08:ヘルメスの円


 ぼたぼたと何か湿ったものが落ちる音が響いていた。

 黒い墨を流したような闇深い場所。鼻が曲がるほどの汚猥の臭い。

 息をするのも困難なほどに腐った泥水が、足元のすぐそばまで押し寄せている。どこからか差し込む仄かな青い光のせいで、汚泥の表面はとろりとしたゆるい膜で覆われているようにも見えた。

 これは夢だと、意識の奥でシェプリーは思った。同時に、夢ではないとも感じていた。

 ぼたり、べちゃり。水たまりを踏むような音。ずるり、ぞろり。何かを引きずるような音。

 くつくつと喉の奥で笑う声。きしきしと、歯が浮くような金属音。

 闇風とともに、汚泥とともに、声の主が近付いて来る。なのに、姿が見えない。気配さえもない。


 ――れ、お……、…と……のぶ――で……!


 不明瞭な声が緩い風に乗って運ばれて来る。それが怨嗟の声だと気付いた時には、すでに周囲は汚泥に取り囲まれてしまっていた。その中に、点々と散らばる白いものが浮んでいる。

 目を凝らさずとも、それが何なのかはわかっていた。

 千々に千切れた、断片。ぬめる内蔵。絡まる神経。砕けた骨。


 ――に!

 わ……の、…を……るものは、……んぞ。


 声は、徐々に言葉としての形を整えつつあった。それと共に、闇が渦を巻きはじめる。

 渦の中心は、恐ろしい早さで回転していた。金属音は、その音階を上げる。甲高い音。人の耳が辛うじて聞き取れるような高音。音は波となり、鼓膜を限界まで振動させる。

 耳を押えても途切れることのない音波。頭が割れそうなほどの苦痛。

 立っていられない。いつのまにかかさを増した汚泥の中に、膝をつく。

 触れただけで戦慄するほどの嫌悪感――背筋を、冷たいものがはしる。

 ごぼりと音をたてて、汚泥の中から何かが浮び上がってきた。

 見てはいけないと、頭の片隅から警告の声があがる。けれど、体はすでに反応している。

 人間の頭部だ。あまりにも白い肌は、蝋でできたかのようになめらかだった。

 目蓋を閉じたその顔は、穏やかな眠りの最中にいるかのような印象を与える。しかし、決してそうではないことを、無惨に引きちぎられたくびが物語っている。それなのに。

 目蓋が細かく痙攣する。色素の薄い、長い睫がゆっくりと持ち上がる。

 あらわれたのは、輝く黄金色の瞳。その眼光に射抜かれて、体の自由が瞬時に奪われる。


 ――…つけた………みつけたぞ……


 口から真っ黒に変色した血を吐きながら、生首が喋る。途端に、ごう、と音をたてて、渦巻く闇が変化しはじめる。

 渦の中心に、穴が空き、干涸びた手が、その穴からあらわれるのが見えた。


 ――……っ……たぞ。……ていたぞ……


 気づけば、汚泥は胸の辺りにまで迫っていた。

 目の前にあった首は、鏡に映る自分の姿に変わっている。

 死んでいる自分の顔。淀んだ目をこらし、それを見つめる自分。おぞましくも目を逸らせない。内側と、外側。あらゆる角度から手が近付くのを感知しつつも、己の目はその鍵爪のような骨張った手からも、目の前にあるもう一つの自分の顔から注がれる視線からも逃れる事が出来なかった。――そう、逃れられないのだ。


 肩に。首に。そして、顎に。汚泥の量が増えているのか、それとも自分が沈んでいるのかさえもわからなかった。

 やがて、視界がすべて黒に包まれる。痺れるような冷気も心地良いものに思えるほど、思考が麻痺しかけていた。

 自分を飲み込む泥の中には、ゆっくりとではあるが流れというものがあった。打ち寄せる波が引いてゆくように、沖へ。奥へ。そして、下へと向かう流れだ。

 沈む。沈んでゆく。

 嗚呼、嗚呼――底から沸き上がる泡のように、幾つもの呟きが耳元を掠めては消えてゆく。

 悲しい旋律をもった嘆き。怒りに震える咆哮。繰返されるそれらに耳を傾けていると、どうしようもない衝動に胸を引き裂かれる。


 ――…あ! いあ! いあ!


 逆流する時間。記憶。呪文。


 ――いあ! しゅぶ・にぐらす!

 ――千のを孕みし黒山羊よ!!


 流れる数多あまたの意識。想念の流れ。火のような、水のような、絶望と――歓喜。


 瞬時に、記憶が逆流する。泥の流れが逆巻き、荒れる。

 いまや、汚泥の沼は荒れ狂う海と化していた。

 荒波に揉まれ、沈んでゆく。否、浮んでいるのか。自分がどちらを向いているのか、どんな状態なのかもわからないほどに翻弄され、蹂躙される。

 ぼつり、と赤い光が灯る。目だ。何者かの目。それらは一つ、二つと増え、シェプリーの周囲をあっという間に取り囲む。

 ぞっとする感覚に囚われ、シェプリーは気付く。目の持ち主が抱く感情に。もっとも原始的な、その感情――すなわち、絶対的な餓えに。

 けれども四肢は何かに搦め取られたかのようで、抗う事が出来なかった。激流に揉まれ、疲れきり、考えることすら億劫になる。もういっそのことこの流れに身を任せてしまおうかとの思いが脳裏を掠める。

 途端、それは甘い痺れとなってシェプリーの全身に染み渡った。

 それは永遠の暗闇。永久の安息への、誘惑。


 嗚呼、嗚呼――重なる旋律。衝動。何ものかへと駆り立てる焦躁と、激情。数多の境界。すべてを内包する外なる世界が横たわっている。暗闇が、近付く。


 突如、見えないままにうねる世界が軋んだ。続いて、硝子が粉々に砕け散ったような衝撃が世界を震わせる。

 それまでの荒波は消え失せ、世界は瞬く間に秩序を取り戻していた。

 新たに出現した緩い闇は、それまでシェプリーが溺れていたものとはまったく違う感触だった。

 その暗がりの奥に微かな光が瞬くのを、シェプリーの意識は捉えた。

 小さな、砂粒よりも小さな光――それはすぐに大きなものへと拡大し、世界を包み込む。

 これは夢なのかと、意識の奥でシェプリーは自問した。

 ――そうだ、これは夢だ。夢でしかない。

 目の前に立つシルエットは、ここには居ないはずの人物なのだから。

 それまでシェプリーにかけられていた黄金色の呪縛が解き放たれる。同じ色の瞳をもつ、ただ一人の天使によって。

 もはや暗闇は現実味のない影にすぎず、それ以上の意味すら持たなかった。

 闇が、光によって浄化されてゆく。その暖かな波動に包まれ、シェプリーの意識は夢の世界から緩やかに浮上していった。


「やぁ、おはよう」

 聞き覚えのある声に、シェプリーは首を傾げた。それまで黒一色の凍り付く世界にいたはずなのに、今は白い光が溢れ、暖かなベッドの中にいる。

 見慣れない、それでいて見覚えのある部屋だった。それが、ウィディコム村でハミルトン夫妻が経営する宿の一室だとシェプリーが理解するまでには、暫くの時間が必要だった。

「ハミルトン夫人が、朝食の準備はもうできてるって言っていたよ。それよりも先にシャワーでも借りる? 君の友人ももうすぐ戻ってくると思うから……」

 ベッドの足元、壁際の椅子に腰掛けていたエルリックが、読んでいた新聞を折り畳み、傍らのテーブルの上に置いた。

「待って、ちょっと待ってくれ」

 悪夢の名残りが強すぎて、混乱する頭を抱えてシェプリーは呻いた。眩しさに顔をしかめながら起き上がると、思い出したかのように体の節々が痛みはじめる。

「何? 誰が戻って来るって? どうして僕はここに居るんだ」

「覚えていないのかい?」

 エルリックは呆れたといったふうに溜息をつき、腕を組む。シェプリーが首を振ると、彼は恨みがましい視線を送った。

「地下室から戻る途中で君がダウンしちゃったから、僕達が苦労してここまで運んだんだよ。本当にもう、大変だったんだから」

 言われてみれば、地下の実験室を出た後あたりから、記憶がはっきりしていない。思い出せるのは、暗く長い道と、胸苦しさだけだ。

(あぁ、そうか……)

 体力も気力も何もかもを使い切って、人事不省に陥ってしまったのだろう。

 頭痛が酷くなると耳鳴りになり、さらにそれが酷くなると目眩にまで発展する。それ以上になれば、息苦しい窒息感とともに、意識までが混濁しはじめる。無尽蔵に沸く泉とは違う、力の代償だ。

 項垂れるシェプリーに、エルリックは小さくため息をつくと、組んでいた腕から力を抜いた。

「いいさ。酷い目にあったのは何も僕だけじゃないんだし、それに、僕が今こうして明るい陽の光を浴びていられるのも、君達のおかげでもあるからね」

 屈託のない笑顔を浮かべてエルリックは言うのだが、かえってそれはシェプリーの胸の内に暗い影を落とすだけだった。

(ベネットさん……)

 殺してしまった――いや、違う。殺してはいない。彼はすでに死んでいたのだから。

 だが、本当にそうなのか?

