05:守護天使(1)
小雨混じりの天気の中、郊外に程近い場所にある小さな家の前に立ったシェプリーは、静まり返った周辺の様子を耳で伺いながら、自身の記憶との葛藤を続けていた。
いつものごとくルイスがどこかに出かけ、エルリックが事務所に顔を出す素振りも見せなかった日の午後、シェプリーは事務所を抜け出して、数年前に飛び出した自分の家を訪れた。
エルリックの叔父ジェレミーから招待されたパーティーが明後日の夜に迫っていたのだが、事務所にはそこに出席できるような服を置いていなかったからである。
本当ならもっと早くにここを訪れ、用件を済ませてしまうつもりだった。しかし、いろいろと思い悩むうちに、服のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
シェプリーは玄関前に立ち、色褪せた扉と、そこに嵌っているプレートをじっと見つめた。
ブリストルからロンドンに引越して以来、シェプリーはほとんどの時間をこの家で過ごした。
ここは市内とは違い、霧の濃い日に妙な咳が出ることもない。閑静な住宅街は、体の弱いシェプリーには最適の場所だった。
そうして体の弱さと精神の不安定さがすっかり落ち着いた十八歳のとき、シェプリーはエンジェルの研究を手伝うために初めて海外に出た。
その時の記憶は、シェプリーの中で今も鮮烈な輝きを放っている。
活気づく港、賑わいを見せる異国の市場、図鑑の中でしか知らなかった植物や生物、灰色の曇天ばかりのイギリスとは違い、常に透き通った光に満ちた青空、そこから降り注ぐ陽光に煌めく海、焼けつく砂漠などなど――
どれもが新たな感動に輝いていた。どれもが未来への希望に満ちていた。そして、それらは永遠に続くのだと思っていた。
シェプリーは俯き、小さな溜息を漏らす。
子供じみた幻想は呆気無く砕かれたというのに、一体いつまでその残骸を引き摺って歩くつもりなのか。そんな自分の姿に父親が良い顔をしないのも、今ならわかる気がした。
シェプリーは深呼吸をすると、扉脇に控えめに設置してある呼び鈴を押した。
大丈夫だと何度も自分に言い聞かせ、気分を落ち着ける。平日の今頃であれば、父親と顔を合わせて気まずい思いをすることは無いはずだ。
間もなく、慌ただしく廊下を走る足音がしたかと思うと、扉の向こうから血色の良いやや太り気味の女が姿をあわらした。
「お帰りなさいませ旦那さ――あら、まぁ!」
丸い目を更に丸く見開き、彼女は――ウーブル家で奉公をしているエミリー・エヴァンズは、玄関先に立つ予想外の来訪者に向かって声をあげた。
「シェプリー坊ちゃんじゃないですか。あらあら、一体どうして――」
そこまで言って、エミリーははっとして口元を押さえた。
「いえ、そんなことを言ってはいけませんね。お帰りなさいませ。お変わりありませんでしたか?」
知った顔が出迎えてくれたことと、彼女が心から自分の帰宅を喜んでくれているのを知って、シェプリーがそれまで抱えていた不安は少しだけ和らいだ。
「ありがとう、エミリー。僕の方は何とかやってるよ。それより、その、坊ちゃんって言うの、やめてくれないかな」
もう大人なんだからと苦笑しながらシェプリーが言うと、エミリーも苦笑を返した。
「あら、ごめんなさい。つい癖で」
「そっちも変わりはないみたいだね」
「ええ、私の方も、この通り」
エミリーは、ウーブル家がロンドンに移ってから雇った家政婦だ。
長年母に付き添っていた看護婦以外は、ブリストルを去る前に皆解雇してしまっていた。
古い習慣から脱却しようとする世相もあってか、はじめのうちはなかなか働き手が見付からなかったが、エミリーは割と早い次期にウーブル家の求人に応じ、採用されのだった。
彼女の存在は、シェプリーの酷く不安定だった精神を落ち着かせることにも一役かっていた。
多忙で家を空けることの多い父と、入退院を繰返す母。そして、痩せて頬骨の飛び出た看護婦――彼女は口にこそ出さないが、シェプリーやエンジェルのことを好ましく思っていなかった。今にして思えば、異質なものに対する防衛反応を無意識に――本能的に――とっていたのだろう。
一方エミリーは、迷信にはとらわれない進歩的な考えの持主だった。エンジェルのようにシェプリーの持つ不思議な力についての知識は無かったが、不可解な出来事に驚きこそすれ、それらを不吉なものとして受け取ることがなかったのだ。
誰かからの冷たい視線を受ける度に、また周辺の人物の心の動きに触れる度に、子供だったシェプリーは何とも形容のし難い感情が自分の内に沸き上がるのに我慢できず、エミリーやエンジェルによく泣きついたものだ。二人は、シェプリーにとっての数少ない味方であり、最後の砦だった。
「さ、いつまでもそんな所に立っていないで」
エミリーは昔と少しも変わらぬ笑顔を浮かべてシェプリーを家の中へと招く。つられてそのまま足を踏み入れそうになったシェプリーは、しかしすぐに我に帰り、首を振った。
「ここでいいよ。服を取りに来ただけだから」
「服、ですか?」
首を傾げるエミリーに、シェプリーは経緯を省き、パーティーに招かれたことだけを説明した。
「そうでしたか」訝し気だったエミリーの表情が、更に曇る。「でも、それでしたら、一度ちゃんと出してみた方がよろしいのでは?」
「そうかな。大丈夫だと思うけど」
