09:契約の印


 階段を駆け降りた時点で目眩がし、エルリックは手摺を掴んだままその場に蹲ってしまった。

 さすがにこの場所で吐いたりはしないが、どうにも胸がむかついて仕方がなかった。おまけに、何だか頭も重かった。上から鉛の帽子でも被せられているような具合だ。

「ああ、もう――!」

 言い様のない不快感に苛立ち、エルリックは傍らの壁を拳で叩いた。

 たった今、書庫で思い浮かんだ映像。夢で見たはずの強烈な印象。とても重要な内容のはずなのに、どういうわけか、それらを意識すればするほど頭の中が空洞になってゆく。

(どうして思い出せない?)

 エルリックはじんと痺れる拳を広げ、掌を凝視した。

 それはまるで、指の間をすり抜けてゆく砂のようだった。それどころか、宿でシェプリー達と話していた時に辛うじて思い出した内容でさえ、徐々に曖昧な記憶と化して消えそうになっている。

 自分というものが跡形もなくどこかへと消えてしまうような不安に、エルリックは寒気を感じた。水晶の鏡に閉じ込められ、自分自身を見失いそうになったあの夢の感触によく似ていたから。

「畜生――!」

 エルリックは喘ぎ、悪態をついた。

 ただでさえ不快だというのに、先程から感じていた喉の渇きがこの苛立ちに拍車をかけている。

 ――そう、そもそも、自分がこんなに酷い二日酔いになるという事自体がおかしかった。

 ルイスにも言ったように、いつもならこんなに酷い深酒などしない。そのくらいの節度はわきえている。なのに、昨晩はどうしても止められなかったのだ。

(あの蜂蜜酒だ)

 あれを味わってからというもの、エルリックは他の酒がどうにも美味いとは思えなくなっていた。

 昨日パブで最初に注文したエールを飲んだ時、エルリックはその事に気付き、愕然とした。数日前に飲んだときの印象とまったく違っていたのだ。

 動揺を悟られないよう、エルリックはルイスとは当たり障りのない会話を続けその場を凌いだ。しかし、その後部屋に戻った時、猛烈な喉の渇きに襲われた。

 はじめのうちは飲み過ぎで体が水分を欲しているのだろうと思っていた。だが、渇きは一向に収まらなかった。それどころか、それは時が経てば経つほど猛烈な飢餓感にも似た焦躁をエルリックにもたらすようになっていた。

 気付けば宿の談話室に陣取り、ハミルトン夫人の心配そうな眼差しを受け止めながら酒を飲んでいた。恐ろしくなってやめようと思ったのに、何故か手を止められなかった。

 結局そのまま酔いつぶれ、呆れ顔で起こしに来たルイスとシェプリーの顔を見るまで、エルリックは自分が談話室で眠っていたことにすら気付かなかった。

「本当にどうしちゃったんだよ僕は」

 頭を抱えて呻くが、答えなど出て来るはずもない。

 入る時にはさほど気にならなかったが、どこか歪んだ均衡を保つ館の構造が今になって響いてくる。

「と、とにかく」自分自身を奮い立たせるためにも、エルリックはわざと声に出して呟いた。

「水だ」

 そう、水だ。水を飲もう。顔を洗おう。そうすれば頭の中の靄だって少しは晴れるはず。気をしっかり持てば、妄想に惑わされることなどない――

 エルリックは立ち上がると、厨房を目指して歩き出した。

 階段脇を抜け、玄関ホールへと続く扉を過ぎ、廊下に立て掛けてある大時計や壁から見下ろす絵画の肖像画の視線をかいくぐる。

 薄暗い通路は何故か一昨日の地下道の様子を彷佛とさせ、それはまた同時に、数日前に見たあの不可解な夢の感触にも似ていた。

 深い霧の中で、不確かな砂上を歩くように足元がおぼつかない。エルリックは苦労して壁伝いに進み、なんとか目的の部屋まで辿り着いた。

 扉を押し開き、ほとんど転げるようにして中へと入る。

 静まりかえる厨房の中を素早く見回し、調理台の向こうにシンクを見付ける。

 エルリックはすぐさまそこに駆け寄ると、急いで蛇口を捻った。しかし、ゴボゴボという音と共に出てきたのは、錆で赤茶色に染まった汚水だった。

「うわぁ……」

 エルリックは顔をしかめ、蛇口を締めた。ざらりとした砂混じりの水がシンクの底に残る。

 相当長い間使われていなかったのだろう。調理台の上にも、丁寧に片付けられた道具が整然と並んでいるだけだ。ならば、あの老人は一体いつからこれらのものを使わなくなったのだろう。その事実にぞっとすると同時に、一層強くなった喉の乾きにエルリックは呻いた。

「困ったな」

 他に何か口に出来そうなものはないだろうかと見回すと、丁寧に片付けられた調理台を挟んだ向こう側には食器棚が並んでいるのに気付いた。それを認めるよりも先に、エルリックの体はすでに動いていた。

 そういえば、ルイスは今どの部屋にいるのだろう――飲み物を探しながらも、ふと、エルリックの脳裏をそんな思いがよぎった。

 こんな場面を見られたら、笑われるだろうか。それとも、昨日のように疑いの眼差しで見られるだろうか。

(――構うもんか)

 今はそれどころではないのだから。見つかったらその時はその時だ。ちゃんと説明すればわかってくれるはずだ。それよりも、この渇きをどうにかする方が、今のエルリックにとって重大な問題だった。

 今や喉の渇きは最高潮に達していた。カラカラに干上がった口の中で、舌が、喉が、焼け付くように痛む。

 何かないのか。この渇きを癒すものなら、何でもいい――エルリックは次から次へとキャビネットの扉を開け、引出しを漁り、夢中で物色し続けた。

 そして、ついに彼は戸棚の奥に隠されていた小さなスキットルを見付けた。

 銀色の携帯用ウィスキーボトルは、程よく使い込まれた革のケースに収まっていた。手に取って軽く振ってみると、中からは何かの液体が入っている音がした。

エルリックはほとんど何も考えずに蓋を開けた。途端に、香しい芳香が鼻腔を刺激する――あの蜂蜜酒だ!

