06:ウィディコムの悪魔
空は、黒一色の世界から刻一刻と変貌を遂げつつあった。
はじめは群青。次に、青。
草原を渡る緩やかな風が、夜の
風は、草原の中にぽつんと建っている小さな村にも朝の到来を告げた。
ウィディコム村の宿の一室。開け放したままの窓から滑り込み、傍らの白いカーテンを揺らす。
しかし、シェプリーはそれを見てはいなかった。
宙をさまよう目はまだ空ろで、そこに映っているものが何であるのかを認識していない。シェプリーは今、軽い見当喪失に陥っていた。
つい先程まで、彼は自らの夢の中にいた。
浅く微睡みながら、けたたましく啼き喚く夜鷹の声を聞き、風
(何だ、今のは……)
暗く長い路の向こうから響いたそれは、聞く者の胸に突き刺さるほどに、すさまじい恐怖にかられたものだった。
(誰?)
夢の中で聞いた絶叫は、まだ耳に残っていた。その声に聞き覚えがあるような気がして、シェプリーは焦りを感じた。だが、わからない。思い出せない。
(誰だ――?)
甘く痺れていた全身の感覚が蘇りはじめる。が、まだ完全には回復できなかった。目の前にある天井がぐるぐると回っているような感じがして、シェプリーは深く息をついた。〈
まるで他人のもののように感じられる重い身体を何とか動かして寝返りをうつと、開け放したままだった窓から、丘の上に光の幕が広がるのが見えた。
薄青の空はますます色を失い、白く透明な光に満ちたものへと変化を遂げてゆく。色の変わり目のあたりに虹のような幕が広がっていたが、それも朝日が登るにつれて、徐々に消えていった。
シェプリーは眼を細めてその様子を見ながら、つい先まで見ていた夢の内容を反芻した。夢は、いつまでも形をとどめない。時が過ぎれば、朝露のように消えてしまう。記憶にとどめている間に、少しでも多くの情報を読み取らなければならない。
シェプリーは再び寝返りをうつと、おもむろに左腕を引き寄せ、手を開いた。そこには、昨日屋敷の地下でエルリックが見つけたブローチがあった。
(……あれは、こいつの記憶なのか?)
昨晩、シェプリーは夢を視るために、新聞記事に一通り目を通した後、これを手に眠ったのだ。ブローチに刻まれた記録を読み取るために。
空間に何らかのエネルギー体の記録が照射されることがあるのなら、物体そのものにも同じ現象は起こりうる。霊魂という存在を察知できるシェプリーは、同じように物体に刻まれた痕跡も辿ることも出来た。
シェプリーは、それをより確実に、そしてより明確なイメージを得る方法を選んだ。夢を通して、様々なものを視る事である。
夢というのは、人体における単なる生理現象ではない。もっと深い意味を含んだ、一つの世界そのものでもある――そう教えてくれたのは、エンジェルだった。
幼い頃、まだ物心がつく前から、シェプリーには常人には理解のできない不思議な能力があった。
死んだ人間や動物の姿を視たり、彼等と話をしたりする他に、手も触れずに物を動かしたり、他人の心を読んでしまう事、物に触れたり見たりするだけで持ち主に関する事柄を知ったりする事など。そして、夢を通して様々なものを視るというのも、そのうちの一つだった。
シェプリーが夢で視る光景の多くは、生まれるよりも遥かに以前の光景であったり、あるいはごく近い未来に起こる出来事であったり、また時間や場所などを全く特定のできない未知の光景でもあったが、そのどれもにいえたのは、現実以上に現実味をおびた生々しいものであるという事であった。
そのため、まだ幼いシェプリーには現実と夢との境界が非常に曖昧で、判断のつけにくいものだった。加えて、過敏ともいえる霊媒体質のせいか、シェプリーは周囲から奇異の目で見られ、恐れられ、そして、疎まれてきた。無知と不理解による偏見との間で、とても不安定な精神状態のまま育ったのだ。
しかしそんな不遇な状況も、ある人物との出逢いで解消された。エンジェル・フォスター――病弱な息子のために、シェプリーの父がどこからか探してきた家庭教師である。シェプリーは詳しい事は知らないが、オースティンが事業の関係で遠く離れた南洋に赴いていた時に、現地で知り合った人物から紹介されたのだという。
シェプリーにとって幸いだったのは、エンジェルが単なる家庭教師に留まらず、超常現象や能力についての知識と理解を深く持ち合わせていたことであった。
他人には単なる恐怖の対象でしかなかった能力も、エンジェルには取り立てて騒ぐものではなかった。それどころか、子供であるシェプリーにも理解できるようにと、可能な限りの説明と指導をしてくれたのだ。
「人のあらゆる意識と無意識の集合する場所、それが、夢と呼ばれる世界だ。あらゆる事象を君の無意識が受け入れ、その上で君がほんの少し覚醒さえしていれば、世界は無限に広がる可能性を持っている」
遠い昔、琥珀色の瞳から注がれる視線を受け止めながら聞いた言葉は、成長した今でもシェプリーの記憶の中にしっかりと刻まれている。かつて、エンジェルはこう言った。
「私達が過去や未来に思いを馳せる時、思索の中での意識体は実際に時間を遡行、または進行している。しかし、意識体の体験を実感できる人は至極僅かだ。だが、一つだけ、人がその状態を極めて容易に実現させられる状況がある……わかるかね?」
琥珀にも似た瞳に笑みを浮かべ、エンジェルは言葉を続た。
「夢だよ。人が常識や自我の束縛から、その意識を解放できる場所。それが、夢の世界だ」
現実では、過ぎ去ってしまった事実を覗くことはできない。しかし夢の中でなら、時間も空間も、あらゆる法則を無視することが可能である。そして、人はその世界で体験した事柄を、記憶として脳に蓄積できる。
しかし、多くの人が見る夢には、秩序だった世界も系統だった時間帯もない。過去も未来も混在した状態のまま、すべてが現在の出来事として認識される。すでに成熟した大人であっても、子供の頃の夢を見るように。そして、その夢を見てる自分自身が、疑いもなく子供だった頃の精神状態であるるように。
ならば、もし夢の中で自我を保つことができたのなら、どうだろう。あるいは、完全に夢を見ずとも、脳をそれに近い状態にまで持っていくことができたのなら?
「記憶は時間を内包する。同じように、時空も内包する。例えば、君が今この場で、アラスカのことを思い浮かべたとしよう。肉体はこの場を離れることはないが、君の意識は、もうその時点でアラスカの氷上に存在している――君がアラスカについて幾らかの情報をもってさえいればの話だがね。そして、それは夢でも同じことだ。アインシュタインが提示した時空連続体の先、四次元とは、すぐ目の前にある。人体の内にさえ、ね。
そう、夢はどこかで地続きになっている。夜毎に見るものが断片的な世界の側面にすぎなくとも、そこには必ず何らかの真実の欠片が含まれているのだよ。そして、シェプリー。君には、それを視る力がある。ただ、残念なことに、君自身はまだその力を使う準備が出来ていない。だから、私がその手助けをしてあげよう。誰にも脅かされることのないように。君が夢に迷って、自分自身を見失わないように――」
こうしてシェプリーは、エンジェルの下で様々な知識を貯え、それまで単に恐れられるだけだった能力を制御し、より効果的に行使する技術を学んだ。
不可解なものを理解し、制御しようと先人達が築き蓄えてきたものが知識であり、学問であるように、シェプリーもまた、自身の能力とそれを取り巻く世界についてをエンジェルから学びとった。
そしてシェプリーは昨晩、その教えのとうりに夢見を行い、確かにそれを視たのだった。だが。
「違う」
ようやく覚醒しはじめた脳が、違和感の正体を突き止める。
目醒めの直前に飛び込んできた絶叫。あれは、ブローチに刻まれた記録とは感触が違った。なにより、あの声の主は男の声だった。間違っても女学生であるコニーの声ではない。
シェプリーはベッドから半身を起こし、手の中のブローチに目を向けてみた。
失敗したのかとも思ったが、すぐにその可能性を否定した。
夢見の条件は揃っていた。事件の現場となったと思われる屋敷へ行き、自分の目で確かめた。屋敷についての話を聞き、新聞などからも可能な限りの情報を拾った。そして、学生たちが使用した部屋で眠った。手に、コニー・リトルウェイのものと思われるブローチを持って。
多少疲れてはいたが、それ以外には問題なかった。否、むしろ充分すぎるほどの好条件のはずだった。これで失敗するなどとは、今までの経験から考えてもありえない。
では、あの声は一体誰の、そしていつの記憶なのだろう? そして、あの光は?
