02:心霊事象調査事務所

 カーテンの隙間から光が漏れている。

 1925年5月20日、午前7時。初夏を迎えたロンドンの街は清々しい朝の空気に満ちていたが、シェプリーの胸中はいまだ暗雲立ち篭める真夏の夜のままだった。

 鈍い頭痛を堪えながら身を起こし、深々と溜息をつく。

 決して晴れることのない重苦しい気分に唇を噛み締め、シェプリーはブランケット上に投げ出された両手の平へと視線を落とした。固い扉を叩いた感触は、まだそこに残っている。

 シェプリーは一週間ほど前から同じ夢を繰返し見ていた。単なる夢と一言で片付けることのできない、シェプリー自身が体験した忌わしい記憶を。

 シェプリーは悪夢の輪郭をなぞろうと目を閉じた。が、その行為は乱暴に扉をノックする音に妨げられた。

「シェプリー、起きろ。いつまで寝てやがる」

 シェプリーが雇った探偵であり、仕事上のパートナーでもあるルイスだった。

 起き抜けの喉は微かに痛んだが、シェプリーはこの不機嫌な同居人に向けて、ことさら大きな声で返答した。

「起きてるよ!」

「じゃぁ早く支度しろ。昼にはバーミンガムに着いてなきゃいけないんだぞ」

 ルイスの言葉に、シェプリーは今日の予定を思い出す。一週間前の夕方、事務所へと飛び込んできた依頼人のもとへと行くのだ。

 シェプリーは傍らの時計を横目で確認し、ベッドから降りた。

 捉えどころのない視線をクローゼットの側の鏡に向ける。その瞳は、底のない淵に映る空のような色をしていた。

 青白い顔が己を見詰めかえすのをじっと見ながら、夢の感触を反芻する。

 何かを訴えかけるかのような繰返し《リフレイン》は、いつも同じ場面からはじまり、同じ場面で途切れていた。

 室内に大量の血を残して謎の失踪を遂げた師エンジェル・フォスターと、暗闇の中へと消えた紅い瞳の化物――

 本当にただの夢であればよかったのにと、シェプリーは目覚める度に思う。目の当りにした悪夢という名の現実は、四年の歳月を経た今もシェプリーを暗い闇に捕えて離さない。

 いまだ消息不明な師のことを、世間はとうに見限っていた。警察は早々に捜査を打ち切り、新聞社も他の事件を追いかけ、誰しもの関心は世のあらゆる事柄へと分散していった。

 不思議なのは、エンジェルと関係のあったはずの多くの学者たちまでもが、エンジェルの失踪に口を閉ざしたままということだった。彼らはまるで、そんな人物ははじめから居なかったとでも言うように、エンジェル・フォスターという存在に一斉に背を向けた。当時あの現場でストーンヘンジの調査に立ち会ったホーリー中佐でさえ、それは同じだった。

 後ろ盾をなくしたシェプリーに、新たに手を差し伸べようとする者が現れるはずもない。

 時折何かを思い出したかのようにゴシップ好きな者がシェプリーのもとを訪れ、根掘り葉掘り聞き出そうとはしたが、彼らは決まってエンジェルを世間を騒がせることが好きな変人だとみなされ、シェプリーはシェプリーで狂人のように扱われ――見捨てられた。

 失意のあまり、シェプリーは暫くの間、立ち直れないほど落ち込んだ。

 だが、シェプリーは諦めたわけではなかった。

 誰も助けてくれぬというのなら、誰にも頼れぬというのなら、自分でこの状況を切開こうと決意したのだ。

 閉め切った部屋に閉じこもり、医者の処方する薬で夢のない眠りにつく日々を続けながらも、どうにかして師の消息と、事件の手掛かりになるものを探し出せる方法を考えた。

 それは闇の中を手探りで進みながら小さな針を探すにも似た行為であり、決して楽な道のりだった。だが、どれほど遠回りになろうとも、いつか何かを掴む日が必ずくるはずだとシェプリーは信じていた。

 そして、今。

 シェプリーは気掛かりな夢の感触を得た。胸の内では、眠気を払い鋭敏になりつつある勘が、これは己の記憶が作り出すただの悪夢などではないと囁き続けていた。

 ――だが、本当にそうだろうか?

 ちらとよぎる疑念に、シェプリーは再度鏡の中の己の目を見詰め直す。今まで何度も期待を裏切られてきたのだ。今度もそうだという可能性は捨て切れない。

(でも……)

 生きたまま死ぬ日々を続けるくらいなら、本当に死んでしまった方がましだった。

 見極めなければならない――夢が示した記憶が、未来への鍵なのか、それとも単なる願望にすぎないのかを。

 しかし、その前には片付けなくてはならないことがある。

 シェプリーは両の手で己の頬をぴしゃりと叩き、夢が呼ぶ過去の世界から現在の時間軸へと意識を戻した。

 手早く身支度を整え、階下にある事務所で苛々しながら待っているであろう相棒のもとへと急ぐ。

 狭く急な階段を降りれば、扉に掲げられた簡素な看板がシェプリーを無言で迎える。そこには〈W&K心霊事象調査事務所〉と書かれていた。

 今のシェプリーは、彼が持つ〈力〉を利用して心霊事象――いわゆる幽霊や不可思議な超常現象など――の調査をしていた。そうしていれば、いつか自分が求めるものに近付く日が訪れるはずだとの考からだった。

 事務所の扉を開けると、来客用のソファーに深く座り、その前にあるテーブル上へと両足を投げ出す男がシェプリーを待っていた。

 クリフォード・ルイス・ケアリー――無精髭こそ生やしてはいないが、どこか荒っぽい印象を他者に与える彼こそ、たった今シェプリーを叩き起こした人物であり、現在の仕事上のパートナーである探偵だ。

 以前は警官だったらしいのだが、詳しいことはシェプリーはよく知らない。とはいえ、個人的な部分に口を差し挟むつもりはなかった。見かけによらずルイスはとても丁寧な仕事ぶりを発揮したし、腕っぷしも強く、何かアクシデントがあっても動じずに解決できる冷静さも持ち合わせていた。少々お節介で短気な部分もあるが、今のシェプリーにとっては心強い、唯一の味方だった。

「お早いお目覚めで」

 シェプリーを一瞥したルイスは、寛いだ姿勢のまま書類を差し出した。暇を持て余していたのか、そこには彼が紙束を弄んでいた痕跡が残っていた。

「おかげさまでね」

 シェプリーは差し出された書類を受取ると、事務所奥に据えてある自分のデスクへと向かう。

 ルイスは首を竦め、気難しい雇い主の機嫌を損ねることのないよう、そっと溜息をついた。

「ギリギリまで粘ったんだが、これ以上のことは無理だった」

 ルイスの言葉を聞きながら、シェプリーは手渡された書類に目を通す。そこには、ルイスが前日の夜遅くまで調べていた依頼人についての情報が、こと細かに記載されている。

 戦時中からの流れで、世間でも心霊主義というものが流行っていた。当時ほどの熱狂ぶりはないが、いまだにサロンでは降霊術が催されたり、新聞などでも話題に取り上げられたりしている。

 とはいうものの、この事務所に実際に持ち込まれる依頼は、見当違いなものや冷やかし的な内容が大半を占めていた。

 はじめのうちはひとつひとつ丁寧に対応していたシェプリーだったが、さすがに全部を相手にしている暇と体力はないことに気付いた。そこで、依頼が入ったときにはまずルイスに事前調査をしてもらい、ある程度の真贋をふるい落とすことにしたのだ。

