05:幽霊屋敷(3)
「おっと――?」
突然襲ってきた後ろからの衝撃に、エルリックは軽くよろめいた。ほぼ同時に喉の鳴る音も聞こえたが、エルリックはそれには構わずにその場に屈み込んだ。
「どうかなさいましたか?」
異変に気付いたマーシュがが立ち止まり、気遣わし気に二人の様子を窺った。手にしたランプが大きく揺れ、金具が軋む嫌な音が周囲に響く。
「いえ、何でもありません。靴紐が緩んでいたみたいで、気になって」
エルリックはそう言って、この暗がりの中、相手に見えているか定かでないが、いつもそうするように儀礼的な笑顔を返した。そして一旦屈んで靴紐を結び直してから後ろを振り、苦笑した。シェプリーが顔と胸を抑えて、地べたに座り込んでいたからである。
「脅かしたりしてすまない」
シェプリーは紙のように蒼白な顔をあげて、怒りと恥じらいの入り交じった表情でエルリックを睨みつけた。
悲鳴をあげなかったのは、声帯までもが恐怖のあまりに硬直し、本来の役割を果たせかっただけのこと。安堵とは裏腹に、言葉にならない怒りがふつふつと込み上げてくるが、残念ながらそれを爆発させるほどの気力は、今の彼にはなかった。
震える口元を片手で抑え、固まりのような唾と言い出せない文句とを一緒に嚥下する。そんなシェプリーの様子に、さすがのエルリックも心配になったのだろう。
「大丈夫かい?」
だが、シェプリーへと差し出した手は振払われてしまった。
暫しの間、戸惑ったような表情で自分の手を見つめていたエルリックだったが、わずかに両手を広げて首を竦めると、その場を離れ、マーシュの方へと歩み寄った。
「まだ奧へ行くんですか?」
「いえ、もうすぐそこですよ」
マーシュがランプを掲げ、通路の奥を示す。
エルリックは薄暗がりの中に眼をこらし、辛うじて光が届くその先に、それまでの横穴とは少し違った構えをした場所があるのに気付いた。扉らしきものの前には、簡単な
あの扉の向こうに、ほんの一時ではあるが、古代の叡智を納めた書物が眠っていたのだ。何の意図があって、元の持ち主――おそらく魔法使いと呼ばれる人物本人に間違いないだろう――が、こんな地下に隠したのだろうか。何か、そうせざるを得ない状況があったのだろうか。
エルリックの胸の奧で好奇心が疼く。
すぐにでも扉の前へ行き、中に何があるのか自分の目で確認してみたい。だが。
「念のためにお聞きしますが……」
はやる心を抑え、エルリックは陰気な顔つきをした老人に訊ねた。「学生達も、この屋敷には来たのですよね?」
「はい。昼間に大勢。五人ばかりでしたか、押し掛けてきましたよ」
「この地下の存在を知っていましたか?」
「さぁ、どうでしょうな。あたしは何も言っちゃいませんが、あの子供達の好きなように見させてましたからね。誰か一人くらいは裏庭に出て、入口を見つけていたかもしれませんが、それ以上は何も存知ません」
「そうですか……」
淀みなく答えるマーシュに、エルリックは一言そう言っただけで口を噤んだ。
後ろを振り向くと、ようやく立ち上がったシェプリーが壁に手をついて呼吸を整えている所だった。しかし、相変わらずその息は荒く、相当気分が悪そうにしている。
これ以上進むのはやめておいた方がいいのかもしれない。エルリックは掌に残る感触を確かめるように軽く握った。
「では、我々はこれで失礼いたします。遅がけに押し掛けた上に長居してしまって、申し訳ありませんでした」
「いえいえ。お役に立てて、こちらも光栄でさぁね」
愛想のいい笑顔を浮かべたエルリックが、マーシュと形ばかりの握手を交す。シェプリーはその様子を遠目に眺めながら、半ば朽ちかけた門柱に背を預けていた。
シェプリーは疲れていた。
地下に入ってからまた地上に戻るまで、三十分も経過していない。それなのに、まるで重労働でもした後のような疲労感に身体中が包まれている。
(何をしに来たんだか)
自分が得意とする〈力〉も使えず、おまけに大した発見もできず、シェプリーは酷く惨めな気分だった。宿に戻ったらルイスに連絡を入れないといけないのだが、大丈夫だと大見得きってしまった手前、一体どのように報告すればいいのか。考えるのも憂鬱である。
溜息をもらしつつ空を見上げれば、暮れ泥む夕空の中に浮かび上がる屋敷のシルエットがやけにくっきりと目に映った。その後ろで黄昏れにたなびく雲は、ゆっくりとではあるがまるで生き物のように蠢き、形を変えてゆく。
しのびやかに訪れる夜の気配に、シェプリーは身震いを一つすると、両腕で自分を強く抱き締めた。
「お待たせ。行こうか」
声に視線を戻すと、別れの挨拶を済ませたエルリックが目の前に立っていた。相変わらず人好きのする笑顔のままである。
この笑顔に振り回されたのだと思うと、シェプリーは無性に腹が立った。まだ少し残る目眩をこらえつつ、無言で歩き出す。
「気をつけてお帰りくださいませ。道に迷う事はないでしょうが、なにせ、田舎の夜闇は深いですからな」
背後からかけられたマーシュの言葉に、シェプリーはとても振り返る気にはなれなかった。
朽ちかけた門から村へと繋がる細い小路を足早に通り抜ける。
敷地外では旺盛に成長している雑木林によって、そこはまるで、木々に守られているかのような不思議な印象を都会に住む若者達に与えた。マーシュの話を聞いた後では、夕闇の彼方から、太鼓の音が本当に聞こえてくるのではないだろうかという気にさえなる。
あれほど陽気に振る舞っていたエルリックでさえも今ではすっかり押し黙ったまま、シェプリーと肩を並べて黙々と足を進めていた。
シェプリーは小路を歩きながら、魔法使いと称する人物がなぜこの丘を住処に選んだのか、朧げながらに理解できたような気がした。
遠目には不自然に見えたが、なるほど実際に歩いてみれば、見せたくないものを巧妙に隠すにはもってこいの場所である。このささやかなトンネルはおそらく、術師と村人、双方の境界そのものの役目を果たしていたのだろう。時を隔てた今もまだ木立はその役目を忠実に果たし、シェプリー達を疑い深い農夫達の詮索の目から守ってくれていた。
今さら隠し事をしても仕方がないのだが、これ以上いたずらに村人を刺激して、調査の妨げになるような事はしたくはないと思っていたシェプリーにとっても、この雑木林の存在は好都合だった。
