03:幽霊屋敷(1)

 ダートムアはロンドンから西に二百マイルほど離れた地点にある広大な丘陵地帯であり、国内屈指の湿地帯でもある。

 〈ムア〉というのは古い言葉で荒野を意味する。その名が示す通り、この一帯は来るもの全てを拒むかのような荒々しく厳しい土地だった。

 見晴しのよい丘の上では常に強風が吹き荒れ、一面を潅木とヒースに覆われた丘陵では、所々むき出しの岩が顔を覗かせる。

 そんな荒涼とした様子からはとても人が住めるような場所には思えないのだが、しかし意外にも古くから人々が生活を営む村は存在した。

 十九世紀頃まですずの採掘で栄えていたウィディコム村である。

 とはいうものの、そのほどんどが湿地と泥炭層でできている土地のせいもあって、村は産業革命以降の発展から大きく取り残されるという憂き目にあっていた。列車も車道も、主だった道以外はすべてこの地を大きく迂回するルートをとっていたからだ。

 シェプリーが目的地の手前の街で列車を降りたのは昼前のことだったが、ウィディコム行きのバスはすでに出発してしまっていた。

 日に数本しかないというバスを待っていられるほど、シェプリーも呑気ではない。タクシーで村まで行くことに決めたまでは良かったのだが。

「ウィディコムへ?」

 行き先を聞いた運転手は、不機嫌そうに片眉を跳ね上げた。

「記者さんですかい?」

 シェプリーが違うと答えると、運転手はたっぷりと皮肉を含んだ笑顔を向け、付け加えた。

「なら、歓迎しますよ。まったく、奴等の鬱陶しいことといったら」

 閉鎖された土地と歴史ある小さな村――古くから言い伝えられた魔女や悪魔、妖精の類いの話には事欠かないこの地は、新聞社にとっても格好のネタだった。オカルト好きの若者達が目をつけなくとも、いずれは標的とされただろう。

「悪い風潮だよ。何でもかんでも大袈裟に騒ぎたてて。居なくなっちまったっていう若い奴等にも困ったもんだ。どうせ、どこか別の町で皆揃って羽を伸ばしてるさ」

 シェプリーは、おそらく自分にも幾分かは向けられているであろう運転手の愚痴に曖昧な相槌を返し、早くタクシーを出してくれるように促した。

 ひとしきり言いたいことを言って気が済んだのか、運転手の無駄口は、町を出る頃にはすっかりなりを潜めていた。

 なだらかな丘陵の上を灰色の厚い雲が覆うのを遠目に眺めながら、シェプリーは溜息をつく。そうして、ふとエンジェルとの研究で、かつてこの地を訪れたときのことを思い出した。

 イングランドの西、デヴォンとコーンウォールには、ストーンヘンジと同時代とされる環状列石が数多く遺されている。そして、そのうちのほとんどが、どういうわけかこのムアに集中していた。

 ウィディコム村に立ち寄ったことはなかったが、村の近くにも幾つか石があったはずだ。

シェプリーははやる胸を押さえながら、丘の向こうをじっと見据えた。

 車窓の外に流れる重苦しい景色は、幾つかの丘を越えたあたりで緩やかな変化を見せはじめた。

 陰鬱な色で染まっていた丘の表面に緑の牧草地が混ざりはじめ、その中を羊やポニーが群れをつくり、共に仲良く草を噛んでいる。その向こうでは、家々が軒を並べ、小さな集落をつくっているのが見えた。

「着きましたよ」

 運転手が村を顎で示し、バックミラーの中のシェプリーに笑いかける。

 村の入口とおぼしき石柱の前でタクシーは停車した。

 たったひとつの荷物を下ろしながら、運転手は風変わりな乗客に向かって言う。

「村の外を一人で散歩しようなんて気は起さない方が身の為ですよ。この辺は、慣れた者でさえ道を見失うことがあるんでね。草に隠れた底なし沼に嵌っちまったら、大人だって自力では抜け出せない」

「ご忠告どうも」

 シェプリーは運転手のありがたくもないアドバイスに礼を述べ、料金とチップとを支払った。

 来た道を引返してゆくタクシーを尻目に、シェプリーは暫くの間村の入口に立ち、周囲の光景を眺めていた。

 荒涼というよりは静寂だなと、シェプリーは思った。

 村には教会と広場ヴィレッッジ・グリーン、生活必需品を売る雑貨屋に、一軒だけではあるがパブを構えた宿インまで揃っていた。

 文明から忘れ去られたような陰鬱な湿地にありながらも、元来は随分と生気に溢れた村のようだった。だが、今はどの家の門戸も閉ざされ、道往く人の姿もまばらだった。

 シェプリーの姿を見て警戒心もあらわに睨み付ける者もいれば、目を合わせまいと顔を伏せ、急いで中へと引っ込む者もいたが、村人以外――特に、記者とおぼしき輩や、押し寄せた野次馬たちの姿はどこにも見られなかった。

 もっとも、失踪を告げる報道からすでに一週間が経過している。彼らの目と鼻は、すでに違う土地で起きた別の事件へと向けられたのだろう。このような辺鄙な場所で進展のない事件にこだわっているのは、よほど暇な奴か、単なる物好きか、あるいは事件の関係者かのどれかだ。

 シェプリーは村の中心である広場へ行くと、まずはその正面に構えている小さな宿に立ち寄った。だが、

「取材ならお断りだよ」

 宿の主人は、シェプリーの顔を見るなりそう言い放った。

「いえ、僕は取材をするためにここを訪れたわけじゃなくて」

「じゃぁ、何だ」

 有無を言わせないという勢いで、主人が尚もシェプリーに凄む。

(参ったな……)

 シェプリーは内心で主人のとる態度に辟易としながらも、彼が被ったであろう災難に同情もしていた。

 村に一軒しかない宿なのだから、当然学生たちもここを利用したはずだ。そして、失踪した。実際、警察にも疑われたという報道がすでにある。一つや二つ、あるいはそれ以上の悪意ある記事が、彼とこの宿の名誉を傷付けていてもおかしくはない。

 仕方なく、シェプリーは預かっていたエリノアの娘・コニーの写真を取り出して見せ、エリノアから依頼を請けたことを説明した。

「あんた、探偵なのか?」

 シェプリーの説明を受け、宿の主人は意外だといった視線でシェプリーを見詰めた。その目からは、つい先程まであった拒絶の感情はほとんど消えていた。

「……まぁ、そんなようなものです」

「へぇ……探偵ってのは、もっとこう……駐在みたいな厳つい奴がやるもんだと思ってたがなぁ」

 率直な感想に、シェプリーは苦笑する。

 確かに、自分にはルイスのような精悍さがあるわけでもないし、小説に登場する名探偵のイメージとも程遠い。自分でも似合わないと思っているのだから、他人がそういう目で見るのも無理もない。

「まぁ、いいさ。記者じゃないってんなら、話は別だ」

 幾分か白髪の混じった鬚を撫でながらにやりと笑う主人は、ジョージ・ハミルトンだと名乗った。昔からこの村に住み、今は妻と小さな息子とで宿を切り盛りしているのだという。

