第八話 昼の天の川
「牛島さん、お子さんのお誕生おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「どっちだったの?」
「女の子でしたー。最初がやんちゃな息子だったので、嬉しいです」
「あはは。奥様は?」
「家内も女の子が欲しかったみたいなので、希望通りですね」
「じゃあ、先々はここに通わせてね」
隣席の本田さんが、にやっと笑いながら目を細めた。あはは。
嬉しいのはもちろん嬉しいけど、それよりもほっとした。いくら男女同権と言ったって、女性は常にハンデを背負っている。社会的立場や因習面でということではなく、生命を生み出すために自分の生命を懸けるというハンデを、ね。
「ねえ、牛島さん」
「はい?」
「奥様とはどういう馴れ初めなの?」
本田さんがダイレクトに突っ込んできた。出産が済むまでは余計なプレッシャーをかけないようにって、控えてくれてたんだろう。これからは全力でいじられそうだなあ。とほほ。
「別に珍しくもなんともないですよ。かみさんは、同じ講座の一年後輩です」
「うーん、確かにありふれてるわねえ」
「あはは。イレギュラーなのは、結婚が早かったことぐらいですかねえ」
「……もしかして、出来ちゃった?」
「違いますよ。僕の大学卒業直前に入籍。五年経って学位論文書き上げた年に息子が生まれてますから、かなり間が空きました」
「あらー」
「しょうがないですね。僕は稼ぎが不安定ですから、かみさんの仕事が軌道に乗るまでは家族計画が立てられなかったです」
「奥様はどちらにお勤め? やっぱり研究関係なの?」
「いいえー、普通の会社員ですよ。都内の会社に通ってます」
「そっかあ。それじゃあ、逆方向通勤てことね」
「僕の方が、ずっと近いですけどね」
「ふふ」
娘は、七夕の夜に生まれてきた。毎朝別々の方向に通勤していく親を見て、うちの親は変だなあと思うようになるのだろうか。家の中に天の川が流れてるわけじゃないのに、と。
いや、今はまだいいんだ。問題はこの先。この先なんだよな。
「牛島さん?」
本田さんに呼びかけられて、はっと我に返る。ここんとこ睡眠時間が短かったせいか、思考モードに入った途端に意識が別次元に飛んでしまう。気をつけないと。
「あ、いかん、授業の準備をしないと」
「あはは、ごめんね。変な話振って」
「いいえー」
◇ ◇ ◇
学生の気配が消えて、生物室が静けさに包まれる。今日は実習がなくて板書だけの授業だったから、後片付けがない分早く上がれる。今は妻の母親がお産扱いに来てくれているので、買い物や帰宅してからの家事を考えなくてもいい。すごく助かる。保育園に預けてある息子をピックアップして、直帰すればいいからね。
「名前をどうしようかなあ」
息子の時には、最初の子供ってこともあったし、二人して気合い入りまくりでノート一冊書き潰したんだよな。そのわりには健康の健の字で『たけし』。双方の親に呆れられたっけ。もうちょっとひねりを入れないのかって。そりゃそうなんだけどさ。
早くから二人での生活を選んだことには、僕も妻も後悔はしていない。全て覚悟の上での学生結婚だった。でも僕らは、なかなか安定しない二人での生活を乗り切るガッツがどうしても欲しかったんだ。そのためにはまず心身ともに健やかであること。子供が、ではなく僕ら全員がね。その願いをこめての名付けだった。
窓際に歩み寄って、梅雨間の青空を見上げる。眩い陽光と、それを跳ね返す木々の青葉の輝き。それらが校舎をすっぽりと覆っている。何もかもが順調に明るく見える時には苦悩や忍耐が隅に押しやられ、視界に入らなくなる。それは見えないだけであって、なくなったわけじゃないんだけどね。
「昼の天の川、か」
僕らの年齢や境遇に関係なく、天の川はいつでも僕らの間に流れている。僕と妻の間に、厳然として別々の時間が流れているという事実。僕らが夫婦という関係の継続を望むなら、その川を毎日渡らなくてはならない。うちは、毎日が七夕なんだよな。でもそれが毎日であれば、逢瀬は日々繰り返せる。問題は……。
「せんせー」
生徒の声に肩を叩かれて、慌てて振り返った。いかんいかん。また、思考モードにどつぼってしまった。さっさと切り上げて息子を迎えに行かないと。
赤いタイを付けた女の子が、入り口のところで教室の中を見回していた。ああ、生物の授業を取ってる子だ。木村さんて言ったっけ。友達の多い、明るい子だ。
「なに? どっか分からないところがあった?」
「いえー、本田せんせーから、ぎゅうちゃんとこ女の子生まれたよーって聞いたので。おめでとうございます!」
「あはは」
思わず照れてしまう。
「ありがとう」
「もう名前は決めたんですかー?」
「いや、まだなんだ。帰ってから家族会議さ」
「そっかー」
木村さんは、持っていた白い封筒を僕に向かって差し出した。
「友達とー、こんな名前いいんじゃないかなーって、いろいろ考えてみましたー」
「おっ! それは助かる」
僕が喜んだのを見て、木村さんが嬉しそうに頬を染めた。
「名前が決まったら、わたしたちに教えてくださいねー」
「そうだな。授業で披露するわ」
「楽しみにしてますー。じゃあ、帰りますー」
「ありがとなー」
「いえー」
ぱたぱたと手を振った木村さんが、やったーって感じで両手を突き上げながら走っていった。僕は、少し滲み始めた窓の外の陽光に目を移す。
僕と生徒たちの間にも天の川は流れている。その川向こうの僕は、生徒たちの目にどんな風に映っているんだろうな。僕には、ここの生徒たちが夜空に散らばっている美しい星に見える。一つ一つに個性があり、別々の存在なんだろうけどさ。それはそれとして、ね。
「七つの星で、ななせ、ってのはどうかな、星が多い方が、幸福も多そうだし」
【第八話 昼の天の川 了】
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