―島根・益田―

「ここから先が、敵地と言う訳か」


 助手席にもたれ、白皙はくせきと呼べる肌の男がそうただす。ありきたりなビジネスマンのジャケットを羽織り、ネクタイをせずに胸襟きょうきんをやや開かせてカッターを着ている男はシートベルトを乱暴に除けて皺が寄ったカッターとジャケットを整えた。上下のビジネスマンルックはどちらも新品だったそうで、男は少し気にしていた。


 ハンドルに手を置いたままの浅黒い男は停車の措置を取りながら答える。彼は濃緑のT型のシャツにジーパンとスニーカーを着ている。ヨレの入ったシャツの下は汗ばんでいて、服の上に染み出ていた。


「津和野までがウチのエリアかな。須佐山口徳佐は自信持ってそうだ、と言えん」


「だとするなら、ここは随分と弛んでいるな」


 白皙の男の淡々とした言い草に、浅黒い男は少し困ったような顔をした。


「そうヅケヅケ言いなさんな」


「戦争なのだろう? スサやトクサは目と鼻の先と言っても良い筈だ」


「仮にも同胞さ。争うのは互いの御上と欲に目の眩んだ輩ばかり、そう思ってんのさ。まあ、本格的に始まったなら、もうちっとマシになろうがな。君の故郷…サラエボSarajevoだったけか。そこらとは違うさ。信仰も話し言葉も殆ど同じ、紛れもない同胞だよ。御上の違い以外はね」


 浅黒い男はそう言って口元を綻ばせ、キーを抜いてベルトを外した。


「どこへ行く?」


「少し歩こう。そこに高台もある。なあに、心配はいらん。若い衆がそこらで見張ってる。君の息子達もそうだろう?」


「出来の悪い。悟られるなと言ったのに」


「それは俺を嘗めすぎだよ、セルビアン。これでも俺は『犬』暮らしが長いんだ」


 呆れた顔の白皙を宥めつつ、運転席のドアを開いた浅黒の男は車外へ出た途端、陽射しに目を細めた。


「少し汗ばむが、ここを登ろう。見晴らしが良い」


「急な斜角だな。これまでとは随分違う」


 白皙の男は首を斜め上に傾けて、天辺を眺めた。階段は幾重にも見え、その先は遥かに感じられた。浅黒の男は同じような姿勢になり、そのまま天辺を指差した。


「山城の跡地だそうだ。その上に神社を置いた」


「城の名は?」


 浅黒い男は白皙の者の言葉に少し笑いをこぼした。


「君のお気に召したかね」


「知っておける事に無駄な物なぞ有りはしない。その知が何かに引っかかるなら、実に有意義な事だ」


「そうかね。そりゃ殊勝な心掛けだ」


 浅黒の口は少し、からかったような言い回しだった。


七尾ななお城。七つの尻尾、ここら辺もそういう地名だった筈だ。広島のおっかない連中が攻めてくるのに対抗して城を築いたそうだ」


「その辺り、知る事を皆聞かせろ。役に立つ」


「生憎だが、俺はここまでしか知らん。後で戦史室の連中を紹介してやるから、そいつに聞いとくれ」


「ふん。まあ、いいだろう」


 白皙の男はそう言うと、石組みの階段を登り始めた。浅黒の男も後に続く。


「随分と早足だね、君は。ばてるぞ?」


「馬鹿にしているのか? 俺が誰だかわかっているのか?」


「慣れない地だ。先達の言う事は聞いておけ」


 白皙は振り返らずに足を前へと踏み込み続けた。変わりのない歩き振りに浅黒い男はやれやれといった素振りをしてそのまま後ろへついて行った。白皙の男は後ろの仕草を感じた。


「……殆ど知らぬ土地なのだろう?」


「まあ、それもそうか」


 浅黒の男はそう吐いた。


 幾重にも登る道。足を上げて踏み込むにつれて、固い足場が靴の裏から圧迫して来る。だが、白皙も浅黒の肌のいずれも何ら変わった様子もなく登り続けている。


 浅黒の男は後方を見やった。後ろからは幾人かの若い男達が歩いている。白皙の男よりも少し肉の色をした金髪碧眼の青年と背の低い青年が続き、その後ろから最後尾には浅黒の配した若手の衆が続いていた。


