07:過去からの手紙

 エルリックからの連絡を受けたルイスが夜道を飛ばしてノーマン家の邸宅に駆けつけたのは、時計の針が深夜に差し掛かろうという頃だった。

 石段を一段置きに飛び越えて屋敷に駆け込み、最初に目にしたものは、嵐でも通り過ぎたかのような邸宅の様相だった。一体何が起こったのかと訝しむ間もなく出迎えた執事に案内され、通された部屋に入った途端、ルイスは言葉を失った。

 そこにあったのは、シェプリーの衰弱し消沈しきった姿だった。

 どこかで何かが起こるであろう予感はしていた。しかし、きっと気のせいだと思い、あえてそこから目を背けた。それなのに。

 ルイスは動揺を隠しきれず、戸口で立ち尽くす。

「ごめん、ルイス。僕が付いていながら、こんなことになってしまって」

 エルリックが申し訳ないという顔でルイスに詫びるが、ルイスは首を振るだけに留めた。何か尋常ではない出来事が起こったのは容易に想像がつく。そして、常人であるエルリックにはどうあっても止められるようなものではないことも、ルイスは察していた。もし自分が最初からシェプリーに同行していたとしても、それは同じであっただろう。

「エルリック様」

 オリバーが二人に近付き、声をかける。

「旦那様がお呼びです。ケアリー様もご一緒に」

「わかった、今行くよ」

 エルリックはルイスを促し、ルイスもまた頷き、それに従った。

 三人が通されたのはジェレミーの書斎だった。

 ウィディコムの幽霊屋敷ほどではないが、ここもそれなりの量の書物がうず高く積まれ、納められていた。よく手入れのされた調度品のおかげであの魔窟のようなおどろおどろしさはなかったが、薄暗い照明のもとで見るあやしげな稀覯本の数々はどこか近寄りがたい雰囲気に包まれていた。

 立っているのもやっという体のシェプリーは、オリバーに支えられながら勧められた椅子に座ったが、エルリックとルイスはそうしなかった。オリバーの用意した茶にも、誰も手を付けようとしなかった。

 屋敷には逃げ出した客が残した熱気がまだわずかに残っており、屋敷の使用人たちが散乱した家具や飾り付けなどを黙々と片付けている。その気配を壁越しに感じながら、ジェレミーが集った面々に向けて口を開いた。

「彼と知り合ったのは、かれこれ二十年ほど前、私がまだ大学で教鞭をとっていた頃だ。その当時からオカルト方面に強い関心を抱いていた私は、興味があったものごとについて、その筋の詳しい人物と何度か交流をした後、彼を――フォスター氏を紹介してもらったのだよ」

 当時、ジェレミーはエディンバラ大学に教授として在籍していた。一方その頃のエンジェルは、シェプリーの指導教師に就いたばかりだった。ロンドンとエディンバラ、距離がある上にその頃のジェレミーは多忙を極めており直接面会することはかなわなかったが、何度か手紙を通しての親交を深め、その付き合いはエンジェルが失踪する直前まで続いていたという。

 失神から回復したばかりのシェプリーはその話を聞きながら更なるショックを受け、再び気を遠くしかけた。師がそのような交流をはかっていたことを全く知らなかったからだ。しかしその一方で、改めて記憶を探ってみれば、確かにそのような形跡があるのを今更ながらに気付くのもまた事実であった。

 住み込みの指導教師とはいえ、四六時中そのことに従事していたわけではない。彼には、彼なりに研究しているものがあった。世界中に散らばる巨石や遺跡と、それにまつわる伝説等についての調査だ。ソールズベリーでの事件は、その調査旅行中の出来事だった。

 エンジェルはそれらの調査を一人で行っていたわけではない。ロンドンに居る間も頻繁に手紙のやりとりをしていたし、その文通相手とおぼしき人物が各地の調査旅行では協力者となってたのはシェプリーも知っている。

 もっとも、彼らはエンジェルが失踪した後、手のひらを返したように態度を一変させ、シェプリーからの要請を断ったのだが。だからこそシェプリーは、彼らの存在を無意識の内に除外し、忘れていた。それなのに、そのうちの一人がまさかこんな近くに居たとは。