 一瞬、エルリックは陶然とした顔つきでその場に立ち尽くした。

 記憶に残る蕩けるような味がしきりに手を促す。

 欲求のままに容器を傾けようとして、エルリックは唇に触れる飲み口の冷たさにはっとした。

 エルリックは手にしたスキットルを見、固唾を飲んだ。

 容器の底の方で、わずかに残る液体が揺れている。その動きを手の中で感じながら、エルリックは体の芯が凍り付くような寒さを憶えた。

 何故これがここにあるのか。

 考えるまでもない。大方、マーシュが生前に愛飲していたのだろう。至極当前な回答だ。それでもエルリックは不信感を拭えなかった。第一、これは何なのだ。蜂蜜酒ではないか。

 辛うじて残った理性に押しとどめられ、エルリックは誘惑の元から離れようと決意した。

 簡単なことだった。この小さな容器の蓋を締め、元あった場所へと戻し、扉を閉めるだけなのだから。なのにどうしたことか、蓋を持つ右手は少しも動かない。

 その代わり、容器を持つ左手が、底に沈む黄金の液体の存在を主張して止まなかった。すっかり干上がってしまった口の中で、舌があの味を求めて止まなかった。

「――駄目だ!」

 エルリックは激しくかぶりを振った。

 またあの恐ろしい夢に取り込まれて正体を無くすつもりか。大体、今だってこいつのおかげで苦しい目に合っているのに、何だってまたわざわざそんなものを飲まなければならない。

 まるで他人のもののようになってしまった手に力をこめ、エルリックは自ら開いた封印を再度施そうとした。だが、そのとき。


 ――馬鹿げている。全く馬鹿げている。

 ――たかが蜂蜜酒に、どうしてこんなにもどかしい思いをしなければならない。


 どこからともなく響く声に、エルリックは怯んだ。なぜなら、それはあまりにも自分の欲望に忠実だったから。


 ――欲しいのだろう?

 ――舌先が痺れるような、黄金色の甘露を味わいたいのだろう?


 声はエルリックの頭の中で幾重にも重なり、響いていた。まるで、鏡の向こうに写る自分自身が語りかけてくるようだった。事実、そうだったのだろう。小さな容器の底に見える自分の顔が、悪辣とした笑みを浮かべている。


 ――飲むのが怖ければ、ほんの一滴、嘗めるだけでもいいではないか。そのくらいなら大丈夫じゃないか?

 ――これほど極上の酒を味わう機会など、もう二度とないかもしれないんだぞ。


 絶え間なく続く囁きと飲み口から漂う誘惑とに、腰砕けになる。ひとたび知ってしまった快楽に、自制心が崩壊してしまいそうだった。どうにも堪え難い誘惑を前に、エルリックは身悶えするほどの焦燥に懊悩する。

 目の奥ではチカチカと星が瞬き、激しい動悸に息が詰まりそうになる。喉だけではなく、体中が渇き飢えているようだった。

 今すぐにでも逃げ出したいほどの恐怖がエルリックを押し包んでいた。けれども体は少しも動こうとしない。思考は徐々に混乱の極みに達していった。その隙間を縫うように、声は確実にエルリックの心を蝕んでゆく。


 ――さぁ、遠慮せずに飲むがいいさ。

 ――咎める者など、どこにもいやしないのだから……


 堕落へと導く蛇の囁き――もう何も考えられなかった。エルリックの手がゆるゆると動きはじめる。その目付きは、夢でも見ているかのようにほう惚けていた。

 何故自分がここにいるのか、この屋敷が何なのかなどということは、もはやどうでもよくなっていた。頭の中で繰り返されるのは、蜂蜜酒の誘惑だけだ。

 数日前に友と語り合った内容は、あっという間に忘却の彼方へと押し流されてしまった。


「ここもか……」

 ルイスは呟き、軽く唇を噛んだ。

 部屋中の引出しから何からを開けて中を漁ってみたが、何か手掛かりになりそうなものはごっそりと消えていた。

 おそらく、ディシールの仕業だろう。マーシュの肉体がまだ動かせるうちに処分したに違いない。日記はもとより、手紙の類いまでそれらしきものはすべて消え去っている。

「抜け目のない奴だ」

 忌々しげに舌打ちをし、ルイスは己が立つ室内を今一度眺め回した。

 彼は今、使用人のものとおぼしき部屋にいた。それまで順に見てきた応接間などに比べて、明らかに装飾が少なく、設えてある家具も簡素なものばかりだ。

 使用人はマーシュ一人だったというから、これらのものは間違いなくマーシュ・ベネットが所有していたものだと判断してもいいだろう。決して殺風景というわけではないのだが、しかし、ルイスが先日庭を見た際に感じたように、室内には生活臭や気配というものがほとんど感じられなかった。

 スタンレーが死んでからの数年間、その間もマーシュ・ベネットはこの部屋に住み続けていたというのにだ。もっとも、その体はいつからか亡霊が宿り、操っていたのだが。

 生きている間、老人一人が住むには広すぎるこの屋敷でマーシュは何を思って暮らしていたのだろう。ディシールは、何をしようとしていたのだろう。

 ルイスはキャビネット上で埃を被ったまま放置された写真立てへと目を向けた。そのどれもは皆一様に正面のベッドの方向を向いて微笑みを浮かべている。

 写真に写るのはもちろん、ヘンドリクセン一家だ。背の高い痩せた男と女性と子供が寄り添うように一つの構図に収まっている。女性と子供は、スタンレーの妻と子供だろう。よく見れば、ここへ移る前に住んでいたと思われる場所の写真もある。

 写真の中のスタンレーは、ラルフに聞いた話からルイスが想像していた姿とほぼ同じだった。秀でた額の中には、常人には理解できないものが沢山詰まっているのだろうか。鋭そうな眼光はしかし、愛する家族を前に柔らかなものになっている。

 他の写真には、庭仕事の合間に撮影したと思われるマーシュの自身の姿もあった。主従の関係はあれど、老人は確かに家族の一員だったのだ。

 穏やかな目付きで微笑みを浮かべるこの老人が、どうしてあのような怪物になってしまったのか。

「やれやれ……」

 ルイスは軽くかぶりを振った。

 この分では、残りの部屋を探しても同じだろう。結果が見えているのを知り、ルイスは捜索を断念した。シェプリー達と合流し、そっちを手伝った方がいい――そう判断したルイスはマーシュの部屋から出、そして、入る時にはなかった変化に気付いた。

 入る時には閉まっていた厨房の扉が、半開きになっている。

 ルイスは足音を忍ばせ、扉へと近寄った。懐のホルスターに手をやりながら扉の隙間から中を覗く。と、薄暗い厨房の中、調理台の影から誰かの足が覗いているのが見えた。

「エリック?」

 二階にいるはずの人物の名を呼び、側へと駆け寄る。

 エルリックは食器棚に凭れるようにして床に座り込み、眠っていた。外傷などは特に見当たらない。それを確認したルイスは安心すると同時に、無防備な寝顔を曝してぐっすりと寝こけているエルリックに対し、形容しがたい苛立ちを憶えた。

「この忙しいのに、世話を焼かせるなよ、まったく……」

 ぼやきながら、目の前に投げ出されている足を軽く蹴る。

「起きろ、この酔っぱらい。頭から井戸に突っ込むぞ」

 ルイスはエルリックの肩を掴み揺さぶった。しかし、それでもエルリックは起きない。

「エリック?」

 異変に気付いたルイスは、周囲を見回した。

 だらしなく垂れ下がったエルリックの手の先、キャビネットの足の影に何かが隠れているのに気付いた。ルイスは屈みこむと、キャビネットの下に手を突っ込み、それを取りあげた。