 幻覚と非現実めいた事実が混在し、シェプリーの思考はますます混乱してしまう。

 気にするなとルイスは言ったが、都合良く割り切れるほどシェプリーは図太くなれない。けれども、懊悩しているような暇はなかった。

「でも、すごいね」

 エルリックが身を乗り出し、ずい、と顔を寄せる。

「な、何が?」

 たじろぐシェプリーに、エルリックは言った。

「君って、能力者だったんだ」

 シェプリーは絶句した。忘れていたのだ。地下室で力を行使した際、エルリックもその場にいたことに。

「……別に、大したことじゃないよ」

 シェプリーは俯いたままエルリックを押し退けて、ベッドから降りた。だが、

「そんなことない!」エルリックが両腕を広げて力説する。

「今迄にいろんな人に会ったけど、君のようなあんなにすごい力を持っている者は誰一人として居なかった! 君は本物の――」

「君に何がわかるって言うんだ」

 険を含んだ物言いに、エルリックが口を噤む。シェプリーも、自分の声にどきりとした。

 その動揺を隠すように、ハミルトン夫人が用意してくれていたピッチャーの水を、洗面ボウルに注ぐ。

 ボウルの水面に立つ細波に映る歪んだ影を見ていると、どうしてもあることが思い浮かぶ。

 過去の出来事。錬金術師ディシールが村人から受けた仕打ち。それは裏返せば、自分自身にも起こりうる事態なのではないだろうか。あれは、未来の自分の姿ではなかっただろうか、と。

 謙虚でも卑下でもなく、純粋に、シェプリーは自身の持つ能力を日頃から重荷に感じていた。だからエルリックが寄せる賞讃の念が、余計に疎ましかったのだ。

 とはいえ、エルリックの見せるそれには、悪意らしきものは微塵も感じられない。男にしては多く長い睫の奥で、曇りのない水色の瞳が子供のように輝いている。純然たる好奇心と、憧れの対象に見せる、崇拝にも似た情念。

 しかし、他の人間と同様、いずれは変化してゆくだろう。それは、今現在側にいてくれるルイスも同じだ。

 シェプリーは、物心つく前後からそういった期待と失望を存分に味わってきた。そんな中で唯一心を寄せ、理解してくれたのが、師であるエンジェルだったのだ。 

 ふと、先までいた夢の世界のことが水鏡の向こうに見えたような気がして、シェプリーは眉根を寄せた。

 極めて断片的な映像しか思い出せなかったが、それでも自身が感じたその感触は、とても生々しいものだった。

 胸を引き裂かれそうなほどに狂おしい想いと、衝動――シェプリーは水面に手を差し入れ、像を壊した。

 そして、たった今思い浮かべたものを頭の中から追い払うために、乱雑に顔を洗った。

 エルリックはその間、ずっと口を噤んでいた。彼も、自分の言葉が相手の気分を害したということに気付かぬほどは鈍くない。

 暫く時間をおいてから、エルリックはシェプリーの背中に声をかけた。

「……ねぇ、シェプリー。確かに、僕はこういったものが好きでたまらない、おかしな人間だ。君にとっては、一番嫌いな種類の相手だとも思う。でも、僕は別に、好奇心を満足させるためだけに動いているわけじゃない。……そうは見えないかもしれないけど」

 シェプリーの動きが止まる。ゆっくりと振り返るその瞳には刺々しい敵意と、そして困惑と、期待とがせめぎあっている。

 エルリックは苦笑を浮かべながら、タオルを差し出した。

「君が今までにどんな思いをしてきたのか、確かに僕にはわからないし、僕に出来ることだって無いかもしれないけど……」

 シェプリーは差し出されたそれを受け取るのも忘れ、目の前に立つ人物を見つめた。神経質そうな面影がシェプリーの顔に過る。けれどもそれは一瞬で消える。

 そうして、シェプリーは、エルリックが自分が目覚めるまで心配して側に付いていてくれたことに、今更のように気付いた。

 差し出されたタオルを受け取ったシェプリーは、視線を逸らすと呟くような小さな声で言った。

「ごめん……ありがとう」

 その言葉に、エルリックはにこりと微笑み返した。

「ああ、そうだ。君の友人は今、隣町へ行っている。君たちの依頼人がこっちへ来たそうだから、迎えに行ったんだ」

 シェプリーは、ぐったりと意識を失ったままのコニーの事を思い出した。シェプリーが眠っている間に、ルイスがロンドンで待つ母親のエリノアに連絡を入れたのだろう。そして、思い出す。

「コニーは?」

「それが、まだ目覚めないんだ。今は、奥の部屋に寝かせてある。後で見てあげるといい」

「そう……」

 痛ましげに眉を寄せるエルリックに、シェプリーもどう答えていいのかわからなかった。


「……そういえば、君はロンドンに戻らなくても良かったのかい?」

「僕なら大丈夫。まだ休暇は数日あるから」

 ひらひらと両手を振り、エルリックは答えた。あながち嘘とも言い難いが、かといって真実とも言い切れないのだが。

 前日、ルイスと二人で苦労して宿まで戻った後、エルリックはルイスの車を借り、ホテルに置いたままの自分の荷物をすべてこの宿へと持ち込んできていた。彼はすでに昨日の時点で、面白くない仕事が待つロンドンに戻るよりも、こちらに逗留してこの事件の解明に最後まで付き合うと決め込んでいたのだ。

 エルリックは、もう首を突っ込まないと自分で宣言した事をちゃんと覚えている。しかし、あのような事態に巻き込まれてしまった以上、全く無関係だとして除け者にされたくはなかった。

 もちろん、そんな裏事情をシェプリーが知る由もない。詳しく聞かれる前に、エルリックは軽やかに身を翻すと、部屋の扉に手をかけた。

「じゃ、先に下に行ってるよ。君、昨日から何も食べてないだろう。ハミルトン夫人が待ちかねているから、支度が出来たら降りといで」

「わかった。すぐ行くと伝えておいて」

 扉が閉まり、軽快な足音が遠ざかる。

 シェプリーは大きな溜息をつき、ベットまで戻ると、その縁に腰を下ろした。

「……なんだかな」

 一人ごち、シェプリーは苦笑する。すっかりエルリックのペースに巻き込まれているのに、最初の印象と違ってあまり悪い気がしないのに気付いたからだ。

 いつの間にか他者の警戒心を緩めてその内側へと容易く侵入してしまえるエルリックのそれは、一種の才能ともいえるだろう。裏表のない心で思ったとうりに振る舞えるエルリックを、シェプリーは少し羨ましく思う。彼は自分と違い、よほど周囲に恵まれた人生を送ってきたとみえる。

 しかし、単なるお人好しや、善行を妄信し、衝動的な施しをするような人間ではなさそうだった。あの水色の瞳の中に見て取った知性の輝きがその証拠だ。

 シェプリーはベッドサイドのテーブルに置かれている眼鏡を探して、手を彷徨わせた。指先が銀縁の眼鏡を捕らえる。

(それにしても……)

