌てて意識を過去から引き上げた。

 途端、得体の知れない重圧は潮が引くように消えてゆく。

 シェプリーは知らぬ間に力を込めて握り締めていた掌を開くと、小さくかぶりを振った。

 多分、疲れているのだ。図書室では頭痛の発作に見舞われたし、相変わらず夜は碌に眠れていない。

(気のせいだ……)

 そうだ、自分の思い過ごしに違いない。

 あらゆることが一度に起こったせいで、疲労のあまり、精神が疲弊しているのだろう。だから些細なことでも不安になるのだろう。そうに決まっている。

 シェプリーは背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。

 大体、あの頃はあまりにも沢山のことが一度に起こった時期だった。

 エンジェルと出会い、母が体調を崩して入院をし、そしてロンドンへと移り住んだ。次から次へと沢山のことが起こり、環境も激しく変化したのだから、五歳程度の子供が細かいことをいちいち覚えていられるはずかない。

 おそらく、パーシバルは母と共に家を離れたのだろう。あるいは、その際に飼うことができなくなったからと、どこかへと貰われていったのかもしれない――いや、きっとそうだ。他に考えようがない。

 中途半端に放り出された気分のままではあったが、シェプリーはそう結論付けた。とにかく何も考えたくないほどに疲れきっていた。もはや、セルマが用意してくれた夕食はおろか、つい先程食べようと思ったケーキさえ、もうどうでもいいという気分になっていた。

 これ以上煩わしいことに関わって悩みごとを増やしたくはない。エルリックからの伝言をルイスに伝えて、さっさと自室に上がってしまおう――シェプリーはそう決意すると、ネクタイを片手で緩めながら、いまだディシールの寝顔を見つめているルイスに向かって言った。

「ルイス。さっき、エリックから電話があったよ」

「何だって?」

 ルイスが不意打ちを食らったような顔で、シェプリーを見る。

「車は明日返すって」

「そうか。わかった」

 短い返答と共に、ルイスの視線が再びディシールに向かう。

 その仕種に、シェプリーは何故か軽い苛立ちをおぼえた。

「ルイス」

 思いがけず険のある声が出てしまい、シェプリーは自分でやっておきながら、酷く驚いてしまった。

 ルイスも驚いたのか、怪訝な表情を浮かべてシェプリーの様子を窺う。

 何でもないと答えようとして、けれどシェプリーの口は咄嗟に違う言葉を放っていた。

「いいものって何?」

「いいもの――?」

 ルイスは眉間に皺を寄せる。

「エ……エリックが、電話で、僕にって……」

 シェプリーの途切れ途切れの説明に、首を傾げていたルイスの表情が弛んだ。

「あぁ、そうだ。そうだった――」

 ルイスはソファの背に無造作に放ったままの上着を手にとり、ポケットから少し折れ曲がった白い封筒を取り出した。

「お前に渡してくれって、頼まれていたんだ」

 少し厚みのあるそれには、見覚えのない印で封蝋がしてあった。

 中には、二つ折りになったカードと、流暢な手書きで綴られた手紙が一通。

 目で文書を読み進めるシェプリーの表情が、みるみる困惑の形に変わる。

「どうした?」

 シェプリーは困惑した表情のまま、無言でルイスに便箋を差し出した。

 受け取り、目を通すルイスにも困惑がうつる。

 それは、ジェレミー・オークウッド卿――エルリックの叔父で、〈ナイト〉称号を持つ精神科医師であり、SPR会員でもある人物からの招待状だった。

 エルリックが幽霊屋敷での出来事をつぶさに話したのだろう。さすがにSPR会員である彼は、その内容を非現実的だと否定せず、真剣に耳を傾けてくれたらしい。そして可愛い甥っ子の窮地を救ってくれたシェプリー達に対し、畏まった礼状というよりは、親しみを感じさせる柔らかな文面で、感謝の手紙をしたためたのだった。

 そして、更には、よければ一度直接会って話をしたい、近々著書の出版記念パーティーを予定しているので、是非出席して欲しいとの旨まで書き加えられていた。同封のカードは、そのパーティーへの招待状だった。