 それは、小さな銀色のスキットルだった。蓋は無く、中身も空だった。しかし、飲み口から漂う甘い匂いにルイスは眉を顰めた。

 ウィスキーとは全く違う香。ルイスが知っているどの酒とも違う、媚惑的な甘さ――

 匂いに気をとられた瞬間だった。

 背後の気配に気付いたと同時に、ルイスの後頭部に重い衝撃がはしった。

 銃を抜くどころか、振り向く暇さえなかった。ぐらりと視界が傾き、続いて襲った痛みに、ルイスは自分の身に何か起こったのかを理解した。しかし、その時にはもう、床に映る何者かの影が闇に溶けていくばかりだった。


 エルリックが階下へ向かってからも、シェプリーは一人で書庫内の地図作成を続けていた。

 元々こういった作業は得意だったし、一人で行った方が効率が良かったのもあって、さほど苦労せずに作業は進んでいった。

 エルリックほどではないが、シェプリーにも陰秘学と形而上学方面の知識はあった。その知識を駆使し、書庫内の分布図の空白を順番に埋めてゆく。おおまかな分布を理解した頃には、始めてからすでに三十分程が経過していた。

 軽い疲労に一息つきながら、懐中時計でそのことを確認したシェプリーは、不安を感じた。しかし、同時に、万が一何かあったとしても、下に居るルイスが見付けて対処してくれるだろうとも思った。

 あるいは、エルリックのことだ。もしかしたら、そのままルイスと一緒に行動しているのかもしれない。そう考えると、いかにもそうらしく思えて、何だか途端に馬鹿馬鹿しくなってくる。

 そのうち戻ってくるだろうと判断し、シェプリーはそれ以上思い煩うのをやめると、部屋の一画へと向き直った。足音を吸収する絨毯が、他のどの部分よりも磨耗具合が激しい箇所だ。

 シェプリーが当初に予想したように、似た系統の書物は一つのグループとして分類されていた。しかし、図書館でよくあるような分類方法とは全く違っていた。

 これは、持ち主の目的が単なる蒐集ではないという事実を指している。すなわち、スタンレーが本気で錬金術に傾倒し、秘術を会得、実践するためにこれらの書物を集めたということである。

「いや、それ以上か……」

 棚に並ぶその顔ぶれに、シェプリーは思わず感歎の溜息を漏らした。

 蒐集品は、錬金術に関するものは当然ながら、化学、哲学、宗教方面だけでなく、新しいものではマダム・ブラヴァツキーによる神智学の秘密教義シークレット・ドクトリンや、フレイザーの金枝篇なども混じっており、スタンレーが錬金を足掛かりとして貪欲に知識を求めていた姿勢が窺えた。

 そして、それらとはまた微妙に方向を違えるものも、書棚には納められていた。

 〈妖蛆の秘密〉や〈屍食教典儀〉にはじまり、解読不能の文字で綴られたものが何冊かが、他の一般的な書物――とはいえ、狭義の意味での一般的であって、平凡な生活を送る市民には少しの接点もないものばかりだが――の隣に何食わぬ顔で並んでいる。それを目の当たりにし、シェプリーは興奮を通り越した薄寒いものを感じた。

 とはいえ、生憎なことにシェプリーはこれらが記す内容について詳しく語れるほどの知識を持ち合わせていなかった。エルリックが居れば、あるいはエンジェルがこの場に居てくれれば、いくらかは言及してくれただろう。

(でも、何故だろう……)

 自らの言葉を繰り返し問う。

 目の前にあるのは、博物館では監視員つきの特別閲覧室でしか覗けないものであり、世界中を探しても現存している数が極めて少ないとされている稀覯本だ。

 焚書から逃れ、多くの人の手を渡ってきたこれらものを眺めるうちに、シェプリーの内には、書架に並ぶこれらの資産を見るよりも以前に感じていた疑問が頭をもたげつつあった。

 シェプリーは手を伸ばし、棚に並ぶうちの中から別の一冊を取り出した。これも背の一部が擦り切れ、かつての持ち主が愛読した痕跡が残るものだ。

 スタンレーかディシールか、どちらが入手したものか推し量ることはできないが、他のよりも格段と古い本で、装丁には著書の内容を記すものはなかった。印刷されたものではなく、羊皮紙に書かれた草稿をそのまま綴じたもののようだ。

 脆い糊付けはいまにも崩れそうで、こうして素手で触れていることに罪悪感を憶えるほどの痛み具合だ。

 シェプリーは慎重に本を開き、はらはらと捲れる頁に視線を落とした。そして。

 思わず、開いたばかりの頁を勢い良く閉じてしまった。

 埃と共に渇ききった表紙の皮が小さな破片を飛び散らせたが、シェプリーはそれどころではなかった。

「そんな馬鹿な!」

 口をついて出る否定の言葉に、自分自身で激しく動揺する。

 何か感じていたわけではないが、全く期待していなかったというわけでもない。だが、それはシェプリーにはとてつもない衝撃を与えるものだった。

「フォスター先生……?」

 目にしたのは一瞬だが、見間違えようもなかった。

 どこの国のものとも知れぬ文字、あるいは不可思議な規則性を持った幾何学紋様――それは、柔らかな銀色の指輪に刻まれていたものだ。あの嵐の夜以来、持ち主と共に所在が不明だったもの、それに極めてよく似たものが、今、自分の手の中にある。

 シェプリーは扉に眼を向け、耳を澄ませた。

 エルリックはまだ戻って来ない。

 本を抱えて窓際へと移動したシェプリーは、明るい光の下で改めて頁を開いてみた。

 動揺のせいか指が震えてうまく動かず、何度ももどかしい思をした。もしかしたら自分の見間違いではないかとも疑った。だが、そっと開いてみた頁は、やはり最初に見た通りのものだった。

 古い羊皮紙の上で複雑に綾なす紋様を、眼と指と記憶とで辿る。馴染み深かった指輪の紋様と、ソールズベリーの荒野に佇む巨石のもとで見つけたそれと、そしてこみ上げる、懐かしさと底知れぬ恐怖。

 闇の奥。金の瞳――やはり、何か関連があるのだ。シェプリーは、複雑に絡んだ糸の一端を、ようやく探り当てたような気がした。

「でも……どうして、これがここに……?」

 困惑し、彷徨う視線は、吸い寄せられるように窓の外へと向かう。

 荒れた庭。建物の影。枯れた草木に囲まれた地下への入口。地面に埋もれていたその扉を見付けたのはスタンレーだ。そこには古い書架が隠されていた。

 そこまで考え、シェプリーはあることに気付き、はっとした。

 ターナー牧師は地下の実験室も見たはずだ。だからこそ彼の指示により、館は村人の手によって焼き討ちにあった。

 なのに、何故? 何故、肝心の地下は埋めただけで済ませたのだ。何故、徹底的に破壊し尽くしてしまわなかったのだ。

「まさか……!」

 唐突に思い浮かんだものに突き動かされ、シェプリーは書庫唯一の窓へと駆け寄ると、その窓にかじりついた。額をガラスに押し当て、地下の入口を凝視する。

 開きっぱなしの扉は風に煽られ、揺れていた。まるで、シェプリーを挑発するかのように。

「何を見ているんだい?」

「ひっ――!?」

 すぐ耳元での声に、シェプリーは飛び上がるほど驚いた。慌てて振り返ってみれば、背後に立っていたのは人を食ったような笑みを浮かべたエルリック・ノーマンその人だった。

「驚いた?」

「あ……当たり前だろ!」

 自分の狼狽ぶりを笑うエルリックに、シェプリーは憤慨した。しかし、そんなことにはお構いなしとばかりにエルリックはただ笑うのみだ。そうして、彼はシェプリーの手にある本に、目を止めた。