盛装用の服を仕立てたのは、エンジェルとの調査旅行に出る前のことだった。あれからは多少痩せたかもしれないが、大きく体型が変わったり身長に変化があったわけではない。多少の綻びなら、セルマに言えばすぐに繕ってくれるだろう。
だが、エミリーもまた頑として譲らなかった。
「いいえ、いけません。そのような会合に御出席されるのでしたら、やはりそれなりの準備をなさらないと」
きっぱりと言う彼女に、シェプリーはもはや苦笑を返すしかない。
セルマほどではないが、エミリーもまた彼女の仕事にそれなりの矜持を持っている。いい加減な仕事をして、主人に恥をかかせたくないのだろう。
エミリーに背中を押されで渋々家の中に足を踏み入ったシェプリーは、困惑の表情を彼女に見られないように俯いた。
(参ったな……)
あらかじめ電話をかけてしておくべきだったのだろうが、他事で頭が一杯だったシェプリーにはそこまで考えが回らなかった。服だけを受取ってすぐに戻ろうと考えていたのに、このままでは一番会いたくない人物と顔を合わせなくてはいけなくなってしまう。
そして、そんなシェプリーの嫌な予感を裏付けるがごとく、エミリーが口を開いた。更なる困惑と戸惑いを与える一言と共に。
「そうそう、もうじき旦那様がお戻りになりますよ。奥様と御一緒に」
「何だって?」上着を脱ごうとした姿勢のまま、シェプリーは動きを止めた。「母さんも?」
シェプリーのただならぬ様子に、エミリーもまた驚き、上着を受取ろうとして伸ばした手を宙に泳がせた。
「ええ、今日が丁度退院の日で、旦那様が今朝からお迎えに行かれて……もしかして、御存知なかったんですか?」
シェプリーは首を振った。
年中仕事のことしか頭にない父のことだから、顔を合わせなくても済むようにと平日のこのような時間を選んでわざわざ出向いたのに。しかも、狙い澄ましたかのように母まで共にやってくるとは。
エミリーも、親切心のつもりで明かしたことが、はからずしもシェプリーに大きな衝撃を与えたことに、驚きと後悔の念を隠せなかった。
「そうですか……てっきり、そうだとばかり……」
気まずそうに呟き、そっと目を逸らす。
「いいよ。エミリーのせいじゃない」
シェプリーは小さく笑うと、自身もまた視線を外した。
「それより、もうすぐ父さんたちが戻ってくるんだろう? 僕なら大丈夫だから。ほら、まだいろいろと支度があるんじゃないのかい?」
シェプリーが水を向けると、エミリーは申し訳なさそうに一礼をし、家の奥へと引っ込んだ。
シェプリーは自分で上着をコートハンガーにかけ、ここを出て行って以来、少しも変わっていない玄関を眺めた。
片隅には、エミリーが活けた花が飾ってあった。今日のためにわざわざ父が用意させたのだろう。今が盛りと誇らし気に咲く花の香りにまとわりつかれ、シェプリーは顔をしかめた。
多少の彩りがあったところでこの家に満ちる陰鬱な空気が払拭できるわけではないのに。かえって空々しさが目立つこの寒々しい空間で、しかしシェプリーはどこにも逃れることもできず、じっと待つしかなかった。
そして、その時はすぐに訪れた。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
懸命に感情を自制しながら、シェプリーは鼓膜で捉えた音を追う。
車が止まり、扉が開いた。最初に地面に足を下ろした誰かが、ぐるりとその周囲をまわり、反対側の扉に手をかける。
幾つかの荷物を降ろす音に雑じる、小さなか細い足音――シェプリーの耳は、感覚は、全身でその音を聞き漏らすまいとした。
ほどなくして足音と、そして気配が近付く。
玄関が開いたとき、シェプリーは彼らに背を向けたままだった。というよりも、身体が動かなかった。
石像のように硬直しているシェプリーに、オースティンが気付く。
「戻っていたのか」
何の感慨も無さそうな乾燥した声に、シェプリーは固く拳を握り締めた。
「忘れ物を取りに来ただけです」
声を荒げないようにとあまりに力んだせいか、シェプリーの声は堅く、低かった。ゆっくりと顔を上げ、父親へと向き直る。
険しい視線を向ける息子に対し、オースティンはただ「そうか」と言い、頷くだけだった。
やや影になった灰色の瞳は、空を覆う曇天を思わせた。丁寧に撫で付けた薄茶の髪には白いものが目立ちはじめていたが、それでも久しぶりに目にする父の姿にたいした変化はみられなかった。
「旦那様、お帰りなさいませ。お迎えが遅れて申し訳ありません」
エミリーが慌てた様子で玄関へと戻ってくる。オースティンはまたしても頷いただけで、すぐにその視線を自身の背後へと向けた。
シェプリーは、父が差し伸べる手を目で追い、その先に立つ人影を見た。
鍔広の飾りのない灰色の帽子に隠れ、顔の半分はよく見えなかった。けれど。
特徴的な輪郭と白い膚。ゆったりとした外套で隠れてはいるけれど、今更見間違えるはずもない。
手袋をしていてもなお細いとわかる指先がオースティンの手に重ねられるのを見たとき、シェプリーは鳩尾に鈍い痛みを感じた。
よろめきそうになるのを辛うじて堪え、壁際に寄る。握り締めたままの拳を後ろ手に隠し、シェプリーはこの家の主人夫婦が通り過ぎるのを待った。
僅かな衣擦れの音さえ、現実味というものがまるで無かった。
目の前にあるのに、どこか遠い存在を眺めているかのような気になるほど、彼女には生気というものがなかった。
