第五話 桜花とともに

「ふうっ」


 隣席の本田さんが、頬杖を突いたままじっと窓の外の桜吹雪を見つめている。時折、深い溜息を交えながら。


「どうなさったんですか?」

「いや、いつもの春愁いよ。私たちにとっては、この時期が一番憂鬱」


 ふっともう一つ溜息をこぼした本田さんが、顔をしかめてゆっくり首を振った。


「桜花とともに、かあ」

「??」

「みんな、花が咲くまでは期待して、満開になったらお花見。でも散ったあとの桜なんか誰も見ない」

「うーん、そんなもんですか」

「そうよ。本人も親もね」


 あ、そういうことか。


◇ ◇ ◇


 五月病なんていう言い方があるけれど、高校生に関してはそれよりももっと早く出る。四月病、だ。たくさんの夢と希望を抱えて、これから始まる高校生活をわくわくしながら待ち構えているはずの新入生たち。だけど、誰もがそういう前向きの期待感を持っているわけじゃないんだ。それは、教師としては新米の僕にもすぐ分かる。出席を取った時にね。そう、最初から登校してこない子がいるんだ。欠席の理由も、体調や家の事情じゃない。


 歴史のある、比較的レベルの高い女子高。もちろん、ここ専願で受験する子もいっぱいいる。でも公立校や他の進学校と併願にして、滑り止めで受験する子も決して少なくないんだ。本命を取り逃がして仕方なく入学した子にとっては、専願の子たちの高揚感や明るさがしゃくに触る。どうしてもそこに落差が生まれる。

 確かに、時間が解決してくれることはあるよね。どこの高校に行ったところで、ガイダンスがあって、オリエンテーションがあって、授業が始まれば、その先には大きな差はない。自分のいるところだけがあばら屋で、他は全部ベルサイユ宮殿なんてことはありえないよ。受験という試練でかき乱された心が入学後に落ち着いて、不満や後悔が花吹雪の下に静かに沈めば。その向こうに見える青空は広く、高くなる。余計な感情に邪魔されずに、周囲を見回せるようになる。

 だけど、みんながみんなそうやって割り切れるわけじゃない。受験という桜花しか見ていなかった子にとっては、散った桜花の代わりがない。桜は桜、なんだよな。


 斜線が並び始めた出席簿を見て、本田さんと同じように溜息をつく。


「はああ。このあと、どうするんだろなあ」


◇ ◇ ◇


「へえー、こんなものが植わってるとは知らんかったなー」


 昼休み。構内の植栽を見て回っていた僕は、刈り込まれた一本の植栽の前で園芸図鑑をめくりながらぶつくさ言っていた。


 大抵の樹木は何の仲間かだいたいあたりが付くんだけど、こいつはあまりに特徴のない木で、全然見当がつかなかったんだ。常緑で、葉はありふれた形状。幹にも樹形にもこれといった個性がない。せめて花とか実が付いていればなあと思ったんだけど、その気配もない。すぐに分からなかったのが悔しくて、樹木図鑑を端から端まで熟読したんだけど。外来種じゃなあ。ぱっと分からないはずだよ。


「せんせー、それってなんですかー?」


 黄色のタイをつけた元気のない女の子が、よろっと近寄ってきた。黄色ってことは一年生か。


「なんだと思う?」

「分かんないですー」


 女の子は、木を見もせずにそっぽを向いたまま答えた。


「そっか。じゃあ、分かんない木」

「ええー?」

「だってこの木がなんであっても、君は興味がないんでしょ?」


 返事が嫌味に聞こえたのか、その子がわずかに顔をしかめた。完全に無関心てわけでもないのか。


「僕は、なんだろって思ったものが分かんないと、すっごい気持ち悪いんだ」

「ふうん」

「おっと。昼休みが終わるな。そろそろ教室に戻ったらいいよ」

「あのー」

「うん?」

「わたし、がっこ、やめたいんですけど」


 やっぱりな。この子も桜が散った組だな。


「そうだなー。やめたら?」

「え?」


 その子は、僕が引き止めると思ったんだろうか。


「君がやめたいやめたいって思ってる間は、ずーっとつまんないよ。それなら、自分でどうするか決めたら?」


 顔をそむけたその子に、調べていた低木を指し示す。


「これでもね、桜の仲間なんだよ」

「ええー?」


 女の子が、目を丸くした。


「セイヨウバクチノキ。花は地味で、秋に咲く。実は初夏に実る。常緑で、大きくなれない。まあ、桜としちゃあ鬼っ子もいいとこさ」

「へー」

「それでも桜なんだよ。咲きたい時に咲くんだ。誰かが見てくれるとか、ほめてくれるとか、そんなのなにも関係ない」

「うん」

「僕はそんなんが好きだけどなー」


 しばらく俯いていた女の子は、口の端にちょっとだけ笑みを浮かべて小さく頷いた。


「……うん」


◇ ◇ ◇


 そんなことがあった次の日。出席簿の斜線が一つ、丸に置き換わった。僕は、味気ない丸に花弁を書き加えて桜にする。不謹慎かもしれないけど、まあこれくらいはいいじゃん。


「とりあえず、一輪は咲いた、か」


 桜花とともに移ろう運命。でも、咲いても咲かなくても桜はずっとそこにある。そして、桜花がいつ咲くかは桜が決めること。桜でない僕らが決めることじゃないよね。


「さて。僕のはどうするかだよなあ……」



【第五話 桜花とともに 了】


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