「おや、随分と面白そうなものを見付けたんだね。見せてくれる?」

 右手を差し出し、催促するエルリック。悪戯っぽい笑みを浮かべる水色の瞳の奥、何か抗い難い光を感じ、シェプリーは躊躇した。けれど、エルリックはシェプリーの返答も待たず、その手から本を持っていってしまった。

 呆気に取られるシェプリーを横目に、エルリックは頁を順に捲ってゆく。

「あぁ、これは〈契約のしるし〉だな」

「契約の……印?」

 シェプリーが聞き返すと、エルリックはちらと眼を向け、続けた。

「魔物を喚び出して従わせることの出来る魔法円、あるいは呪文のことさ。護符として使う場合もある」そうして本を閉じると、その表紙を愛おしそうに撫でた。

「〈ソロモンの鍵〉について聞いたことは? それから、この世界のどこかにある、解読不能の文字で記された石版は?

 そこに記された文字は有史以前のものだという説もあるし、人間ではない生物の言葉だという説もある。あるいは、地球上の言葉ではないのかもしれない。いずれにしろ、暗号解読の専門家でも解けない秘密の文字であることは確かだ。そういったものを集め、本に写し取った者がいるという話を聞いたことは?」

 俯く顔は影に沈み、感情らしきものは窺えなかったが、その声には何かを考え込むような深い闇があった。

 シェプリーは、自分の内で何かが呼応するのを感じた。不吉な予感に、胸の奥がざわつく。

「……それが、その本だと?」

「可能性はあるね。でも、もしかしたら違うかもしれない」

「なら、何故その印を君が知っているんだ」

「前に見たことががあるからさ」

 エルリックは大した事ではないとでも言いたげに首を竦める。だが、シェプリーの疑念は一層深まるだけだった。

「何処で?」

 シェプリーの追求に、エルリックは答えない。沈黙の中にねっとりとした絡み付くような視線を感じ、シェプリーは後ずさった。

 シェプリーはエンジェルの失踪後、この印についても調べた。だが、どこの国ものなのか、いつの時代のものなのか少しもわからなかった。

 著名な言語学者に問い合わせたことすらあったのに、帰ってきた答えはいつも彼を失望させた。なのに、目の前に居るエルリックはそれを知っていると言う。

「……君は、誰だ」

 シェプリーは震え出す声を抑えるのが精一杯だった。後ずさる踵が、椅子の足に触れる。

「僕が誰かだって? おかしなことを聞くんだね、君は」

 エルリックは嘲るように喉を震わせて笑い、そして、よく通る声で言った。

「わかっているはずだぞ、お前は――違うか?」

 声の調子と共に、エルリックは――否、その体に乗り移ったディシールが凄絶な笑みを浮かべた。

 シェプリーは咄嗟に机の上にあったペーパーナイフを取った。

 鈍く光る刀身を突き付けられ、エルリックの動作が止まる。

「ルイス! ルイス――!?」

 シェプリーは叫んだが、しかし応援は来なかった。

 自身を睨みつけるシェプリーに、ディシールはくつくつと喉の奥で音を鳴らす。

「なぁに、心配するな。後ろ頭をちょいと撫でてやっただけだ。もっとも、運が悪ければ、そのまま永久に起きて来ぬかもしれんがね」

 そう言って、前へと足を踏み出す。シェプリーは猫のように飛び退り、ナイフを掲げた。

「近寄るな!!」

 目の前に突き付けられた切っ先に、ディシールは眼を細めた。

「いいぞ、やってみるがいい。それとも、この前のように酸で焼き尽くしてみるか?  だが、その前に一つ忠告してやろう。肉体が傷付いたところで、苦しむのはわしじゃないぞ」

 落ち着き払っての台詞に、シェプリーが怯む。その瞬間を、ディシールは見逃さなかった。

 素早く詰め寄り、目前の青白い顔を思いきり殴り付ける。

 拳はこめかみを直撃し、眼鏡を弾き飛ばした。衝撃に眩んだシェプリーがよろめき、倒れ伏す。ディシールはその手からナイフをもぎ取り、襟首を掴んで引き上げると、今度は傍らの書棚に向かって投げ飛ばした。

 シェプリーはまともに背中を打ち、息を詰まらせた。そのまま崩れ落ちようとするのを、ディシールの手が止めた。片手で喉元を締め上げ、吊るす。

 痩せているとはいえ大人を片手で掴み上げているだけでも尋常ではないのに、ディシールが操るエルリックの肉体は信じがたい膂力りょりょくを発揮する。喉をがっちりと掴まれ、喘ぐシェプリーを見つめるディシールの瞳には、ぎらぎらとした凶悪な光が宿っていた。

「苦しかろう。だがな、わしはもっと苦しかったぞ!」

 吠えながら、シェプリーの体を本棚へと叩き付ける。激情に駆られるまま、何度も何度も。

「生きながら焼かれる苦しみをお前にも味わせてやろうか!  それとも、腹を裂き、の餌にしてやろうか!!」

 ディシールは手にしたペーパーナイフの切っ先で、シェプリーの目許から顎をなぞり下ろすと、鳩尾の上で止めた。服の上からでもわかるその切っ先の感触に、シェプリーは息を呑み、体を強張らせる。

「ははは、恐ろしいか――だが安心しろ。お前は殺さん」

 ナイフが離れ、喉を掴んでいたディシールの手も緩む。シェプリーはその場にうずくまり、激しく咳き込んだ。しかし、まだ開放されたわけではなかった。

 ディシールは片膝をついてしゃがむと、シェプリー髪を掴み、自分の方へとその顔を向けさせた。

 あらわになった碧眼を覗きながら、ディシールが再び凄絶な笑みを浮かべる。

「ようやく見付けた水晶眼だものな。この機会、みすみす逃すわけにはいかんのよ」

 耳慣れぬ言葉にシェプリーが困惑するのを、ディシールは鼻で笑い、掴んだ髪を引き上げた。

 シェプリーは痛みに悲鳴をあげ、その手を振りほどこうと抵抗したが、無駄な努力だった。爪を立てようが何をしようが、ディシールの手は鋼鉄のように少しも緩まない。

 ――と、不意にディシールは舌打ちをした。

 乱雑に投げ出されるように解放されたシェプリーが、そのぼやける視界で見たものは、自身の手を忌々しげに睨む相手の姿だった。

「エリック……?」

 シェプリーの呼びかけに呼応するかのように、その手は硬直し、痙攣をしていた。だが、ディシールはそんな僅かな希望すら文字通り握り潰し、再びシェプリーに鋭い視線を向けた。

「黄金の蜂蜜酒で精神を分離したとはいえ、長くは持たん。生憎とここで暢気に話し込んでいるほど暇ではないのでな。邪魔が入る前に片付けさせてもらうぞ」

 すらりと伸びた指先を、シェプリーの眉間に向けて突き付ける。

「――っ!?」

 刹那、シェプリーは全身が総毛立つのを感じた。

 ディシールの口から、奇妙な抑揚をつけた言葉のようなものが発せられる。浪々と響く声が、室内の空気を振動させ、耳の中でこだまする。何かの呪文を唱えているのだと理解した途端、言葉の持つ魔力がシェプリーの脳を直撃した。

(しまった――!)

