―福原・???―

 隊長は戸締りをキチンとしたか納得するのに少し時間がかかる。気にしたら気にし続ける。そういう人間だった。


 だからこそ、再びここにやって来てしまう。


 閑散とした地。ジャングルとは言わないが、コンクリートの木々が次第に神戸という街に植えられて行くに連れて、ここの地には異様な感覚が起きる。


 福原の「無名」区。呼ばれ方の通り、名無しの地である。ここはかつての快楽の園、そして多くの女達と弱者の怨嗟を溜め込んだ因果の地。歓楽街「すすぎの街」、その跡地である。


「未だに手もつかない、か。そりゃそうか」


 分かりきった事。しかし、それが何より率直な感想だった。開発計画地という官営の看板が徐々に朽ちの兆しを見せているのが証左であった。今はコンクリートで土を覆って、痕跡を潰しているその地で見た物を山路は一生忘れない。


 そして、二度と日の目を得られなくなるまでになぶり尽くされた女達の姿は忘れたくても忘れられない。抗う気も起きぬほどに人の手に掛かった人間というのはこうまで無惨であるのか。ただそれを思い出すと、しとねで苦痛に身をよがらせながら客の足音を聞いていた女達の事なぞ露知らず、下卑げびた顔で「濯ぎの街」を茶化していた一昔の自分が無性に恥ずかしく、堪らない。


 隊長は宇山の事を不意に思い出し、頭を振った。かつて、この地を焼き討ちにした時、宇山の顔が女達に重なって怒りに震えたのは紛れもなく事実である。宇山とてこうならなかったわけではない。時の巡り合わせ次第では有り得ないわけではなかったのである。


 どうせ悔いるに決まっているのに、この青年は愚かしい事を浮かべる癖があった。宇山がでは彼女達のようになったなら、果たして自分は平然としていられるのか。彼女達の親のように、娘を売りに出して逃げ出すような人間ではない。隊長は自分をそう思っている。では、宇山はどうだろう? 耐えられるのか、彼女達のように? そんなに強いわけがない。きっと……


「強くある必要は無い。強くあって灌がれる穢れは無い。強いからこそ、その身は腐ったのだ」


「そんな……腐ってなんか」


「梅毒に冒された身だ。花も散り、鼻も落ちた身の有り様は、腐ったという方が適切かと思うがね」


「そん……、っ!?」


 今、誰と話していた? 隊長は途端に身を翻し、来た道の方を向き直した。だが、誰もいない。


「思い込み過ぎると、不意に応じられんぞ。気を付けておくべきだ」


 右斜め後ろ。隊長はハッとしてそちらへ体を返した。そこに男がいた。


「若人よ、懊悩は過ぎれば命を削る。これは先達からの忠告だ。心に留めておくといい」


「誰だっ!?」


 隊長は身構えた。対する相手は長身であり、恐らく、2メートルに少し足らない程度の筈だ。加えてしている。


 どこの巨人連隊帰りだ。隊長はそう思った。


「俺を敵と見るのなら、無防備に過ぎるぞ。小人、せめて礫でも握れ」


「俺の背が低いんじゃない」


 男に身構えた様子がない。男は表情も変えず、


「特段、俺の背が高い訳ではなかろう?」


 そうほうけた。


 敵意を隊長は感じられなかった。身の構えを気持ち緩めた。


「……そういう事にしておく。他所で言って恥でもかくんだな」


「ふうむ。皆、そう言うのだ」


 隊長は何も言いたくなかった。だが、聞かねばならない事がある。


「どうして俺が考えている事がわかった。それに誰だ、あんた」


「問いは一言に一つまでとしてくれ。答え辛い」


「なら、あんた誰だ」


 隊長は少し苛立った物言いをしたが、相手は気にも留めなかったようで、そのままの顔で答えた。


「そうだな…城井きい宗房むねふさとでも答えておこう」


「とでも、ってなんだ」


「名は幾つか用意してある。どれも紛れも無い俺の名だ。城井宗房はその幾つかの一つだ」


「何を……」


「君が知るべき名はこれのみで良い筈だ、山路兵介」


 隊長は抑揚もなく勝手に人の名を呼んだ事に当然の違和感を持った。隊長はこの男を知らない。


「君という人の前で、君に関わりを持つ俺は紛れもない城井宗房、唯1人だ。それ以外に関わりを持たない事を誓おう。尤も、耳にしたとして、俺と認める事など出来ぬだろうがな」