「なるほどな。そう来たか」

 ルイスが苦笑を浮かべ、何度も頷く。複雑な表情で自分を見つめるシェプリーに、ルイスは読み終えた便箋を返した。

「折角の御招待なんだ。行ってきたらどうだ?」

「でも……」

 シェプリーは開いたカードを半ば睨みながら、口を尖らせる。

 いくらエルリックの身内とはいえ、シェプリー自身はSPRに良い印象を持っていなかった。精神科医という存在についても同様だ。

「ルイスは?」

「俺は、婆さんと二人で仲良く子守りでもしてるさ」

 不服そうにしているシェプリーに、ルイスは言った。

「いいじゃないか、行ってこいよ。あいつが信頼している人物なんだ、損をすることないだろう。少なくとも――」一旦口を噤み、視線を逸らす。「――三流探偵よりは役に立つだろうしな」

「……ルイス?」

「何でもない」

 ルイスの顔に一瞬浮かんだ笑みは、大きな片手の下に隠れて消えた。

「そういえば、何か収穫はあったのか?」

「え?」

「図書館。行って来たんだろう?」

 視線を逸らしたまま、ルイスはシェプリーにたずねる。

「うん……まぁね……」

 シェプリーは言葉を濁した。〈印〉について理解した内容を話すべきかどうか、迷ったのだ。

 だがルイスは、「そうか」と短く言っただけで、シェプリーに背を向けた。

「今日はもう休んだらどうだ?依頼だって来そうにないし、チビの面倒も、後は俺が全部見ておくから」

 シェプリーは、即座に返答できなかった。

 ルイスの広い背を暫くの間じっと見つめていたが、結局何も言わずに自室に戻ることにした。

 狭く急な階段をのろのろと上がりながら、シェプリーは頭の中で、つい今しがたのルイスの態度を何度も反芻する。

 普段の彼であれば、シェプリーに何か収穫があったとわかったなら、理解出来ずとも可能な限り状況を把握しておきたがるはずだった。

 なのに、今日はそれをしなかった。それどころか、自分のことを三流とまで卑下してみせた。

(僕のせい……だよな……)

 シェプリーの胸の奥が、しくりと痛む。

 ルイスは、シェプリーの追うものが自分の手に負えない領域に入っていることを悟ったのだろう。そのように自信を喪失させるほど、自分は彼を追い込んでしまったのだ。

 とはいえ、幽霊屋敷で遭遇したような魔物を目の当たりにしてしまえば、どんなに胆の座った男でも逃げ出したくなって当然であろう。ルイスがああいう態度をとるのも無理もない。

 どのみちシェプリーも、これ以上ルイスに負担をかけることに躊躇いを感じていた。一緒に事務所に居ても、図書室でも考えていたことをいつ切り出せばいいのか、ついそればかりを考えてしまう。

 やはり、そろそろ限界なのだろう――シェプリーは重い念いを抱きながら、自室の扉を開けた。

 照明のスイッチを入れ、シェプリーは数年間活動拠点としてきた場所を見渡す。

 セルマのおかげで多少片付いた自室には、数年の間に蓄積された数多くのものが詰まっていた。それらを眺めていると、あと一年あるという気持ちと、もうあと一年しかないという気持ちが、胸の内でせめぎあう。

 考えまいとしても考えてしまう終りの予感に、シェプリーは洟をひとつすすると、ベッドの縁に腰掛けた。

 外したネクタイ、脱いだ上着、ズボンのポケットに入っていた数々のものを、ベットサイドのテーブル上に放る。最後に取り出したものを同じように放ろうとして、シェプリーはふとその動きを止めた。

 白い小さなハンカチ――図書室での出来事が、鮮明に蘇る。

 シェプリーはハンカチをサイドテーブルにそっと置き、その上に自分の眼鏡を乗せた。そして倒れ込むようにベッドに横になり、枕に顔を埋める。

 夜毎の夢に期待することをやめてから、一体どれほどの日々を過ごしただろう。シェプリーは長い一日がやっと終わることに安堵を憶えながら、同時にこれから始まる新な悪夢に怯えながら、ゆっくりと目を閉じた。




「一日の始めには、栄養のある良い食事をきちんとなさいますように」

 シェプリーが図書室で〈印〉の意味に気付き、ルイスが深酒をし、ディシールに歯が生えたその翌日。

 朝というにはやや遅く、昼にしてはまだ早い時間、広くもない事務所に運び込まれた大量の食事を前にして、シェプリーは内心うんざりした溜息をついていた。

 ヴィクトリア朝に舞い戻ったかのような献立など、どう頑張っても食べ切れるものではないとわかりそうなものなのに、セルマは男どもが胃袋にしっかり詰め込むまで席を立つことを許さなかった。前日折角作っておいた夕食がほとんど手をつけられていなかったのが、よほど腹に据えかねたとみえる。