 最初に見せた警戒心はすっかり消えていた。多くの者がそうであるように、根は善良で正直なのだろう。

 宿泊の手続きをしながら、シェプリーはジョージに訊ねた。

「それで、彼等は幽霊屋敷へ向かったと聞きましたが、それは本当ですか?」

「ああ。昼のうちに一回行ったのは知っている。だが、まさか夜中にも出ていくとは思わなかったよ……それも、荷物も置いたままだ」

「荷物を置いたまま?」

「ああ、まったく迷惑な話さ」

 当日のことを思い出し、ジョージは表情を曇らせる。

「本当に、最近の若い奴は何を考えているのかさっぱりだ。ここに住んでる俺が言うのも何だが、好き好んでこんな辺鄙な土地に来るようなのは、どこか心を病んでる人間だと思うね」

 学生達のオカルトサークルのことも揶揄しているのだろう。シェプリーは宿帳にサインをしながら、自分が構える事務所の名称を明かすことだけはやめておこうと密かに思った。

「とにかく、詳しいことは新聞を読めばわかるさ。うちのカミさんが熱心に切り抜きを集めててな。あとで見せてやるよ」

「ありがとうございます」

 シェプリーは素直に礼を述べ、唯一の荷物であるトランクをジョージに預けた。

「幽霊屋敷というのは、どこにあるんですか?」

「ああ、それなら――」ジョージがすぐ側の窓を開け、村から少し離れた所にある小高い丘を指差した。「あそこだ。今はマーシュって爺さんが、一人で館を管理しながら住んでいる」

 シェプリーは身を乗り出し、ジョージが示す場所を眺めた。

 村を囲むヒースの丘に、一ケ所だけ不自然に樹が生茂っている場所があるのが見えた。

「以前はよく村まで買い出しに来てたんだが、ここ数年はその回数もめっきり減ったよ」

 何か思うところでもあるのか、ジョージは自らが示した方向を見詰めながら、暫く口を閉ざす。しかし、不意にシェプリーへと顔を向けると、

「あんた、あの屋敷に行くつもりなら、ついでにマーシュの様子を見てきてくれないか」

 唐突な頼みごとにシェプリーは戸惑ったが、向けられる真摯な視線を無視することはできなかった。

「ええ、構いませんけど……」

「そうか、頼まれてくれるか。良かった」

 そう言うと、ジョージは安心したように破顔した。

「いや、別にどうだってことはないんだ。その、なんだ。あいつも歳が歳だし、万が一何かあったら困るからな。何せ、館の前の持主が……っと、いけねぇ」

 怪訝そうな表情を浮かべるシェプリーに、ジョージは取り繕ったような愛想笑いを浮かべる。

「いや、大したことじゃないんだ。気にしないでくれ。マーシュのことは頼んだぞ」

 そう言うと、トランクを抱え上げ、急いで奥へと引っ込んでしまった。

 店先にひとり取り残されたシェプリーは、暫くの間呆気にとられ、ジョージの去った方向を眺めていた。

 が、やがておもむろに手を動かすと、ポケットに忍ばせていた切り抜きを取り出した。前日のうちに、エリノアから写真とともに預かったものだ。

 幽霊屋敷についての詳細はいろいろと書いてあったが、その中で特にシェプリーの目を引き付ける一文があった。

 屋敷の所有者が、病死あるいは自殺などで立続けに命を落としているというのだ。

ゴシップ誌のことだから大した理由までは書かれていなかったが、それがどれほど不自然で不吉ななことなのかは、今のジョージの態度をみれば一目瞭然である。

「厄介な事件になりそうだなぁ……」

 昨晩のルイスの形相を思し、シェプリーは頭をかいた。

 そして、彼のその予感が正しかったことを嫌というほど思い知らされるのだった。


 誰に何をたずねても、返される反応はすべて同じだった。

 宿を出たシェプリーは村の住人に話しを聞こうとしたのだが、誰もがジョージ以上の反応を見せたからだ。

 村人は件の屋敷に対して強い不快感と警戒心と、そして恐怖とを抱いていた。

 ある者は婉曲的に、またある者はあからさまな嫌悪を見せながら、〈幽霊屋敷〉について話すことを拒否した。

 道端で休憩をしていた老人などは、シェプリーから屋敷の名前を聞いただけで震え上がり、 素早く十字を切ると、ひどく慌てた様子で家の中へと引っ込んでしまった。

 叩きつけるように扉を閉じるその音を聞きながら、シェプリーは溜息をつく。

 切り抜きで報じられている屋敷にまつわる怪異話は、それ自体は大したものではなかった。

 深夜、窓から不自然な動きをする光が見えただの、何かの影が映っていただの、屋敷周辺を 歩くと誰かにじっと見つめられているような気配がするだの、奇妙なうめき声や音が聞こえただのという、ロンドンに居ながらにしてもお目にかかれる幽霊騒動と大差ない。

 屋敷の所有者はスタンレー・ヘンドリクセンといった。数年前に病気か何かで死亡をしたらしいが、家族も皆病死しているようで、それが前所有者の呪いによるものではないかと噂されていた。

 スタンレーの前の所有者についての具体的な記事はなかったが、どうやら自殺をしたらしいということだけは辛うじて読み取れる。

 そうした死に様と村人の迷信深さとの相乗効果があったにしても、しかしそれだけでこうも村人が怯えるような理由になるだろうか。

 そもそも、学生たちはどこでその情報を知り得たのだろう。そして、何故わざわざこんな辺鄙な場所にまで足を伸ばしたのだろう。

「先に新聞を見せてもらえば良かったな」

 シェプリーは宿でジョージが言っていたスクラップを思い、嘆息する。

 最寄りの新聞社に問い合わせてみようとも考えたが、すぐに思い直して首を振った。

 新聞記事を読むのならともかく、狐やイタチのように狡猾な記者の相手など、シェプリーにできるはずもない。大体、情報収集はルイスに任せたのだから、それについては彼の手腕を信じ、報告を待っている方がいい。

 ルイスのことだから、夕方までには有益な情報を幾つか掴んでくれるだろう。当人はそう思っていないようだが、実際シェプリーはルイスの能力を高く評価していた。

 ならば、その間に自分にできそうなことは何か。

「教会か」

 シェプリーは首を巡らせ、村の中心に立つ小さな鐘楼を見上げた。

 都市とは違い、辺境では教会が役場の代わりを果たすのが通例であった。

たいていそこには、誰がいつ生まれて誰と結婚をし、いつ死んだのかという記録はもちろん、地代を幾ら納めただの、借金が幾らあるだのという帳簿や、その年に何が起こったのかなどを記したものが残っている。

 シェプリーは頷き、来た道を戻るべく踵を返した。

 ――が、すぐにその足が止まる。

 道向こうに、見慣れない人物が立っているのに気付いたからだ。

 シェプリーと同年代とおぼしき青年だった。濃茶のソフト帽にあわせた薄茶のツィードという典型的なカントリースタイルではあるものの、遠目にもはっきりとわかる整った目鼻立ちは、田舎で暮らす者とは一線を画している。