シェプリーが必死になって考えを巡らせていると、廊下から誰かの足音がばたばたと響いてきた。続いて、シェプリーの部屋の扉を叩く音が。
遠慮がちで、それでいて性急そうなそのリズムに、何やらただならぬを感じ取ったシェプリーは急いで起きた。
立ち上がった瞬間に目眩を感じはしたが、なんとかこらえて扉の前まで歩み寄る。身体の感覚は、すっかり元どうりに回復していた。
鍵を外して少しだけ扉を開くと、そこには宿の夫人が、今にも倒れそうなほどに真っ青な顔で立っていた。
「ああ、居らしたのね。あなたは居らしたのね」
そう言って胸の前で両手を組み、心底安心したように泣き出す夫人の姿に、シェプリーは嫌な予感がした。
「何があったんですか」
「いえね、その……あの……」
夫人はおろおろと隣の部屋とシェプリーの顔を見比べ、言った。
「居ないんです」
「え?」
「お連れの方――、ノーマンさんが、どこにも居らっしゃらないんです」
どんなに早起きの人間がいたとしても、まだ大方は夢の中だというのに、けたたましい電話の音に叩き起こされ、ルイスは不機嫌だった。更に付け加えれば、その内容も極めて不愉快なものだった。
「はぁ!?」
受話器を握りしめ、思わず頓狂な声をあげてしまう。
「ちょっと待て、シェプリー。すぐ来いって、行けるわけがないだろう!」
しかし、「いいから! 出来るだけ早く!」との一言であっさりと躱され、現在位置を簡潔に知らされただけで電話も切られてしまった。
「ったく!」
叩き付けるようにして受話器を置いて、ルイスは昨晩脱ぎ捨てたままの上着と帽子をとった。
自分の直感に従って部屋に戻らず、そのまま事務所で寝ていたのが幸いした。身支度もそこそこに、必要なものを詰め込んだ鞄を引っ掴み、事務所を飛び出す。
外はようやく日が登ったばかりで、まだ周囲には乳白色の薄靄がかかっていた。もう暫くすれば、この霧も晴れて、昨日と同じような清々しい青空が街を覆うのだろう。
「おや、お早いですな」
丁度、早朝巡回の巡査がものすごい勢いで飛び出してきたルイスに遭遇し、驚きつつも声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
「今から田舎まで大急ぎで出かけなきゃならならない用事が出来てね」
「ははぁ。こんな早くから、大変ですなぁ」
「ああ、まったく。大変すぎて、涙も出ないよ」
答えながら、ルイスは玄関に鍵をかけ、階段をひと跨ぎで降りた。そして、すぐ目の前の道路脇に寄せて停めておいた自分の車――オースティン・セブンに駆け寄った。この車は、とある仕事の報酬がわりに、依頼主から貰ったものだ。
この時の依頼主はさる貴族で、内々に処理してくれとの事だった。早く言ってしまえば身内の不始末に関する事柄である。シェプリーがあまり金銭には執着しないのと、丁度その当時に使っていたルイスの車が不調だったので、代わりに新車を提供するということで話がついたのだ。
貰ったものとはいえ、前の年に発売されたばかりの最新型である。二人乗りの緑の車体はスリムで、コンパクトで、ロンドンのような狭い街を走るには丁度良いサイズだ。長距離には向かないかもしれないが、一番列車にはまだ一時間ほど待たねばならない。駅で苛つきながら時計を睨んでいるのを考えれば、田舎道を疾走していた方がまだ気分もいい。
扉を開けて鞄を放り込み、エンジンをかける。エンジンはすこぶる調子のよい音をたてて、一発で始動した。
「やれやれ。本当に、人使いが荒いったらありゃしない」
長い道中はシェプリーに言う嫌味でも考えておこう。ルイスはそう思いながら、まだ夜明けの名残りを見せる西へと向かって車を走らせた。
窓の外から耳慣れたエンジン音が近付いてくる。
顔を上げたシェプリーは、窓の正面から真直ぐ伸びた道の向こうに、田舎には似つかわしくない緑の車を見付けた。舗装の充分でない道にその小さな車体をガタガタと揺らしながらやって来たのはもちろん、今朝方シェプリーがロンドンから呼びつけたルイスである。
シェプリーはそれまで目を通していた古びた本を引っ掴み、そのまま部屋を飛び出す。狭い廊下を抜けて階段に差し掛かった時に、様子を見に来た牧師と正面衝突しそうになった。
辛うじて躱したシェプリーは、階段の手すりに縋り付いて腰を抜かしている牧師には目もくれず、「また後で来ます!」とだけ叫んで、階段を駆け降りる。
教会から転がるように飛び出すと、丁度緑の小さな車がスピードを緩めながら停車する所だった。
不機嫌そうな顔が運転席からシェプリーをにじろりと睨むが、シェプリーは見ていない。反対側に回り込むと、泥だらけのドアを開けて素早く乗り込んだ。
「話は後でする。とにかく出して」
「俺はタクシーじゃないぞ」
「いいから早く!」
ルイスは小さく舌打ちし、アクセルを踏み込んだ。
バックミラーには、朝の一仕事を終えて休憩をしていた村の農夫たちが、遠巻きに車を眺めているのが映っている。それらの視線の中に、新車に向けられる興味以外のものが含まれているのを感じながら、ルイスはあがった息を整えているシェプリーに尋ねた。
「で? どこまで行けばよろしいんですか、お客さん」
「そんなに怒らないでくれ。悪いとは思ってるんだから」
「はいはい、そうですか」
シェプリーは不貞腐れるルイスに苦笑を返し、ひとまずの行き先を告げる。
「このまま真直ぐ。あの丘の梺まで」
ルイスの目はシェプリーが指差す方向の先に、なだらかな丘陵に添って生い茂る雑木林を捉えた。
前日はあれほどよかった天気も今日はいまいち奮わない。灰色の曇天の下、小路を覆い隠すような木々の合間にルイスは車を停めた。
車から降り、普段よりも何割か増しの力でドアを閉める。長距離を疾走してきたばかりのボンネットはまだ熱を持っていて、中のエンジンが持ち主に代わってキンキンと音を立てて抗議していた。
舗装の充分でない田舎道を走り続ける事延々と三時間。一時間毎に給油と注油とを挟んだとはいえ、ほとんど休み無しで走ってきたのだ。まだ新車でよかったと、ルイスは口中でぼやいた。これが前の中古車だったら、ここに辿り着く前に確実にどこかが壊れている所だ。
「さぁ、全部話せ」
「ルイス、とにかく落ち着いてくれ。じゃないと、話し難い」
シェプリーも続いて車から降り、苛々と懐の煙草を探るルイスの側へと行く。
「いろいろ言いたいことはあると思うけど、まずは最後まで僕の話を聞いてくれないか。その後だったら、何を言われても構わないから」
そらきた――声にこそ出してはいないが、ルイスは露骨に嫌そうな表情で身体を引いた。
こういう時に相手から出るのは、言い訳付きの失態報告と相場が決まっている。悪戯をした後に、怒られないかどうか母親の顔色を窺う時に子供が使う常套句だ。
ルイスは取り出した煙草をくわえると、車に寄り掛かりながらそれに火を点けた。それから、充分に落ち着くために一服をしてから、空いている方の片手だけを動かして、シェプリーを促した。
シェプリーは頷き、昨日から今朝にかけての出来事を、一気に語って聞かせた。
エルリックと知り合って共に幽霊屋敷へ行ったこと、屋敷での印象と自分が感じた違和感の事、地下室の存在と、そこで拾ったブローチのこと、そして、エルリックが宿から居なくなった事まで差し掛かった時――
「冗談だろ?」
ルイスが口を挿んだ。そして、長い、長い溜息を吐き、その場に座り込む。
昨日の電話の様子から何かあったとは予測はしていたが、ここまでとは思ってもいなかった。まだ夜も明けきっていない内に叩き起こされ、恐ろしいほどの長距離を走らされ、挙げ句の果てに、他人まで巻き込んだ事を聞かされたら、どんなに頑強な精神を持つ者でも目眩を感じざるを得ない。
やはり、別行動案には断固として反対姿勢を貫くべきだった。足並みが揃うまでは、椅子に括り付けて部屋に閉じ込めてでもロンドンに停めておくべきだったのだ――しかし、今さら後悔しても遅い。
「ルイス、最後までちゃんと聞いてくれ」
シェプリーは、がっくりと項垂れるルイスの正面に同じように座り込むと、上着のポケットからハンカチに包んでおいたものを取り出した。
「これがそのブローチだよ。地下で、エリックが見付けてくれた」
