―???―

「長電話かと思ったのに」


 傍らの男に対し、横たわった女は怒気を孕んだ声を投げた。


「……あなたに、何の関わりがあるの?」


「貴方は彼といつも長く話しているからな」


 そんな事、と言いかけて女は無駄を悟って止め、代わりにポツリと漏らした。


「……彼は忙しい人。私だけのものじゃないもの」


 男は手に持った注射器の液体に目を通した。漏れた言葉を聞いて、少し毒を吐きたい気持ちになった。


「そうかね。彼は実に無駄をしているのだな、それは」


「あなたに何がわかるの? 何でもいいわ、さっさとどうにかしなさいよ」


 投槍な言い分に、男は少しだけ魔が差した。


「構わないのか。父とは言え、血の縁などないのだぞ?」


「知ってて言ってるんでしょうね」


 吐き捨てられた恨み節に、自分の軽薄さを男は呪った。


「……覚悟は問うた。最早、私が躊躇う理由は無い。始めようか」


 注射針を肌に当てる。その前にアルコールで湿らせた脱脂綿を以て、男は女の肌を拭いた。白い肌。若々しい、水も弾くやもしれぬ艶をしていた。


 女は少し、躊躇ったのか、唐突に男へ問うた。


「お金は?」


 男は先ほどの魔が彼女を戸惑わせている事を察し、内心酷く悔いた。


「既に届いている。ベルリンからスイスを介して、十分に洗った金だ。問題は無い」


 男の答えに、女はただ溜息をついた。


「……出所、聞かなきゃよかった」


「国連事務総長御用達のルートだ。この国のメガバンクより国際的信用がある。安心しなさい」


「……わかった。よ、イオンIonマリカMarica


 男の手が止まった。懊悩は暫く、男を苦しめるであろう。


 だが、彼女の覚悟、これ以上揺らがせてはならない。


「お休み、お嬢さん。アラームはこちらで仕掛けておく」


 注射針が白い肌に刺さる。男の親指はゆっくりと動き、女は見ている。


 男は女をもう見ようとしなかった。この世界、タダで変わりはしないのだ。この女が礎と成るか、或いは最初の成功者となるか、もう考えたくはなかった。


 注射器が抜かれ、針の跡に綿を置く。その一連の動作を見ながら、次第に微睡まどろみに落ちていく女には、ふと、瞬間に頭によぎった事があった。女は案の定、悔いた。


―――――もっと、話しておけばよかった。



「脈拍正常。取り敢えず今の所はクリアって所ね」


 マスクをした金髪の女が眠りに落ちた検体の脈を採っている傍で、男は気の沈んた声でうめいた。


「皆そうであったろう。これで何人目だ」


「665人。あと1人でオーメンね。アジア人は彼女で80人目よ」


「お前という奴は・・・・・・・っ」


 女は男が立ち上がるのを手で制した。


「埃が立つ。今、別のを入れる最中なのよ」


「今度は上手く行くんだろうな?」


「さあね、どうだか」


「……どういう事だ」


「女の身ってデリケートだから。ちょっとぬかると一瞬でパーよ。だから、暴れないでね」


「俺を嘘吐きにしやがったら、そのツケ払ってもらう」


 男は実に苛立った物言いをしたが、女は先ほどから同じ調子で変わらなかった。


「随分と執心の御様子でありますこと。なあに、懸想けそうでもした?」


「殺されたいのか?」


「まさか、せっかく実験だけに気を使えるようになったのに。まだ死にたくはないわ」


 気を使えるんじゃなく、それ以外に気を回せなくなったのだろう。この気狂い。男は内心そう愚痴った。


 男の故国の同胞や人道団体をかたって収奪した多くの難民の子やストリートチルドレンを喰い尽くし、今も犠牲者を生もうとしているこの女、そして男の雇い主。男はそれでも、漠然とした決意から彼らの手を取った。その挙句のこの外道はわかっていたはずである。


「そういや、は今日来ないのね」


 女は額の汗を白衣の裾で拭った。女はこの国の多湿な環境と季節を愛してもいたが、同時に難儀もしていた。


「ああ、定期考査だそうだ」


「懐かしいなあ。私テスト嫌いでさあ。特にロシア語。ホント、喰わされてる気分」


「口が過ぎるぞ。ここのスタッフにはロシア人だっている」


 女は少し笑みを浮かべた。


「あは。そうでした、そうでした。でも、貴方はロマンス系なんだよね」


東ローマRomaniaは一応そうだと言う。ホントかどうかは知らない」


「ふーん。しかし、貴方の国も難儀よね。今更になってコミュニストの方がマシとか言っちゃうんだもの」


「ナチスとコミュニストは違う。所詮関わりあるのは国民だけだからな」


「それもそうか。スラブの連中にとっては死活問題だものね、総統Der閣下Fuhrerは」


「こうしてお前のような奴も生まれてくるわけだしな、アーニャ・オレゴヴナ」


 アーニャAnja オレゴヴナOlegovna ブブノワBubnovaは溜息をついた後、男に向かって少し微笑んで言った。


アンナAnnaリッツマンLitzmannよ、イオン・マリカ。いえ、〈ルークRook〉?」


 目がまるで笑っていないその笑顔は、男の背を少し冷やした。


「承知しているよ、ミス〈ビショップBishop〉。ミュラーMuller財団記念研究所の主席研究員殿」


「なによ、その説明臭い言い方」


「確認がてらの話だ。間違っているか?」


「……別に。抜けているけど」


「何がだ?」


 アーニャは手を止めて、体ごと向き直って述べた。


若き髑髏部隊Jung-Totenkopfverbande、その指導者Reichsfuhrer-J-TVよ」


 ああ、そうだった。男はそうぼやいた。

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