 シェプリーに言わせてみれば――今ここでそれを述べるような時間が彼に与えられればの話だが――まだ内臓も目覚めていないような起き抜けからこのようなどっしりとした重い食事をとるなど、まったく狂気の沙汰としか表現のしようのないものだった。

 普段であれば、一枚のトーストか数枚のビスケットにジャムとクリームを乗せたものとゆで卵が一つ、それとミルクと砂糖をたっぷり加えた紅茶だけも充分の彼にとっては、セルマが用意したこの朝食は、まさに拷問のような献立であった。

 それなのに、ルイスは二日酔いの頭を抱えながらも黙々と辛味をきかせた鶏脚を口に運び、エルリックなどは「さすがはセルマだね」などと誉めちぎりながらケジャリーと焼いたマッシュルームとトマト、キドニー、パンケーキなどを頬張っている。

「さぁさ、もっと召し上がってくださいな。特に、ウーブルさんは精のつくものが必要です。そんな顔色をなさっているのは、血が足りない証拠です」

 切り分けたハムを何枚も皿に乗せようとするセルマに、シェプリーは抵抗する気力すら涌かなかった。

 この世には個人差というものが存在するのだということを彼女に説明して理解してもらうのが早いか、自分の血管が脂で詰まって死ぬと一体どっちが早いかと考えながら、どうにか彼女の納得する量を食べようと苦労に苦労を重ね、物理的な限界がもうすぐそこまで来ているというところで、ようやく開放されたのだった。

 その甲斐あってか、壮絶な朝食が終る頃にはセルマはいつもの穏やかを取り戻していた。もとより、エルリックの無事とディシールの成長を知ったときから、彼女の頭は喜びで一杯だったのだ。朝食は単なる当てつけにすぎない。

 粗方片付いた皿を鼻歌混じりで下げるセルマの姿を眺めながら、シェプリーは胃に溜まった脂などさっさと溶けて流れてしまえとばかりに、給仕された熱い茶を啜る。

 その隣では、とっくの昔に食事を終えていたルイスとエルリックが、来客用のソファーで寛ぎながら他愛もない会話に興じていた。すぐ側では、揺かごから落ちない程度に顔を覗かせたディシールも、久しぶりに顔を見るエルリックに向かってはち切れんばかりの笑顔を振りまいて、その存在を懸命にアピールしていた。

「ああ、デイス――可愛いデイス。君に会えずにいた日々のどんなに辛かったことか!」

 エルリックはまるで舞台でやるような大仰な動作でディシールのもとに歩み寄ると、その小さな身体を抱き上げた。

「お前は本当に美しいね。まるでヴァンの猫のようだよ」

 トルコにしかいないといわれる金の瞳をもつ白猫に例えて、エルリックはディシールの特異な容姿を褒めちぎり、丸い頬にキスをし続ける。高価な服が大量の涎で汚れるのもお構いなしの溺愛ぶりに、半ば呆れ顔をしたルイスが野次を飛ばした。

「お前、女に対してもそうやって同じことを言っているんじゃないのか?」

「綺麗なものを綺麗だと言うのは当然のことだよ。長所を褒めるのは悪いことかい?」

 むっとした表情で、エルリックが反論する。

「悪かないが、限度ってものがあるだろう。大体、そいつがお前の言葉の意味をわかっているとでも?」

「ルイス――」エルリックは心底憐れむような視線をルイスに向けた。「赤ん坊を馬鹿にしちゃいけない。こうみえても、この子たちは大人の言うことをちゃんと聞いているんだから。酷いことを言われたら、それなりに傷付く心を持っているんだよ」

「あーはいはい、そうですか。そりゃぁ悪ぅございましたね」

「 君、真面目に聞いてないね? 今のは本当のことなんだぞ?」

 まだ知り合ってから一ヶ月も経っていないというのに、二人の会話は十年来の友人との間で交わされているようなごく自然のものだった。日毎に、そしてこうしてふざけ合う度に、彼らの親密度は目に見えて高くなっている。

