第9章 雪夜の悪夢
漆黒の夜に粉雪が降る。細やかな白は風のない闇をふわふわと踊り、地面に触れてはたちまち溶けて消えていく。
背後の窓が勢いよく開き、亮太が顔だけ出して咎める。
「そろそろ入ったら? 風邪引くよ」
あおいは振り返ることなく、舞い落ちる雪をただ眺めていた。
「いい加減入りなよ。俺、寒いんだけど」
呆れた亮太があおいの腕をぐいと中へ引っ張る。
「物好きな奴。雪降るぐらい寒いってのに、外に出たがる奴の気が知れないね」
亮太はどさっとソファに腰掛け、湯気の立つマグカップで両手を温める。あおいは窓に凭れ、カーテンの隙間からまた外を見ていた。
「変なの。雪がそんなに珍しい?」
「……別に」
「まあ、雪なんて滅多に降らないけどな。昨日の天気予報で言ってた。今年は珍しくここら辺、結構な量の雪が降るってさ。五センチから十センチは確実に積もるらしいよ。困るよなあ。雪降ると交通機関は麻痺するし、道路はぐちゅぐちゅで歩きづらいし、運転しづらいし、何より夜は凍えて安眠できやしない。そりゃああおいの部屋はいいよ。全室エアコン完備だし、このフローリングは床暖房も入ってるんだろ。俺の部屋は違うぜ。セールで買ったファンヒーターが一台、エアコンなし。エアコンとファンヒーターじゃ、部屋の温もり具合が桁違いなんだぞ。知ってる?」
「知らない」
あおいはキッチンへ行って小さなやかんに火を点けた。ソファ横の専用スペースで、ブランケットにくるまった向日葵がすやすやと寝息を立てている。
「いいよな猫は、人間ほど悩みもなくて。知ってる? 猫って一生のうち半分以上を寝て過ごすらしいぜ。いいよなあ、ちびのくせに生意気な」
「向日葵に当たらないで。起こしたら許さないわよ」
「機嫌悪いなあ。いつにも増して御冠じゃん」
あおいはやかんの火を止めると、マグカップに沸いたばかりのお茶を淹れる。それをテーブルに置くと、椅子に半分だけ腰掛けた。
「あおいはさ、そんなに俺が嫌い? 目覚めてもう三ヶ月。俺と再会してから二ヶ月弱かな。でも、どれだけ一緒に任務をこなしても、どれだけ話しかけてもあおいは全然俺に馴染もうとしない。それってさ、世間一般の常識で捉えると、嫌いって言われてるも同然だよな」
「……言ってない」
「言ってるさ。言葉で直接表現しなくても、目や顔やオーラそのものが俺を嫌いだって言ってる。あおいには自覚ないかもしれないけど、俺には分かるよ」
あおいはようやく亮太と視線を合わせる。しかし、すぐに逸らしてしまう。
「もしかして無意識? 無自覚?」
「そんなこと……ない。亮太が、嫌いなんじゃない。分からないだけ。どう接したらいいのか……。過去のあたしを知ってる、同じ道を歩む人だって言われても、どう話したらいいのか分からない。だって、あたしは覚えてないんだもの」
「あっそ。なら、そういうことにしておこう」
あおいはぱちぱちと瞬きをしていたが、やがて亮太から視線をずらし、
「《M‐R》……」
「何だって?」
「亮太は《M‐R》の善人って知ってる?」
亮太はぎょっとした顔で瞠目する。だが次の瞬間、呆れた声で笑い飛ばした。
「は? 何それ。いったいどこからそんな単語が出てきたの」
「……どうして笑うの。訊いてるのに」
「どうしてって、おかしいからだよ。思いがけずそんなこと言われたら、誰だって笑うしかないだろ」
くつくつと笑う亮太にあおいは顔をしかめた。
「いったい何がどう転んだらそんな単語が出てくるのさ。誰から聞いたの、それ。森上? ……ああ、もしかして木瀬?」
あおいは押し黙る。亮太の表情からたちまち笑みが消えた。
「木瀬がそう言ったのか?」
あおいは忙しなく視線を泳がす。それを見た亮太の顔がみるみる険しくなっていった。
「……亮太は知ってるの?」
「知るわけないだろ。初めて聞いた。……で、その善人が何だって?」
あおいは視線を逸らした。
「……ごめん、何でもない」
亮太は鋭い目つきであおいを見ていたが、やがて興が削がれたようにふんぞり返る。
「ははーん、なるほど。木瀬のくだらない遺言に乗せられて、あいつを殺した後悔を引きずってるわけか。ねえ、感傷に浸るのってそんなに楽しい?」
「そんな言い方しないで」