 青年は何をするでもなく、周囲を見回しながらシェプリーのいる方向に向かってぶらぶらと歩いていた。

 シェプリーは彼のことを失踪事件に関連して先に村を訪れ滞在している記者か、事件を知ってかけつけた野次馬のどちらかと思ったが、そのどちらでもないようだった。

 そうこうするうちに、青年もまた自身を窺うシェプリーに気が付き、足を止める。

「こんにちは」

 先に動いたのは青年の方だった。

 この曇天さえ吹き払ってしまいそうな笑みを浮かべながら、足早にシェプリーのもとへとやってきた。

「この村にお住まいの方……ではないですよね?」

 そう言って、確認するようにシェプリーの顔をじっと見つめる。

「ええ、違います。ロンドンからです」

「やっぱり!」

 青年はシェプリーの返事を聞くや否や、ぱっと顔を輝かせると、突然シェプリーの手を取り握り締めた。

「こんな辺鄙な場所でロンドンから来た人に出会えるなんて、思ってもいなかった。僕もロンドンから――ああ、いや、違うな。今日来たのはプリマスからなんだけど」

 勢いに気圧され絶句するシェプリーに、青年は人好きのする笑顔を見せ、名乗った。

「僕はエルリック・ノーマン。ロンドンにある劇団で、俳優をやっています。つい先日までプリマスで公演をしていたんですけど、今は休暇をとって、あちこち見て歩いている最中なんですよ」

「ああ、それで……」

 記者にも野次馬にも見えなかった理由に納得し、シェプリーは頷いた。それを見て、エルリックと名乗る彼もようやくほっとしたような表情を見せた。

「でもよかった、まともに話のできる人がいてくれて! いやぁ、実は朝から困っていたんですよ。誰に話しかけても皆逃げてしまうから、僕、何かまずいことでもしたのかと思って」

「ご存知ないんですか?」

 シェプリーの言葉に、エルリックは首を傾げた。

「何をですか?」

 どうやら彼は、本当に何も知らないらしい。

 シェプリーは、エルリックにこの村で起こった事件について手短に説明してやった。もちろん、自分が依頼を請けていることは伏せて、である。

 神妙な面持ちでシェプリーの話にじっと耳を傾けていたエルリックは「なるほどねぇ」と呟くと、苦笑を返した。

「それじゃぁ僕は、五月蝿いマスコミだと思われていたわけか。どうりで、誰に声をかけても口をきいてもらえないはずだ」

 ある程度事情を理解しているシェプリーでさえも、村人が他所者に向けている大きな敵意には閉口していた。何も知らないエルリックが受けたであろう仕打ちを思うと、シェプリーは彼に同情を寄せたくなる。

 しかし、当のエルリックは自身で言うほど気にしているような素振りはなかった。

「こんなにも長閑のどかな村で、そんな事件があったとはねぇ……」

 彼方に見える幽霊屋敷を見遣り、腕を組む。

 エルリックは暫くそうして屋敷を眺めていたが、不意にその腕を解くと、隣に立つシェプリーへと向き直った。

「そういえば、まだ君の名前を聞いてなかった」

 シェプリーはわずかにためらったが、結局正直に答えることにした。

「ウーブルです。シェプリー・ウーブル」

「じゃぁ、ウーブル君。これから僕と一緒に、その屋敷に行ってみよう」

 エルリックはそう言うと、シェプリーの両腕をがっちりと掴んだ。

「えっ?」

 エルリックの唐突な行動と提案に、シェプリーは面喰らった。

「もちろん僕は、マスコミのようなことをするわけじゃない。ただ、ほんのちょっと事件の現場を見たいだけなんだ。だって、こんな機会は滅多にないからね」

 そう言いながらも、帽子の下から覗く瞳は、愉し気な光に満ちている。

「ちょっと待って――待ってください」

 シェプリーは返事も聞かずに自分の腕を引っ張って行こうとするエルリックの手を振り解いた。

「いきなり押しかけるのは良くないんじゃ。それに、僕は他にも用事が」

「まだ陽は高いから大丈夫だよ。ほんの少し見て、すぐ帰ってくるだけだし。それに、君もその事件を知ってこの村に来たくちなんだろう?」

「それは……」

 当たらずとも遠からずの所を指摘され、シェプリーは口籠ってしまった。

 エルリックの人の善さそうな笑みが、瞬く間にチェシャ猫めいたものへと変化する。

「じゃぁ、決まりだ。こんなチャンス、逃がす手はないからね」

 知り合ったばかりの相手を半ば引き摺って歩き出そうとするエルリックの強引さに、シェプリーの抵抗する気力は消え失せた。


 それから十数分後。シェプリーは目的の屋敷の前で、これ以上ないほどの困惑の表情を浮かべて立っていた。

 幽霊屋敷は遅かれ早かれいずれ訪問するつもりだったのだが、まさかこんな具合にいきなり押し掛けることになるとは思っていなかったからだ。

 そんなシェプリーの困惑を他所に、エルリックは目の前にある古めかしいドアノッカーを叩く。その表情は、ハイキングか何かに来ているのと勘違いしているのではないかと思うほどの笑顔だった。

 だが、待てど暮らせど扉は開かない。

「留守かな?」

 首を傾げながらも、エルリックは再度ノッカーを叩く。彼の頭には、諦めて村に戻るという選択肢はないようだ。

 シェプリーは応対に誰かが出て来るか、エルリックが諦めるかを待つ間、屋敷の様子を観察することにした。

 屋敷は特筆するほど大きなものではなかったが、それでも田舎暮らしを選んだ裕福な一家が不自由なく暮らせ、なおかつ二、三人の来客を充分に持て成せるほどの余裕はありそうだった。庭も広く、年中曇りがちな気候と閉鎖的な田舎の住人さえ気にしなければ、快適に過ごせるだろう。

 しかし、ただの田舎屋敷として片付けられないものが、ここには確かかに存在した。

 シェプリーがまず気付いたのは、その異様な外観だった。

 黒々とした急勾配の大きな駒形屋根は、色のせいもあってか相当な威圧感のあるものだった。

 屋敷の外壁に絡まる蔦は生気を失ったように萎び、通常ならば色とりどりの花が訪問者の目を楽しませているはずの庭も枯れ果てている。

 すでに宿や村の中から遠目に眺めていたときから感じていたことだったが、実際に目の当たりにし、肌で受け止める感触は、妙に重苦しかった。

 門柱の装飾として置かれている畸形じみたガーゴイルまでもが、来客を見下ろし、威嚇しているように見える。

 自分達が招かれざる客なのだということを思い知らされ、シェプリーは身体を強張らせた。

「おかしいな。誰かはいると思うんだけど」

 一向に反応を返さない扉に、エルリックが苛立った様子でまたノッカーを叩こうと手を伸ばしたときだった。

「どなた?」

 覗き窓が開き、陰気な目つきをした老人が顔を覗かせた。

「マーシュさんですね? 突然の訪問、申し訳ありません。私はスコットランドヤードから依頼を請けて派遣されたバートラム・ウェインと申します。彼は同僚のアーサー・マクレイン」

 エルリックはそう言うと、老人に向かって軽く会釈をした。

 屋敷までの道すがら、自分達を警察関係の人間だということにしようとの案を出したのはエルリックだった。多少のリスクはあるかもしれないが、こうした方がいろいろと都合が良いだろうと考えたのだ。

