08:不協和音(1)



 差し込む光が黄色く霞んでいる。

 焦点の合わぬ目でそれをぼんやりと見つめていたルイスは、徐々に覚醒する自身の脳と、それに追従する肉体機能を呪った。

 出来れば悪い夢のまま終わって欲しかった。否、むしろ終わらずにいて欲しかった。それほどまでに現実が恨めしいと思ったのは、ルイスにとって生涯二度目のことだ。

 数日前にシェプリーに告げられた事柄を反芻する度、ルイスは何とも言いがたい衝動に囚われる。


「僕は自分の力が信用出来ない。だから、君を守れる自信がない」


 たったそれだけの言葉だったが、シェプリーが自分との間に引いた境界線の規模を表すには十分な一言だった。

 薄々とは感じていたが、面と向かって宣言されると辛い。鳩尾の辺りから苦いものがこみあげて仕方が無い。

 ノーマン邸でのパーティーで何が起こったのかは、エルリックやジェレミーから聞いた話と、翌日の新聞記事で概ね理解した。悪魔を召喚しただの何だのと、どこまでが真実でどこからが憶測なのか判然としない記事は、多くの者に興味を抱かせるに十分な内容だった。

 おかげで、事務所にはシェプリーの能力を確かめようとする記者だけでなく、物珍しさに引き寄せられた胡乱な連中が押し掛けるようになってしまった。

 取材と称して不躾な質問を投げつける者もいて、シェプリーだけでなくルイスやセルマ、そしてディシールにまで危険が及びかねない状況になり、見かねたエルリックが、ある提案を持ちかけた。

 ――曰く、暫く身を隠すべきだ、と。

 ウィディコムでの事件が世間を賑わせてからまだ日も浅い。記者達は屍肉をあさる獣じみた熱意でもって、触れて欲しくない秘密を暴き立てる。

 出自のわからぬ赤子はどこからやってきたのか。

 そこで一体何が起こったのか。

 結果など、火を見るよりも明らかだった。

 エルリック自身、パーティーでの騒動を止められなかった引け目もあったのだろう。彼は驚くべき早さで隠遁用の隠れ家を手配しただけなく、暫く生活するに足る物資や費用まで渡してくれた。

 若干やり過ぎではないかとルイスは思ったのだが、シェプリーは何も言わずにそれら全てを受け取った。

 だが、その隠れ家に引き籠もったのは、ルイスとディシール、そしてディシールの世話係として随行するセルマの三人だけだった。シェプリーは先ほどの宣言の後、別の部屋を借りて、一人だけそこへ移ったのだ。

「……守れる自信が無いって何だよ。逆だろうが」

 漏れ出た呟きさえ酒精にまみれているのを自覚して、何もかもが嫌になってくる。

 直接的にお払い箱だと宣言されたわけではないのが不幸中の幸いとも言うべきだろうが、それでも傷ついた自尊心はすぐには回復しそうにない。

 一方で、シェプリーが本当に言わんとしていることも、ルイスは理解していた。

 ノーマン邸にてシェプリーが何らかの切っ掛けにより、その力を暴走させたのは間違いない。その威力については、ルイス自身もつい先日、田舎の古屋敷で体験したばかりだ。確かに、あれを制御できるなどと考える方がおこがましい。

 だからこそ、ままならぬ感情の遣りどころを、アルコールで胃袋に流し込むしかなかったのだった。

 とはいえ、ここでこうして燻っていても仕方がない。

「……良くない兆候だな」

 ルイスは両手で頬を軽く叩いた。しばらく前から再燃していた悪癖がすぐに治らないのは理解している。だが、まだ果たさなければならない役目はあるのだと自身に言い聞かせると、それまで身を預けていた椅子から立ち上がった。

 眉間の奥に鈍痛がしたが、気付かない振りをして窓際まで歩いた。カーテンの隙間から窺った外の景色は、眩しい輝きに満ちており、今のこの状況が悪い夢の続きなのではと思えるほど静かだった。

 ルイスは素早く周囲を確認すると、すぐにその場から離れた。この屋敷を嗅ぎ付けた者はまだいないだろうが、用心するに越したことはない。

 室内を振り返ると、床に散らばったままの新聞が目についた。眠りに落ちる直前まで読んでいたものだ。

 身を屈めて拾い集めながら、改めてそこに踊る表題をしげしげと眺め、感心する。一体どんな性根を持っていればこれほど悪意に満ちた文章を書けるのだろう。

 そして、もう一つ、気がかりな件があるとエルリックが言っていたことをルイスは思い出した。


“慈善家の婦人、倒れる”