心を閉ざし、日々を夢の中で過ごしているような女――それが、シェプリーの母だった。
実体のない幽霊のような彼女に、オースティンが側から支えるように寄り添い歩く。さほど広くない玄関だというのに、シェプリーには彼らが通り過ぎるまでの時間がとてつもなく長いものに思えた。
後ろ手に握り締めていた拳の痺れに気付き、ようやく力を抜く。ぐるりと頭を巡らせて家の中を見遣れば、二階にある母の部屋へと向かう両親の後を、幾つもの荷物を抱えたエミリーと、見なれない若い女がついて行くところだった。
シェプリーは女の後を追い、彼女を観察した。どうやら、母に付き添う新しい看護婦らしい。
看護婦が替わったということさえ聞かされていなかったことに軽くショックを受けながらも、シェプリーはできるだけ平静を装って、声をかけた。
「手伝うよ」
突然後ろから声をかけられたせいだろうか、女は酷く驚いたように身を竦めると、シェプリーを振り返った。しかし、すぐに差し出された手とその意図に気付き、顔を赤くしながら何度も非礼を詫び、抱えていた大きな鞄を渡した。
女の手には余るであろう重くて大きな鞄を持ち、シェプリーは階段を上がる。狭い廊下の先に、母の部屋はあった。
開いたままの扉からは、椅子に腰を降ろした母と、その側で寄り添うように立つ父の後ろ姿が見えた。
シェプリーは戸口から二人の様子をちらと見遣っただけで、中には入らなかった――入れるはずもなかった。
その場に鞄を置き、踵を返す。
「シェプリー様――?」
シェプリーの様子に気付いたのか、エミリーが気遣わしげな声をあげる。
シェプリーは聞こえなかったふりをして、母の部屋から離れた。階段を駆け上がり、階上にあるかつて自分が使っていた部屋に飛び込む。
閉めた扉に背を付け、詰めていた息を吐いたところで、後を追ってきたエミリーが追い付いた。
「シェプリー様?」
扉の向こうからかけられる声に、シェプリーは固く目を閉じた。
「大丈夫」そうして、首から下げた指輪をシャツの上から握り締める。「大丈夫だから……放っておいてくれ」
エミリーは暫くの間、迷っているようだった。小さな足音が立去りかけては止まり、また動く。
しかし、やがては諦めたのか、足音は遠ざかっていった。
静まり返る室内で、シェプリーは何度も深呼吸をし、ざわつく心を鎮めようとした。
両親の心が自分に向いていないことくらい、わかっていたことではないか。今更何を悲しむ必要がある?
そもそも、自分は悲しんでなどいない――悔しいだけだ。
シェプリーは俯き、唇を噛む。
オースティンの振る舞いが。顔を合わせただけで、父が四年前と変わらず、いまだにエンジェルのことを無視しようとしているのがわかったから。それが悔しくて悔しくてたまらないのだ。
妻の好きな花を用意するような気遣いはできるのに、何故父はその優しさを他に向けてくれないのか。
オースティンは、特にエンジェルが失踪してからは、まるでそんな人物ははなから存在しなかったかのような振る舞うことが多かった。
彼自身がエンジェルを認めて雇ったはずなのに。
自ら息子を彼に託したはずなのに、一体何故?
しかしオースティンは、その胸の内を息子に明かすことはなかった。おそらく、これからもその態度に変化はないだろう。
息苦しさに目眩がする。身体のどこかが痛むような気がしたが、シェプリーはそれ
をも無視した。
そうしてどれほどの時間が過ぎたのか。
気付けばシェプリーは、扉に背をつけたまま、床に座り込んでいた。
どこかにあった痛みはすっかり引いていたが、指輪を握り締めていた手が硬直しきり、代わりに酷く痛んだ。
シェプリーは指輪から手を離すと、痛む関節をさすりながら、ぼんやりと目の前の空間を眺めた。
小さな机と椅子、雑多な本を収めた本棚、飾り気のない椅子とベッド。ここもまた他の場所と同じく、何一つとして変わっていなかった。エミリーが時々掃除をしてくれているのだろう。たいして埃もなく、ベッドも清潔に保たれている。
壁紙もカーテンもカーペットさえも、色味もこれといった装飾もなかった。子供部屋と呼ぶにはあまりにも無味乾燥気味のこの部屋で、しかしシェプリーは確かにここで十数年を過ごした。
たいして愛着があるわけではない。けれど、忘れ去ってしまうにはあまりにも多くの思い出が詰まった場所――それらの一つ一つをじっくりと眺めたあと、シェプリーは本棚の上に飾られていた小さな天体望遠鏡と、古ぼけた地球儀に目を向けた。
これらはエンジェルが指導教師となった時、オースティンに必要だからと言って最初に揃えさせたものだ。
シェプリーはおもむろに立ち上がると、本棚に向かった。
昔は踏み台がなければ届かなかった場所にやすやすと手を伸ばし、地球儀を取る。側の机にそれを置くと、自分は椅子をひいてそこに腰を落ち着けた。
かつては色とりどりのインクで着色されていたこの地球儀も、今ではすっかり色褪せ、変色してしまっている。
「同じだな……」
シェプリーはそう呟くと、両手で顔を覆った。
エンジェルが側にいた頃、世界は輝きに満ちていた。
まだ見ぬ世界を夢に見ては、あらゆる可能性に胸を踊らせることができた。
けれど、今はその輝きも希望も、どこにも見当たらない。
「――様、シェプリー様」
肩に置かれた手の感触に、シェプリーははっとした。
いつの間にか机に臥せって眠っていたらしい。慌てて身を起すと、心配そうに自分を見つめるエミリーと目が会った。
