羊飼い

水円 岳

第一話 羊飼い

 校舎を取り囲む木々の葉が全て落ちて、職員室の窓際には明るい日差しが降り注ぐようになった。僕は背中に当たる日差しの温さに、思わず顔をほころばせる。弁当箱をしまってぐるりと椅子を回し、眩しい日差しに目を細めながらそれでもゆっくり体の表側を暖める。


「ははは。焼き鳥焼いてるみたいなもんだな」

「あらあ」


 隣に座っていた本田さんが、手にしていたペット茶を机に置いてこっちを向いた。


「牛島さん、まだ若いんだから、日向ぼっこする猫みたいなこと言わないでよう」

「そうなんですけどねえ。ここは日が差さなくて、ずっと寒かったんで」

「そうなのよー。私学なんだから、もうちょっとけちらないで空調効かしてほしいよねー」

「ははは」


 本田さんは英語教師だけど、僕よりはひと回り以上年が上だ。て言うか、ここの教師陣の中では僕が一番若い。規律の厳しい女子高に若い男性教師を採用するのはリスクが大きいと理事長が考えたのか、教員は年配の女性ばかりで、若い男性は皆無だった。僕が嘱託という立場であってもなんとかここに潜り込めたのは、一にも二にも妻がここの卒業生だったからだ。それに学生結婚していてすでに妻子持ちの僕は、理事長には安パイに見えたのかもしれない。


 実験室で顕微鏡ばかり覗いていた僕にとっては、教壇に立って学生を教えるっていうのはどうにもしっくり来ないんだけど、そんなことを言っている場合ではなかった。妻はすでに二人めの子を身ごもっている。妊娠、出産の期間は仕事が思うように出来ないから、僕が働かないと家計が成り立たない。


 さて。授業の準備をしてこよう。


「あら? まだ昼休みなのに」

「ええ。でも午後の授業の準備をしてきます」

「生物室は寒いでしょう?」

「しゃれにならないですね。僕はいいけど、生徒がちょっとかわいそうな気が……」

「でも、下手に暖房入れると、生徒がみんな寝ちゃうから」


 本田さんが、茶目っ気たっぷりにウインクした。ちぇ。


「じゃあ、失礼します」


◇ ◇ ◇


 廊下も教室も、生徒の賑やかな声で溢れてる。生徒指導が厳しいから、受講態度はとてもしっかりしているけれど、年頃の女の子がずっと大人しくしてるわけなんかないんだろう。


「あ、ぎゅうちゃんだー! おーい!」


 何人かの生徒が、廊下側の窓から身を乗り出して僕を指差す。ため口をきかれる先生ってのも情けない気がするけど、生徒の感情に毒があるわけでもないし。白衣のポケットから飴を出して、声をかけた生徒に放る。


「午後の授業で寝るなよー」

「はあい!」


 放った飴が呼び水になったのか、廊下に顔を出す学生の頭数あたまかずが増えた。それを見て、思わず苦笑する。僕はまるで羊飼いみたいだなあと。教室と言う牧場に、もこもこの羊がいっぱい放たれている。僕はその羊が勝手に柵の外に出ていかないよう、見張っている。でも、羊飼いにはそんなにすることがない。のんびりと草を食む羊たちを横目で見ながら、杖に寄りかかってうとうとしてるっていう風情だ。


 生物室の鍵を開けて、寒くて暗い教室に入る。


「うー、寒ぅ」


 明かりを点け、教室の後ろにあるヒーターのスイッチを入れるが、この広い教室を暖めるにはあまりに頼りない。まあ、条件が良すぎれば怠け心が出る。このくらいは我慢しろっていうことなんだろう。


 ええと。今日は植物の細胞の話だったな。


 核。葉緑体。ミトコンドリア。生物を履修しない限り、たぶん一生知ることなく終わる知識。それが単なる知識で終わらずに発展していく可能性なんか、ほんのわずかに過ぎない。だけど、蒔かれた種のいくつかはどこかで実る。だからこそ、僕のような役回りが要るってことだ。


「ぎゅうちゃん。ちわー」

「お、高木さんか。早いな。まだ昼休みだぞ?」

「うん」


 一見、平穏に見える牧場だけど、中にいる羊たちは一様ではない。群れにこだわる羊。独りを好む羊。先頭に立ちたがる羊。ただひたすらうろうろする羊……。そして僕のような羊飼いには、それを一方向に導く義務はない。羊飼いは、あくまで羊たちが柵の中でのんびり草を食むのを見守るだけだ。


 教卓の上に乗せてあったプリムラの鉢植えに目を留めた高木さんが、とことこと寄ってきた。


「ぎゅうちゃん、それ授業で使うの?」

「そう。花弁の細胞にはクロロフィルがないからね。後で葉と比べてもらう」

「ふうん」


 鉢を手にしてじっと花を見ていた高木さんが、切なそうに顔を上げた。


「ばらばらに切っちゃうの?」

「実験に使うのはちょっとだけだよ。まだまだ蕾をいっぱい持ってるし、授業が終わったら窓際にでも飾るさ」

「そっかー」


 ほっとしたような顔で、高木さんが鉢を教卓に戻した。


「ねー、ぎゅうちゃん」

「ん?」

「ぎゅうちゃんはさー、どしてそんなに早く結婚したわけー?」


 ずどん! 思わずぶっこける。


「おいおい、いきなり突っ込むなよー」

「えへへ」

「うーん」


 なんと答えていいもんだか。単純な好き嫌いの問題ではない。かと言って、打算や妥協の結果でもない。僕と妻との間でそれがベストだと一致した形が、たまたま学生結婚だった。それだけだ。それをどう説明したもんか。


「そうだなー。この花はいろんな細胞で出来てる」

「へっ!?」


 高木さんが、なんじゃそりゃっていう反応をする。僕はリアクションを無視して話を続けた。


「単細胞のミドリムシを何億集めたって、この花にはならないよ。この花を作ってる細胞には、一個一個にちゃんと意味がある。その組み合わせがあって、初めてこの花になる」

「?」

「僕とかみさんは、お互いがそうだなって思っただけ。それが早いか遅いかには意味がないかな」

「あ、そっかあ」


 納得顔の高木さんが、ぺろっと言った。


「ぎゅうちゃんてさ。変わってるよね」

「どして?」

「こんだけ周り中じょしこーせーだらけなのに、すけべっぽさがないって言うかー」


 ったく。


「あほー。そんな肉食系を理事長が採るわけないだろが」

「じゃあ、むっつり系?」


 ひりひりひり。


「教師からかう元気があるなら、校庭走ってこい!」

「やだー、寒いもー」


 どやどやどやっ! 教室に他の生徒がなだれ込んできた。


「あー、えり、ずるいーっ! ぎゅうちゃん独占してーっ!」

「そうだそうだ!」


 いきなり賑やかになってしまった。まあ、いい。こうやっていじられるのも仕事のうちだ。


 なんだかんだ言っても、羊はいずれ柵の外に出ていく。彼らがずっと羊のままでいるのか。それとも、今度は彼らが羊飼いになるのか。それは分からないけれど、僕が彼らをずっと見守ることは出来ない。柵に守られた羊が、その中で成長して一人で道を探れるように。いつまでも守られる立場ではいられないことを悟れるようにと、時々手にした杖を振る。それが、きっと羊飼いの役目なんだろう。


 そして、僕もたくさんの羊に暖められる。ほこほこと暖められる。


「さあ、授業始めるぞ。席に着けー!」



【第一話 羊飼い 了】

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