 おかげで、カーテンや絵を見間違えただけだとか、空き巣が潜んでいただけだったとか、あるいは単なる悪戯であったとか、そういう類いのものにシェプリーが振り回されることはなくなった。その分実際に現場に出向く機会も減ったが、無駄足を踏んで消耗することも、その間に求める真実を逃す確率を減らすこともできるのだと思えば、どうということはなかった。

「行こう」

 シェプリーは立ち上がると、報告書を折り畳み、上着のポケットに突っ込んだ。

 事前調査だけではどうしても判別がつかない部分もあるが、先に知っておくべきことは概ね頭に入れた。あとは、ルイスが報告書には書ききれなかったことを、自分の目で確認するだけだ。

 ルイスもソファーから立ち上がり、ハンガーにかけてあった上着と帽子を手に取る。

「それじゃあ、悩めるハワード君と細君にご対面といきますか」

 目深に被った中折れ帽の下、楽しげな色をみせる翡翠の瞳に向かって、シェプリーは頷き返した。


 ロンドンを抜けてしまうと、あとはどこまで行っても似たような光景が続く。

 野の草をむ羊を追い散らかしながら舗装のなっていない田舎道を走ること数時間、二人はゴシック調の古い建物と近代の随を集めた工場とが密集するバーミンガムに到着した。

 ロンドンに次いでの大都市であるこの街は、多少のかげりは見えるものの、どこもかしこも忙しく立ち回る人々と機械がひしめいていた。

 工場の機械は盛んに蒸気を吐きながら轟音とともに歯車を回し続け、網の目のように町中を廻る運河では、荷を積んだボートが道路以上の混雑ぶりを披露する。しかし、住宅街の奥までがそうだというわけではない。

 ルイスが運転する車は似通った建物が並ぶメインストリートを逸れ、運河に沿って立ち並ぶ古い建物の前で停車した。

 ここの住人の多くは、近くに建つ工場で働く労働者たちだった。朝の早い勤勉な彼らの部屋は、もうほとんどが藻抜けの空となっている。残っているのは、今回の依頼人と、働きに出ることのない高齢者だけであろう。

 ルイスは部屋の呼び鈴を鳴らす前に、緩んでいたネクタイを締め直した。さすがの彼も、こういう場合の礼儀はわきまえている――その黒ずくめの姿が葬儀屋のように不吉なものに見えるというのは別にしても。

 シェプリーはルイスの後で周囲の様子を窺った。

 一帯は、住人のほとんどが工場へと出ているせいか、ロンドンと比べなくとも閑散とした空気に包まれていた。もっとも、それはこの時間帯に限っての話だろう。夕方にもなれば仕事を終えた住人が戻り、表通りのパブなどは市場以上の賑わいをみせるに違いない。

 二階に住むという依頼人の部屋の呼び鈴をルイスが押すと、ほどなくして、扉の向こうから赤毛の青年が顔をのぞかせた。

 ハワード・ウェスト――今回の依頼人である。

「心霊事象調査事務所のケアリーです。ご依頼の件でお伺いしました」

「よく来てくれました。どうぞ上がってください。妻も喜びます」

 訪問することは前日に伝えてあったため、朝からずっと待ちわびていたのだろう。ハワードは挨拶もそこそこに、二人を中へと招き入れた。

「こちらです」

 ハワードに続いて階段を昇り、その先にある扉をくぐる。通された応接間では、顔色のすぐれない若い女性と、その側に控えるように佇む老婦人とが待っていた。

「ようこそ。お待ちしておりました」

 ルイスとシェプリーを認めて会釈をする彼女たちに、二人も会釈を返す。その背後、建物の裏に面した窓からは、共同の中庭を見下ろすことができた。

 シェプリーは婦人たちの脇を抜け、開け放された窓の側へと歩み寄った。窓の下を覗けば、よく手入れ花壇と植え込みが目に入る。そこでは、ちょうど季節を迎えた花々が咲き乱れていた。

 花壇の脇には小さなベンチとテーブルが置かれ、ここがこの一帯の住人にとっての憩いの場であることが容易に知れた。

 老婦人が夫人の側から離れ、シェプリーの隣に立つ。

「良い眺めですね」

 小さいながらも明るい光の差し込む庭を前に、シェプリーが言うと、

「そうでしょう? 特に今時分は、あの植え込みの薔薇が一番綺麗なのよ」

 彼女は誇らしげに胸を逸らせて微笑んだ。

「僕もメアリーも、これが気に入ったから、この部屋を選んだんですよ。それなのに、こんなことになるなんて」

 メアリーと呼ばれた夫人は椅子から立ち、悔しげに自分の爪先へと視線を落とすハワードを気遣い、そっと寄り添った。

「それで、何かおわかりになりまして?」

 ハワードの幼馴染みだという彼女は、少し疲れたような表情で訪問客にたずねた。

「ええ、まぁ。大体のことは」

 ルイスはそう答えながら、窓際に立つシェプリーの様子を盗み見る。

「ただ、一つ、気になることがありまして」

「と、言いますと?」

「実は、それを確認するために、今日はこちらへ伺った次第です」

 ルイスの言葉に、ハワードとメアリーは不安げな表情で違いの顔を見合わせた。


 赤毛のハワード・ウェストが深刻な表情で事務所を訪れたのは、一週間前の晩だった。

 乱雑に切り抜いた――というよりも、手で急いで千切り取ったと形容したほうが正しいかもしれない――新聞広告を握りしめた彼は、事務所に入るなり、自分の住む部屋に幽霊があらわれるのだと打ち明けた。

「幽霊?」

「そうです」

 ハワードは荒い息をつきながら答えた。

「本当にそれが幽霊だという証拠は?」

 グラスに入った酒に口をつけながら疑わしげな視線を寄越すルイスに、ハワードはあからさまに気分を害したようだった。

「知りませんよ。それを調べるのが、あなたたちの仕事でしょう?」

 そう言って、彼はぐしゃぐしゃに潰れた広告を広げ直し、ルイスの鼻先に突き出してみせた。刷り上がったばかりのそれはインクが擦れて何ケ所か滲んでしまっていたが、紛れもなくこの事務所の広告だった。数日前に新聞社に申し込んでおいたのが、ようやく掲載されたらしい。

「ごもっとも」

 ルイスは読みかけの雑誌と酒のグラスとを側のテーブルに置き、身を横たえていた長椅子に座り直した。

 広告が掲載された日に連絡もなしに飛び込んでくるような客は、本気で困っているかよほどの閑人かのどちらかだ。先月などは、冷やかし目的の客人ばかりでシェプリーまでもが辟易としたのだから。

 それ故に、ルイスは今回もまた冷やかし客だろうと踏んでいたのだが、どうやら今度ばかりは違ったようだった。

 そろそろ夕飯時を迎えようという時間に唐突にあらわれたハワードは、帽子も脱ぐことも忘れ、狭い事務所の中を落ち着かない様子で歩き回った。

「とにかく、妻がすっかり怯えてしまって、困っているんです。最近は身体の具合もあまり良くないのに、夜も眠れないようで」

 そう言うと、ハワードは辛そうな表情で唇を噛んだ。

 仕事の都合でバーミンガムからロンドンへとやって来たこの日、ハワードは折角の打ち合わせもほとんど上の空で過ごしてしまっていた。工場に新しい機械部品を入れなければならないのに、少しやつれた顔の妻の様子が頭から離れなかったのだ。

 思わしくない交渉結果に失望し、諦めて出直そうとしたハワードは、駅の売店に並ぶ夕刊にふと目を止めた。せめて妻にロンドンでの面白い土産話でも仕入れられればと考えた彼は夕刊を買い、そして、この事務所の広告を見つけたのだった。

