群青に失う

咲原かなみ

第1章 覚醒の雨

 目が覚めた時、そこには何もなかった。

 薄い闇と無機質な天井。途切れ途切れに低く響く機械音が、微睡む鼓膜を規則正しく刺激する。長くてとても細いチューブの先には、吊り下げられて一滴ずつ音もなく落ちる点滴が繋がっている。しんとした空気は冷たく乾き、眠っているように動かない。

 瞬きを何度か繰り返す。そうすると、ぼやけていた視界が徐々にくっきりしたものへと変わっていく。睫毛と睫毛が擦れ合って、一瞬で消える微かな音を生み出す。

 瞼が炙られたように熱くなり、瞬きを繰り返すと涙が溢れ出した。喉が固まって動かず、引き攣った呼吸しかできない。涙はとめどなく流れ続け、両方の耳元をじわりと濡らした。

「な」

 振り絞った声は言葉にならず、ざらざらに掠れてすぐ喉の奥が苦しくなる。それでも声を出した。

「な、い」

 頭が固定されたように動かない。体も重石が乗ったみたいで、力を入れると鈍い痛みが全神経を刺激する。

「あたし、が、ない」

 涙が溢れる。瞼が熱を帯びて引かない。それ以上に、悲しくて哀しくてたまらない。

 声を殺して泣いた。ざらついた嗚咽が僅かに空気を震わせ、それまで止まっていた気配が色を持って揺れ動く。それでも、ない。自分が見つからない。胸の奥に、自分がいないのだ。

「あたしは、誰」

「こ、こは、どこ」

「あたし、の、名前は、何……?」

 ひび割れた小さな問いかけに、答える者は誰一人いない。微かな息が空気を震わし、余韻を残さずに溶けて消える。ただ涙だけが溢れ続けて止まらない。

 ひくりとしゃくり上げながら、濡れた瞳で天井を見つめた。そこには何も描かれておらず、求めた答えが表れることもない。

「あたしは、誰」

「あたしは、誰、ですか」

 泣きながら問うても、誰も答えてくれない。誰一人としてここにはいない。自分ですらも、ここにはいない。

 それが悲しくて哀しくてたまらなくて、ひたすら涙を流した。規則正しい機械音に混じって、小さな嗚咽が空気を刺す。

 しかしそれは、ただそれだけのものでしかなかった。



 目を覚ましてすぐ発した一言は、これだった。

「ここは、どこなの」

 真上にあるのは白く、ところどころに薄く小さな染みがある天井。すぐ左には薄桃色の厚いカーテンがあって、中に白いレースが見える。体の下にあるのはマットレスで、上には水色の掛け布団が被さっている。

 体を起こしてすぐ発した一言は、これだった。

「あたし……あたしは、誰」

 小さな部屋だ。ベッドのすぐ後ろに焦げ茶色のクローゼットがあり、その横には肌色のチェストがある。その上には白のMDコンポとタワー型のCDラック、そして赤いクマのぬいぐるみと、耳の長いウサギのぬいぐるみが並んでいる。真向かいには背の高い本棚があり、数冊の本が立てかけられていた。

 掛け布団をどけてベッドから下り、そして全身を見下ろす。薄黄緑のタンクトップにショートパンツ。露出した腕や足が、空気に触れるなりぶるりと震え上がった。

「何、この格好」

 ゆるりと立ち上がると、部屋の中心に立って周囲を見回した。壁際にある机は木目が剥き出しになっており、小さなスタンドに指を寄せると蛍光灯が点いた。机の上に指を滑らせると、うっすらと筋が伸びて木目がさらに鮮やかになる。べったり触れてみると、机に掌型の絵ができた。

「ここは、どこ」

 クローゼットを勢いよく開ける。中には服が六着吊り下がっていた。分厚い黒地のダッフルコート、青色で丈の長いワンピース。白地に青の襟で、胸元にリボンがかけられた制服と、同じデザインだが分厚くて黒地の制服。そして青緑のチェック模様のスカートと、同じデザインだが色合いが濃くて分厚い生地のスカート。

 二つのスカートのポケットの中を探ると、花柄のハンカチが一枚出てきた。次に黒地の制服の胸ポケットを探ると、カードのようなものに指が触れた。

「……学生証。普通科総合コース三年二組三十一番、水島あおい。生年月日、一九九〇年五月二十日。発行日、二〇〇五年四月一日。有効期限、二〇〇六年三月三十一日。上記の者は本学の学生であることを証明する。K県T田市G木町三丁目一九、青葉学園中等部校長、増田忠一」

 裏返すと、黒い太線の下に《生徒心得》とある。だが、それは見ずにまた表に返した。プラスチックカードの小枠の中に、肩にかかるぐらいの黒髪につぶらな瞳の、色白で童顔の少女が写っている。そしてカードを持ったまま、壁にかけられた鏡を覗き込んだ。耳の辺りで短く切り揃えられた黒髪の、少し疲れたつぶらな瞳の自分が映る。

「あたしは、水島あおい。あたしは……誰?」

 鏡の中で、カードの写真と同じ顔をした口が、同じ唇の動きをした。あおいはカードを持ったまま部屋を飛び出した。

 小さな部屋の扉を開けると、大きな部屋が目の前に現れた。中央に翡翠色のソファがあり、その前にガラステーブルと大型液晶テレビが置いてある。その少し奥に小さなダイニングテーブルがあり、向かい合った二つの椅子とデスクトップパソコンが見えた。

 対面式のキッチンには、IH調理器具と流し台、オーブンレンジと小さな炊飯器がある。流し台の蛇口を捻ってみると水が流れ、炊飯器を開けてみると中は空っぽだった。白い食器棚にはいくつか食器があり、扉を開けて触れてみると指に少し埃がついた。

 すぐ隣にある冷蔵庫には、マグネットで《二〇〇五年度F野町清掃分別のお願い》という色褪せた紙が貼られている。扉を開けてみると薄い橙の光が点いているだけで、中には何もない。上の冷凍庫では、容器に敷き詰められた氷と二個の氷枕が霜の塊と化していた。

 キッチンから離れ、部屋の中央に立って周囲を見回した。分厚い藍色のカーテンをくぐって窓を開けると、明るい陽射しが目に飛び込んでくる。ふと振り向くと、キッチンの壁に掲げられた時計は七時三十五分を示していた。

 右に目を向けると、インターホンの受話器の隣に日めくりカレンダーがつけられている。

「二〇〇五年七月十五日、金曜日」

 キッチンカウンターにある黒い電話機を覗き込む。ファックス機能のついた電話機で、留守番電話の赤いランプが灯っていた。受話器を持ち上げてみると、ツーという接続音が鳴る。適当に番号を押してみると、

〈はい、ありがとうございます。こちらは一〇四、担当の皆川でございます〉

 あおいは受話器を置いた。ディスプレイが緑色に光り、《通話時間〇分四秒》と表示される。その隅に日付が出ていた。

「二〇〇七年九月五日、水曜日」

 あおいはふらふらとソファに座り込んだ。そして、ずっと握り締めていて汗ばんだ学生証にもう一度目を凝らす。

「あたしは、水島あおい。あたしは、誰なの?」



 キーンコーンと気が緩むようなチャイムが響いた。窓から射し込んだ蜜柑色の夕陽で、廊下や壁といった至るところが一色に染め上げられる。授業や放課後講習が終わり、部活動が終盤に差し掛かる時間帯だ。

 昇降口前の時計が五時を指した頃、杉原尋人はようやく学校を後にした。

 連れの友人は進路指導が長引いており、彼を待つ以外に用事がない尋人は先に帰ることにした。限界まで押し潰した黒革の制鞄と、教科書や体操服が入ったボストンバッグを肩に担ぎ、夏用のカッターシャツを開襟してネクタイを緩めている姿は、横を通り過ぎていく他の男子生徒とほぼ差はない。少し癖のある黒髪に、柔らかそうな印象の二重瞼と、少し鋭角的にも感じられる顔立ち。身長は高すぎることも低すぎることもない一七〇センチ台で、どちらかというと痩せ型ですっとした体躯をしている。

 尋人はまっすぐ伸びている並木道を、普段より少し早めに歩いていた。脇目も振らずひたすら歩を進めていたら、突然背後から誰かが勢いをつけて飛びついてきた。

「ひっろにーいちゃーん!」

「おわっ」

 思わず前のめりになってしまうが、尋人は咄嗟に踏ん張って耐えた。襲撃者は尋人の腰に手を回し、ぎゅうっと力いっぱい抱き締める。振り返ると、妹が悪戯っぽく笑っていた。

「こら雪花、いきなり後ろから飛びつくのはやめろ」

「だーって尋兄ちゃん、さっきから呼んでるのに全然気付いてくれないんだもん。こうなったらもう、飛びつくしかないでしょ」

「何だその理屈は。いきなり後ろから飛びつかれたら、誰だってびっくりするだろ。こけたらどうするんだよ」

「それはただ単に、尋兄ちゃんがドジなだけ」

 そう言って、雪花は笑顔で尋人の腕に自分のそれを絡ませる。傍から見たら、まるで甘えん坊の彼女に振り回される彼氏の図だ。

 杉原雪花は尋人の三歳年下の妹で、青葉学園中等部の三年生だ。胸まで伸びたまっすぐな黒髪を耳元で二つに括り、白地に青い襟のセーラー服こそ普通だが、スカート丈は膝上までに改造してしまっている。尋人は雪花の腕をさりげなく解こうとしたが、逆にぎゅっと力をこめられたので諦めた。

