第四話 さよならは要らない

「ふう。ネクタイなんか考えたやつの首を、ネクタイで絞め上げてやりたい」

「あら。牛島さんにしては物騒な」


 ぎょっとした顔の本田さんに、独り言をとがめられてしまった。


「あはは。どうしてもネクタイが苦手で」

「そうねえ。女性にはほとんど縁がないから」

「ここの制服はボウタイですけど、生徒からなにか文句が出ることはないんですか?」

「ないわねえ。うちの制服のタイは、胸元が開かないようにする鍵みたいなもの。慎みや自己防衛の象徴だから」

「そうかあ」


 卒業式が終わって、卒業生が名残惜しそうに学び舎を去り、校内の人影がまばらになった。女子高の教師は身だしなみに重々気をつけるようにと理事長から釘を刺されていたけれど、幸い僕には白衣という万能ウエアがある。白衣をきっちり着込んでいる限りは、ノータイでもとやかく言われることはない。だけど、さすがに卒業式に白衣で出るわけにはいかないからね。

 今日は、四苦八苦しながら着慣れないスーツに袖を通し、ネクタイをぶら下げた。そんな僕の姿を見て、妻が大爆笑したのはいうまでもない。似合わないからではなく、スーツにがんじがらめに縛られた僕がものすごく不機嫌になっているのを見て、おかしかったんだろう。

 まあね。僕が会社員になれば、こういう格好にも少しずつ慣れるんだろうな。でも少なくとも今は、そういう立場にある自分を想像出来ない。僕は……人から評されるよりもずっと未熟で、ガキ思考なのかもしれないなと。そう思う。


「さて。じゃあ、外を見回ってきます」

「あ、私も行かなきゃ。手分けしようか」

「じゃあ、僕は裏を回りますね」

「分かった。グラウンドも任せていい?」

「はい」

「私は玄関から先、正面側を見て回るから」

「了解です」


 名残惜しいのはいいんだけど、だからといっていつまでも校内に居座られるのは困る。施錠の時にまだ中に残ってると、敷地から外に出られなくなるんだ。女子高は警備がすごく厳しいからね。


◇ ◇ ◇


「春は名のみ、か。うー、さぶ」


 ジャケットを着てから外に出ればよかったと思ったけど、後の祭り。そのためだけに職員室に戻るのも億劫だった。さくさくと確認作業を済ませて戻ろう。


 荒れた生徒がいる高校と違ってこの女子高は規律が厳しく、生徒指導も徹底してる。教師は、いわゆるお礼参りみたいなことを心配しなくてもいい。その分、僕はのんびり巡視出来る。まだ学生が残っているとすれば、本田さんが見回っている正面側だけだろう。卒業という晴れの日に、薄暗い校舎裏に潜もうなんて物好きはいないはずだ。僕は、まだ固く閉ざされている木々の冬芽を見上げながら、後手にゆっくり校舎裏を歩いていった。


「あれ?」


 珍しい。生徒指導長の渡辺さんが、用具庫の陰で誰かと話し込んでる。相手は生徒じゃないのかな?


「渡辺さん、どうされました?」

「あら、牛島さん。見回り?」

「はい」

「いや、この子と話してただけよ」


 ああ、渡辺さんの視線がその子に落ちてなかったから分からなかった。渡辺さんの足元に、街路樹に背中を預けるようにして卒業生の女の子が一人うずくまっていた、そして、僕にはその子の顔に見覚えがあった。


 うちの高校の風紀指導は厳しい。警告を無視すれば容赦なく停学のカードを切る。親も呼ばれるし、身上書にも違反内容を記載されてしまう。ほとんどの生徒は違反をしても軽微なレベルで止まり、再違反者はすごく少ないんだ。でも、彼女はうちでは珍しい札付きだった。いわゆる指導室の常連。そして、指導長の渡辺さんの常客ということになるんだろう。


 二人がどんな話をしていたか分からない僕は、無難に退出を促すしかない。


「施錠前に退出してくださいね。後が厄介なので」

「分かってる。まあ、今日くらいはもう少し余韻に浸らせてよ」


 あ! そうか。渡辺さんは、三月いっぱいじゃなく、今日付で退職だったんだ。ずっと頭上の木々を見上げていた渡辺さんが、そのまま呟くように話し始めた。


「ここにいる時と出たあとで、立場も出来ることも変わる。それは紛れもない事実ね。私も高野さんも」


 膝を抱えてうずくまっていた高野さんが、ほんの少し頷く。


「それだけよ。不安も期待もない。それだけ。だから、私にはさよならは要らない」


 高野さんがこわごわ顔を上げた。


「さよならで変わること、変えられることなんかない。あなたの卒業も私の退職も同じこと。ここを出たって、入れ物の枠の大きさが変わるだけで、あとは同じよ。さよならっていう飾り付けをしても意味ないわ。そんなのは要らない」


 渡辺さんは、まるで自分自身に刻み込むようにしてそう断言した。そして、指導長の時にはすぐ帰りなさいとどやしていたのに、無言でさっと立ち去った。


 うーん。きっぱりした生き様が、鮮明に脳裏にこびりつく。すごいな……。


「ぎゅうちゃん」

「うん?」

「あたし、帰りたくない」


 ああ、そういうことね。結局丼の中の反乱。ここを出たら、かまってポーズが誰にも通用しなくなるってことを恐れているんだろう。


「帰りなさい。高野さんはもう在校生じゃない。居座ると、不退去で警察沙汰になっちゃうよ」


 卒業の日に、こんな物騒なことは言いたかないけどさ。僕は、首にぶら下げていたネクタイを乱暴に外した。


「あー、うっとうしい。こんなもん!」

「え?」

「縛り付けるものばっか。僕ならさっさと出ていきたいけどね。渡辺さんと違って、さよならは必要だと思ってる」


 そうさ。でも、なかなかさよなら出来ないんだ。さっきの渡辺さんみたいにきっぱりとは、ね。


「いろんな人がいて、いろんな生き方をしてる。それだけだよ」

「うん」

「さあ、さっさと帰った帰った」


 少しだけ苦笑いした高野さんが、のろのろと重い腰を上げた。


「ばいばい」

「ほい」


◇ ◇ ◇


「さよならは要らない、か」


 あれは、渡辺さんが言うから重みがあるんであって、今の僕が言ったら百パーセント嘘っぱちだ。そういう意味で、教師ってのは重たい職業だなあと。


 ……つくづく思う。



【第四話 さよならは要らない 了】


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