 シェプリーは慌てたが、全てが遅すぎた。

 鼓膜をすり抜け脳に達した時点で、それはもうただの言葉ではなくなっていた。

 言霊(ことだま)、語霊(ごれい)。それらを宿した呪文が、意識を絡め取り、闇の中へと引き摺り落とす。

 ぐにゃりと歪む視界。ディシールの――エルリックの顔がぐっと近寄ったように思えた。その眼だけが異様に大きく輝いて見え、眩む眼に、夢で視た光景が蘇った。

 見付けたぞと呟きながら迫る干涸びた手。暗く淀む黒い海。

 全身を捕らえる甘美な痺れと、深く浸透する声。

 世界が、暗転した。



 暗闇の中を、幾つもの影が蠢いていた。

 あるものは跳ね、あるものは転がり、途切れる事のない闇夜の中を各々のリズムに合わせて踊り狂う。

 笛の音と太鼓の音とで織り上げるのは、異国の調べ。異質な旋律。合間を縫うように、何事かを声高に叫んでいる声がする。

 ――否。声は、歌っているのだった。

 人のものではない言葉で、人にあらざるものへと捧げる歌を。

 夢現うつつに響くその調べは、これもまたやはり上がることのない遮布ヴェールのように、聞く者の意識を惑わせる。

 めくるめく眩惑にも似た世界。しかしその世界は、不意に渾沌の中へと消えた。まるで水に写った像が風で乱れ、掻き消えるように。

 水面を波立たせたのは、痺れと痛みだった。それらはまだ微かに残っていた夢の残滓と一瞬混じり、離れていった。遮布を取り払われ、茫洋としていた意識は徐々に秩序ある形を取り戻す。そうして、ルイスは唐突に自分が冷えきった床の上で寝ているのに気付いた。

「つ……痛……て」

 起き上がろうとすると、鈍痛が頭に響く。歯を食いしばって身を起こしたルイスは、こうなる直前に何が起こったのかを思い出し、そして自分が犯したミスに気付いた。

「畜生、油断した」

 シェプリーが今回の依頼に執着する裏には、彼にしかわからない何かを感じていたからだった。同様に、ルイスもまた、彼が感じるものとは別種の予感を抱いていた。

 首筋がちりちりと焼けるような感触。それは、これから起こる物事に対する警告だ。

 今迄の経験則として、ルイスは自分の勘を――特に悪い予感を――信じていた。だから一旦行方不明となったエルリックが、彼だけが深い眠りから醒めたことに疑いを持っていた。それなのに。

「なんてザマだ、まったく」

 自分の愚かさに腹が立つ。

 エルリック自身の人柄と多めのアルコールで判断が鈍っていたのだ。亡霊の相手はシェプリーに任せればいいと考えていたのが甘かった。

「そうだ、シェプリー……!」

 ルイスは痛む頭を抑え、立ち上がった。窓から見える外はまだ明るい。しかし、腕時計の針は正午をとっくの昔に過ぎている。

「クソっ!」

 ルイスは厨房を飛び出し、廊下を走った。

 一足飛びに階段を駆け上がり、二階へと到達する。目を上げると、目的の部屋の扉は開いたままなのが見えた。室内からは物音一つ聞こえてこ来ない。

 ルイスは躊躇うことなく書庫へと踏み入ると室内を素早く見回した。そして、小さな窓に面した机上あるものに気付き、目を見張った。

 それは、つるが折れ曲がり、レンズが割れている眼鏡と、その隣に突き立てられたペーパーナイフだった。



 酷く厭な臭いが鼻先を掠め、シェプリーは眉を顰めて呻いた。

 重い目蓋を開けると、どこからか漏れる薄明かりに照らされた壁が見えた。

 弱い光とはいえ、急激に開けた視界についていけず、シェプリーの目は眩んだ。淡い青が、水面で反射する光のように壁に当たって揺らめいている。

 口の中には妙な甘さが残っており、頭も霞がかかったようにはっきりしない。冷たい石の台に寝かされているのだと気付いたが、身体を起こすような力は沸かなかった。

 少しずつ意識がはっきりしてくるにつれ、異様な感触が周辺を取り巻いているのにシェプリーは気付いた。肌で感じる空気は生暖かく、それでいて身体の芯は凍えるような寒さに、震えを抑えられない。

「お目覚めかな?」

 かけられた声に、シェプリーは身を固くした。ぼやけたままの世界の向こうから見知った顔が近寄り、にたりと笑う。

「ようこそ、我が隠れ家へ」

 一旦後ろへと下がり、芝居掛かった仕種で道化のように礼をして見せる。シェプリーは、蘇る記憶に息を飲んだ。

「死んだ身体を操るのは大変な苦労でな。腐敗を押さえるために、周辺のあらゆるものから生気を集めておったのよ。ほれ、お前が今感じている寒さがそうだ。生物、植物、土や水からも生気を集めてあの哀れな老人の肉体を保っていたのさ。だが、やはり長く持たせるのは無理だった。幸い、問題はもう解消されたがな。お前達のおかげで」

 ディシールの言葉に、シェプリーが顔を引き攣らせる。

 相変わらず四肢には力が入らず、頭すらもまともに起こせない。僅かに動く首と目だけでは、数百年を経て死より立ち帰った秘術師には何の抵抗もできなかった。

 そんなシェプリーを愉しげに眺めながら、ディシールは己が乗っ取った身体を使い、これみよがしに動き回る。

 軽快で颯爽とした足取りは、エルリックの肉体が完全に彼の支配下にあることを物語っていた。

「こやつのことが心配か?」

 内心を見透かしたのか、ディシールがシェプリーの顔をのぞき込みながら問いかける。その目には、捉えた獲物を仕留めずに、いつまでもいたぶり遊ぶ猫のような残忍さが浮かんでいる。