 シェプリーは乗り気ではなかったが、他に良案が浮かぶわけでもなく、エルリックの案に賛成するしかなかった。

 こんなことになるのなら、最初から自分が正式な依頼を請けて調査をしていることを明かした方が良かったのではないかとも思ったのだが、今更後悔しても遅い。

「警察になら、もう全部話した筈ですがね」

 老人がせわしなく両目を動かし、エルリックとシェプリーとを見比べる。

「ええ、もちろん承知していますよ。でも、何も手掛かりがないものですから」

 もう一度しっかり調べてこい上からどやされましてね、とエルリックが首を竦めると、老人は小声で何事かをぶつぶつと漏らし、覗き窓を閉めてしまった。

 しかし、二人を閉め出すつもりはないらしい。

 すぐに内側の掛け金が外れる音がし、扉が軋んだ音を立てながらゆっくりと開いた。

扉の影でエルリックがシェプリーに片目を瞑ってみせる。

 シェプリーは小さく息を吐くと、覚悟を決めた。

「調べたいってんならご自由にどうぞ。あたしの邪魔さえしなかったら、別に構やしませんやね」

 そう言いながら、小柄な老人――マーシュが姿をあらわす。

 皺だらけの皮膚に刻まれた年月は、彼が相当な高齢だということを示していた。

 体調でもすぐれないのか、それとも日陰にいるせいなのか。シェプリーの目には、マーシュの肌色が極端に悪いものに見えた。

「ご協力感謝します」

 エルリックが笑顔で礼を述べる。堂々とした態度には、ロンドン市民ですら彼を本物のヤードの探偵だと信じさせる威厳があった。さすがに俳優をやっていると言うだけのことはある。

 変わり身の早さと演技力に舌を巻きながら、シェプリーもエルリックに続いて屋敷内に入ろうとした。

 しかし、

「――っ!?」

 踏み込んだ足がずぶりと沈むような感触がして、シェプリーは慌ててその場から飛び退った。

「どうしたんだい?」

 先を行くエルリックが気付き、振り返る。

「あ――いや――、その――」

 咄嗟に言葉が出ず、シェプリーは焦った。

「足が――」

「足?」

 首を傾げるエルリックとマーシュに、シェプリーはぎくしゃくとした不自然な動きで手を振った。

「いえ……大丈夫です。騒いだりしてすみません」

「何か踏んだのかい?」

 シェプリーの目の前で、エルリックの靴がそれらを踏む。特別な変化も、またエルリック自身が何かを感じたような素振りはなかった。

 気のせいだろうかと考える横で、マーシュが謳うように呟く。

「お屋敷の中は暗いですからな。落ち葉か何かを虫と見間違えたんでしょう」

「……そうかもしれません」

 背筋を伝い落ちる汗の不快感に顔を強張らせるシェプリーに、エルリックが肩をすくめる。

「虫が苦手とは知らなかったよ」

 馬鹿にしたような響きを含むそれに、シェプリーはむっとしたが反論はしなかった。マーシュが扉を早く閉めたがっていることに気付いたからだ。

 意を決して、シェプリーはもう一度マットを踏んだ。

 今度は何も起こらなかった。

 まるで沼地にでも沈むような感触がした箇所は、古い板張りの床に泥落とし用のマットが敷いてあるだけだった。

 戸惑い、立ち尽くすシェプリーの背後で、マーシュが扉を閉める。

「それでは、どうぞごゆっくり」

 薄暗いホールに響く錆びた蝶番の音は、外で聞いたときよりも遥かに大きく、耳障りなものだった。

 シェプリーは日陰特有の冷気に満ちたホールの中央に立ち、周囲を見回した。

 本来の主人である者がいない今、来客などで賑わうことも、また彼らのために屋敷を飾る必要もないからだろう。とても静かで――そして、不気味だった。

 マーシュはすでにこの場から立ち去っていた。それは彼が潔白であるという抗議のしるしなのか、それとも無関心なふりをしているだけなのかは、シェプリーにはわからない。

 ――と、それまでシェプリーの側に立っていたエルリックが、ひときわ大きな声をあげて歩き出した。

 訝しむシェプリーの視線を余所に、エルリックは壁際に無造作ともいえる置かれ方をした陶器の前に立った。そして、絵柄が判別し難いほどに黒ずんだ表面を指でなぞる。

「なんてことだ。折角の彩色陶磁ファイアンスが台無しじゃないか。どういう神経をしていたらここまで汚せるんだ?」

 口を尖らせるエルリックの言葉に、シェプリーは屋敷内の清掃が行き届いていないことに改めて気付いた。

 埃がうず高く積もった壁際の床、どれもが黒く濁った壁の絵画、大きな蜘蛛の巣のぶら下がっている天井の梁――学生たちの失踪で捜査を任された警官たちも、これではさぞかし苦労したことだろう。

 屋敷全体が薄汚れている原因は、現在の住人マーシュの健康状態がおもわしくないからだとも考えられた。実際、村の宿でジョージが気にかけていたのだし、マーシュの容姿から想像できる年齢を思えば、清掃が行き届かなくても仕方がないようにも思える。

 しかし、たまに鼻先を掠める空気の中に何か形容しがたい臭気があるような気がして、シェプリーはどうにも落ち着かなかった。

 シェプリーはまだ陶器に心を痛めているエルリックを残し、ホールを後にした。

 屋敷の奥へと続く廊下を進みながら、意識を集中させる。自身に備わる〈力〉を使い、この屋敷が幽霊屋敷と呼ばれる由縁を探ろうと考えたのだ。

 だが、すぐにシェプリーの足は止まった。

 眉間に皺を寄せ、周囲を見回す。

 屋敷は、まったくの空白だった。

「何で……?」

 知らず漏らした声の大きさに、自分で驚く。掠れた感触をとどめる唇を噛みしめ、シェプリーはもう一度意識を集中させた。

 半闇に沈む床に視線を彷徨わせながら、見えない網を広げるように周囲の感触を探る。

 バーミンガムでの一件のように幽霊もしくはそれに相当する存在があれば、シェプリーにはすぐにわかるはずだった。それなのに、どれだけ集中してもそれらしきものは感じられなかった。

 それどころか、かつてこの屋敷で暮らしていたはずの住人はおろか、現在ここで暮らしているはずのマーシュの感触すら〈視〉えなかったのだ。

 シェプリーの背筋を冷たいものがはしる。

(何なんだ、この屋敷は)

 何かがおかしかった。だが、何がおかしいのかがわかない。

 戸惑うシェプリーの身体が、不意にぐらりと揺れる。――否、精確には、視界が揺れるような感覚に襲われ、踏み止まっていることができなかったのだった。

 シェプリーは薄汚れた漆喰の壁に手をつくと、再度、意識の網を広げるために目を閉じた。

 だが、すぐにその表情が険しいものへと変わる。目の奥に、鈍い痛みが走ったからだ。

「っ……!」

 シェプリーは苛立たし気に舌打ちをすると、〈力〉の行使を諦めた。

 慣れないことをして神経が昂っているせいもあるだろうが、前日の顕霊での消耗が思いのほか激しかったらしい。

 肝心なときに役立ずな脆弱な身体を呪いながら、シェプリーは痛む箇所を庇うように、眼鏡の上から手をかざす。

 身体を捻って指の隙間からエルリックの様子を窺うと、彼の注意は相変わらず薄汚れた陶器に向けられていた。

 気付いていないのなら、いっそそのままでいてくれた方がシェプリーとしても楽だった。それに、場違いな陽気さを振りまくその存在は、幽霊を相手にしているよりも何倍も疲れる。