「勝手にお部屋に入ったりして申し訳ありません。でも、ノックをしてもお返事がありませんでしたから」
「あぁ……いいよ。そんなことは気にしなくても」
シェプリーの言葉に、エミリーは寂しそうな顔をする。が、すぐに気を取り直すと、部屋の片隅にひっそりと置かれた姿見と、その脇のハンガーに掛けられたものを指差した。
「服をお出ししました。お食事の支度まではまだ時間がありますから、今のうちに合わせてみましょう」
「ありがとう……でも……」
両親が戻ってきているのに放っておいても良いのかと、シェプリーが目でたずねると、エミリーは微笑んだ。
「ご心配なく。奥様の方は落ち着かれましたし、今はサリヴァンさんが側に付いていますから」
サリヴァンというのは、先の若い看護婦のことだろう。
母は精神だけでなく、体も弱かった。昔はそこまで酷くなかったはずというが、シェプリーの記憶にある彼女は、いつもあのように誰かに付き添ってもらわなければ、日常のことさえままならない状態だった。
「父さんは?」
「お出かけになりました。お食事の前にはお戻りになると仰っておりましたよ。それよりも、さぁ――」
エミリーに促され、シェプリーは立ち上がった。
彼女手伝ってもらい、ほとんど袖を通したことのなかった盛装着に着替える。
鏡に映る見慣れぬ自分の姿に戸惑っていると、エミリーが横からそれを覗き、目を細めた。感慨深げな彼女に、シェプリーは妙な気恥ずかしさをおぼえる。
「丈は問題なさそうね」
独り言でも言うように小声で呟きながら、エミリーは隅々までをチェックする。
「あら? 袖のボタンが取れかけているわね。どうしたのかしら。どこかに引っ掛けでもしたのかしら?」
そう言うと、エミリーは用意しておいた裁縫道具に手を伸ばした。
「ちょっと待っててくださいね。すぐ直しますから」
シェプリーは頷き、エミリーが作業しやすいようにと上着を脱いだ。
受け取った上着と裁縫道具とを抱え、エミリーは小さな椅子に腰を降ろした。
丸い手が器用に動き、服に縫い付けられていたボタンを一旦全て取り去ると、再び丁寧に縫い付けはじめる。
手際良く動くその針先を、シェプリーはベッドの縁に腰掛けながら見詰めた。
エミリーは昔からシェプリーに優しかった。
けれど、シェプリーは知っている。エミリーが優しいのは、彼女がかつて失った息子を自分に重ね見ているからに過ぎないことを。
もともとエミリーは、田舎で坑夫の夫と共に暮らしていた。
子供は男の子が一人生まれたが、風邪をこじらせすぐに死んでしまった。ほどなくして炭坑の事故で夫まで失い、彼女は失意のまま村を出るしかなかった。
他にたいした産業もない小さな貧しい村では、女一人が生活するにはあまりにも厳しい状況だったのだ。
親類もほとんどおらず、また彼らを頼って故郷に戻ったとしても、同じく貧しい村であるためにたいした働き口は期待できず、仕方なくエミリーは街に出て職を探し、そしてウーブル家で働くこととなったのだ。
はじめからそうと意識していたわけではないだろう。だが子を失った悲しみを、エミリーは孤独な少年を構うことで癒していた。そして、そんな彼女の優しい視線と仕種の中に垣間見える自分ではない者への想いを、少年は早くから感じ取っていたのだ。
それでも少年は――シェプリーは、考えずにはいられなかった。
「エミリーが本当の母さんだったら良かったのに」
思わず口をついて出た呟きは、独白と言うにはあまりにも大きな声だった。
エミリーが驚いたようにボタンを縫う手を止め、シェプリーを見る。
シェプリーは、彼女の視線から逃れるように俯いた。
子供の頃から何度も考えたことだった。エミリーが自分の本当の母親で、そしてエンジェルが自分の本当の父親であってくれたら、どれほど良かったことだろう。
「旦那様も、奥様も……シェプリー様のことをちゃんと愛していらっしゃいますよ」
ためらいがちに発せられるエミリーの言葉に、力はなかった。それでも彼女は暫く考えたあと、再び口を開いた。
「旦那様は、奥様を深く愛しておいでです」
「うん……」
シェプリーは頷いた。
オースティンはエマを愛している――それはシェプリーにも充分わかっている。普通であれば、早々に離婚を言い渡すであろう心を病んだ女と長く連れ添っているのだから、彼が妻に寄せるそれは、並み大抵のものではない。
エミリーは続ける。
「人を愛することをご存知の方が、お二人の間に生まれた子のことを愛さないはずがありません。旦那様は、ご自分のお気持ちを素直に表現するのが苦手なだけなんだと思います」
果たして本当にそうなのだろうか。
シェプリーは内心でそれを問う。
シェプリーには、両親がそれぞれ何を考えているのか全くわからなかった。彼らに心が無いわけではないのに、どういうわけか彼らの思いを感じ取ることができないのだ。
エミリーが誰を想っているのかはわかるのに、父と母――オースティンとエマの心は、常に分厚い壁の向こうにあるようだった。シェプリーは常にそれがもどかしく、辛かった。
押し黙るシェプリーに、エミリーは縫いかけのものを脇に置くと、立ち上がった。
「シェプリー?」
すぐ側にやってきた気配にシェプリーは顔を上げた。そして、暖かい両手で頬を包まれる。
「悪い考えに取り憑かれては駄目。あなた自身がお二人を信じてあげなくてどうするの? そんなことでは、目の前にあるものさえ信じられなくなってしまうわ」