 シェプリーの胸に、ふつふつとした怒りがこみあげた。だが、続けられた言葉に、その熱は一瞬で奪われた。

「 嫌っておったくせに」

 氷の塊を首筋に宛がわれたような感触。シェプリーは絶句する。

 ディシールは愉悦の笑みを浮かべながら、こつこつと自分のこめかみを突き、言った。

「そうさ。この男は知っている。自分がお前にどう思われているかを。それでも気付かない振りをした。お前に好かれようと振る舞った……何故だと思う?」

 シェプリーは答えない。不安と怖れが入り交じった表情を見て、ディシールは嗤笑ししょうした。

「お前の眼を見たからさ」

 意味が解らず、シェプリーは戸惑った。

「……どういう、意味だ」

「水晶眼」

「え――?」

 ディシールはシェプリーが横たわる台の周囲をゆっくりと歩きながら、言った。

「精霊や妖精、魔物、悪魔、天使などと呼ばれる存在を見、その能力次第では、次元をも越えた世界を覗き見ることが可能な眼のことだ。水晶を覗いて予言をするように、己の身ひとつでそれを可能にする力を持つ。東の大陸では龍眼とも呼ばれておった。そういった力を持つ者は、得てして他者の心も惹き付ける――望むとも、望まざるとも」

 頭の辺で立ち止まり、顔を覗き込む。逆さになった視界に写りこむその表情は影に沈み、仄暗い闇の中で瞳だけが異様な熱をもって輝いていた。

「肉眼では見えぬものを見通すことができる、魔性の眼だ。心の弱い者が見れば、あっという間に魂を抜かれる。そうでなくとも、惹かれずにはいられない。それが水晶瞳よ。大方、あのルイスとかいう男も、そうやってたぶらかしたのだろう?」

「違う!」

 毒を孕んだ言葉に辱められ、シェプリーは激昂した。掠れた弱々しい声しか出なかったが、迸る怒りに突き動かされて吠えた。

「いい加減なことを言うな! 僕の眼がどうしてそれだとわかる!」

「おっと、危ない。また焼き殺されでもしたら大変だ」

 おどけたように首を竦めるディシールに、シェプリーは狼狽する。そんなシェプリーの様子をさも可笑しそうに眺めていたディシールだったが、やがて揶揄からかうのに飽きたのか、悪辣とした笑みをその端正な顔から消した。

 代わりに浮ぶのは、伶俐な探究者としての横顔。長い年月の間に培った智慧の深さが見せる、深淵のような影が一層濃くなる。

「いいだろう、教えてやろう。その前に、まずはこれを見るがいい。世にも稀なる結晶を――」

 厳かに言い放ち、ディシールは背後にあったそれを手に取った。

 部屋を照らしていた灯りだと思っていたそれは、握り拳ほどの大きさもある透明な結晶だった。

 シェプリーは視覚ではなく、感覚でそれが何なのか即座に理解した。

 それは水晶の塊だった。ただし、通常のそれとは明らかに異なっていた。

 透明な内部には、仄青い燐光が灯っていた。その周囲には、幾重にも重なる薄いヴェールのような膜が、光を受けて虹色の艶を放っている。

 長い年月を経て地中で成長する結晶は、稀に何らかの原因でその成長が一時的に止まることがある。その後、再び成長を始めたために、年輪のようなものができることがあった。その現象自体は別段珍しいものではない。

 しかし今、秘術師の手にあるそれは、おそろしく均衡のとれた角度を保っていた。まるで人の手で削り出し、研磨したかのような完璧さだ。

 自然が作り出す屈折率を保ちつつも、多重に連なる面が万華鏡のような歪な像を生み出していた。

「よく見るがいい。これがこうして光っているのは、お前の内に宿る〈力〉に反応しているからよ。夢見人としての力を、この結晶が増幅しておるのだ。そしてお前も、感じておったはずだ」

 言われるまでもない。シェプリーは屋敷を取り巻く障壁の存在に気付いていた。おそらく同等の力が作用し、干渉しあっているのではないかと予測もしていた。だが、その原因がこの結晶だったは。

 視覚を通さずして知覚する蠱惑的な燐光は、渦を巻く膨大な力が凝縮されたものだった。

 ディシールは尚も言葉を続ける。

「エリックと言ったな。わしが拝借しておるこの男の精神は今、この結晶の中にある。お前達が連れ戻したあの女もだ。

 わしがお前達に飲ませようとした黄金の蜂蜜酒は、肉体から精神を分離させる魔法の薬だ。口にした者は、少量でも影響を受ける。あとはこの結晶を通して、夢で呼び掛ければいい。

 身体を抜けた精神はここへと導かれ、この結晶を覗き込む。この迷路に迷いこむ。この結晶は夢と現実の入口であり出口でもある深睡の門と繋がっておってな、お前が〈夢〉を通してその能力を現実へと還元できるように、肉体をもこちら側へと引き寄せるのだ。魂の抜けた身体を操るのは容易い――そうそう、ついでにもうひとつ、面白いことを教えてやろう。わざわざ蜂蜜酒の助けを借りずとも、意志を操作できる者もいるということを」

「じゃぁ、やっぱり、ターナー牧師は」

 書庫で閃いたこと――シェプリーには、それ以上はとても口には出来なかった。kれれどもそれを読み取り、ディシールが大きく頷く。

「そうとも。これを見たからだ。この地下だけは手を出さないように、わしが奴を誘導したのだ。

 奴は表向き冷静で温厚な男を演じておったが、本性はそうではなかった。狭量で、曲がったことは少しでも許せなかった。不信心な村人に手を焼いて苛々しておった。わしは、そんな奴の背中を押してやったのさ。目に見える悪を用意して、奴に利用させてやったのさ。

 おかしなことよ。強く思い続けている人間ほど、心は隙間だらけだ。ほんの少しつつくだけで、簡単に操れる」

 くつくつと喉の奥で笑いながら、ディシールは愛おしそうに、名残惜しそうに、指先で結晶の表面をなぞる。

「どうしてそんなことを……」

 掠れ声しか出せなかったが、シェプリーは問わずにはいられなかった。聞いてしまったら二度と後戻りができないとわかっていても。

 ディシールの目の、再びぎらりとした光が浮かぶ。

「後々のための餌に決まっておろうが」

 ディシールは吐き捨てるように答えると、輝く結晶を元あった場所へと戻した。

 ディシールは、今度は傍らの壁に――壁一面を覆った黒い布に手をかけた。

「賢者の石や黄金などただの目眩しよ。どちらも、錬金の奥義を会得する過程で得る結果の一つに過ぎん。そして、会得などという道を辿ることも、わしには必要ない」

 一気に引き抜き、覆いを取り払う。

 露になった光景。そのあまりの醜悪さに、シェプリーは思わず目を閉じた。

 幾つも並んだガラス容器の中に、酷く奇怪な姿をしたものが浮んでいた。

 そのシルエットは、人間ではあり得なかった。だが、極めて人間の姿に酷似したものだった。大きさはちょうど人間の子供くらいの大きさだった。それが、ビンの中で膨れたホルマリン漬けの標本のように詰められている。

「こいつらは人の生き血が必要でな。血がやれずに死んでしまった。だが、それはもういい。わしの本命は、あれだ」

 ディシールが指差す奥に、一際大きな容器があった。

 シェプリーは嘔吐感に喘ぎながらも、その方向に眼を向け、闇にも似た中へと眼を凝らした。風呂桶よりもひと回りも大きな容器には、透明ではないが不透明でもない液体で満たされている。その中に、大きな影が浮いているのが見えた。

