La Sonadora ラ・ソナドラ~夢見人たちの物語~

不知火昴斗

第一章:錬金術師の夢

01:夢厭

全ては闇から始まり、闇へと回帰する。

ならば、この永劫ともいえる闇の奥底には何があるのだろうか。

まだ文明というものが発展していなかった古来より、人類は暗闇を怖れてきた。

怖れは〈畏れ〉であり、未知なるものに対する畏怖である。

人はその未発達な感覚で、暗闇に潜む〈存在〉を敏感に察知していたのだ――


 エンジェル・フォスター著

 「影、及び暗闇に関する魔術について」より抜粋







 一面に広がる草原のただなかに、〈それ〉はった。

 悠久の時を沈黙のままに過ごし、数千年という時を越えてなおその姿を保ち続ける巨石群メガリス――ストーンヘンジ。

 いにしえの時代、人類はここで篝火を囲み、大いなる神に向けて生贄を捧げたといわれているが、当の彼らが何を信奉していたのかを知る手掛かりは、ほとんど残されていない。

この地にこれらの巨石が建てられてから、気が遠くなるほどの月日が流れた。

 周辺を囲んでいた森は消え、剥き出しとなった岩は風雨によって削られ、苔むした表面には、もはやかつての面影はない。

 それでも、人の世の移ろいを眺め続けた石の周囲に、人の足が絶えることはなかった。いっとき忘れ去られることはあっても、ある者は道標として、またある者は信仰の対象としてという具合に、必ず誰かがその存在を目に止め、よるべとしたのだ。

 遠方からでもはっきりと確認できる姿は、あらゆるものを惹きつけてやまなかった。それが石の意志なのか、それとも人の意志なのかはわからない。けれども、この石に人が何らかの魅力を感じ、引き寄せられずにいられないのは確かであった。

 そして、今もまた。

 色浅い作業着に身を包んだ一団が、丘にそびえる巨石に群がっていた。

 彼らは様々な機器を使い、測量や採掘をしていた。誰もが明確な目的をもっての統一された作業だったが、よく見るとそんな中にあって、一人だけ様子の違う者が混じっていた。

 肘まで捲りあげたシャツの袖から覗く腕は、周辺で掘った土を運ぶ男たちのそれとは違い、白く細い。ブリムの広い帽子の下にある神経質そうな横顔も、まだどこか未成熟な面影がある。

 彼――シェプリー・ウーブルは自前の測量器の側に立ち、細かく几帳面な字でびっしりと書き込まれたノートを閉じた。

 銀縁の丸い眼鏡を外し、大きく息をつきながら額に滲んだ汗を拭う。

 この季節、湿気を帯びた白亜チョーク質の土壌は不快なものでしかない。たが、暑さに悩まされるのも今日が最後だと思うと、シェプリーは何故か一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。顔の前を飛び回る羽虫にさえ名残惜しいほどだ。

 彼は今、師であるエンジェル・フォスターと共にストーンヘンジの調査をしていた。正確には、国内外に点在する巨石群の調査の一環と、その締めくくりとして、ソールズベリーに滞在していた。

 昔から有名であったこの巨石群は、物珍しさにやってきた見物客や周辺住人による理解のない破壊行為のために、今では石柱のほとんどが倒壊し、土中に埋もれてしまっていた。重大な損失を避けるためにこの一帯が国の管理下におさめられ、保護されるようになったのは、まだほんの数年前のことだ。

 政府主導によるプロジェクトは、埋もれたものを掘り起こし、倒れたものを元あった位置へと戻し、古代に何があったのかを調査検証するという壮大なものだった。しかしシェプリーが師と共に行っているものは、政府のそれとは関係がなかった。

 シェプリーは眼鏡を外したまま、眼前に広がる光景を眺めた。

博物館や図鑑で得た知識でその存在は幼い頃から知っていたが、こうして間近な場所で実物の側に立つと、当時抱いていた感動とはまた違うものが胸に押し寄せる。

 崩壊から辛うじて免れた数本の石柱は、建立当時の面影をとどめ、足下に深い影を落としていた。発掘作業のせいであちこちが掘り返された地面は荒涼を極め、凄惨ともいえる様相を帯びている。

 何度見ても見慣れぬ光景だった。

 そして、それら食い入るように眺めるシェプリーの視界が、不意に歪む。

 シェプリーは慌てて目を閉じると、倒れないように両足に力を入れた。

(まただ……)