 目覚める直前の感触が蘇る。

「フォスター先生」

 手元の眼鏡を弄りながら、シェプリーは師の名を呟いた。

 夢の欠片から思い出せる色。闇を射抜く、金色の瞳――その色は、シェプリーが知る人物と同じものだ。

 マーシュの身体を通して〈視〉た錬金術師・ディシールのビジョンは、ターナー牧師の日記にも記述してあったのだから、間違いはないだろう。

 しかし、彼等が同じ色の瞳をしてたいうのは、何か関係があるのだろうか。そして、夢の中で見た沢山の紅い瞳の群も。

 ――わからない。考えても、何も思い浮かばない。

 シェプリーは唇を噛み締める。

 そうだ。本当は、何一つとして理解できていないのだ。

 レンズに映りこむ自分の影。夢の中、泥にまみれた自分の死体。輝く小さな水晶。絶望と、歓喜。

 何もかもが曖昧で、それでいて決して切り捨てることのできない多くの意味を含んだ要素。けれども、今の自分にはそれらをただ受け止めることしか出来ないそのことを痛いほど思い知らされ、シェプリーは無性に悔しかった。

 日にあたった朝靄が消えてゆくように、夢での感触が徐々に薄らいでゆく。絡み付いていた幻は、現実世界から消え去ってゆく。目覚めた時に感じた名残惜しさのようなものがこみ上げてきたが、シェプリーは頭を振り、これを完全に拭い去った。

 窓のからは、村人達が数人、何やら会話を交しながら通り過ぎる声が聞こえた。朝の一仕事を済ませたその帰りなのだろう。

 シェプリーは眼鏡をかけ直し、カーテン越しに外を覗く。宿から少し離れた場所に立つ彼等が、ちらちらとこちらを窺う仕種をしているのが見えた。一昨日、昨日とシェプリー達が幽霊屋敷へ出向いた事はすでに村中の噂になっているはずだから、当然といえば当然だ。

 シェプリーは部屋の奥に引っ込むと、自分の荷物であるトランクに手を伸ばし、着替えを取り出した。真新しいシャツを羽織り、袖のボタンを留める頃、窓の外から車のエンジン音が近付いて来た。

 カフスを留めながら再び窓の外を覗くのと、深緑色のボディをした小さな車が宿の前に止まったのは同時だった。

 ルイスに連れられ、ロンドンからはるばるやって来たエリノア・リトルウェイの顔色は、鍔の広い帽子の下からもはっきりとわかるほどの興奮に彩られていた。

 あれからまた眠れない夜を幾つも過ごしたせいか、落ち窪んだ目にはくっきりと心労の痕が刻まれていはいたが、今の彼女の瞳には力強い希望の光が宿っていた。

 玄関先で出迎えたハミルトン夫人に案内された彼女は、階段上に立つシェプリーの姿を認め、声にならない声をあげる。

 シェプリーは目礼だけを返し、彼女達に道を譲った。

「さぁ、どうぞ。あちらですわ」

 突き当りの部屋へと通されるエリノアに続き、シェプリーもコニーの眠る部屋の前に立つ。

 開け放した扉からは、明るい窓辺から差し込む光に包まれてベッドに横たわるコニーの姿を確認することができた。

「ああ……!」

 エリノアは感極まったふうに両手を口にあてると、もうそれ以上は言葉を紡ぐ事が出来なかった。白い手袋を嵌めた両手が小刻みに震えている。

 ハミルトン夫人に背を押され、エリノアは我が子が眠るベッドへとふらふらと歩み寄った。そして、その場に崩れるように蹲ると、彼女は声にならない声をあげて泣き出した。ハミルトン夫人がそんな彼女の側につき、一言二言囁きかける。

「もういいのか?」

 背後からの声にシェプリーが振り返ると、そこには小さなトランクを担いだルイスが立っていた。エリノアの荷物を運んできたのだ。ルイスは扉の前にそれを下ろし、ちらりと中の様子を窺った。

「暫く、そっとしておいてやろう」

 そう言うルイスに、シェプリーは頷いた。ここに居ても何が出来るわけでもない。居れば、折角緊張から解き放たれた彼女を、また新たな緊張と不安の中へと追いやってしまう。

 ――遅かれ早かれ、いずれは受け止めねばならない事実なのだけれども。

 やるせない想いに囚われながらシェプリーは階段を降りた。下では宿の主人であるジョージ・ハミルトンが何か聞きたそうな顔をして立っていた。

「大丈夫か?」

「ええ、多分……」

 シェプリーが曖昧な返答を返すと、ジョージは、

「ちょっと来てくれ」

 と言って、シェプリーの肩を抱き、階段脇の物置きへと連れ込んだ。

「やっぱり、マーシュがやったのか?」

 扉を閉めるや否や、ジョージはずっと疑問に思っていた事をシェプリーにぶつけた。

「あんたの連れは何も教えてくれんのでな。村の連中も気になっているから、聞かれるんだよ。今日だってすぐそこで取り囲まれて、どう言えばいいのか困っちまった」

 昨日、シェプリー達が戻ってきた時、ジョージは庭で花の手入れをしてる所だった。朝飛び出したきりの客が、居なくなったはずの客二人ともう一人の見なれない男を連れて(しかも肝心の本人は気を失っているではないか!)、まるで人目を憚るかのように裏の茂みから転がり出てきたのだ。驚きのあまり、ジョージは剪定しなくてもいい苗を一つ、駄目にしてしまった。

 詳しい事情は後で話すからと男が言うから指示に従ったが、屋敷の住人はもう居ないと聞かされただけで、あれからちっとも説明らしい事は聞かせて貰えずにいたのだ。まったくもって訳がわからないと憤慨するジョージに、シェプリーはわずかながら同情した。

 住人がもう居ないと言ったのはルイスだろう。屋敷を引き払って出て行ったとでも思わせておいたのだろうか。何にしろ、おそらくは現状ではそれが一番良い方法には違いない。けれど。

 所詮、狭い村で隠し事など無理な話だ。ただでさえ面倒な事態になっているというのに、またひと悶着起こりそうな気配に、ジョージも我慢できないのだろう。

 何も答えようとしないシェプリーに、業を煮やしたようにジョージがまくしたてる。

「俺達は、そりゃぁ、街の連中に比べれば学も何もないが、知らなくてもいいことは知らないままの方がいいってのはわかっている。でもな、皆、口には出さないが、怖がってるんだよ。ってな。

 あの屋敷が呪われてるっていうのは、あんたたちはもう調べただろうが、俺もそれは間違っちゃいないと思うね。なにせ、あの屋敷に住んだ奴等全員、頭がイカれておっ死んじまった。だから、あの爺さんが何か恐ろしい事を隠れてやっていたとしても別に驚きゃしない。村の連中も影でそう言ってる。でもな、俺には、あの爺さん一人が企んでやった事だとは、どうしても思えないんだよ」

 そこまで一気に言ってしまった後、ジョージは大きな溜息とともに肩を落とした。

「あの爺さん、身寄りもないだろう。最初に村にきた時は、主人の人柄のせいか、村の連中からも嫌がられて、随分嫌な思いもしただろうさ。でも、爺さん自身は、主人と比べたらまだまともな方だったんだぜ?

 ほら、時々買い出しに来るって言っただろう? 使用人があいつ一人しかいないもんだから、俺が時々手伝ってやったんだよ。俺は客商売やってるから他所者だろうが何だろうがあまり気にしない質だが、村の連中はそうじゃないからな。

 まぁ、それはともかく、昔話の魔法使いのことを覚えてる者ってのは、もうこの村でも年寄り連中くらいなもんだ。でも、あの丘に呪われた場所があって、それを掘り起こした奴がいて、あの屋敷で幽霊騒ぎみたいなのがあるってのは事実なんだ。だから、皆、とても怖がっている。このままだと、そのうち何かとんでもない事が起こりそうで、心配なんだよ」

 真摯な眼差しのジョージを前に、シェプリーは悩む。

 この人は知らない。マーシュ・ベネットがもうこの世に居ないということを。あり得ざる変化によって、人としての姿も知性も失ってしまったことを。そして、黒く溶解したあの光景をも思い出し、シェプリーの口の中は一瞬にして干上がってしまった。だが、そんなことを正直に言ったとして、誰が理解するだろう。誰が信じてくれるだろう。