 山の上から風が下りてきた。夏の近しい頃。まだ、風は熱を知らず、汗ばむ肌を心地良くしていった。


「どうです、何か気になりますかい?」


「風は悪くない」


「そうです? そりゃ良かったよ、ゲリッチ隊長。御満足頂けたなら山陰陽の人間として鼻が高いってもんだ」


「何も知らないのだろう、シンスケ・ノベハラ?」


「まだ言うんかい、隊長さんよ」


 山陰陽都督府陸軍の師団長、延原のべはら新助しんすけは対するセルビアSerbia人傭兵隊長ジャルコZarko ゲリッチGericに少なからず辟易した。


「地も時の重なりも知らずに視察をするのは愚かしい。肝に銘じてほしいな」


「そうだな。肝に灸でも吸えておこう」


 延原はそう言って、苦々しく笑った。


「もうすぐ、天辺か」


 白皙の男、ジャルコ ゲリッチは少し楽し気な声だった。


「ああ、やしろが見えて来る」


「ヤシロ? ああ、神社の事か」


「そうさね。神社の『ジャ』は『ヤシロ』の漢字と同じだ。意味もね」


「なるほど」


 延原師団長は興味深そうにする目の前の馬鹿でかい背をした男を少し笑いたくなった。


「隊長の『ジャルコ』って名前はおヤシロの『ジャ』かな?」


「何を言っている?」


「ああ、忘れてくれ」


 師団長はユーモアのセンスを持ち合わせていなかった。


「着いた」


 階段を登り切った。ジャルコ ゲリッチはそのままの勢いで社の所まで行った。浅黒の男、延原新助は階段の後方を見やって後続に早く上がるように手招きして、ジャルコに続いた。


「眺めは良い」


「そうだ。ここで敵を迎え討つ筈だったしな。結局、城の主である益田ますだ藤兼ふじかねは広島の吉川きっかわ元春もとはるに戦わずして下ったがな」


「益田は死んだのか?」


「いや。益田は吉川の親父だった毛利もうり元就もとなりって男はいろんな兼ね合いがあって藤兼を殺そうとしたが、吉川が命乞いをしたんだよ」


「なぜ? 何か秘宝でもあったのか?」


 延原は微笑んだ顔をして、横に首を振った。


「益田は使えたんだ。外交官としても使えたし、中華辺りと交易してたんで金があった。ここら辺一帯、そうだな、だいたい大田おおだ辺りまでを石見いわみと言うんだが、益田はそこで一番デカい領主だったんだよ」


「ほう。最後はやはり金か」


「才覚もな。君と俺がここまでやって来れたのもきっとそうだろう?」


「随分と自信家だな、シンスケ」


「君ほどじゃないさ、ジャルコ。ま、君の場合名の知れた実績もあるしな」


 延原新助はそう言いつつ、登り切った後続に目を遣った。


「マスダもシンスケのように自信家だったんだな。だから、降伏しても殺されないとわかっていた」


「そいつはどうだか。さっきも言ったろ? 毛利は殺す気だった」


 延原はそう言うと踵を返して社の方へ向かい、賽銭箱に腰を掛けた。ジャルコはそちらを向いた。


「すぐに座りたがるな」


「俺は尻が重いんだよ」


 ジャルコは怪訝な顔をした。延原はジャルコの顔を見ていて、彼が存外正直な奴だと最近気付いた。


「益田藤兼と戦った毛利元就って男はとんでもなく恐ろしい男だった。理由はどうあれ、弟を殺し、ある家臣を根絶やしにし、敵の大将を敵の家族や家臣に殺させた挙句自分へ寝返った敵にいちゃもんつけて殺し、家も土地も奪った。それに海賊を従えて航海中の船から金をせしめ、主人を好き放題に鞍替えして山陰陽の王者となった男だ。そんな奴の同盟者は益田と長年戦った吉見って津和野の領主だ。益田は吉見との関係の中で殺される筈だった」


「ツワノの領主はあのカメイだろう?」


「東京に仕えている奴か。あれは元々出雲の男だ。毛利の敵尼子あまご氏の家臣だった。地元じゃないのさ。加えて亀井は百年前くらいに貴族の養子をもらった。出雲の血でもない」