ルイスは顔を上げ、目の前に差し出されたそれを受け取る。
木漏れ日に翳し、細部にいたるまでを綿密に観察するその手は、次のシェプリーの言葉に、動きを止めた。
「僕はゆうべ、そいつで夢見をした」
ルイスが視線をブローチから目の前で顔を突き合わせているシェプリーに向けると、彼はそれを待っていたかのように微かな微笑みを浮かべた。
ルイスはそこでようやくシェプリーの目の下に、くっきりと疲労の色が滲んでいるのに気付いた。
シェプリーはそんなルイスに再び微笑みかけると、路の向こうを指し示しながら立ち上がった。
「視たよ……あの屋敷をね。それから、屋敷にまつわる昔話も、教会で調べてきた。知りたいだろ?」
そう言って、教会を出る時からずっと持っていた小さな本を掲げてみせる。
「それは?」
「昔の教区担当者の日記だよ。牧師さんに頼んで、村の記録を見せてもらって、その中から見付けた。本当は、昨日のうちに調べるつもりだったんだけど……」
早朝、電話をかけてからずっと検索にかかりっきりだったのだろう。おまけに、夢見までしたというではないか。怒る気力もタイミングも完全に失い、ルイスは力無く笑った。
シェプリーの夢見については、ルイスもよく知っている。今までにも何度かその恩恵を受けてきたのだから。特に困難な捜査の時、一足飛びに結論まで達する事の出来るその能力にはルイスも一目置いていたが、シェプリーのその能力には、大きな代償が必要とされるのも知っていた。
だから普段は本人もあまり頻繁には使おうとはしないし、ルイスもできれば頼らなくても済むようにと考えて行動していたのだが、どうやら今回ばかりはそういう具合にはいかないらしい。
ルイスは殆ど吸わないままに終わった煙草を捨て、立ち上がった。そして、まだ煙のあがっているそれを靴で揉み消しながら言った
「続けろよ。夢見の結果と、その日記の内容――簡潔にな」
うまく言い逃れられたような気もするが、今はこれ以上は追求しない事にした。第一、こんな所で、無為に時間を消費していられるような状況ではない事くらい、ルイスにもわかっている。
「そうだね……じゃぁ、まずはこの日記の内容から話そう。その方がわかりやすいだろうから」
シェプリーは視線を手の中の古い日記に落とし、口を開いた。
「この日記は、西暦1600年から1605年までの事が書かれてる。問題なのは、1603年の出来事だ。その年、何があったと思う?」
「勘弁してくれ。歴史は苦手だったんだ」
「何言ってんのさ。処女王エリザベス1世が崩御して、スコットランド王ジェームズ・ステュワート6世が戴冠した年じゃないか」
「何の関係があるんだよ」
「大ありさ。ジェームズ6世が何をしていたのか、君、知らないの?」
ルイスが両手を広げて肩を竦めてみせると、シェプリーは心底呆れたような目を向け、言った。
「魔女裁判だよ」
「魔女裁判?」
「そう。彼は自分も異端審問官になって、率先して魔女裁判を行ってたんだ。要は、魔女狩りだ。魔女裁判といっても、裁かれるのは女性だけじゃない。悪魔に加担したりその下僕だとみなされた者は、男でも容赦しなかった。彼の審判は苛烈を極めて、多くの人が処刑されたんだ。それでね――」
変色した頁を捲りながら喋るシェプリー声が、一段と低くなる。
「その魔女狩りから逃れた一人の男が、この地に住み着いたんだ。後に村の皆が恐れるようになる、魔法使いと呼ばれた男の事だよ」
その男がどこから来たのかは、誰も知らなかった。
それがいつ頃なのかというのもはっきりしておらず、村の者が気付いた時には、男は誰も寄り付かない丘の上に居を構えていた。
この丘をもう少し越えた所には錫の採掘のための坑があったが、もう随分と昔にすっかり掘り尽くしてしまい、打ち捨てられたままの作業小屋を密かに改良して住み着いていたのだ。
誰も居ないはずの小屋から一筋の煙が上がっているのに気付いたのはそれから大分経ってのことで、不審に思った思った村人数人が様子を見に来た時には、小屋はすっかりと様相を変え、小さくも頑丈な砦のようなつくりになっていた。
ただただ唖然とする村人達の前に、館の新たな主人となった男が現れた。
男の背は高くもなく低くも無く、太くも細くもなかった。ただ、奇妙なことに、彼は口元まで覆い隠す薄汚れたフードを被り、まるで日光にあたるのを拒絶するかのようないでたちをしていた。また同じように、手にも服と同じ色の手袋をはめ、決して素肌を曝そうとはしなかった。
訝しむ村人を前に、男は挨拶が遅れたことを詫びると、非礼の償いとして幾許かの薬を手渡しながらこう言った。
「これは何にでも効く薬だ。怪我でも病気でも、どっちでもいい。怪我ならそのまま塗ればいいし、病なら湯で煎じて飲ませればいい。あんたたちは農夫だけじゃなく、坑夫もいるだろう。きっと重宝するだろうよ」
昼でも暗いその影の中から発せられる声もまた酷く
「ところで、あんた達に二つほどお願いしたいことがあるんだがね」
今後、もしまたこの館を訪問する事があれば、できれば昼のうちにして欲しい、そして夜にはなるべく屋敷には近付かないで欲しいと、男は言った。
何故かと問う村人に、男はただ忍び笑いを漏らすだけで、その声は聞いた者のほとんどが何かしらの不安を掻き立てられるものだったという。
「困ったら来なさい。薬はいくらでも作れるから」
言うだけ言うと、男は早々と館の中へと戻っていった。後に残された村人は、互いに顔を見合わせ、各々が手にした薬を前に首を捻るだけであった。
一旦村へと戻ったものの、村人たちの内心はやはり不安で仕方が無かった。彼等は、北の国では魔女狩りが盛んに行われているようだというのを、風の便りで知ってた。おそらくはそこから逃れた輩のうちの一人なのではと考える者もいたが、誰も直接問いただそうとはしなかった。万が一、男が本物の魔法使いであった場合の方が恐ろしかったからである。
とはいえ、村にも昔から伝えられてきた薬草の知識や、ちょっとした
教会がこんな辺鄙な土地にでもその教えを広め、多くの者が新たに定められた神を受け入れて祈りを捧げるようになっても、そういった知識や迷信などは深く生活の中に根ざしていたのだ。しかし、男が差し出した薬については謎の部分が多く、原料さえも皆目見当がつかない得体の知れないものであった。
村の唯一の憩いの場で酒を飲み交しながら皆で薬を囲んで相談しているうち、誰かが薬を試してみようと言い出した。ここで考えていても仕方がない。どんなものなのか、試してみればわかるではないか――と。
そこで彼等はまず、怪我をしていた家畜に薬を使ってみる事にした。さすがに、いきなり人に使うのは躊躇われたからである。
選ばれたのは、足に怪我を負って弱っていた羊だった。手当てはしたものの、もうすでに傷口は膿んでおり、悪い病気を蔓延させる前に処分しなくてはならない状態だった。
羊の持ち主は当然嫌がった。が、効果があれば儲けもの、なくてもどのみち失うものは少ないではないかと皆に説き伏せられ、 結局は渋々ながらも薬を使う事に同意した。
傷口に塗って清潔な布で巻き、様子をみること数日。居合わせた者すべての視線が見守る中、羊は徐々に回復し、厩舎の中を元気に跳ね回るまでになっていた。男の薬は、驚くほどよく効いたのである。
更に村人を驚かせたのは、傷口がすっかり塞がるどころか、傷跡さえも綺麗さっぱりと消え去っていた事であった。その後も暫くの間、羊は逐一状態を観察されたが、心配するような変化も特に無く、すっかり元の健康な状態を取り戻していた。
これは素晴らしいと、ほとんどの者は喜んだ。特に、錫の採掘場で働く男達には朗報ともいえた。辺鄙な場所であるために医者もおらず、暗い坑内で起こった事故などの際には――落盤などの場合には助かる見込みはなかったが――それでも不注意から招く怪我などには有効だと判断したのだ。
しかし、村に住む全ての者が手放して喜んだわけではなく、村の最年長者でもありまとめ役をも担っていたトム・バーンズ老人と、教会のウィロビー・ターナー牧師の二人は、浮かれる彼等とは違い、常に冷静さと男に対する猜疑心を失わなかった。