 シェプリーは溜息をつくと、エルリックに完全に背を向けた。

 日中でも灯りが必要なほどに暗い廊下に立ち、考える。そして、シェプリーはおもむろに手を伸ばすと、手近なところにあった扉を開いた。不可視の領域を〈視〉ることができないのなら、代わりに出来ることしようと思ったのだ。

 古びた扉はシェプリーの手を拒まなかった。しかし続けて室内へ入ろうと中に目を向けた瞬間、シェプリーはぎょっとしてたたらを踏んでしまった。

 壁際のキャビネットに並ぶ大小様々な陶磁器の、その合間に埋もれるように並んでいるものたちが、侵入者を睨んでいたからだ。

 それらは独特な光沢を放つ黒檀の彫刻だった。館の主人であったスタンレーが蒐集したのだろうか、大半がアフリカ産だと思われたが、中にはどの地で作られたか判別し難いような奇怪な形状のものも混じっている。

 調度品の様子や配置から想像するに、どうやらこの部屋は客間として使用していたようだった。しかし、このような不気味な品々を見せられて喜ぶ者がいるだろうか。

「何か面白いもでもあったのかい?」

 戸口で立ち竦むシェプリーの側へエルリックがやって来た。ホールには、薄汚れた彩色陶磁以上に彼の興味をひく品は無かったらしい。

 エルリックはシェプリーが答えるよりも先に室内を覗き込むと、また小さく叫び、壁際のキャビネットへ駆け寄った。

「ヴードゥーの呪術人形じゃないか! それに、ポナペの海神像まで――、凄い、凄いぞ! 全部本物だ! どうやって手に入れたんだろう?」

 呆気にとられるシェプリーの前で、エルリックは手が汚れるのも構わず不気味な彫像を手に取った。

 堅い木を粗雑な道具によって割り削ったようなそれは、荒々しいタッチで描かれた絵画にも似て、制作者の内に宿る魂の叫びそのものが刻まれて、表現されているかのようだった。

 気色悪い軟体動物を連想させる太い触腕を象った像を愛おしそうに撫でるエルリックの指を見つめながら、シェプリーは言った。

「随分と詳しいんですね」

 シェプリーの視線に含まれる色を察知してか、エルリックの顔に苦笑が浮かぶ。

「単なる趣味さ」

 しかし、幼い頃から博物館に通い詰めて学んできたシェプリーにさえわからなかった彫刻の正体を、彼は迷うことなく言い当てていったのだ。エルリックがこういった方面について相当な知識を持っていることは、もはや疑いようもなかった。

 エルリックは肩を竦めると、彫刻を元の場所へと戻した。

「僕の親戚に、こういった分野を研究している人がいてね。子供の頃から手伝ったりしていたから、自然に身に着いたんだよ。まぁ確かに、あまり誉められた趣味じゃないだろうけどね」

 少しだけ自嘲が込められた呟きに、シェプリーは戸惑う。しかし、

「ねぇ、シェプリー。二階に行ってみないか?」

「二階?」

 またもや唐突に出された提案と、その意図を理解することができずに首を傾げるシェプリーに、エルリックはその長い腕を持ち上げて、キャビネットに並ぶものを示してみせた。

「僕はまだ美術品としてこれらを鑑賞することができるけど、ここの主人は、どうもそういう系統ではなさそうだからね。こんな実際に呪術に使われたような気味の悪い代物を客間に飾るなんて、彼は随分とな人だとみえる」

「それと、二階へ行くこととの関連は?」

「だって、普通、主人の部屋は上階につくるだろう? 書斎か寝室かをあたれば、彼の人となりを知る手掛かりも見つかるんじゃないかと思うんだ」

「なるほど」

 エルリックのもっともらしい意見に、シェプリーは頷いた。

「わかりました。では、二階へ行きましょう」

「そうこなくちゃ」

 途端、エルリックは顔を輝かせてシェプリーの側へと早足で戻ってきた。そうして小さな子供がするようにシェプリーの腕をとり、薄暗い廊下を歩き出す。

 その強引ながらも無邪気な振る舞いにシェプリーは戸惑いを隠せなかったが、しかし何故か悪い気はしなかった。


 エルリックの言葉どおり、二人の目指す部屋は二階にあった。

 階段を登った先、廊下を北に向かって進んだその突き当りにある扉を開け放ったとき、彼らは共に呼吸すら忘れて中の光景を食い入るように見つめた。

 そこは、書斎というよりはむしろ書庫と称した方が正しい様相をした場所だった。

決して広くはないのだが、壁一面を埋め尽く書物の山は、ここが一個人の邸宅だということを忘れさせるほどだった。

「凄いな、これは」

 先に中へと足を踏み入れたのはエルリックだった。灯に誘われる蛾のように、ふらふらと書物へと吸い寄せられて行く。

「あぁ、よかった――」エルリックは手近なところから一冊を抜き出し、言った。

「この部屋はきちんと手入れしているようだね。こんな年代物の本なんて、放っておいたら虫に食いつくされてしまうよ」

 エルリックの言うとおり、他の場所とは違い、この部屋だけは空気の質が違っていた。古い書物の放つ独特の匂いはあるが、湿気も低く、目立った埃も落ちていない。

 外壁に面した小さな窓の下には、古めかしい装飾を施した小さな机と椅子が揃って設えてあった。部屋の片隅には久しく使われたことのなさそうな古びたベッドが寄せられている。館の主人はここを書斎兼寝室として使っていたのだろう。

 シェプリーも遅れて我に返ると、おそるおそる書庫に入った。

 擦り切れた絨毯の上を慎重に歩きながら、壁という壁を占領する書棚を順に眺めてゆく。

たいていのものは博物館に納められている書物と大差ないように思えたが、しかしすぐにそうではないことに気付き、シェプリーは表情を強張らせた。

 書物のほとんどが、魔術や錬金術などのオカルト的な要素を含むものだったからだ。そして、その傾向は壁に沿って奥へと進むにつれ、一層強いものとなっていた。

「まったく大したものだ」

 エルリックが新たに取り出した別の一冊に向け、惚れ惚れとした視線を向けて呟く。

 相当の年代物と思われるその一冊は、しかしよほど保存状態が良かったのか、よく手が触れる箇所以外の装丁は綺麗なままだった。彼は目の前にある書の価値に感動していた。

「ここのご主人は、一体どこで、しかもどうやって、これらを手に入れたたんだろうね?」

 彼の手にあるのはジョン・ディーによって行われたという魔術実験の記録だった。もしこれが本物ならば、三百年前の書物だということになる。

 エルリックの問いかけを、しかしシェプリーは無視した。

 彼ほどの知識を持ち合わせていないから即座に答えられなかったというのもあるが、これらの書物がどういう意図で集められているのかを瞬時に理解したからだ。

 フレイザーの「金枝篇」やマダム・ブラヴァツキーによる「秘密教儀シークレット・ドクトリン」などという、高価とはいえ普通に入手できるものと共に平気で並んではいるものの、エルリックが賞讃の念を送っている古書は、現存するものでは一部の蒐集家のもとや、博物館ではそれこそ監視員つきの特別閲覧室でしかお目にかかれないようなものだった。