 シェプリーは自分の定位置であるデスクに座ったまま、この訪問客をじっと観察していた。そして、次ぎにルイスへとその視線を向ける。

 その気配を感じたのか、ルイスがシェプリーを振り返った。目が合った瞬間、彼は露骨に嫌そうな顔をしたが、しかしシェプリーはあえてそれを無視し、項垂れるハワードに向かって言った。

「わかりました。調べてみましょう」

「本当ですか!」

 まさかこんな早くに返答がもらえるとは思っていなかったらしい。ハワードは信じられないといった表情でシェプリーを見た。

「ここに、あなたの名前と連絡先を書いてください。あとは、こちらで何とかしますから、今夜は御自宅へ戻って、奥さんを安心させてあげてください」

「ありがとうございます。あ、でも……」

 差し出された紙とペンを受取ろうとしたハワードは、そこではたとあることに気付き、動きを止めた。新聞の広告を見付けた時、ずっと頭を悩ませていた問題がこれで解決するかもしれないと喜び勇むあまり、費用がいくらかかるかについて全く考えていなかったのだ。

 しかし、それくらいのことはシェプリーにもお見通しだった。

「報酬の件でしたら、あなたの仰る幽霊が本物かどうか、見極めてからで結構ですよ。ご心配なく。誓って、法外な値段をふっかけたりはしませんから」

 シェプリーの言葉にハワードは胸をなで下ろし、そしてルイスは諦めの溜息をついたのだった。


「それで、確認したいと仰るものは?」

 ハワードは目の前に立つルイスと、背後の窓から外を眺めたきり動かないシェプリーとを交互に見比べながら、恐る恐るたずねた。

 ロンドンの事務所に飛び込んだとき、ハワードは密かに、自分は早まったことをしたのではないかと後悔していた。

 だらしない身なりをした男はまだ夕方になったばかりだというのにすでに酒を煽っているし、もうひとりは吹けば飛んでしまいそうなひ弱そうな印象の青年だったからだ。他に頼るあてもなかったため依頼を出すには出したが、正直なところ、ハワードはそれほど期待してはいなかった。

 何しろ、以前にその筋の権威が集う〈SPR《心霊現象研究協会》〉に相談したのだが、解決どころか原因について何ひとつとしてわからないままに終っていたのだから。

 しかもその後、どこから聞きつけたのか、霊媒だの何だのというわけのわからない連中が入れ代わり立ち代わり訪れるようになってしまった。

 幽霊だけでなく、胡散臭い輩にまで生活を怯やかされることになり、妻メアリーはすっかり神経を参らせてしまった。自身も苛立ちのために仕事のミスをするようになり、暫く休んだ方がよいのではないかと工場長に心配される始末。一年前にこの部屋に入居したときには、全く想像もしなかった事態だ。

 しかし今、ハワードの依頼に応じてあらわれた二人は、協会からやってきた型通りの学者面をした調査員や、大挙してやってきた自称霊媒たちとは何かが違った。

 メアリーに身ぶりで椅子にかけるように促され、ハワードとルイスはそれぞれの席に腰を下ろした。メアリーは一旦奥へと下がると、すぐに温めた茶器と熱い湯で煎れた紅茶のポットとをトレイに乗せて戻ってきた。

 それを横目に、ルイスがハワードにたずねた。

「まず、ご主人が仰る幽霊について質問をしたいのですが」

「ああ、いえ、それが……」

 翡翠の瞳に真正面から見つめられ、ハワードはわずかにたじろいだ。

「実は、僕は見ていないんです」

「では、奥さんが?」

「はい」

「そのときの状況を話していただけますか」

「はい……」

 ハワードが心配そうにメアリーの横顔を見つめる。メアリーは手にしていたポットをトレイの上に奥と、ハワードの隣に座った。そうして、少し躊躇いながらも自分の記憶を辿り、訥々と話しはじめた。

「最初は足音だけだったんです。誰かが室内を歩き回っているような音がして」

「それは夜? 昼?」ルイスが質問を挟む。

「お昼です。午後の……そう、ちょうど今頃の時間帯に。はじめの内は上の部屋に住む人のものだと思っていましたから、怖くはなかったんです。でもよく考えたら、この時間には皆働きに出ていってしまいますし、それに、よく聞くと、上からの音じゃなかったんです」

「この部屋の?」

「はい。日によって場所は違いますけど、この部屋だったり、隣のキッチンだったり……」

「僕は、もしかしたら泥棒かもしれないって言ったんですけど、彼女は絶対に違う、と」

ルイスは片手を軽くあげて、そのまま喋り続けようとするハワードを制すと、目撃者本人であるメアリーに続きを促した。

「はじめは、と仰いましたが、その次は? 何か変化があったわけですね?」

「ええ、暫くの間は足音だけでした。でも、この間は」

 メアリーは口を噤むと、自分で自分の肩を抱き俯いた。

「足音のぬしの姿でも見ましたか?」

 その時の光景を思い出したのだろう、ルイスの言葉にメアリーはきつく目を閉じて震えた。

 寝苦しさを感じて夜中にふと目を醒ますと、見知らぬ人物がベッドの脇に立り、彼女の顔を覗きこんでいたのだという。

「それこそ本当に泥棒だった、というわけではないんですね?」

「はい。私が悲鳴をあげて飛び起きると、その人は消えてしまいましたから」

「彼女の悲鳴で、僕まで心臓が止まるかと思いましたよ」

 恐怖の瞬間を思い出して怯える妻を労るように、ハワードはその肩を抱き寄せた。

「なるほど」

 相槌をうちながらも、ルイスはメアリーの言う幽霊の正体に見当がついていた。

 たった一週間で急いで調査したとはいえ、泥棒や不審者の可能性はなかった。この若い夫妻に遺恨があるような人物も特に見当たらなかったし、それどころか、工場主も従業員も口を揃えて彼の優秀さと勤勉さを賞讃したほどだったから。

 隣人との確執もなく、前にこの部屋を借りていた人物と大家についても問題はない。この部屋を買った時に借金はしているが、それも正当な手続きを踏んで銀行から融資を受けた綺麗な金だ。

 となれば、要因は二つに絞られる。

 ルイスが確認したかったのはそのうちの一つ、目撃者の正気と冷静さである。

 が、これについては問題なかった。この腺の細い儚げな印象をもつ夫人は、外見とは裏腹にしっかりとした自己を持ち、状況に応じて適格な判断を下せる頭脳を持っていた。むしろ、依頼を持ってきた主人の方が柔軟性と客観性に欠けており、激しく動揺している。

 メアリーには問題ないとすれば、残る一つが元凶と考えて間違いない。

 しかし、残念ながらそれはルイスの手に負えない領域にあった。大体の見当はついていたし、実際に何となく感じてはいたけれど、確信を持って告げられるはシェプリーにしか出来ないことなのだ。

「お身体の具合が悪いとのことですが、医者には?」

 突然、それまで会話にも加わらずに外を眺めていただけのシェプリーが口を開いた。

 すっかり存在を忘れていたハワードはもちろん、メアリーまでもが一瞬驚いたように身を竦ませた。

「とっくに診てもらいましたよ」ハワードが答える。「でも、神経症のせいだとか、軽い貧血だから心配ないって言うだけで」

「では、もう一度別の医者にかかることをお勧めします」

シェプリーは振り返りながら、淡々と告げた。

「それは、一体、どういう……」

 もしや何か悪い病気にかかっているのではないか――唐突な忠告に、ハワードとメアリーの顔に不安の影がさす。が、それは続くシェプリーの言葉によって、綺麗さっぱり吹き飛んだ。

「折角授かった命なんですから、大切にしないと」

 ハワードは何を言われたのかまったく理解できず、硬直した。ルイスもまた、シェプリーの唐突な行動に唖然としている。

「ごめんなさい、あなた。本当は、もっと早くに言おうと思っていたんだけど……」

シェプリーの言葉の意味を理解したのはメアリーだけだった。彼女はそれまで青白かった頬を朱に染めながら、ハワードの手を取り、握りしめた。

「……本当に?」

 ようやく意味がのみこめたハワードが、ぎこちない動きで妻の顔をのぞきこむ。

「気付いたのは、ついこの間なの。でも、あなたはお仕事が忙しそうだったし、それに、余計に心配させてしまったらと思って……」

「何てこった!」

 まさかこんな時に吉報を受取ることになろうとは――ハワードは震える手でポケットからハンカチを取り出し、嬉しいのと恥ずかしいのとで真っ赤になった顔を拭った。

 二人が結婚をして数年、それまで全く徴候がなかっただけに、この報せが本当であればこれ以上に嬉しいことはなかった。

 だが、何故彼はそのことを知り得たのだろう?