「俺、帰るわ。コーヒー飲んだし、センチメンタリズムに付き合う気はないから」
亮太はソファにあった黒のショルダーバッグを掴んで立ち上がる。
「疲れきって神経が麻痺してるんじゃない? 早く寝れば」
亮太は目を合わせずに言い捨てて出ていく。そして玄関が雑に開閉する音が聞こえた。
室内に沈黙が満ちる。あおいがマグカップに手を伸ばした時、沸きたてだったお茶は完全に冷え切っていた。
市内では昨夜から雪が降っている。ちらちらと舞う程度だった淡雪は夜明け前に牡丹雪へ変わり、時間を経るごとにその量と勢いは増していった。正午を過ぎた現在では道路に足跡がつくぐらいの雪化粧が施され、行き交う人々が傘を差して通り過ぎていく光景が見える。
携帯電話を耳に当て、ブラインドの隙間からそれを見下ろしていた佐知子は、相手の催促の声に逸れていた意識を引き戻された。
〈おい、佐知子。聞いてるのか〉
「聞こえてるわ、健人。そんな怒鳴らないでちょうだい」
〈ならいきなり黙り込むな。こっちは聞こえてないと勘違いするだろ〉
「ああ、ごめんなさい。いや、すごい雪だなと思って」
佐知子はブラインドをぴんと弾き、壁を突いてキャスターつきの椅子ごとデスクに戻る。
〈……ああ、確かに。こりゃ明日の朝には確実に積もってるな〉
「十二月の中頃だもの。仕方ないって言えば、仕方ないのかもしれないわね」
〈だがいろいろと面倒だぞ、こりゃ。交通機関が大幅に乱れるのは間違いないし、あちこちで事故が起きるだろう〉
「そうね。まあ、その話はとりあえず横に置いといて、本題に戻りましょうか」
佐知子がさりげなく話題転換を図ると、賢明な彼はすぐに察してくれた。ほんの僅かな沈黙の後、健人が声を潜めながら話し出す。
〈殺されたのは三人。所轄から県警へ移送するために車へ乗せるほんの数秒の間だ。俺もその場にいたんだが〉
「あなたたち警官は全員無傷で、三人の脳天だけが撃ち抜かれた……そういうことね」
〈ああ〉
「狙撃ポイントは?」
〈署から三〇〇メートルほど離れた廃ビルだ。裏口が丸見えの超絶好ポイントだった〉
「三〇〇? そんな距離から三人だけ撃ち殺したっていうの?」
〈ああ。にわかには信じられんがそういうことだ。その場の運だけで成せる技じゃない、間違いなくプロだ。それもかなりの手練とみた〉
佐知子はしばし黙り込む。三〇〇メートルは離れた場所から地上に狙いを定め、周囲を取り囲む人間に一切傷を負わせることなく、その中にいる三人だけを連続して確実に撃ち殺す。そんな離れ技が彼女──水島あおいに果たしてできるだろうか。
〈とんだ失態だぜ。上にこってり搾られるし、始末書は書かされるし〉
健人は忌々しげに吐き捨てる。どうやら今回の件で、彼は刑事としてのプライドを甚く傷つけられたらしい。
〈おまけに他の奴らもやられたしな〉
「他の奴ら?」
〈残党メンバーだ。同日の夜に郊外のボロ倉庫で、どこぞの輩がとっとと片付けちまったらしい。おかげで《蒼の咎》は全滅。あと一歩だった麻薬密売グループの摘発もパアだ〉
「全滅ってことは、ボスもやられたの?」
〈ああ。木瀬彰一、表では大手の会社員だった男だ。ナイフで腹を一突きされて失血死。木瀬といえば、闇社会ではやり手として知られた男だ。麻薬密売に関わってたかどうかは定かじゃないが〉
「つまり尻尾を掴まれた《蒼の咎》は、露呈を恐れた他の組織によって粛清された……」
〈だろうな。手練の正体までは突き止めようがないが、
健人の愚痴には苛立ちと怒りがありありと滲んでいる。無理もないと思った佐知子は一つ息を吐き、
「教えてくれてありがとう。このお礼はまた後ほど」
〈どういたしまして。そうだ、前した依頼の件なんだが──〉
「それに関してはまた後日」
にべもなく返された健人は言葉を詰まらせる。しかし次の瞬間、彼の不満が爆発した。
〈お前なあ、毎度毎度また後日、それは今度ばっか言いやがって、次はいったいいつ来るんだよ。話す気あんのか? そういつまでも隠し通せると思うなよ。いい加減、現況の一つや二つ話しやがれ。刑事舐めてんのか。いつまでも、はいそうですかで引き下がると思ったら大間違いだぞ〉
「言ったでしょ。定期的に詳らかにできるほど、生易しいヤマじゃないのよ」
