第三話 ユーカリ
うーん、いい匂いだー。
わたしは、小さな緑色のガラス瓶に入ったアロマオイルの匂いを嗅ぐ。蓋の開いたガラス瓶から漂う匂いは、やっと外に出られたとでも言うかのように辺りにさあっと逃げ広がり、すれ違う子に誰彼なくまとわりつく。
廊下を行き交う子たちが、時々振り返る。
「なんの匂い?」
「分かんないけど、いい匂いだねー」
「湿布?」
「うーん、言われてみればそうかも」
「それよか、もうちょっと甘くない?」
「分かんなあい」
わたしはそんな喧噪を背中に飛び回らせながら、ゆっくりと生物室に向かって歩いていった。くんくん。
◇ ◇ ◇
ぎゅうちゃんから、昼休みに来いって呼び出しがあった。もっとも先に持ちかけたのはわたしだから、呼び出しっていう言い方は当たってない。わたしを呼び出す場所が職員室や指導室じゃないってとこも、ぎゅうちゃんらしいなあと思う。
「すまん。待たせてごめんね」
生物室の入り口に立っていたら、ぱたぱたとサンダルを鳴らしながらぎゅうちゃんが駆け寄ってきた。翻る白衣の裾。その白さが目の中にくっきり残る。ほんの一瞬だけど、それが天使の羽みたいに見えた。
がちゃっ。生物室の鍵を開けたぎゅうちゃんは、教室の明かりを手際よくつけて回った。
「橋野さんの今朝持ってきたやつ」
「はい」
「ユーカリはユーカリなんだけど、ギンマルバかグニーか、ちと見分けが付かない。でも、そのどっちかだと思う」
ぎゅうちゃんが手にして振り回している小枝。それはわたしが昨日下校途中に見かけて、ぽきっと折り取ってきたもの。わたしは、それがユーカリじゃないかと思ってたんだ。わたしの好きなユーカリの香り。でも、折り取った枝からはそんなに強い匂いがしなかった。ユーカリじゃないのかなあ……。それを確かめたくて、今朝ぎゅうちゃんのところに持ち込んだ。
「そのユーカリは匂いはないんですか?」
「いや、どっちも精油を採取するのに使われるから、匂いは強いよ」
うーん、おかしいなあ。首を傾げたわたしに、ぎゅうちゃんが別の枝を差し出した。
「学内にもグニーユーカリの木があったから持ってきたんだ」
くんくん。嗅いでみる。やっぱり匂いは薄い。
「あんま、匂わないですねー」
「そのまんまじゃね」
ぎゅうちゃんが葉を一枚ぶちっとちぎって、それをぐしぐしっと強く揉んだ。
「わ!」
わたしがよく知っているあの匂いが、ぱっと漂った。
「つーことさ。揮発性の高いオイルだからそのままでも少しずつは匂ってると思うけど、基本的には傷付いた時にしか強い匂いが出ない」
「それって、どういう意味があるんですか?」
「むー、それはユーカリに聞いてみないと分からんなー。僕が思うに、葉を食う虫や動物を匂いで遠ざける、警告を与えるってことなのかもね」
「警告、ですか」
「ユーカリは毒を持ってるからね。葉をかじってその匂いが出れば、あ、こいつはやばいと動物に思わせることが出来るでしょ?」
「へえー」
ぎゅうちゃんは、持っていたユーカリの枝をぱたぱた振った。
「すうっとした匂いでリフレッシュ出来るのはいいけど、だからってずっとその匂いじゃなあ。今時期は、寒く感じてかなわんわ」
あはは。そうかもー。
◇ ◇ ◇
橋野さんは、ユーカリオイルの小瓶を時々宙にかざし、その匂いを嗅ぎながら教室に戻っていった。空の三角フラスコに二本のユーカリの枝を挿し、それを教卓の上に乗せて見つめる。
傷付いて初めて匂う。その存在が意識される。ユーカリの大樹は、葉が一枚傷付いたところで痛くも痒くもないだろう。だけど、人間はそうはいかない。橋野さんは目立たない、おとなしい子だ。傷付いたことでその存在が目立つようになるのは、あの子にとって不幸以外の何ものでもない。
「ユーカリの匂いは、消毒薬、か」
橋野さんの救助を求める手が、なぜ女性教師ではなく僕に伸ばされたか。橋野さんの中で、彼女を傷付けた者の対極に僕が位置付けられているからだろう。決して全ての野郎どもが不潔で、粗野で、乱暴なわけじゃないってね。だけど僕は神でも聖人でもない。年の割におやぢぃな、妻子持ちのすっとぼけた生物教師に過ぎない。橋野さんを傷付けた男の代わりに祭壇に奉られても、何のご利益も与えられないんだ。そこがどうにもね。
「はああっ」
僕は、生物室に漂っていたユーカリの匂いを胸いっぱい吸い込み、それを僕の臭いに変えてゆっくりと吐き出した。
「理事長に、もっとしっかりケアしないとだめだって言っとかないとな」
【第三話 ユーカリ 了】
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