 激しい目眩と、全身が粟立つような不快感――それは、数日前にはじめて石柱の側に立ったときにも感じた、異様な感触だった。

 シェプリーはいわゆる霊能力に近いものを持っていた。

 その未知なる力で受け止める石の波動は、研ぎ澄まされた聴覚に突き刺さるガラスの擦れる音のようであるとともに、煮えたぎる湯から不規則に発せられる低くくぐもった音でもあるという、奇妙な波長と振動だった。

 それらの不協和音を至近距離で受け止めていると、シェプリーは自分が今立っている地面の感覚がどこかに消え失せてしまうような気がして、言い様のない不安に駆られるのだった。

 かつて詩人ワーズワースは、巨石を目の当たりにしたときの感動を詩にしたためた。曰く、「堪え難い畏怖と重圧――未知なる過去の遥か奥底から放たれた畏怖である」と。

 しかしシェプリーが受け止める石の波動は、人間の深層心理に訴えかけてくる感動などという生易しいものではなかった。

 太古の火山活動によって生み出された無機物などではなく、実在するものが経てきた歴史的時間という概念をも遥かに越えた、一種の思念そのものであった。

 この石は生きている――シェプリーの顔色が悪いる原因は、蒸し暑さと夏の陽射しだけによるものではない。

 だが、周辺で黙々と土を運ぶ作業員たちは、誰一人としてシェプリーのような不安を抱いているよな素振りをする者はいなかった。

 これほどのエネルギーであれば、自分のような力がなくてもわかりそうなものなのに、どうして誰も気付かないのだろう?

 シェプリーは遠退きそうになる意識を懸命に引き止めながら何度も考えたが、その思いを口に出すことはしなかった。言ったところで、理解してくれる者などいるはずがないのだから。

 ――ただ一人を除いては。

「シェプリー」

 声の主が誰なのかは、振り向かずともわかっていた。シェプリーは無理に笑顔を作り、声の方向へと向き直る。

 少し離れた場所、緩やかな傾斜を描く土手のきわに、その人物は立っていた。シェプリーの長年の師であるエンジェル・フォスターだ。

 エンジェルはシェプリーが幼い頃からの指導教師であると同時に、あまり世には知られていないが、れっきとした学者であり、医者でもあった。

 明るい灰色を基調とした服に身を包んだ彼は、強い陽射しで濃い影をつくる帽子の下からシェプリーに向けて視線を注いでいた。

 帽子で隠れていながらも遠目にもわかる紅い髪と、白磁のような肌。そして、それらの特徴的な容姿を一層際立たせるサングラス――ほとんど透けることのない黒いレンズは、ともすれば見る者を不安にさせる効果があったが、シェプリーにとっては見慣れた姿だった。

 その隣には、彼とは対照的な人物が並んで立っていた。今回の学術調査隊の責任者でもあるウィリアム・ホーリー中佐だ。

 エンジェルは博物学協会を介し、今回の調査に同行する許可をとりつけていた。シェプリーが現場からつまみ出されることなく自由に測量することができたのは、そういう理由があったからなのだ。

 カーキの軍服を着込み、作業に従事する男達の手が止まっていないかを監視するホーリーの視線を、シェプリーは好きになれなかった。しかし、師の呼び掛けを無視するわけにはいかない。

 シェプリーは眼鏡をかけ直すと、測量器を片付け、エンジェルのもとへと向かった。

生い茂る草を踏みしだいて進むにつれ、老いてもなお衰えることのないエンジェルの整った顔がはっきり見えるようになる。

 齢四十八にして一点の染みすらない肌と均整のとれた肉体とのせいで、人形のようだと称して憚らない輩もいたが、シェプリーは気にしなかった。それどころか、いつまでも若々しい師のことを誇りにさえ思っていた。