「ねえねえ尋兄ちゃん、今日はお姉ちゃんのバイトあるの?」

「ないよ。あったらこんなにのんびり歩いてるはずないだろ」

「珍しいね。最近ずっと事務所に行ってたじゃない。帰りはいつも十時過ぎだし」

「未成年者なのに、労働基準法を無視してなかなか解放してくれないんだよ。正規のバイトじゃないし身内だからって、いいようにこき使ってくれてさ。こっちの事情も考えろってんだ。俺は高三の受験生で、センター試験を控えてるってのに」

「お姉ちゃんは別に問題ないと思ってるんじゃない? だって尋兄ちゃん、もう大学受かっちゃってるもの。しかも、健兄ちゃんと同じT大法学部」

「そうだけどさ、曲がりなりにもセンター試験受けるんだから、勉強はしておかないとだめなんだよ。それなりの点数取らなきゃ、学校から何を言われるか分かったもんじゃない」

「そもそも、何で合格してるのにセンター受けるの? 他に行きたいとこでもあるの?」

「ないよ。一般入試も視野に入れて申し込んだだけ。T大法学部なんてかなりの難関だし、一度のトライじゃ絶対受からないと思ったんだよ。正直、AOでこんなにあっさりと受かるなんて予想外だ。俺にとっては貧乏くじを引いたも同じさ」

「贅沢な悩みだね。他の受験生が聞いたら石投げてくるよ」

 さもおかしそうに、ころころと雪花は笑う。

「だからお姉ちゃんは尋兄ちゃんを使いたがるのよ、きっと。尋兄ちゃん頭いいし、剣道や空手なんて全国大会行くぐらいの腕前だし、受験生でも大学受かってて暇だから!」

「うるさいぞ雪花、人の苦労を面白がるもんじゃない」

 調子に乗ると言いたい放題になる妹を、尋人は軽い口調で窘めた。雪花も限度を弁えているのか、あははと笑うだけでそれ以上は言わない。それにしても、雪花に掴まれている腕が少々痛くなってきた。

「それよりどうしたんだ? いつもは友達と一緒に帰るんじゃないのか」

「それが彼氏とデートだったり、塾で先帰るとか部活で遅くなるとかで、今日は一緒に帰る子がいないの。だから尋兄ちゃんを捜してたの。ねねっ、今からお茶しに行かない?」

 相変わらず、雪花は話に脈絡がない上に発言が突拍子もない。次兄として慣れてはいるが、尋人はしばし返答に窮した。末娘のこんな性格を、十歳年上の兄の健人は、それもまた雪花の魅力と言って美化しているが、尋人に言わせれば単なる我が儘でしかない。何だか急に疲れてきて、尋人は大きくため息をついた。だが、それを雪花は肯定だと判断したらしい。ますます強く尋人の腕を引っ張って足早に歩き始める。

「駅前のミスドに新商品が出たんだって。美味しいってみんな言ってたし、今ならドーナツとパイが安いからお得だよ。行こ!」

「行こうって簡単に言うけどさ、雪花、支払は誰がするんだよ」

「それは勿論、尋兄ちゃんでしょ。えーっ、雪花に払わせるの? ひどい! お店に食べに行って女の子に払わせるなんて、男の風上にも置けないってお姉ちゃんが言ってたよ」

「あのさ、それは姉さんと雪花にだけ通じる理屈であって、普通の兄妹もしくはカップルはちゃんと割り勘して払うってのが常識なんだけど」

 真っ当な正論を訴えてみるが、雪花は耳を傾ける気はないらしい。話しているうちにいつの間にか駅前に来ており、尋人は有無を言う隙を与えられないまま、アフターファイブで賑わうドーナツ屋に連れ込まれた。

 雪花は慣れた風に、ドーナツ二個とパイ一個とジュースを注文する。その選んだ三個がどうやら、みんなが美味しいと言って話題の新商品らしい。ようやく雪花から腕を解放してもらった尋人は、コーヒーとオールドファッションを注文した。財布を出して支払をしようとすると、雪花が「別々で!」と店員に告げた。

「冗談よ、尋兄ちゃん。あたし、お姉ちゃんほどそこまでずる賢くないから」

 雪花がにかっと笑う。尋人は少しむっとして、ぷいと顔を背けると自分の支払を済ませた。トレーを持った雪花が席を取りに行き、尋人はその後を仏頂面で追って椅子に座る。

「禁煙席空いててよかったー」

 ほっと嬉しそうに言うと、雪花は「いただきまーす!」とドーナツをぱくぱく食べ始める。尋人は苦虫を噛み潰したような顔で、とりあえずコーヒーに口をつけた。そしてしばし無言のまま、雪花のいいところを一つ挙げるとしたら、何でも文句を言わずに美味しそうに食べるところだろうなと、取り留めのないことを考えていた。

「久しぶりだね、兄妹で食べに来るの」

「お前、そうやって人を振り回すのやめろよな。姉さんの悪い癖だぞ。いい年した姉さんはともかく、お前までそんな女になったら、男なんて誰も面倒くさがって相手にしてくれないぞ」

「ねねっ、たまにはこういうのもいいよね、兄妹水入らずの語らいの時間。健兄ちゃんは仕事が忙しいから、天地がひっくり返っても絶対に無理だろうけどさ」

「人の話聞いてないだろ……」

 雪花のこの、よく言えば天真爛漫、悪く言えば傍若無人な性格は誰に似たのだろう。間違いなく従姉の佐知子だ。彼女は健人と同い年で、父方の叔母夫婦の娘である。雪花は女同士で話しやすい佐知子を、幼い頃からお姉ちゃんと呼んで慕っていた。

 将来雪花が佐知子の性格を受け継いで、自分や兄だけでなく、周囲の人々はおろか恋人まで振り回すようになったら、それは誰の責任だろう。挙句の果てに嫁の貰い手がなくなるというのは、次兄として非常に困る未来だ。今のうちに性格を修正させて、それだけは何としても防がねば。

 そんな尋人の危惧に気付かない雪花は、少し興奮した口調で話し出した。

「今日ね、学校でびっくりしたことがあったの」

「何?」

 不機嫌な口調にならないよう気を付けて尋人は訊いた。雪花は二個目のドーナツを、先程よりゆっくりと齧りながら、

「今まで見たことない子が来たのよ」

「見たことない子? 転校生か」

「ううん、違う。留年してたんだって。女の子なんだけど、何ていうか、すっごく可愛い子。おとなしそうで、髪の毛が艶々しててめっちゃ細くて」

「留年ねえ……ふうん」

 そう頻繁にあるわけではないが、かといって極端に珍しいということもあるまい。そう思いながら、尋人はオールドファッションを一口齧った。砂糖がたっぷりとかかった甘すぎる菓子は苦手だが、これぐらいの甘さなら食べられないこともない。

「二年留年してたらしいから、あたしより二つ年上になるのかな。あたしが中一の時に中三だったらしいから」

「へえ」

「もうびっくりしちゃった。教室入ってきた途端みんな、誰だろうって首傾げるし、誰も見たことも話したこともない子だって言うし。一番びっくりしたのがね、先生がすごい驚いてたの。もうほんとに、飛び上がるぐらいに驚いて、お前誰だって叫んでさ」

「それはまあ……」

 随分と大袈裟な反応だと尋人は思った。久しぶりに学校に来たというその子からしてみれば、周囲のそんな反応はとても不愉快だったのではないだろうか。少なくとも、自分がその立場だったらきっといい気はしないと思う。

「それからもう大騒ぎ。どの先生もかなりびっくりしてて、幽霊でも見たような驚きようでね。その子は涼しい顔っていうか、何も感じてないような顔してたけど、見てるこっちはびっくり通り越してもうドン引きよ、ドン引き」

「その子、何で二年も留年してたの?」

「分かんない。みんな知らないって言うし、先生たちもはっきり言わないの。事故だとか病気だとか、不登校だとかいろんな噂が流れてる」

「本人は何て?」

「それが何も言わないの。誰が話しかけても、何を訊いても心ここにあらずって感じで、まともに答えてくれないし。だから余計みんなが好き放題言ってるって感じかな」

 オールドファッションを食べ終え、尋人は少し温くなったコーヒーを啜る。この店のコーヒーはおかわり自由らしいが、さすがにドーナツ一個で二杯も飲む気にはなれない。雪花は最後に残しておいたらしいパイを、零さないよう気を付けながら食べている。

