第十五話 最初で最後のバレンタイン

「バレンタインかあ……」


 世間一般には盛り上がる日なんだろうけど、うちの場合はまるっきりアウトオブ眼中だ。そもそも対象者がいないしな。先生はおばさんばっかだし、女の子同士でチョコのやり取りするのは、そっち系の嗜好がない限りトモチョコ、義理チョコ止まりで何もおもしろくないだろう。

 それに、そもそもうちの高校は校内外問わず異性交際禁止だ。当然、バレンタインだからと言って関連グッズを持ち込めば、見つかった端から没収されてしまう。没収だけで済めばいいけど、うちはそれだけじゃ終わらないからね。


 そういう厳しい縛りは生徒にだけでなく、教職員にも適用される。若い男は僕しかいないから、かちかちにガードを固めておかないと生徒の暴走でとんだとばっちりを食らっちゃう。育児と仕事のダブルストレスでかりかりしてる妻からチョコなんざ来ようがないから、僕にとってバレンタインは他の日と何も変わらない。いや、そういう意識にしておかないとならない。ああ、めんどくさ。


 ぶつくさ言いながら職員玄関を出たら、生徒が一人僕を待ち構えていた。


「ん? 万田さんじゃん」

「あの……」

「ああ、あれね」

「はい」


 万田さんがカバンの中から出した紙袋を受け取ったら、どこでそれを見ていたのか、二年の生徒が一人、こっちに向かって猛チャージしてきた。


「ちょっとおっ! 抜け駆けえっ!」


 あーあ。思わず苦笑いしちゃった。


「ちゃうがな」


 手のひらをそっちに向けて、突進を制止する。


「え?」

「さすがに堂々と校則違反は出来ないよ。僕も万田さんもね。これは、貸してた本さ」

「あ!」


 僕が紙袋から出した分厚い洋書を見て、その子がじりっと後ずさった。


「えへへ」

「君も読む?」

「いえ、遠慮しときますぅ」

「遠慮要らないのにー」

「見るだけで満足ですー、ありあとましたー」


 全力で離脱した生徒の慌てぶりを見て、僕だけでなく職員玄関から出て来た本田さんも苦笑していた。


「ねえねえ、牛島さん」

「はい?」

「あなたにしては珍しいわねえ。不用意な行動で」

「まあ、確かにそうなんですけどね」


 僕は、いつ雪が舞い落ちて来てもおかしくない分厚い鉛雲を見上げ、そこにほっと息を吐き足した。


「みんなから見えない陰でこそこそやり取りする方が、ずっとリスクが大きいんですよ」

「あ、そうか。確かにそうだ」

「だから、ここで本をやり取りすることにしたんです。貸す時にはバレンタインじゃなかったから、誰も注目しなかったってだけです」

「そういうことかー。で、それは何の本?」

「アメリカの大学の講義で使われる、生物学の教科書ですよ」

「へえー! そんなのがあるんだ」

「ご覧になりますか?」

「見せて見せて」


 英語が本職の本田さんは、興味津々。分厚い本を受け取ると、それをぱらぱらめくって顔をしかめた。


「こりゃあ、英語が分かってもさっぱりだわ。何が何やら」

「わははははっ!」


 思わず馬鹿笑いしてしまった。


「そりゃそうですよ。最初から誰にでも分かる内容にしていたら、学生が努力して理解しようと思わなくなりますから」

「ふうん」

「発想が違いますね。これを読む学生は高校までの生物の基礎知識はすでに持っているものと考えて、そこにはもう触らせない。基礎の上に乗せる高度な知識を、演習付きで学ばせて行くんです」


 各章末には問題がずらっと並んでいて、それには本文を読んだだけではすぐに解けないものも含まれている。自分で調べなさい。それを教科書の知識に足しなさい。そういう発想なんだよね。


「ねえ、牛島さん。これを勉強したの?」

「一応。これだけじゃ足りないですけど」

「うわ」

「教科書は最大公約数です。そこには、みんなが知ってて当然のことしか書いてない。だから、これだけじゃ全然、ね」

「そうか」


 さっき逃げて行った子と同じで、全く歯が立たなかったんだろう。万田さんが完全に意気消沈して、無言のまま俯いている。いや、今これをすらすら読んで理解出来る高校生がいたら、そっちの方がずっと怖いって。


「これを見て、分かる分かんないは全然気にしなくていいの。それより、今勉強してるいろんなことはちゃんと使えるんだなって、それに気付いて欲しい。その面白さを理解して欲しい」

「うん」


 僕は、本田さんにもそう振った。


「本田さんが教えておられる英語。きちんと学べばすごく役に立つんです。だからこそ、今の教育の中にしっかり盛り込まれてる」

「そうね」

「この本が読めたら何が分かるんだろう? そういう好奇心とわくわく感。そして、まだ内容が十分理解出来ないっていう悔しさ。みんな、君のこれからに必ず役立つから。今はそれだけでいいの」

「……はい」


◇ ◇ ◇


 結局。理事長以外の先生や生徒には、僕の辞任の話がまだ漏れていない。僕の秘密はまだ万田さんのところで止まっているってことだ。そして、彼女が秘密を守る動機は僕には分からない。単なる興味のせいなのか、何か特殊な感情が潜んでいるのか、それともまだ僕に探りを入れようとしているのか。だけど、そこにあえて突っ込むつもりはない。


 高校教師としての僕の残り時間は、すでにカウントダウンに入ってる。今さら生徒や先生との付き合いの方法、方向を修正したところで、僕にも彼らにも何の意味もないんだ。だけど、中途半端な僕を快く受け入れてくれたこの学園に、なにか種子タネを蒔いておきたい。僕がいたんだっていう痕跡は残らなくていいから、僕を通じて少しだけ世界を広げて欲しい。


 それが、最初で最後のバレンタインに僕が贈れるもの。僕の分はもうたっぷりもらってるから、ほんのお返しね。


「あ。雪だ」



【第十五話 最初で最後のバレンタイン 了】


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