「測量は済みましたかな?」

 シェプリーが側まで来ると、ホーリーが軍人らしい鷹揚な態度でエンジェルにたずねた。

「はい、全部終りました」

 シェプリーが代わりに答えると、ホーリーはちらりと視線を向けた。

「測定値の写しは、後日こちらにも提供していただける約束でしたな?」

「今夜中にまとめます」

 シェプリーの返答にホーリーは「結構」と言い、大きく顎を引いて頷いた。

「本来ならば我々調査団以外は立ち入り禁止なんだがね。君達を現場に入れたのは、協会からの要請があったからで――」

「存じておりますよ」

 柔らかではあるが意志の強さを感じる声に、ホーリーだけでなくシェプリーも一瞬どきりとした。エンジェルがホーリーの苦言を遮ったのだ。

 彼はシェプリーが測量をしている間、遺跡を一望できる場所に陣取り指揮を取る中佐の側に立ち、直接的ないしは間接的に聞かされる厭味の処理を一手に引き受けていた。

けれどもエンジェルが気分を害したような素振りは全くなかった。それどころか、穏やかな笑みを浮かべてホーリーに向かって頭を下げてみせる。

「中佐には、私どもの無理を通していただいて申し訳なく思っています」

「いや、我々としても博士の研究の手助けが出来て満足ですよ。良い結果が出るように祈っています」

 取り繕うように、ホーリーが言った。協会を通じてのエンジェルの影響力を警戒したからだろう。

「ありがとうございます。この度の中佐のご協力には、本当に感謝しております」

 再度エンジェルに頭を下げられてまんざらでもないという顔をする軍人に、シェプリーは反吐が出る思いだった。

 そのとき、発掘作業を行っている一画で、一人の青年がこちらに向かって大きく手を振った。何かを発見したらしい。

「失礼」

 青年に気付いたホーリーは、挨拶もそこそこに現場へと駆けていく。

 その後ろ姿を黙って見送っていたシェプリーは、エンジェルが自分に話しかけたのだと気付くまでに少し時間が必要だった。

「大丈夫かね?」

 先にホーリーの厭味に対抗したときとは違う、優しい声色だった。

 少し首を傾げるようにして顔を覗き込む仕種もまた、昔から変わらないものの一つだ。

「平気です」

 シェプリーはそう言うと、エンジェルに笑ってみせた。本音では、すぐにでもここから離れて涼しい場所で休みたかったのだが、これ以上師の足を引っ張るような真似はしたくない。数年をかけた調査の締めくくりを迎える今日だからこそ、尚更そう思うのだ。

 エンジェルは何も答えなかったが、その代わり、農色のレンズの下から弟子に向けて視線を注いた。

 気まずい沈黙に、シェプリーは内心で焦る。

 再び平気だと言おうと口を開きかけるが、逆に言葉を封じられてしまった。サングラスの向こうにある、琥珀色の瞳のせいだ。

 世にも珍しい色彩を放つ虹彩は、シェプリーが物心つくかつかないかの頃から常に彼の側にあった。それを知れば、ホーリーだけでなく、この場にいる誰もが遺物を発見したとき以上の驚愕に目を見張っただろう。あるいは、激しい嫌悪を抱いたかもしれない。

 エンジェルの瞳は常に穏やかな光に満ちていたが、異質な色に対する反応は、いつでも、どの国でも同じだった。威圧感を与えかねないサングラスは、周囲との関係を良好にするためには必要不可欠な道具でもあったのだ。

 シェプリー自身も、初めてエンジェルの瞳を見た瞬間は恐怖を感じたものだ。十五年近くの付き合いによって、シェプリーは彼の本質を知ったからこそ怯えることはなくなった。けれど。

(まいったな……)

 昔からエンジェルはシェプリーの様子には敏感だった。心配をかけまいとシェプリーがどれほど慎重に取り繕っても、エンジェルはお見通しだった。

 エンジェルにしてみればシェプリーの体調を慮ってのことだろうが、シェプリーにも意地があった。第一、いつまでも子供扱いされていたくはない。

「フォスター博士!」

 発掘現場からホーリーが駆け足で戻って来た。思わぬ形でエンジェルの無言の追求から逃れることができたシェプリーは、おもわず安堵の溜息をついた。

「また青銅器が出たようですよ。やはり私が言ったように、ここは紀元前二千五百年頃にはすでに存在していたのですな!」

 ホーリーの頬は、急激な運動と極度の興奮のせいで紅潮していた。

 シェプリーが測量をしている間、彼は厭味を言うだけではなく、エンジェルと共にストーンヘンジという遺跡についての考察を話し合っていた。

「博士はどう思われます?」

 水を向けられ、エンジェルは考え事でもするかのように軽く首を傾げた。

「発掘の範囲をもっと広げてみてはいかがでしょう。埋葬された遺体と副葬品が出土すると思いますよ」

「ということは、博士はこれを支石墓ドルメンだとお考えなのですな?」

 ホーリーが目を輝かせる。だが、エンジェルは小さな笑みを浮かべると、首を振ってみせた。

「確かに、これが組まれたのは青銅器時代のことでしょう。ですが、この場が作られはじめたのはもっと古い時代のはずです。おそらく、新石時代の中期から後期にかけて。人々の生活基盤が狩猟から農耕に移り変わった頃です。切っ掛けが一握りの指導者のためのものだったとしても、石を持ち込むまでには時間がかかりすぎている」