エミリーの青い目がシェプリーを覗き込む。
「大丈夫。あなたの心の痛みは、旦那様もちゃんと理解なさっているはず……だから、そんなふうに考えては駄目」
そして両腕を肩に回し、胸に抱きしめる。
その暖かさと柔らかさに、シェプリーの鼻の奥が痛くなる。
「まぁ、こんなに大きくなったというのに、相変わらずの泣き虫さんなのね」
「違うよ。くしゃみが出そうになっただけだよ」
シェプリーが赤くなって反論すると、
「そういうことにしておきましょうか」
くすくすと笑いながら、エミリーはシェプリーを抱く手を緩めた。
「さぁ、いつまでもそんな顔をしていないで。フォスター先生に笑われてしまいますよ?」
そうしてハンカチを取り出すと、子供の頃にそうしてくれたようにシェプリーの頬を拭う。
シェプリーは、ただ頷くだけで精一杯だった。
「どうぞお身体に気を付けて」
名残惜しそうなエミリーに、シェプリーは小さく笑いかけた。
「エミリーも、元気でね」
繕いを済ませた服を詰めた鞄を持ち、背を向ける。
折角なのだから食事もしていけばというエミリーの提案を、シェプリーは断った。
母の退院祝いではあっても、シェプリーはその席に招待されていない。同席したところで、また父と喧嘩になるのは目に見えているのだし、これ以上長居してエミリーの手を煩わせるのも申し訳ない。
「見送りは要らないよ」
外まで付いて来ようとするエミリーにそう言い置いて、シェプリーは一人で外に出た。
そこには、エミリーが呼んでくれたタクシーがすでに待機していた。
座席に荷物を放り、続いて自身も中に乗り込もうとしたとき、シェプリーはふと誰かの視線を感じ、動きを止めた。
ぐるりと頭をめぐらせ、視線の主を探す。
「あ……」
シェプリーの口から、思わず声が出る。
それは、たった今出たばかりの自分の家からだった。通りに面した二階の窓。カーテンの隙間。そこから覗く、青白い顔――エマだ。
まるで生気というものを感じさせない顔で、彼女は下にいる息子を見ていた。
(いや、違うな……)
シェプリーは思い直し、静かに首を振る。
彼女は自分を見ているわけではない。たまたま外を覗いた彼女の視線の先に、自分がいるだけだ。
その証拠に、エマの目はシェプリーの姿を捉えてはいても、身じろぎひとつしなかった。シェプリーのものと同じ色をした瞳は、人形に嵌めた硝子の眼球のように無表情だった。
前に彼女の声を聞いたのは、一体いつの時だったのか。シェプリーはふと思い浮かんだ疑問に記憶を探ったが、よく思い出せなかった。
「お客さん?」
一向に乗り込もうとしないシェプリーに、運転手が怪訝そうに声をかける。
シェプリーは、無理矢理顔を背けるようにして体を捻り、窓から――母の視線から逃れた。
動き出したタクシーのシートに深く身を預け、シェプリーは窓枠に肘を乗せて、窓の外をぼんやりと眺めた。
雲間から差し込む光のおかげで外はまだ随分と明るかったが、時刻はもう夕方を指す頃となっているはずだ。
一向に傾かない太陽の、それでもやや黄色味を帯びた陽を浴びる家々と、窓に映る自分の顔とを交互に見ながら、シェプリーは久しぶりに目にした母を想う。
昔からシェプリーは、母とは瓜二つとまではいかずとも極めてよく似た顔立ちをしていた。
特に、〈水晶眼〉と称されるこの奇妙な色をした瞳などは、見間違えようもないほどに同じ色をしている。だとすれば、その前は――輝く水晶によって垣間見たあの人物は、どこでどう繋がっているのだろう?
しかしシェプリーは、自身の家に連なる先祖のことを知らなかった。普通であれば、どんな家でも祖先の話は代々受け継がれてゆくものだというのに、シェプリーは祖父や祖母どころか、親類の話さえ聞かされたことがなかったのだ。
家に残り、食事の席でついでにそれとなく父に聞けばよかっただろうかとも思ったが、今更引き返すのも気が重いし、何より面倒だった。
それにしても、何故なのだろう――窓ガラスの中の横顔が、沸き上がる疑問に曇る。
単に話すようなことがないからのか。それとも、知られてはまずいことがあるからなのか。
いずれにせよ、その疑問に対する答えはロンドンにいたままでは見付からないことを、シェプリーは理解していた。
母から直接聞き出すことはおそらく無理であろうし、父にたずねたところで、彼がシェプリーの問いに答えてくれるとは思えない。長い付き合いであるエミリーに至っては、ロンドン以前の一家のことなど知るはずもない。
やはり、一度はブリストルまで足を伸ばすべきだろう。ブリストルは古い街であるから、運が良ければ相当昔の時代まで遡ることができるはずだった。
こういった調査は、本当ならルイスにしてもらった方が確実なのだろうが、しかし、シェプリーはこの件を彼に頼むつもりはなかった。
そうやって鬱々と考え込むうちに、シェプリーはまたいつの間にか下を向いていたらしい。
タクシーが道路の段差を乗り越えたとき、大きく弾むその衝撃を非力な筋が支えきれず、首が悲鳴をあげた。
シェプリーは顔を顰めながら首をさすり、上を向いた。
ガラスに映る自分自身の影と、視線が合う。
そして、唐突に気付いた。
慌てて体を捻り、後部のガラスから後ろの景色を覗く。
母の居る家は、もうすでに見えなくなっていた。
(まさか、母さんも僕と同じ〈力〉を――?)