 しかもそれが、数奇な巡り会いをしたエルリックの身内であるなどと、誰が想像し得ただろうか。

 そんなシェプリーの衝撃を余所に、ジェレミーは話を続ける。

「エリック、お前ならわかるだろう。その当時、私が何に関心を持っていたのかを」

「ええ、まぁ……」

 エルリックは再び蒼白となりつつある友人の顔と、ジェレミーとを見比べながら、戸惑いつつも口を開く。

「確か、ポナペ一帯に伝わる海神と、その眷属……ですよね?」

「そうだ。そして、それら全ての根源となる存在についてだ」

「根源?」

 その言葉にまとわりつく不穏な響きに、エルリックは隣に立つルイスと顔を見合わせる。

「それは一体……?」

 一同の視線を一身に受けながら、ジェレミーは重々しく語り始める。

「あらゆる神話の源であり、人の精神、魂が感じ得るおよそすべての感情、恐怖、畏れの原因でもあり、そしてこの世界の――いや、宇宙の成り立ちにまで遡ることが出来るであろう、深淵そのものだ」

 〈それ〉について直接言及されたものは少ない。だが、確実に存在するものとして、有史以前から記録はなされていた。

「私は元々精神科医として、患者達が抱える症状について研究をしていた。想像、妄想、あらゆる感情……それら精神世界を探るうちに、彼らに共通するものがあることに気付いたのだよ」

 〈それ〉は病巣による肉体的な損傷によって引き起こされる場合もあったが、ほとんどは彼らが視る夢、深層意識に刻まれているとしか思えないものだった。

「巫女や神官、シャーマンと呼ばれる者達が語る預言は、ただの脳疾患による妄言だろうか? 多くの神話は、ただの絵空事、夢物語か? ――いや、違う。理屈を越えた直感による、これから起こりうる事象、あるいは過ぎ去った過去を覗き見ることのできる力によるものだ。そしてそれらを語る神話類は、事実、史実を後世に伝える器として、物語の形をとっているだけだ。私はそういった世界中の神話や不思議な物語を探るうち、患者達が共通して視るビジョンの中に、一つの道筋があることに気付いた。フロイトやユングが提唱した集合無意識の世界に近いものだろう。そして、その奥底に潜むものがいることも。

 〈それ〉にまつわるものは、世界各地に点在している。しかし、、あまりにふるすぎるため、特に有史以前のものについて研究されているものについては、皆無といっていいほど……いや、探るのはほぼ不可能だろう。何故なら、〈それ〉は時空そのものと一体化しているだからだ。我々が今こうして体感する時間、空間、それらを含めた全ての世界そのもの・・・・・・なのだよ」

 ジェレミーの話を聞きながら、シェプリーはエンジェルが失踪直前に語ってくれた言葉を噛みしめる。

 そう、彼は確かに言っていた。現場に居合わせた者達に向けて語った、ときに関する話。巨石を前にし、肌で感じた尋常ならざる存在感と圧力プレッシャー

 彼があのとき仄めかしていたのは、神話ではなく、実在する驚異のことだったのだ。

「ウーブル君」

 ジェレミーは毛布を被って項垂れるシェプリーに歩み寄る。

「君のことはフォスター氏からの手紙でずっと以前から知っていたよ。とても優秀で、将来の期待できる逸材だとね。それから、君がフォスター氏と共にそういった遺跡を巡っていたことは知っている。何しろ、彼との手紙とのやりとりで、いろいろと読ませてもらっていたから」

「――だったら、どうして!」

 シェプリーは声を荒げ叫んだ。

「どうしてあの後、名乗り出てくれなかったんです!」

 自身であげた声が頭蓋の内で響き、目が眩む。抑えきれぬ怒りがシェプリーを突き動かす。そうしてジェレミーを睨み付けながらも、こうすることが無駄だというのも同時に悟っていた。

「……そうだな。それについては本当に済まないと思っている」

 ジェレミーはシェプリーの前に跪くと、懐から一通の手紙を取り出た。

「これは、あの事件でフォスター氏が失踪した晩に、私のもとに届いたものだ」

 目の前に差し出された色褪せた手紙を、シェプリーは震える手で受け取る。几帳面ともいえる筆跡で綴られた文面は、間違いなくエンジェルがソールズベリーの安宿からジェレミー宛に出したものだった。

「フォスター氏は、自分の身に起こることについて言及していた。そして、事が起こった後で私にどうするべきかについての指示が書いてあった。そう、つまり、君が助けを求めて来ても、決して接触するなと。私たちが〈それ〉を知ると言うことは、同時にまた彼らも私たちの存在を知ることに繋がる。だからこそ、フォスター氏は君を護りたかったんだよ。そして〈それ〉に悟られぬよう、君には真実を伝えなかった」