 医者の診断もまだだし、メアリーも誰にも打ち明けなかったというのに?

 ハワードとメアリーがその疑問を口に出すまでもなかった。興奮する彼らとは正反対に、妙に冷めた表情をしたシェプリーは、自分の爪先に視線を落とし、言った。

「僕も、ついさっきまでは知りませんでしたよ。彼女が教えてくれるまではね」

?」

 怪訝な視線に答えるべく、シェプリーは軽く左手を挙げた。

「こちらにいらっしゃるご婦人です」

 しかし、シェプリーの手が示すその場所には誰も居ない――否、そうではない。ハワードとメアリーの目には映らないだけだ。

「彼女の名前はイヴリン・レイノルズ。あなたがたがこの部屋に住むよりもずっと昔から、ここに住んでいました」

 朝方ルイスに渡され、ここへ来る道中でも読み直した報告書の内容を反芻しながら、シェプリーは幽霊の正体を語る。

「彼女は五十年ほど前にこの部屋に住んでいました。老衰か何かで、寝ている間に亡くなったようです」

「つまり、気付いたら死んでいたと?」

「まぁ、早い話がそういうことです」

 交わされる会話に、老婦人が口に手を添えて苦笑した。その動きにつられ、彼女の輪郭は陽炎のように揺らめく。もっとも、その様子が見えているのはシェプリーただ一人だけだったのだが。

「おそらく、苦しむこともなかったと思いますよ。普通はそのまま消えるものなんですが、何か理由があって、今も魂がこの部屋に住み続けているんです」

「そんな! 大家も不動産屋も、お隣だってそんなことは一言も――」

「短期間のうちに何度か建物の権利が移動していて、その間に記録が紛失してしまったんでしょう。別に貴方たちに隠し事をしていたわけではありません」

 今にも訴えてやると言い出しそうなハワードに、横からルイスが口を挟む。

 墓地と役所と病院とを廻り、古い記録を探したのはルイスだった。彼はこの一週間、それらの記録とこの住所とを片っ端から照らし合わせ、該当するような人物がいるかどうかを調べあげたのだ。

 そしてシェプリーは、ルイスがした事前調査以上の内容を、幽霊である当の本人から聞き得ていた。

 シェプリーには視えていた。穏やかな微笑みを浮かべながらこの若い夫婦を見守る老婦人の姿が。

 この部屋に入ってすぐ窓の側に立ったのは、イヴリンが招いていたからだった。ルイスがハワードとメアリーへの質問している間に口を差し挟まなかったのは、声なき彼女の声に耳を傾けていたからだった。

 シェプリーの捉えどころのない碧眼は、ただぼんやりと庭を観ているのではなかった。正確には、すでにこの部屋に入った瞬間から、を視ていたのだ。

 シェプリーの意識の中で、日は遡る。春から冬へ、秋から夏へ。過ぎ去った遠い記憶。変わらぬ景色がとどめる多くの記憶から、イヴリンは常にシェプリーに語り続けていた。己が見つめ続けた月日のうつろいだけでなく、若い夫婦に訪れた幸運の兆しをも。

「じゃぁ、それじゃぁ……でも……」

 ハワードがハンカチで顔を拭いながら、ぶつぶつと呟く。今起こっている出来事を理解したいのだが、すっかり狼狽してしまい、頭が働かないのだ。そんな夫に代わり、メアリーが口を開いた。

「あの……ひとつ、おたずねしたいんですけど」

「何でしょうか」

「その方、今までずっとここに住んでいらしたんですよね? でも、そんなに長い間誰も気付かなかったのに、どうして今頃になって私の前に顕われたんですか? 何かメッセージでもあるんでしょうか?」

 霊がいるというのは、ここへ押しかけて来た胡散臭い霊媒たちも言っていたことだった。だが、いくら彼らが降霊術やテーブルタッピングなどを披露しても、霊からのメッセージはありきたりで支離滅裂で、どれも信用に値するものではなかった。

 ハワードは教養ある唯物論者であり、無神論者ほど過激ではなかったが、霊の存在など欠片も信じていなかった。メアリーもまた信仰はあれど、霊の存在にはあまり興味はなかった。だから自分達が遭遇している事態が理解できずに苦しんでいた。おまけに二人とも先だっての騒動のおかげで、霊媒という人間にすっかり不審感を抱いていた。ハワードがシェプリーとルイスの元に駆け込んだのも、事務所の名前が単なる辻占いや先見などというインチキまみれのものとは違い、理知的な印象をもつ名称だったからである。けれど、実際はどうだ。

 不信感が二人の顔にあらわれる。しかし、そんな彼らにも、ひとつだけ腑に落ちないことがあった。

 メアリーが一人心に秘めていた秘密を、シェプリーが暴いてみせたことだ。他人である探偵はもちろん、夫であるハワードすら知り得なかったことを、彼は一体どうやって探ったのだろう?

「証拠――そう、証拠だ」

 メアリーのおかげで幾らか冷静さを取り戻したハワードが、窓の側で静かに自分達を見つめるシェプリーに向かって言った。

「そのご婦人が本当に幽霊としてこの場にいるのなら、その証拠を見せてください。今すぐに」

 警戒心を露にしはじめた依頼主たちに気付かれないよう、ルイスは小さな溜息をつく。そして、彼からの同情と憐れみの視線を受け、シェプリーがぽつりと呟くように言った。

「わかりました」

 それは、一週間前に事務所で依頼を引き受けたときと比べると、些か硬い口調だった。

 その胸の内を知るルイスは目を閉じ、軽くかぶりを振るしかない。依頼人の考えもシェプリーの気持ちも理解できるだけに、自分がどっちの味方にもなれないのを充分知っているからだ。

「わかりました」もう一度、シェプリーは言った。「そう仰るのでしたら、お見せしましょう」

 シェプリーが左手をあげ、先と同じ仕種で老婦人の幽霊がいるという場所を示した。

 ――刹那、ハワードとメアリーは揃って、今度こそ本当に椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。

 何もなかったはずの場所に、一人の老婦人が顕われたからだ。

 窓から差し込む陽光が描き分ける明暗――その境目に佇む老婦人は、微笑みを浮かべ、陽炎のようなゆらめきをまとっていた。

 不思議なことに、ハワードたちがいくら目を凝らして彼女の細部を見ようとしても、何故か焦点はぼやけ、長く見つめることは出来なかった。なのに彼らの脳は、それが年老いた婦人であるとはっきり認識していた。