「何かすごく不思議な子でね。細くて綺麗なんだけど、無口でおとなしいせいか影が薄いって感じで。ガラスみたいな子だねって、友達と話してたの」

「繊細そうな子ってこと?」

「かなあ、よく分かんないけど。芸能人みたいに可愛い子だから、男子は結構はしゃいでた。何人か声かけてたけど、みんな無視されてふてくされてたよ」

 ふうんと適当に相槌を打ちながら、尋人はコーヒーを飲み終えた。雪花もパイを食べ終え、半分ぐらい残っているジュースを一気に飲み干す。

「それより雪花、お前さ、そうやって人をいいように振り回す性格、大人になるまでにどうにかしろよ。お前まで姉さんに似ちまったら、三十路過ぎても独り身だぞ」

「大丈夫よ尋兄ちゃん、あたし要領いいから心配ないって。それに健兄ちゃんはあたしのこと、可愛いからそのままでいいぞって言ってくれるよ」

 全く、兄は年の離れた妹にべたべたに甘すぎる。弟の自分には妹以上に厳しくしてくるくせに。尋人は心の中で、今この場にいない健人に対して悪態をついた。

「尋兄ちゃん、これからどっか行くの? 今日はあたしが尋兄ちゃんを付き合わせたから、今からはあたしが付き合ってあげる」

「いいのか? 早く帰らなくて。宿題とかあるんじゃないのか」

「そんなの、一時間もあればすぐに済んじゃうよ」

「じゃあ本屋に行くか。ほしい文庫本が出てるかもしれない」

「駅ビルのジュンク堂に行く?」

「そうだな、あそこならあるかも」

「じゃあ決まりね!」

 雪花は嬉しそうに立ち上がって、食器とトレーを尋人の分も重ねて返しに行く。二人は本格的に混み出した店内をすり抜けて、陽が沈んで薄暗くなった外に出た。

 午後六時前後の駅前は、仕事終わりや学校帰りの人々で昼以上に賑わっている。今日は金曜日だからか、他の平日に比べて人出が多いような気がした。学校の最寄り駅であるT田駅は、市の中で一番大きい駅であるため、大通りも南北に長く周辺に店も多い。

 雪花を連れて尋人が向かった先は、駅ビルの四階にある大型書店だった。学術書から漫画本まで何でも揃うこの本屋は、尋人のお気に入りの場所だ。広くてゆったりしているから、どれだけいても退屈しない。

 本屋は意外に人が多かった。普段は人の多そうな時間帯は避けて行くので、尋人は少しだけ驚いた。

「ねね、尋兄ちゃん。あたし雑誌見てていい?」

「いいよ。そうだな、三十分ぐらいいるか」

「ええーっ、そんなに長くいるの? 足が疲れちゃうよぅ」

「じゃあ十五分」

「了解っ!」

 そう言って、雪花はぱたぱたと走っていく。その背中に「ぶつかったりするなよー」と声をかけて、尋人は文庫本のコーナーに向かった。ほしかった文庫本が、確か今日発売のはずだ。

 パズルみたく並べられた文庫本を一冊一冊チェックしていきながら、尋人はぼんやりと考える。興味を惹かれた文庫本を手に取っては、帯や裏の解説を見て買うかどうか熟考する。その時間が本好きの尋人には至福のように感じられた。普段は学校に勉強に、姉の使い走りという名のバイトに忙しいので、こういう息抜きの時間がとても貴重に思えてくる。

 この本、前に単行本で出た気がするのに、もう文庫化しているのか。この作者の書く話は、よい場合がいいのだが、失敗作ばかり買ってしまうので慎重にならねば。これは待望の映画化と銘打ってあるが、内容があまり好きになれない。こちらはサスペンス大作と推薦文まであるが、もう少し他のデザインの表紙はなかったのだろうか。この本は図書館で借りて読んだが、読み応えがあってよく覚えている。この際一緒に買ってしまおうか……。

 そんなことをつらつらと考えていた尋人は、お目当ての文庫本をようやく見つけた。人気と言われているが、幸いなことにまだ何冊か残っている。

 尋人はいそいそと手を伸ばしたが、本に触れる寸前で伸びてきた別の手とぶつかる。驚いた尋人は反射的に手を引いた。

 顔を上げると、雪花と同じ制服を来た少女が立っていた。耳のところで切り揃えられた癖のない黒髪と、すらりとした華奢な体躯。漆黒のつぶらな瞳が、その顔立ちのよさを際立たせている。尋人はしばし言葉を失った。

「ごめんなさい」

 聞き逃してしまいそうなほど小さな声で少女は呟いた。尋人は慌てて我に返る。

「あ、いや、こっちこそごめん。取ろうとしてたのに」

「いえ、違います」

「え、でも先に手を伸ばしたのは」

「ほしかったんじゃありません。だから気にしなくていいです。ごめんなさい」

 少女は早口で言った。しばし呆気にとられた尋人だったが、

「そうなの? じゃあどうして……あ、見ようとしただけなのかな」

「そうです。ごめんなさい」

 あっさりと少女は即答した。伏目がちに視線をずらし、少女はその文庫本を手に取る。

「少し、気になっただけです。綺麗な絵だから、どんな本なのかなって」

 尋人は文庫本を取り、表紙をまじまじと見た。藍色をバックに、宙に浮かぶ白い階段の頂上に立った女性が、目の前にある扉のノブに触れている。絵画のようなタッチのイラストだった。

「この本はね、えーっと、記憶を探す女の人の話」

「記憶……?」

 頷いて、尋人は脳裏に浮かぶ粗筋を手繰り寄せながら話した。

「記憶を失くした女の人が、自分は誰なのかって、それを取り戻そうとするんだ。それでいろんな事件に巻き込まれていくっていうサスペンスだよ。単行本が出た時に読んだけど、結構面白かったよ。お勧め」

 少女は文庫本に視線を落とした。水面のように静かな表情からは、感情の波は読み取れそうもない。尋人は不思議な気持ちになった。奇妙というわけではないが、いまいち掴みどころがない子だ。

「記憶を探す……」

「そうだよ」

 とりあえず相槌を打ったが、尋人は心の中で首を傾げる。この本が気になると彼女は言うが、そんなそぶりは少しも感じられない気がした。まるでこの本の向こうにある、別の何かを見ているような。

「……あたしと同じ」

「え?」

 最初よりもさらに小さな声だったので、今度こそ聞き逃してしまうところだった。

「あたしと同じ。あたしも、あたしが分からない」

 尋人はかける言葉を見失った。

「だから惹かれたのね。あたしは、あたしを知らないから」

 少女は本に目を落としたままだったが、やがてゆるりと顔を上げる。漆黒の瞳と尋人の目が真正面からぶつかり合った。

「君はいったい」

 その時、後ろから「尋兄ちゃーん!」と雪花の声が聞こえた。

「ねえねえ聞いて! ずっとほしかった雑誌が見つかったの。先月号だし、もう見つからないと思ってたんだけど、だめもとで聞いてみたら在庫があるって!」

 公衆の中で大声を出すなと言おうとして振り返った時、尋人は再び言葉を失った。こちらに駆けてこようとしていた雪花が、驚愕の表情で棒立ちになっていたからだ。

「水島さん……え、どうしてここに」

 心の底から驚いているらしい。雪花はそう呟くなり、目を見開いて絶句してしまった。

「同じクラスの子?」

「同じクラスも何も、さっき話した、留年してた子」

 尋人は驚いて少女を振り返った。予想だにしていなかった遭遇だ。雪花は唖然とした顔で、息を詰めて尋人と少女を見つめている。

 絶句する二人を前にしても、少女の漆黒の瞳に揺らぎはなかった。やがて少しばつが悪そうに目を逸らすと、文庫本を元あった場所に戻す。

「ごめんなさい。さよなら」

 消え入りそうな呟きを残し、少女はその場から去っていった。尋人はその背中を見つめていたが、すぐに別の本棚の角を曲がり消えてしまう。

 雪花がほっと息をついて寄ってきた。

「びっくりした、こんなところで会うなんて。尋兄ちゃん、水島さんと何話してたの?」

「別に何も」

「ねえねえ、早く買って家に帰ろ。お腹空いちゃった」

 雪花に腕を引かれ、尋人は本を片手にその場を後にした。しかし気になってもう一度先いた場所を振り返る。思わず立ち止まりそうになるが、雪花がそれは許さんと言わんばかりに強く腕を引っ張った。

 尋人の頭の中で、水島という名の少女の言葉が浮かんでは消えていく。

 あたしはあたしが分からない。そう彼女は言っていた。それはどういう意味なのか。

 あたしはあたしを知らない。それはつまり、もしかして彼女は──。

 一瞬浮かんだ考えを、尋人は首を振って追い払った。そんなわけはないだろう。根拠はないが、そんなことはきっとない。自分に言い聞かせるように、尋人は心の中で何度もそう繰り返した。しかし彼女の言葉は、なぜか尋人の心から消えることはなかった。どうして気になるのか、自分でも説明できないほどに。

 後になって思えば、それが尋人と彼女の出会いだった。 



 学校に通うようになって一週間が経った。

 あおいは椅子に座り、昼休みを一人で過ごしていた。自分の机と言われたそれは、教室の窓際の一番後ろにある。あおいはパンを食べた後、ずっと窓の外ばかり見つめていた。青空に雲が浮かんでいる様や、そこに現れては消えていく鳥の軌跡をただ目で追い続ける。

「水島さん」

 ぽんと肩を叩かれ、あおいは緩慢な仕草で振り向く。そこには同じ制服を着た女の子が立っていて、

「学年主任の北川先生が、職員室に来るようにって」

「職員室……」

「そう、職員室。今すぐ来るようにって」

「ってどこ……?」

「どこって、二階の階段を下りて右端よ。職員室ぐらい知ってるでしょ」

 そう告げるなり、女の子は離れていく。あおいは立ち上がると、昼休みで賑わう教室を後にした。

 廊下も教室も、生徒たちの声で溢れている。しかし、あおいはそれらを見やったり、立ち止まったりすることはなかった。

 職員室は、あおいが先程までいた教室の何倍か以上に広い場所だった。灰色のデスクが向かい合わせにくっつけられ、何列かに並んで伸びている。そこに座っているのは全員が大人で、女性もいれば男性もいて、若い人もいれば年嵩の老人もいた。