佐知子がうんざりと言い返すと、電話の向こうが途端にすっと静かになる。
〈……お前まさか、やばいとこまで足突っ込んでるんじゃないだろうな〉
「大丈夫よ。一課の刑事さんにお世話になるようなヘマはしてませんから。折を見てまた話すわ。じゃあそういうことで」
いやに真面目に問うてくる健人を一蹴し、佐知子はぶちっと電話を切った。
携帯電話をデスクに置き、懐から煙草を出して火を点ける。その時、端に積み重ねていた資料が視界に入った。佐知子は一番上の黄色いファイルを取る。そして、ホチキスで綴じられた写真つきの資料を煙草を吹かしながら見た。
それは木瀬彰一に関する調査報告だった。かつてあおいの婚約者であり、有名企業に勤める傍ら、闇組織の長として暗躍していた男。尤も今回調査したのは彼の経歴や、あおいと婚約関係にあった当時の状況といった事柄だけで、その生い立ちやあおいとの逸話までは調べていない。そこまでする必要性を感じなかったからだ。
その木瀬彰一が死んだ。粛清とも取れる最期だったという。正直なところ、これは佐知子にとって想定範囲外だった。こんなことになるなら、木瀬彰一についてもっと深く調べておけばよかったと後悔している。あおいのかつての婚約者とはいえ、今となっては蚊帳の外である気がしたので、さして重要視していなかったのだ。
木瀬彰一に手を下したのは何者か。《蒼の咎》の残党メンバーを粛正した者が属する組織はどこなのか。それらを知る術は今のところ皆無だ。かといって、たとえ突き止めることができたとしても、それで何かが大きく進展するとは思えない。
憶測や勘の範疇を出ないものではあるが、佐知子はそんな己の直感を何より頼れるものの一つと信じている。刑事だった昔も調査員である今も、言葉にはしがたいそれらを武器に数々の案件をこなしてきた。それらは九割方の場合において、結果的に功を奏している。
無意識に潜む実力でもある佐知子のそれは、木瀬彰一の殺害には《ヴィア》が絡んでいると告げている。移送される容疑者三人を遠距離から射殺したのが誰かは分からないが、木瀬に手を下したのは十中八九あおいだろう。確証や根拠は何もないが、間違いである気がしない。
佐知子としては、その予想が正しいかどうかはどうでもいい。だが、一つだけ心の端に引っ掛かることがあった。
「……あの子は知っていたのかしら」
自分にかつて婚約者がいたということ。もし知っていたとして、木瀬を殺したのが本当に彼女であるならば、あおいは想い人を手にかけたことになる。
「……知っていて、殺したのかしら」
独り言が煙とともに吐き出され、灰色の空気に溶けては消える。佐知子は資料をファイルに戻すと、背凭れに深く沈んで煙を長く吸い込んだ。
雪が激しい。それは吹雪の如く降りしきり、地面に白い絨毯を敷き詰めていく。
あおいは黒のダッフルコート姿で暗闇に銃口を向けていた。消音機が着いた銃口から弾が飛び出し、対象の左胸をぶれなく撃ち抜く。続けて放たれた銃弾が、周囲にいた三人にも次々に命中した。人影は抵抗する間もなく倒れ、どっさりと敷かれた白の絨毯に物体となって沈む。
あおいは銃をポシェットにしまうと、一つ大きな息を吐き出した。
牡丹雪があおいの頭にうっすらと積もり、足元は靴がすっぽりと嵌まる深さまで降っている。あおいは動かなくなった四つの死体を見つめていたが、ふいと目を背けてその場から離れた。さくさくと音を立てながら公園の出口へ歩いていく。
あおいはふと足を止める。そして再び歩き始めた。広い歩幅でずんずんと行く足が、次第に全力疾走へと変わっていく。あおいは出口に向かって雪道を走った。
その時、掠れた音が凍てた空気を裂いた。あおいは衝撃でがくんと前のめりになるが、かろうじて体勢を保つとポシェットから銃を引き抜き、腕だけを後方に向けて何発も撃ち返す。抑制された音が静寂に何度もひびを入れ、銃弾が木の幹にめり込んでは枝に積もる雪を揺らす。
あおいは肩を激しく上下させながら白い公園を全速力で駆けた。立ち止まらずにマガジンを手早く交換し、振り向くことなく後方を連射し続ける。
「ぐっ」