 そう言うと、日を遮るように手を額にかざし、もの言わぬ石の群れを見つめた。

 ストーンヘンジと呼ばれるこれらの石は、エジプトのファラオが建てたというピラビッドの比ではない。第一、大きさだけに注目するのであれば、エイブベリーにあるものの方がその規模においてもストーンヘンジを遥かに上回っている。

 それほどの偉功を示さなければならないような存在が、この時代のこの地に存在したのだろうか。

 青銅器時代のブリテン島は、大陸側からみればまだ小さな島でしかなかった。海で隔てられた、最果ての地だったのだ。

 多くの種族が入れ代わりたちかわり訪れ、定住していたであろう集落跡は幾つか発見されてはいるが、アーサー王のようなはっきりとした像を伝える伝承は、かなり後の時代になってからのことである。

「古代人たちはストーンヘンジを支石墓として建てたのではなく、すでにあった石を目印に、この場を聖地だと認識し、埋葬に利用しただけでしょう。私はそう考えています」

 きっぱりと言い切られ、ホーリーの得意げな表情が硬化した。

「では、これは何なのです? この馬鹿でかい場は、一体何のために? ドルイドたちの儀式場だとでも?」

 探るような視線が、エンジェルへと向けられる。

 ドルイド僧はローマ人やキリスト教に教化されるより以前にこの地を支配していたといわれる古代の賢者たちであり、彼らの信仰の対象は太陽だと謂われている。

 夏至の日、ストーンヘンジ中央に立つ石を朝日が照らすは有名な話であり、すでに確認証明されている事実だった。

 だが、エンジェルはまたもや静かに首を振った。

「いくらドルイドの歴史が古いといっても、青銅器時代以前までは遡れませんよ。それに、この巨石も、そういった儀式のためだけに建てられたとは考え難い」

「ほう?」

 ホーリーは聞き捨てならないとでも言うように片眉を跳ね上げた。

「では、博士は一体どのようにお考えなのですか? よろしければ、お聞かせ願いたい」

 ホーリーにますます反感をおぼえながら、シェプリーは不安げな表情で師の横顔を盗み見た。シェプリーも、それを知りたいと思っていたからだ。

 エンジェルにはホーリーの挑発に動じた様子はなかった。それどころか、意味深な微笑みを浮かべてさえいた。

「記録です」

「記録?」

 思いもよらぬ答えに、ホーリーが戸惑いを見せる。

「それはいしぶみということですか? しかし、この時代には文字もまだ……」

 エンジェルの斬新な説は、しかしホーリーにとっては受け入れ難いものだった。

 具体的な用途は不明であるにしろ、何らかの祭祀跡には違いないというのがそれまでの学説だったからだ。

「文字は必要ありません。この石こそが、後の世まで〈それ〉を伝えるためのものなのですから」

「では、その内容は?」

「契約です」

「契約ですって?」

 返された言葉が示すものに、ホーリーだけでなく、シェプリーまでもが驚愕する。しかし、驚いてばかりはいられなかった。

 ホーリーのあげた声があまりにも大きかったために、発掘作業に従事していた男達が何事かと思い、集まってきたからだ。

「フォスター博士。貴方はもしや、この石が聖櫃アークのようなものだと仰るのですか?」

 エンジェルとシェプリーを囲む環からどよめきがあがる。

 契約といわれて聖書に記された物語を思い浮かべぬ者はいない。古代人の手によって作られたこの巨石群と、神から授けられた訓戒とを結び付けられるほど想像力の逞しい者は、この場には誰一人としていなかった。

「私が言っているのは、聖書の話よりももっと古い時代のことですよ。人と獣とが別れていなかったような時代に、人と……いえ、生きとし生けるものたちと、との間で交わされた約束、その記録です」

「世界? 神ではなく?」

「超自然的な存在という意味では、神と呼ぶかもしれません。ですが、は神とは少し違います。それよりも本質的で、より根源的なものです。ホーリー中佐、貴方はまさか、教会の定める神だけが神だと仰るわけではありますまい?」