「お前達、気をつけた方がいいぞ。訳のわからんものほど、存外その裏には恐ろしいものが隠れていたりするもんだからな」
事あるごとにバーンズ老は若い者たちに諭したのだが、まともに取り合う者はおらず、彼等が真実を思い知るに至るまでは、まだまだ多くの情報と、そして長い時間が必要であった。
村に住み着いた男は自分の事をディシールと名乗っていた。
用済みの坑道に村人が足を伸ばす事もなければ、ディシールの方から必要以上に村へと赴いたりする事もなく、最初の接触を果たした後暫くの間は、双方は一定の距離を保ったままでいた。
時折、ディシールの方からその境界を越える事もあったが、せいぜい日々の生活を送るために必要な食料を買い求めたりする程度の事であり、それ自体には特に目立って不審な行為ではなかった。しかし、買い物の際に彼が代金として残してゆく少量の
「どこで手に入れたんだろう?」
何度かの訪問を受けた後、村を去ってゆくディシールの後ろ姿を遠巻きに見送りながら、誰もが不思議に思いはじめていた。
ディシールが持って来る金はきちんと精製されたものではなかったが、村人が普段使用している汚れきった銅貨よりははるかに高価なものだった。館の近くには、以前、錫の採掘に使っていた坑道があった。けれど、あそこから金が採れたという話は聴いたことがない。
「そりゃぁ、お前、あれは魔法使いだからだ」
酒場で額を寄せ合い談義する若者達に、それまで店の片隅で静かにジョッキを傾けていたバーンズ老人が口を挟んだ。
「錬金術だ。金でないものから金をつくる魔法だ。竈で燃やしとるのも、魔法の薬作るためのものに決まっとる」
老人の言葉に若者達は笑った。彼等も迷信を全く信じないわけではなかったが、この老人の、ことあるごとに魔法だの何だのと言い出す癖に辟易していたのだ。しかし、だからといって全く笑い飛ばしてしまう事も出来なかった。魔法の薬――羊の足を治してしまった、あの薬の存在が彼等の頭から離れなかったからだ。それに、よくよく冷静に考えてみれば、そもそもあの館は誰が建てたのだろう? 老人がたった一人で立派な館を建てられるだろうか。
館からは日がな一日黒い煙が上がっており、その様は、村の中からでもよく観察できた。真っ黒で蛇のようにうねりながら消えてゆく煙は、明らかに暖をとる為のものでも食事の支度の為のものでもない。一体何を燃やしたらあんな煙があがるのか、誰もが不安げに空を見上げては聖なる印を切ったものだった。
異変が起こったのは、それからほどなくしての事。赤茶けた荒野が白い霜に覆われる万聖節の頃であった。
丁度その頃、村人の間で悪風邪が流行りはじめていた。
古くから伝わる療法も薬も大して効かず、大半の者がこの悪風邪にやられてしまった為に町へ医者を呼びに行く事も出来ず、このままでは村人全員が死んでしまうのではと危ぶまれるほどのものだった。ところが、事態は意外な方向から好転した。一人が、いつだったかに得体の知れない男から貰ったあの薬の存在を思い出したのである。
羊の怪我は治ったが、人の病まで本当に治せるのだろうか。効果に疑問を持つ者も居たが、背に腹は変えられなかった。
幸い、薬は期待どうりの効力を発揮し、村人達は徐々に病から解放されていった。しかし困ったことに、貰った薬は少なく、全員を救うには量が足りなかった。薬は症状の重い者や子供達から優先的に配られたが、それでもその恩恵を受けられない者も僅かにいたのである。
ジョセフ・オルコットはこの村で生まれ、この村で育った。同じくこの村で育った幼馴染みのマリーと結婚し、先頃子供も生まれたばかりだった。妻も子も悪風邪をこじらせ、子供の方は少量の薬を分けて貰えたが、妻の分までは足りなかった。
続く高熱にうなされる妻を前に、ジョセフは無力な我が身を嘆き、必死に神に祈りを捧げた。だが、回復の見込みはなく、思いあまった彼は深夜にも関わらず家を飛び出すと、村外れを目指してひた走った。薬を手に入れるために、魔法使いと噂されるディシールのもとへ向かったのである。
翌朝、マリーは目を覚ました時、自分が数日間も続いた高熱から解放されているのに気が付いた。枕元には小さな薬瓶が転がっている。おそらく、どうにかして薬を手に入れた夫が飲ませてくれたのだろう。傍らにもつい数時間前まで側で自分を看病をしていた痕跡があった。が、起きたマリーが家のどこを探してもジョセフの姿は見当たらなかった。
動き回れるほどに回復した者が総出で村の中はもちろん周辺一帯も探したが、手掛かりなりそうなものは何一つ見つからなかった。
「あの男の仕業に決まっている。ジョセフは薬と引き換えに、魔法使いに命を取られたんだ」
誰が言い出したのか、その噂は瞬く間に村中に広まり、血気盛んな若者数名が各々武器を手にして村外れの館へと乗り込んでいった。
彼等が館へと押し入った時、館の
深い皺の刻まれた皮膚は確かに人のそれではあったが、白さを通り越していっそ青白い膚は、生者というよりはむしろ死者を彷佛とさせた。そして、加齢のために薄くなった頭髪は
ディシールは突然の闖入者に慌てもせず、竈の火を鈍く反射させる黄金色の瞳で一瞥をくれると、おもむろに口を開いた。
「あんた達が何をしに来たのか、わしにはわかっておる。だがな、これだけは言わせて貰おう。あんた達は、わしの薬のおかげで助かったのだろう。なら、わしはあんた達の命の恩人に違いあるまい。恩人に向かってそのような仕打ちをするのが、この村の礼儀なのか?」
有無を言わさぬ眼光に、誰も反論する事が出来なかった。だが、一人が動揺しながらも昨晩ジョセフがここへ来なかったかどうかを訪ねると、ディシールは目を細め、答えた。
「確かに、夕べは誰かが血相変えて飛び込んできた。だが、わしはそいつに薬をやって、すぐ家へと帰してやった。その後の事は何も知らん。荒野の魔犬にでもとっ捕まったんだろうて」
《荒野の魔犬》――! その名を聞き、誰もが震え上がった。
荒野の魔物。悪魔の猟犬。《ゲイブリエルの猟犬》と呼ばれるその魔物は、丁度今くらいの時期の夜空を飛び歩き、荒野をゆく旅人を襲うといわれていた。まさか、彼等が子供の頃から、否、もっとその昔から言い伝えられてきたあの魔物が、ジョセフを捕まえたと言うのか。
沸き上がる恐怖心に、彼等はふとある事実に気付いた。そういえば、もうじきに夜が来るのではなかったか。
冬は日が暮れるのが早く、夜が長い。ふと後を振り向けば、傾いた陽が丘陵の向こうへとその姿を隠そうとしている所だった。不安気に互いの顔を見合わせる若者達へ追い討ちをかけるように、ディシールは言った。
「さ、わかったら帰ってくれ。わしは見てのとうり忙しいんでな。あんた達が夜闇に道を見失っても、わしにはどうにも出来ん。そうら、聞こえるだろう、魔犬の遠吠えが――」
老人の言葉に合わせるように、ごう、と空が鳴る。
若者達の勇気は脆くも崩れ去り、一同は先を争うようにして村へと逃げ帰ったのだった。
その晩、眠れぬ夜を過ごす彼等の耳には、愛する夫の名を呼び続けるマリーの声と、木立の間でけたたましく騒ぎ続ける夜鷹の声とが途切れる事なく届いた。
ところで、村には役人が居なかったわけではないが、彼等は己の職務に忠実であり、職務以外の事に関しては怠惰であった。彼等の仕事は村で採掘した錫に税金をかけ、それが滞り無く納められているかどうかを調べる事であり、行方不明者の捜索や不審者を取り締まるような事ではない。そのためウィディコムの住人はほとんどの場合、自分達で問題を解決せねばならず、それは今回のジョセフの失踪もディシールの件についても同様であった。
自警団を作るにも小さな村では頼りになる男の数もたかが知れ、そのうちの何割かは先の一件ですっかり怖じ気付いてしまっていた。
結局、ジョセフを探す声は虚しく野に消えて、それから間もなく村には冬の使者にとざされた。
それからだ。館の近辺で奇妙な現象が起こりはじめたのは。
夜、館のある丘の方角から何か宴でも開いているかのような騒ぎが聞こえてくる事があった。それは数週間に一度あるかないかの時もあれば、数晩続く事もあった。この不思議な音に村人達は首を捻った。