ほどなくして緩やかな傾斜が不吉な外観をした館のシルエットを完全に隠すと、屋敷を出てもなお纏わり付いていた不気味な気配がようやく薄まった。シェプリーは、自分がまだ拳を握り締めたままでいたのに気付き、苦笑まじりの溜息を漏らした。
「怒ってるかい?」
シェプリーの緊張が解ける頃合を見計らっていたのか、それまで無言だったエルリックがようやく口を開いた。
「別に」
シェプリーがちらりと横目で見てみると、エルリックはやや俯き加減で、左手をポケットに入れていた。
「さっきのは、僕も悪かったと思ってる。でも、あの時はああするしか思い付かなくてね。恥をかかせてしまって済まなかった」
差し迫る夕闇の中、表情こそはっきりとは見えないが、声の調子で相手が何を思っているのかは察しがつく。
全く怒っていないといえば嘘になるが、実際、今のシェプリーにとってはどうでもよい事だった。時間を置いて冷静になってみれば、エルリックが悪気があってあのような事をしたのではない事はわかる。
それよりも、今は口を開くのさえも億劫なほどに疲れていた。どうせ議論するなら、こんな場所であれこれ話しあうよりも、宿に戻ってゆったりとしたソファで寛ぎながらの方がいい。
「違うんだ。そうじゃなくてさ――」
エルリックは自由な右手をもどかしげに上げ下げした後、唐突に立ち止まると、窺うように後ろを振り返った。まるで、後ろから誰かが追いかけてこないかどうかを確認するかのように。
「――村に戻ってから言おうと思ってたけど、とても我慢できそうにないから、今言わせてくれ」
今の今まで抑えていた興奮を徐々に解放するかのように、エルリックは何度も唇を嘗めながら言葉を継いだ。それまでの軽薄そうな笑顔ではなく、いたって真剣な眼差しを向けてくる彼に、シェプリーは言い知れぬ不安が再びその鎌首を上げるのを感じた。
「実はね。僕、さっき、あの地下でこれを拾ったんだ」
言いながら、エルリックはポケットからそろりと手を出して、シェプリーの前へと差し出す。
「小石を踏んだにしては何か感触が変だと思ったから、立ち止まって確かめてみたんだよ。そうしたら……」
ゆっくりと広げられた掌の上に乗っていたものを見て、シェプリーは息を飲んだ。
「どうやら警察は、あそこをちゃんと調べていないみたいだね」
エルリックの言葉をシェプリーは上の空で聞いていた。
象眼をあしらった小さなブローチ――踏み付けられたせいで金具が僅かに曲がってはいたが、それは間違いなく、前日に事務所を訪れた婦人の襟元にあったものと同じデザインだった。
「これは君に渡しておくよ。僕が協力するのはここまで。後は、君と、本物の警察の仕事だ」
唐突に、エルリックはまだ呆然としたままのシェプリーの手をとり、ブローチを握らせた。
「それを証拠として警察にもっていけば、捜索も引き続き行われるんじゃないかな。なに、礼はいらないよ。事件解決後に、ささやかな祝杯をあげてくれれば、それでいい」
「……エリック?」
我にかえり、慌てて顔をあげるシェプリーに、エルリックは。
「門を出てから、ずっと考えていたんだけどね」そう言って、少し気まずそうに微笑む。「さっきは随分と偉そうな事を言ってはみたけど、やっぱり、部外者の僕がこの事件に関わるような余地はないもの。それから、ええと――」
エルリックは僅かに言い淀み、相手の顔色を窺うような仕種で顔を傾ける。意図が読めずに、シェプリーは無言のまま、じっとエルリックの言葉を待った。
「君の病気を笑ったりして悪かったと思ってる。……許してもらえるだろうか?」
シェプリーは申し訳なさそうに目を伏せたエルリックの顔をまじまじと見つめ返した。
「病気?」
「そう。あんなに重度だとは思ってなかったから、つい……本当に済まなかった」
「……君は、面白い人だな」
「僕は自分に正直なだけさ。君とはロンドンに戻ってからもいろいろ話しをしたいと思っている。もちろん、仕事方面でもね。だから、できるだけ遺恨は残したくない」
「それは、演技じゃないだろうね?」
シェプリーは我ながら意地の悪い返しだとは思ったものの、エルリックは動じなかった。
「例えそうだったとしても、互いにとって有益なのは事実だよ。違うかい?」
「それは、確かに……」
多少風変わりでも、折角見つけた同業者である。今どき古語で書かれた書物を苦もなく読める者など、そうそうお目にかかれるものではない。更にいえば、エルリックの叔父の存在も捨て難かった。陰秘学研究に携わっている者が近くにいてくれれば、それだけでも随分と心強いし、大学や博物館にある蔵書を閲覧するのにも苦労を強いられる事もなくなるかもしれない。例え今ここでの進展はなくとも、今後の事を考慮すれば、失うには惜しい存在だ。
「……そこまではっきり物事を言える君が羨ましいよ」
「それはどうも」
エルリックはシェプリーの皮肉をさらりと受け流し、悪戯っぽく笑ってみせた。
シェプリーは手にしたブローチをもう一度じっくりと眺めてから口を開いた。
「さっきも言ったけど、別に怒ってるわけじゃないから、気にしないでくれ。あれも……いや、あれは特別だ。普段はあんなに酷くはないんだ」
そうして、これ以上の話を切り上げるために歩き出す。
「行こう。早く戻らないと、僕達まで行方知れずになったんじゃないかって思われてしまう」
「それもそうだ」
シェプリーの言葉に、エルリックは空を見上げた。
梢の合間ではすでに幾つかの小さな星が瞬きはじめていた。すっかり日の落ちたその空を、ねぐらへと急ぐ鳥達が数羽横切ってゆく。
無意識に、エルリックの視線はその姿を追いかけた。
鳥達は上空を何度か旋回したのちに、なぜか別の方向へと飛び去っていった。その様子はまるで、屋敷の上を通るのを避けているかのようにも見えた。
「置いてくよ」
シェプリーの言葉に視線を戻したエルリックは、すでに遠く離れた場所にある華奢な背中を追うべく、その場を後にした。
シェプリーとエルリックが宿に戻ったのは、夜がその帳を完全に降ろしてしまう前だった。
玄関先にある照明の下で道の向こうを窺っていた宿の主人が、帰ってきた二人の姿を見て大袈裟な溜息をもらす。パブでの事を村の誰かから聞いたのだろう。あまりいい顔はしていなかったが、二人に夕食の準備が出来ている事を告げ、早く中へ入るようにと促した。
「マーシュは元気だったかい」
扉を閉めながら、主人が聞いてきた。
