最終話 花の一つ、一つの花

「牛島さん。何見てるの?」


 学期最後の授業が終わって職員室に戻り、白衣を着たままぼやっと窓外を眺めていたら、本田さんに声を掛けられた。


「ああ、ちょっといろいろと」

「見てるんじゃなくて、考え事?」

「そうですね」

「奥様と何かあったの?」


 どうも本田さんは、僕の様子がおかしいのは全て夫婦喧嘩に起因していると思い込んでるみたいだ。そんなことはないんだけどな。


「夫婦仲はいいですよ。口喧嘩くらいはしますけど、派手にどんぱちやりあったことは一度もないので」

「へー、うらやましい」


 ははは。はっきりしている本田さんは、ご主人にも遠慮なしに文句をぶちかますんだろう。


「そうじゃなくて」


 そうさ。どこかで話をしないとならない。理事長や主任にはすでに申し出てあるけど、生徒や他の先生には今までずっと伏せていたんだよね。結局、秘密は最後まで漏れなかったんだ。でも、そろそろ潮時だろう。


「本田さんにもすっかりお世話になったんですけど」

「えっ!?」


 のけぞるようにして、本田さんが絶句した。


「ちょっと言い出すタイミングが遅れちゃったんですが、三月末で退職ということになりまして」

「ちょ、ちょっと! 生徒に何かしでかしたの!?」


 ううう。どうして発想がそっちの方に行くかなあ。まあ、一年ちょっとしか勤めてないのに突然辞めるっていうんじゃ、訳ありに取られても仕方ないけどね。


「違います。かみさんの産休、育休の間、収入が途絶えるのでここでお世話になってたんですよ。かみさんの復職に合わせて、僕は大学に戻ることにしました。学振が当たったので」

「がくしん?」

「期限付きですけど、お給料がもらえるフリーの研究者っていう身分ですね。R大の鳥井教授の研究室に籍を置かせてもらって」


 呆然としてる本田さんに、これまで出さなかったもう一人の僕を見せることにする。


「本田さん。ここは僕にとって、とても働きやすい場所でした。理事長も主任も先生たちも、そしてここで学んでいる生徒たちも。みんなここを愛している」

「ええ」

「僕もその一員になりたいと。本気でそう思える場所でした。理事長には、あと一年嘱託の形で雇用延長して、その後正式採用ということでどうかと誘われたんですけど」

「断ったの?」

「はい。僕はここで学ぶ子供たちに嘘をつきたくないんです」

「嘘……って?」

「僕は先生なんだよってね」


 本田さんの表情が、見る見る険しくなった。


「確かにここで働かせていただいた間、僕は期待されていた教師のカリキュラムを無難にこなせたかなと思います。生徒とのトラブルもなく、生徒の学習意欲も低下させず」

「うん」

「でも、僕には何も残らなかったんですよ。お給料以外」

「それは!」


 強い非難の口調。でも、僕はそこで引き下がるわけにはいかないんだ。


「それがね、プロである本田さんとまだひよっこの僕との大きな違いなんです。もし僕が嘱託教員でなくて正式採用だったとしても、僕はやっぱりひよっこのままだったでしょう」


 これまでずっと僕を覆い隠していた白衣。そのプロテクターを解除しよう。さっと白衣を脱いで丸め、それを机の上に放る。


「好きか嫌いかと言われれば、僕は教師っていう職業は好きです。でも教師と研究者のどちらを取ると言われれば、即座に研究者を取る。それが偽らざる僕、本当の僕なんですよ」

「それで、嘘はつきたくない、か」

「はい」

「ふう……」


 眼下の花壇に、バイオレットクレスの薄紫色の花が一面に咲き広がっている。その淡さゆえに、一つ一つを取り出すと花は存在感を失ってしまうだろう。僕はその花に似ている。ここにいれば。学園の穏やかな空気の中に溶け込んでいれば。牛島弘志という一個人は風景に調和し、その一部としての役割を過不足なく果たすだろう。でもここにいる限り、僕はその花の一つでしかない。赤く咲くことも青く咲くことも出来ない。


「生徒たちが寂しがるわ」


 本田さんが悲しそうな顔をした。


「僕も残念です。でも、これが今生こんじょうの別れっていうわけでもないので」

「そうだけどさ」

「僕はいずれ研究でメシを食っていくことになるでしょう。そこに、自分の持っている力を全部注ぎ込むつもりです。将来はどこかの大学に籍を置くことになるでしょうから、いつか僕と一緒に研究をやろうよって」

「うん」

「生徒には、それだけ伝えればいいかなって思ってます」

「ふふ」


 本田さんが、やれやれという様に何度か首を振った。


「若いオトコがいなくなるのは寂しいわ」

「僕も、ぎゅうちゃんと呼ばれなくなるのは寂しいです」

「ほほほっ。そうね」


 花の一つであるよりも。僕は一つの花でありたい。小さくても。地味でも。それでも一つの花に。そのことに気付かせてくれたこの学園に、僕は心からお礼を言いたい。ありがとう、と。


 顔を上げて窓の外に目をやる。ずっと見続けてきた桜並木の花芽が膨らんできた。今年も、舞い散る桜吹雪の中を大勢の子羊たちが入場してくるんだろう。目を細め、その様子を思い浮かべる。ああ……。


「僕は、羊飼いにはなれなかったなあ」



【最終話 花の一つ、一つの花 了】

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