 あおいは入ってすぐの場所で、きょろきょろと周囲を見回した。

「どうしたの?」

 背後から声をかけてきたのは、何冊ものファイルを抱えた女性教師だった。

「そこ、入口だから邪魔なの。どの先生に用?」

「学年主任、という人に」

「学年主任という人じゃないでしょ。北川先生ってちゃんと言いなさい」

 怒り口調ながらも彼女は、学年主任は右端から二列目の窓際、一番奥にあるデスクの人だと教えてくれた。

 あおいは教えられたとおり、そちらに足を向けた。女性教師に言われたデスクに座っているのは小太りの中年男性で、黒いスーツに薄黄色のワイシャツを着ており、胸に《北川》という名札をつけている。

「あの」

 あおいが小さく声をかけると、北川は手を止めて顔を上げた。

「何年生だ、君は」

「三年二組、水島あおい、です」

「ああ、君か」

 そう言って顔を擦ると、北川は手招きをした。

「君だね、水島。二年間留年していて、つい一週間前に学校に来たという生徒は。君にいくつか聞きたいことがあってね、答えにくいかもしれないけれど、はっきり教えてもらいたいんだ」

 北川はあおいの表情には目もくれず、マグカップのコーヒーで口を潤すと、

「君は二年前に突然、学校に来なくなったね。私もその時主任だったからよく覚えてるよ。君は何の連絡もなく二週間も休んだ後、休学すると言って来なくなった。君の自宅に何度問い合わせても、親御さんは忙しいからと言って出てこない。執事とかいう人が、君はしばらく来れないから休学させてくれなんて言ってきたもんだから、こっちはびっくり仰天だよ。何度訊いても理由は教えてくれないし、しまいには『そちら様とは一切関係ございません。学費は通例どおり振り込み続けますので、どうぞよしなに』ときたもんだ。家庭訪問しても、主人はいません、お話することはございませんの一点張りで、家どころか門にさえ入れてくれない。それが何の前触れもなくまた学校に来て、これまた何の理由も言わないって担任の平山先生から聞いたぞ。一体全体、どうしたことなんだ」

「……分かりません」

「はあ? 分かりませんじゃないだろう。何が分からないと言うんだ、いったい。分からないのはこっちだぞ。先生は何も君を責めてるんじゃない。ただ、いったい何があって今まで休学していたのかと訊いているんだ。理由も分からないままじゃ、学校としてもどうにもできないだろう」

「……分かりません」

「人には言えない事情ということなのかね」

「……分かりません」

「君の親はいったい何をしているんだ? 自営業だと記録には書いてあるが、どこぞの金持ちみたいにでかい屋敷に住んでるじゃないか。学校と話す暇もないくらい、忙しい仕事をしてらっしゃるのか?」

「……分かりません」

「分かりませんって、自分の親のことだろう。分からないとはどういうことだ。ばかの一つ覚えみたいに、ただ分からないと答えておけばいいとでも言われたのか」

「……分かりません」

「ふざけるのもいい加減にしろ! こっちは真面目に訊いているんだ。二年間も理由すら説明せずに休学させろと言ってきて、今更になって復学させろだ? 世の中そんな虫のいい風にはいかないんだよ。言いたくないなら、そうはっきり言えばいいだろう! 分かりませんとは何だ、分かりませんとは! 先生をばかにしているのか!」

「……分かりません。だって、本当に分からないから」

「お前、いい加減に」

 力いっぱい机を叩いて、北川は急に立ち上がった。その時あおいの肩を、後ろから誰かがぐっと引いた。

「北川先生、もうそれぐらいにしてあげてください」

 あおいは振り返る。横にいたのは高等部の襟章がついている制服を着た男子生徒だった。

「杉原か。余計な口を挟むんじゃない! 先生は今、水島と話をしてるんだ」

「話って言いますけど、どう見たって先生が一方的にこの子を問い詰めてるだけじゃないですか。見たら分かりますけど、この子怯えてますよ」

 男子生徒はあおいの肩を掴んだまま、

「この子にもきっと事情があるんですよ、人には簡単に言えないような事情が。じゃなきゃ二年も休学したりなんかしませんよ。それに、先生にそんな風に、怒ったように一方的にまくし立てられたら、できる話もできなくなっちゃいます。ここはもうちょっとこの子の意思を尊重するような感じで、気長に聞いてあげたらどうですか? 傍から見たらまるで苛めてるみたいですよ」

「苛めてるってお前、教師がそんなことするわけあるか!」

「ほら、そんな感じ。またこの子怯えてますよ。今日はこのぐらいにして、また時間置いて訊いたっていいんじゃないですか?」

「高等部の奴が、分かったような口を聞くな!」

「先生、それって差別です。高等部でも、用事があったら中等部に来ざるを得ない時だってあります。それにほら、もうすぐ昼休み終了のチャイムが鳴ります」

 彼がその言葉を言い切るのと同時にチャイムが鳴った。

「もういい、行け!」

「ささっ、行こう。授業が始まっちゃう」

 男子生徒はあおいの手を引いて足早に職員室から出ていく。扉を閉めるまで、教師たちの視線が二人を追いかけていた。

 廊下にいた生徒たちがぱたぱたと小走りで教室へと戻っていく。職員室から何人もの教師たちが出てきては、これから始まる授業へと足早に向かっていった。

 男子生徒はしばらくあおいの手を引いて廊下を歩いていたが、突き当たりになってようやく立ち止まる。そしてあおいに向き直り、

「余計なことをしたかな」

「いえ。でも、あなたは……?」

「杉原尋人。君のクラスの杉原雪花の兄だよ。ほら、前に本屋で会ったの覚えてない?」

「ああ……」

「俺、高等部三年なんだけどさ、昼休みに部活の顧問に野暮用を頼まれて中等部の職員室に行ったんだ。そしたら、北川先生がかなりでかい声で君に怒ってるのが目に入って。先生は頭に血が昇って言いたい放題だし、君はどんどん縮こまっていくから、これは仲裁に入ったほうがいいかなと」

「ありがとう、ございます」

「北川先生、普段は温和だけど、ねじ一本外れるとすごい怖いからさ。短気だから、みんな下手に触らないようにしてるんだよ。災難だったね。授業始まってるし、教室まで送ってあげるよ。君、名前は?」

「名前……?」

「名前。教えてくれる?」

「水島あおい、だと思います」

「だと思う?」

「……だって、知らないから。あたしはあたしを知らない。だから分からない」

「分からないって、君は君だろ?」

 あおいは顔を上げた。尋人は不思議そうにしながらも、

「君は君だろ?」

「あたしは、あたし……」

「そうだよ。分からないことないじゃないか。君は君、水島あおいだろ?」

 そう言って尋人は笑いかけた。そして次の瞬間、ぎょっと表情を歪める。

「えっ、何で泣くの?」

 あおいは自分の頬を触った。瞼から溢れ出した滴が、ぽろぽろと頬を伝い落ちる。

「ごめん。俺、何か悪いこと言ったかな? ごめん、ほんと」

「ううん、違う。違うの。何だか嬉しくて……」

 そう言うと、尋人はますます困惑した。おろおろとした表情で、手を伸ばそうとしては引っ込めるという仕草を繰り返す。

「ごめんなさい」

 あおいは両手で顔を覆ってしゃくり上げた。尋人はひどく困り果てていたが、やがてポケットからハンカチを出してあおいの手に握らせる。あおいはようやく顔から手を離し、尋人を見つめた。

「このまま教室には帰れないよな。どうしよう。あのさ、よかったら一緒に授業さぼる?」

 あおいはこくんと頷いた。尋人は「よし」と呟くと、目頭をハンカチで押さえるあおいの手を引いて階段を下りていく。あおいは黙ったまま、尋人の後についていった。



 困ったことになってしまった。尋人は内心で激しくうろたえていた。教師に怒鳴られ怯えている女の子を助けたはずが、逆に自分が泣かせてしまった。仮にも男である自分が、年下の女の子を泣かせるなんて最低だ。尋人は罪悪感に苛まれながら後ろを見やる。泣かせてしまった少女──あおいはハンカチで目頭を押さえつつ、黙って後をついてくる。

 いったいどう弁解して慰めたらいいのだろう。そもそも、泣かせるようなことなんて言っただろうか。ただ現状として分かるのは、自分はどうやら彼女をひどく傷つけてしまったらしいということだ。どうしたらいいのだろう。尋人は心の底から途方に暮れた。

 見つかると厄介なので、人目につかない中等部の体育館裏を選んだ。ここなら誰の目も気にすることなく落ち着いて話ができる。常緑樹で囲まれた体育館裏の、一番右端にある裏口の階段に二人は腰を下ろした。