 突然、ハワードが立ち上がり、老婦人の側へと歩み寄る。

「あなた!」

 メアリーが小さく叫ぶ。降霊術の最中には霊にも霊媒にも触れてはいけない――それが世間で一般的に言われている禁忌だからだ。

 しかしシェプリーはおろか、ルイスでさえこれを止める素振りは見せなかった。それどころか、むしろ心行くまで確認しろと言わんばかりの視線を寄越す。

 息を詰めて見守るメアリーの前で、ハワードはおそるおそる老婦人に向かって手を伸ばした。老婦人も微笑みながら、その手を握り返す。

 その不思議な感触に、ハワードは驚きの声をあげた。イヴリンの手は、暖かな蒸気の中に手を差し入れたときの感触に似ていたからだ。

 次にハワードは、シェプリーの立つ窓際を隅から隅までくまなく調べた。機械工であるハワードは、写真機や映写機に凝っていた。自分達が話をしている後ろで、シェプリーが何かそういった細工をこの窓の周辺に施したのではないかと考えたのだ。

 しかし、ハワードの思うような仕掛けはどこにも見当たらず、またあったとしても、一体どういう原理を使えばこのような幻を写し出せるのかまではわからなかった。

「そんな……いや、しかし……」

 まだ信じられないといった態で、ハワードは呟く。けれど、窓から入り込む風で翻るカーテンの裾が彼女の体を通り抜けるのを見てしまっては、もはや認めるしかなかった。

 依頼主が時間をかけながらもようやく納得したのを見て、シェプリーは口を開いた。

「幽霊というのは、ほとんどの場合、何かの拍子でこの世界とは別次元の時間枠に取り残された人の意識体を指しています。今あなたがたにお見せしているのは、そうやってこの場に留まっていた彼女の意識を、まず僕が受け取って、それからあなたがたにも見えるように投影したものです」

「一体どうやって?」

「それは僕にもよくわかりません」シェプリーは苦笑を返す。「でも、これが事実です」

 シェプリーには幼い頃から数々の特異な力が備わっていたが、何故自分にそんな芸当ができるのかわからなかった。

 が、今ここでそれを説明したところで、ハワードたちが理解してくれるとは到底思えないし、依頼された件とも関係ない。

 シェプリーはまだ半ば呆然としているハワードをそのままにして、心配そうな表情で身を固くしているメアリーに向かって言った。

「それはそうと、奥さんは、彼女の顔に見覚えがあるのではないですか?」

 問われ、メアリーは一瞬恐ろしいものをみるような目つきでシェプリーを見た。だが彼女はすぐに視線を外し、隣に立つ幽霊だという老婦人を凝視する。

「覚えておいでのはずですよ。だって、彼女は」

「あ――」

 シェプリーに皆までいわれずとも、メアリーは思い出していた。

 寝苦しい夜、ベッド脇で自分の顔を覗き込んでいた人物だ。はっきりと覚えているわけではないし、今もその顔をしっかりと見ることはできないけれど、メアリーの脳は確かにそれらが同一人物であると認識する。

「お話がしたければ彼女に話しかけてみてください。彼女は声を出すことはできませんが、身ぶりであなたたちに知らせることはできます」

 言って、シェプリーは窓から離れ、複雑な表情で事の成りゆきをじっと見守るルイスの側へと戻った。

 メアリーはこの不思議な先住者と、陸揚げされた魚のように口を開閉させるハワードとを見比べていたが、思いきって幽霊本人に直接たずねることにした。

「何故あなたは天国へ行かないのですか? どうしてまだこの部屋に?」

 目の前の老婦人は、視点を合わせようとすればするほどぼやけた姿となり、どうにも捉え所のない不思議な存在だった。

 それでもメアリーには彼女が穏やかな微笑みを浮かべ、じっと自分たちを見詰めていることがわかった。

「何か心残りでも?」

 メアリーの問いかけに、彼女は――かつてイヴリン・レイノルズとしてここで暮らしていた老婦人は、微笑みを浮かべたままゆっくりと首を振った。

 メアリーは困惑した顔でシェプリーと、そしてじっと成りゆきを見守っているルイスとを振り返る。

「ここにいるのはイヴリン・レイノルズという人の意識だけです。未練や恨みがあってさまよっているというわけではありません」

 シェプリーはそう言って、冷めてしまった茶に口をつけた。

 一言で魂とは言えど、実際には幾つかの要素で構成されている。その代表的なものが、精神を司るアストラル体と、魂そのものの核であるエーテル体の二つである。

 死によって肉体から魂が離れる際、あるいは死が近くなった頃から、エーテル体は徐々に崩壊しはじめ、最終的には消滅する。エーテル体に附随するアストラル体もまた、本来なら共に消える運命なのだが、何かの拍子で消えずに残ってしまう現象がよく起こった。

 イヴリンの場合も同じく、彼女は寝ている時に穏やかな死を迎えたのが原因だった。肉体とエーテルは消滅しても、意識体アストラルだけはこの世に残ったのだ。

 とはいえ、所詮核のない精神体のみの不安定な存在でしかない。己に蓄積された記憶をなぞり、生前の生活の真似事をするのが精一杯――それは、言うなれば、映画のフィルムを繰返して上映するようなものだった。

 だから橋や崖の上では同じ人物が飛び下りるさまが何度も目撃され、教会では昔の修行僧が日々のおつとめを果たし、劇場では滅多に見られないような豪華な衣装の貴人があらわれる。彼らはそれぞれに制止した時空の中で、永遠に生きているつもりなのだ。

 繰り返されるだけの精神の記録――だが、そんな彼らの閉じた世界を覗くことのできる存在がいれば――霊媒、あるいはそれに近い力をもつ者と接触することができれば、事態は変化する。

「メアリーさん」

 シェプリーに名を呼ばれ、メアリーがわずかに体を強張らせた。

「ご自身に自覚はないかもしれませんけど、あなたには少し、そういった力があるようですね。もしくは、あなたの内に宿ったお子さんの影響かもしれません。子を宿すということは、一つの肉体に二つの魂が入るわけですから、その辺りの均衡バランスの崩れが切っ掛けになって、一時的に普通の人よりも敏感になったのでしょう」