「まだ、詳しいことは……」

 緊張で舌が口蓋に張り付き、うまく動かせない。シェプリーはそれだけ言うのが精一杯だった。

「じゃぁ、これだけ答えてくれればいい。マーシュがやったのか?」

 尚も食い下がるジョージに、シェプリーは首を横に振った。まだはっきりとしていない点は幾つか残っているが、それだけは確信できていたから。

「そうか……、それを聞いて安心した」

 険しかったジョージの表情が和む。

「シェプリー?」

 扉の外からルイスの声がした。姿が見えなくなったので、探しに来たのだろう。

「腹が減ってる所を引き止めたりして済まなかったな。さ、行ってくれ。折角温め直したベーコンが、また冷めちまう」

 ジョージは目じりに浮かんだものを拭いながら、もう片方の手でシェプリーの肩を叩くと、物置の扉を空けて外へと押し出した。

「そんなところで何をしてるんだ?」

 自分の姿を見付けたルイスが怪訝そうな顔をしている。シェプリーは、何でもないと首を振ってみせるだけだった。

 それからの時間は、何もかもが慌ただしい嵐のように過ぎていった。

 食事の際も、何か聞きたそうにしているハミルトン夫人と、そして表面的には大人しいが、やはり同じ様に質問をしたくてたまらないエルリックとルイスとの間に挟まれ、シェプリーは落ち着かなかった。

 テーブルの上には平均的な朝食メニューが並んでいたが、シェプリーは腹は空いているのに大して食べる事が出来ず、再度夫人を落胆させてしまった。

 シェプリーは気分が優れないからと理由をつけて――実際、気分は良くなかったのだが――早々に部屋へと引き上げた。その際、ルイスとエルリックに、後で自分の部屋へ来るようにと言っておいた。

 しかし、宛てがわれた部屋へ戻れば戻ったで、エリノアが泣き腫らした赤い目で礼を述べに来たかと思えば、入れ代わりでシェプリーの食の細さを心配した夫人が庭で摘んだカモミールで煎れたお茶と軽くつまめるサンドウィッチを持って来る。それで一旦下がれば、今度は前日に汚れたシャツは洗濯しなくてもいいかとまた訪ねてきたりと、なかなか落ち着ける時間がなかった。

 それでも太陽が中天を過ぎて緩やかな傾斜に入る頃には、煩わしいすべての物事から解放され、シェプリーはようやく一人で冷静に考える時間を得ることができた。

 頃合を見計らって、ルイスとエルリックがシェプリーの部屋へと揃って来る。二人が部屋の扉を潜った時、シェプリーはベッドの縁に腰掛け、前日手に入れたターナー牧師の日記に再び目を通している所だった。

「来たね」

 シェプリーは日記から顔を上げてそれを閉じると、ベッドサイドのテーブルの上、冷め切ったハーブティーのポットの隣に置いた。

「明日、もう一度あの屋敷へ行こうと思う」

 集まった二人を前に、シェプリーはそれまでずっと考えていた案を切り出した。コニーを見つけることでひとまず依頼内容はクリアした。しかし、まだ大きな問題が残っている。

「本当は、今すぐにでも行きたいところなんだけど、そういうわけにもいかないからね」

「何をするんだ?」

 閉めた扉に背を預けながら、ルイスが訊いた。

 エルリックは朝に自分が腰掛けていた椅子に座り、シェプリーの返答を待つ。

「ターナー牧師の日記だけじゃ、まだわからないことも沢山あるし、それに、コニーが目覚めない原因や、ベネットさんがああなってしまった原因なんかも気になるからね」

「あれか……」

 ルイスは眉間に皺を寄せ、昨日の格闘で痛めた肩を摩った。恐ろしい力で押さえ込まれた肩には、今もくっきりとその痕が残っている。

「そういや、あれは、一体何だったんだ?」

「動く死体だね」

 さらりと言ってのけるエルリックに、ルイスの忍耐の緒が切れた。

「そんなのはわかってるんだよ! 俺が聞いてるのは、どうして死体が動くのかってのと、あれの正体は一体何だってことだ!」

「ルイス」

 人指し指を口に当てて、シェプリーが咎める。扉の外で聞き耳を立てているような輩がこの宿に居るとも思えないが、迂闊なことを口外するわけにはいかない。

 苦虫を噛み潰したような表情になるルイスとうってかわって、エルリックは大して堪えた様子も見せず、思い浮んだことを呟いた。

「ブードゥーの魔術の中には、死体を操る術があるというのを聞いた事があるけど、そういうものとは違うのかな?」

「どうだろう。僕が視たかぎりでは、幽霊や亡霊とは少し感触が違っていた。でも、あれは間違い無く、過去に怖れられた魔法使い、つまり、錬金術師ディシールで間違いないと思う……ああ、そうだ」

 シェプリーはルイスとエルリック双方からの視線に気付き、付け加えた。

「今更説明するのも何だけど、僕はいわゆる霊媒というやつでね。幽霊や霊体というものを感じることができるし、視ることもできる。他にもいろいろ出来るけど、それは置いておいて――」大丈夫だと言うようにルイスを見上げ、頷く。

「――それで、昨日、あれと対峙した時に感じたんだ。あの体の中身は、ベネットさん本人じゃない」

「つまり、魔法使いの霊が取り憑いて、死体を動かしていたと?」

 昨日の一件の後、ルイスから屋敷にまつわる話を聞かされていたエルリックは、疑問の視線をシェプリーに寄越す。

「簡単に言えばそうなる。でも、それとも少し違うような気もするんだ。ルイス、チェスター警部が言ってたよね。館の主人は皆、精神に異常をきたしたって」

「ああ。自殺したり……そう、スタンレーも以前と比べたら、随分変わったとか」

 そこまで言いかけて、ルイスははっとした。

「まさか、代々の館の主人にも、そいつが?」

 シェプリーは頷いた。

「断言は出来ないけと、そう考えるのが筋だね。ベネットさんがいつ亡くなったのかはわからないけど、死んだ後に、あるいは、もしかしたら生前から何らかの影響を及ぼして、操っていたのかもしれない。ベネットさんがああなったのは、館の住人が彼一人だったからだ。他に使用人がいれば……代わりの肉体があれば、さっさとそれに乗り換えていたと思う」

「そんなことが可能なのか?」

「だと思う。暗在系に属するものは、その想いが強ければ強いほど、明確に具現化する力を持つものだから」

「暗在系?」

「あ。僕、それ、聞いたことがある」

 首をかしげるルイスの横から、エルリックが口を挟んだ。

「世の中のあらゆる物質や空間は、そこに存在している。つまり、はっきり目に見える形をとって顕在しあらわれている、というやつだよね。でも、それに対するもの……例えば、人の想念や時間などは、僕らには目に見えないし触れることも出来ない。だけど、これらも確かに存在している。それを暗在系というんだけど」

 エルリックはここまでを一息で言い切ると一旦口を噤み、ルイスの顔を覗き込む。

「……それで?」

「人の想念……心の奥底の潜在意識など、暗在系の世界で思い描かれたイメージは、その思いが強ければ強いほど、明在系で具現化することが可能だという説があるんだ。

 普通は、現実の範疇を越えたものを実現させるなんてのは出来ないものなんだけど、世の中にはそれを可能に出来る人間が居る、と……そういうことだよね、シェプリー?」

 得意な問題を解いた生徒が教師に向かって誇らしげに胸を張っているようで、シェプリーは苦笑を浮かべながらエルリックに向かって頷いてみせた。

「そう。僕の力も、ある意味その方面のものだともいえる。つまり、そういった何かしらの強いものが、ベネットさんや、人が消えてしまったことに作用しているんじゃないかと、僕は考えるんだ。もちろん、今言ったのはまだ憶測でしかないし、そうだったとしても、それだけが全てじゃないだろうけど」

 幽霊といっても、そのほとんどは生前に昇華できなかったエネルギーが何らかの理由で現世に留まったものだ。バーミンガムの薔薇に宿っていた老婦人のように。

 本人の意志、あるいは、その周囲の人間による強い想いは、通常であれば時間の経過とともに次第に薄れ、拡散してゆく。どんな石も月日が巡るうちに風化してゆくように、それはエーテル体であってもアストラル体であっても同じこと。しかし、ごく稀に、そうでない場合もある。

 渦を巻く黒のエネルギー。長い、本当に長い間蓄積されていた、力の源――シェプリーはマーシュの目を通して垣間見たディシールの憎悪を思い出し、一人身震いした。あれほどの強い想いがあれば、その場に留まるだけではなく、物理的な影響を及ぼすことくらい雑作もないだろう。

「おそらく、皆、最初はまともだったんだ。スタンレーも、その前の主人も。でも、あの場所で暮らしているうちに、ディシールの遺した強い意識の中に、徐々に取り込まれていったんじゃないかな。そうして、より現実的なものに作用するように、何らかの行動を……スタンレーで言うなら、錬金術の実験により没頭させたりしたんじゃないだろうか。もしかしたら」

