―神戸 福原都督府―

 静まった空間を靴の鳴らす音だけが響く。管理職として多忙となった若い男は仕事を漸く始末して宿舎に帰ろうとしていた。


 。かつてで剛勇を謳われた若武者は背こそ人並だが肉体は良く磨かれ、よわい三十に満たずして既に壮年の歴戦の猛者たる雰囲気があったが、内実はたぎる想いに蓋が出来ず、現と望みの狭間にて苦しんでもがいている青年そのものであった。今趙雲或いは麒麟児、そう呼ぶのは人の勝手。兵介は常に兵介であり、これからも兵介である。自分が自分である事に否を告げる気など、更々ありはしない。


 少し、喉が渇いた。山路大隊長はそう感じると帰り道から逸れて、都督府官舎の休憩所に足を伸ばした。


 官舎の空調は昼間に比べて弱まり、肌が汗ばんで衣服を湿らして気持ちが悪い。まして大隊長はオフィス仕事での汗かきを少し恥ずかしく感じていた。昔は闇雲でも前線で一心不乱、只々戦っていればそれで済んだ。今、兵介に求められているのはそれではなく、多くいる、かつての兵介達をまとめ、しごき、育て、制止しながら一方で塵芥のように扱う事だ。こうなりたかったわけではない。だが、どうなりたかったのか? それを漠然とした形でしか答えられなかった兵介は自分の倫理と義務によって、白い汚れの目立つオフィスのデスクに己を張り付けた。そうあるべきだ、と心に決めて彼はその道を選んだ。


 ただそれでも思う。の滅びと共に死んでおくべきではなかったか。そう思い出すと胸が締め付けられた。それが青年期独特の死への憧憬なのか彼の別の破滅願望なのかは自分でもよくわかっていない。しかし、生きるという事が少し重荷となって来た。自販機から買ったアメリカ産の炭酸水で喉を潤し、これまたアメリカ産の煙草を咥えた隊長は、嗜好という枷を堪能して余計に疲れを感じていた。


 腰のホルダーが揺れた。隊長は素早く手を回して携帯を開き、通話ボタンを押した。出雲から一時離れて関東で働いた時、電話は3コールで出るように厳しく教えられていた。、やけに商人臭くて堪らず、結局3か月で逃げ帰ってしまった。隊長に残ったのは僅かなビジネスマナーと教会への苦手意識だった。


「はい、山路です」


 休憩室に自分の言葉が広がったように感じた。つくづく携帯とはおかしな物だと隊長は以前から思っている。語弊誤解を差っ引いて、端から見れば完全に独り言、片言一人芝居なのだ。隊長にはまだこれを奇妙に思う素朴さが残されていた。


「…もしもし、わたしです。わかる?」


 番号を見ずにボタンを押したが、声色を隊長は知っている。


「宇山真綾、君だな」


「当たりです。良かった、いきなり切られなくて」


「一昨日会ったばかりだ。俺は健忘症じゃないぞ」


「わかってますって」


 律儀に言われた事に苦笑しつつ、電話越しに若い女は甘えた声をして隊長に絡んできた。


 宇山うやま真綾まあや。隊長より歳は若く、気ままに彼へと甘えて来た。物書きをしていると言うが、三流の度合いを抜けぬルポライターであり、実際は家計の足しする程度の稼ぎがある家事手伝いでしかない。そして、隊長にとっては「婚約者」という肩書を持った相手である。一昨日、休日にで食事をしたばかりだが、宇山は日に一度は欠かさず電話を掛け、週に一度は長電話で彼を拘束する。会う少し前から昨日まで、彼女は母親の腹の中にいるの事を喜んで話していた。


 正直、毎日の電話は少しばかり鬱陶しいが、隊長は以前関東で魔が差してと事を構えており、それ以来の行動確認に代えた甘えた長電話である。元はと言えば身から出た錆。止むを得ない。魔が差した事を悔いるか、或いは敢えて許した宇山に感謝すべきか、答えは言うまでもない。