あおいは地面に片膝を突いて左の脇腹を押さえた。白い手袋を嵌めた掌にじわりと染みるものがある。あおいは荒い呼吸で振り返ると装弾数が尽きるまで撃った。そして最後の薬莢が落ちる様を見ることなく走り出す。よろめく足を動かすごとに、押さえた脇腹から血液がどっと溢れ出す。
あおいはひたすら走り続けた。
雪が激しい。夜が深まるにつれて、降雪量がどんどん増している気がする。暗く重たい空を見上げながら、尋人はそんなことを思った。
「ああ、悪い。ちゃんと聞こえてる。いや、まだ外にいるんだけど、すごい雪だなあと思って」
尋人は右手で携帯電話を耳に当て、左手で自転車のハンドルを操りながら、五センチは積もっているだろう歩道を行く。時刻は零時をとうに廻っており、周囲には行き交う車も通りすがりの人も全くいない。
「今? バイト帰り。ほんっと人使い荒いんだよ、俺の姉さん。……あ? 美人だからいい? ふざけんなよお前、じゃあ替わってくれ」
受験勉強に疲れたらしい友人の暇潰しに付き合いつつ、尋人はこの先十分はかかると思われる家路を歩いていた。雪さえなければ自転車で走ってすぐ着くのだが、この悪天候ではどうしようもない。下手に乗って転ぶのは御免だからだ。
「でもさ、全国平均でそれだけ取れてれば、別に志望大を変える必要ないんじゃないか? いくら担任が言うからって、お前はそこに行きたいんだろ? 安全圏だからって、興味ない大学に変更することないと思うけど」
センター試験まで一ヶ月を切った今、尋人の周りの緊張度はピークを迎えつつある。早いうちに進学先が決定した尋人は、指定校推薦が決まった友人らとともに、専らクラスメイトの悩み相談や勉強のアドバイスといった応援役に回っていた。尋人自身もセンター試験を受験するが、進路未決定の者と比べるとプレッシャーは格段に軽い。その分、ここのところは何かと相談されることが多いのだ。今話している友人は、国立大学を第一希望にして文字どおり躍起になっている。
「うん……うん、ああ、それは俺も分かる。だよなー、うん、うん。でもさ、現時点ではCなんだろ? つまり、上がる可能性もあれば下がる可能性もあるってことじゃん。俺だったら上がるほうに賭けるな。うん、そうそう。今それだけやってれば、次の模試でBになる可能性は十分あるよ。それなら志望順位を下げるより、滑り止めの私大を増やしたほうがよくない? そこがCなら、E大やK大の理学部でもBはいくんじゃないの?」
しんしんと降雪の音しかない空間に、尋人の声がやたらと大きく明瞭に響く。
「うん、うん……。俺? 俺はそこはCだった。お前と一緒。だからさ、Cでもまだ可能性はあるって。うん、だってお前、化学は学年トップだろ?」
いつもなら中央公園には入らず迂回するところを、尋人は園内の中央をまっすぐ横切ることにした。偏に時間短縮のためである。だがこの雪模様では、迂回しようが近道しようが、帰宅までにかかる時間は大して変わらないことに遅まきながら気が付いた。自転車の轍と尋人の足跡が、銀世界と化した地面に規則的な間隔で描かれていく。
「親はお前に任せるって言ってるんだろ? だったらお前が決めろよ。……ああ、それね。分かる。あの先生、結構うるさいよな。でもさ、やっぱり俺はそう思う」
やけに長く感じられた近道を抜け、尋人はようやく通りに面した歩道に出る。少しだけ足を早めながら、尋人は宙を見上げて会話していた。
「え、うどん? いいんじゃない、食いたきゃ食えば。ていうか、何でいきなり話がうどんに飛ぶんだよ。……ああ、それは確かに。俺? もうすぐ駅。ひどいんだぜ、姉さんってば送ってくれないんだ。ったく……うわっ」
そう愚痴った瞬間、尋人の肩に何かがどんとぶつかった。不意打ちを食らった体が傾ぎ、反射的に手を離したせいで自転車ががたんと横に倒れる。かろうじて体勢を保った尋人は、電話越しに何事かと問うてくる友人に、
「悪い。今、誰かとぶつかって」
そう言いながら背後を振り返った尋人はぎょっと息を詰める。ガードレールに倒れかかるようにして、見覚えのある少女がそこにいた。
ガードレールに体を預けていたあおいは、顔を上げるなり尋人に拳銃を突きつける。
「ちょ、ま、な……っ」