 シェプリーの声が、低くなる。

「もしかしたら……いや、多分、彼は……ディシールはまた蘇る」

 しん、と水を打ったように室内が静まりかえる。

「でも、もう大丈夫なんじゃないのかい? だって、あれはもう……」

 信じられないといった顔つきのエルリックに、シェプリーは一瞥をくれる。

「肉体の消滅がすなわち死だとは限らないさ。現に、三百年前にも彼は一度死んでるんだよ?」

「何てこった」

 ルイスは額に手を当て、嘆息した。一度に沢山の事がありすぎて、どう驚いていいのかすらわからなかった。

 明在系だの暗在系だの、こ難しい理屈など、考えただけでも頭痛がしてくる。認識できる事柄が現実なのはわかっているが、かといってそうでないものは現実ではないとは言い切れない。

 どんなに非現実的であろうと、信じ難くとも、鉛の弾で砕かれた頭蓋から灰色の脳漿を滴らせながら自分達に襲いかかったのは、紛れもない事実なのだから。

「それはそれとして」ぱん、と両手を軽く打ち鳴らし、シェプリーは言った。

「明日、屋敷へ行く前に、今ここではっきりさせておきたいことがあるんだけど」

 シェプリーの言に、ルイスとエルリックが互いに顔を見合わせる。

「エリック」

「え、僕?」

「君は、僕と一緒にあの屋敷へ行った。学生達もそうだ。そして、学生達と君は宿から消えた。でも、僕はそうならなかった――どうしてだろうね?」

 シェプリーの問いに、エルリックが、あっと声をあげる。ルイスも軽く目を見張り、昨日知り合ったばかりのこの青年を凝視みつめた。

「それからあの晩、僕は君に言ったよね。〈夢〉を〈視〉るって……そう、僕は通して、あの屋敷を〈視〉た。君が拾ってくれたブローチを手掛かりに、幽霊屋敷を霊視しようとしたんだ。そしてその夢を、君もまた同時に〈視〉ていた……違うかい?」

 エルリックの記憶から、それまでさっぱり忘れていたはずの内容が、するすると引き出されてゆく。その表情を見て、シェプリーは確信し、頷いた。

「やっぱり。多分、僕が拡大させた意識に、エリックの意識が迷い込んだんだ。あるいは、その逆だ。眠りに就いて拡大したエリックの意識を、僕が拾ったのかもしれない。でも、どちらにも言えるのは、その夢の中心には幽霊屋敷があったということだ」

 明晰夢――不可解な夢に導かれ、現実を越えたのだろうか。そう考えると、恐怖とともに抑え難い興奮がエルリックの心を激しく揺さぶる。ざわざわとした感触にはやる胸を押さえ、エルリックはシェプリー見つめ返す。

 深く、どこまでも深く沈んでいきそうな、そんな透明感のある双眸と対峙し、エルリックは不意に浮んだ自分が妙に狼狽えている事を自覚した。既視感に戸惑い、掌に滲む汗をズボンで拭う。

「だとしたら、でも……でも、僕にはそんな力はないよ。今迄だって、そんなことは……」

 そんなエルリックの挙動を静かに見守りつつ、シェプリーは尚も言葉を続ける。

「だから、何か切っ掛けがあったはずなんだ。学生達にも言えることだけど、君にはあって、僕にはなかったもの。その違いが」

「僕とシェプリーとの、違い?」

「そう。力の有る無しじゃなくて、もっと直接的な原因が」

 言葉と淡い碧の瞳とに導かれ、茫洋としていた記憶が徐々にその輪郭をとりはじめる。

「もしかして……」

 その存在を思い出しただけで喉の乾きを憶えたのは、単なる錯覚だろうか。たちまちエルリック脳裏には、その馥郁ふくいくたる香りと、濃厚で芳醇な味の記憶までが鮮明に蘇える。

「そういえば、最初に屋敷へ行ったとき、あの人、僕たちに蜂蜜酒を出してきたよね?」

「それだ!」

 シェプリーも身を乗り出す。彼もまた、エルリックの言葉により自身の記憶から欠落していたものを思い出したのだ。

「僕は飲まなかったけど、君はそれを飲んだ。そうだ、それに違いない」

「でも、たったそれだけでこんな不思議なことが起こるものなのかい?」

「それは調べてみたいとわからないよ。でも、マーシュ・ベネットを装ったディシールが、何らかの意図をもって僕達にあれを飲ませようとしたのは確かだ。コニーが目覚めてくれれば、彼女達もそれを飲んだかどうかがわかるだろうけど……」

「……無理なんだな」

 それまで黙っていたルイスが、シェプリーの言い淀んだ言葉を継ぐ。シェプリーは、複雑な表情を浮かべて頷いた。

「どうして――!?」

 エルリックが声をあげる。

 シェプリーはすぐには答えず、エルリックの顔を値踏みするように見つめ返した。それから、おもむろに話しはじめた。

「さっきも言ったけど、僕はいわゆる霊媒というやつだ。その僕がこう感じだんだ。空っぽだ、って」

「……え?」

 咄嗟に意味が理解できず、エルリックは瞑目した。シェプリーは、一語一語、慎重に言葉を選び、言った。

「エーテル体を感じられない……わかりやすく言えば、彼女の魂は、あの体の中に入っていない。体だけが生きている状態なんだよ」

「そ――」

「待って、まだ続きがある」シェプリーは口を開きかけたルイスを遮った。「確かに、体の中には感じられない。けど、糸は〈視〉えている。彼女は今、幽体離脱のような状態なんだ」

「え!? それじゃぁ、動かしたらまずかったんじゃ――!」

 エルリックは、自分の顔から音を立てて血の気が引いてゆくのを自覚した。彼もまた、幽体離脱を披露中の霊媒が、懐疑的な観客によって意識不明に陥った事件についてを知っていたからである。

「エリック、落ち着いて。ルイスも、最後までちゃんと僕の話を聞いてくれ」

 シェプリーは二人が落ち着かせるために、わざとふた呼吸程の時間を開けてから言った。

「エリック、君ならエーテル体はわかるよね? 魂の本質とされているものだ。それはアストラル体に包まれて、肉体と魂、つまり物質と精神の橋渡しをしているんだけど、そのエーテルを包むアストラル体がつくり出す〈糸〉の存在は、僕には感じられるんだ。だから、あのの体はまだ生きている。まだ望みはある。でも、その肝心の糸の先が辿れないんだよ」

「何故?」

 意外そうな表情を浮かべ、ルイスが訊く。シェプリーほどの力を持ってしてもわからないことがあるとは、にわかには信じられなかった。

「それなんだけどねぇ……」

 頭を掻きながら、シェプリーは憮然と答えた。

「どういうわけか、あの場所は僕の力がうまく働いてくれないんだ。例えて言うなら、音叉はわかるよね? 離れた場所で片方を叩くと、もう片方も同じ様に振動をはじめる。そうやって音叉が共鳴するように、僕が力を使うと、どこかから同じ信号が返ってくるんだ。それも、あらゆる方向から。それと、沢山の鏡に囲まれたよう状態を想像してくれ」

 シェプリーは格好を崩してベッドの上に寝転ぶと、片手を上げ、それをくるくると回してみせながら説明を続けた。

「手探りで静かに探る分にはまだいい。突きあたりの境界を知覚できるからね。でも、一度に大きくて強い力を放出するとと、それが全部自分に跳ね返ってきてしまうんだ。そうなると、僕は混乱して、力を制御できなくなってしまう」

「そうか。それであのとき、〈鏡〉だと言ったんだな」

 昨日の出来事の後、シェプリーが呟いた言葉の意味を、ルイスはようやく理解した。

「そういうこと」

 ぱたりと音をたてて、シェプリーの腕が落ちる。

 鏡の向こうから押し寄せる思念。その圧倒的な量と力に、シェプリーは負けてしまったのだ。天井を見上げ、シェプリーは目を細めた。

「コニーが目覚めないのは、彼女自身、魂が体から出ていることに気付いていないのか、あるいは魂がどこかに囚われていて、そこから逃げだせないかのどっちかだと思う。あの屋敷の状況から考えると、後者の理由かもしれない」