「もう手遅れです」

 シェプリーは再び項垂れ、絞り出すように呟いた。

 時を遡った先でシェプリーは〈視〉た。深淵の中心、輝きながら泡立つものを。一瞬目にしただけで痴れ狂うであろう衝撃を受けても尚、こうして正気を保っていられるのは、文字通り命をかけてエンジェルが託してくれた指輪のおかげだろう。いつから用意されたものだったのかはわからないし、できれば知りたくもなかったことだが。

「そうだな」

 ジェレミーはそう答えただけだった。同じ深淵を覗く者として、可能な限り災いから身を守るためのすべを授かっていながら、何も出来なかったことに対する悔しさともどかしさを、彼もずっと抱えていた。しかしそれをここでつまびらかにして許しを請うたところで意味はないだろう。それをわかっているからこそ、ジェレミーは事実しか伝えぬと決めていたし、シェプリーもその気持ちを感じ取っていた。

「……え? それじゃあ、ジェレミー叔父さん。さっき言っていたのは、まさか?」

 エルリックが遠慮がちに口を挟む。失神したシェプリーを前に放った叔父の言葉の意味を、今ようやく理解したからだ。

「そうだ。今日、この夜、私が何をするべきかについてもここに書かれていた。ウーブル君、君がどれほどの力を持つのか試し、その力量が足りうるならば、真実を明かすようにと」

 ジェレミーは再び上着のポケットに手を差し入れると、そこから古びた鍵を取り出した。一同の視線がジェレミーの手中に集まる。

 シェプリーは瞑目し、目の前に差し出される鍵を見つめた。

「……それは?」

「届けられたのは手紙だけではなくてね。あの晩は、ロンドンもひどい嵐だった。嫌な胸騒ぎがして眠れずにいた私のもとに、これも届いたんだよ。窓からね」

「窓から?」

「そう、君にさっき視せてもらった世界の中に居ただろう。あの無貌の生物が、私に届けに来たんだ。もちろん直接目にしたわけではないがね。だが、あの嵐の中を飛び去った姿は、間違いなくあの異形のものだった」


『たった今、荷を運ばせたところだ』


 シェプリーの脳裏に、エンジェルが告げた言葉が蘇る。 

 忽然と消えた荷物。窓から聞こえた、何か大きなものが羽ばたく音。

 いずれ道は示されるであろうとは思っていたが、まさか今がその時だったとは。

 ほとんど失神しそうな衝撃を受けながら、シェプリーは辛うじて踏みとどまった。驚くことが立て続けに起こりすぎて、神経が麻痺していたのもある。

「テムズ沿いの倉庫の鍵だ。場所は後で詳しく教えよう。そこを知っているのは私とオリバーだけだから、その点については安心してほしい。それと、君が望んでいたものについても手配しよう。約束する」

 大英博物館の地下室――稀覯本を閲覧するための部屋のことだ。思いがけず望みが叶ったわけだが、今のシェプリーには何の感情を起こさせるものではなかった。

 シェプリーはゆるゆると手を伸ばし、ジェレミーから鍵を受け取る。

「ありがとうございます、ジェレミー卿」

 それだけを言うのがやっとだった。


 時計の針が深夜を通り過ぎ、ノーマン家の使用人達も荒れた邸宅の片付けをほぼ終えた。

 シェプリーがルイスに支えられながら玄関ホールを抜けようとしたときだった。

「シェプリー」

 エルリックが二人に追いつき、声をかける。

「その……ごめん。何て言ったらいいのかわからないけど、でも、叔父のことを悪く思わないでくれ。あの人なりに考えてのことだったと思うし、それに――」

「いいよ、わかってる」

 疲労を目の下に滲ませながら、シェプリーはエルリックの言葉を遮った。誰が悪いかなどという問題ではないことは十分に理解しているし、もしそうであったとしても、もはや誰かを責めようという気などは完全に失せていた。

 どう足掻いても師が敷いた道筋から外れられないのならば、全てを受け入れるしかない。もとから分かっていたことだった。

「気にしないで」

 それだけ言い置いて、シェプリーは踵を返す。

 ルイスはちらりとエルリックを一瞥したが、やはり何も言わずシェプリーの意思に従った。

 どこかで夜鷹が鳴いているような気がしたが、それを確かめるような気力など残っているはずもなく、シェプリーはルイスの車に乗り込むと、そのシートに深く身を預けて目を閉じた。もう何も考えたくなかった。

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