「ごめんね、本当に。俺、君が傷つくようなことを悪気なく言っちゃったみたいで。ほんとにごめん」

 ずっと伏し目がちだったあおいは、ハンカチを握り締めて首を横に振った。

「違うんです。ごめんなさい。あなたのせいじゃないの、本当に。ただ……」

「ただ?」

「なぜだか急に涙が溢れてきて、自分でもどうしたらいいのか分からなくなって。だからあなたのせいじゃないの。ごめんなさい……」

 気を抜いたら聞き逃してしまうほどか細い声で、あおいは呟いた。どうやら自分に非はないらしい。尋人はほっと肩の力を抜いて、隣にいる少女を改めて見つめてみる。

 耳の辺りで切り揃えられた黒髪が、さらさらと風に揺らめいている。漆黒のつぶらな瞳は涙で潤んでいるが、見つめられたらどきりとしてしまいそうなほど魅力的だ。顔は小さく目鼻立ちもよく整っていて、全身も折れそうなくらい華奢で小柄だった。花のように愛らしく、それでいてどこか儚げな雰囲気を感じさせる。

 そんなことを考えていた尋人は、あおいがすっと顔を上げたことに少し反応が遅れた。

「驚かせてしまって、本当にごめんなさい」

「いいよ、別に。そんなに謝らなくていいよ。ただ俺も少し気になるから、別に嫌なら答えなくていいけど、訊いてもいいかな」

 あおいはこくりと頷いた。尋人は少し黙った後、言葉を選んで口を開く。

「自分が分からないってどういうこと?」

 あおいは迷うように目を泳がせる。尋人は内心、また泣かれたらどうしようとびくびくしていた。あおいは目の前の常緑樹を見つめながら、

「分からないの、自分が。自分は誰なのか。知っているはずなのに、あたしはあたしを知らない」

「それは……」

「何も覚えていないの。自分のことも、今まで生きてきたことも、何もかも。あたしがあたしであることすら分からない」

「記憶喪失……ってことかな」

 あおいはこくりと頷く。

「目が覚めたら、部屋のベッドの上にいた。そこはあたしの部屋だけど、あたしはそこを知らなくて。まるで生まれて初めて目を覚ましたような感覚で、自分の名前も今がいつなのかも分からなくて。……自分の中が、自分でも驚くぐらい空っぽだった」

 あおいは視線を常緑樹に向けたまま、消え入りそうなか細い声で言葉を紡ぐ。その目は常緑樹を通り越して、遥か向こうにある別の場所を見ているようにも思えた。

「部屋の中はあたしと同じぐらい空っぽで、タンスとか机とか椅子はあったけれど、他には誰もいなかった。台所の火は点くし水は出るけれど、冷蔵庫の中には何もなくて。ベッドがある部屋と違って、リビングには日めくりカレンダーがあるんだけど、二年前の七月で止まってた。でも、今は二〇〇七年の九月」

「二年間のブランクがあるわけだね。だけど君は二年前のことどころか、今までのこと全てを覚えていない」

 尋人が話を整理すると、あおいはこくりと頷いた。

 神妙な面持ちで俯くあおいを見て、尋人はようやく事の重大性が理解できてきた。随分と思いがけない、途方もない話である。尋人は腕を組んで深く考え込んだ。友人や兄妹から何かを相談されたことはあるが、記憶喪失の相談は一度も経験がない。そんな悩みを持つ人に出会ったことはないし、ましてや自分がそれに罹ったこともない。この場合、どんな言葉をかけたらいいのだろう。

「何も分からなくて、不安になって、部屋中を探してみたの。あたしが、あたしであることを教えてくれるような何かを。そしたら洋服ダンスの中に、この服が掛かっていて」

 あおいの視線につられ、尋人も目を落とした。白地に青い襟、胸元で青色のリボンを結んだ中等部の女子夏服。あおいは胸ポケットから何かを取り出して尋人に渡した。受け取って見ると、それは学生証だった。

「胸のポケットにこれが入っていたの。これを見てあたしは、あたしが誰なのかを知った」

 尋人は学生証を見つめた。顔写真に氏名と学籍番号、生年月日に学年とクラス、そして中等部の所在地が印字してある。この学園に在籍する生徒の誰しもが持っている代物だ。

「このカードの中のあたしは、あたしと同じ顔をしてこの服を着ている。だから、この服を着てこの学校に行けば何か分かるかと思ったの。そしたら周りの人にすごく驚かれて、気味悪がられて、問い詰められて……」

「今まで何してたって訊かれても分かんないよね、君自身が忘れてしまってるんだから」

 思ったことをそのままさらりと言ってみたが、あおいがいやに真剣な面持ちで頷いたので、尋人はぎくりとして逆に冷汗を浮かべた。軽口で笑い飛ばせるようなことではないのに、自分はなんて無神経な発言をしてしまったのか。

「忘れてるなんて言えなくて、なるべく誰とも話さないようにしていたの。訊かれても分かりませんって答えて……。だけどさっき、あんなに怒られてびっくりした。あたし、本当に分からないのに」

「うん、そうだよね。ごめん」

「……何であなたが謝るの?」

 きょとんとした表情のあおいに、尋人は「いやいや、こっちの話」と手を振ってみせる。

「何か覚えてることってないの? ちょっとでいいから、頭の中で引っ掛かってるような状況だったり、光景だったり、言葉だったり」

 あおいは黙って頭を振る。そして尋人は、またしても自分が無神経な発言をしてしまったことに気付いた。さっきから彼女は何も分からないと繰り返しているのに、それを無闇に掘り返す真似をしてどうする。尋人は自分で自分の頭を小突いた。あおいがまたきょとんと見つめてくるが、誤魔化し笑いを浮かべてやり過ごす。

 尋人は気を取り直して、手渡された学生証をもう一度見つめる。そして何気なく裏返し、

「これはきっと君の字だよね。T田市F野町三丁目一〇の二五、シュービリアF野六〇一号室……。F野っていえばT田から三つ先の駅だよな。ここは君が今住んでいるところ?」

 あおいはこくりと頷く。

「家族は?」

「多分、一人暮らしなんだと思う。親は、分からない」

「分からないって……」

「電話機に《実家》って登録してある番号に、一度だけ電話をかけてみたの。そしたら知らない人が出て、怖くなって電話を切っちゃった。それ以来、かけてない」

「連絡とかないの?」

「うん」

「そうか。じゃあ詳しくは分からないね。実家の住所も忘れてしまっただろうし、親から連絡が来ないことには何とも言えないな」

 こういう時は本当にどうしたらいいのだろう。とりあえず精神科を受診してみるよう勧めるべきか。いや、それを口にするのはあまりに無神経すぎる。まずは頭を診てもらったほうがいいなんて、口が裂けても言ってはいけない。この場合、どういう言葉なら彼女を傷つけずに済むのだろう。

「記憶がない、か……。それはきっと、すごく不安なんだろうな」

 傷つけないよう細心の注意を払い、尋人は努めて明るい声で話してみる。あおいはこくりと小さく頷いた。

「自分が知らない人みたいで、とても不安なの」

「そうだろうね。俺は記憶喪失になったことないけど、もし君の立場に立ってみたらって考えたら、すごく不安になると思う。水島のつらさが全部分かるってわけにはいかないし、俺には想像するしかできないけれど、それは何となく分かるよ」

 俯いていたあおいの目が、尋人にまっすぐに向けられる。尋人が微笑みかけると、あおいはそれまで強張っていた頬を緩め、初めて柔和な表情を浮かべた。

「だから、嬉しかったの」

 思いがけない言葉に、今度は尋人がきょとんとした。あおいは柔らかな眼差しのまま、

「先輩が、君は君だよって言ってくれたこと。あたしはあたしを知らない。あたしの名前は水島あおい。でも本当の自分は分からない。だけどあなたは言ってくれた、あたしはあたしだと。……とても嬉しかった」

 あおいの細い指が、尋人の手にそっと触れた。

「ありがとう」

 ぎこちなく口元を緩め、あおいは笑いかけてくる。尋人は自分が柄にもなく赤面していることを自覚した。心臓の鼓動がやけにうるさい。触れられた手が熱く火照り出す。

「いや、そんなの……大したことじゃ、ないよ」

 照れ隠しのように視線を逸らし、尋人はしどろもどろになって言った。あおいは不思議そうにしていたが、もう一度優しく微かに笑う。尋人は今度こそ真っ赤になって、真正面からあおいの顔が見られなくなった。

「あ、あのさ、いろいろ思い出せなくて不安だと思うけど、その、焦らなくていいと思うよ。きっといつか思い出せる日が来ると思う」

 そう言った後、しまったとまたしても後悔した。なんて月並みすぎる言葉だろう。こんなことはありきたりすぎて励ましにもならない。

「俺、ずっと前に本で読んだことあるんだ。何の本かは忘れたけど、その……記憶が消えることはないんだって。たとえ何があったとしても、まあ脳の病気とかよほどのことがないかぎり、記憶ってのはその人の頭から完全に消えることはないんだって。忘れてるっていうのは思い出せないだけであって、その人の頭の中にちゃんと根付いて眠ってるだけなんだ。今は無理かもしれないけど、蘇る日がいつか来るよ、絶対に。人間の頭ってのはそういう風にできているんだ」

「いつか、思い出せる……」

「うん、きっと大丈夫だよ。それにさ、水島は全部忘れたわけじゃないだろ? まあ確かに、自分が分からないってのはものすごく不安なことだと思う。だけどさ、日常生活の……たとえば飲むとか食べるとか話すとか、服を着るとか歯を磨くとか、そういう基本的なことまで忘れちまったわけじゃないだろ? ひどい事故に遭ったり、脳の病気とかに罹った人は、そういうことまで全部忘れちゃうらしいんだ。それに比べたら水島はまだましなほうじゃないかな。……ああ、ましって言い方はちょっと違うな。つまり、救いようがあるってこと。……これもひどいな。えーっとつまり」