「ええ、まぁ」
エルリックがそう答えると、主人は「そうか。なら、いい」と呟いたきり、再び沈黙した。
シェプリーは、マーシュの顔色が随分と悪かったのを思い出しはしたが、もしかしたら気のせいだったのかもしれないと思い、黙っていた。あのぐらいの年になれば、どこか体の具合が悪い所もいろいろと出てくるだろう。先に主人が言っていたように、村へと顔を出す回数も減ったのいうのだから、以前よりは衰えているのは確かである。それに、庭を案内してもらった時も、彼は微かに足を引きずるような動きをしていた。年老いて動きが緩慢になれば、仕方のない事でもある。
「ところで、あんた」
主人はおもむろにエルリックに近付くと、頭の上からつま先までをじろじろと見、聞いた。
「街の方に泊まってるんだろう。バスはもう出ちまったが、どうするね?」
はじめにシェプリーが宿に着いた時と同じように、あまり歓迎していない顔つきではあったが、エルリックがそんな事を気にするはずもない。シェプリーが靴底に付いた泥を払っている間に、早々と今夜のベッドを確保し、鍵を受け取った。
と、それまで奥の部屋でじっとそのやり取りを見ていたのか、扉が開き、一人の婦人がいそいそと小走りにやってきた。
「まあまあ、ようこそいらっしゃいました」
田舎の女らしく、ふくよかで頑丈そうな体格に、血色のよい肌の彼女――宿の主人の妻は、待ちかねたように手のひらを摺り合わせながら、満面の笑みを浮かべ、久しぶりの客に精一杯の愛想を振りまく。
「こんな時間までお散歩なさって。お腹もちょうどいい具合に減っている頃じゃないかしら? こちらのお客様も、ねぇ?」
「ええ、そうですね。沢山歩きましたから」
エルリックがこれまた極上ともいえる笑みを浮かべて答えると、夫人は大いに喜んだ。
「今日は久々のお客様ですもの。わたし、腕によりをかけてお料理を作りましたのよ。きっとお口に合うと思いますわ。さぁ、どうぞこちらへ」
シェプリーは、放っておいても一人で話し続けそうな夫人の相手をエルリックに任せて、彼女が支度をしている間に電話を借りる事にした。
ベルが数度鳴るか鳴らないうちに、すぐに聞き慣れた声が電話口に出た。事務所で電話の前に居座って、ずっと待っていたのだろう。
「遅かったな」
「まぁ……いろいろあったからね。それより、そっちの報告は?」
シェプリーはルイスに深く詮索される前に、ロンドンでの調査の報告を促した。まさか知り合ったばかりの他人と連れ立っていきなり本拠地に乗り込んだなどと、口が裂けても言えるはずがない。第一、こんな所に来てまで、昨晩のような押し問答をしたくはない。
ルイスは一瞬躊躇したような声を漏らしたが、すぐに自分の役目を思い出すと、今日自分の足で稼いできたばかりの情報を話しはじめた。
「行方不明になっている学生の一人、チャールズってのが発起人とでもいうのか、幽霊屋敷のネタを仕入れた本人なんだが、そいつの祖母がそっちの出らしいんだ。残念ながらもうすでに墓の中で、直接話を聞く事はできなかったけど、まぁ、そうでなくとも、筋金入りのオカルト好きで、普段からその手の本や情報を書き集めていたようだから、放っておいても辿り着いたのかもしれん。それから、屋敷の持ち主についてだが……」
続くルイスの言葉が、シェプリーの耳を捉えた。
「錬金術?」
「ああ。かなり、真剣に取り組んでたらしい」
「ふぅん……」
シェプリーは相づちをうちながら、壁に背をあずけた。そうしながら、屋敷の書斎で見た光景を思い出す。
書斎を埋め尽くす膨大な書物のうち、半数は地下で見つけたものだったとしても、残りを考えると、スタンレーが相当の労力を費やし、錬金術に対して並々ならぬ関心を持っていたのが窺える。一体彼はなぜそこまで錬金術にこだわったのだろうか。
しかし、残念ながらそれについては、ロンドンでは何一つとしてわからなかった。スタンレーはもともと社交的ではなく、ごく僅かの親しい人物と書簡でのやりとりをしていた程度で、親戚なども近くにはおらず、またそのほとんどがすでに他界していたからだ。しかも家財一式を持って出ていったので、手掛かりになるようなものも残っていなかった。それでもルイスがどうにか情報を集められたのは、ひとえにラルフという貴重な情報源があったからである。で、なければ、たったこれだけの乏しい情報でも、数日くらいは無駄に過ごしていたかもしれない。
これ以上の詳しいことは村で調べた方がいいかもしれないと言うルイスに、シェプリーは頷きつつ、自分が今日、屋敷へよりも先に教会へ行かなかったことを悔やんだ。
こういった小さな村では、誰がいつ生まれて、いつ死んだのかなどという村の記録は、全て教会が残している。いわば、役所のような機能を果たしているのだ。特に、この村は中世の頃から続く歴史がある。もしかしたら、マーシュから聞いた話を裏付ける内容も見つけられたかもしれない。
「わかった。それに関しては、僕の方で調べてみるよ。それから、ルイス。一つ頼みがあるんだけど、いいかな?」
「頼み?」
「チェスター警部に連絡を入れておいてくれないか。屋敷の捜索……特に地下を、もう一度しっかりとした方がいいと、進言して欲しい」
ルイスが返答するまで、数秒の空白があった。
「ちょっと待て。何でそんな事を言い出すんだ」
「いや、その、それは」
口籠るシェプリーに、ルイスが確信を得た。
「さっきから何か変だとは思っていたが、お前、まさか」
押し殺した声に、シェプリーはたじろいだ。相手の抱く感情が、電話回線を伝って漏れ出してくるようだった。
「また後で連絡するよ。おやすみ」
「おい! ちょっと待――」
みなまで聞かず、シェプリーは電話を切った。
ブローチのことを伝えることはできなかったが、ともかくこれで警察への連絡は何とかなるはずだ。ひとまず報告の義務を果たしたシェプリーは大きく溜め息をついた。
(そんなに頼りなく見えるんだろうか)
そう思い、口を尖らせてはみるものの、今日一日の自分のとった行動を振り返ってみたシェプリーは、あまりの情けなさに目眩どころか絶望すら感じてしまった。確かに、これではルイスでなくとも心配になる。
「本当に、出来の悪い……」
自嘲気味に呟き、うなだれる。
このままでは、依頼どころか、自分の目的すら果たせないのではないだろうか――どうしようもない不安に襲われ、シェプリーはいたたまれなくなる。けれど。