 揶揄するように一瞥をくれるエンジェルに、ホーリーは絶句した。

「中国、エジプト、アラビア。古代に栄華を誇った王国だけが、古代人の存在を証明するものでしょうか? いいえ、それ以前にも人は存在しました。四千年、五千年……それよりもふるい時代、洞窟の壁に絵を描き、自然の猛威の中で身を寄せあい、明日をも知れぬ極限を生きた者たちが。

 我々が知る神という存在は、後の時代になってから人が形にしたものです。宗教という枠で囲み、姿と人格を与えた。つまり、神が自らに似せて人を作ったのではなく、人が己の内から神を作り出し、投影したものにすぎません。

 しかし、この環状列石クロムレックを建てた者たちの内にあったのは、そういった創られた神ではありませんでした。大地、炎、水、風、植物や動物の営み、太陽や月などの星々の運行――それらすべてを包括した世界――人の力ではどうにもならぬこそが、神という名を持たぬまま彼等の内に君臨していたのです」

「はぁ……」

 ホーリーは、もはや曖昧な返事をするしかなかった。周囲を取り囲む男達も同じである。

「ところで、私は今、神と表現しましたが……」

 不意に、エンジェルはそう言うと、隣で立ち尽くすホーリーへと向き直った。

「もしかすると、は神ですらなかったのではとも考えているのです」

「何ですって!?」

 一層の驚愕を含んだ声が、周囲の者の意識を再び引きつける。

 今や、この場に居合わせる者すべてが手をとめ、この奇妙な来客の言葉に耳をそばだてていた。

 エンジェルは訊かれたから答えただけにすぎない。しかしそれを即座に受け入れることのできる者は少ないだろう。

 それは、長年彼に師事してきたはずのシェプリーでさえそうだったのだから。

 不信と敵意、そして侮蔑の感情が自分達をとりまくのを察知し、シェプリーは怯んだ。

 今すぐにでも師を促してこの場から逃げ出してしまいたかったが、しかしエンジェルの言葉は止まりそうにもなかった。

「我々は自然に支配されています。自然とは、時間の経過の積み重ねです。どれほどの年月をかけたのかはわかりませんが、人は季節の移り変わりという自然現象と時間の関係とを経験的に知りました。そして、そこから星々の運行との関連をも見いだし、時という概念を知りました。

 私は、人の力でどうにもならぬ存在こそが神あるいはそれに準ずるものだと述べましたが、ならば自然を支配する〈時〉もまた、神の領域に属するものと言えるでしょう。

 人は生まれ、育ち、死ぬという周期の中にいます。人に限らず、生きとし生けるものはすべてがそうです。〈時〉は、この世界のあらゆるものへと公平に与えられた、唯一のものなのです。ですが、これは神からの恩恵なのでしょうか?」

 エンジェルは口を噤むと、視線を目前の巨石へと向けた。

 一帯を支配する戸惑いの空気の中、草原を渡る風はいつの間にかいでいた。

 誰もが彼の言葉を待っていた。草むらに巣を作る小鳥のさえずりさえ聞こえない。

「人は永遠を願う生物です。豊かな実りが続くように、生を長く謳歌できるように……けれど、豊かさは続かない。秋の後に冬が来るように、人は必ず死ぬ。時間の流れに沿った老いは、決して逃れられない呪縛です。であるのなら、むしろこれは魔の領域のものではないだろうか――私はそう考えずにはいられないのです。例えそれが楽園を追われたことによる罰だったとしても、ね」

 誰も反論を差し挟まなかった。

 というよりも、挟めなかった。

 呆然と立ち尽くすホーリーに、エンジェルは微笑みかけた。

「先程、貴方はドルイドについて言及されましたが、私はこの地で重要なのは、夏至よりも冬至だと考えています。太陽もですが、一度、月や星々との関連について調べてみることをお勧めします。ダートムアのメリヴェイルなどは、プレアデス星団の方向を指していますからね。きっと面白い結果が出ると思いますよ」