今まで全く気付かなかったというのは、よく考えればおかしなことだったのかもしれない。
けれどシェプリーは、知らなかった。そのようなことは、思い付きもしなかったのだ。しかし、たった今自身の脳裏によぎったものは、理解できるが故に否定できなかった。
覗きたくもないのに人の心の内を垣間見せられ、知りたくもないことばかり思い知らされる――彼女が心を閉ざすようになったのは、もしかしたらその所為ではないか、と。
遥か後方に遠ざかる住宅街を、シェプリーは食い入るように見詰め続ける。
その先に答えてくれる者などいないとわかっていても、どうしても視線を逸らせなかった。
†
「シェプリー! こっちだよ、こっち!」
人込みの彼方から目ざとく自分を見付けたエルリックに驚くと同時に、シェプリーは少し安心もした。
サー・ジェレミー・ノーマンからの招待による出版記念パーティーの当日、シェプリーはルイスに会場となっているこの邸宅まで送り届けてもらった。
折角の機会なのだから楽しんで来いと言われたものの、とてもそんな気分にはなれず、シェプリーは一人でホールに立ち、途方に暮れていたところだった。
なので、知っている顔がこうして出迎えてくれたことには感謝すれども、本音はルイスと共に事務所へと戻りたくて仕方がなかった。
そんな気持ちを知る由もないエルリックは、人混みを掻き分けてシェプリーのもとへとやって来ると、その両手を掴んで振り回し、子供のようにはしゃいだ。
「よく来てくれたね。ありがとう、感謝するよ」
大人しくしていれば貴公子といってもいい程なのに、本人には全くその意識がないらしい。周囲もそれに慣れているのか、眉をひそめたり互いに囁きあったりということはなく、かえってシェプリーの方が気後れしてしまう。
しかも、
「ご友人ですか?」
「ええ。そして、僕の命の恩人なんです」
などと、すれ違う人々に紹介をするものだから、シェプリーはの胃はきりきりと痛んだ。
「エリック。その言い方は大げさなんじゃ……」
「まぁまぁ、細かいことは気にしない。それより、こっちに来てくれ。叔父に紹介するよ」
ジェレミー卿は知人友人を集めるだけとしていたが、どう考えてもそれ以上の人数がこの邸宅には集っている。そんな中を強引なエスコートで連れ回され、その間にも会う人会う人に同じ調子で紹介をされ続け、シェプリーは目が回りそうだった。
サー・ジェレミー・ノーマンは独り身だが、郊外にある古い邸宅を買い取り、そこで暮らしている。普段は数人の下働きと共に書物に囲まれ、大半の時間を思索に費やしているようだったが、時折こうしたパーティーなどを開き、使っていない広間などをサロンとして解放しているらしい。
今夜は彼が出版するという著書のお披露目が目的だが、しかしそれは同時に、彼が所属している会のメンバーも集まるということを示していた。
SPR――四年前の事件に関して、エンジェルの存在を全く顧みなかった連中が、この中に混じっているのではないかと思うと、どうにも複雑な思いがこみ上げる。もっとも、相手がその件について覚えているのかどうかすら怪しいのだが。
加えて、なにかと噂の絶えない神智学協会についてもシェプリーの懸念材料のひとつだった。
心霊主義などと世間ではもてはやされてはいるものの、その実態は手品が披露するマジックショーがほとんど。中には、ペテン師が繰り広げる詐欺まがいの集会が堂々と行われることもあったと聞く。救いがたいのは、そういった行為を妄信的に信じる者が、一定の財産と地位を持つ層に広がっているということだ。
エルリックの叔父ジェレミーがどの程度関わりを持っているのか、そして彼がどういう立ち位置で心霊主義や形而上学、神秘、陰秘学に向き合っているのかが、シェプリーにはわからず、不安だった。
エルリックを見ている限り、その点については心配はなさそうだとは思うものの、今までに散々嫌な目にあってきた。なのに、どうしてこんな場所へとノコノコとやってきたのか。自分で自分に腹が立つものの、しかし自ら持ちかけた交渉の件もある。
大英図書館の秘密閲覧室の鍵――それを手に入れるまでは、何があっても引き返すわけにはいかない。
そうこうしているうちに、お目当ての部屋へ到着したらしい。華美ではないにしろそれなりに品格のある装飾が施された広間には、大きなテーブルの上にうず高く積まれた本があった。今回出版したという、ジェレミー卿の著書だろう。その隣にはシャンパングラスで作られたピラミッドも並べられており、沢山の花がその周囲を飾りたてている。
そこにもすでに何人かが集い、和やかに談笑をしていたが、エルリックはきょろきょろと室内を見まわすと、首を傾げた。
「おかしいな、さっきまでこの部屋に居たんだけど……」
そうして暫く思案顔でいたが、「仕方ない」と呟くと、通りすがりの給仕が持つ盆からグラスを一つ取り、シェプリーに押し付けた。
「シェプリー。悪いけど、ここで待っててくれないか。探して来るよ」
「えっ?」
「多分、誰かに捕まって話し込んでいるんだ。あの人も、話し始めたら長いからさ」
言い終えぬうちに、エルリックは人込みへと消える。後に残されたシェプリーは、呆気に取られてその場に立ち尽くした。
名だたる名士ならともかく、何の地位も肩書も持たぬ若者に興味を抱く者はいない。いたとしても、場違いな者が混じっているぞという視線を送るだけだ。皆一様に、お目当ての人物は最初から決まっている。