 シェプリーは重い胃を抱えながら、彼らのやりとりを離れた場所からぼんやりと眺めていた。

 口を開けば胃の中のものが逆流しかねない状態だったから黙っていたのだが、そうでなかったとしても、自分が彼らの間に入り込むような余地は無いように思えた。

 今朝、階下で顔を合わせたとき、ルイスは特におかしな素振りは見せなかった。昨晩のことなどまるで覚えていないかのようだった。

 そして、シェプリーもそのことを蒸し返すつもりもなかった。

 ――ならば、それで良いではないか。

 カップの底に沈んだおりに視線を向けるシェプリーの小さな溜息は、エルリックの声に容易くかき消された。

「ああ、デイス。ルイスを許してやっておくれ。あんなこと言うおじさんだけど、根はとっても正直で良い人なんだ。ただ、ちょっと物を知らないだけでね」

「どさくさに紛れて何を吹き込んでやがる」

「痛っ、蹴らなくてもいいじゃないか。冗談のわからない人だなぁ」

「お前が余計なことを言うからだ」

「ちぇっ、乱暴なんだから」

 もう一発、爪先で軽く臑を小突かれて、エルリックは拗ねたように口を尖らせる。

 しかし、彼が本気で気分を害したわけではないのは、誰の目から見ても明らかであった。

「デイス、あっちへ行こう。これからは何かあっても、乱暴なおじさんは助けなくてもいいからね」

 言い返すのも疲れたのか、ルイスは苦笑を漏らすだけで深追いはしなかった。

 深酒後の痛烈なひとときによって精彩を欠いていた彼も、食前に飲まされたセルマ特製の酔い醒ましによって中和され、今ではすっかり元の顔色に戻っている。薬というよりは毒としか思えぬ代物ではあったが、効果の方は覿面てきめんだった。

「それより、エリック。お前、いつまで婆さんをうちに預けるつもりなんだ?」

 ここは養護院じゃないんだぞと、本人が耳にしたら憤慨しそうな台詞をルイスは吐いた。幸い、セルマは食器の片付けのために地下へと降りていたため、そのような事態にはならなかったが。

 五十という年令に達していながらも、セルマは極めて健康な身体を維持していた。彼女の足腰はしっかりしているし、手先も器用で頭の方も申し分ない。

 普通ならとっくの昔に引退しているであろう家政婦をつい最近まで続け、今もまだこうしてエルリックの世話を続けているのは、ノーマン家での生活が相当に恵まれたものだったのであろう。現当主であるエルリックの父、そして先代である祖父のひととなりが窺い知れるというものだ。

 そして今、次期当主であるエルリックは小さな赤ん坊を抱いたまま、ルイスの足が届かない位置まで避難し、言った。

「デイスのおむつが外れるまで、ってのはどう?」

 眉間の皺を深くするルイスに、エルリックはけらけらと笑ってみせる。

「冗談だよ。でも、そうだね。できたらあと一週間はお願いしたいな。何しろ彼女ときたら、僕が広げた本を片っ端から片付けようとするんだもの。あれじゃ、落ち着いて調べものなんて出来やしない」

「……だとさ」

 ルイスが呆れたように苦笑を漏らし、シェプリーに目を向ける。

 判断を促されたシェプリーは「お好きなように」とだけ答え、同じく苦笑しながら首を竦めた。

 食事の前、セルマが支度をしている間に、シェプリーはエルリック本人の口から今まで彼がどこで何をしていたのかと、その目的について説明を受けていた。

 ルイスと同じく、シェプリーはこれ以上エルリックを関わらせることに躊躇いを感じてはいたが、反面、何をするにも暫くの間はエルリックの協力が必要であることもわかっていた。