 だからこそ、メアリーは室内の微かな気配に気付いたのだ。

 だからこそ、イヴリンも己の置かれた境遇を知ることができたのだ。

 説明を続けるシェプリーへと向ける視線は不安に満ちていたが、しかし彼女は臆したような素振りは見せなかった。

「それじゃあ、夜中に私を見ていたのは」

「そのときあなたの具合があまり良くなさそうだったから、心配で見ていただけですよ」

 シェプリーの苦笑に、メアリーもつられて笑った。理由がわかってしまえば、もう何も怖くはなかった。

「ちょっと待ってくださいよ」

 ひとりまだ納得しかねている様子のハワードが口を挟んだ。

「それじゃぁ、僕らはこのまま幽霊と一緒に共同生活をしなくちゃならないってことですか? 冗談じゃない!」

「幽霊に家賃を催促するわけにもいきませんしね」

「そうです。いや、そうじゃなくて」

 ルイスの揶揄に、ハワードが慌ててかぶりを振った。

 世間には幽霊付きの物件と聞けば喜んで購入する物好きもいるが、生憎とハワードはそういう趣味を持ち合わせてはいなかった。

 彼はただ、この神秘的ではあるが不可解で不可思議な現象を、一刻も早く取り除いて、以前のような普通の生活を送りたいだけだった。

 第一、子供も生まれるというのなら、尚更健全な環境を取り戻さなければならない。それが一家の主人あるじとしての義務なのだから。

「ご心配なく」

 シェプリーはソファに深く身を預け、言った。

「奥さんの力もおそらくは一時的なものですし、イヴリンの方も、彼女自身の気掛かりを解消してあげれば、居なくなりますよ……多分」

 最後の一言は隣に座るルイスにしか聞こえていなかったが、ハワードとメアリーは新たな生じた不安にそれぞれ表情を曇らせた。

「気掛かりなこと?」

「でも、さっきは心残りはないって」

 そのとき、それまでじっと立っているだけだったイヴリンが動いた。困惑するメアリーに向かって、微笑みながら手招きをしたのだ。

 メアリーは、幽霊のまさにその側に立つハワードと互いに顔を見合わせたが、今度は躊躇しなかった。確かな足取りで窓辺へと歩み寄り、イヴリンを見る。

 イヴリンは無言のまま、中庭の一画を指をさした。

 窓から身を乗り出すメアリーと、彼女を後ろから支えるように立つハワードが、同時に呟いた。

「薔薇?」

 イヴリンの指差す先にあったのは、中庭を囲うように伸びる白い蔓薔薇だった。

「あの薔薇がどうしかして?」

 メアリーがたずねるが、しかしイヴリンは、困ったような、そして心配そうな様子で佇むだけだ。

 その時、不安を示すかのように微かに揺らめく老婦人と、中庭に咲く小さな薔薇とを交互に見つめていたハワードが「そういえば」と口を開いた。

「最近、あの薔薇が元気がないって、ピムズさんが言っていたな」

「ピムズさん?」

「一階に住んでいる爺さんだ」

 首を傾げるシェプリーに、ルイスが耳打ちする。ハワードは室内を振り返り、ルイスの説明に付け足す。

「誰かが頼んだわけじゃないんですけど、この庭の手入れをしてくれる方です。でも、少し前に風邪をこじらせてから、あまり外に出られなくなってしまって」

「なるほど、手入れが行き届かなくなったと……そういうことか」

 腕を組み、ルイスが頷く。ハワードとメアリーも、ようやく解決の足掛かりになりそうなものを見つけられたことに安堵した。

 しかし、彼等は続くシェプリーの言葉に、揃って声をあげた。

「それと、もうひとつ、大きな理由があります」

「え?」

「あの薔薇は、彼女が夫から贈られたものです。そしてあの薔薇こそが、今の彼女の魂とよべる記憶を残した媒体――依代よりしろなんです」

 ときに、人の想いは物質に宿ることがある。強い執着があればあるほど、その可能性も高くなる。

 それゆえに、夫から贈られた薔薇とその記憶とを大切に生きた彼女は、死んでもその想いと共にこの場に留まることになったのだ。

「薔薇をあなた方に託せるのなら、彼女の憂い事はなくなるでしょうね」

「……ということは、つまり?」

 まだいまいち理解しきれていないという顔のハワードが、シェプリーに聞き返す。

「安心してあの世に行けるということです」

「僕達がもしそれを承諾できなければ?」

「別にどうもなりません。彼女の憂いは残るかもしれませんが、そのことで彼女があなたがたを恨むことはないと思います」

 薔薇がなくなれば、彼女自身も消えてしまうのだから。

 幽霊の頼みをきこうが、薔薇を放置して枯らしてしまおうが、いっそのこと根こそぎ引き抜いて処分してしまおうが、それは彼等の自由である。ただしそうした場合、彼等自身が後悔の念に悩まされるであろうし、それがまた新たな悩みを産む可能性もあるのだが。

「ねぇ、あなた」

 メアリーがハワードの袖を引く。ハワードは妻の表情を見、溜息と共に苦笑を漏らした。

「君の判断に任せるよ」

 メアリーは顔をぱっと輝かせると、すぐ側でことの成りゆきをじっと見守っているイヴリンに向き直った。

「私の父の知り合いで、腕のいい庭師さんがいるの。一度、その人に相談してみるわ。そうしたら、きっとあの薔薇も元気を取り戻してくれると思うの。私達も、できる限りのことはします。それでいいかしら?」

 精一杯の気持ちをイヴリンに示す妻の姿に、いつしかハワードも真剣な表情を取り戻す。やがてイヴリンは――イヴリン・レイノルズとしてかつてこの場に生きていた女性は、彼等に微笑みながら頷き返し、そして、シェプリーとルイスにもその微笑みを向けた。

「あ――」

 ハワードが声をあげる。霧のような不確かな媒体に身を委ねていたイヴリンの姿が、徐々に消えつつあったからだ。そして、室内に飛び込んだ風が、彼女の姿を一気にかき消す。

 居合わた者たちの鼻先を順番に掠めたそれには、薔薇の香りが混じっていた。


「やっぱり男よりも女の方が度胸があるな」

「そうだね」

 帰路の車中でルイスがふと漏らした感想に、シェプリーも同意の返事をした。

 初めて目の当りにしたであろう本物の幽霊を前に、少しももの怖じしなかったメアリーと、対照的にすっかり動揺して頼りにならなかったハワードとの対比を思い出し、二人は苦笑する。

 とはいえ、あのような場面は別段珍しくもないことだった。

 男は大抵の場合、威厳と面目を保とうとする。理屈抜きに直感を信じることができず、それゆえ目の前で起こっている現象を素直に受け止められない。

 自分自身もそういった生物であることを知っているがゆえに、ルイスもシェプリーも、ハワードの腑甲斐無さをからかうことはあっても、責める気にはならなかった。

 しかし女性は違う。彼女らが持つ柔軟な思考と豊かな感性は、ときとして素晴らしく冴えた一面を見せつける。いわゆる霊的な導きがなくとも、シェプリーのような力をもつ者でさえ驚かせることがあるのだ。

 イヴリンの霊が消えた後、二人はハワードとメアリーからの質問攻めにあった。

 本当に彼女はもう出てこないのか。一時的な現象にすぎないのか、今後も似たようなものに遭遇する可能性はあるのか。将来生まれてくる子供に影響はないのか等々――興奮覚めやらぬ彼等に付き合っていたおかげで、シェプリーはすっかりくたびれてしまっていた。ただでさえ〈力〉を使うのは体力と精神力を消耗するというのに、更に忍耐力を試されるようなことにまで付き合わされたのだから。

 本音を言えば、報酬には含まれていないのだし、適当な返事を返すだけ返してすぐに引き払ってもしまっても良かったのだが、シェプリーもルイスも、彼等をあのまま放り出すようなことをしたくなかった。

 今後、あの夫婦が怪現象に悩まされることはまずないだろうが、得体の知れぬものに対する不安は、ときとして人の精神をひどくかき乱す。

 シェプリーたちがいくら大丈夫だと言っても、ハワードとメアリーが本当に納得し、安心しなければ、そこに付け入ろうとする輩の餌食となる。実際、ハワード達はすでに被害を被っている。

 自分達こそが本物の霊能者だと声高に宣言するつもりはないが、ペテン師に身を滅ぼされる者がこれ以上増えないように責任をもって対応することは、シェプリーこの仕事を続ける上で己に課した義務でもあった。

 そして質問責めから開放された頃には、陽はとっくに傾きかけていた。夏時間で昼が長い分、疲労の度合いも相当のものだ。

 行きと何ら変わることのない景色を眺めながら、シェプリーは小さく溜息をついた。

「まだ気になることでもあるのか?」

「え?」

 不意のルイスの問いかけに、シェプリーは驚いた。

「先の件? それとも別の何か?」

 ルイスは常に細かい部分によく気がついた。今朝も、事務所で顔を合わせたときからシェプリーが何かに気をとられていることを察知したのだろう。ハワードたちとの会話の間も、シェプリーの様子をつぶさに観察していたのだ。

「別に。大したことじゃ……」

 言いかけて、シェプリーは口を噤んだ。ルイスが横目で非難がましい視線を向けたからだ。水臭いと言いたいのだろう。

 シェプリーはここ暫く同じ夢を見続けていることを、ルイスに話していなかった。

 もっともそれは、夢を見始めた頃に今回の依頼が入ったからというのもある。朝から晩までバーミンガムで調査を続けるルイスに、話しかけている暇などあるはずがない。

 だが、一番の理由は別のところにあった。

 シェプリーには、まだ確信が持てなかったのだ。

 実際、ルイスにも多くの無駄足を踏ませてきた。それが打ち明けにくさの原因でもあったし、それ以前に、今は話をする気力も残っていなかった。酷使された脳が、膿んだような痛みを訴えている。