『君の直感を信じなさい』
かつて聞いた師の言葉が鮮明に蘇る。
唯一、自分の力を認めてくれた師・エンジェル。他者どころか肉親にさえ忌まれ、恐れられていたこの力を、彼だけは認めてくれた。その彼が、いつも言っていたのだ。迷った時は、自分を信じろと。
(そうだ……確かに、僕は〈夢〉を見たじゃないか)
前日の悪夢と、その日のうちに持ち込まれたエリノアからの依頼。幽霊屋敷と呼ばれる得体の知れない物件と、行方不明事件。一見すればどこでどう繋がるのか、皆目検討もつかない事柄ばかりである。
しかし、漠然とではあるが、シェプリーは両者の間にある見えない糸を感じていた。理屈ではなく直感で、何かが繋がると感じていた。だからこんな所にまで来たのだ。
シェプリーはポケットからブローチを取り出すと、明るい照明の下で改めて細部まで眺めてみた。
象眼で形作られた異国の花。金の縁取りと針と留め具部分は実に丁寧な仕上げがされており、贈り主のセンスと思い入れがうかがえる逸品だった。そのブローチを手に、シェプリーは考える。
これが手に入ったということは、少なくとも方向性は間違っていないといえる。問題は、これと屋敷と魔法使いとがどこで繋がるかである。
エンジェルは言っていた。何事にも偶然というものはない。全ては起こりうるべくして起こる事柄――つまり、それは必然であり、大切なのはそれらの事象に隠された真意を読み取ることなのだと。
『だから、いろんな物事に敏感になりなさい。考察しなさい。君の直感を信じなさい』
エルリックに出逢ったのも、彼に促されて屋敷へ行った事もすべて、このブローチを発見するためのお膳立てだと思ってもいいだろう。それに、警察が調べて何も見つからなかったというのなら、普通に捜査をしていても仕方が無い。ならば、この後自分が何をすべきなのかは、明白だった。
「迷ってる場合じゃないな」
シェプリーは顔をあげた。
やはり自分には自分のやり方がある。ルイスには悪いが、自らの直感に導かれるまま、その先にある真実を見極めるだけだ。
覚悟など、とうの昔に出来ている。今更、誰かにとやかく言われる筋合いはない。
食堂へと入ると、先に席についていたエルリックが食前酒を片手に、夫人と楽しげに歓談していた。
「やあ。報告は終わったかい」
エルリックがグラスを掲げ、シェプリーを迎える。
夫人が腕によりをかけて作ったという料理を手際よく取り分けながら、口の方も同等か、それ以上に動かして喋り続ける。
「本当にね、主人にも困ったものですわ。こんな何もない辺鄙な村でしょう、普通だってそんなにお客が来るなんてことないのに、何を考えているのかしら。記者さんたちでも何でもいいから、泊めてくださった方が随分と助かるってもんですよ。だって、そうでしょう? アメリカじゃ今は好景気で、一家に一台は新車があるって聞くじゃありませんか。うちなんて、農作業用のトラックがあるだけですよ。それも、主人の父が買った、中古車なんですもの。それで街まで行かなくちゃいけないんってんですから、もう、恥ずかしいったらありゃしませんわ」
すっかりと支度を整えてしまうまでの間、次から次へと不満をこぼし続ける夫人もそうだが、その不満にいちいち相づちをうち、夫人の舌の回り具合を増長させているエルリックにも、シェプリーは呆れるのも通り越して思わず感心してしまった。が、いつまでも感心ばかりしている訳にもいかない。
シェプリーは夫人が息継ぎをするタイミングを見計らって、思いきって声をかけてみた。
「学生たちの泊まっていた部屋はどこですか? できれば、僕の部屋を、そこへ変えていただきたいんですけど」
「お部屋を?」
夫人が手を止め、シェプリーを見つめ返した。
「ええ。少し、調べたいことがあるんです」
「でも、警察の方が、隅から隅まで調べられましたわよ? それこそ天井裏まで」
不思議な事を言い出す客だと、口にこそ出していないが、表情で物語っている。シェプリーはエルリックの真似をして、極力柔らかく微笑みかけた。
「ご心配なく。壁紙や床板を外したり、そういう事は一切しません。部屋を変えるのが無理なら、見せていただくだけでもいいんです」
夫人は暫くの間、思案顔で沈黙していたが、手にしたままの皿を置くとシェプリーに向き直った。
「ええ……ええ、構いませんわ」
まだ何だかよくわからないといった顔つきではあったが、夫人はシェプリーの要望を承諾した。彼女自身、事件の動向にはかなり興味があったからだ。
それに、歳は少しばかり離れているが、彼女にも息子が一人いる。学生達の親の心境を考えれば、このまま事件が立ち消えてしまうのは、とてもやるせないことであった。少しでも役に立つことがあるのなら、是非とも協力してやりたいと考えていた所だったのだ。
「どうぞ、お好きなようにお調べなさってくださいな」
「ありがとうございます。それと、もう一つお願いがあるんですけど、よろしいですか?」
「何ですの?」
「ご主人から聞きました。事件に関するスクラップを集めていらっしゃるそうですね。もし差し支えなければ、僕にもそれを見せてくれませんか?」
「あら、それでしたらお安い御用ですわ。お部屋の方も、御食事の間に支度しておきますわね。では、どうぞごゆっくり」
慇懃に礼をして夫人が去ってゆくと、それと入れ代わるように、今度はエルリックが興味津々といった顔つきで身を乗り出してきた。
「何をするつもりなんだい? 僕も手伝おうか?」
「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」
うって変わって素っ気無い返答に、エルリックは不満気に口を尖らせた。その様子を見て、シェプリーは苦笑しつつ、付け加えた。
「別に。何か具体的な事をするわけじゃないから」
「何もしない?」
「そう、何もしない。いや、そうだな。強いて言うなら――」
「言うなら?」
勢い込むエルリックに、シェプリーは小さく笑ってみせ、言った。
「〈夢〉を〈視〉るのさ」
シェプリーは食事を早々に済ませ、席を立った。
案の定、エルリックが名残惜しそうな素振りを見せたが、彼自身が先にこれ以上は首を突っ込まないないと宣言したこともあり、しつこく引き止められるようなことはなかった。