「ううん、大丈夫。分かる」

 尋人はほっとした。そして、上手い言葉が見つからない自分がひどく情けなく思えて、人知れずため息をつく。ただ誰かと話すだけなのに、ひどく労力を消費している。尋人はあおいに悟られないように、わざと明るい声で話した。

「つまりね、何が言いたいのかというと、困った時はいつでも相談に乗るよってこと。俺にできることがあるなら、いつでも力になるから」

「あたしは、あたし……?」

「そうだよ。君は君だ。水島あおい、それが君の名前だよ。自信を持ったらいい」

 そう言って微笑みかけると、あおいは安心したような表情でこくりと頷いた。尋人はポケットから携帯電話を取り出し、慣れた手つきで開いて操作する。

「何かあったらいつでも言ってきていいよ。水島、携帯持ってる?」

「携帯……?」

「携帯電話。ほら、こういうの」

 尋人は自分が持っている、黒の折畳み式の携帯電話を見せてやる。あおいは初めて見るようにまじまじと見つめた後、小さく首を横に振った。それがよほど珍しいものなのか、興味深げにじっと眺めている。尋人は胸ポケットに入れていた生徒手帳を出し、メモ書きの部分を一ページ破った。そして手帳を下敷きにして、それにボールペンで自分の名前と携帯電話の番号、メールアドレスを書いてあおいに渡す。

「これ、俺の連絡先。何かあったらいつでもかけておいで」

「……ありがとう」

 あおいは受け取るとそれを畳み、小さくはにかみながら胸できゅっと抱き締める。尋人はまた顔を赤らめ、さりげなく視線を逸らした。

「まずは親御さん……家族と連絡を取ったほうがいいよ。君のことは君の家族の人が一番よく知ってるだろうからさ。住所が分からないっていうなら調べることもできる。……そうだ、姉さんに相談してやることもできるな」

「姉さん……?」

「俺の従姉の姉さん、調査事務所をやってるんだ。いわゆる探偵ってやつ。職業柄、探し物とか調べ物が得意なんだ。身内の俺が言うのも何だけど、有能で頼りになる人だよ。俺もそこでバイトしてるんだ。バイトっていっても、ただのパシリに近いものなんだけど」

「調べるって……」

「水島の、その、過去っていうの? ああ、あくまで水島が望むならって話だよ。無理に強制はしない。まあ調査費としてお金は取るだろうけど、俺がちゃんと話すから悪いようにはしないよ。もし水島がそう思うなら、いつでも相談に来たらいい」

「ありがとう。何だか、少しほっとした」

「そう?」

 尋人が訊き返すと、あおいは頷いて目を閉じた。夢見るように優しい、だけどどこか悲しげな表情をしている。尋人はふいに胸が締めつけられた。

「ずっと不安だったの。不安で、怖かった。どうしたらいいのか分からなくて、誰にも話せなかったの。だけど今日、やっと話せた。杉原、えっと……」

「尋人」

「そう、尋人先輩に話せて、よかった」

 尋人は手を伸ばし、あおいの髪をそっと撫でた。つい抱き締めたい衝動に駆られたが、さすがにそれはぐっと自制する。だから、せめてもの励ましの意味をこめて髪をぽんぽんと撫でてやる。手を離すと、あおいはこくりと頷いてふわりと微笑み、尋人もつられて笑い返す。表しがたい切なさがこみ上げて、すぐには言葉が浮かばなかった。

 二人はそのまま、授業終了のチャイムが鳴るまでそこにいた。休み時間の喧騒に紛れて、尋人はあおいを中等部の校舎まで送り届けた。

 その後、高等部に戻った尋人は、授業をさぼったことを担任に知られ、職員室でこっぴどく説教された。教室に帰ると、友人たちに追及されたりからかわれたりしたが、尋人にとってそれらは語るに値しない出来事だった。次の授業は化学だったが、心ここにあらずであまり身が入らなかった。頭の中はあおいのことでいっぱいで、レベルの高い化学式を解いていても、意識はまるで別の方向に向いていた。

 どうすればあおいの記憶は戻るのだろう。そもそも、どうして彼女は記憶を失くしてしまったのか。自分にもしできることがあるとしたら、それはいったい何だろう。

 その時は、それ以上深くまでは考えていなかった。しかしこの時から既に、尋人はあおいに心奪われていたのだ。



 滝のような勢いで雨が降っている。

 休憩中の尋人は、淹れたてのコーヒーを片手にブラインドの隙間から外を覗いていた。星さえ望めない漆黒の空から、礫のような雨粒が絶え間なく地上を叩いている。陽が落ちる頃に降り始めた雨は、夜の八時半を過ぎても一向に衰える気配がない。尋人は湯気の立つコーヒーを啜りながら、何を考えるでもなしに雨を見つめていた。

「可愛い女の子でも歩いているの?」 

 悪戯っぽくからかう声が背後から投げられる。尋人はブラインドを弾いて振り返った。

「別にそんなんじゃないよ。ただ、よく降るなあと思って」

 そう言うと杉原佐知子はうんざりした顔で、

「ほんと嫌になっちゃう。もう夕立って時期でもないでしょうに」

「夕立じゃないよ。雷鳴ってないし、時間長すぎだし」

「それでも面倒だわ。帰りに服が濡れるじゃない」

「帰りは車じゃないか。それに姉さん、十時まで仕事するんだろ。もしかしたら、それまでには止むかもしれないよ」

「止むの? この雨が? ほんとに?」

 佐知子はあからさまに疑わしい表情で、ブラインドに視線を投げた。尋人はよくよく考えてみた後、

「……ま、分からないけど」

 ここは杉原調査事務所という、個人経営の小さな会社だ。T田駅から南に徒歩十分に位置しており、クリーム色の洒落た五階建てのビルの三階から五階までを占めている。

 元々は佐知子の父が興した会社で、彼女はその跡を継いだ二代目所長だ。調査業という、手間はかかるが利益とはあまり結びつきがよくないこの仕事は、世間では敬遠されがちであるらしい。しかし、そんな業界の中でも杉原調査事務所は大手の部類に入る。三年前、還暦を迎え引退した父の職責を、県警捜査一課に所属する敏腕刑事だった佐知子が転身して引き継いだ。それにまつわる事情を尋人は知らないが、たった三年で佐知子は仕事の幅を大きく広げ、事務所をより名高い存在へと発展させた。

 杉原調査事務所が仕事として扱うのは、調査と名のつく案件全部と言っていい。人捜しや浮気調査、企業の不正調査や政治家の裏金調査など、小さな小競り合いから社会を揺るがす事件までと実に幅広い。明らかに不利益でメリットがまるでない仕事以外、たいていの依頼は断らずに請け負う。佐知子は人脈もとにかく広く、多方面に顔が利くので、大小様々な仕事が常にいろんなところから飛び込んでくる。元職場である警察との繋がりは今も深く、身辺警護や未解決事件の調査依頼が極秘で入ってくることもある。全ては佐知子の有能な仕事ぶりと人柄の賜物であると、業界内外では専らの評判であるらしい。

 そんな会社で、尋人は週三日のアルバイトをしている。仕事内容は事務所内の掃除やお茶汲み、書類整理といった雑用と、簡単なデータ入力といった事務の二つである。尤もそれらは、気紛れで人遣いの荒い佐知子の使い走りと言っても間違いではない。仕事が平日の夕方から四時間以上と少々ハードでありながら、給料は時給制ではなく佐知子の懐具合というぞんざいさで、まさに使い走りそのものだ。

 そもそもなぜここで働くかというと、その理由はいたって簡単だ。この杉原調査事務所の所長を務める佐知子が、尋人と共に暮らす十歳年上の従姉だからだ。仕切り屋でどんな場合でも我を貫く佐知子は、尋人が中高と続けていた剣道部を引退し、同時期にAO入試で大学に合格したのをいいことに、自分の仕事を手伝わせると言い出した。将来のための経験を積ませるという立派な理屈を唱えてはいるが、要は同時期に辞めた二人の従業員の穴を埋めたかったというのが真実である。

「ねえ尋人、コーヒー飲みたい。淹れたてあつあつ濃いめのコーヒーが今すぐ飲みたいわ」

 所長席の椅子にどっしりと腰掛けて佐知子は言った。尋人はあからさまに嫌そうな目で佐知子を見たが、当の本人は気にするそぶりもなく同じ言葉を繰り返す。

「ねえ尋人、早く飲みたいから作って」

 問答無用の響きに嫌気が差しながらも、断ると後々厄介なので、尋人はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

 メインオフィスであるこの空間には、間仕切りのあるデスクが二列、向かい合う形で長く伸びているが、今は誰も座っていない。他の社員たちは皆、仕事を終えて帰宅したため、室内には尋人と所長席で寛ぐ佐知子の二人しかいなかった。

 佐知子は社員用デスクから切り離された上座の位置にある、他より一際大きい所長用デスクで背伸びをしたり腕を曲げたりと、柔軟体操らしきことにせっせと勤しんでいる。尋人は沸騰したてのコーヒーを二つのマグカップに淹れ、その一つを佐知子に渡した。