「どう、お仕事?」


 宇山の声は、甘ったるいがよく浸みてくる。何故かよく気に残る。隊長には彼女の人となりよりこの声の印象が大きかった。


「ああ、もう終わる。今、息ついた」


「そう。お疲れ様です」


「何かあったのか」


「ううん。声が聴きたかっただけ」


「はぁ」


 隊長は愛想も無くそう言っただけだった。一昨日の食事の時に一通りの話はした以上、こちらから振る話題は特に見当たらない。寝食如何を共にしていれば所帯染みた事ではあろうが日々話す事もあろうが、互いに県境を跨いで逢う仲である。取り分けて別段用もない。冷たいようだが、今の山路兵介にはそれが精一杯である。


 尤も、それは隊長の事情である。宇山は彼とは違う。


「ん? 何か気のない返し」


 宇山は少し不貞腐れたかもしれない。隊長は声からそう思った。


「別に。俺はいつもこうだろう?」


「違う。一昨日とは別人みたい」


 そりゃ別人さ。隊長は心の中でそう愚痴った。今の彼は福原の山路兵介である。襟の固い服を着て、昼間なら山路大隊長と呼ばれるのだ。少し洒落を込んだ格好でフィアンセをエスコートする優男振りであった一昨日とは別人でなくてはならない。そもそも今漸く息をつけたのだ。宇山のように気ままに電話をしてくるのとは違う。


 ともあれ、それも隊長の事情だ。宇山は真綾で彼女自身の事情がある。


「プライベート気分ではないかな」


「そうなの? でも、終わったんでしょ?」


 やはり、ちょっとだけ、不満げな声色だ。宇山は甘ったるい分、少し重い。隊長は経験則を持ち出して、やんわりと収めようとした。


「仕事は終わったよ。だけど、まだ気は抜けてないかな。昨日ならまだ会議中だったよ、この時間は」


「ふうん、そうなの」


 宇山の声は大分灰がかかっている。経験上、これは良くない。そっけなく行き過ぎたか。隊長は少し焦り出した。


「まあ、なんだ。丁度終わった所だ。運が良かった」


「私と話すのって、そんなに手の掛かる、大それた話なわけ?」


「ああ、いや、そうじゃなくて…」


「そうじゃなくて、何よ?」


 隊長はきっと戦場ならこんな失策はしなかった。状況への認識不足、そして現有戦力の乏しさを鑑みずに言い訳という手段を採った事だ。異性へのなだかし、彼にその技能は乏しい。


「なんというか。ええっと」


「・・・・・・・・・・・」


 宇山は沈黙している。これはつたない手を打った。宥めないといけない。


 隊長はまた下手を打った。


「…怒った?」


「もういい。お休み」


 あっ、と声をつく前に通話が切られてしまった。隊長は思わず携帯を下ろして見詰めた。


 電話はもう何も言って来ない。宇山は今頃、携帯をベットかどこかに投げて不満を吐き出しているだろう。やってしまった。一昨日の頑張りが無に帰った。


 喫煙室は静まっている。それが妙に気に障って、


「ああ……、くそ」


 こちらもこちらで悪態をついた。煙草の灰がいつの間にか膝へ落ちていたのも無性に頭に来た。


 隊長と宇山の付き合いはそう長くない。出会ったのは出雲介降伏の二年前。の最後の拠点が畿内軍に攻略され、真綾の家族達を含む人々が難民として出雲へ向け徒歩で逃げ出しているのを救援にやって来た出雲軍が拾い、そこに従軍していた山路がを背負って後方根拠地まで連れて行ったのが馴れめである。


 その後、出雲の将軍であった宇山うやま久頼ひさよりが真綾の母を後妻に迎え、真綾は宇山の娘となり、その後山路と交際するようになった。出雲介降伏の頃である。山路は宇山と暫く同居していたが、宇喜多からの出仕要請を拒んだ結果方面へ出稼ぎに向かい、の末帰郷した。宇山は諸事の幾つかについて詰問きつもんし、隊長は軽挙のツケを払わされる事態となったが、最終的に宇山に許され元のさやに収まった。


 その宇山を度々怒らせる隊長。幾度となく機嫌を取りながらそれを全て帳消しにする失態を繰り返す隊長は、しかし宇山を失いたいとは全く思っていない。それでも一切成長がないのである。隊長は只々悔いるばかりであった。


「声だけなら、なあ」


 どうしてああも素っ気なくやってしまったのか。常なる事だが、悔いては湿っぽく悩む。隊長は自分でも未熟だと感じている。


 この時、声だけという彼女の言葉を鵜呑みにした事が最大の後悔となる事を隊長は身を以て味わう事になる。

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