立ち去り際、ちらと皿を下げに来た夫人がどんな顔をするのか気にはなったが、シェプリーは構わずに食堂を後にした。それに関しては、エルリックに任せておけば大丈夫だろうと判断したのだ。
階段を登り、手摺を伝って二階へと上がる。最初に案内された部屋とは廊下を挟んだ向かい側の扉が開いていた。短い時間の間に、ハミルトン夫人が部屋を入れ替えておいてくれたのだ。
シェプリーは照明のスイッチを入れ、自分の荷物と共に、頼んでおいた新聞の山が運び込まれているのを確認すると、部屋の扉を閉め、その鍵をしっかりとかけた。
それから、部屋の片隅に一つだけある小さな窓に目を向け、軽く息を飲んだ。
窓は開いていた。そしてその向こうは、黒の世界だった。
時折吹き込む夜風に煽られ、薄いレースのカーテンが裾を揺らす。背後の黒と相まって、室内だというのにその白さはやけに目に眩しく映った。
地下で感じたばかりの闇への恐怖が薄れたわけではなかったが、シェプリーの身体は勝手に動いていたのだ。
吸い寄せられる様に窓辺へと寄り、そこだけ四角く空間を切り取ったような窓から外を覗くと、濃厚な墨でも流したかのような暗闇が、遥か先の荒野まで広がっていた。
夜風はわずかに湿り気を帯び、都会では感じる事のできない土の香りを運ぶ。
いたって普通。いたってのどか。よくよく見てみれば、どこにでも見られるような、ありふれた田舎の風景の一つにすぎない。
土地柄、めぼしい山もなく、谷もなく、あるのは見渡す限りのなだらかな丘と、その中に転々と自生する木々だけ。それも特に珍しいものでもなく、ロンドンからでもほんの数分車で郊外に出さえすれば、すぐに見られる景色と同じである。
その牧歌的な雰囲気は、ここが本当に事件の舞台になったのかさえ疑わしく思えるほど、平穏そのものだった。実際、シェプリーも今日この村に到着した時には、そう思っていた。しかし。
この近辺に昔から語り継がれる何かがあり、それに惹かれてやって来た五人の学生が忽然と消えたのは、紛れもない事実であった。
この村で、過去に何があったか。
マーシュの話からも村人の様子からも、それがいい内容でないのは容易に想像がつく。そして、何よりも気になる存在――
(幽霊屋敷)
ぼんやりと遠くを眺めていたシェプリーの表情が曇る。
「何だったんだろう、あれは……」
妙だとしか形容のしようがなかった。
屋敷が噂どうりのものであれば、シェプリーが気付かないものはない。
なのに、あの屋敷には、何もなかった。それらしき形跡すら感じられなかったのだ。ただ一つを除いては。
もう一度、あの屋敷を調べる必要がある。
細々とした調査については警察に任せておくつもりだが、彼等の事はあまり信用してはいなかった。それに、彼等――普通の人間では、到底わからない部分もあの屋敷にはある。
それが何なのかを調べるためには。
シェプリーは一旦目を閉じ、深呼吸をした。それから毅然とした顔で夜の平野に背を向け、窓から離れた。
上着のポケットからコニーのブローチを取り出し、ベッドの隣にあった小さなテーブルへと置く。上着の方は適当に丸めて、部屋の片隅にあった椅子へと放り投げた。
「さて、と」
積み上げられた新聞束の中から無作為に数束を選んで抜き出すと、それを手にベッドの端へと腰を降ろした。
場所に申し分はないし、貴重な素材も手に入った。条件は揃っている。
後は、眠りに落ちるまでの短い時間に、可能な限り多くの情報を拾うだけだ。
〈夢〉に迷わないように、
淡いオレンジ色の照明の下で、一筋の煙が細々とたなびいている。
エルリック・ノーマンはぼんやりとそれを眺めつつ、食堂の片隅にある談話室とは名ばかりのこぢんまりとした場所で独り、物思いに沈んでいた。
彼は、夕食後にはいつもこうして一人でいるのが習慣だった。どんなに忙しくても、この時間を持つことだけは忘れない。ゆとりを無くしてせせこましく生きるなど、彼の信条からは遠く懸け離れている。
ラジオから雑音混じりの音が流れてはいたが、特に意識を集中させて聞いているふうでもない。指先の安い紙煙草から登る紫煙を、けだる気な表情で見つめている。
『〈夢〉を〈視〉るのさ』
食事の席でシェプリーが言った言葉。それが、エルリックの頭から離れない。
言葉の余韻が、エルリックの耳の奥で奇妙な響きを保っている。その反響の中でじっと紫煙に眼を凝らしていると、あの空の青でも海の蒼でもない色をした瞳が、陽炎のようにちらつくような気がした。
不思議なことを言う青年だと、エルリックは思った。しかし同時に、何か理屈では説明できないある種の魅力をも感じていた。
それが何なのかは、エルリックにもよくわからない。もしかしたら相手はちょっとした冗談を言っただなのかもしれなかったが、それでもエルリックは思索をやめようとは思わなかった。彼にとって、こういった超常現象は、ただ単に知的好奇心を満たすためだけのものではないからだ。
「夢、ねぇ……」
声に出し、再度その感触を確かめてみる。
今までに詰め込んできた雑多な情報の中から、該当しそうな事柄を片っ端から思い出してみる。
夢という言葉と意味から、夢に関連する話や、最新の医学や心理学がもたらす見解まで。だが、いくら考えても、それらしき解答には辿り着けなかった。
「飲み過ぎたかな」
食後に飲んだエールのせいで酩酊して、脳の働きが鈍っているに違いない。エルリックは悔し紛れにそう結論付け、長くなった灰を灰皿へと落した。そして、まあいいかと、
わからなければ専門家に訊くまでのこと。明日にでもロンドンに戻って、叔父に聞けばいい。
エルリックの叔父・ジェレミーは、人智学と神智学とを軸に陰秘学の研究をしており、現在は《幽霊協会》にも席を置いていた。子供の頃から随分と可愛がってもらい、今の彼が彼である由縁でもある人物。その人物に聞けば、この厄介な謎も解明されるに違いない。
しかし正直な所、エルリックはあまり急いで帰りたい気分ではなかった。
ロンドンに戻れば、嫌でも劇団の興行主の顔を見なければならなくなる。口ばかりで自分からは決して動こうとしない興行主とは、できれば対面したくない。
その忌々しい顔を思い浮かべ、エルリックは深々と溜息をついた。シェプリー謎めいた台詞も気がかりだが、それよりももっと現実的な部分での厄介事を、彼は抱えていたのだ。