「ああ美味しい。やっぱコーヒーは濃いめのブラックに限るわねー」

 湯気の立つコーヒーを、佐知子はまるでビールジョッキを煽るように飲む。

「姉さん、前々から言おうと思ってたんだけど、その飲み方だといつか絶対に喉を火傷するよ」

「ばかね尋人、火傷が怖くてコーヒーなんか飲めると思う?」

「コーヒーはじっくり味わって飲むものであって、お酒みたいに一気に煽るものじゃないと思うんだけど」

「いちいち細かしいわね。いいじゃない、どう飲もうと人の勝手よ。あんたもしかして、好きな女の子にもそんな風に細かしい突っ込みばかりしてるの? そんなんじゃ面倒でうるさい男だって言われて、いつか嫌われて捨てられるわよ」

「お生憎さま、俺は彼女なんていません」

「虚しい男ねー。周りにつまんないって言われない?」

「ほっといて」

 尋人は所長用デスクに凭れかかり、火傷しないよう慎重にコーヒーを啜る。佐知子みたいな飲み方は恐ろしくて真似したくもない。そう思いながら飲んでいた時、あることがふと脳裏をよぎった。そして、何となくそのことを話題として切り出してみる。

「ねえ、姉さん」

「何?」

「記憶喪失って治るのかな」

「はあ? いきなり何よ」

「一週間ほど前に、そういう子に会ったんだ。自分のことを何も覚えてなくて、自分で自分が分からないって言う子に。成り行きで話を聞いたんだけど、自分ではいまいち実感湧かないというか、よく分からなくて。そういうの、姉さん分かる?」

「分かるって訊かれてもねえ……記憶喪失ってのはケースバイケースで対処法が変わってくるから、一概には何とも言えないわね」

「ケースバイケースってどういうこと?」

「何が原因で記憶を失くしたかにもよるのよ。たとえば交通事故に遭って頭をぶつけたとか、殺人現場を見てショックで記憶を失くしたとか、いろんな場合があるわけ。原因によって治療法とか対処法も違ってくるのよ。積極的に思い出そうとすることに問題がない場合と、そうじゃない場合と」

「それってどういうこと?」

「だから一概には言えないってこと。状況と原因と本人の精神状態によるわ。あたしは医者じゃないから、詳しいことはよく知らないし、話を聞いただけではどうとも言えない。その子はどうして記憶を失くしてしまったの?」

「さあ。記憶を失くしたってことだけ聞いたんだけど、詳しい原因までは。何か根掘り葉掘りとまでは訊けなくて」

 佐知子はポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点けて口にくわえる。そしてすうっと深く吸い込んでは、ふうっとうまそうに一筋の煙を吐いた。これは複雑かつ深刻な話をしている時、彼女がいつもする癖の一つである。

「本人はそれらしいこと言ってなかったの?」

「うん。自分のことが何も分からないって、それだけ。何か随分悩んでるみたいだった」

 憂いげに俯くあおいの姿が尋人の脳裏に蘇る。あの時どんな言葉をかければ、彼女の悩みを払拭させることができたのか、今改めて考えてみてもよく分からない。

「力になってやりたいなって思ったんだ。自分でもよく分かんないんだけど、ずっとそんなことを考えてて」

「恋ね」

「は?」

「その子、女の子でしょ。しかも結構可愛い子なんでしょ。可愛い子に深刻な悩み相談されたから、気になってずっと考えてた、そういうことでしょ。しかも相手も結構打ち解けてくれて、頼りにしてくれるもんだから満更でもないんだ。当たりでしょ?」

 尋人は飲んでいたコーヒーを思わず吐きそうになる。それを答えと受け取ったからかい顔の佐知子は実に楽しげだ。気まずそうに目を逸らす尋人を、佐知子はけらけらと笑う。

「へえー、尋人が恋か。春だねえ。季節はもうすぐ秋だってのに、尋人だけ頭の中が春なんだ。青春だねえ。ここだけ何かおかしいぐらいに青くて春ねえ。ああおかしい、おかしい。あっはっは!」

 煙たい息を吐きながら笑う佐知子を、尋人は精一杯の険をこめて思い切り睨めつけた。

「姉さん、俺は真面目に話してるんだけど」

「真面目だからおかしいのよ。ああおかしい。ちゃんと話は聞いてるわよ? だけどうける。これを笑わずにいられるかっての!」

 佐知子は年甲斐もなく足をばたつかせながら笑い転げる。そして煙草を深く吸い込み、興奮を抑えようと深呼吸を繰り返すも、結局は抑えきれなかったのか、軽く咽ながら再びけらけらと笑った。全身全霊で果てしなくばかにされていると思った尋人は顔を歪める。

「もういいよ。姉さんなんかに相談した俺がばかだった。仕事するよ、仕事」

 怒りをこめて言うと佐知子はようやく笑うのをやめて、

「そう怒らないでよ、尋人。何もばかにしたわけじゃないのよ? ただあんたの反応があまりにも素直で、面白くて笑いが止まらなかっただけ。そう不機嫌にならないで」

 だが言葉の節々がまだ揺れていて、佐知子の口元が面白そうに緩んでいることから、本気で弁解しているとは到底思えず、尋人はますます不機嫌になった。

「だから、何でいつも姉さんはそうなんだよ。人が真面目に相談してるってのに、茶化して面白がって挙句の果てに笑い転げて。真剣に聞く気なんて全然ないじゃないか。そんなんだから三十路近くなのに──」

 嫁に行けないんだと続けようとした尋人だったが、佐知子の「ああそうだ、大事なこと忘れてた!」という唐突な言葉に遮られる。

「尋人に頼まなきゃいけないと思ってて、ずっと忘れてたの」

「……何を?」

「郵便出してきてほしいのよ、駅前のポストに十通ほど。行ってきてくれる?」

「だから姉さんは、何だっていつも唐突にそんなことを言い出すんだよ……!」

「忘れてたって言ったでしょ。そう怒らないでよ。あんた意外に気が短いのね。カルシウム足りてる?」

 どこまでばかにして、どこまで茶化せば気が済むのだろう。こんな大人にだけは絶対になるまいと、尋人は今更ながら心に強く誓った。

「定形郵便で速達じゃないから、ただ入れてきてくれるだけでいいわ。切手は今切らしてるから、コンビニで買ってちゃんと貼ってから出してよ。切手代は後で言ってくれたら経費で落とすから、悪いけど今は立て替えておいて。それぐらい持ってるでしょ?」

「別に今から行かなくても、明日に行けばいいことなんじゃないの。今から行ったってもう回収には来ないし、明日の朝行っても同じことじゃないか」

「今行ってきて。明日に面倒事を残すより、今日中に片付けてしまったほうが手っ取り早いでしょ。今日はそれで帰っていいから」

「俺が帰りに行けばいいなら、姉さんが帰りに行っても同じじゃないかな……?」

「だって面倒だもの。よろしくね!」

 言外に、それ以上の口答えは許さないという脅しめいたものを滲ませて、佐知子はにっこりと笑う。尋人はそれを正確に読み取り、喉元までこみ上げてきた文句をぐっと呑み込んだ。これ以上逆らうのは命に関わると本能が告げてくる。尋人はがっくりとうなだれた。

 マグカップをシンクに置いて、尋人は自分のデスクを片付けて帰り支度をする。そして鞄を手に所長席へ行き、佐知子からA4サイズの茶封筒を受け取った。尋人は中に郵便物が十通入っているのを確認すると、最後の抵抗のつもりで佐知子をじとりと睨めつけた。

「今に見てろよ。脅せばいつでも言うこと聞くと思ったら大間違いだからな」

「あら、一人前に生意気なことを言うのはどの口かしら? そんなこと言ってたら今月の給料差し引くわよ」

「ごめんなさい、もう言いません」

「分かればよろしい」

 恐らく自分は一生この人には勝てない。今更ながら痛烈に実感した尋人は、「気を付けてねー」という佐知子の陽気な声に見送られ、肩を落としながら事務所を後にした。

 薄暗いビルの廊下は、ひやりとした空気と絶え間ない雨音に満ちている。エレベーターで一階まで着いた時、ロビーの壁時計は九時を過ぎていた。

 玄関の自動ドアから出ると、それまで気にしていなかった雨音が大音量で響く。

「こんなに降ってたんだ。思ってたよりすごいや」

 尋人は鞄の中から青の折畳み傘を出すと、それを開いて歩道に出た。雨音が鼓膜を刺激し、濡れた地面から滴が跳ねてズボンに染み込む。

 尋人は人通りの少ない歩道を早足で歩いて駅に向かった。通りを行き交う車たちの、濡れた道路にタイヤが滑る音がやたらとうるさい。雨脚は収まるどころか激しくなる一方だ。明け方ぐらいには止んでくれるだろうか。

 目の前の信号が赤に変わり、尋人は足を止めた。そして、何を考えるでもなく周囲に視線を向ける。ビルのネオンや車のライトが、滲んだ絵の具みたく濡れた輝きを放っている。尋人はその色に照らされた雨を、まるで糸のように空から降りてきているようだと思った。

 それらを見つめていた尋人は、信号が青に変わったことに気付かなかった。数秒ほど遅れて歩き出そうとした時、視界の隅を何かが掠める。出しかけた足を思わず引っ込め、尋人はそれに目を凝らした。

