西海
瀬戸内海を囲む西国における、日本帝国九州鎮台と大日本皇国畿内軍閥による、宣戦布告なき領土争奪の緒戦は、畿内方にその軍配が上がっていた。畿内軍閥に従う
こうした情勢の中で九州軍に必要なのは、瀬戸内の制海権と山陽上陸への足掛かりである。「日本列島の地中海」である瀬戸内海には、源平合戦から戦国時代に至るまで、様々な大名や海賊が覇を唱え、この海を征する事なくして、天下など夢のまた夢である。そして周防南東部の防予諸島には、
九州鎮台の背後には、非武装中立を夢見、対外軍事依存を憂うる吉野首相の理想とは裏腹に、数多の在日米軍が物々しく控えている。明治以降、ハワイ諸島など多くの海外移民が旅立った屋代島に、再び日米両国の歴史が刻まれようとしていた。
筑紫県福岡市、博多湾の海上にて。
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周防長門を巡る陰謀劇は開戦という結果を呼び込んだ。九州鎮台に派遣されて来た、陰謀好きな東京政府の官僚団の手に乗り、
全ては唐突な話だったが、東京政府の官僚団と鎮台の幕僚達が全てお膳立てした結果だった。
「まるで
吉野菫首相は顛末を知り、嘆息して甚だ失望した。次第を報告に上がった首相府陸軍副官
臼杵大尉を「解放」し、執務室には吉野首相と副官筆頭である
「周防大島の守備隊は予想以上だ! 戦意武装ともに豊かで、易々とは行くまいよ」
来栖顧問が屋代島の地図を見ながら
「87式自走高射機関砲に90式戦車、か。岡山旅団の装備を見る限り、先年寝返った香川の演習部隊の装備だね。純日本製だ。それを我らのアメリカ製輸入品兵器が破壊する、と。東京の設備局連中の発狂する姿が目に見える。堪らないね」
「有馬ちゃん、自重」
有馬少佐の愉悦を吉野首相が
「
制止を受けたせいか、言葉の端々から慎重さを投げて言い切った少佐は今度はムスっとした顔で腕組み背もたれに体重をかけた。皮肉屋で偏屈、加えて帝国空軍の指揮官に成り上がった〈飛行機野郎〉である少佐には帝国の現状への強い不満があった。首相はこの我の強い武官を持て余していたが、東京から派遣され現場部隊にて辣腕を奮うガチガチの極右将校であった
首相は視線を端にズラした。端から声が掛かった。
「愚痴った所で」
そう言って煙草に火を付け、少佐の睨みを吐き出した煙でぼやかした。
「設備局のボケがデリートされるわけでも、大島が返るわけでもないだろう。一々口尖らせて、ピーチク抜かして、男の格を落とすなよ、有馬」
「…何を、貴様」
「はい、やめやめ! ミス・ハスイケ、無用に煽るのは止めてくれないか?」
少佐が一瞬で紅顔し、こめかみに脈打つ様が見て取れると、顧問が中腰に立ち上がり両手で灰皿と地図を広げる長机の対岸にいる両人を諫めた。
「…夏希ぃ~」
ボソッと小声で吉野首相は端へと呻き、内心副官の蓮池大尉に頼った数刻前の自分を罵った。
蓮池大尉は煙草を吹かせ顔を吉野首相から背けている。有馬少佐は相変わらず沸騰寸前の赤ら顔で来栖顧問の横目にも気が付かず、対岸の大尉を脇目に睨んでいる。先程から口を出さない馬場副官は口を結び腕を組んで顛末に関せずといった様である。元々口数を絞りその代わりに頭の中で計略を練るのが副官の常の有り様で、これといって普段から変わりのないのだが、首相からすると、せめてこういう時には一言でも諫めてくれても、と思わないではない。
外は曇り、午前中だと言うのに執務席後背のブラインドの隙間より日が射さない故か部屋が少し暗く感じる。湿った外気から午後の天候は容易に想像できたが、乾き尽くした執務室では、何が発端で火が付くか却って分からなくなっている。馬場副官が怒り狂った様は見た事がないが、有馬少佐は以前に出張先の
結局執務室の口論を端に発したクーデターや政変が起きる事はなかったが、遂に
「よくもやってくれたわねぇ、夏希ぃ~!」
「そんな誉めないでやって下さいよ。本人がウザがるじゃないですかァ」
大尉は眉間に皺寄せて迫る首相へ僅かにかかる様に煙草の煙を吐いた。
「蓮池様、礼に欠く振る舞いかと存ずるが」
「えぇ、ホントっ! 無礼討ちしてやるレベルよぅ!」
馬場副官の無抑揚な諫言に乗っかって、煙で咳込み手で幕を払う内に語気が強まった吉野首相の言葉を蓮池大尉は聞き流して先程までいた椅子へと腰掛けた。元々タメの口を利く大尉だが、主人を主人と思わない態度や振る舞いは時にトラブルの火種になりもする。しかし、それでも首相は重用を続けた。
「で、馬場君は何用があるんだい?」
「ちょっと夏希…!?」
「さっさとやりますよ、ホラ。無駄口は腹みたく引っ込めて」
「だ、誰が下腹パンパンよ!? うっさいわ!」
手を上下に振って湯気を立てる主を諫めた大尉は会議の時に広げられたままの地図に指を向けた。
「境港だろ、馬場君?」
「その通りです。ネシアから船が出ました」
副官は複数枚の写真を地図の上に置き、それを一枚一枚摘まんで横一線に並べた。
「…それは?」
漸く赤みが取れた首相は副官が店を広げているのに関心を持った。
「先日出航したタンカーの積み荷さ。生きの良い猟犬共でしょ?」
大尉が空に煙を吹いて答えると、首相も席に着いた。
「猟犬って…傭兵?」
「Exactly」
大尉は地図上の写真の角を一枚爪で弾いた。二三度回転した写真は首相の手許にやって来て、丁度見下ろす所でピタリと止まった。
「アラブ人?」
「いや、ジャップ。風体はパレスチナのお偉いさんみたいだけど。元商社マンでね。湾岸戦争の折に見た戦争で狂ってしまった、残念な奴よ…って言われてるね」
大尉はもう一本煙草に火をつけた。
「どゆこと?」
「ん? ああ、実はね。どうやら嘘っぽいんだ。実は家業だったんじゃないかって風の聞こえもある」
「家業ねぇ…」
大尉の言葉に首相は不思議そうな顔をした。軍人家系というのは聞いた事があるが、傭兵家系って言うのは聞いた事がないのである。
「昔のスイスじゃあるまいしって顔だね」
「聞き覚え無いもの、そんな話」
「識見を広げてもそりゃあねぇ。アングラそのものだから、自学自習にはちょいとハードルが高い」
大尉はいつの間にか短くなった煙草を皿に押し付けた。
「ああ、しにくい」
「マグカップはよしなさいね。楽でしょうけど、始末に悪い」
「私がやるんならいいでしょうに」
ふんっと鼻から小言も交えて吹き出し、大尉は意味もなく煙草を灰皿へ強く押し付けた。
「馬場君も何か言って頂戴」
首相は苦笑しながら副官に話を振った。副官は首相を一瞥し答えた。
「御両人の仲に入り込むのは野暮というモノでしょう。誘われても躊躇います」
馬場副官は抑揚もなくそう告げると、先を促すように手元の資料を一部ずつ吉野首相と蓮池大尉へ差し出した。
「…ブレないのね」
首相は独り言を言った。
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