彼等が知る限り、館に住む者はディシール以外には誰も居ない筈である。それなのに、音は大勢の者が野外で騒いでいるような感じがした。村の誰かがふざけているのではという者も居たが、あの場所へは日中でさえ滅多に近寄る者など居ないというのに、ましてや夜にわざわざあんな所へ出向く者がいるわけがない。
一体何が起こっているのか気にする者も少なくはなかったが、ジョセフが失踪して以来わざわざ不審な館へと向かうようなことは、魔女や妖精が集う夜に散歩するのと同様に恐ろしく思える行為ともいえ、実際に行動に移そうとする者は誰もいなかった。
人々は寒さと恐怖にうち震え、長く陰鬱な夜が早く過ぎるよう神に祈った。
真摯な願いが通じたのか、冬の間はそれ以上に特に事件らしき事件は起こらなかった。だが、やはりそれも長くは続かなかった。
不気味な静けさのままに冬が終り、日々弛む日射しに固く強張っていた村人の表情もようやく溶けはじめた頃。長きに渡って英国を統治し君臨していたエリザベス1世が崩御した。1603年3月24日の事である。
次に継承権を持つのは、スコットランド王ジェームズ6世――特使を乗せた馬車はロンドンからスコットランドの首都エディンバラへ向けて出立し、三日三晩の後に岩山の上に建つ堅牢な城へ到着した。ジェームズ6世は王位継承を大いに喜び、すぐに旅立ちの準備を済ませると、二週間も経たないうちに城を出てロンドンへ向かったという。
エリザベスが華やかな魅力を持ち、多くの国民から愛された女王であったのに対し、ジェームズは全く正反対の性質を持った王であり、神経質で陰気で、特にイングランド人からは大層嫌われた王だった。
この件については、それまで彼が過ごしたスコットランドでの陰謀と暗殺に怯えた日々が、彼のその性格だけでなく身なりや身体特徴にまでも影響したからであろうと謂れている。もっとも、始終敵視しあっていたイングランド人に囲まれる事になってしまったスコットランド人が、その中傷の対象となるのは当然の結果であったかもしれない。
実際、何かあればすぐに王の挙げ足を取ろうと目を光らせた者も多く、『スコットランド人がやってきて、宮廷は何もかも変わってしまった。シラミに悩まされるようになったのも、スコットランド人のせいだ』とまで書き記されるほどであった。
だが、それほどまでに彼が嫌われた理由は、もう一つあった。それは、かつてメアリー1世が反プロテスタント活動で、多くの臣民を処刑台へと送ったのと同じ様に、彼もまた彼なりの正義と情熱とを異端狩りに注ぎ、多くの異端者を火あぶりにしてきたからである。
もっとも、エリザベス女王時代のイングランドでも、またそれよりももっと以前からも魔女狩りは各地で度々行われてきた。何かが起こればそれは必ず魔女のせいだとする風習は特に珍しいものではなく、女王自身も彼女の歯痛の原因を魔女のせいだとした。法律では”魔女法”という魔女を取り締まるための法もあったくらいである。
しかしその一方では、レジナルド・スコットの『魔女も悪魔も、迷信・幻覚にすぎない』との主張が知識人の間で広まりつつもあった。ジェームズはそれに対抗すべく
そんな男を王に迎える事に不快の念を抱かない臣下はいなかったが、不幸な事にテューダー朝の王位継承法では継承者はエリザベス1世までしか決まっておらず、また彼女は生涯を独身で通した為に子がなく、他に正当な継承権を持つ者はイングランドには居なかった。
そして、望むとも望まざるともジェームズ6世はイングランド王ジェームズ1世として即位し、その事実はすぐに国中の者が知る所となった――辺境の小さな村・ウィディコムにも、例外なくその報せは届いた。
新王の異端狩りについては村人も耳にした事はあった。が、それはあくまでも他国の話であり、善良で真面目な生活を送る自分達とは全く無縁の筈であった。
しかし、今はどうだろうか。
村外れの館に住みついた怪しげな男は、明らかに常人とは違った。不思議な魔法の薬を作っており、それにもともと北の異端狩りから逃げてきたのではないだろうかという憶測もある。
村に嫌疑をかけられる前に告発した方がいいのではないかという意見もあったが、やはり何かあった場合の仕返しの方が怖かった。魔法使いは、裏切った者には呪いをかけると聞いている。どうすべきかはっきり決められない内にも時は過ぎ、麗らかな春は瞬く間に野に遊ぶ妖精達が集う夏へと変わっていった。
そして、再び――今度は、身の毛もよだつ恐ろしい事件が村を襲った。
村の青年三人が不幸な出来事に見舞われたのは、長くなった陽にもすっかり馴染んできた夏の夜だった。
その晩、いつもの仕事を終え、いつもの仲間と共に酒を飲ながら他愛もない話をしていた彼等の姿を、バーンズ老人をはじめ村の者達は見ていた。
それから彼等は、事もあろうか丘上の館を見に行くなどと言い出し、皆の制止も聞かずに本当に館へと向かったのである。したたかに酔っていたせいもあっただろう。 他愛も無い言い争いにムキになり、自分達の勇気と度胸を示すために愚かな冒険を決行してしまったのだ。
夜。村にはいつになく強い風が吹き付けた。夏の天気は変わりやすいものだが、その晩はいつにも増して激しく荒れた。三人の安否を気遣う村人は、風の中に悲鳴とも何ともつかない声を聞いたような気がしたが、不安と恐ろしさとでとても外に出て行く勇気が涌かなかった。
翌朝、恐る恐る家から這い出してきた村人たちは、三人がまだ戻ってきていないのを知り、更に不安を募らせた。手の空いている者を集めて周辺を捜索し、そして怖れていた現実を目の当たりにした。
最初に彼等が発見したのは、三人のうちの一人で、ジャックという名の農夫だった。彼は自分が飼育している羊小屋の奥で、藁と羊の糞にまみれながら気を失っていた。助け起こそうとすると、ジャックは弾かれたように飛び起き、唾を飛ばしわけのわからない言葉を叫びながら暴れ、また白眼を剥いて失神してしまった。それからすぐに高熱を出し、その晩のうちに息を引き取った。
ジャックの発見からさほど時間を置かず、村人達は二人目も発見した。しかし、発見された青年――ダンという名で、彼は坑夫だった――はすでに死んでいた。体の下にある黒い染みを水たまりだと思っていた村人が、うつ伏せになっていたダンを起こそうと体を動かし、それが水たまりなどではない事に気付き悲鳴をあげて飛び退った。
ダンの腹部には大きな穴が開いていた。ぱっくりと開いた穴から見える体内には、収まっているはずの臓器がなかった。加えて、死体を発見した場所の事が彼等の恐怖心に一層拍車をかけた。うねる丘陵に続く並木道の向こうに見えるのは、細々とした煙のあがるあの館――
その場に居合わせた者は皆、真冬の霜を裸足で踏んだかのように震え上がり、そしてすぐさま村へと逃げ帰るとそのまま教会へと駆け込んだ。
ウィロビー・ターナー牧師は、まだ若いが敬虔で教養もある人物だった。前任の牧師が老齢で勤めを終えた後、国教会から教区担当者として派遣されてすでに数年が経っており、ウィディコムの住人から篤い信頼を得ていた。
その日、早朝の勤めの最中に教会へと雪崩れこんできた村人に、ターナー牧師は驚かされた。我先にと救いを求めるかのように口々に訴える彼等は例外なく興奮し、牧師 はそれをなだめるのに随分と苦労を強いられたが、どうにか聞き取った内容から状況を把握すると、すぐさまダンが発見された場所へと向かった。
現場では、すでに噂を聞き付けた近隣の農夫達が、哀れなダンの遺体を遠巻きに眺めてる所だった。
「魔犬だ。悪魔の猟犬を、あいつが操ったんだ」
誰かの呟きが、その場に居合わせた者の記憶から半年前の事件を思い出させた。
牧師は恐怖にすくみあがる農夫達に遺体を教会へ運ぶよう指示した。彼等の中には触れるのも恐ろしいとばかりに尻込みをする者も居たが、牧師は彼等を叱咤し時には励まし、どうにかこれを完了させた。
次に牧師は、迷信深い彼等の中にあって辛うじて正気を保っていられる者を集めると、三人の青年が向かったという問題の館へと乗り込んで行った。事の真相を追求する為である。