シェプリーは苦笑して肩を竦めると、広間から離れた。待っていてくれと言われたが、まだ〈力〉の制御に不安が残っている。こんな状況で、また先日の図書館でのような事態になりでもしたらと思うとぞっとする。
落ち着いて休めそうな場所を探しながら、シェプリーは屋敷の中をぶらぶらと歩いた。先にエルリックに紹介された何人かともすれ違ったが、軽い会釈をするだけに留めてやりすごす。
そうして見つけたのは、階段脇に設えた小さな休憩場所だった。壁掛けの電話の下には幾つかの椅子が並べられ、喫煙もできるようになっている。
まだ誰も利用はしていなかったようなので、シェプリーはそこで休ませてもらうことにした。
椅子のひとつを引き、腰を下ろす。手にしたままだったシャンパングラスに口をつけ、通路の先を行き交う者の姿をぼんやりと眺めながら、そういえばジェレミー卿がどんな内容の本を書いているのか、まるで気にしていなかったことに今更気付いた。
エルリックは興味はウィディコムでもその片鱗をみせたように、主に魔術や形而上学方面に向けられていた。彼は叔父の師事でこの道に足を踏み入れたと言っていたのだから、ジェレミー卿もまた相当な知識を持っていると考えて間違いないだろう。だが、それが自分にとってどんな利益をもたらすのかは全くの未知数だ。
招待客に至っては、口々に彼の人の人となりや著書について話題にしているが、生憎とその内容まで理解しているとは思えないし、期待するだけ無駄な気もした。
現に、今も時折聞こえてくるのは、どちらかというと最近のエルリックの動向についてのことがほとんどだ。劇団とひと悶着あったことを取り沙汰された彼は、良くも悪くも注目の的だった。
そんなことを考えながら再びグラスに口をつけようとして、シェプリーはいつの間にか注がれた分を飲みきっていたことに気づいた。
いつもルイスが愛飲してるものとはまるで違う口当たりに、つい止まらなくなったらしい。
(しまったな……)
普段であれば絶対に犯さない失態に、シェプリーは自分の気が相当弛んでいたことを思い知る。そのせいだろうか、彼はすぐ目の前に立つ男の気配に全く気付かなかった。
「失礼」
「……はい?」
自分に対して話しかけられたのだと理解するまでに、数秒の時間がかかった。慌てて顔を上げると、いつからそこに立っていたのか、一人の青年が銀のシガレットケースを手にしてシェプリーを見下ろしていた。
「隣、よろしいかな?」
「あ、はい、どうぞ――」
シェプリーは慌てて椅子をずらすと、彼のために場所を開けた。
小柄だが、やけに存在感のある男だった。
透き通るように白い肌と、男にしては細い顎。緩やかに波打つ黒髪は短く整えられ、整髪料で丁寧に撫でつけられている。仕立ての良い服の袖からは、高価そうな石をあしらったカフスが覗いていた。
青年はシガレットケースから細身の葉巻を取り出し、慣れた手つきで火付ける。紫煙をくゆらせるその横顔をちらちらと窺いながら、シェプリーは彼は一体何者だろうかと考えた。
エルリックも美丈夫の部類に入るが、彼が親しみ易く穏やかな顔立ちをしているのに対し、この青年は氷で造った彫刻のような冷たさを全身に纏っている。この場に集っている者達とは全く違う世界に生きる人種のように思えた。
「去年まで陸軍にいてね」
シェプリーの疑問を読み取ったのか、青年が唐突に口を開く。
「と言っても、ずっと傷病手当をもらうだけの生活を送っていたんだが」
「はぁ……」
「今は、とある人の世話になっていて、今日はその付き添いなんだよ。君と同じく」
シェプリーは瞑目した。相手が何故突然そんな話をしだしたのか、意図がまるで掴めなかった。
「どうして僕が誰かの付き添いだと?」
「見ていたからな。君がノーマン家の嫡男に連れ回されて歩いていたのを」
青年が煙を吐きながら笑う。頬が熱くなるのを感じ、シェプリーは俯いた。
「そうでしたか。でも、残念ですが、僕はエリックの付き添いでここにいるわけじゃありませんので」
シェプリーの答えに、相手は片眉を上げて意外そうな顔をした。
「おっと、そいつは失礼。いや、実をいうと、私自身がそういう立場でね。君を見ていたら親近感が沸いてしまったものだから、つい。気を悪くしないでくれ」
そう言って、相手はシェプリーに向き直る。間近で相対する瞳は、極北の海に浮かぶ氷のような色をしていた。整った顔には微笑が浮かんでいたが、その奥から自分を値踏みするかのような鋭いものを感じ、シェプリーはますます落ち着かなかった。
と、その時だった。
「あら。姿が見えないと思ったら、こんなところに隠れていらしたのね、マクファーレン大尉」
艶めいた声と共にあらわれたのは、濃紺色のアンサンブルスーツに身を包んだ女性だった。
豪奢な金髪は綺麗にまとめられ、帽子から下がる黒いレースが顔の半分ほどを隠している。同じく黒いレースをあしらった礼装姿の彼女に、マクファーレン大尉と呼ばれた青年は葉巻を灰皿に置き、素早く立ち上がった。
「申し訳ありません。まだこのような人の多い場所に慣れておりませんので」
「まぁ、そうだったの。そういえば、貴方はつい最近まで療養していらっしゃったものね。私ったら、そんなことも気づかずにいたなんて」
「お気になさらず。たまにはこうして刺激を受けないと、精神が枯れてしまいます。今宵はこの場にお連れいただいたこと、感謝しておりますとも、
そう言って、彼は目の前に差し出された手をとり、その甲に口付ける。
周囲のスノッブとは明らかに違う風格を前にし、シェプリーも慌てて身を正し、立ち上がった。