エルリックが考える理想の興行主は、演劇の内容や役者のポリシーに一切口を差し挟まず、純粋に観客の入りを良くするために宣伝や営業に奔走するものである。が、そのどれにも今の興行主は正反対の事ばかりをしていた。劇の台本はおろか進行にまで細かく口出しし、少しでも意に添わない役者がいれば、解雇しようとする。そのくせ一番人気の役者に対してだけは腰が低いのだ。
どうしてそんな男が興行主におさまっているのかについては、エルリックにも気紛れな神の采配としか表現のしようがない。
もともとさして大きくもない劇団である。ただでさえ映画の台頭で観客離れが進んでいる上に、無能とあっては、経営が傾くのを止める手立てはない。当然、役者達ともソリが合うはずもなく、給料の安い端役などは次々と入れ代わり、中堅どころの役者でも他の劇団に引き抜かれたり、あるいは楽屋で待ち伏せていた映画の出演依頼を請けて、辞めてゆく者も後を絶たなかった。
(……そろそろ、潮時かもな)
エルリック自身は特に演劇に未練はない。もともと、ほんの少しのきっかけでこの世界に縁が出来ただけで、彼が本当にやりたいと考えている事柄は、もっと違う方向にある。
そういう訳だから、これ以上何の利益ももたらさないのが判っているのであれば、長く関わらずに早々に切り捨てるのが得策といえた。ただし、エルリックが頭を悩ませている一番の問題は、小うるさい興行主が素直に退団を認めてくれるかどうかにあった。
昔のように熱心なパトロンが付いているとまではいかないが、エルリックにも一応は固定客はいる。エルリックが抜けてしまえば、他に取り柄のない劇団からますます客足が遠退くのは目に見えている。
「まぁ、いいさ。その時はその時だ」
エルリックは苦笑を浮かべ、煙草を灰皿に押し付け、消した。
劇団に愛着がないわけではないが、呪われるべきは興行主の無能ぶりである。資本主義の波に淘汰されるのならば、それもまた運といえよう。
退団の件で揉めそうになったら、どこかに逐電してしまえばいい。そうすればあの男も諦めてくれるだろう。エルリックはそんな結論を出し、これ以上その件について思い悩むのをやめた。
劇団を辞めたからといって、食いぶちに困るわけでもない。叔父のツテを頼れば、趣味の鑑定業だけでも充分にやっていけるし、どちらかといえば、そっちの方がいろいろと好都合であったりもするのだから。
エルリックは軽くのびをして、体をほぐすと、身を沈めていたソファから立ち上がった。
向かった先は、すぐ側の窓。エルリックは降ろしていたカーテンを開けて、目の前に広がる暗闇の向こうへとその目を凝らしてみた。
ほとんど黒一色の荒野の中に、それとおぼしき姿を見つけることは出来なかったが、方角におおよその見当はついた。夜が来るまえに訪問した幽霊屋敷は、実に興味をそそられる物件だった。
気紛れに立ち寄った村で、これほど刺激的な要素を含む事件に遭遇するとは思ってもいなかった。自分の気紛れも、まんざら棄てた物ではないようだと、エルリックはほくそ笑む。
古びた館の書斎の書物もそうだが、同様に、地下の見損ねた部屋にも興味はあった。あの扉の先に何があるのか、想像するだけで落ち着かなくなる。例え全く何もなかったとしても、実際に自身の目で見てみない限りは納得しない性格なのだ。
「魔法使い、か――」
誰に話し掛けるでもなく、エルリックは一人呟いた。
かつてまだ彼がほんの子供だった頃、母親が、妖精なんかいないと誰かが言うたびに、どこかで可愛い妖精が死んでゆくのだと言い聞かせてくれたものだ。彼女ふうに言ってみるならば、魔法使いなどいないと誰かが言うたびに、人知れぬ歴史の狭間に消えてゆく魔法使いがいるのだろう――この土地のように、密やかに囁かれ続けない限り。
村人の反応を見ていれば、彼等が本気であの屋敷と屋敷にまつわる話を恐れているのは充分にわかる。マーシュから聞いた話の全てが信憑性あるものであるとは言い難いが、ある程度の真実は含まれていると考えてもいい。それでは、その真実というものは、一体何なのだろう?
エルリックはそれについて、シェプリーともっと話し合ってみたかった。事件そのものに対してもだが、心霊現象を探究する者としての見解を知りたかったのだ。
しかし、シェプリーにはその気は全くなかったらしい。当たり障りのない会話を交わした食事の後、彼は早々に部屋へと引き上げてしまった。
「ちぇ。ブローチは、僕が見つけたんだけどな」
もう少し感謝してもらってもいいようなものだが、とは思うものの。
たまたま踏み付けたのが単なる偶然にすぎないし、まだあれが学生達の行方を示す証拠だと決まったわけでもない。シェプリーの顔色で何らかの関係があるのはわかったのだが、だからといってそれが正しいとも言い切れない。
エルリックは部屋の中へと振り返り、天井ごしに二階を見上げた。そこではきっと今頃、シェプリーが新聞の山と格闘している真っ最中だろう。
エルリックはふと、新聞記事を読むことくらいなら手伝えるかもしれないと考えた。他人の目には単なる好奇心と映ったとしても、彼自身は決して軽々しい気持ちで首を突っ込んでいるのではない。行動が行動だけに、誤解される場合も多かったが、だから尚更自分の真剣な気持ちを、相手に――シェプリーに知ってもらいたいと思ったのだ。
が、ひとりでに二階へと向かおうとする足を、エルリックは止めた。
地下で手を叩かれた感触は、まだしっかりと覚えている。また、あの時のような居心地の悪い思いをしたくはない。
第一、先にこれ以上首を突っ込まないと自分で宣言してしまったのだ。言ったからには、どんな事があっても守らねばならない。それが相手に対する礼儀であり、自分に対する誓いでもある。
「……まぁ、いいか」
口癖のように呟き、首を竦める。
何事にも時期というものがある。今日の場合は、好奇心が先走り、少しばかりその手順を間違えてしまったが、どうせ相手もロンドンに住んでいるのだ。そう焦らずとも、そのうちじっくり話す機会も出来るだろう。事件の動向は、その時にでも聞けばいい。
エルリックは窓の側を離れると、再び、ソファへと腰を降ろした。
そうして暫くの間、ぼんやりと天井にぶら下がった古い照明を見ていたが、段々と疲れが出てきたのか、しきりと大きなあくびを漏らすようになった。
時計の針はまだ宵の口である。なのに、この猛烈な眠気は一体どうしたことだろう?