 大通りの向かい側に、傘を差していない少女がいる。そして彼女を囲んで何人もの若い男が群がっていた。彼らは少女の身動きを封じるように道を塞ぎ、そのうちの誰かが彼女の腕を引っ張って闇に消えていく。

 尋人はその光景を、異様なものを見る目で見つめていた。若い男たちに囲まれていた少女に、見覚えがある気がしたのだ。

「水島……?」

 尋人は周囲に目を走らせる。人通りが全くない向かいの歩道には、先程の光景に気付いた者はいないようだ。どうするべきか尋人は迷った。しかし目の前の信号が赤に変わり、向かい側の歩道への信号が青になった瞬間、濡れた地面を蹴って走り出した。



 雨が降り出した時、あおいは帰宅途中だった。

 マンションに帰り、コンビニで買ったインスタントのスープパスタを夕食にした。そして、片付けを済ませてしばらくしてから、制服からクローゼットにあった青色のワンピースに着替え、チェストで見つけた白の薄手のパーカーを羽織って出掛けた。

 雨は激しくなっていた。あおいは途中のコンビニでビニール傘を買い、駅まで差していった。そしてF野駅からT田駅まで電車に乗る。

 T田駅を出た時、雨は土砂降りになっていた。傘を電車の中に忘れたあおいは、傘のないまま通りをぶらぶらと歩く。

 すれ違う人々は、傘も持たずに歩くあおいを、奇妙や好奇の眼差しで見つめては通り過ぎていく。時々誰かに話しかけられたが、答えることなくただただ歩き続けた。夜の商店街を行き、突き当たりまで歩くと駅まで戻る。そして、今度は帰宅途中のサラリーマンが行き交うビル街を歩き、ある程度まで行くとまた駅まで戻った。その頃には全身ずぶ濡れで、歩を進めるごとに履いているスニーカーがちゃぽちゃぽと音を立てた。

 交差点近くにあるビルの陰に入り、あおいはようやく雨から逃れた。ワンピースの裾を絞ると水が滴り落ちる。靴を脱いで底を地面に傾けると、水が一筋ちょろちょろと流れた。

「何も……何も分からない」

 激しい雨音が地面を殴る。

「あたしは誰なの……?」

 あおいはその場にしゃがみ込み、ぎゅっと体を抱き締める。そしてしばらく立ち上がらなかった。

 いくつかの靴音を聞き咎めて顔を上げた時、それらが目の前で止まった。何人かの影があおいを取り囲み、上から視線を投げつけてくる。

「彼女、一人? こんなとこで何してんの」

「うわっ、ずぶ濡れじゃん。何してんの、マジで」

「まあいいじゃん、一人なら連れてこうぜ」

「来いよ」

 男の一人があおいの腕を引っ張った。

「あたしは……」

 その言葉を遮るように、横から出てきた男があおいの顎にナイフの刃先を当てた。

「抵抗なんてばかな真似するなよ。ちょっと俺たちに付き合ってくれればいいんだ。騒いだらどうなるか……分かるよな?」

「あの」

「黙れって言ってんだろ! うるさいんだよ。お前は何も言わず、俺たちについてくりゃいいんだ。騒ぐと殺すぞ」

「おいおい、あんまり脅すと可哀想だろ。楽しみは後に取っとこうぜ」

「なあどこ行く? ここら辺だと……」

「あの工場なんていいんじゃね? 使われてないから誰もいないし、人気ないから邪魔される心配もねえ。あそこには誰も近寄らないからな」

「おっし決まり!」

 男たちは口々にそう言うなり、あおいを引っ張って歩き出した。あおいは時々身動ぎをしたが、そうすると両脇にいる彼らは罵声を浴びせ、握った腕にさらに力をこめる。男たちはあおいを隠すように取り囲み、けたけたと笑いながら暗い道を歩いていった。

 しばらく歩いた後、雨が当たらない屋内に入った。天井が高くて随分と広いそこは、古めかしい機械やダンボールが放置されている、暗闇に満ちた誰もいない場所だった。

 彼らはその奥まで行くと、あおいをいきなり突き飛ばした。体が慣性に従って投げ出され、埃っぽい地面にどさりとぶつかる。それをいくつもの黒い人影が囲んだ。

「あなたたちは、誰なの」

 男たちは大きな笑い声を立てた。

「誰なの、だってさ! 随分と気丈な女だなあ」

「強がってるだけだって。ほら、もう泣きそうな顔してるよ」

「近くでよく見ると、なかなか可愛い顔してるじゃん」

 男の一人に顎を掴まれ、あおいはぱっと顔を逸らす。すると、男はあおいの頬を力いっぱい張った。あおいは手を突いて体を支え、立ち上がって走り出そうとする。それを見た二人の男が素早くあおいの行く手を塞いだ。

「逃げるなんて、つれない真似すんなよ。楽しませてくれよ、なあ」

 強い力で腕を掴まれるも、それを振り払うとあおいは走り出した。だが、すぐに後ろから襟首を掴まれて投げ飛ばされる。そして、うずくまるあおいのこめかみに固い物が突きつけられた。

「いい加減おとなしくしろよ」

 男が持っているのは拳銃だった。奥から出てきた男が目の前に立ち、ぎょっとして後ずさるくあおいの喉元にナイフを突きつける。

「抵抗なんてばかなことすんなよ。俺たちはみんな、チャカとこれを持ってんだ。歯向かうとどうなるか、分かるよな?」

 男はあおいに、心から楽しげな笑みを向けた。他の男たちも同じように銃を構え、にたにたと嫌らしく笑っている。

「お前はただおとなしくして、俺たちを楽しませてくれればいいんだよ。なあ?」

 男はあおいの肩をぐっと掴んだ。

「お前だけずるいぞ!」

「ちゃんとお前らにも回してやるよ」

 あおいのこめかみに銃を当てている男がそう言い放つと、そこにいる全員の男たちが面白おかしそうに笑い出した。

「さあ、楽しませてくれよ」

 男があおいのワンピースの胸元を乱暴に掴む。周りの男たちがこぞって一層騒いだ。

 その時、あおいは自分に覆い被さっていた男の手首を掴み、ナイフを奪い取ると思い切り胴体を蹴り上げる。思いがけない反撃を食らった男が、そのまま後方へ吹っ飛んだ。

「何すんだてめえ! おとなしくしやがれ!」

 向かってきた男が銃の引き金を引く。弾丸が空気を裂いてまっすぐ放たれるが、あおいはそれを避けると、彼の股間に蹴りを入れてその銃を奪った。こちらへ駆けてくる男に、顔を向けることなく二発撃つ。そして、うごめく影に向かって躊躇うことなく撃ち続けた。三人の影が音を立てて地面に崩れ落ち、四人の男たちが息を呑んで立ち尽くす。

「てめえ、何しやがる!」

「生意気なことしやがって! ぶっ殺してやる!」

 男たちの罵詈雑言に、あおいはきょとんとした後、口元に笑みを浮かべた。

「殺す……あたしを? 笑わせる」

 その冷笑に男たちは憤慨し、乱暴に銃を撃ちまくる。あおいは銃弾の軌跡を見切り、それらを避けて走り出した。光に劣らない速さで男の前に立つと、骨を砕く勢いで手首を蹴り上げる。そして拳銃が男の手から離れた瞬間、その頚動脈をナイフで切り裂いて腹を蹴り飛ばした。恐れおののき逃げ出そうと背を向けた男に、あおいは目をやることなくナイフを投げつける。一筋の線を描いて飛んだナイフに延髄を貫かれ、彼は物言わぬ塊となって果てた。

「てめえ、俺の仲間をよくも!」

 喚き散らしながら銃を撃ちまくる男に、あおいは振り返ることなく引き金を引いた。息絶えて倒れ込む様には目もくれず、あおいは最後の一人となった男に銃口を突きつける。

「何者だてめえ、素面じゃねえな。イカれてる、てめえイカれてるぞ!」

 男は引き攣った表情で、ぶるぶると震えながら銃を構えている。あおいが一歩近付くと、男はおののいて一歩下がる。その動作を何度か繰り返し、男は壁際まで追い詰められた。

「わ、悪かった。俺たちが悪かった。だから見逃してくれ。命だけは……命だけは助けてくれ! 頼む、殺さないでくれぇ!」

 あおいは銃を取り落とした男の左胸を撃ち抜いた。心臓を貫かれた男は、その場に倒れて動かなくなる。

「口ほどにもない……」

 あおいは四方八方に転がった男たちの死体をぐるりと見渡す。雨が天井を破らん勢いでひたすら降り続けている。

 ふいに小さな足音が後方から響いた。あおいはすかさず振り返って銃を構える。ひっと息を呑む音が空気を震わせた。

「水島……」

 搾り出された声音に、あおいがひゅっと息を呑む。暗闇から、恐怖と混乱に彩られた尋人の顔が垣間見えた。銃を握るあおいの手が、途端にがたがたと震え出す。

「どうしてこんな」

 打ちのめされた尋人の声が、滝みたく降る雨音に掻き消される。わなないたあおいの手から、銃がするりと滑り落ちた。落下した銃が地面とぶつかる音に、響き渡る雨音が覆い被さる。

 まるで、何かが跡形もなく壊れたような余韻を残して。

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