 そうして聴衆の時間を言葉のみで止めてしまったエンジェルは、ようやく講議を打ち切った。

 踵を返して立ち去る姿を、引き止める者はいなかった。

 シェプリーもまた同様に呆然としていたが、すぐに我に返り、慌てて師の後を追った。

「先生」

 声をかけるのは憚られるような気もしていたが、どうしても問わずにはいられなかった。

 あれでは政府機関の関係者に喧嘩を売ったようなものだ。もし彼らの機嫌を損ねてしまったのなら、あとあと面倒なことになりかねない。

 しかし、当のエンジェルはまるで気にした様子はなかった。

 濃茶の皮手袋をはめた手で藤の杖を突き、いつもと変わらぬ足取りで発掘現場から離れてゆく。シェプリーの声さえ聞こえていないかのようだ。

 仕方なく、シェプリーも黙ってその後ろに付いて歩くことにした。このようなときにはいくら訊ねても無駄だということを、長年の付き合いで学んでいたからだ。

 エンジェルはシェプリーの指導教師となるよりも前からこれらの遺物についての研究に着手していたという。故に、この調査旅行は長年に渡って続けてきた研究の総仕上げのようなものだろうと、シェプリーはそう考えていたのだが、しかし先の話を聞く限り、師が思い描くものは自分が想像するものとは全く違うらしい。

 シェプリーは研究を手伝ってはいたが、いまだ師の本当の目的を聞かされておらず、また自分なりの解答をも見出せずにいた。

(どうして先生は教えてくれないんだろう……)

 それに、先からずっと自分を悩ませるこの奇妙な感覚――意識しないようにしていても、蓄積された疲労は不安と共に頭痛となってシェプリーに圧力をかける。

 自然と俯きがちになる顔を上げるたび、エンジェルの背中は遠くなっていた。

 距離が開く理由は、重い測量器を抱えているせいだけではない。

 シェプリーは歯を食いしばると、エンジェルの隣に並ぶために歩みを速めた。

 幾重にも作られた土塁を越え、調査隊からも随分と離れた地点にまで来たところで、エンジェルはようやく立ち止まった。そして、手にした杖で注意深く地を覆う草をかき分けはじめる。

「シェプリー、これを見なさい」

 あがった息を整える間も与えられなかったが、シェプリーは不平ひとつ漏らさず師の指すものを見た。

 そこには、環の中央にあるものとは明らかに様子の違う石の塊があった。

 長きに渡る破壊行為の果てに捨てられたものだろうか、子犬程の大きさをした白い石だった。

 けれども、ぽつんと一つだけ離れた場所に転がるその存在を、離れた場所で調査を行っている誰一人として気にかけた様子はない。

「ここに、表面を削った跡がある」

 エンジェルが杖の先で石の表面をなぞって形を示すが、シェプリーの位置からでは草の影に隠れ、よく見えなかった。

 シェプリーは重い測量器を地面に降ろすと、その場に跪き、師の示す部分に顔を近付けた。

「円は閉じた場をつくり、そこに世界を内包する……」

 苔むした表面、石のわずかな窪みを見極めるのは困難だったが、息を詰めて目を凝らす。

かつてそこにあったであろう形を滑らかな動きで再現してゆく杖を追ううちに、シェプリーの目はひとつの形を捉えた。

 渦を巻くように弧を描くライン――それは、彼がよく知っているものと酷似していた。

 今は革手袋の下に隠れてはいるが、エンジェルが左手の人指し指に常に嵌めている指輪の、その表面に刻まれた紋様――シェプリーが幼い頃からずっと胸の内に秘めてきた問いを口にしようとした、まさにそのときだった。

「あっ――」

 突風がシェプリーの帽子とノートの間に挟んでいただけメモを攫っていった。

「畜生!」

 普段であれば師の前では絶対に使わない言葉を吐き、シェプリーは慌てて立ち上がると、担いでいた機材をその場に投げ捨て、走った。

 嘲るように宙を舞ったメモと帽子は、幸いにもシェプリーの視界から消えることはなかった。

 草の上、盛られた土の側へと次々と着地し、最後に帽子だけが折り重なるように倒れている石柱の隙間へと、車輪のように転がりながら吸い込まれ、そこで動きを止める。

 息を切らせながら追いついたシェプリーは、膝をつき、奥に見える帽子を取ろうと石の表面に触れた。

 だが次の瞬間、シェプリーは声にならない声をあげて石の側から飛び退った。

(何――?)