「おかしいな。そんなに飲んだ記憶はないんだけど……」
エルリックは奇妙な焦りを感じて、何度も目を擦った。
確かに今日は物珍しさも手伝って、朝からいろいろな所で何杯も飲みはしたが、だからといってこうまで眠くなることはない。
だが、次第に強くなってくる眠気に逆らうことは出来なかった。思考が段々と曖昧になってゆくのがわかる。気を抜いたら、このままこの場所で眠ってしまいそうなほどだ。
重くなる目蓋をなんとかこじ開けて、エルリックはあてがわれた部屋へと向かおうと立ち上がった。そして、何気なく窓の外へと目をやる。
そこには、相変わらず何物をも飲み込んでしまうような深淵があった。
『気をつけてお帰りください。なにせ、田舎の夜闇は深いですからな』
ふと、昼に幽霊屋敷で聞いたマーシュの言葉が思い浮かぶ。朧げな記憶は曖昧で、言葉はもはや言葉として正しい意味も成してはいなかったが、不思議なことに、それだけはなぜかはっきりと思い出す事ができた。
(そうだ、確か今日は……)
もういい加減正常に働かなくなってきた頭で、エルリックは思い出す。記憶に間違いがなければ、今日は新月の四日前になるのだということを。
(月のない夜は、何か起こるんだったっけ)
老人の口から聞いた昔話と、それに附随する忌わしい映像が次々と思い浮かぶ。
暗闇の支配する世界。深夜になれば、本当に静寂だけがこの土地を支配する。
行方不明になった学生もこの宿に泊まった。彼等はこの暗闇の中で、どんな夢を見たのだろう。そして、自分は今夜、どんな夢を見るのだろう。
不思議な色をたたえた碧眼が窓の向こうの暗闇に浮かぶ。淡い燐光のように、それは微かな光を帯びていた。
眩惑と、それに伴う奇妙な浮遊感――暫しの間、放心したようにその感覚に浸っていたエルリックだったが、ふと我にかえり、強く頭を振ってその誘惑を消し去った。
そして踵を返し、あてがわれた部屋へと向かうためにその場を後にした。
――そのはずだった。
頭上に覆い被さる木々の枝からは、時折、夜鷹の不気味なさえずりがしている。
生い茂る枝葉の更に上には、大きな赤い月がかかっていた。
その月を見上げながら、エルリックは自分が見知らぬ小道のまん中に立っていたのに気付き、狼狽えた。
(……どうして僕は、ここにいるんだ?)
唐突に突き付けられた現状に戸惑いながら、エルリックは直前までの記憶を必死になって手繰り寄せる。
確か、自分はウィディコム村の宿に泊まっていたはずだ。宿で夕食をとった後、少しの休憩を挟んで、ベッドに入った。それは確かに覚えている。では何故、こんな夜道のまん中に突っ立っているのだろう? それに、あの月は、一体何だ?
エルリックは恐る恐る、天上にかかる月を眺めた。
月は不気味なまでに赤く輝き、漠然としていた不安感を掻き立てて恐怖心をより一層際立たせる。その異様なまでの圧迫感は、このまま夜空を覆い尽くし、地上の重力に引かれて落ちてくるのではないかと思うほどである。
しかし意外なことに、その月こそがエルリックが抱く疑問に、一つの手掛かりを与えてくれた。
(そうか。これは、夢だ)
新月まではあと四日だったはず。こうまで巨大な月がかかっているわけがない。眠る前にそのことを確認したのは、他ならぬ自分だったではないか。エルリックはその事を思い出し、安堵に胸をなで下ろした。
おそらく、眠る直前まで考えていたシェプリーの言葉のせいだろう。日中に耳にした学生たちの話や、実際に自分が見てきた幽霊屋敷の印象が強すぎて、その記憶が夢にも影響を与えているのだ。
(なるほど。これは面白い)
一旦その事を理解してしまうと、途端にどろどろ渦を巻くように周囲を覆っていた不安は薄らぎ、代わりに何とも言えない安堵感が込み上げてくる。
落ち着いて周囲を見回してみれば、なるほど確かにこの道には、どことなく見覚えのある景色のような気がしてきた。
(そうだ。これって、もしかして……)
人は時折、夢を見ながら夢の中にいる自分を意識することがあるときく。確か、明晰夢というのではなかっただろうか。その分野にはあまり明るくないために、すっかり聞き流してしまっていたが、確かに叔父が以前、何かのきっかけで口にしていたような記憶は残っている。
エルリックは、自分が今まさにその状態にいる事を知り、と同時に、閃いた。
シェプリーが言いたかったのは、この事なのかもしれないと。
だが、そうだったとして、それで何をどうするというのだろう?
いくら考えを巡らせてみせても、さすがにそこから先の事まではエルリックには想像もつかない。
エルリックは、目が覚めたらシェプリーに聞いてみようと思った。偶然とはいえ、自力でこの答えを見つけたと言ったら、あの不思議に澄んだ瞳をもつ青年は、どんな表情をするだろうか――
と、突然、それまで木々の間でさえずるだけだった夜鷹のうちの数羽が、けたたましい声をあげて梢の影から飛び出した。
一瞬、首を竦めてそれらをやりすごしたエルリックだったが、遠ざかる羽音につられ、彼等が飛び去ったと思われる方向へと目をやった。すると、
(あれは……?)
暗い夜道の彼方。その中に、仄暗い光がちらちらと瞬いているのが見えた。
夜鷹の鳴き声と、光の点滅。それらに耳を傾け、暗がりに目をこらして見つめているうちに、エルリックの明晰であったはずの意識は再び混濁の兆しを見せ始めた。
夢の最中でよくあることのように、瞬く間に、彼は自分がつい先程まで何をしようと考えていたのかも忘れてしまっていた。
だが、もうそれを不思議だとも思う意識すらない。それよりも今は、夜鷹の方が気になって仕方がなかった。
なぜこんな所に夜鷹がいるのだろう。彼等は何をそんなに騒いでいるのだろう?
また一羽、梢を揺らす風に乗って飛び立った。
知らず、エルリックの足は夜鷹の後を追う――光の方向へと。
(ああ、そういえば……)
どこか遠い意識の中で、エルリックはふと、何かの文献で目にしたくだりを思い出した。昔、夜鷹が鳴く時は、誰かが死に瀕している時だと言われていたのを。
夜鷹は、死の際の苦しい息遣いに合わせて響く不気味な啼声で、肉体から離れた魂を下界へと導くという。
何事もおこらなければ彼等は静かに羽撃き、立ち去る。しかし、さえずりがヒステリックな笑い声にも似た声に変われば、魂は夜鷹に捕らえられてしまうのではなかっただろうか。
と、すると、先程の夜鷹は、誰かの魂を捕まえたのだろうか。
(誰か、って――?)