「我が肉体。新たな器。数百年の間眠らせておいたもののだが、ようやっと完成間近となった」

 辿り着くのを避けていた回答に打ちのめされ、一瞬、シェプリーの意識は遠くなった。

「健康な男の血と肉とを、どのくらい使ったか? どのくらいの日数を費やして蒸溜したか? これほどのサイズ、そう易々とは作れんぞ。そこいらの似非術師には出来ぬ秘術よ。もっとも、わしとて、あのお方より授かった智慧を駆使せねば、完成させるのは至難の技だがな――」

 ディシールは不意に口を噤むと、シェプリーの顎と髪とを乱暴に掴み、一面に並ぶ容器へと向けさせた。

「――さぁ、見ろ! よく見るんだ! こいつは、お前の為に作ったようなものだからな!!」

「!?」

 衝撃と苦悶に歪むシェプリーの顔に、老獪な秘術師はさも愉快そうに眼を細めた。そうして耳元に口を寄せ、囁く。

「長い、長い間、わしは探しておった。お前を――お前のような眼の持ち主を。だが、少しも見つからなかった。当然だ。少しばかり力のある霊媒などとはわけが違うのだからな。それこそ数百年に一人、生まれればよしとされるものだ。それでもわしは探さねばならなかった。何故なら、わしを造り出したあの御方がそう命じたからだ」

「つ、造り出しただって?」

「当前であろう。低俗な殻を纏ったまま少しも進化せぬ下等生物であるただの人間ごときが、万物の流れを無視して生き長らえることなど出来るものか」

 底意地の悪さを優しい声音に包みながら、ディシールは述懐する。

「そうとも、わしはあの御方造られた。我が主人マスター、我が創造主。その御方がわしに命じたのだ。例え肉体が滅びようとも、いつ現れるかわからぬ水晶眼を探し出せ、とな」

 息も触れるほどに近寄った唇から、次々と信じられぬ言葉が飛び出す。もはや、理解の範疇を越えていた。理解したくもなかった。こんな恐ろしく冒涜的なものが、どうして自分と関係がなければならないのだ。これ以上、何も聞きたくはなかった。

 本能的に感じ取った恐怖に、シェプリーは子供のように嫌々をしようとした。しかし、ディシールがそれを許さなかった。

「長かったぞ――本当に、気が狂いそうなほどの年月だった。たかだか数十年生きるのが精一杯のお前達人間には、とても想像できんだろう。しかし、いくら人間よりは長もちするとはいえ、わしの肉体にも限界が来てしまった。それが、ちょうどこの国に辿り着いた頃のことよ。

 仕方なく、わしは新しい器を造ることにした。そのくらいの技術は、あのお方より授かっておったからな。しかし、生憎と世間はわしらのような者が生きるには不都合な時代だった。魔術師、占い師、霊媒。とにかく教会から異端とみなされる者は、ことごとく糾弾され、狩られたものさ。危険を察知した者は、早々にその身を隠した。生き残った者はこの地を離れた。だが、わしには時間がなかった。だから、危険を承知でこの地に残り、あれを造ることにしたのさ」

 熱っぽく語りかけては離れ、また語る。繰り返す波にも似たディシールの声と、先に飲まされていたであろう蜂蜜酒の効果も相まって、シェプリーの意識が朦朧としはじめる。

 闇の中にあっても、室内を満たす淡い光はシェプリーに安らぎをもたらすものではなかった。焦点の定まらない視線。その先にある黒い影。揺らめく妖しげな燐光。結晶の中に灯る輝き。その源を、熱を、自らの頭蓋の内に感じてしまう。混乱が渾沌を呼び、その中へとシェプリーは溺れてゆく。

 その様子に、ディシールが興奮し、饒舌さを加速させる。久しく感じることのなかった肉体の感覚を取り戻し、そして新たに目覚めた嗜虐の悦びに、ディシールと名付けられた疑似生命体は狂わんばかりの歓喜を感じていた。もう、相手が自分の話を聞いていようがいまいが、どうでもよくなっていた。一度弾みの付いた勢いは、彼自身にも止めることはかなわなかった。

「準備は慎重に行わねばならなかった。しかし、どうやっても、隠し通すことは不可能だった。あれの形成途中に、あの忌々しい村の無知どもに勘付かれてしまった。仕方なく、わしは一旦隠れることにした。魔女狩りも煩かったしな。暫く隠れて、やりすごすことにしたのさ。それには、まずはわしが村人の記憶から消えねばならん。幸い、わしはあの方から多くの智慧と共に、この水晶を授けられておった。肉体は死んでも、この水晶さえあれば、魂は保存できる」

 突然、ディシールが声をあげ、ヒステリックに笑いだした。幾世紀もの時を越えての邂逅に、とうとう我慢できなくなったのだ。

「うまくいったものよな。村の連中は、わしが死んだと思ってそれ以上の詮索はやめた。牧師はわしを怖れていたが故に、契約を守った。牧師はその罪から逃れるために一層狂信的に、盲目的に教義にのめり込み、村人達も改心した。それから長い時間が経って、用意した餌に食い付いた愚か者どもがあらわれ……そして、巡り巡って、とうとうお前もやってきたというわけだ!」

 知りたくもない秘密だった。知ってはならない現実だった。しかし、これで終ったわけではないことをシェプリーは知っていた。知っていたからこそ、これ以上何も聞きたくはなかった。なのに。

「な、ぜ……?」

 自らの口をついてこぼれ出たそれは、切実に真実を渇望したものだった。

 掠れた小さな声に、デイシールが嗤うのを止める。

「何故、とな?」

 後に続く言葉を、すべてを拒絶したいと願う一方で、シェプリーは真実を渇望していた。

「何故? どうし、て……?」

 胸の内で悲鳴をあげ続けながらも、しかし、シェプリーは自分自身の欲求に抗えなかった。知りたかった。

 銀の指輪と古びた羊皮紙。そのどちらにも共通した幾何学模様が示すものを。そして、同じ輝きを放つ琥珀色の瞳もつ人物のことを。

「何故、あれが……〈契約の印〉がここにある」

「決まっておろう。我が主人がわしの為に授けて下さったのよ。そして、後の世に遺すために……そう、水晶眼の持ち主であるお前に託すために隠したのよ」


『君がもっと大きくなって、分別がつくようになったら教えてあげよう――』


「嘘だ」

 血の滲むような声で、シェプリーは呻いた。

 赤黒い血溜り。暗闇に灯る炯眼けいがん。シェプリーの脳裏に、かつて目の当たりにした惨状が蘇る。ただの悪夢であって欲しいと願った、あの光景が。

 ディシールは鼻を鳴らすと、シェプリーに向かって冷たく言い放った。

「嘘なものか。〈印〉は、その力故に道を誤ると面倒なことになる。マスターは、巷には意味を成さない出鱈目な暗号を遺し、本物であるあの一冊をわしに託された。やがて受け継ぐ者があらわれるその日まで、どんな手段を使っても守り通せと」

「嘘だ!」

 まるで自分がここへ来るのを遥か昔からわかっていたかのような口ぶり。再び、激しい目眩がシェプリーを襲う。

 コニー達学生が行方不明になったのも、スタンレー一家とマーシュがこの地に移り住んだのも、この地で忌わしい事件がおこったのも、全部この時のためのお膳立てだったというのか。あの嵐の晩に起こった出来事も、その後に自分が選んだ道も、この地下でこんな馬鹿げた話を聞くために必要な選択だったというのか。

 ――あり得ない。あり得るはずがない。

 エンジェルが持っていた指輪がディシールのいう〈印〉と同じものだとしたら、彼は魔物を従える印を持っていながら死んだことになる。

 それとも、師はこのことを知っていたというのか? 彼には未来が視えていたと? 過去を知っていたと? 