 ノーマン邸での事件を報じる紙面の隅に、ひっそりと、しかし確実に関連づけるように並べられた表題――パーティーに参加していたというとある婦人が倒れたのは、騒動の起こった翌日の朝のことだったという。

 もともと心臓が弱っていたせいで薬を常用していたのだが、どうもその前日の夜、つまりは、ノーマン邸での晩餐においての件に遭遇し、ショックを受けたらしい。

 それに付随する形でいろいろと取り沙汰された末に浮かび上がったのが、これがただの事故ではないのではないか、ということだった。

 考えすぎではないかとルイスは思ったのだったが、エルリックが根拠として挙げるのは、やはりパーティー会場での出来事だ。

 エルリックの叔父ジェレミーの後援者の一人でもあったガブリエラ・ライト男爵夫人は、あの会場で一悶着をおこす原因となった霊媒、ダニエル・フレミングとも関係がある。そして、当のフレミング本人は、あの日以来全く姿を見せていないのだという。

 彼の人物については、もともとあまりよろしくない評判ばかりだった。ルイスは直接会ったことはないが、上流階級のサロンで流行っていた降霊会にまつわる件では、たいがい名前を聞いことがある。そして、そのほとんどがトラブルばかりだった。

 そしてもう一人、フレミングと同じく、表舞台に姿を見せなくなった人物がいる。

 ジョシュア・ヒュー・マクファーレン――ライト夫人からの熱狂的ともいえる支援を一身に受けていた青年だ。

 フレミングとマクファーレンは、二人一組でサロンに顔を出していた。ライト夫人ともそういったサロンで顔を会わせ、知り合ったらしい。

 彼らはどの会場でも持て囃されていた。世界中を巻き込んだ大戦後の、悲痛に満ち、疲弊した社会の中で、史上最悪ともいわれる過酷な戦場から帰還をした、いわば英雄的な存在。その彼らの消息が、あの晩以来、全くわからないのだ。

 新聞記事でも婦人との関係性を取り上げ、行方を追求する動きが見られたが、それ以降話題に上がっていないところを見ると、記者達の間でも彼らの足取りが全く掴めていないらしい。

 一方で、パーティー会場でのことは、その場にいた記者が事細かに記事にしたためていた。そのおかげもあり、矛先は事の発端となったであろうシェプリーに向かったのだろう。

 そして、更に言えば、シェプリーもまた心霊術を扱う者だった。故に、フレミングと同等のペテン師なのではないかという疑いが、彼らの悪辣な熱意をより一層刺激したのだろう。

「僕は、ここ《ロンドン》に残って暫く様子を見るよ。叔父のことも心配だし、それに……」

 電話口から聞こえるエルリックの声に、いつもの快活さはなかった。エルリック自身もまた間の悪いことに、少し前から揉めていた劇団興行主との件が足を引っ張っているのだった。

 ルイスも目撃したあのマーカスという興行主は、大勢の前で恥を搔かされた腹いせもあるのだろう、あらゆることを暴露すると言ってはばからず、実際、エルリックに関する幾つかの情報を各社に流しているようだった。もしかしなくとも、今回のパーティーの件も、裏で焚き付けている張本人なのかも知れない。

「本当に、何があるかわからないから慎重にね。シェプリーは僕の方で様子を見るから、セルマとデイスの方は頼んだよ」

「ああ……お前も気をつけろ」

「わかってる。ありがとう、ルイス」

 最後に大きな溜息を残して切れた電話口は、以来、沈黙を保ったままだ。進展がないのは不安しかないが、かといって頻繁に連絡を取り合うことでこの家の存在が発覚しても困る。