「おかしな話だな」


「ヨーロッパ人にはそう思えるだろうな」


 延原はそう言ってジーパンのポケットから煙草を取り出した。


「ヤシロは木造だぞ?」


「……大丈夫だ。汗で湿気ている。もうだめだ」


 延原はそう言うとまたポケットに煙草を戻した。


「益田が許されたのは元就の息子、吉川元春の口添えがあったからさ」


「キッカワ。そいつはどっかに養子に入ったのか」


「御明察。さっき言ったやり口だ。身内を裏切らせて家を奪った。だが、親父とは違って軍人気質な奴だったようだ。勇敢でもあった益田藤兼を殺したくなかったんだそうだ」


「変わっているな」


「俺や君ならそうだろうな。まあ、よくも悪くもお坊ちゃんだったんだろうか」


「それに対してモウリはあくどい。まるで、ウキタのようだ」


「随分とあけすけにいいやがるな、君。仮にも雇い主だろう?」


 延原がそう言うと、ジャルコは今日初めて笑みを浮かべた。


「そうは思わないのか? あれが聖人には見えんだろう?」


「……ぐうの音も出ねぇ」


 延原は惚けた顔で肯定をした。


「ウキタはモウリか。確かに凄腕だ。実に軍閥の長らしい」


「ああ。創業家のヤリ手社長とかもそんなもんかもしれん。それに留まりはしないがね。毛利はヨーロッパで言うなら、そうだね…上手く行ったワレンシュタインかな」


ヴァレンシュタインWallensteinより余程悪質だ。奴は奸計を用いない」


 そうかね? 延原はそう言うと少し唸って考えてから答えを出した。


「他にらしい奴って言えば、スフォルツァSforzaとかかね?」


「そんな所かもしれん。ニホンの大きさや封建体制はイタリアやドイツのそれらと似通っている」


 へぇ。延原は感心した。


「随分と造詣が深いな」


「祖父が歴史学者だった。その影響を受けた」


「そりゃいいな。家で歴史や文化の話なんか俺は聞いた事が無いから、なんか羨ましいよ」


「家で何の話をしていたんだ?」


「御近所の噂話や悪口。上司からいじめられた愚痴とかかな」


「……どこも似たようなものだろう。俺も親がそうだった。だから、祖父の所にいたんだ」


 延原はそう言われるとまっとうな顔付きをした。


「子供はあんなもの聞いたらいかんな。頭が腐っちまう」


「ああ、実に不毛だ」


 ジャルコの声はどこか寂しさを抱えていた。


 数刻の間、互いは黙っていた。


「……さて、と」


 黙り込んでいた延原は賽銭箱から腰を下ろし、ジャルコの方へ歩み寄った。


「益田の街は西石見の玄関だ。人口は5万人程度だが、ここを抜かれると浜田港も江津ごうつも一気に抜かれる」


「だからこそ、先に」


「そうだ。防長を手にして、奴らを関門海峡から陸に上げさせん」


「防長の守りは薄いのか」


「ああ、そうだな。どっちつかずにやって来たから。あの女が県令を殺ってから、すっかり内戦みたいだが、戦力としては知れている。それこそ、君の部隊を送り込んで機関銃でも撃ち込んだら直ぐにこうさ」


 延原は両手を頭の上に伸ばし、顔をわざとらしく強張らせた。


「ふん。そんなものか。なら、一気に仕掛けてしまえばよい」


「浮田将軍と同意見だな。さっさと防長を叩いて、小倉こくらの機先を制したいみたいだ」


「なら、なぜやらない?」


 ジャルコは少し食付き気味に述べた。


「それが政治だよ、ジャルコ。福原官邸はどうやら防長の畿内派からSOSを受けた上で本格的に戦いたいようだ。実際、あの女の件はこちらの関与じゃない事になっているが、実際は言わずもがなよ。挑発は利いている」


 ジャルコは思わず溜息をついた。


「やはり俺はモウリ嫌いだ。モトハルのが余程良い」


「そう言うだろうとは思ったよ。ただね、君」


「なんだ?」


「宇喜多公は元就より良く似た人物がいる」


「誰だ?」


「そいつは直家なおいえ。全てを失いながら一代にしてその全て以上のものを奪い得た梟雄きょうゆうだ」


「ウキタ ナオイエ……ウキタ……まさか」


 ジャルコはそれを聞いて少し笑った。それも苦々しい、綻ばさずにいられないが故の笑みだった。延原はそれを見てにやっと笑った。


「遠縁の直系だそうだよ。宇喜多公の御先祖様は」


 社は昼の陽射しが降って来ていた。供の者達は実に暑そうであった。

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