 石に触れた途端、何ともいえぬ衝撃がシェプリーの身体を貫いたのだ。

 尻餅をついた体勢のまま、シェプリーは目の前の石を凝視した。

 夏の強い陽射しの中、地面に接する影に沈む僅かな凹凸によく知っている紋様が見えるような気がし、シェプリーの胸は騒ぐ。

 これは一体何なのだ――

 今や精神だけではなく、肉体までもが石を拒否していた。薄い地表の下、剥き出しとなった白亜の層と影とが作り出す強いコントラストが、シェプリーの目眩を一層激しいものにする。

 呆然としているシェプリーの背後で、草を踏む音が止まった。エンジェルだった。

「先生、これ……」

 シェプリーは救いを求めるように蒼白となった顔をエンジェルに向け、震える指で石を指した。

 しかし、エンジェルは何も答えなかった。

 ただその秀麗な顔を心持ち俯かせ、シェプリーと石とを見つめるのみだ。その視線がふと外れ、上空へと向けられる。

「今夜は荒れるな」

 青く澄んだ夏の空にそれらしい雲は見当たらなかったが、湿り気を帯びた風だけが勢いを増し、夜と嵐の気配を告げていた。


 深夜。西の空では雷鳴が響いていた。

 あれほど晴れていた昼とはうってかわり、荒野は低く垂れ込めた厚い雲と共に闇に融けている。

 吹き付ける風が鎧戸ごと窓を揺らす中、シェプリーはまだベッドには入らず、あてがわれた部屋で昼に行った測量結果をまとめていた。

 ホーリー中佐に今夜中に仕上げると言ってしまった手前、やらないわけにはいかなかったからだ。それに、昼間の件のこともある。提出が遅れでもしたら、何を言われるかわかったものではない。

 しかし、作業は一向にはかどらなかった。昼間に感じたあの得体の知れない不快感――その感触がどうしても脳裏から離れなかったからである。

 シェプリーは広げたノートの上に鉛筆を放ると、大きく延びをした。そうして、ぼんやりと揺れる照明の影に目を凝らし、昼間の出来事を反芻する。

 ストーンヘンジに限らず、この国には実に多くの巨石群が点在する。シェプリーはエンジェルの研究を手伝いながらそれらを実際に見て回り、触れてきた。しかし、今日のような烈しく禍々しい気配を発するものは一つとしてなかったはずだ。それに、石に触れた瞬間に身体を貫いたあの衝撃のこともシェプリーは気掛かりだった。

(あれは何だったんだろう……)

 シェプリーはいろいろと考えてみるが、答えはとても見つかりそうにない。

 無駄に時間を費やすくらいなら、ノート上の数字をまとめる作業に戻った方がいいとはわかっているのだが、しかし意識は昼間の記憶からどうしても離れようとはしなかった。

 シェプリーは諦めたように溜息をつくと、座り心地の悪い椅子の背に身を預け、天井を仰いだ。

 その脳裏に、かつて耳にしたエンジェルの言葉が思い浮かぶ。

『君がもっと大きくなって、分別がつくようになったら教えてあげよう』

 小さな指輪を前に、幼いシェプリーがエンジェルへと向けた疑問への答えだった。

 彼が常に嵌めている指輪には、シェプリーの心を惹きつけてやまない不思議な紋様が刻まれていた。

 子供の頃はもちろん、大人になった今でもとても奇妙で、それでいて魅力的だと思える紋様だった。

 だが、それと同じ紋様はどこにもなかった。沢山の図鑑を探しても載っておらず、どうしても知りたかったシェプリーは、あるとき思いきってエンジェルにたずねてみたのだ。

 それから十年近くが経過したが、シェプリーはいまだにその答えを教えられていない――つまり、まだ師に認められていないということだ。

 石にのこる模様を示されたとき、シェプリーの胸は期待に膨んだ。けれど、結果は見てのとおりである。夕食をとるためにこの安宿に引き上げたときも、エンジェルの態度は変わらなかった。

 食事の間も、その後も、彼の口からは紋様どころか、石柱についてさえ触れる気配はなかった。そしてシェプリーに明日の予定と作業の指示をすると、早々に自室へと引き上げてしまった。

 廊下を挟んだ向いの部屋で、エンジェルはとっくに床について休んでいるだろう。見た目は若々しくても、彼もまた、さほど頑強ではない。

(悩んでいても仕方がないか)

 シェプリーは身を起し、頭を掻いた。

 多分、まだ自分は未熟なのだろう。ならば、まずはエンジェルに認めてもらわなければならない。彼にふさわしい助手としてだけでなく、一人前の男としても。

 シェプリーは眠気払い用にと宿の主人に用意してもらったコーヒーに手を伸ばした。すっかり褪めたそれは胃が痛くなるだけの泥水と成り果てていたが、それでもシェプリーは我慢して一気に飲み干した。