「……とは言われも、なぁ」

 ルイスは凝り固まった筋肉をほぐしつつ、再び項垂れた。 

 シェプリーの居場所はわかっている。エルリックがノーマン家を通して、彼の世話をしているのも知っている。ただ、こちらには全く連絡がない。

 シェプリーは師から託されたという荷物を運び込んだ部屋に篭もりきり、食事と必要最低限の用件のときにしか顔を見せない状態らしい。

 師であるエンジェル・フォスターの手がかりが今の今まで全く無かった状況だったのが、あのような形で突然もたらされたのだ。夢中になるのも仕方が無い。

 第一、自分は何年もかけて調査をしていたはずなのに、手がかりどころか彼の痕跡すら掴めずにいたのだ。これで無能だと罵られないでいる方が不思議な状況ではないか。

 良くない兆候だ、と再度呟き、ルイスは回収した新聞を乱雑に畳み、それまで横になっていたソファーへと投げやった。

「とりあえず……」

 ルイスは敢えて声に出し、残っている気力をかき集め、奮い立たせた。

 堂々巡りの思考を酒で麻痺させ、苦くどす黒い感情ばかりを腹の底に溜め続けるわけにもいかない。

 ルイスはあてがわれた部屋を出て、台所へと向かった。まずは、酒を抜く必要がある。アルコールで灼けた喉も癒やしたい。

 小さな邸宅とはいえ、設備はそれなりに充実している上に、調度品の質も良かった。おそらく、ここはエルリック自身が時折人目を避けて隠棲するために使っていた家なのだろう。そんな場所を、知り合って間もない自分達に譲ってくれた彼の好意を無駄にするわけにはいかない。

 そんな決意を改めて胸に刻みながら扉を開けると、外に出ようとしていたらしいセルマと鉢合わせた。

 一瞬、また小言を言われるかとルイスは身構えたが、セルマはルイスの顔を見るなり、安堵の溜息を漏らした。

「ああ、ケアリーさん。ちょうどよかったわ、お願いしたいことがあたのよ」 

 セルマはふっくらとした小さな両手を合わせ、言った。

「ここに書いてあるものを、買ってきていただけるかしら」

 ルイスの返事など聞く必要もないとばかりに、小さな紙片を押しつける。

「私、あの子のことが心配で」

 彼女が向ける視線の先には、揺りかごで眠る幼子の姿があった。ディシールだ。

「心配?」

 状況が飲み込めず、鸚鵡返しに聞くルイスに、セルマが続ける。

「今朝からどうも具合が悪いみたいなんです。いえ、熱は無いんですよ。でも、何も食べてくれなくて」

 言われてみれば、あんなに元気に動き回っていた赤子が、今は大人しく揺りかごに収まり、じっとしている。

 日中でも厚いカーテンを閉めているせいもあるだろうが、心なしか顔色も優れないようだ。 

 医者は、と言いかけた口をルイスは噤んだ。

 この奇異な赤子を安心して診せられる医者などいるはずがない。ましてやこの状況だ。

 ふとよぎった苦い記憶が、ただでさえ涸れていたルイスの喉から水分を奪う。

「熱は無いんだな?」

 ルイスはセルマの顔をのぞき込み、念を押すように確認した。

「ええ、それは間違いありません。でも……」

 ミルクは少し口にした。だが、食べ物を与えようとすると、顔を背けて嫌がるのだという。あれほど食欲旺盛だったというのに、だ。

「おなかの具合も悪いってわけじゃなさそうですし、本当に一体どうしてしまったのかしら。私、この子に何かあったらエルリック様に申し訳が立たないわ」

 数日前、顎でルイスを扱き使っていた老婆はそう嘆くと、胸の前で手を組み、おろおろとしだした。

 ルイスはセルマから渡された紙片に目を向けた。走り書きで書かれているのは、幾つかの香草や食材と、薬だった。

 本当は自分で買い出しに行きたいのだろうが、こんな状況ではうかつに外に出るわけにもいかない。

「……わかった。行ってくる」

 ルイスは短くそれだけを言うと、紙片をズボンのポケットにねじ込んだ。頭を鈍らせていたアルコールは、すっかり消し飛んだ。

 急いで仕度をする傍ら、セルマに改めて言付ける。

「もし誰かがこの家を訪ねてきたとしても、出ないでいてくれ。例え顔見知りの相手でも、絶対に」

「承知しております」

 セルマは神妙な顔つきで頷いた。主人が主人だけに、こういうことは慣れているようだった。

 ルイスは少し安心すると、できるだけ早く戻ると言い残し、外に出る。

 一歩踏み出すだけで日中の陽光が眉間に刺さる。が、いつまでも立ち尽くしている訳にもいかない。

 ルイスは帽子を目深に被り直し、納屋に隠してある愛車のもとへと急いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

La Sonadora ラ・ソナドラ~夢見人たちの物語~ 不知火昴斗 @siranui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