仰天してうろたえる尋人にあおいは目を剥いていたが、その唇がほんの少し震えたかと思った次の瞬間へなへなと崩れ落ちた。
「あおい!」
尋人は携帯電話を投げ出し、慌ててあおいを抱き起こす。
「あおい、あおい! どうした? しっかりしろ!」
呼びかけても、あおいは虚ろに瞳を泳がすだけだ。その顔は紙より白く、唇も完全に血の気が失せている。掌にこびりつくものを感じた尋人は、手袋を外してもう一度しっかりとその箇所に触れ、それの正体が血液だと瞬時に悟った。そして乱暴な手つきであおいのダッフルコートのトッグルを外し、その左脇腹がどす黒く染まっているのを見てようやっと事態を理解する。
「撃たれたのか? いったい誰に! 誰がこんな」
尋人はぐるりと周囲を見渡すが、人の気配は全く感じられない。下手に騒ぐのはよくないと思い直して、激しく混乱しながらもどうするべきかを必死に考えた。
「と、とにかく救急車! 病院へ連れていかないと」
尋人はあおいを抱きかかえたまま、つい先程投げ出してしまった携帯電話を探す。すぐ見つかったそれに手を伸ばした時、ブレザーの片端が思いがけない力で引っ張られた。弾かれた尋人が見下ろすと、あおいが引き攣る口をぴくぴく動かそうとしている。
「大丈夫だ、すぐ救急車を呼ぶから!」
あおいはひどく緩慢に、だが確かに顎を横に振る。
「何で! こんなひどい怪我、病院で診てもらわないと!」
信じられない思いで尋人が怒鳴っても、あおいはなおも顎を縦に振ろうとしない。
「だ……だめ……。びょ、びょ……ういん、は……だめ」
「だめって何で。どうして!」
尋人の叱り飛ばすような語調にも屈さず、あおいはなおも懸命に顎を横に動かし続ける。
「だ、め……だめ、びょ、う……いんだけ……は、だめ。お……ねが、い」
ふいにあおいの瞼が閉じ、その頭ががくんと後ろに垂れる。尋人はぞっと凍りついた。掌のすぐ下で、彼女の傷口がどくどくと脈打っている。出血が多いのは今更見ずとも明らかで、意識を失ったあおいは死んだように真っ青だった。
尋人はマフラーをほどくと傷口に押し当て、携帯電話のリダイヤルボタンを押した。二回のコールで気だるそうに相手が答える。尋人はわななく声で怒鳴った。
「助けてくれ! あおいが……あおいが死んじまう!」
電話してから五分もしないうちに、佐知子は中央公園まで駆けつけてくれた。尋人はその間、身を潜めるようにしながら路肩であおいを抱いて待っていた。
佐知子は二人を車に乗せるなり、閑散とした深夜の大通りを制限速度オーバーで飛ばす。尋人から掻い摘んだ事情を聞いた佐知子は、運転中ずっと携帯電話で話をしていた。後部座席の尋人は徐々に冷えていくあおいの体を、手が震えるのを堪えながらひしと抱きかかえていた。
佐知子の車が向かった先は、繁華街の外れにある古びたビルの三階だった。尋人はあおいを抱えてそこに入り、彼女をベッドに寝かせた後は、指示があるまで待つよう佐知子に言われ、待合室らしき部屋のおんぼろのソファでただ座っていた。そして三時間ほど経ってから、何かしらの処置を受けたあおいを抱いてそこを後にした。
三人がF野のマンションに到着したのは深夜三時を過ぎてからだった。合鍵を使ってあおいの部屋へ入り、彼女を寝室のベッドに横たえると、尋人はリビングでまたしても長く待たされることとなった。
小さなランプの灯り一つ点いた中で、尋人は佐知子があおいの部屋から出てくるのをただ待った。時折ソファから立ち上がったり座ったり、室内を歩き回ったりして気を紛らそうとするも、とても冷静にはなれそうにない。恐れに心臓をじりじりと炙られているようで、時間の経過が普段の数倍は濃く長く感じられて仕方なかった。
「尋人」
ソファにいた尋人は、呼ばれてはっと振り返る。佐知子があおいの寝室のドアを閉めたところだった。
「姉さん。あおい……あおいは」
「落ち着いて。とりあえずは大丈夫よ。今のところはね」
「今のところ……?」
佐知子は青ざめて腰を浮かす尋人を座らせると、自らも一人掛けのソファに腰を下ろし、動揺の欠片もない表情で事実だけを淡々と告げた。
「今のところは大丈夫。でも先は分からないわ」
「どういう……」