牧師達が館の扉をノックすると、物憂気な眠りから身をもたげるような音をさせながら扉が開き、ディシールが姿を現した。顔まで目深に被ったフード付きの服に手袋。相変わらず衆目の前に素肌を曝そうとしない彼のいでたちに、勢い乗り込んできたターナー牧師でさえも一瞬怯んでしまったが、彼は自らを奮い立たせてショックから立ち直ると、目の前の男に手短に事情を話した。そして、まだ発見されていない残り一人の青年・ピーターがそちらにいるのではないかと尋ねた。が、男は前回と同様、全く知らないと答えた。
自身を睨め付ける幾つもの懐疑的な視線を平然と受け止め、男は言った。
「ここには何もない。疑うなら調べてくれても構わんよ。何なら、今、調べていくかね?」
身を引き、館の内部へと道を開ける。まだ日中陽も高いというのに館の中は酷く薄暗く、即座に足を踏み入れるには躊躇われるような雰囲気があった。牧師に同行した村人は館の中まで捜索するのを怖がり、とても中までは入りたくないと言ってきかず、やむなく牧師が一人で館の中に入り、内部をくまなく調べた。しかし、やはり一人では確たる証拠は何も見つけられず、引き返すしかなかった。
明らかに怪しいのに証拠が何も見つからない――釈然とせぬままではあったが、ターナー牧師にはそれ以上の追求は出来なかった。先に教会へ運ばせておいたダンの遺体を、いつまでも放っておくわけにはいかなかったからである。
結局その晩ジャックも天に召され、立続けに葬儀を執り行わねばならなくなった牧師は非常に忙しい数日を過ごさねばならず、ピーターの捜索にも参加できなかった。
村人達はそれからも暫くはピーターを探したが、数週間が経ち、一ヶ月が経ち、夏も終わる頃になってもその消息は
もはや人々は恐怖に囚われ、正常ではいられなくなっていた。それでも魔女狩りなど集団ヒステリーを起こしたりしなかったのは、ひとえにターナー牧師のおかげであった。
前任の牧師であれば、不幸な出来事はすべて己の罪であり、教会の発行する免罪符や寄付で罪を軽減させると告げたであろう。しかしターナー牧師は、金銭で購える赦しなどは真の信仰に対する侮蔑であり、神への冒涜だと考えていた。そのためにこのような辺境へと飛ばされたようなものであったが、かえってそれはこのウィディコム村の住人にとって良い方向に働いていた。
牧師は自制心と分別とを村人に説き、このような悪行を犯した者にはいつか必ず報いが訪れるであろうと言った。そうして自分は、できる限り館と館に住む謎の老人・ディシールの監視を行い、この異常な事態の打開策を見い出そうとしたのである。
季節は更に巡り、再び万聖節を迎える頃――ダートムーアの曇天は、いつも以上に重苦しいものとなって村の住人達の頭上に広がっていた。
最初にそれを発見したのは、バーンズ老人だった。
彼は若い頃は鉱夫だったが、年老いた今は教会の墓守りをしていた。長年連れ添った妻はもう何年も前に他界し、二人いた子供達はそれぞれ独立して村を出ており、今は独り気侭な生活を送る身である。
その日、散歩ついでに墓の中を見回っていた時、彼はいつも見なれた景色に微かな違和感をおぼえた。
普段であれば気付かなかったかもしれない。気付いたとしても、大して気に留めもしなかったかもしれない。だが、この老人もまたターナー牧師と同様、村外れの館の主に対して並々ならぬ警戒心を抱いていた。
バーンズは慎重にその場所へと近付いた。地面を覆う枯れたヒースの間から、黒い土がのぞいている。それは、聖別された墓地の土であり、その場所にあった墓が何者かによって掘り返されている事を示していた。
この時代、墓泥棒というのは特に珍しいものではなかった。埋葬の際に棺に納められた指輪や服のボタン、眼鏡、時には歯の詰め物までもを泥棒達は盗んでいった。しかし、裕福な者が住む街ならともかく、こんな田舎の墓を漁ってどうするというのか。それに、バーンズが疑問を抱いたのには、もう一つ訳があった。
掘り返されていた場所は二つ――先達て不幸な死を遂げたジャックとダンのものだったのだ。
バーンズ老人はすぐさま教会にとって帰り、ターナー牧師に報告した。
先の事件以来ずっと警戒を続けていたターナー牧師は、彼の報告を聞いて確信した。村の住人内に犯人がいる筈がなく、容疑者はただ一人、あの丘の向こうに住むディシールと名乗る男だけ――一体何を企んでいるのかはわからないが、更なる犠牲が増える前に、邪悪な計画を阻止せねばならない。そう決意した牧師は、頃合いを見計らって館へ忍び込む事にし、機会が訪れるのをじっと待った。
そして、その機会は間もなく訪れた。
ディシールが村へやってくるのは月に数回ほどで、大抵は薄曇りの日を選んで外出をしているようだった。陽光を避けるのには何か特別な意味でもあるのだろうか、相変わらず顔までお覆い隠すフードと手袋とで、一切の肌を曝そうとしないその特異な姿は遠目でもよくわかった。
彼の姿が見えると、村の住人は忌みものでも見たかのように顔を背け、家の中へ閉じこもり、窓や戸口にしっかりと鍵をかけたものだった。ただし、いつも彼が食料や日用品など、細々としたものを買い付けに来る家だけは逃れる事ができず、一家は曇り空の日には酷く憂鬱な気分を味わねばならなかった。
そうして、その日もいつものように、怪人物は村へとやって来た。
来る日も来る日も外で見張りをしていたバーンズは、これを発見するとすぐにとって返し、同じように待ち続けていたターナー牧師に知らせた。
牧師は報を聞くとすぐに教会を抜け出した。留守となった館へこっそりと忍び込む為である。
かねてから用意していた道を通って野を渡り、守備よく目的の場所に到着したターナー牧師は、館の中ではなく、近くにある昔の鉱道の方を調べはじめた。もしディシールが何か邪悪な計画のために行動をしているのだとしたら、これほどお
ターナー牧師は小さなランタンを掲げ、事前に鉱夫達から集めておいた情報を頼りに、闇の奥へと分け入った。
底知れぬ悪意が満ちているかのような暗闇の中を、慎重に進む。彼が目当てと思しき場所を見つけるのには、それほど時間はかからなかった。
前方から運ばれてくる音と匂い、そしてただならぬ気配に、ターナー牧師は足を止めた。目の前には、明らかに後から取り付けたと思われる扉。慎重に手をかけ、開け放つ。
一瞬、目の前に広がる光景をターナー牧師は理解できなかった。
それほど広くはない空間の二つの壁を大きな本棚が占め、一面の書物で埋め尽くされていた。ここが地下だという事すら忘れてしまいそうなほど整備されており、まるで書斎のような構えをした立派な部屋となっていた。ただ一つ違うのは、机の上に並んでいたのが、見慣れない形をした幾つかの実験用具だということだった。
ターナー牧師が机に近付いてよく見てみると、そこには何かの実験に使用したと思われる装置と、小さな金属の固まりが無造作に置いてあった。一粒を手に取りランタンの灯りにかざしてみれば、それは錫の欠片だということがわかった。他にも様々な薬品やその材料とおぼしきものが所狭しと並んでいたが、その方面の知識がない牧師にはよくわからなかった。
ターナー牧師は、他にも何かないだろうかと周囲を見渡した。すると、本棚が設えていない壁に更に奥へと続く扉を見つけた。どうやら最初に感じた気配は、その向こうから漏れているらしい。牧師は今一度神への祈りを捧げると、進路を阻むように立ち塞がるそれに手をかけた。
扉を開け放った途端、目眩がするほどの臭気が襲ってきた。
牧師は慌てて服の袖で鼻と口を覆い、中がよく見えるようにランタンを翳すと、半闇の中からぼんやりとしていた輪郭がその正体を現わした。
いつ、どうやって持ち込んだのか。部屋には、人の身の丈もあるような樽が幾つか並び、雨樋のようなパイプで繋がっているものもあった。
樽の中からだろうか、時折、沼の底から生じた泡が表面で弾ける時のような音が聞こえて来る。どこか見えない所で何かの仕掛けが作動しているらしい。しかし、それよりも牧師の目を釘付けにしたのは、部屋の中央に置かれた台だった。傍らの台には、よく使い込まれたと思われる機具が幾つか並んでいた。それは、医者が外科手術をする時に使うものによく似ていた。
どうやらこの部屋は、先の部屋よりももっと大規模な実験を行うための場所のようだが、ディシールと名乗る男は、ここで一体何をしようとしているのだろう?