そんなシェプリーに、男爵夫人と呼ばれた彼女は一瞥をくれる。
「こちらの方は? 大尉のお友達?」
「いえ、その、僕はたまたまここで休んでいただけでして……」
同じく差し出された手をとり、シェプリーは突然のことに戸惑いながらも礼を返していると、彼女の後ろから廊下を小走りにやって来るエルリックが見えた。
「シェプリー、こんなところにいたのか。待っていてくれと言っておいたのに、探したじゃないか……、おや?」
彼はシェプリーの前に立つ人物に気付き、足を止めた。
「ライト男爵夫人」
「エルリック坊や」
思いがけない所で出会ったというふうに、二人同時に声を上げる。
「元気そうでよかったわ。先日は怪我をしたと伺っていたから、ずっと気掛かりだったのよ」
「ご覧の通り、ピンピンしていますよ。お心遣い感謝します、レディ・ガブリエラ」
深々と頭を下げるエルリックに、相手は満足そうに目を細めた。
「シェプリー、紹介するよ。こちらはガブリエラ・ライト男爵夫人。神智学協会の熱心な支援者で、叔父の務めている精神病院にも多くの寄付をしてくださっている。今回の出版でも、後押ししていただいた恩人だ。夫人、彼は僕の友人でして」
「ウーブルです。シェプリー・ウーブル。先ほどは失礼いたしました」
また命の恩人だなどと余計なことを口にされ、変に興味を持たれても困る。シェプリーはエルリックよりも先に口を開き、名乗るついでに非礼を詫びた。
「よろしくね、ウーブルさん」
ガブリエラは鷹揚に首肯くと、少し離れた場所で控えているマクファーレンを手招きした。
「では、私の方からもご紹介しますわ。もうすでにご存知かもしれませんけど、こちらはジョシュア・マクファーレン大尉」
「今はもう大尉でも何でもありませんがね」
そう言いながらも、マクファーレンは軍人らしいきびきびとした身のこなしで、エルリックとシェプリーと順に握手を交わす。力強い手の感触もそうだが、それ以上に何らかの意思が込められた眼差しの方が印象深かった。
「私の息子が所属していた部隊で、補佐をしてくださっていたのよ。残念ながら、息子は戻っては来られませんでしたけど……」
それまで艶然と微笑んでいた彼女の顔から、一切の感情が抜け落ちる。美しい大輪の薔薇が一気に萎れてしまったかのような具合だ。しかし、それもほんの一瞬のことだった。ガブリエラはすぐに気を取り直すと、マクファーレンに向けて微笑んだ。
「でも、おかげで同じように辛い思いをしている方々のことも知りましたの。ですから、今は、そういった方々への援助などをしていますのよ」
「それは、とても、立派な御心がけで……」
どう返していいかわからず、シェプリーは言葉を濁した。彼女が神智学協会への熱心な支援者なのを知ったのもあるが、息子と同期だという青年へと向ける視線の中に、違和感をおぼえたからだ。
「〈天使に護られた兵士〉のお話はご存知?」
「え?」
唐突に問われ、シェプリーは言葉に詰まった。
「モンスとソンムでの大尉の活躍、お耳にしたことは?」
「ええと、そうですね……」
当時は国内にいたものの、シェプリーの関心ごとは戦争にはなかった。連日の報道はなんとなく覚えているが、だんだんと重苦しくなる内容に、父の表情が曇りっぱなしだったことしか印象に残っていない。
戦争が長引き戦況が悪くなるのは、海外との事業取引をしていたオースティンにとっては一大事だった。必然的に、彼が集中的に集めていたのは株や投資の情報であって、大々的に謳われる英雄譚や煽情的なゴシップなどは全くの対象外だった。
「もちろん、存じておりますとも」
返答に窮しているシェプリーの横から、エルリックが口を挟む。
「新聞やラジオでよく見聞きましたよ。数万の犠牲を払った戦場にあっても、守護天使に導かれて決して斃れなかった兵士。そして僅かな生存者を率いて、無事帰還するまで導いた英雄――」
エルリックの口上に熱がこもりはじめる。しかし、それを咳払いで中断させたのは他ならぬマクファーレン自身だった。
「その話はまた別の機会にしましょう。今宵の主役は、私ではありませんから」
「あら、それもそうだったわね。私としたことが」
恥ずかしいわと頬を抑えるものの、彼女がその話をしたがっているのは一目瞭然だった。
「ねえ、ウーブルさん」
ガブリエラはシェプリーの両手を取りると、その目を覗き込んだ。
「今度、私の家にいらっしゃいな。勿論、エルリック坊やも一緒によ。大尉がどれだけ素晴らしい御方なのか、ゆっくりお話ししましょう」
青灰色の瞳の奥から、熱狂的ともいえる感情を真正面からぶつけられる。彼女が纏っているむせかえるような花の香も相まって、シェプリーは眩暈がした。そして、気付く。
彼女がマクファーレンという男に寄せる思いの強さ。それは。
(崇拝だ――)
ガブリエラは、この軍人の熱狂的な崇拝者なのだ。そして、それ以上に迸る情念が彼女を突き動かしている。
「では、また後程」
マクファーレンが一礼をしてガブリエラを促すと、彼女はその肘をとり、微笑んだ。
連れだって去る後姿を呆然と見送るシェプリーに、エルリックがそっと耳打ちする。
「彼女には気を付けろよ。ひとたび気に入られたら、骨までしゃぶり尽くされるぞ」
その物言いに込められたものを察知して、シェプリーは思わず嫌悪に顔を歪めた。
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