「どこかに囚われて……?」

 シェプリーの言葉をエルリックは反芻する。その呟きには譫言うわごとのような熱があった。

 ルイスが、エルリックの変化に気付く。

「どうした?」

「うん……ちょっと、何か……」

 そう言って、エルリックは頭を抱え、考え込む。さっきからはっきりとしない靄のようなものが頭の中で蠢いていた。しかしそれが一体何なのか、掴めそうで掴めないのだ。

 シェプリーが体を起こす。ベッドのスプリングが軋み、嫌な音を立てた。

「思い出せる?」

 煩悶するエルリックに、シェプリーは静かに声をかける。いまだ成長期の少年を思わせるその声はしかし、決して柔らかくはなかった。

「暗い道を通って、君はそれを〈視〉たはずだ」

 シェプリーの声に導かれ、エルリックは深く記憶を辿る。それに呼応するかのように、曖昧模糊とした霧の向こうから幾つもの像が浮かび上がった。

 けたたましい啼き声。天頂にかかる赤い月。暗闇の中で瞬く、小さな光――

「あ――」

 閃きが、眼を開かせる。

「あれだ! あの水晶だ!!」

 大声とともに、エルリックは立ち上がった。勢いで椅子が後ろに倒れるほどの激しさに、シェプリーもルイスもぎょっとした。

「そうだ、そうだよ! 僕は夢で確かに――!」

 興奮し、両手でその柔らかなくせのある茶色の髪を掻き回す。

 瞬時にして総毛立つほどの強烈な印象。夢としてぼやけた境界の向こうへ追いやっていたはずのその記憶。どうしてそんな大切なことを忘れられていたのか、自分で自分が信じられない。

「シェプリー、君もあの水晶を!?」

 エルリックは興奮のままに、シェプリーに詰め寄る。

 シェプリーは頷いたが、例の古い日記を手に取ると、エルリックに向けて件の内容が書かれている箇所を開いてみせた。

「でも、僕ははっきりとその姿を確認したわけじゃない。それから、僕が知っているのは、この日記に書かれている内容から憶測したことだけ。でも、君のおかげ少しわかってきたよ。蜂蜜酒を飲んだ者だけが、夢を通してあの謎の結晶体に導かれ、そして消えたんだ」

 ルイスが大きな溜息をついて、その場に座り込む。自分の手に負えるような案件ではないのがはっきりしたからだ。だが、調査を降りるとまでは言えなかった。

 その様子に、シェプリーも苦笑するしかない。

「まぁでも、それについて考えるのは明日にしよう。もっと多くの手掛かりはあそこに行けばあるだろうし、そうすれば、もっとはっきりした……もっと現実的な事もわかると思うから」

 そう言って、シェプリーは窓の外を指差してみせる。

 窓の外では、たなびく雲の落とす影が丘の上を流れていた。そしてその先にあるものは、件の幽霊屋敷だ。

「……それもそうだな」ルイスは顔を上げ、渋々頷く。「けど、あんまり長引くようだと、厄介なことになるぞ」

 ルイスは一応、エリノアに娘の状態を簡単に説明しておいた。ただし、具体的にどういう状態で発見されたとかは一切伏せ、何らかのショックを受けて昏睡状態だとしか伝えていない。

 今日明日はエリノアも様子を見るだろうが、遅かれ早かれ病院に入院させた方がいいと考えるようになるだろう。しかし、いかなる治療を施したとしても、魂が漏れ出た肉体は衰弱してゆくしかない。

「あのー」

 おずおずと手をあげ、エルリックがシェプリーとルイスの顔色を伺う。

「今更聞くのも何だけど、僕も一緒に行ってもいいんだよね?」

「もちろん」

 シェプリーは頷いた。

「そのつもりで君も交えて話しをしたんだから。手伝ってくれるよね?」

「喜んで!」

 エルリックは即答し、破顔した。

「――以上。今のところ、話せるのはそれだけ。後は、明日に期待しよう。僕はもう少し休ませてもらうよ」

 そう言って、シェプリーは欠伸を噛み殺しながら片手を振り、解散を宣言した。

 ルイスは扉を開け、先にエルリックを外へ促す。続いて自分も出て行こうとして、彼はふと立ち止まった。

「シェプリー」

 名を呼ばれ、シェプリーが小首を傾げる。ルイスは何か言おうと口を開きかけたが、思ったことを言うのをやめた。

「……明日は、ぶっ倒れるまで頑張らないでくれよ」

 シェプリーは苦笑を浮かべ、ただ手をあげて答えただけだった。


 廊下に出て扉を閉めた後も、ノブを握ったまま動こうとしないルイスに、エルリックは気付いた。

「どうしたんだい?」

 ルイスは顔を上げ、怪訝な表情のエルリックと、突き当りの部屋とを見比べる。

「コニーは目覚めないのに、どうしてお前は目覚めたんだろうな?」

 同じように消えたのなら、何故片方だけが目覚めたのか。腑に落ちない、というように自分を睨むルイスに、エルリックは首を竦めてみせた。

「さあ? 日頃の行いが良かったからじゃないかな」

「冗談はよせ」

 にべもなく躱されて、エルリックは苦笑した。

「そんなことを言われても、僕にわかるわけがないじゃないか。それとも、疑ってる?」

「困ったことに、俺はどういうわけか嫌な予感だけはよく当たるんでね」

「それはそれは」

 大袈裟に驚いてみせたエルリックだが、

「でも、生憎だけど、僕に聞かれてもよくわからないんだよね。どうもその前後の記憶がはっきりしていなくてさ」

 そう言って、ばつが悪そうに頭を掻く。ルイスは呆れたように腕を組んだ。

「難儀な頭だな」

「顔には難儀してないから、ちょうどいいんじゃない?」

 呆気に取られたルイスだが、次の瞬間には吹き出していた。

「そういう事にしておこう。それより、怒鳴ったりして悪かった。苛々していたから、つい」

「あの状況では仕方ないさ。僕だって、君と同じ立場にいたら、同じように怒鳴っていただろうし」

 エルリックはそう答え、屈託のない笑みを見せると、

「……ところで、僕はこれから一杯やりに行こうと考えているんだけど、君も一緒にどうだい? 腹のさぐり合いをするんじゃなくて、親睦を深めるために」

 エルリックの提案に、ルイスは思案する。考えてみれば、昨日も今日も、ゆっくりと寛ぐ余裕がなかったし、明日は明日でやはり忙しいだろう。楽しむのなら、今しかない。

「いいだろう。お前さんが酔っぱらって、村の連中に余計なことを吹き込むのも防がないといけないしな」

「一言多いね、君。奢ってあげないよ」

 ルイスは口を尖らせるエルリックの肩を叩き、笑いながら階段を降りた。


 ――明けて翌朝。

 村の中央にある教会で日曜の礼拝が始まった頃、シェプリーとルイス、そしてエルリックは村を抜け出し、幽霊屋敷へと向かった。

 村人がシェプリー達の行動を邪魔をすることはなくとも、何度も屋敷へと向かうのを見れば今以上に彼等の不信と不安を煽ってしまう。念のため、ハミルトン夫妻にだけは行き先を告げておいたのだが、やはり具体的に何をするのかまでは言わないでおいた。

 村の駐在でさえ仕事を休むこの一日だけが、彼等に与えられた時間だったのだが。

「まったく。大した奴だよお前は」

 門柱から玄関の車寄せまでを歩く間、呆れ顔のルイスは、後ろに続くシェプリーではなく、最後尾のエルリックに向かって言った。どういうわけか、今朝のエルリックの表情は、いつもと違って生彩が欠けている。

 わずか数日の間に荒廃の進んだ庭は、それまでにも感じていた不安を更に強調させるものがある。しかし、エルリックが浮かない表情なのは、庭の光景が原因ではなかった。

「胃袋が酒樽で出来てるんじゃないのか?」

「いやぁ、だって、この村のお酒、美味しいんだもの」

「だからって、二日酔いになるまで飲むこたぁないだろう」

 昨日パブで飲んだ後、ルイスはまだ飲み足り無さそうな顔をするエルリックを引きずって宿へと戻ったのた。だが、驚くべきことに、エルリックは宿に戻ってからもまた杯を重ねていたというのだ。