牧師は手近な樽によじのぼり、中を覗き込んだ。
樽の中には黒い液体が入っていた。粘性のあるそれは、ランタンの光をとろりと反射し、鈍く輝いている。醗酵しているのか、時折表面に現われては消える泡が堪え難い悪臭を放つ。これは一体何なのだと訝しんでいると、ごぼりと鈍い音を立て、底の方から何かが浮き上がってきた。
よく見ようと灯を掲げて目を凝らした牧師は、次の瞬間、驚愕のあまり足を滑らせて固い石畳の上へ落下してしまった。
浮き上がってきたもの――それは、人間の死体だった。それも、つい先日死んだばかりのように新鮮なものだ。牧師の記憶と一致する顔ではないところから考えて、おそらく別の村の者か、荒野を行き来する旅人なのだろう。
そしてターナー牧師は、樽の中の黒い液体が、同じ様に以前に投げ込まれたものが腐敗したものである事に気付き、戦慄した。
ここで一体何が行われているのか、彼には全く理解できなかった。だが、一つだけ確実に解ったことがあった。それは、あの奇怪な老人が行っている事は、極めて邪悪なものだという事だった。
おそらく、行方知れずになったジョセフやピーター、それから墓地から盗まれたジャックとダンの死体もこの樽に投げ込まれたに違いない。
この事実を早く村人たちに知らせなければならない――そう思った牧師は気力を振り絞って立ち上がったが、しかし困ったことに、彼は樽から転げ落ちた時に、手にしていたランタンを落としてしまっていた。この暗闇の中、扉を探すのは非常に困難な作業に思われた。が、それでも牧師は手探りで樽やパイプを伝い、乱雑に置かれた諸々の道具に足をとられながら懸命に扉を探した。
不浄なる実験室は暗闇に包まれ、その静けさゆえに一層禍々しい気配に満ちている。悪臭に気を失いかけ、全くの暗闇の中で浮かび上がる死体の幻覚もまた、牧師の神経をすり減らした。
どうにか扉を探し当て、書棚のある部屋まで戻る。と、その時。闇に慣れた牧師の目に、仄かな光が飛び込んできた。
淡い燐光を思わせる不自然な輝き――牧師はその光に不吉なものを感じずにはいられなかったが、しかし、この暗闇の中で疲弊した精神には、堪え難い誘惑でもあった。
恐る恐る伸ばした手に触れたのは、小さな小箱。蓋と本体との隙間から、中に入っているものの光が漏れているらしい。掛け
眼前に広がった光景は、理解の
樽の中身を見た時のそれよりももっと激しい本能的な衝動――すなわち、純粋な恐怖にとらわれ、ターナー牧師は逃げ出した。
躓きまろびつ、地下道を走る。背後から何か音が聞こえてきたような気もしたが、それに注意を向けている余裕は寸分たりとも残っていなかった。這う這うの体で地上へと出たあと、彼は一目散に村へと逃げ帰ったのだった。
帰りを教会でやきもきしながら待っていたバーンズは、髪を振り乱し、泥だらけになって戻ってきた牧師のいでたちに驚かされた。まだ壮年に差し掛かった頃の若々しさの残る顔は憔悴しきり、たった数時間の間に老け込んでいたからである。
それでもターナー牧師の信念までは萎えていなかった。彼は気丈に振る舞うと、バーンズに急いで村人を集めるように言い付けた。ちょうど牧師が村へと戻って来る時に、館へ向かうディシールの姿を見かけたからだ。
咄嗟に近くにあった茂みに身を隠してやりすごしたが、牧師が地下室へ侵入した事が発覚するのも時間の問題であった。
バーンズは牧師の目に宿る光の強さに質問する事も出来ず、要領を得ないままではあったが、ただ事ではない空気を察した。そして、牧師に言われるまま、村に召集をかける。呼び掛けに集まった村人達も同様、突然の集会を訝しんだ。
時刻はすでに夕刻間近。日毎に忙しくなる冬支度の最中、それを中断してまで話さなければならないというのは、一体何なのだろうか。
これまで常識を逸した行動をとったことのないターナー牧師に、村人は戸惑いを隠せなかった。が、ただならぬ様子の牧師を前に異義を唱える者は居ない。普段の説法よりも厳粛な面持ちで待つ彼等に、ターナー牧師はたった今自分の目で見てきた事を話した。それまでは悪魔狩りと称した私刑は可能な限り避けようと考えていた牧師でさえも、自らの目で事実を見た後では他に選択の余地はなかった。
瞳に異様な光を輝かせて口角には泡を浮かべ、唾を飛ばしてまくしたてる牧師。だが、それを異常だと感じる者はいない。
堰を切ったように語られるおぞましい実験室の様子に、村人の間に衝撃と動揺が走る。それは、漠然と抱いていた疑惑が現実のものとなった瞬間であり、村人にとっても牧師にとっても、後戻りの出来ぬ決断を促すのに十分な内容であった。
言葉で人を導く者が、その言葉を使ったのだ。効果は
牧師の話が終るや否や、村人達はそれぞれの手にたいまつや武器となり得る農具を持ち、直ちに丘上の館へと向かった。全てが白日の元に曝された今、彼等が取るべき行動はただ一つだった。村にふりかかる禍い――すなわち、脅威を、すべての元凶を排除する事である。もちろん、ターナー牧師もその列の中にいた。
魔物が跋扈する夜を迎えようとする頃。得物を持った村人達が、次々に館に辿り着く。禍々しき館の門はそんな彼等をも拒む事なく、扉を開き、中へと迎え入れた。
彼等に理性はあった。しかし、もうすぐに訪れる夜の闇が、恐怖と共に彼等の内からこれを麻痺させてしまっていた。
熱は熱を伝える。抑制の効かぬ人々の奮う暴力の前に、怪人物は倒れた。
動かなくなった肉の塊には、呪いの言葉と共に唾が吐きかけられた。更に、村人は燃やせるものを集めて積み上げると、それに火を放った。
放たれた火はあっという間に勢いを強め、館とその主人であった者を包み込んだ。炎は天をも焦がす勢いで立ちのぼり、周囲には焼けただれる何がしかの異臭が漂う。息をも詰めて一同が見守る中、忌わしい館は紅蓮の炎で嘗め尽くされていった。
これでいい。これで、心騒がされる事は永遠に起こらないだろう――誰しもがそう思った。
一人、二人と背を向け、襲撃者たちが立去りはじめる。だがその時、ありえざる事態が突如として起こり、以後彼等を数百年に渡る恐怖へと陥れたのだ。
声だ。
燃え盛る炎の中から、声が聞こえてきたのだ。
否、声と表現するにはあまりにも異質なものであった。苦悶に満ちた叫び。怒りに滾る咆哮。それらはとても人が発しているとは思えぬ程に低く嗄れており、まるで人ではないものが人の発声器官を真似て、辛うじて言葉というものを紡いでいるように思えた。
「愚かなり、愚かなり――! 肉と骨だけの存在に過ぎぬお前達に、わしが殺せるものか。わしは死なんぞ――決して死ぬものか! 無知な猿どもめ、呪われよ! そして己の愚かさを思い知るがいい!!」
やがて、嘲りと冷笑の入り交じる呪詛の上に館は崩れ落ち、声は沈黙した。
だが、誰もそこから離れる者は居なかった。そこから逃げ去る事すら忘れるほどに、恐怖は彼等をその場所に縛り付けていたのだ。
火勢がおさまったのは夜も明けはじめた頃で、それから昼を過ぎても尚、館の残骸は燻り続けた。おかげで村人達が焼跡に足を踏み入れるまでに、更にもう一日待たねばならなかった。
その後、村人はターナー牧師を先導に、忌わしい実験室のあった元坑道を入り口ごとすっかり埋め立てた。もちろん、館のあった場所も同様の処置がなされた。そうしながら、彼等は怪人物の死体があるかどうかを必死になって探した。
しかし不思議なことに、どんなに探してもあの怪人物の死体どころか、それらしきものすら見付ける事はかなわなかったという。
「なるほど。昔々の呪いが怖いわけか、ここの住人達は」
ルイスは帽子の鍔に手をかけ、朽ち果てた門柱の向こうで沈黙する屋敷を見遣った。
シェプリーが調べた話を道々聞きながら、彼は小路を登りきった先にある幽霊屋敷の前まで来ていた。
「そう。それからほどなくしてジェームズ1世として即位した新王が、従来からの魔女法を改正し、さらに厳しい処罰を導入したのを受けて、この件に関して一切口外しない事を誓い合ったんだ」
「でも、秘密を墓まで抱いて行く根性を持ち合わせていない奴がいた、というわけだな」
事件の後、村の住人達はターナー牧師に感謝の念を抱き、その行動を讃えた。けれど、実のところ肝心の本人は、
いくら悪魔の手先を退けるためとはいえ、自らの言葉で村人をけしかけて人を殺してしまったのだ。どれだけ懺悔をしても、彼の胸の内からは後味の悪さは消えなかった。
そして、もう一つ。それとは別に、彼が懸念していた事があった。
もし、あの老人が本当に何らかの方法で生き返ったとしたら?