「ハンドルネームかなんかとでも考えておこうか」


「……そういうのは造詣が浅くてな。良くはわからん」


「もういい、次だ」


 隊長は突き放すように言った。僅かに宗房の口元が緩んだようにも見えたが、気に留めない事とした。


「どうして、俺の考えがわかった? 口になんて出してない筈だ」


「ここに来て、足を止め、物思いに耽る輩など、大抵は皆同じ事を思う。そして、少なからず悔い、悩み、怒り、虚無に至る。どれもみな、代わり映えしない思索だ」


「つまらない事、とでも言うのか?」


 隊長は語気を強めた。宗房には相変わらず抑揚がない。


「常なる事をつまらない、と思うのならばそうだろう。俺にとってはよくある事に過ぎんというだけだ」


「にしても、頭に来るな。勝手に覗くような真似をして」


「それは、どの女の事を覗かれたと思うからだ?」


「何っ!?」


 隊長は苛立ちを隠さなくなった。今にも掴みかからんばかりの顔で城井を睨み付けている。


「宇山真綾が凌辱された果てを思うのがやはり恥ずかしいか」


「お前、何様のつもりだっ!」


 隊長の激昂は辺り一杯に聞こえた。夜はそれを呑んで行く。宗房は続けて何かを言おうとしない。


「お前に何がわかる!? 俺が何を見て、何を思ったかまでわかったような口をして! ふざけるのも大概にしろ!」


「仮にも愛すると言った女の哀れな姿を平然と思い浮かべる君が俺を罵れるか?」


「思っちゃいない!」


「では何を恐れている? どうして内心を悟られる事を嫌がる?」


「いい加減にしろよ、お前っ!」


 隊長は一歩前へ踏み込んだ。そしてその勢いで宗房の所まで小走りに駆けて宗房の胸倉を掴んだ。


「ふざけるなって言ってんだよ、何なんだよ、お前っ! ケンカ売ってんのかっ!」


「やはりな。心を閉ざすか、山路兵介」


「っ!!!」


 隊長は胸倉を掴んだ両手から咄嗟とっさに右手を離し、そのまま拳作って振りかぶり宗房の顔面目掛けて投げ込もうとした。だが、宗房は空いている左腕を素早く上げて隊長の肩に左手を開いて押し当てた。肩を止められた隊長は振りかぶったままで、拳は宙に浮いた。


「心にやましさの無い者が、心を閉ざすものか。他者に対しての恐れ、嫉み、怒り、憎しみ、卑しき願い、それが無くして何を恐れる」


「それを、お前がどうして言う資格があるっ!?」


「世に立ち、人と関わる者が、どうして覗かれる事を嫌悪し、拒む?」


「そうじゃねえだろうがっ!」


 隊長は力一杯に肩を動かし、殴ろうとした。しかし、宗房の手は微動だにせず、いつの間にか掴んだ腕も宗房の右手によって引き剥がされ、咄嗟に離された右手が隊長の胸に押し込まれそのまま突き飛ばされた。


 前のめりに力を入れていた結果、突き飛ばされてバランスを崩した隊長は尻餅をついた。


「何処の誰かもわからぬ奴に、という所か。なら、それは己を知らなすぎる、山路兵介」


「何をっ!?」


 宗房は尻餅をついたまま睨む隊長に一歩近付いた。


「お前は既に、多くの目に晒され、多くの好奇の目がお前達を見ている。ここに度々寄って物思いに耽る事も〈皆〉が当然知っている」


「おかしな事を抜かすな! 誰が! 何の為に! イカれてるっ!」


 隊長はひどく興奮し始めていた。宗房はそれをわかっていた。


「〈皆〉がこうしてお前を見ている」


 宗房はジャケットの裏に右手を入れてすぐに引き抜き、そのまま隊長に向けた。隊長は一瞬で目が覚めたようだった。宗房の右手には彼が見慣れた物、それに近しい物が握られていた。


「こうやって、な」


 右手は隊長の知っている物より一回り小さい銃を握っていた。これが「ライノ」という小型の銃である事を隊長は知らない。

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