 これらの稀覯本をこれほど多く蒐集するには、相当の熱意と労力と、そして財力とが必要とされる。つまり、館の主人であるスタンレー・ヘンドリクセンという男は、これらの書物を何かしらの明確な目的の下で集めたのだ。

 ふとシェプリーは客間にあった無気味な彫刻群を思い出し、ぞっとした。

 貪欲に集められた数々の品と館に充満する空気とに、今は亡き彼の執念めいたものがまだ残っているような気がしたのだ。

「お取り込み中申し訳ありませんが」

 背後からの声に飛び上がるほど驚いたのは、シェプリーだけではなかった。

 エルリックもぎょっとした表情で、新たに本を抜き出そうと手を伸ばした格好で固まっている。

 二人が声のした戸口へと目を向けると、小さなグラスを二つ乗せたトレイを手にしたマーシュが

 垂れ下がった皺だらけの瞼をしょぼしょぼさせながら立っていた。

「おや、驚かせてしまいましたかね。こりゃどうも失礼を」

「いえ、我々も夢中になっていましたから」

 慇懃に頭を下げるマーシュに笑顔で答えながら、エルリックはマーシュが持つ盆を指差した。

「ところで、それは?」

蜂蜜酒ミードです」

 マーシュの返答に、エルリックの視線がグラスへと注がれる。酒は、薄暗い室内にあっても美しい琥珀色を煌めかせていた。

「遠いところを折角おいでくださったのに、何のおもてなしもせずにいるのはどうかと思いましてね」

「よろしいのですか?」

「どうぞ。旦那様のご親戚も皆亡くなっておりますし、屋敷に残っているものは全部、あたしの好きにしてよいと仰っていただきましたから」

 マーシュがトレイを差し出すと、エルリックは傍目でもわかるほどに喜色満面となった。今にも手を伸ばそうとする様子を見て、シェプリーは慌てて口を挟んだ。

「警部、勤務中ですよ」

 シェプリーの制止にエルリックはぎくりとしたが、誘惑からは逃れられなかったようだった。

「でも、折角出してくれたんだ。全く口をつけないでいるのも、失礼にあたるだろう?」

 言い訳がましい咳払いをしながらグラスを取り上げるエルリックを、シェプリーは思いきり怒鳴りつけてやりたいという衝動に駆られた。側にマーシュが控えてさえいなければ、実際に怒りをぶちまけていたかもしれない。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、エルリックは平然とグラスに口をつけた。そして、驚きに目を見張った。

「素晴らしい――!」

 蜂蜜酒の出来はエルリックの想像を超えていたとみえ、彼は惚れ惚れとした様子でグラスを掲げ、カーテンの隙間から漏れる光に透かしながらマーシュにたずねた。

「これは自家製ですか?」

「はい。旦那様の家に代々伝わる秘伝の製法で、あたしが仕込んだものです」

「へぇ、そいつは興味深いな。もしよかったら――」

「警部」

 シェプリーの低く鋭い声に、エルリックは首を竦めた。

 さすがに羽目を外しすぎたのは理解したようだが、ばつの悪い笑みを浮かべながらもしかし、グラスは決して手放そうとしなかった。

「そちらの方も」

 マーシュが盆に残るもうひとつのをシェプリーへと差し出す。

「いえ、僕は遠慮しておきます」

「そうですか」

 意外にも、マーシュはそれ以上無理強いすることもなく、素直に引き下がった。ほっと胸をなで下ろすシェプリーに、エルリックが近寄り、囁く。

「どうして飲まないのさ」

 シェプリーはエルリックの呑気さに内心でうんざりしながら答えた。

「飲めないんだ」

 エルリックは一瞬、何を言われたのか理解できないといったようにシェプリーを見つめた。やがて、その顔にすっかり見慣れた笑みとは別のものが浮かぶ。

「紳士の嗜みだろう?」

「大きなお世話です」

 若干の侮蔑と憐れみとを向ける親切極まりない青年から、シェプリーは顔を背けた。そして、置き物のように控えるマーシュに向かって話し掛けた。

「ベネットさんに幾つかおたずねしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか?」

「たいがいのことは、もうすでに警察にもお話しましたが」

「承知しています。でも、もう一度聞かせて欲しいんです――できるだけ詳しく」

「わかりました」

 トレイを手にしたまま、老人が小さく頭を下げる。

 シェプリーは急いで質問の内容と順序とを錬った。

「失踪した学生達について質問をさせてください。このお屋敷へ来たときの彼らの様子はどうでしたか?」

「そうですねぇ……」当日を思い出すためなのか、マーシュは首を傾げながら答えた。

「ピクニックにでも来ているような感じでしたよ。村で一杯ひっかけたのか、少し酔っている人もおりました」

「彼らは訪問した理由を言っていましたか?」

「いいえ。ですが、だいたいの見当はつきましたよ。そうでなきゃ、こんなところにわざわざ訪れたりする奴なんていやしません」

 シェプリーの質問に、マーシュは喉の奥でくつくつと笑ってみせる。その声色に含まれる自嘲とも侮蔑ともとれる態度を、シェプリーは不快に感じた。

 マーシュの白味を帯びた濁った瞳は焦点が合っておらず、目の前に立つシェプリーを素通りして背後の書物を透かし見しているかのような具合だった。なのに、どういうわけかシェプリーは、自分がマーシュにやけに注視されているような気がして仕方がなかったのだ。

 シェプリーは考えるふりをして数歩を歩き、マーシュとの距離をとった。少々離れたくらいでどうにかなるものでもなかったが、それでも近くに居て欲しくはなかった。

「それは、このお屋敷の噂に関するものですか? その……」

「幽霊屋敷でしょう」

 シェプリーが言い淀んだ言葉を、マーシュは何食わぬ顔で口にした。

「存じておりますとも。なにしろ、そのために、旦那さまがここに移り住むのをお決めになったんですからね」

「それは、どういうことです?」

 シェプリーよりも先に、エルリックが横から口を挟んだ。彼の手にあったグラスは、いつの間にかからとなっていた。

 マーシュはエルリックの顔を仰ぐように見上げると、またあの不快な笑い方をしながら器用に言葉を紡いだ。

「昔から旦那様はその手のものが大好きでしてね。どこそこにこういうものがある、こういう話があると聞くと、じっとしていられずにすぐ飛んで行くような方でしたので……とは申しましても、別段珍しくもないでしょう、そういう趣味をお持ちの方は」

「そうですね。その手の人間は、ロンドンにもごまんといますよ」

 しれっと答えてみせるエルリックの態度に、シェプリーは呆れればいいのか感心すればいいのか悩んだ。

「よければ、それについても詳しくお聞かせ願えますか?」

 学生たちの行方の手掛かりになるかもしれませんからと、もっともらしい態度でエルリックは続けるのだが、その瞳には溢れんばかりの好奇心で輝いていた。

 シェプリーは内心ひやひやしながらマーシュの表情を盗み見したが、マーシュが気にしている様子はなかった。

「わかりました」

 再び慇懃に礼をすると、マーシュはかつて主人が愛用していた書斎机へと向かい、その上にトレイを置いた。小さなものとはいえ、ずっと持ったままの姿勢を続けるのは、老いた身体には辛かったのだろう。