再び、漠然とした不安が押し寄せてくる。
しかし、エルリックには一つの確信があった。
加えて、すでにもうその時点で、好奇心の方が恐怖に対するそれよりも数倍も勝っていた。甘美な誘惑にも近いその欲求に逆らうことなど、どうして出来よう。
これは夢の中の出来事なのだから、何も恐れることはない。恐れる必要など、何もないのだ。そうやって確認するように自身に言い聞かせながら、エルリックは歩き続けた。
道を歩いているはずの足下の感覚はなく、ただぼんやりと、周囲の状況を他人事のように眺めるだけで、足どころか、流れる風の感触も匂いすらも実感することはなかった。それが尚更彼の感覚を鈍らせてゆく。
時折、エルリックの足跡を辿る夜鷹だけが、枝葉の間を移動しながら耳障りな囁きを互いに交しはしたが、エルリックの耳には届きはしなかった。
ほどなくして、エルリックは、とある屋敷の門前に辿り着いた。
倒れそうなほどに急勾配の屋根がつくりだすそのシルエットは、どこか見覚えがあるようなないような、不思議な既視感と違和感とが混在していた。
エルリックは暫し呆然とした表情でその場に立ち尽くした。
庭の木々は旺盛に生い茂り、空にかかる月光がその隙間から木漏れ日のような煌めきを彼の頭上に投げかける。
目の前では、蛇のようにのたうつ蔦が門に絡み付き、それらを支える門柱の上には、教会の建物上部にあるような怪物の彫刻達が、エルリックにその醜悪な
うつろな
光は、来訪者に向かって手招きをするかのように、仄かな輝きを放っていた。
夜道から自分をここまで導いた光に違いない――エルリックは、誘われるままに影の中へと足を踏み入れ、歩き出した。
相変わらず地を踏む足の感覚はなかったが、すべてが夢だと理解しているが故に、エルリックの恐怖心は、すっかりなりを潜めてしまっていた。
誰かが呼んでいる。呼んでいるのだ。そこへ行かなくてはならない。強迫観念にも近い衝動に突き動かされるまま、エルリックは光を目指した。この屋敷が自分の記憶にあるものかそうでないかなども、もうどうでもよくなっていた。
時として不規則な点滅をする光に導かれ、エルリックはひたすら歩いた。
曲がりくねった長い通路を進み、沢山の扉をくぐった。所々階段も降りたかもしれない。どこをどう歩いたのかも残らないほどに時がすぎ、ふと気付いてみれば、目の前には古めかしい扉が彼の進路を阻むようにひっそりと立っていた。
蝶番の隙間からは、エルリックが目指していたのと同じ色の光が弱々しく漏れている。
エルリックは何のためらいもなく扉に手をかけた。その動きを止めようとも思わなかった――止める事すら思い付かなかった。
軋む音すらなく、扉は開く。
エルリックの瞳は迷うことなくそれの姿を捕らえ、見据えた。
水晶だ。
僅か1インチ程の透明な立方体が、闇夜のように暗い部屋のほぼ中央で、淡い光を放っている。
水晶は、奇妙な意匠を凝らした台座の上に鎮座していた。
部屋はそれほど広くはないようだが、照明と呼べるものがこの小さな結晶体が放つ僅かな光源しかなく、その周囲しかほとんど見えなかった。
そろりと、エルリックは水晶に近付いた。台座の前に跪くように身をかがめ、この小さな鏡に映るものを覗き込む。そして、
(何だ、これ――?)
頭蓋の内部に走った鮮烈な感覚に、エルリックは激しく動揺した。
傷一つない、鏡のような表面。その小さな鏡に映った自分の瞳の奥に、更に深い深淵があるのを見てしまったからだ。
それはまるで、深い井戸の奥底にある水面を見ているような感覚だった。なのに覗き込んだ遥か先にある顔は、手を伸ばしさえすれば触れる事ができ、息遣いさえも感じられそうなほどに近く、生々しいものに思えた。
水晶の中の像は、その奥にも、更にその向こうにもという具合に幾重にも重なり、交わり、奥へと広がっている。その光景は万華鏡のようでもあり、水晶体の放つ燐光と相まって、蟲惑的ともいえる妖しさに彩られていた。
水晶の中に広がる映像を見つめながら、エルリックは、透明な檻の中に自分自身が捕われているのを見るようだと思った。そして、気付いた。
本当に、自分がどの位置にいるのかも判別がつかなくなっていることに。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
これが夢なのはわかっていた。おそらく、水晶を覗くのをやめてしまえば、この不可思議な状況から脱することも可能だというのもわかっていた。それなのに、どうしたわけか、エルリックは水晶から目を反らすことも、目蓋を閉じることも出来なかった。
――自分はどれだ? どこにいるんだ? この向こうか。それともあれか?
脂汗を額に浮かべながら、エルリックは躍起になって自分を捜した。
しかし、狼狽え、視線を交わす自分自身はどれも寸分違わぬ姿をしていて、仕種も全くもって同じだった。
じりじりと高熱で焼かれるかのような焦燥感に、目の奥が痛くなる。だが、それでも目を閉じることが出来ない。
この薄く脆そうに見える幕の向こう側にいるのは誰だ。あれは誰だ。自分ではないのか? ならば、ここにいる自分は、誰なんだ――?
「違う!」
叫びながら振り上げた左手が、そのままの勢いで台座ごと水晶を薙ぎ払っていた。
耳障りな音をたてて台座が床の上に倒れ込み、水晶は柔らかな弧を描いて宙に舞った。
「僕はここにいる! ここにいるのが僕だ! 間違えるな! エルリック・ノーマンは、僕だ! 僕はここにいる!!」
水晶は二度、三度と床上で跳ね、部屋の片隅に転がってゆく。それを見ながらエルリックは大声で
そうでもしていないと、とても正常ではいられなかった。しかし、皮肉にもその行動が彼をこの悪夢から目覚めさせてしまった。
「そ――っ!?」
エルリックは驚愕に目を見開き、呻いた。
夢だ。夢に違いない。そう、自分は今、悪い夢を見ているのだ――そのはずだったではないか! なのに何故、自分はここにいるんだ!?
しんと静まり返った室内には、肩で息をする自分の荒い息遣いしか聞こえなかった。
したたり落ちる汗が地面に斑紋を刻む。簡素な石畳で覆っただけの床の上に。
「嘘だ、こんな、こんな――っ!」
上擦った声があまりにも哀れで、エルリックは反射的にそれさえも否定した。しかし、これは現実だった。紛れもなく現実の出来事だった。
夕方前に訪れた際、エルリックはそこへは立ち入らなかった。だが、直感的に理解はしていた。今現在、自分が立っている場所が、あの地下室の奥にある部屋だということを。
台座を薙ぎ払った左手には、鈍い痛みが残っていた。そして、網膜に焼き付いた光の軌跡――その先に転がっている残酷なまでの事実に、エルリックは立ち竦む。
小さな水晶は、まだ淡い輝きを保っていた。
光の作り出す影が壁らしき所に反射して、奇怪な角度を持つ円を描いている。歪んだ円弧は、エルリックの狼狽をあざ笑うかのように、影の中で微かに揺らめいた。
エルリックは引きつった笑みを浮かべ、後ずさった。
普段なら鼻で笑い飛ばして、ここぞとばかりに今自分が遭遇している現象を解明しようとするところだ。だが、彼の思考は立続けに起こった現実離れした現実を前に、ほとんど麻痺してしまっていた。
光が照らし出すものを見てはいけないということだけは、辛うじて理解していた。が、体は脳の下した命令を聞かなかった。
吸い寄せられるように、視線が円の縁を辿る。そして。
エルリックは見てしまった。
タールにも似た黒い液体の中で胎児のように身を丸め、眠りを
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