「傷が深いの。銃弾が左の脇腹を貫通してる。とりあえず臓器に損傷は見られないようだけど、とても楽観視はできない。出血もひどいし、今息をしているのが不思議なくらいよ」
「そんな」
「とりあえずの応急処置は終わった。ここへ来る前に寄ったところは潜り、つまり闇医者なんだけど腕は確かよ。でも一般の病院で治療してない以上、状況は深刻だわ。下手すれば死ぬかもしれない」
尋人は弾かれたように顔を上げる。そして悟りきった表情の佐知子を見て、
「……死ぬっていうのか? あおいが」
「その可能性もあるってこと。今は何とも言えないわ」
「そんな!」
「落ち着きなさい、尋人」
立ち上がろうとする尋人を、佐知子が厳しい目で制する。
「気をしっかり持ちなさい」
「でもそんな……。あおいが死ぬかもしれないんだろ? そんな……死ぬなんてそんな、恐ろしい」
尋人は苦しげに呻いて頭を抱える。
「誰かが死ぬのは嫌だ。失うのは……もう、嫌だ」
わなわなと震える尋人を佐知子が痛ましげに見やる。そして、ひどく揺れるその肩に手を置くと、いつになく強い口調で言い聞かせた。
「しっかりなさい尋人、あおいはまだ生きてる。信じましょう、あの子の生命力を。今はそれしかできなくても、信じるの」
尋人はおもむろに顔を上げた。佐知子は強く頷いて、
「信じましょう。大丈夫。人は誰だって、簡単に死ぬほどやわにできちゃいないんだから」
尋人は顔を悲愴に歪めたまま力なく俯いた。佐知子は尋人の頭を一度撫でると、
「今、所員に付近を見回りさせてるわ。マンションの出入口も固めてある。万が一襲撃者が来たとしても、こっちで対応できるようにした」
「襲撃者……?」
「恐らくあおいは任務中に襲われたのよ。あおいの隙を突いて傷を負わせる……相手はきっと相当な手練だわ。仕留め損ねた彼女をもう一度狙ってくる可能性がある」
その言葉に尋人は、先程とは別の意味で肝が冷えた。得体の知れない何かに狙われる、あるいは命を脅かされる可能性に戦慄を覚える。そんな状況下に身を置いたことなど一度もない。深刻かつ危険な状況にいるのだと、今になってようやく実感が湧いてきた。生まれて初めて味わう種類の恐怖に、吐き気や眩暈もそうだがまず震えが止まらない。
「明日また岸山が来るわ」
「キシヤマ……?」
「さっき寄ったビルであおいを治療した闇医者よ。あたしの仕事馴染みなの。奴が明日往診に来てくれるわ。それまでこの部屋にはあたしたちがついてるから、尋人はもう帰りなさい。家まで美弥に送らせるから」
「待って、姉さん」
てきぱきと話を終えようとする佐知子を、尋人は慌てて引き止める。
「俺、ここにいちゃだめか?」
「え?」
「ついてたいんだ。あおいが目覚めるまで、俺はここにいたい」
「でも」
「学校や受験なんてどうでもいい。あおいが死にそうなんだ。俺は何もできないけど、治療も手当ても俺には無理だけど、せめて看病だけでもしたいんだ。頼む姉さん、ここにいさせてくれ」
佐知子の目がたちまち険しくなる。その顔にはありありと、何てことを言い出すのかと書いてあった。
「ここにいれば、あんたにまで危険が及ぶ可能性があるわ。あたしたちは最善を尽くすけど、あんたを巻き込まない保証はできない。事態はあんたが思ってるより遥かに深刻で危険なの。あんたにもしものことがあれば父さんや健人、雪花に何て言えばいいか」
「俺をパシリに使うって言えばいい。仕事を全部押しつけてやったんだって。山のような仕事を押しつけて、寝る暇も与えてやらないぐらいこき使うから、しばらく帰れないんだって」
「あんたねえ」
「頼むよ、姉さん」
尋人は必死に懇願した。佐知子はしばし黙り込んでいたが、やがて深々と嘆息すると鋭い眼差しを投げてくる。
「いいの?」
「何が」
「あおいの傍にいていいの? 本当に」
尋人は瞬きを数回した後、その響きに含まれた真意を読み取った。
「本当にいいの? あんたは一度、自分の意志であの子から離れたのよ。今あの子の傍にいたいと願う、あんたの気持ちは何? 同情や哀れみなら無意味よ。また同じことを繰り返すだけだわ」
佐知子は、尋人が口にしようとはしない本心を見抜いている。尋人があおいと別れた本当の理由を知っている。それを踏まえた上で、佐知子は今問うているのだ。暗殺者として多くの命を奪い、数え切れないほどの罪を背負うあおいと、もう一度向き合う覚悟があるのかと。