 シェプリーは罪悪感を懸命に隠しながら、エルリックに話し掛けた。

「エリック。昨日、ルイスから受取ったものについての返事だけど」

「考えてくれた?」

 期待と不安とが雑じる複雑な表情を浮かべ、エルリックはシェプリーを見る。

 その腕に抱かれたディシールもまた、己の指をしゃぶりながらシェプリーをじっと視線を注ぐ。

 己に向けられる金目に対する恐怖を自覚しながらも、シェプリーは勤めて平静を装い、頷いた。

「いいよ」

「本当!?」エルリックはぱっと顔を輝かせた。「ありがとう! 早速叔父に伝えておくよ」

「その代わり、一つ頼みがあるんだけど」

「頼み?」

 間髪入れず続けられたシェプリーの台詞に、エルリックは戸惑いを隠せなかった。

一体どんな要求をされるのだろうかと顔色を窺うエルリックの様子に、シェプリーは小く笑ってみせた。

「そんな警戒しなくてもいいよ。大金を寄越せとか、そんなことを言うつもりはないから」

 シェプリーは空になったカップをテーブルに戻すと、組み直した膝の上に手を乗せた。

「大英博物館の特別閲覧室――その利用許可が欲しい」

 真直ぐ切り込むような視線を向けられ、エルリックは僅かにたじろいだ。

「特別閲覧室って……図書室の?」

「そう。許可証が無理なら紹介状でもいい。何とか取り付けてもらえないかな」

 そこに自分が求めている情報があるという保証はない。しかし、シェプリーはこれ以上無駄な時間を過ごすのは避けたかった。エルリックが幽霊屋敷から持ち出した書物を読み解くよりも先に、ルイスが深みに嵌るよりも前に、あらゆることを見極めなければならない。

 エルリックは瞑目し、暫し何かを考えるかのように俯いた。だが、すぐに顔を上げてにっこりと笑うと、大きく頷いてみせた。

「わかった。少し時間がかかるかもしれないけど、何とかしてみせるよ。任せておいて」

 そして、火の付いてない煙草を指先で弄んでいるルイスにも訊ねた。

「ルイスは?」

「俺は遠慮しておく」

「何も要らないってこと?」

 小首を傾げるエルリックに、ルイスは苦笑した。

「そうじゃない。出席するつもりはないと言ったんだ」

「えぇっ!?」

 エルリックは頓狂な声をあげた。てっきり出席してくれるものだとばかり思っていたらしい。

「どうして? 服なら貸すよ?」

「そういう問題じゃない。大体、お前のサイズが俺に合うわけないだろう」

 笑い者になるのは御免だと、ルイスは渋面で片手を振った。

 長身のルイスといえども、すらりと伸びたエルリックの手足には僅かに及ばない。名士が集うとわかっているような場所に、丈の合わない服など着て行けるわけがない。

「いいじゃないか。俺に構わず、二人で楽しんで来いよ」

 エルリックは救いを求めるような顔でシェプリーを見たが、シェプリーもまた先と同じように僅かに首を竦めるしかない。それがルイスの出した結論である以上、シェプリーにはどうしようもないことだ。雇い主としてルイスに命令することはできるかもしれないが、そのような無理強いまではしたくない。

 エルリックに抱かれたままのディシールが、きょとんとした表情で三人の顔を交互に見つめた。それまで和やかだった雰囲気の変化を、敏感に感じ取ったのだろうか。

「うー?」

 不安げな響きをもつ小さな声に、エルリックは我にかえる。

「何でもないよ。何でもないから、安心して」

 エルリックは自分を一生懸命見上げているディシールに微笑みかけると、小さな白い額に頬を寄せた。

 と、そこへ台所での片付けを終えたセルマが戻って来た。手には、蓋付きの大皿が乗ったトレイを持っている。

「お待たせしました。杏のプディングが御用意できましたよ――あら? どうかなさいました?」

 エルリックでさえ苦笑を浮かべる中、蓋も取らぬうちから漂う甘酸っぱい香りに喜びの声をあげるのは、尽きることない旺盛な食欲を示すディシールただ一人だけであった。


 それから暫くの間は、極めて平穏な日々が過ぎていくばかりだった。

 まともに広告を出していなかったというものあるが、幽霊屋敷事件以来、事務所にはこれといった調査依頼は来なかった。

 常時暇そうにしているとまたセルマにこき使われるのではと考えたのか、ルイスは時折外に出ていくようになった。彼がどこで何をしているのかシェプリーはよくわからなかったが、もともと依頼の無い時には好きなようにして構わないというのが契約時の条件であったので、ルイスがそのことをいちいち報告する義務はなく、またシェプリーも彼の行動を逐一把握する必要はなかったのだから、特に問題は無かった。

 エルリックは戦利品の書物に向き合う時間が増えたため、以前ほど頻繁に事務所を訪れることはなくなった。稀に気晴らしでもするかのように顔を出し、ディシールを可愛がりながら、どこまで解読が進んだかをシェプリーに報告することもあったが、さすがに膨大な書物を繙くには時間が足りず、まだこれといった具体的な進展は無いようだった。