「いつもだったらあのくらいは平気なんだけどねぇ。ここ数日はいろいろあったから、疲れが溜っていたのかもしれない」

 少しも反省した様子のないエルリックと、一体何を考えているんだと愚痴をこぼすルイスとの間に挟まれ、シェプリーは軽い頭痛をおぼえた。

「大丈夫だよ。足手纏いにはならないから」

「そう願いたいもんだ」

 ルイスがそう締めくくる頃には玄関の前まで到達していた。

 鍵の開いたままの扉をそっと開き、ルイスが中へと体を滑り込ませる。シェプリーもそれに続こうとして、咄嗟に中に入るのを躊躇した。

 それに気付いたルイスが首を傾げる。

「どうした?」

「ルイス……何ともない?」

 シェプリーは日の差し込まないホールに立つ友人の様子を窺う。

「何が?」

「どうしたの?」

 後ろで待つエルリックも訝しげな表情を見せる。シェプリーは覚悟を決めて、中へと進んだ。

 前回ほどではないが、やはり軽い目眩のようなものがシェプリーを襲う。その場に立ち竦むシェプリーに、ルイスが言った。

「言われてみれば確かに、少し妙な感じはするな」

 続いて中へと入ったエルリックも天井など隅々を見直し、そして気付いた。

「ねぇ……この家、歪んでない?」

「え?」

「ほら、その柱とか、あの梁の辺りとかさ……」

 言われなければ気付かない、言われてもよくよく観察してみなければ気付かない、微量の歪み。

 歪みの個々は小さなものでも、全体として構成されるその歪みは大きく蓄積されるものだ。だが、不思議な事に、この屋敷は歪みそのものが計算されているかのように隙間もなく、精密なつくりをしていた。

「単なる手抜き工事というわけでもなさそうだね」

 器用なものだと感心するエルリックの隣で天井を見上げていたシェプリーは、ふと過った考えにぞっとした。

 もし、建築作業中の人足にもディシールの意識が何か細工をしていたのなら?

 図面とのズレさえもそうとは気付かせずに、狂った構図を完成させたのだとしたら?

 見る者を威圧するその外観さえも、の計算の産物だとしたら?

 ここは、蜘蛛の巣なのだ。獲物を捕えて離さない罠、出口のない鏡の迷路――取り込まれてしまったら、徐々に弱って狂い死ぬしかない、呪われた場所なのだ。シェプリーは、自分達が蜘蛛の巣に迷い込んだ昆虫のようにちっぽけな存在に思え、身震いした。

「どこからどう攻める?」

「そうだね……僕とエリックは書庫を見よう。ルイスは、残りの部屋を順に見てくれないか」

 その意見に、エルリックが不思議そうな顔をする。

「地下は?」

「もちろん、後で調べるよ。でも、明るいうちに屋敷を調べた方がいいと思って」

「暗くなってからだと灯が必要になる。それを幽霊だと見間違えられたら困るだろ?」

 シェプリーの後を引き継いだルイスは、自分の左袖を捲った。

「よし、全員時計を出せ。時間を合わせよう」

 シェプリーが上着のポケットから懐中時計を取り出すのを見て、慌ててエルリックもそれに倣う。

「正午は一時間半後か。その辺で一旦集まろう。場所は?」

「僕達は書庫から出ないと思うから、ルイスが来てくれるかい? 二階の奥、廊下の突き当りの部屋だ」

「わかった。それじゃぁ、本は専門家に任せたぞ。何かあったらすぐ報せろよ」

 シェプリーが口を引き結んで頷く間に、ルイスは早々と奥の扉を開けて行ってしまった。いつもの事ながら、行動の素早さには感心させられる。

「僕らも急ごう」

 二階の書庫へ向かおうと歩き出したシェプリーだったが、どこかぼうっとした表情のまま立ち尽くすエルリックに気付き、立ち止まった。

「エリック?」

「え? あ、ああ――」

 エルリックは自分がぼんやりと時計を眺めていた事に気付き、慌ててそれをポケットへとねじ込んだ。

「本当に大丈夫なのかい?」

 シェプリーに疑わしい視線を向けられ、エルリックは軽く咳払いをすると、ことさら溌溂とした声を出して快活そうに振る舞ってみせた。

「平気さ。いやなに、午後のお茶はどうするんだろうと思って」

「……僕達はピクニックに来てるんじゃないんだけど」

「冗談だってば。言ってみただけさ。さあ、お宝を拝見しようじゃないか」

 エスコートでもするかのように肩を抱かれ、シェプリーが嫌そうに眉を顰める。そんなことにはお構い無しとばかりに歩を進めて階段を登り始めるエルリックに、シェプリーはこの屋敷をはじめて訪れたときのことを思い出し、その既視感に軽い疲労をおぼえたのだった。


 書庫へとまっ先に足を踏み入れたのはエルリックだった。部屋の中央に立ち、本棚の壁に向かって惚れ惚れとした溜息をつく。

 続いて入ったシェプリーも、数日前と何一つ変わらぬ書庫の様子には幾らか安心させられた――そこに並ぶものが、現実から遠く懸け離れた内容のものであっても。

 エルリックは前回もそうしたように手近な棚から一冊を抜き出すと、何度か頁を捲り、耳を寄せてその音を聞いた。

「うん、いい音だ。紙の質も装丁も上等。印刷だって綺麗だし、こんな所で眠らせておくのは勿体無い」

 手にした書物をめつすがめつ丹念に調べるエルリックを、シェプリーは冷やかした。

「オークションにでも出すつもりかい?」

「古書専門の会に出せば、それなりの値で売れることは確かだね」

「盗品でも?」

「それは聞くだけ野暮ってものだよ、ウーブル君」エルリックは本から顔を上げ、曰くありげに笑ってみせる。「――もっとも、僕は盗品には手を出さない主義だから。心配御無用」

 どうだかね、と口中で呟きつつ、シェプリーはこの部屋唯一の窓に向かい、カーテンを開け放った。

 紗布の下からあらわになった小さな窓は、屋敷周辺の木々の先と曇天の空とを絵画のように留めていた。シェプリーがそこから下を覗くと、ぎりぎり視界へと入る位置に、地下室への入り口が見えた。

 二人が書庫と呼ぶ書斎は、館の二階の北側にあった。一年を通して一定の温度を保てるようにとの考えからだろう。窓が小さいのも、差し込む日によって本を痛めることのないようにという配慮からだ。

「それで、どうするんだい? さすがの僕でも、短い時間ではこの書庫を全部見るのは不可能だよ?」

 本の背をぽんぽんと叩きながら、エルリックが訊ねる。

 背表紙の名を頼りに探っていったとしても、中に望んでいる内容が記されているとも限らない。一冊一冊手に取り中を開いて、その内容を片っ端からあたるとしても、この書庫に納められた書物の数たるや、ちょっとした展示室が開けそうなほどの量である。それを数時間のうちにたった二人で吟味するなど、到底無理な話だ。

 もちろんシェプリーとてそれは理解している。彼は窓のすぐ脇に設えてある机に手をつくと、後ろで首を傾げているエルリックへと振り向くことなく言った。

「僕だって、全部見るつもりはないさ」

 そうして、かつて館の主人がしたように椅子を引き、それに腰を降ろす。

 机の上でも、館と同じように時が静止していた。

 長年使い込まれたであろうペンが無造作に突っ込まれているペン立て。中身の干涸びたインク壷。使われなくなって久しい吸水紙。それらの隣では、柄の部分に奇妙な意匠を施した細身のペーパーナイフがその刀身に無気味な光沢を宿し、沈黙している。

 机の表面に残るインクの染みや小さな傷を指でなぞり、シェプリーは言った。

「まずは、道標を探すんだ」

「みちしるべ?」

 シェプリーの場違いともいえる言葉にエルリックは目を丸くした。

「地図を辿るための手掛かりの事だよ」

「地図?」

 益々混乱する哀れなエルリックに、シェプリーは机のすぐ隣に設置された書棚を指差してみせた。

「本棚上の地図のことさ。君だって、よく読む本なら手元に置いておくだろう? 間違っても一番遠い棚の天井近くに収納したりはしない。それから、似た系統や同じ種類の本は隣同士に置いて纏めておこうとする。スタンレーだって、ただ漠然と本を眺めていたってことはないだろうから、まずは彼が辿った道順を見つけて、それを案内に僕達も近道を探っていこうというわけさ――こうやってね」

 シェプリーは机から手の届く位置にある書棚から一冊を抜き出すと、エルリックにもよく見えるように、本の腹の部分を指で示した。そこには何度もくり返し開かれたであろう跡を示す汚れと、僅かな窪みが付いていた。

「なるほど」

 シェプリーの言わんとする意味をようやく理解したエルリックは、一人で頷いた。

 要は、古書を手に入れた時の愉しみ方と同じだ。本に染み付いた癖は、新たな持ち主を元の持ち主がよく開いていた箇所へと導く。十八世紀の恋愛詩。聖書や戯曲の一節等々。エルリックも、そうやって夜すがら古書を繙いたおぼえがある。