「あとで話すよ」

 そう言って瞼を閉じるシェプリーに、ルイスも溜息をひとつ返しただけだった。

 ルイスはアクセルを目一杯踏み込むと、遅い黄昏に沈む田舎道を急いだ。


 人工の光が作り出す影の中、途方に暮れたような表情で立ち尽くしている一人の女性に気付いたのはルイスだった。

 彼女が立っているのは、自分達の事務所がある建物の前だった。

「シェプリー」

 ルイスは少し離れた場所に車を停め、隣でうたた寝をしていたシェプリーを起こした。

 まだ疲れが抜けていないようなぼんやりとした表情を見せたシェプリーだったが、ルイスが示す方向に目を向け、その存在を知った。

「今日のところはお帰り願って、また後日ってことにした方がいいんじゃないか?」

 シェプリーを気遣っての意見であろうが、シェプリーは首を振った。

「話だけでも聞いてあげようよ。だって、ほら」

 二人が見つめる先で、女性は一、二歩と立去りかけ、また玄関前へと戻った。

彼女がいつからここで待っていたのかは不明だが、もう随分と長い間そんな行動を繰返しているのは間違いない。

 すっかり日も暮れてしまったというのに、普通ならば帰宅し食事も終えているであろう時間だというのに、彼女は立去ろうとしないのは、それほど深刻で重大な悩みがあるからだ。

「……了解。無理するなよ」

 諦めの溜息とともに、ルイスはアクセルを踏んだ。シェプリーだけでなくルイス自身も疲れてはいたが、それ以上に憔悴しきった様子を見せる女性の依頼を、彼が無碍に断れるはずもなかった。


「エリノア・リトルウェイです」

 二人が戻るのを待ちわびていたいた女性は、通された事務所の中でげっそりとやつれた表情を隠しもせずに名乗った。髪こそ白髪もなく丁寧に纏められてはいたが、彼女が抱える悩みは、彼女の顔を実年齢以上に老け込ませていた。

「午前中にお電話を差し上げたのですけど、どなたも出なくて」

「申し訳有りません。今日は朝早くからバーミンガムまで出ていたものですから」

「まぁ、そうでしたの」

 恐縮する素振りを見せる彼女に、シェプリーは椅子に掛けるよう促し、彼自身はいつものように自分の席に着いた。

「それより、ご用件は? 深刻なお悩みを抱えていらっしゃるようですが」

「ええ……」

 腰を下ろしたエリノアは、小脇に抱えていたハンドバッグから一枚の写真を取り出した。

「娘を探していただきたいのです」

 エリノアの言葉に、シェプリーとルイスは顔を見合わせた。

「場違いな依頼だとは存じております。でも、もうここしか頼れる所がないのです」

 二人よりも先に口を開いたエリノアは、そのやつれた顔を伏せ、膝上で小刻みに震える手に力を込めた。

 黒い服に黒い帽子、黒い手袋。喪服のような身なりの彼女は、もう一枚の紙切れを取り出し、目の前の机に広げた。新聞記事の切り抜きだった。

「幽霊屋敷?」

 脇から覗き込んだルイスが記事の見出しを読み上げ、首を傾げる。

「学校の友人達と出かけて、もう一週間になります」

「警察は何と?」

 エリノアは口を閉ざし、首を振っただけだった。

 ルイスは切り抜きを取り上げ、記事に目を通した。

 大学生数人がダートムーアにあると噂される幽霊屋敷を見に出かけ、そして失踪したという内容だった。特筆すべきはその失踪の状況で、ルイスは思わず口笛を吹いた。

「確かに、これじゃ警察ではどうしようもない」

 学生達は、夜のうちに宿のそれぞれの部屋から忽然と姿を消していた。戸締まりもしてあったはずなのに、玄関はおろか裏口も、窓からも彼らが出て行った形跡はなかったというのだ。

 当初は宿の主人が疑われたが、証拠は一切なく、警察は人騒がせな学生の悪戯だとして処理してしまったらしい。

 喜んだのは、センセーショナルな見出しをつけたがる一部のマスコミだけだった。彼らは学生達が見物に行ったとされる屋敷を好んで取り上げた。

 エリノアが持っていた切り抜きには詳しい由来は書かれていなかったが、そこには良識あるものであれば間違いなく眉をひそめ、口するのも憚るような内容が並べら立てられていた。

 ルイスは記事をシェプリーに手渡しながら、エリノアに尋ねた。

「お嬢さんは何故そこへ?」

「それが……」エリノアは目の前に立つ男から視線を逸らした。「お恥ずかしいことですが、娘は学校の友達とオカルトサークルに夢中になっておりまして……」

 なるほど、とルイスが呟くのを、シェプリーは記事を読みながら聞いていた。

 エリノアが恥じ入る気持ちはわからないでもない。

 いかに心霊主義が流行ろうとも、礼讃しているのはあくまでも少数派にすぎない。世のオカルトサークルに対する偏見の目がいかほどのものか、それはシェプリーもルイスもよくわかっている。

 こと最近の若者の反抗的で風紀の乱れ具合には、眉を顰める者も多かった。しかも、興味本位で危険だとされる場所へ出かけたのだ。自業自得だという意見もあるだろう。

「では、どうして我々のところに?」

 単なる人探しであれば、専門の探偵に依頼すればいい。だが、彼女は頼るべき場所はここしかないと言った。オカルトサークルに熱中する娘を恥じるほど真っ当な精神の持主であるエリノアが、それでもこの場へやって来たのだ。

 ルイスの問いに、エリノアは口を開くのを躊躇したが、すぐに小さくかぶりを振ると顔を上げ、言った。

「夢を見たんです」

 シェプリーは記事から目を上げた。その視線が、ルイスのものと交錯する。

「真っ暗な場所に、娘が一人で閉じ込められているようでした。私、その夢を見たあと、胸騒ぎがしたんです。娘は、何か得体のしれない事件に巻き込まれたんじゃないかって。でも……」

 警察はもちろん、幾つかの探偵社にもまともに取り合ってもらえなかった。脅迫的な内容の連絡もないのだから、そのうち戻ってくるだろう、もう少し様子を見ていたらどうかとだけ言われ、彼女は絶望のあまり数日寝込んでしまった。

「夢を見たのはいつですか?」

 シェプリーがエリノアにたずねる。

「失踪の翌日です」

「今も、まだ見ますか?」

 畳みかけるようなシェプリーの問いに、エリノアは目を瞬かせた。

 丸いレンズの向こう、不思議な色をたたえた瞳で自分を見つめるシェプリーに、エリノアに動揺したが、怯みはしなかった。

「はい」

 エリノアの青灰色の瞳に、みるみる涙がたまる。

「わかりました」シェプリーは頷いた。「依頼をお引き請けします」


「いいのか?」

 去ってゆく依頼人の後ろ姿を窓越しに見送りながら、ルイスはタイプライターのキィを叩き続けるシェプリーに聞いた。

「僕には彼女が嘘を言っているようには見えなかったけど」

「そうじゃなくて」

 眉間に皺を寄せて振り替えるルイスに、シェプリーは「わかってるよ」と答え、ルイスの言葉を遮った。

「慈善じゃ飯は食えないって言いたいんだろう?」

 そうして、打ち終えた書類をタイプライターから引き抜き、ファイルに閉じる。

 このような事務所を構えていたところで、そう毎回仕事が飛び込んでくるわけではない。

 この事務所は、二人が寝泊まりしている部屋も含めて、一つの建物ごとシェプリーの父親が買い取ったものだった。頑なに師の生存を信じてその行方を探し続けようとする息子の頑固さに折れて、仕方なく用意したものだ。