 セルマはエルリック共に事務所と主人の部屋とを往復するかと思いきや、エルリックの都合によりまだ事務所へと終日遣わされ、ディシールの世話に専念していた。歯が生えたとはいえ、ディシールはまだまだ手のかかる乳児の状態だからだ。

 そのディシールは相変わらず一日の大半を寝て過ごしていたが、しかし少しずつではあるが徐々に変化を見せるようになっていた。

 普通の赤ん坊とは成長の仕方が違うせいか、盛んに床を這い回るということはあまりなかったが、それでも起きている時にはいろんなものに興味を示したり、拙いながらも自分の意志を表現したりして、エルリックとセルマを大いに喜ばせた。

 そして、シェプリーは。

 ――彼はほどんど一日を自室に篭り、過ごしていた。

 頼るべき伝手があるわけでなし、行く宛すらない。気晴らしで市内に点在する各種博物館を巡ってみてもよかったが、どこかで緑の瞳をもつ少女にまた出会うのではないかと思うと、あらゆる気力が挫かれるような、そんな気分になっていたのだ。

 別に、少女の存在自体を怖れているわけではない。ディシールを怖れているような感情とも違う。だが、彼女に会ってしまうことで、シェプリーは自分が誰かの掌の上で踊っているのを否応なく実感させられるのが嫌だった。第一、あのような態度をとった以上、合わせる顔などない。

 シェプリーは屋敷の地下でディシールが自分に告げた数々の言葉と、指輪によって拓かれた世界でエンジェルが自分に託した幾つもの言葉を自らの記憶の中で辿り、そこに込められた意味を探ることに没頭し、少女の件を頭の中から追いやることにした。図書室で閃いた遺跡と指輪との関係と、引出しに仕舞ったままの写本コーデックスの意味を探る方がよほど重要だと思えたからだ。

 しかし、それらを追うために彼に遺された手掛かりはほとんど無かった。最も有力な手掛かりであるはずの遺跡調査時の資料は、あの嵐の夜にエンジェルと共に全て紛失してしまっていたからだ。

 エンジェル自身が長年に渡って続けてきた調査と推測、そして考察、これらを裏付けるために行った数年に渡る遺跡調査の足取り――それらは全て、たった一晩で失われていた。

 シェプリーの手許に残されているのは、彼自身が使っていメモ程度のノートが数冊だけ。記憶に頼って足取りを追おうにも、数年分しかその足跡を知らないシェプリーにはどこから手をつければ良いのか、どこに注目すれば良いのか見当もつかないような状況である。

 ベッドに寝転びながら、シェプリーは幾度となく天上に向かって恨めしい視線を向けた。

 一体何の皮肉か。ずっと側にいたのに、エンジェルは彼が追うものについて一言も教えてはくれなかった。

 何故そこまで徹底して隠蔽する必要があったのだろうか。そうしておきながら、何故最後の数年だけはシェプリーを調査に同行させ、あのような結末を迎えたのだろうか。

 考えれば考えるほど、シェプリーにはエンジェルの思惑が理解できなかった。しかし、不思議と以前ほど大きな焦りは感じなかった。

 指輪によって拓かれた時間――そこで聞いたエンジェルの一言が、シェプリーに希望を与えていたのだ。


『たった今、荷を運ばせたところだ』


 エンジェルが一体どういう手段を使ったのかはわからない。だが、確かに彼はそう言った。

 襲撃されるそのまさに直前に、自らが何者かに荷物を託し、運び去ったのだと。

 それは、ずっと自分の周囲を取り巻いていると思われた分厚い壁に、隙間があるのを発見したようなものだった。

 もし彼のその言葉が真実であるのなら――後の未来を見通した上で、そこまでエンジェルが手を尽くしてくれていたのなら――隠蔽されたそれらは、いつか必ずシェプリーにもたらされる時が来るだろう。小さな指輪が 四年の歳月を越え、シェプリーの手に託されたように。

 それがいつ、どこで、どのように、一体どんな方法でもたらされるのかは全く予想がつかなかったが、それでもシェプリーは、自分が八方塞がりの状況ではないというのを知っただけでも充分だった。