老人が蘇って村人に復讐を遂げたとしたら?
その後はどうなってしまうのだろう。また何も知らない人々が、彼の餌食となってしまうのでは?
そこでターナー牧師は村の住人から可能な限りの情報を集めると、これを彼自身の日記に記す事にした。公にできないのなら、せめて記録だけでも遺して、後世の人々に警告をしようと考えたのだ。
しかし、彼のそうした願いとは裏腹に、伝承はかえって
ラルフが彼ならではの嗅覚で仕入れた情報。スタンレーやその前の持ち主達――否、彼等だけではない。おそらく当事者であっただろう人物の子孫・チャールズまでも呼び寄せられるようにここに辿り着いたのは、皮肉以外の何ものでもない。
更に、館の最後の所有者となったスタンレーに到っては、埋めたはずの地下室への入口まで発見してしまった。これでは村人が心中穏やかでいられる筈がない。ルイスは、前日にグレンから聞かされたスタンレーと村人との確執を思い出し、一人納得した。
「それにしても、短時間でよく見つけられたな」
「まぁね。新聞を読んだから……」
シェプリーは昨晩、夢見をする前に読み漁った新聞記事から大体の見当をつけていた。
新聞に書いてある記事そのままを鵜呑みにするほど、シェプリーも莫迦ではない。とはいえ、虚実入り乱れる大衆紙の記事から真実だと思われる部分だけを拾うのには、相当の苦労を強いられた。
学生たちが行方不明になった後、マスコミはこぞって大挙してこの地を訪れ、根掘り葉掘り村人に訊ね歩いた後、勝手気侭な脚色を加えた全く別物の話を仕立て上げていたのだから。
曰く、ここはかつて悪魔が棲み付いた場所であるとか、酷いものになると、魔女とその下僕が乱交をした場所であり、今でもそうした目的で時折集会が開かれる秘密の場所であるのだと書いている誌もあった。
もっとも、記事を書いた本人達は、そうした作り話の中に真実が埋もれているとは微塵も気付いていなかっただろう。かつてスタンレー・ヘンドリクセンという好事家に、この村の存在を気付かせる記事を書いた当時のラルフがそうであったように。
「それと、昨日の電話で、君が仕入れてくれた情報があっただろう? それもある」
「そいつは光栄だな」
「茶化さないでくれ。これでも感謝してるんだから」
「はいはい、そうですか」
まだ少し機嫌が悪くて拗ねているような口ぶりのルイスに、シェプリーは苦笑した。
「とにかく。それが三百年ほど前の事件だというのがわかったから、そのあたりに絞って教会の記録を調べてみたんだ。そうしたら……」
その中で頁が貼り合わされている箇所があるのにシェプリーは気付いた。
この記録を記者達が見落としていたのは、不幸というよりはむしろ幸いともいうべき事だった。何故なら、彼等はハイエナのように群がるだけでなく、時には重要な証拠でさえ台無しにしてしまう場合もあるのだから。
ともかく、シェプリーは牧師の目を盗みながら苦労してその部分を剥がし、そこに1602年の冬から翌年までの記録と、ターナー牧師の日記の隠し場所についての記述が封印してあったのを知った。
後は、ルイスがロンドンからやって来るまでの間に日記を
「なるほどな。……でも、ちょっと待て。過去の事は大体わかった。だが、まだ肝心な部分が謎だらけだぞ。どうやったら人が消えるんだ?」
「謎って……明白じゃないか」
シェプリーは、何を今更という視線をルイスへ向けた。
「水晶だよ。僕が夢で視た小さな結晶体。あれが関係してるんじゃないかな」
「だから、それをどうしたら、人が消えるんだ、って聞いてるんだよ。俺は」
ジョセフと学生と、そしてエルリック。彼等は何の痕跡も残さずに忽然と姿を消しているのだ。その現象がわからなければ意味がない。
昨日のシェプリーからの電話の後、ルイスはすぐにグレンに連絡を入れた。しかし、一旦終了しかけた捜査だ。確固たる証拠がない限り、警察は重い腰を上げようとはしないだろう――エンジェルの不可解な失踪事件の時のように。
中央が動かなければ、地方に至っては尚更動くはずがない。功名心のある警部がいてくれればいいのだが、そんな望みがあるのなら、依頼人のエリノアが事務所に駆け込んで来たりはしない。
「それは……」
ルイスの当り前な問いに、シェプリーは一瞬口籠った。さすがにそこまでは牧師の日記には記されていない。が、彼はすぐに顔を上げて答えた。
「たからそれは、これから調べるんじゃないか」
ルイスは一瞬だが気が遠くなりそうになった。これならまだ死体がある分、密室殺人の方が楽に解けそうな気がしてくる。
霊感とは一種の閃きのようなものであるというが、まさにその通りだった。問題と回答。両者の間に、細かい理屈は存在しない。特にシェプリーの場合、自身の夢を通してその力を具現化させる事に秀でている。
しかし困ったことに、夢というものは非常に観念的なもので、他人が情報として汲み取るにはあまりにも抽象的すぎるのが欠点だった。
故に、超常現象には慣れているシェプリーと違って現実の枠を超えることの出来ないルイスにとって、シェプリーが言わんとする内容をぼんやりと感じ取れても、完全に理解し信用する事がどうしても出来ないのだ。
勘弁してくれと言わんばかりに空を仰ぎ見るルイスに、シェプリーはその顔を両手で挟み、無理矢理自分へと向けさせた。
「いいから聞いてくれ! 手掛かりは必ずそこにある! だから――!」
「わかった、わかった」
勢い込むシェプリーの手を払い除け、ルイスは門の前へと歩み寄った。
「そうムキになるな。俺はお前の力を疑ってるんじゃない。ただ、何にしても、これだけじゃわからん事が多すぎるんだ」
錆びついた門に手をかけ、軽く揺する。錠に鍵はかかっておらず、門は簡単に開いた。
「ここに居ろ。様子を見てくる」
担いでいた鞄をシェプリーに押し付け、そのまま門扉の隙間に身体を滑り込ませる。
「僕も行く」
「いいからここで待ってろ。すぐ戻るから」
ルイスは慌てて後から着いて来ようとするシェプリーを片手で制した。しかし、
「嫌だ。僕も一緒に行く」
尚も食い下がるシェプリーに、ルイスは折れた。自分の制止を聞いた試しがない相手だ。ここに置いておいても、大人しくじっと待っているはずがない。
ルイスは苦虫を嚙み潰したような顔で懐に手を入れると、そこから小型の拳銃を取り出し、シェプリーに渡した。
ウェブリー&スコットMk.IV .38――非力なシェプリーには少々手に余るかもしれないが、丸腰でうろつかせるよりはずっとマシだ。その代わりに、自分はロンドンを出る時に鞄へ詰め込んできた予備の銃――エンフィールドNo.2 MK.Iをホルスターへと収める。
「無茶はするなよ――いいな?」
念を押され、シェプリーは素直に頷く。それを見るルイスの脳裏には一瞬、無駄かもしれないとの思いがよぎったが、ここまで来たらもう気にしないことに決めた。
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