尋人は言葉に詰まって黙り込む。だが、佐知子から視線を逸らすことはしなかった。
「……正直言って、まだ分からない。でも今、あおいは深く傷ついて死にかけてる。それを前にして浮かんだ気持ちが何なのか、はっきり分からなくても、同情とかそんなんじゃないってことはちゃんと言い切れる」
尋人は佐知子をまっすぐ見つめて、
「頼む姉さん、ここにいさせてくれ。あおいの傍にいたいんだ」
佐知子は険のある渋面のままだったが、やがて諦めたようにため息をついた。
「……よかったわね、明日から土日で。おまけに月曜は創立記念日」
尋人はほっと肩を落とす。佐知子は打って変わった厳しい口調で、
「その代わり、何かあったらすぐ言うのよ。何があってもあんた一人の判断で動かないこと。父さんたちには、あたしからうまく言っておくから」
根負けした佐知子は「見回りしてくるわ」と言って部屋を出ていく。それを見送った尋人は、あおいの寝室へと向かった。
音を立てないようドアを開けると、小さなベッドランプに照らされた室内が現れる。六畳ほどの広さのそれは、暗がりではあるが十代の女の子らしい彩りは一切なく、どちらかといえば無機質に近い部屋だった。
壁に沿って南向きに置かれたベッドにあおいが横たわっている。尋人はそっと近付き、怖々と覗き込んでみた。その寝顔は未だ青白く、額や頬にはじっとりと汗が浮かんでいる。
尋人はあおいの額にあるタオルを取り、サイドテーブルの下に置かれた洗面器に浸してきつく絞った。それで彼女の頬の汗をそっと拭い、もう一度額に載せ直す。
あおいは瞼一つ動かさない。だが、その口元に手をかざしてみると微かに温度を感じる。あおいが生きていることをはっきりと確かめて、尋人は心の底から安堵した。
「……あおい」
呼びかけてみても、あおいは全く反応しない。それが尋人の心をきつく締め上げた。布団からはみ出した彼女の手をそっと握ってみる。発熱しているためか温度が高く、それが尋人の不安を一層ざわざわと駆り立てた。
「あおい」
尋人はもう一度名前を呼んだ。しかし、あおいは睫毛すら動かさない。尋人はあおいの手を両手で包み、その目覚めを心から祈った。
翌朝も雪は激しかった。ニュースでは例年にない大雪と報じられているらしい。ある番組では、あと三日は確実に降り続き、積雪量は十センチに達するだろうと報じたそうだ。伝え聞いたそんな話題を持ち出した後、「地球温暖化の影響ね」と言い添えた佐知子に、いつもの軽く笑い飛ばす響きはなかった。
一夜が明けても、あおいが目覚める気配はない。しかし、その胸は小さくではあるが規則正しく上下しており、青白さが抜けない額や頬には脂汗が張りついている。それは、あおいの命がまだこの世に存在していることを示す、何よりも尊くて揺るぎない証明だった。
佐知子は隣の空き部屋で、尋人はあおいの寝室で朝を迎えた。二人とも明らかに寝不足だったが、欠伸をするだけの余裕はどちらにもない。昼過ぎには、あおいの応急処置をした闇医者の岸山が部屋を訪れた。診察には佐知子が立ち会い、尋人はリビングにいたので詳しいことは分からない。その後、次第に陽は暮れ出し、雪も徐々に小降りになっていったが、あおいの意識は一向に戻らなかった。
起床してからというもの、岸山の診察の時以外、尋人はほとんどの時間をあおいの傍で過ごした。食事は買ってきてもらった菓子パンを、彼女のベッドの横で少し食べたぐらいだ。緊張状態が続いているせいか、空腹も食欲もほとんど感じない。杉原調査事務所の事務員の古川美弥が、三時間ごとにあおいの包帯を替えに現れる度、尋人の顔色も相当ひどいと心配されたが、空き部屋やソファで横になる気にはとてもなれなかった。
夕方六時を廻り、周囲がすっかり暗くなった頃、佐知子がマンションに顔を出した。彼女は挨拶もそこそこにあおいの寝室へ入り、十五分ほど経ってからリビングに戻ってくる。
佐知子は髪留めを外しながら、
「どう? 何か変わりある?」
尋人は力なく頭を振る。
「あおいの傷は……?」
緩やかなウェーブがかかった髪を指で梳かし、佐知子はひどく難しい顔つきになる。