 だからシェプリーは追うのではなく、待つことにしたのだ。

 ただし、無為に時間を潰していては意味がなかった。いつそれがもたらされても慌てなくて済むように、それまでに準備をしておかなければならない。

 シェプリーはずっと考えていた。まず何をしなければならないのか、何をしておくべきなのかを。

 そして、辿るべきだと思われる道を、ようやく絞り込むことができた。

(〈水晶眼〉……)

 幽霊屋敷の地下で、小さな水晶が繋いだ過去と現在のビジョン。瀑布に打たれるかのごとく、次々と脳に流し込まれたあまりも多くの情報――その最後に一瞬だけ〈視〉たもの。

 荒れ果てた荒野で、篝火を前に何事か儀式めいたものを行使していた謎の人物。

 その人物は、自分と同じ色の瞳を持ち、そして極めてよく似た顔立ちをしていた。

 あの時のシェプリーの意識はかなり朦朧としていたが、それでもディシールが囁きかけた内容は、シェプリーの脳にしっかりと記録されていた。

 少なくともシェプリー自身には、あの場所であのような行為をした憶えは無い。であるとしたら、あれは過去に存在した自分の血に連なるうちの一人なのだろうか。それとも、ただ単によく似た特徴を持つ全く別の人物なのだろうか。

(……いや、違うな)

 シェプリーはベッドの上に寝転ったまま、静かに天上を睨む。

 おそらく――否、彼は間違い無く自分の血族だろう。

 ディシールは〈水晶眼〉は数百年に一人生まれるかどうかの極めて珍しいものだと言ったが、シェプリーは知っていた――もう一人、同じ色の瞳をもつ人物がこの世に存在していることを。

(母さん……)

 エマ・ウーブル――シェプリーとよく似た顔立ちをした、沈黙と静寂の中で生きる女性。

 もしエンジェルが自分に指輪を託した理由が、この〈水晶眼〉というものにあるのだとしたら。

 もし彼が何らかの手段で未来を見通し、自分という小さな存在を見いだすことになった理由が、この特殊な能力をもつ瞳だったとしたなら。

 幽霊屋敷にて、ディシールはシェプリーに「己が何者かを知るだろう」と言ったが、結局それは果たされぬままに終った。様々な要因はあれど、シェプリーは最後まで映像を〈視〉ることができなかったからだ。

 ならば、まずはそれを知らなければならない。自分が何者なのか、そのルーツを。

 シェプリーは身を起して壁際の本棚に手を伸ばすと、大きな国内地図を取り出した。

 膝の上で広げ、視線と指先で道を辿ってゆく。

 ロンドンを出た指は、ずっと西を目指して地図上を滑っていった。ソールズベリー、エイムズベリーを通過し、ウィルトシャーをも越え、ある一点でようやくその動きを止める。

 謎の人物が儀式を行っていたと思われる場所を特定するのは、それほど難しいことだとは思わなかった。周辺の風景はコーンウォールや、それこそ幽霊屋敷のあったダートムーアの荒野に似ていなくもなかったが、そこにははっきりとした特徴を持つものが映っていたからだ。

 〈スタントン・ドゥルー〉――シェプリーの生まれた街、ブリストルにほど近い場所にある環状列石。そのうちの一つ、〈ザ・コーヴ〉と呼ばれる特徴的な形をした石が、あの光景の中にはっきりと映っていたのだ。

 今の時代ならばすぐ近くに建っているはずの教会が一切見当たらなかったところをみると、少なくとも七百年か、あるいはそれよりもずっと昔の時代だろう。

 近くには〈ドゥルイズ・アームズ〉と呼ばれる別の石もあり、ドルイド僧と深く関わりがある場所だとの言い伝えがある。そうでなくとも、あの一帯には古くからの伝説が多く語り継がれている土地だった。

 そして、あの人物が執り行っていたいた儀式の最中、あるいは最初に幽霊屋敷の地下から戻った直後に夢で聞いたものが、何よりも如実にその素性を物語っていた。


 ――いあ! しゅぶ・にぐらす!

 ――千の仔を孕みし黒山羊よ!


 〈シュブ・ニグラス〉というものが何なのかシェプリーにはわからなかったが、後に続く黒山羊という句が、その正体をほのめかしていることだけは理解できた。

 脳裏によぎったそれを確認するのはとても恐ろしいことだった。

 それでもシェプリーは、真実を知らなければならなかった。自分自身の為にも、師の遺したものを真に受け継ぐ為にも。

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