 察したエルリックが椅子をひき、勧める。

「こりゃどうも」

 ぎこちなく何度も頭を下げながらマーシュは椅子に腰を降ろし、エルリックはすぐ脇に並ぶ本棚に軽く寄り掛かった。

 シェプリーは本棚にかかる梯子を寄せてはみたが、細い支柱があまりにも心細かったので、結局それに頼ることはやめて、エルリックのように本棚に背を預けることにした。

 聴衆の準備が整った頃を見計らい、マーシュが口を開く。

「その頃の旦那様はサウスフィールズにお住まいでした。まぁ、そこに辿り着くまでにもいろいろありましたがね、とくに不自由されることもなく、普通に暮らしておいででしたよ。ところが、十五、六年ほど前のことでしたでしょうか。朝にいつものように新聞をお読みになっていたところ、急に大きな声をお出しになるものですから、あたしゃびっくりして、もう少しでお茶の入ったカップを取り落とすところでしたよ」

 マーシュは瞼と同様に弛んだ皺だらけの口をもごもごと蠢かせ、近くに立つエルリックを見るでもなく、やはりシェプリーの方へと顔を向けた。

 シェプリーは老人に対する嫌悪と警戒心が一層強くなってゆくのを感じたが、かといって逃げ出すわけにもいかず、居心地悪そうに重心のかかる足を組み直すのが精一杯だった。

「その内容は?」

 エルリックに促され、マーシュは首を傾げながら答えた。

「そうですねぇ……確か、昔、この辺に住んでいたという魔法使いについてのお話だったと思います」

「魔法使い? 幽霊屋敷ではなく?」

 エルリックとシェプリーは互いに顔を見合わせた。そんな彼らの困惑を余所に、マーシュは言葉を続ける。

「どっちも同じですよ。魔法使いが住んでいたという村があって、そこにどこかの誰かが屋敷を建てた。けれどどういうわけか屋敷の主人は早死にし、噂をききつけてやってきた次の主人も自殺をした。以来この屋敷には魔法使いの呪いがかかっているとか、幽霊が出るとかいう噂が囁かれるようになったと……そういう内容です」

「……それだけ?」

 呆気にとられたように、エルリックが呟く。

「それだけです」

「もっと詳しい内容は?」

「さぁ? 生憎ですが、そこまでは存じあげません」

 マーシュが頷き返すと、エルリックは無言で天井を仰ぎ、額に手を当てた。その姿に、シェプリーは思わず笑いだしそうになったが、慌てて緩みかけた口元を引き締めた。

 エルリックが落胆するのも無理はない。その程度の物件であれば、こんな田舎にまでわざわざ足を伸ばさずとも幾らでも見つかるからだ。

 しかもそのほどんとは、風で揺れるカーテンや、窓に反射した何かを見間違えたような勘違いによるものでしかない。稀に本物の幽霊に遭遇することはあっても、この屋敷のようにこうまでシェプリーを重苦しい気分にさせることはないのだ。

 では、この屋敷は何なのだ。

 屋敷で感じた数々の感触を思い出し、またその度に鳥肌をたてる首筋を掌で抑えながら、シェプリーは考える。

 マーシュは本当に何も知らないのだろうか。それとも、知っていて嘘をついているのだろうか。そして、なぜ彼はこうも自分に注目するのだろう?

 こうしている間にも、マーシュの視線はシェプリーに向けられていた。そこには、歳古りたことによものとはまた違った狡猾さが滲み出ているように思えた。

 不快感を煽る嗤い方にも、相手をどのようになぶろうかと考えて愉悦に浸る肉食獣のような悪辣な笑みが、弛んだ皮膚の下から見えるようだった。

 シェプリーはマーシュから顔を背けた。自分でも相当苛立っているのがわかっていたからだ。

 爪先に視線を落とし、深呼吸をする。

 足下に敷き詰められた安物の絨毯はすっかり磨耗していた。特に激しいのは、マーシュが腰掛ける椅子の周辺と、そしてシェプリーが背を預けている棚の前だった。

 シェプリーは顔を上げると、背後の膨大な書物を示しながらマーシュにたずねた。

「ところで、ここにある本は、全部ご主人が集められたものなんですか?」

「それは僕も是非知りたいな」

 エルリックが横から口を挟む。幽霊屋敷が期待外れのものだとわかった今、彼の興味は膨大な稀覯本の出所を突き止めることに向けられていた。

「これほどの蔵書、揃えるには相当な苦労をされたでしょう」

 同情するかのようにため息をつくエルリックに、しかしマーシュは意外な回答を寄越した。

「そうでもありませんよ。大半はもちろん旦那様ご自身で集められたものですが、あとの残りは拾いものですから」

「拾いものですって!?」

 素頓狂な声をあげたのはエルリックだったが、シェプリーも同程度には驚愕していた。

 マーシュは枯れ枝のような指で、申し訳程度に壁にへばりついている小さな窓を示した。

「庭に、地下室がありましてね。作ったのは旦那様の前にお住まいになっていた方のようですが、そこでね、見付けたんですよ。あたしが――そう、このあたしがね――」

 歯の抜けた不明瞭な発音の合間で器用に嗤うマーシュに、焦れたエルリックが思わず詰め寄る。

「何を見付けたんですか? 本をですか?」

 それを待ち構えていたかのように、マーシュははるか頭上にあるエルリックの顔を見上げ、口角を吊り上げた。

「秘密の部屋に通じる扉を、ですよ」

「秘密の部屋?」

 シェプリーの視線がエルリックのそれとぶつかる。同じ疑問と好奇心の間で揺れたシェプリーは、しかしそのためにエルリックの次の行動を止めるタイミングを失ってしまった。

「もしよろしければ、そこを見せていただきたいのですが」

 慌てて口を開こうとするシェプリーに、エルリックはマーシュに見えないように顔を傾けた上で片目を瞑ってみせた。

「もちろん、あなたを疑っているわけでも、私どもの同僚を信用していないわけではありません。ですが、やはり自分の目で見ておきたいんですよ」

 そう言いながら、空のグラスをマーシュに返す。

 マーシュはすぐには答えなかった。何やら思案するような表情で、完璧な笑顔を向けるエルリックを見上げていたが、やがて「わかりました」と、芝居がかったような仕種で肩をすぼめ、グラスを受け取った。

「では、案内いたしますので、ホールにてお待ちを」

 マーシュは椅子から立ち、頭を下げた。トレイを取り上げ、ゆっくりとした動作で部屋を後にする。厚めの絨毯のおかげもあってか、その足音が聞こえることはなかった。

「待ってください!」

 マーシュに続こうとするエルリックを、シェプリーは小声で引き止めた。

 不思議そうにな顔をするエルリックをそのままに、シェプリーは戸口に駆け寄ると、外の様子を窺った。

 廊下を歩くマーシュの後姿が、薄闇に溶けるように遠ざかる。階段を降りるその小柄な影が見えなくなっても、シェプリーはじっと戸口で耳をそばだてていた。

 そして、わずかに足を引きずる特徴ある足音が完全に聞こえなくなったところで、ようやく詰めていた息を吐く。

「ノーマンさん」

 シェプリーは書斎の扉を閉め、そこに背を預けながらエルリックに告げた。

「悪いことは言いません。あなたは村に帰った方がいい」

「何故?」

 エルリックが首を傾げる。当然の反応だった。

 シェプリーは返答に窮したが、このままでは相手が納得するはずもないのもわかっていた。

 迷った挙句、シェプリーは端的に理解してもらえそうな言葉を選ぶ。

「あの人、何か隠しています」

 それはシェプリーがわざわざ心を読まずとも、マーシュの態度から充分に察知できたことだった。

 はじめに屋敷に上がることを渋ったくせに、何故地下見たいとエルリックが言い出したとき、同じように拒否しなかったのか。

 勝手に見て回れと言っておきながら酒を差し入れたり、地下の存在を明かしたり、またそこを案内するのを拒まなかったのも妙な話だった。マーシュの気が変わり、捜査に協力するつもりになったのだとしても、不自然な点が多すぎる。