 ならば、何故彼は自分に一言も言わなかったのか。ずっと一緒に居たのに、そんな大事なことを、何故教えてくれなかったのだ。

「信じない……そんなこと、絶対に信じない……信じるものか……」

 譫言のように否定の言葉を呟きつづけるシェプリーに、ディシールはちらりと一瞥を投げかける。そこには哀れみにも似た複雑な感情が窺えたが、衝撃と薬のせいで朦朧としはじめたシェプリーには見えていなかった。

「信じるも信じぬも、それはお前の勝手。だが、どれほど否定したところで、事実は変わらん」

 ディシールは片手を翳し、シェプリーの顔の前で振ってみせた。

 シェプリーからの反応は、なかった。ぼんやりと曇った瞳は部屋の片隅で鈍く輝く結晶と同じ光を宿し、ぶつぶつと不明瞭な言葉を呟き続けている。

「さて、そろそろ始めるとしよう」

 ディシールは呟き、先程の小さな結晶の元へと戻った。

 載せておいた台座からそれを取り上げ、しげしげと眺める。思い出すのは、これを授かった当時のことだ。

 遥か昔、彼が主人より言付かったことは二つだけ。

 一つは、〈契約の印〉を受け継ぐ者――水晶眼の持ち主を探し出すこと。

 もう一つは、水晶眼がまだ覚醒していなければ、その〈力〉を引き出し、開放すること。

 その命令に従い、彼は今日までを過ごしてきた。いつ訪れるやもしれぬ瞬間を待ち、着実に準備を整えてきた。

(なれど……)

 淡い燐光を眺めながら、ディシールは胸の内でひとりごちる。

 シェプリーの力の強さについては申し分はない。それはつい先日、身を持って体験したばかりだ。

 あの時、マーシュの肉体を離れるのがもう少し遅かったら、ディシールは与えられた役目を果たすこともなく、朽ちた肉体と共にこの世から消滅させられていただろう。しかし、この青年の状態は、まだ覚醒できていないという状況を差し引いても、あまりにも脆弱で不安定だった。

 このまま儀式を施したとしても肉体と精神が耐えられるかどうかは、年旧りた彼にもわからなかった。

(……まぁ、よい。失敗ならば、また次を待てば良い)

 数百年に一度の機会とはいえ、必ずしも今回がそうだとは限らない。それを見越していたからこそ、主人はディシールに魂を保つすべ術を教えてくれたのだ。万が一、今回が無為に終ったとしても、器さえあればまた次の機会を待つことが出来る。

 ディシールは一人納得し、青ざめて色を失ったシェプリーの側を離れ、水槽の前に立った。

 薄闇の中、溶液に浮かぶシルエットは、羊水に浮ぶ胎児を思わせる。長い月日を眠りの中で過ごし、いまだ眠り続ける新たな器。

 もうほとんど完成したと言っても良いのだが、より完璧な状態を望むのであれば、あと数人分の血が必要だった。

 しかし、それももうすぐに解消されるであろう。

 ディシールが得心の笑みを浮かべて頷こうとした時、不意に、くぐもった音が微かな反響を伴ってこの地下へと辿り着いた。

 ――上からの音だ。

「来たな」

 ディシールは素早く身を翻すと、シェプリーを載せた台の側へと戻った。そして、手にしていた水晶を頭上に翳す。

 結晶は目に見えぬ力によって中空に縫い付けらたかのように、ディシールの手から離れても落ちることなくその場に留まった。

「さぁ、覗け。これを通して、彼方に潜むものを〈視〉ろ」

 そう言いながらゆっくりと後ずさる。

 そして、自身の左手の人指し指を強く噛んだ。

 噛み切られた皮膚から紅い血が溢れ、珠をつくる。それが零れる前に口に含み、彼は宿主の血を、エルリックの血を味を存分に味わった。

 口中に広がる鉄錆の臭い。震えるほどの甘さに、ディシールは興奮する。

「これ以上犠牲を増やしたくなければ、せいぜい頑張ることだな」

 血に塗れた手を、輝く水晶とその下に捧げられた贄とに向かって突き出し、振り下ろした。

 途端、わだかまる闇がふわりと揺らめく。まるで、今の一閃によって、空間を切り裂かれたかのように。

 間を開けず、ディシールは奇妙な抑揚をつけた不思議な言葉を紡いだ。そうしながら、今度は振り下ろした手を再び上げ、もう片方の手も使い、幾重にも交差する線と円とを虚空に描いてゆく。

 手の残像が何も無い空間に印を刻めば、微かな光がそれを記録し、紡ぐ語霊が力を増幅させる。そして、印が完成に近付くにつれ、小さな結晶の輝きが増していった。

 それは、冷たい炎。

 輝ける闇。

 どれほど輝きが増そうとも、決して闇を取り払うことの出来ぬ異次元の色。

 光は徐々に力を増し、それを映すシェプリーの瞳が、わずかに揺れた。

「地獄の犬よ、悪魔の猟犬よ、永劫なる呪いによって深淵へと追放されし精霊よ。契約の印のもと、遥けき次元の彼方よりあらわれいで出よ」

 秘術師の召還に呼応するように、闇の中に仄暗い紅の輝きが生まれる。

 紅い火はふらふらと方向の定まらない動きをしていただけだったが、やがて己を誘う戸口の存在に気付くと、猛然と走り出した。

 近くて遠い四次元の彼方から、規則正しい物理法則が支配する世界へと。


 どこからともなく忍び込む冷気によって、室内の気温は下がりつつあった。肉体で感じる冷気と、増大する未知の気配に、朦朧としていたシェプリーの意識が僅かに浮上する。

 まさにそのとき、感激を伴ったディシールの声が響き渡った。

「不浄の猟犬よ! ゲイブリエルの魔犬よ! 汝を幽閉する次元牢を抜け、今再び我が許へときたれ!!」

 部屋の片隅、印の効力の届かぬ範囲から、何かが闇をかき分けてゆっくりと這い出してくる。その存在を感知した途端、シェプリーは衝撃に眼を見開いた。

 視覚と触覚との両者によって知覚できる共有感覚対象をも超越した存在ものが、禍々しい狂気の色をその瞳に滾らせつつ、この世界へとやってくる。

 四年前、闇に沈む部屋の片隅で見かけた時と寸分違わぬその姿――シェプリーは絶叫した。

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