第七話 木漏れ日
「いててててっ」
こめかみを押さえて、椅子にへたり込む。体躯が貧弱な割には丈夫で、あまり体調を崩したことがない僕にとっては、たかが頭痛と言ってもこの世の終わりくらいの苦痛に感じられる。授業が始まる前に治まってくれればありがたかったんだけど、人間の体ってのはそんなに単純には出来ていないらしい。
早退して病院に行くのが最善だと思う。でも週末だし、今日さえ乗り切ればあとは自宅でゆっくり休める。試験も近いし、極力授業に穴を空けたくない。離脱時間を短くしたい。
「はあ。しょうがない」
僕は机の上のパソコンの電源を落として、隣席の本田さんに声を掛けた。
「済みません、頭痛がしゃれにならなくて。保健室で鎮痛剤もらって、少し休みます。一時限は自習にするしかないですよね」
「あら」
僕はよほど辛そうな顔をしていたんだろう。本田さんに、うんとこさ心配されてしまった。
「牛島さん、顔色が良くないわよ。早退して病院に行った方がいいんじゃない?」
「そうなんですけどね。まあ、今日一日なんとかしのぎます。立っていられないほどしんどいわけでもないので」
「そう?」
本田さんが、僕の代わりに主任に容態を伝えてくれた。こっちを見ている主任に一礼して、こめかみを押さえながら保健室の方向を指差した。主任からは、早く行け、のジェスチャー。
はあ、行きたくない。でも、しょうがない。薬を飲まないことには治まらないだろうし。
◇ ◇ ◇
保健室には行きたくない。それにはちゃんと理由がある。
なにせここは女子高。保健室の利用者は女の子ばかりだ。いくら僕が人畜無害でも、具合が悪いといってベッドでうなっている女の子と枕を並べる勇気はない。授業中に体調を崩して保健室に行く子の付き添いすら生徒に任せて、僕がしたことはなかったからね。これで養護の先生が若くて美人ならもっとしゃれにならないが、幸い年配のおばさんだ。それだけは、僕にとっての幸運なのかもしれない。保健室の利用者が誰もいなければいいなと祈りつつ、こそっと扉をノックする。
「はい? どなた?」
「あ、牛島です。ちょっと頭痛がしゃれにならないので」
「あら」
がらっと扉が開いて、養護教諭の野村さんがひょいと顔を出した。
「うわー、しんどそうね。顔色が悪いわよ」
「ほんとにしんどいです」
「ロキソニン出すから、それ飲んで。痛いとこにアイスノン当てて横になって」
「あ、横になるのはちょっと」
僕が気後れしたのを読んでくれたんだろう。窓際に椅子を持っていって、席を作ってくれた。
「タイやベルトを緩めてね。出来れば靴も脱いで」
「恐れ入ります」
ふう……。
鎮痛剤はすぐに効くわけじゃないらしいけど、静かなところで頭を冷やしているうちに、いくらかましになった。
「今日は、生徒が来ないですね」
「そういう日もあるわよ」
「ははは」
野村さんは窓際に近付くと、木立ちの隙間から漏れてくる日差しに目を細めた。
「青葉がたくましくなったね。梅雨が明けたら、すぐに暑くなりそう」
「つい先日まで、寒い寒いって言ってたのがうそみたいです」
「ふふ」
目の上に手をかざして木漏れ日を見上げていた野村さんが、ひょいと僕に視線を落とした。
「ねえ、牛島さん」
「はい?」
「奥さんの出産予定日はいつだっけ?」
「あ、来月の頭です」
「あら、もう臨月なのね」
「はい」
「そうか……なるほどね」
「え? なにがですか?」
「頭痛は持病じゃないんでしょ?」
「はい。こんなのは初めてで」
「体は正直ね。ここに赴任してからずっと緊張していたのが、少し慣れて緩んだんでしょ。偏頭痛はそういうタイミングで出やすい。たぶんストレスね」
「うわ、そういうのがあるんですか」
「そりゃそうよ」
腰に両手を当てて、野村さんが戸口の方を振り返った。
「ここに来る子だってそう。見かけは元気そうにしていても、無理は抱えきらない。それが変調のもとになるの。でもね、それを……塞いじゃいけないの。牛島さんのもそうよ」
塞ぐな、か。ものすごく我慢してるつもりはなかったけど、でも全部ぶちまけることが出来なかったのも確かだ。そうか……。
「理事長も他の先生も、若いのに飄々としてる牛島さんの姿勢に安心感を覚えてると思う。でも、そういう姿勢を保とうとする牛島さんは、必要以上に自己抑制する。そのストレスがどっかに出るの」
「はい」
「そのシグナルを甘く見ないでね。牛島さんが、溜め込んだストレスを家で爆発させたら家庭が壊れる。ちゃんと漏らしてね」
うん。養護の先生っていうのはさすがだなあと思う。僕の木漏れ日は本当にかすかなんだろうけど、野村さんはちゃんと見つけてくれた。僕は、そのことに深く安堵する。でも、大丈夫。僕は大丈夫さ。
頭痛はまだするけど、さっきよりだいぶましになった。椅子から起き上がって、タイを締め直す。
「野村先生」
「はい?」
「助かりました。よく効きました」
「そう」
「じゃあ、授業があるので」
「お大事にね」
「はい」
ああ、そうだ。僕は中高生の頃、保健室が大好きだったんだ。そんなことをふっと思い出しながら、駆け足で職員室に戻った。
足下にちらつく木漏れ日をかき分けながら。
【第七話 木漏れ日 了】
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