第十二話 霧の中

 女子高の中にあるトイレは、当然のことながらほとんどが女性用だ。数少ない男性用は職員棟のどん詰まりにあり、まさに最果ての地。生徒だけでなく職員もほとんどが女性だから、俺たち少数派の男子職員は男子トイレに来ることをシベリア送りなどと揶揄している。まあ、理事長直々にシベリアにお出ましになるから、笑い話に出来るけどな。


 一般会社の場合、女子トイレはしばしば情報交換の場として重要な役割を果たすらしい。我が校の場合は、それがここ男子トイレになるということだ。職員室のような雑魚場ではなく、対面で男性同僚と話が出来るからね。そんなことを考えながら朝顔に向かって小水をくれていた俺の隣に、ふらっと牛島くんが並んだ。


「よう、おはよう」

「小川さん、おはようございます」

「調子はどうだい?」

「まあまあですね」

「まあまあか」

「かみさんが職務復帰して生活スタイルが変わりましたから、慣れるまでどうしても、ね」

「まあな」


 それにしても。理事長もよくこんな逸材を引っ張ってこれたものだ。なんでも彼の奥さんがここの卒業生らしいが、それだけで彼の採用を決めるわけはあるまい。年齢に似合わずとても落ち着いていて、理知的だが冷たく感じられるところがなく、本当に人当たりが柔らかい。数多あまたいる女生徒、女性教師の誰もが、すでに彼をしっかり信頼しているんだ。着任から一年そこそこで高評価を固められるやつなんざ、そうそういないよ。


 ただ、その彼がここしばらく不調なんだよな。もともとすっとぼけたところはあったんだが、とぼけてるんじゃなく意識が飛んでいる。いや、授業はきちんとこなしているし、生徒や同僚とのやり取りにも特別大きな変化があるわけじゃない。それでも俺たちだけでなく、生徒たちにも牛島くんの異変が見えてしまっている。ねえ、最近ぎゅうちゃんどっか変なんちゃう、ってね。


「なあ、牛島くん」

「はい?」


 チャックを閉めて手水鉢ちょうずばちに手をやった俺は、水音に紛れ込ませるようにして探りを入れた。


「なんか、悩んでないか?」


 ああ、それは探りじゃない。直球になっちまったな。隣の手水鉢に手を伸ばした牛島くんは、ざぶざぶと思い切りよく手を洗った。それから、かすかな苦笑いを顔に浮かべた。


「悩んではいないです。迷ってますけどね」

「迷ってる、か」

「はい。僕が何かすることで全部打開出来るなら、それが一番いいんですけど」

「ふうん?」

「今は待つしかないです。その待ってる時間がものすごく苦痛なんですよ。迷いの先が見えないので」


 話をはぐらかさない彼にしては、ひどく抽象的な言い方だ。それだけ彼の迷いが深刻だってことなんだろう。


「抱え込むなよ。私や理事長に手伝えることがあるなら、何でも言ってくれ」

「ありがとうございます」


 シベリアを出て廊下に逃れた俺たちは、窓の外の乳白色の世界に目をやった。今日は珍しく朝からずっと濃い霧が立ち込めていて、視界がほとんど塞がれている。牛島くんは、それを物憂げに見やっていた。


「何でも見えればいいってものじゃないんでしょうけど」

「うん」

「極端に見通しが悪いってのも、あれですね」


 ふうっと大きな溜息を転がして。牛島くんが走り去った。


「授業の準備をします」

「ああ」


◇ ◇ ◇


 授業が終わって、わいわい騒ぎながら生徒が教室を出て行った。無人になった生物室に一人ぽつんと取り残されて。僕は、窓の外の霧をじっと見つめていた。


「せんせー?」

「お? どした? 分からないとこがあったか?」

「ううん」


 赤いタイを結んだ二年生の子が、たかたかと近寄ってきた。


「なんかー、元気ないなーって」

「あはは。ごめんな。ちょいブルーなんだ」

「ケンカしたんですかー?」


 生徒に不安を見せたくない。でも、今の僕は完全に濃霧の中だ。見通しが利かないところにずっと立ち尽くしている。その不安定な状況と心境を、自力ではどうにもコントロール出来ない。さっきも、主任に心配されちゃったしなあ。


 ふうっ。言い訳がましく、霧に向かって答える。


「いや、ケンカ出来るならうんと楽さ。なにが元でケンカしたか分かってるから、あとは気持ちを整理するだけ」

「うん」

「でも、ケンカする相手がいないんだよね。霧を相手に相撲取るみたいなもんだよ。はああ……」



【第十二話 霧の中 了】


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