 だとすれば、シェプリーの言うように、この部屋で、この机で、かつてスタンレーが歩んだであろう軌跡を辿るのも、無理な話ではない。

「それは何の本?」

 好奇心にはやるエルリックにせっつかれ、シェプリーは本の示す場所を開いた。

 すると、七つの先端をもつ星を中心に、記号と図形で構成された絵が二人の目に飛び込んできた。

「ああ、これは見覚えがあるぞ」声をあげたのはエルリックだった。

「〈ヘルメスの円〉だ」

「〈ヘルメスの円〉?」

 シェプリーは横から本をのぞき込むエルリックを見上げた。

 エルリックは考え事をするかのように一度首を傾げると、それまでに培ってきた知識の中からシェプリーの質問に対する答えを口にした。

「ヘルメス・トリスメギストス――錬金術と哲学の師であり、冥府の王・ハデスへと魂を導くギリシャの神様のことさ。彼は誕生と死の扉を開き、交換と商業と学問を管理する」

「それじゃぁ、この絵は?」

「錬金術的寓意図の一つだよ。よく見せて」

 エルリックはシェプリーから本を受け取り、子細に眺めた。

 星の中心に人の顔が描かれており、星の間には数字と惑星を表す記号と、何かを暗示する絵とが交互に挟まれている。それらは大きな円の中に納められ、またその円も大きな逆三角形の中に組み込まれていた。

 三角形の角には太陽と月と何かの結晶らしきものが描かれ、そして、これらを取り囲む絵の外、四角の四隅にも松明を持つ手や炎の中で横たわる蜥蜴などの絵が織り込まれている。

 エルリックはそれらを一つ一つを丁寧になぞりながら解説する。

「四隅に描かれているのは、火、水、空気、土の四大精霊というやつだね。それらに取り囲まれた三角形の中身は、太陽と月と、塩の結晶。錬金的思想で見ると、太陽と月は万物の父と母であり、硫黄と水銀を表している。それに塩を加えて、三つの基本要素が成り立つ。それから、中の星は錬金の作業行程を示しているんだ。

 ほら、この先端の一つ、結晶を指している下向きの土星サタンだけが黒いだろう? 黒は渾沌を表す色で、すべての始まりであり、終りでもある。

 また、この三要素は、能動的なエーテルと受動的なアストラル、それらを納める器であるところの物質……つまりは僕たちの肉体と同じでね。この絵一つで、小宇宙と大宇宙を記しているんだ。それと、この円の中の文だけど――」

 エルリックは挿絵に添えられている文を、声に出して読み上げた。

「Visita Interiora Terrae Rectificando Invenies Occultum Lapidem――大地の内部を探究せよ。支配すれば、隠されたる石を見いださん」

「石?」

「錬金術で石といったら、たいていは賢者の石を指すけど……」

「賢者の石……」

 シェプリーはその名の感触を確かめるかのように何度も呟いた。その様子を前に、エルリックが言葉を続ける。

「賢者の石は、不完全なものを完全にする力を持つ結晶だと考えられていて、錬金の語源となった金属の変成……要するに、あらゆる金属を黄金へと変化させる力があり、また同時に病んだものを回復せしめる力をも持っているとされている。

 まぁ、石といっても、その形や色は一定ではなくて、ある者は暗赤色の固い石だと記し、ある者は輝く黄色の結晶だと記し、またある者は粉末状だとも記していて……あれ?」

「あ――!」

 二人同時にはっとし、顔を突き合わせて叫ぶ。

「ディシールの薬!」

「――まさか!」

 自らの口をついて出た言葉を、エルリックは即座に否定した。しかし、シェプリーは言った。

「いいや、できるさ。三百年前の話だと、ディシールの薬は羊の怪我を治したじゃないか」

「じゃぁ、それを、この屋敷の主人は欲していた? 賢者の石を?」エルリックはまだ信じられないという顔つきで、紙面とシェプリーとを見比べる。

「そりゃぁ確かに、錬金術なんてのにのめり込むような輩は、金や霊薬エリクサー万能薬パナケアが目的だろうけど、でも……」

「化学と錬金術は違う、って言いたいんだろう? 僕だってそれくらいはわかってるよ。でも、昨日言ったよね。現実の範疇を越えたものを実現させることは可能だって」

 シェプリーはエルリックの手から本を取ると、机の上に置いた。そこに記された名を、エルリックが食い入るように見つめる。

 〈水銀――隠された賢者の石が製造できる方法〉。著者はバシリウス・バレンティヌス。15世紀エルフルトの聖ペテロ修道院長であり、幾つかの錬金術論文を遺した人物として知られている。

 しかし彼の著書には、具体的な方法は何一つとして記されていなかった。先のヘルメスの円のような寓意図を使い、隠喩によってのみその秘術を表現しているのだ。ゆえに、この本そのものに意味はあっても、期待出来るような技術は何もない。

 だが、それでも隠された本当の意味を知ることができれば、あるいはその一助となるものを見付けられれば、不可能は可能となるだろう。

 そもそも現実に干渉して事実をねじ曲げるもの――それらを系統立てて儀式化し、あるいは言葉や数字の暗号へと記したものこそが魔術であり、錬金術なのだ。

 必要な要素ファクターと正しい方法メソッド、そして、正確な過程プロセス。これらが形作るものを正確に読み取り、実行できる者があれば、秘術は夢想の世界から現実へと還元される。

「スタンレーがどの程度まで突き止めていたのかはわからないけど、彼が強い関心を持って研究を続けていたのは間違いないだろうね。でなきゃ、水銀中毒になったりしない」

 シェプリーの言葉に、エルリックは唸る。理屈はわかるが、納得し難いのだ。

「でも……でも、そうだとしたら、どうしてディシールはこんな田舎に引っ込んでいたんだろう? 金や薬を精製できていたのであれば、それを元に、貴族なり何なりの庇護を得る道もあったはずだよ」

「そうなんだよ。実を言うと、僕はそれが気になっていたんだ」

 エルリックの意見にシェプリーも頷く。

「もし本当に金属変成や霊薬の調合が可能だったとしたら、ディールは本物の錬金術師として巨額の富と名誉を得ることができたはずでだ。でも、彼はそうはしなかった。何故だろう?

 もちろん、魔女狩りの最中という時代的な背景もあっただろうけど、僕には、彼がそれとはまた別の思惑で動いていたとしか思えないんだ」

「別の思惑?」

「そう、富や名声なんかじゃなくて、それらとはもっと別の思惑が――」

 ふと、本を眺めるシェプリーの視線が遠くなる。それにつられるように、エルリックもまた頭の奥で意識が遠退くのを感じた。

 ――地位や名誉でもないのなら、他に何があるというのだろう。純粋な研究欲だろうか。とするならば、ディシールは何をやっていた?

 賢者の石を完成させるほどの力を持つ錬金術師。それほどの人物が次に目指すものは何だ。何があった――?

 雑多な知識の底から浮かび上がる漠然とした輪郭。ヘルメスの円が示すもの。賢者の石と同一視されるは――

 唐突に、エルリックの脳裏で一つの映像が炸裂する。しかし、その途端、

「――っ!」

 突如息を詰まらせ口元を抑えたエルリックに、シェプリーも驚き、我に返った。

「エリック!?」

「な、何でもない! 何でも――!」

 とはいえ、エルリックの顔色は紙のように白い。

「エリック? 大丈夫か?」

「だ、大丈夫。何でもない。ああ、ほら――昨日、飲み過ぎたから――!」

 再び、こみあげるものを抑えてエルリックが呻く。

 その行為が示す意味を察知し、シェプリーは慌てて仰け反った。

「し、心配ないよ。もう大丈夫。でも、そうだね。悪いけど、少し席を外させてもらう。ここはどうにも空気が悪くていけない」

 喘ぎ、よろめきながらエルリックは書庫の扉を押し開けた。薄暗い廊下へともつれる足を追いやり、いつものように笑ってみせる。しかし、やはり余裕がないらしく、「すぐ戻るよ」と言い置いた後、彼は小走りで階下へと消えていった。

 シェプリーは呆気にとられ、エルリックが出て行った半開きの扉を眺めていた。

 が、やがて、こめかみに手を当てると、長い溜息を吐きつつ首を振った。

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