第九話 緑陰
「さすがに暑いなあ」
高校が夏休みに入り、校内から学生の姿が消えた。嘱託という僕の立場上、生徒に教えることが出来ないこの時期は教師としての員数外だ。その間は無給だよと言われても仕方がないんだけど、この学園はおおらかで、夏休み中の分も給料を払ってくれる。もっとも嘱託教員の給与水準が低く抑えられているから、全部均せば安月給なんだけどさ。ボーナスとかもないしね。
それでも、給料をもらっている以上生徒がいようがいまいが出勤はしないとならない。ほとんど全館空調が止まっている状況で校舎内にいるのはしんどいので、仕方なく作業用のノートパソコン片手に、緑陰を求めて敷地内をうろうろするはめになる。夏期講習の期間中は僕にも講義の割り当てがあったから、まだ充足感があったんだけど……。
「ふうう」
炎天下でもどこかの部の夏練が行なわれているらしくて、トレーニングの掛け声が響いてくる。元気だなーと思う反面、熱射病は大丈夫なんだろうかと心配になってくる。もっとも、僕がのこのこと練習風景を見に行くと生徒や監督の先生の気を散らすことになるから、音の断片を木陰で聞き流すしかない。
パソコンをたたんで大きな桜の木の下に腰を下ろし、葉の隙間をくぐり抜ける夏の日差しに目を細める。細めた目は、そのままいつの間にか閉じてしまった。僕の意識とは何も関係なく。
「ぐう」
◇ ◇ ◇
「牛島さん?」
ん?
「牛島さん? そこで寝てると蚊に刺されるよ?」
おっと、うっかり寝込んでしまった。慌てて跳ね起きる。
「済みません、勤務中に」
僕に声をかけてくれたのは、ソフト部の顧問をやってる福田さんだった。うちの先生としては、かなり異色かもしれない。四十代後半だけど体型も言動も骨太で、雰囲気が男っぽい。からっとした嫌味のない人だから僕の好きなタイプなんだけど、同僚の先生たちの間ではかなり煙たがられてる。誰にでもはっきり物を言うからね。
まだ汗まみれの日焼けした顔をぐいぐいタオルで拭いた福田さんが、さっき僕がしていたのと同じように葉越しの夏日を見上げた。
「なるほど。ここなら涼しいわね」
「さすがに、今日は中で作業するつもりにはなれないです」
「そりゃそうよ。牛島さんの体型でサウナに入りっぱなしじゃ、中身がなくなるわ」
「わははははっ!」
福田さんは、目を細めて日差しを見上げる格好のまま、さらっと問いを口にした。
「ねえ、牛島さん。あなたは、私に話しかけにくい?」
「いいえ」
「ふうん」
本当にそうなのと疑うような口調だったので、ちょっとだけ言い訳をする。
「僕がいた講座の先輩や先生たちが揃ってど真ん中直球系ばかりだったので、そういうのに慣れちゃったんですよ」
「へえー、私みたいのがぞろぞろいるわけ?」
「いやあ、福田さんならまだ平幕です」
「うわあ……」
「あはは。もちろん講座によってカラーがみんな違うから、たまたまなんでしょうけどね」
「そっかあ。世界は広いなあ」
「もっとも、講座の中のやり取りそのままで外の世界に出たら、えらいことになるんじゃないかと」
「ぎゃははははっ!」
福田さんが、汗を振りまきながら豪快に笑った。
尻に付いた土埃をぱたぱた叩き落として、福田さんと同じように夏空を見上げる。
「ここに来て、これまで僕が知らなかった世界をいろいろ見せてもらってます」
「うん」
「それで気付かされたことの中には、自分に足りなかったものやこれから身につけなければならないことがいっぱい入ってる。でもね」
「うん」
「それまで自分がいた世界の良さを改めて認識する、そういうのもあるんですよ」
「うん。分かるな」
福田さんは、ごっつい手で桜の幹をぱんぱんと叩いた。
「私は教師になるまで、実業団の選手をやってたの」
「ええっ!? プロだったんですか?」
「あはは。実業団がプロかっていうのは微妙だけどね。でも、寝食を惜しんでソフトに没頭してたのは確かね」
「そこから教師に転身されたんですか?」
「そう。最初はコーチで来てくれって話だったんだけどね。それは断った」
「どうしてですか?」
「コーチはソフトしか指導できない。教師じゃないからさ」
「あ、なるほどー」
我が意を得たりというように、福田さんが朗々と話し始める。
「私もそうだったけど、選手としての寿命は短いわ。それは長い人生の一部分でしかない。ここで生徒に教える以上、教える中身はソフトでない方がいいかなーと思ったの。だから教師という職にこだわった」
すごいな……。
「まあ、なかなか思うようにはいかない。でも、それが私の選択した道。後悔はしてないし、楽しいわ」
「うーん、僕にはなかなか出来ないですね」
「そう? 牛島さんは上手よ。私なんかよりずっとね」
今のを福田さん以外の先生が言ったら、嫌味以外の何物でもない。でも、福田さんのは直言だ。当然、その中身は二つあるっていうこと。
『上手にこなしてるのはすごいよ』と『上手にこなしてるけどそれでいいの?』の二つ。僕は、そう考えなくてはいけないんだろう。
すぐに思索に落ちてしまう今。その今のうちに。緑陰で、頭痛がするくらいぎっちり考えておこう。僕が誰にも嘘を吐かなくても済むようにね。
「上手には出来てませんよ。それが出来るようなら、僕はここにはいませんから」
「ん」
福田さんが、ぐいっと頷いた。
そのすぐ側で、じわじわと蝉が鳴き始めた。
【第九話 緑陰 了】
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