第六話 隣り


「ここんとこ雨ばっかだなー」


 昨日からずっと降り続く雨。激しく降るわけじゃないけど、止む気配もない。浮き沈みを拒むような、中途半端を絵に描いたような、宙ぶらりんの雨降り。洗濯物が乾かなくて困るなー。頬杖を突いて、うんざり気分で窓外の雨模様を見やっていると。全く同じ姿勢で牛島さんが物憂げに窓外の雨を見つめている。


 わたしは机の上に乗せたペット茶の蓋を緩めながら、ちらちらと牛島さんを観察する。どうにも不思議な人なのよねえ……。


 大学で生物学を専攻していた研究者の卵。牛島さんが来る前に、主任にそう聞かされていた。学際的な環境にいる人は、どこかネジが外れている人が多い。常識が欠けていて、協調性がなく、偏屈でとっつきにくい。それが、わたしの持っていたイメージだった。

 だけど、牛島さんはそういうイメージとは全く違っていた。少しぼけっとしたところはあったけど、人当たりが柔らかくて常識的。その若さとは裏腹に、酸いも甘いも噛み分けた大人の雰囲気が漂っていた。それが牛島さんのもともとの性格なのか、それともすでに妻子がいるという境遇から来るものなのか、判断が付かない。


 半端なタイミングでの中途採用でありながら、理事長だけでなく年配の教師陣にも受けがいいし、何しろ生徒たちの間で絶大な人気を誇っている。いや、見た目にすっごいハンサムだとか女の子を扱い慣れてるとか、男性らしさを誇示しているがゆえの人気じゃないんだ。なんて言うか、親しみやすいんだよね。隣にいて違和感がない。邪魔にならない感じ。うちの高校出身の奥様が、なぜ彼に惹かれたのかがよく分かる。


 ただ彼は、わたしたち教師陣や生徒たちが抱いているそういう安心感とか共感みたいなものに戸惑ってる。そして、微妙に距離を置いている。その距離感が、こういう雨の日に分かる。とてもまじめな牛島さんの意識がどこにあるかが見えなくなるんだ。すぐ隣にいてもね。


「ねえ、牛島さん」

「はい?」


 ペット茶を一口飲んで、声をかけた。わたしに思考を中断させられたことに気分を害するでもなく、牛島さんがひょいと振り向いた。


「浮かない顔ねえ。奥様と喧嘩でもしたの?」

「あはは」


 牛島さんは、からっと笑い飛ばした。


「いえ、今日はかみさんが実家に帰っているので、喧嘩のしようがないですよ」

「あら、お子様は?」

「一緒です。かみさんの方の両親が、時々孫を強奪しに来るので」


 茶目っ気たっぷりにはぐらかした牛島さんは、腕組みをして小さな溜息をついた。


「考えどころなんですよねえ」

「え? なにが?」

「いえ」


 それきり。少し困ったような笑顔のままで、牛島さんが黙りこくった。うーん、奥様と揉めているという感じではないよなあ。気にはなるけれど、隣席だからといって無遠慮にプライベートに踏み込むのも気が引ける。わたしの出過ぎたまねを咎めるかのように、少しばかり雨の振り方が強くなってきた。


 ざああああああっ。


◇ ◇ ◇


 授業が終わって生徒が退出し、教室の中にこもっていた熱がさあっと冷めた。施錠前に、明かりを消した教室の中をもう一度見回す。


「結局。今日は最後まで雨だったな……」


 普段から少し薄暗い生物室がさらに五月闇さつきやみに侵され、半ば閉ざされて感じる。隣に誰もいないことに少し安心して、僕は無人の教室にぽんと心を放り出す。


 あっという間に半年ちょっとが過ぎて。僕の教師としての毎日が板についてきた。教師なんかには絶対に向いていないだろうと思ったのに、不思議なもんだ。教壇に立って生徒に教えている僕を、別の僕がぎょっとした顔で見ているんだよね。なんだ、おまえにそんなことが出来たのかってね。

 もちろん、それにはちゃんとわけがある。家庭の事情とか、経済的な理由とか、そういうのは二の次。僕の夫や父親としての使命感がそういう適性を生み出しているわけじゃないんだ。


 隣りにあるもの。たとえば本田さんとか、休み時間にわらわらと集まって来る生徒とか、どうだ大丈夫かと心配してくれる主任や理事長とか。そういう隣にいる人たちの気配が、ともすれば傾いてしまいそうな僕をいつの間にか真っ直ぐに整えてくれる。それは当たり前のことじゃなく、この学園が持っているたおやかな空気がもたらすもの。そして、いつの間にか僕もその空気の中にふわりと取り込まれている。その居心地の良さの中に、ずっと浸っていたいと思っている僕がいる。


 でも。でもね。とても心地いいんだけど、それは僕の隣にいて欲しいものではないんだ。だからどうするか、なんだよなあ。


 雨はまだ降り止まない。そして、今日も僕の答えは出ない。僕の隣は空いたままだ。


「ふう……」



【第六話 隣り 了】


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