 そうしてどれほどの時が過ぎたのか。

 平原を駆け抜ける生温い風は、遂に大粒の雨を喚んだ。

 地表で煙る雨を稲妻が照らす中、隙間から入り込んだ風が机上に伏して眠るシェプリーの頬を緩やかに撫でてゆく。

 頭上のランプの周囲では、どこから迷い込んだのか、一匹の小さな蛾が静かに飛び回っていた。

 小さなはねをはためかせ、己の命を燃やし尽くす電球に蛾が飛び込もうとした、まさにその瞬間だった。

 耳をつんざく雷鳴と誰かの悲鳴とが、同時に宿全体を揺るがした。

 一瞬の隙を睡魔に襲われ眠りの世界に堕ちていたシェプリーは、はじかれたように飛び起きた。そして、今の悲鳴が誰のものかに気付く。

「先生……?」

 宿泊客はシェプリーとエンジェルとの二人だけのはずだった。

 落雷の際に停電となったせいか、室内は暗闇に包まれていた。だが、シェプリーは迷わず部屋を飛び出すと、向かいの部屋にいるはずの師を呼んだ。

「先生! フォスター先生!」

 しかし、何度扉を叩き大声で呼びかけても、中からは何の反応も返ってこなかった。

 シェプリーはノブに手をかけ回そうとしが、内側から鍵がかけられているのか、少しも動く様子はなかった。体当たりもしてみたが、頑丈な樫の板は非力なシェプリーがいくら挑んだところでびくともしない。

「どうしました!?」

 やはり悲鳴を聞きつけて飛び起きたのだろう。寝巻き姿の宿の主人が、懐中電灯を手にしてシェプリーの側へと駆けつけるが、

「鍵を――早く!!」

 シェプリーの形相に、主人は今来た道を慌てて引返し、合鍵を取りに階下へと走った。

 シェプリーは扉に耳を当てて中の様子を窺った。だが、やはり何も聞こえない。

 雷鳴が轟く外とは対照的に、不気味な沈黙を続けてる扉の前で、シェプリーはノブを握り締め、無能な自分を呪った。

 ほどなくして、ようやく主人がシェプリーのもとへと戻ってきた。数分もかかっていないのだが、運動不足の身体にはきつい往復だったようで、彼は息をきらしながら震える手で鍵を差し出すのが精一杯だった。

 シェプリーはひったくるようにしてそれを奪うと、急いで鍵穴に差し込んだ。

 小さな音をたてて鍵は回った。軋んだ音を響かせながら、ゆっくりと扉が開く。

「先生……?」

 室内は真っ暗だった。

 張り詰めた空気と共に、そこに充満していた何かの匂いが廊下へと流れ出す。

「フォスター先生?」

 シェプリーは姿の見えない師に呼びかけながら、恐る恐る中へと足を踏み入れた。

 だがすぐに、その足が止まる。

 水たまりを踏んだような音と感触だった。

 鼻をつく鉄錆の匂いと、そして禍々しい何者かの気配に、シェプリーの顔が一気に青褪める。

 宿の主人がシェプリーの脇から身を割り込ませ、室内を懐中電灯で照らし出した。

 ――が、次の瞬間、彼はすさまじい悲鳴をあげて懐中電灯を放り出し、逃げていった。

 尾を引くその声を聞きながら、シェプリーは動けなかった。

 床に転がる電灯が照らしだすのは、一面に広がる夥しい量の血溜りだった。それはそこかしこにも飛び散り、壁紙などは赤い花が咲き乱れているかのようにも見える。

 猛烈な息苦しさに襲われて、シェプリーは喘いだ。激しい目眩にも足下をすくわれ、膝からの力が抜けてゆく。

 急激に狭まる視界の中、それでもシェプリーはエンジェルの姿を求めて懸命に視線を彷徨わせた。

 そして、シェプリーは見た――見てしまった。

 部屋の片隅、電灯の灯が辛うじて届く場所に潜んでいた何者かが、闇の中へと消えてゆくところを。

 それは不浄ともいえる緑色の体液を滴らせながら、燗々と輝く双眸をこちらの世界へと向けていた。

 真紅に彩られたそれは、すべてを嘲笑うかのような禍々しさに満ちていた。

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