 それ故に金銭的な心配はほとんどなかったのだが、しかしルイスは事務所の運営方法に対して文句を言いたかったわけではなかった。

「解決の見込みは?」

「さぁ?」

 ますます眉間の皺を深くするルイスに、シェプリーは言った。

「夢を見たんだ」

「何?」

 急に会話の方向を変えられ、ルイスは不満を口にする機会を失った。

「もちろん、同じ夢じゃない。僕が見たのは、僕自身の問題だ」

 シェプリーは椅子の背もたれに深く身を預け、目を閉じる。

「同じ内容の夢を、もう一週間は見ている。どういうメッセージなのかはわからない。でも、夢が僕に何かを告げようとしているような、そんな気がするんだ」

 そうして、ルイスに語る。決して消えることのない過去の記憶、彼自身がここに居ることの切っ掛けになった事件、その光景を執拗に再現する夢のことを。

「今日ずっと気にしていたのは、それか?」

 ルイスはシェプリーの前に立った。不服そうな表情で腕を組み、自分よりも若い雇い主の顔を睨む。

「何故もっと早く俺に言わなかった」

「……ごめん」

 ルイスに真っ向から睨まれ、シェプリーは俯いた。けれど。

「いい、わかった。わかったから、そんな顔するな」

 ルイスが先に溜息をつく。彼が何かを諦めたときによくする、長い溜息だった。

 ルイスにはシェプリーの夢とエリノアの依頼との間に、どのような接点があるのかはわからなかった。しかし、そこに疑念を差し挟み、調査を拒む権利はない。

 それに、シェプリーの顔を見れば、彼の決意のほどが知れる。

 シェプリーは見かけによらず頑固な一面を持っていた。どのような困難が待ち構えていようとも、一旦こうと決めたら梃子でも動かないのだ。

 ならば、ここで無駄な押し問答を続けているよるも、さっさと調査に着手した方がいいに決まっている。

「やれやれ、やっとロンドンに戻れたと思ったのに、またド田舎に出張かよ」

 乱雑に頭を掻き、ルイスはシェプリーに背を向けた。その背を、シェプリーが呼び止める。

「ルイス、待って。今回は僕が行く」

「何だって?」

 予想もしていなかったシェプリーの発言に、ルイスは驚き、頓狂な声をあげてしまった。

 扉に手をかけていたルイスは、慌ててシェプリーの前に引き返した。

 先の秘密を打ち明けたときよりも険しい表情を見せるルイスに、シェプリーはそれでも怯まずに言った。

「幽霊屋敷を直接見てみたいんだ」

「ちょっと待て」

「ルイスはまずここで、学生たちのサークルや、屋敷に関する報道記事を集めてくれないか」

「シェプリー」

「急いだ方がいいと思うんだ」

「待てと言っている!」

 ルイスが両の掌を机に叩きつけた。振動で、傍らに積み上げられていたファイルが傾き、崩れる。

「急がなくちゃならんのは俺にもわかる。だが、無茶を言うな。向こうでは何が起こっているのかわからんのだぞ?」

「だからこそ行くんじゃないか」

 シェプリーは崩れたファイルを手に取り、もう一度積み上げた。

 ルイスが何故こうも自分の行動を制限しようとするのか、シェプリーにはわかっていた。それは、シェプリーがこの事務所を開くときに父親と交わした条件に含まれている項目だからだ。

 ルイスはシェプリーとの契約とは別に、シェプリーの父親とも契約をしていた。表立っての援助はしないが、しかし危険な目に合わせたくはないという、せめてもの親心とでもいいたいのだろう。だがそれは、どこまで本音なのかは窺いようのない部分だ。なにしろ、子供の頃からまともに相手をされたことのない相手なのだから。

 そういった事情を差し引いても、やはりシェプリーは引き下がるつもりはなかった。

「警察が調べることは調べたのに、それでもわからなかったんだろう? だったら、僕が直接見に行った方が早い」

「しかし……」

 決意の固い眼差しに、ルイスの方が怯む。

 シェプリーもルイスも、警察の捜査能力が劣ったものだとは思っていない。だが、警察や並の人間ではわからないこともある。そして、そこを探ることができるのは、シェプリーのような特殊な能力を持つ者だけなのだ。

 〈夢見リーディング〉――深層無意識に働きかけることで現実の壁を飛び越え、不可視だったものを文字通り〈視〉る方法である。

 眠りの最中に見る夢や、あるいは眠らずとも脳を眠りの状態にまで近付け、そこに浮かぶ像から情報を得るのがシェプリーのやり方だった。その状態でシェプリーが得た情報に嘘はない。

 イヴリン・レイノルズが薔薇とともにあり、メアリー・ウェストが新たな生命を授かったのを知り得たように、シェプリーは常に不可視の世界を覗くことで、一見無関係と思われた出来事や証拠の数々を拾うことができた。

 あらゆる出来事はどこかで必ず繋がっているのだと、シェプリーは言う。しかしその接点は現実の目では見ることはできないし、ルイスにもそこまで〈視〉るまでの〈力〉は備わっていない。

 普段であれば、先のバーミンガムでの件のようにまずルイスが現地で下調べを行い、シェプリーはその資料をもとに夢見するというのが常であった。しかし今、シェプリーはその手順を変え、自らが現地に出向こうとしている。

 二人は机を挟み、しばし睨み合う。先に口を開いたのはシェプリーだった。

「そりゃぁ、僕は探偵業に関しては素人同然だ。君のようには上手く出来ないかもしれない。でも……」

 シェプリーは一旦口を噤み、目を伏せた。部屋の照明に照らされた睫とその影が、微かに震えている。

 蜘蛛の糸のように張り巡らされた運命の接点を、彼に備わった言葉や理屈では表現しがたい〈力〉が示しているのだ。そのチャンスを、逃すわけには行かない。

「何でもいいから手掛かりが欲しい。その為なら、僕は何だってするし、何処にだって行くつもりだよ」

 毅然と顔を上げて自分を見つめ返す碧眼に、ルイスは二度目の長い溜息をつくしかなかった。


 そして翌朝、早朝。

 シェプリーはルイスと共に、パディントン駅のホームに立っていた。

 早朝とはいえ、ホームはとても混雑していた。

 大きな荷物を運ぶ駅員の後ろを華やかに着飾った婦人たちが行き、さらにその後をこざっぱりとしたスーツに身を包んだ紳士たちが、新聞を片手に何やら歓談しながら歩いている。彼らはトーキーなどのリゾート地で余暇を過ごすつもりなのだろう。あるいはプリマスから船に乗り、海洋を越えた遥か彼方を目指すのかもしれない。

 そうやって各々が己の赴く地への期待に胸を膨らませている中で、シェプリーとルイスの二人は発車時刻が近いことを告げるベルが鳴るまで終始無言だった。

「間もなく発車します。お急ぎ下さい」

 若い駅員が客車の扉を順番に閉めながら、シェプリーを促す。

 シェプリーは足下の古ぼけたトランクを手に持った。彼の荷物はこれ一つだけだった。

「後は頼んだよ」

「あぁ」

 ルイスは不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま頷いた。

「シェプリー」

 不意に呼び止められ、列車のステップに足をかけようとしていたシェプリーが振り向く。ルイスは相変わらず渋面のままだった。

「気をつけろ」

 シェプリーは小さく笑うと、心配性の探偵に向かって頷いてみせた。

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