第十話 蟻
長い夏休みが終わって、暑さの切っ先が喉元から外された。まだ残暑が厳しいと言っても、これから少しずつ楽になってくる。夏の背中が見えるとともに、思い思いの夏を過ごした生徒たちが校舎に戻ってきて、何食わぬ顔で教室の中を喧騒で満たしていた。それは今までと何も変わらない風景……のはずなんだけどね。
そうは行かない。
学校側は、生徒の規律遵守を強く求めている。風紀の乱れにものっすごくうるさいんだ。それがこの学園の売りであり、校則をしっかり守るという条件で在学を認めている以上、違反者には極めて厳しいペナルティが下される。
だけど。夏休みってのはガクセイにとってではなく、学校側にとって鬼門なんだよね。長い休みの間は監視の目が届かず、自律を生徒の自主性に任せるしかない。義務教育の小中学生と違って、高校生にもなると親の監督や制止も届かなくなるから。
熱病のような夏休みに浮かれて、生徒が予想外の領域に踏み込んでしまうことは決して珍しくない。珍しくないけど……起こったことに対する救済措置はないんだ。そこは徹底して厳格にしてるんだよね。
夏休みが過ぎて体温が平熱に戻り、はっと気付いた時には事実だけが残されている。それが自発だったのか他動だったのかは一切関係なく、何にも影響されない事実だけがぽんと、ね。その事実に対して、学校側は一切の容赦をしてくれないんだ。あくまでも規則は規則で押し通す。
僕は、そのことについて特段の意見も感情も持っていない。何の権限もない嘱託教員である以上、踏み込んだアクションは一切起こせない。だけど、古株教師が揃いも揃ってかっちかちの石頭だってことをよーく知ってる違反生徒は、一番若い僕にすがりつくしかないんだろう。そういう子たちが、こそっと来ることがあるんだ。どうしようって。
もちろん、僕はその子たちを擁護することは出来ない。どんな事情があっても規則は規則だ。僕も職員の一人として内規に縛られている以上、絶対に
それなら、僕の出来ることは一つだけさ。生徒の話を聞く。それしかない。まあ、あれだ。教会の神父さんみたいなもんだよね。神父さんは、懺悔した人の罪を許したり、断罪したりは出来ないでしょ? 神様じゃないんだから。
◇ ◇ ◇
ということで。生物室の乱雑にならんだ机の一つに腰をかけてる意気消沈した生徒が一人いて、僕は窓際に立って暮れ始めた外を見つめている。
「ねえ、ぎゅうちゃん」
「うん?」
「あたし……やっぱ退学なんかなあ」
「さあ。それは僕の決めることじゃないから分かんない」
ふう。
「これから事情聴取と処分決定なんでしょ?」
「うん」
「それなら、佐々木さんがきちんと説明するしかないでしょ。うそをつかず、何をしたのか正確に話して、自分の気持ちをごまかさないで伝える。そのために、ちゃんと弁明の機会を作ってあるの。違反者の誰に対しても、ね」
「うん」
僕は、どんどん日が短くなってきたことに苛立ちながら、窓枠をとことこ歩いている一匹の蟻をじっと見ていた。
「蟻……か」
「え?」
とんと机を降りた佐々木さんが、早足に近づいてきた。
「ほら」
「あ、ほんとだ」
「蟻には自由がない。巣の中にいる女王蟻に操られ、仲間を守り子供を増やすためにこき使われる。そう思う?」
俯いた佐々木さんが、小さく頷いた。
「僕らが蟻ならつまらんだろうなあ。でも僕らは違う。蟻なんかじゃないよ。だから、僕らは必ずしも巣を必要としないんだ」
「そうなん?」
「高校っていう巣にいる間は、その巣に拘束される。でも、同時に先生や仲間に守ってもらえる。巣を出たら、全部自分でやらないといけないの。餌を探すのも、寝るところを確保するのも、伴侶を探すのも」
僕は、窓枠を歩いていた蟻をぺんと弾いて外に落とした。
「あ……」
「それだけさ」
窓を閉めて、鍵をかける。
「天敵が多いから、蟻の寿命は短いよ。一匹で出来ることなんかすっごい限られてて、だからこそ大きな巣と群れを作る」
「うん」
佐々木さんは、さっき僕が落とした蟻に自分を重ねて見てしまうんだろうな。
「でも、人間はそうじゃない。巣を換えることも独立することも出来るし、それをいつしないとならないって決まりもないの。ここの巣が好きならそう言えばいいし、嫌なら他の巣を探すか独立するしかないってこと。僕にはそれしか言えない」
「ぎゅうちゃんは……巣を出たの?」
その質問を苦笑で返した。
「だから学生結婚したんだよ」
【第十話 蟻 了】
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