「とにかく、危険です。だからもう、これ以上は――」

 やめた方がいいと続けようとしたシェプリーは、上げた視線の先にあるエルリックの顔を見て、絶句した。

「危険だって? それはまた随分と魅力的な言葉じゃないか」

 エルリックは、屋敷へとシェプリーを引きずってきたときと同じ笑みを浮かべていたのだ。

「あの爺さんが何か企んでいるのは、僕も気付いていたよ。だったら、二人でそれを暴いてやればいいじゃないか。もしかしたら、事件解決に繋がるかもしれないし」

「駄目です! 危険すぎます!」

 シェプリーは自分が前日にルイスにどう言われていたのかを棚に上げ、エルリックを止めようとした。が、相手は全く取り合おうとしなかった。

「大丈夫さ。自分の身を守るくらいはできる」

 胸を張り、自信たっぷりといった具合に拳で叩いてみせるエルリックに、シェプリーはもどかしげに頭を振った。

「僕が言いたいのは、そういうことじゃなくて」

 エルリックはマーシュ個人については警戒しているが、屋敷内の様子には気付いていない。それはつまり、彼自身がオカルトに関する興味と知識はあるものの、シェプリーのような〈力〉を持っていないことを示している。

 そんな相手に、シェプリーが屋敷から感じ取った気配と不吉な印象を伝えたところで、到底理解してもらえるとも思えなかった。

「じゃぁ、一体何がいけないんだい? 僕にもわかるように説明してくれよ」

 シェプリーの煮え切らない態度が腹に据えかねたのか、エルリックは腰に手を当ててシェプリーを軽く睨んだ。納得できる理由を聞くまでは、どうあっても引き下がるつもりはないらしい。

「大体、危険だ危険だって言うけど、そういう君こそどうなのさ」

 エルリックはそう言うと、シェプリーに詰め寄り、その胸を小突くように指差した。

「そんなふうに今にも倒れそうな顔色で言われて、はいそうですかなんて具合に、僕一人で帰れるとでも?」

 エルリックの意外な言葉に、シェプリーは思わず自分の頬に触れた。そして、その指先の冷たさに自分で驚いた。

「ぼ、僕のことはいいんです。僕が言っているのは、あなたの身が心配だから……」

 口籠るシェプリーに、エルリックは盛大な溜息を返す。

「本当にそうかな? 僕から言わせてもらえば、どう見ても僕よりも君の方が村に戻るべきだと思うけどね。それとも、何か事情でもあるのかい?」

 真正面から見つめられ、シェプリーは咄嗟に顔を伏せた。長い睫に縁取られた水色の瞳の奥に、怯える自分の顔が見えたからだ。

 実際、シェプリーは怯えていた。足下がぐらぐらと揺れるような不安定な感触は、シェプリーの記憶の中にしっかりと根を下していた。

 あの荒れ果てた遺跡の側でずっと感じていた重圧は、不吉な予感に彩られていた。

 夢で繰り返された光景と、過去の記憶と、屋敷を取りまく気配との三重奏が、シェプリーの胸と脳とをぎりぎりと締め付け、苛む。

 俯いたまま唇を噛み締めるシェプリーに、エルリックは不貞腐れたように背を向けた。

「……まぁ、言いたくないのなら、別に言わなくてもいいけどさ」

 その代わり、狭い書斎をうろうろと歩き回り、シェプリーの態度に腹を立てているのを隠そうともしなかった。

「じゃぁ、代わりに質問しようか。僕が村に戻るのを承諾したとして、君はどうするんだい? 地下に行くのかい? あの何か企んでいそうな爺さんと二人だけで? そんな具合の悪い身体で?」

 叱られた子供のようにうなだれるばかりのシェプリーを一瞥し、エルリックは小さく舌打ちした。

「確かに君の言うとおり、何かしらの危険リスクはあるだろうさ。だけど、それだったら尚更僕も同行したほうがいいと思うけどね。もし爺さんが地下で襲撃しようなんて考えていたとしても、僕達二人だったら対抗できる。それに、お互いに注意して見ていれば、そんな事態を防ぐことだってできるじゃないか」

 腕を組み、心底呆れたというように言い放つ。

「それは……確かにノーマンさんの仰るとおりでしょうけど、でも……」

「あぁ、もう、じれったいな――!」

 エルリックは苛立たし気に頭をかき、シェプリーを睨んだ。

 人一倍整った顔立ちをした相手に凄まれ、シェプリーは思わず身を竦めた。

 おそらくエルリックは仲間外れにされるのが気に食わないのだろうが、どうもそれだけではないような気もする。しかし、それまで上機嫌だったエルリックが突如として怒り出した理由は、いくら考えてもシェプリーにはわからなかった。

 黙するするばかりのシェプリーに、エルリックは再び小さく舌打ちした。そして、何を思ったのかシェプリーに詰め寄ると、唐突にその手首を掴み、背後の扉を開け放った。

「こんなところで押し問答してる場合じゃないだろう? 爺さんに待ちぼうけなんか喰らわせたら、余計に怪しまれてしまう」

 意外にも力強い手に引っぱられ、シェプリーはよろめきながら廊下に出た。抵抗どころか拒否する暇もなかった。

「あの――ノーマンさん!?」

「エリック」

「え?」

 エルリックは速度を緩めることなく首だけを後ろに向け、小声でシェプリーに言った。

「エリックでいいよ。皆、僕のことはそう呼んでる。だから、そんな他人行儀で話すのはやめてくれ」

 先の剣幕が嘘だったかのような柔らかい笑みを浮かべ、エルリックは片目を瞑る。

「さぁ、急ごう」

 呆気にとられるシェプリーをそのままに、エルリックは一層歩みを速めた。

 軽やか階段を降りて行く背中を見詰めるシェプリーの脳裏に、ふといつも長い溜息をついているルイスの姿がよぎる。

 自業自得だと言う声まで聞こえたような気がしたが、シェプリーは頭を振り、これを打ち消した。

 階下に着くと、ホールの中央で身じろぎひとつせずに立っているマーシュの姿が見えた。手には大きな鍵束と、古ぼけたカンテラを持っている。

 シェプリーは気まずさを感じたが、エルリックはいたって堂々としていた。

「待たせてしまいましたね」

 すっかり見慣れた笑顔で声をかけ、マーシュの側に並ぶ。

 マーシュは答えなかったが、身ぶりで自分の後について来るよう示し、歩き始めた。

シェプリーがエルリックを見ると、彼はすっかり機嫌を直したかのようにシェプリーに向かって頷いた。そして、マーシュの後について行く。

「……どうなっても知らないからな」

 シェプリーは小声で吐き捨てると、二人の後を渋々追った。

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