「良好とは言えないわね。出血は一応止まったけど油断はできないわ。美弥からも報告受けてるけど、熱が高いまま下がらないの。傷口も消毒はしてるけど、素人の治療に近いから危険なことに変わりないし、化膿でもしたらひとたまりもないわ」
「やっぱり、ちゃんと病院に行ったほうがいいんじゃ」
焦りが滲んだ尋人の進言を、佐知子は即座にきっぱりと退ける。
「だめよ。確かにあおいの傷のことだけを考えれば、潜りに任せるより病院に運んだほうが絶対にいい。でも、それじゃ状況的にまずくなる」
「まずいって何が。人一人の命がかかってるんだぞ」
尋人が必死に訴えても、佐知子は決して頷かなかった。
「もし病院に搬送したら、あの子が銃で撃たれたことが一発で分かってしまう。銃が絡んだヤマの扱いはね、あんたが思ってる以上に難しくて危険なの。あの子の怪我が銃創だと気付いた医師は、迷わず警察に連絡するでしょう。そうしたら、いくらあたしでも事態を隠し続けるわけにいかなくなる。あおいの素性やら罪状やらが、一から十まで徹底的に暴かれていくでしょうね。真実を知った警察は決してあの子を放っておかない。そして警察が関与したことを知ったら、組織があの子を生かしてはおかないはず」
「そんな」
「その点、潜りにやらせれば事が警察に露見する可能性がぐっと減るわ。あたしが呼んだ医者……岸山っていうのはね、とある事情で医師免許を剥奪されて、表から身を引いてはいるけれど、元はちゃんとした外科医だったの。だから腕には心配ないわ。彼が警察に口を割ることもない」
「言い切れるの?」
「岸山はあたしの知り合いよ。情報屋であり、仕事上のかかりつけ医でもある。表で処理できないことは、闇でそれとなく片付けてしまうの。今回みたいなケースは特にね。彼も普段から闇の人間ばかり相手にしてるから、念を押さずとも暗黙の了解として分かってるはず。それに警察に露見すると、あたしとしてもいろいろ面倒なのよ」
「……何が」
尋人は答えを予想しながらもあえて問い返す。
「健人に隠し通せなくなる。この際だから言うけど、あおいのことを隠すために、あいつにもいろいろと嘘をついてやり過ごしてるのよ。あんたとあおいの関係も、その素性も、あの雨の夜の事件の真相も。健人の性格、弟のあんたはよく知ってるでしょう?」
予想と違わぬ答えを返され、尋人は苦い顔で押し黙る。健人は人殺しを憎んでいる。それは尋人よりも深く激しい感情で、その具現が今の職業であると言っても大袈裟ではないくらいだ。
その健人があおいの素性を知ればどうなるだろう。見逃すことはまずありえない。彼女に手錠を嵌め、その罪を全て法の下に晒そうとするはずだ。それは良識ある人間として、犯罪を取り締まる警察官として実に正しい行いである。
そう思いながらも尋人は、健人にだけは知られたくないと願う。正義と私情の相反するせめぎ合いに、凍りついたままの胸がさらに詰まって塞がれていく感覚がした。
佐知子は冷蔵庫から水のペットボトルを出し、二つのガラスコップに均等に注ぐ。
「あおいの容態は、時間が経つのを待つしかないわね。意識が戻ればひと安心だけど、現時点では何とも言えない。あとはあの子の生命力に賭けましょう。これからも定期的に美弥を来させるから」
「……美弥さんは何て?」
「美弥は元々、全部知ってるわ。あおいの世話やここの警護も、自分から買って出てくれたの。だから心配いらない」
尋人は部屋を訪ねてきた際の美弥を思い出す。気心が知れた姉の右腕は、あおいにも尋人にも実に細やかな気配りを見せた。彼女があおいの包帯を替えるところを、尋人は直接見てはいないが、その容態を心から憂いてくれているのは話さずとも分かった。それに、美弥は調査事務所の職員というだけあって、小柄な外見とは裏腹に武道や護身術にも長けているのだ。
「ここの警護の采配は美弥に一任してあるの。万が一追っ手が来たとしても、即座にこちらで対応できるようにしてあるから安心なさい」
佐知子は水の入ったガラスコップを尋人に渡す。尋人は礼を言って受け取ると、ほんの少しだけ喉に流し込んだ。長時間水分を摂っていなかったせいか、よく冷えた液体が体の隅々へ瞬く間に染み込んでいく。張り詰めた思いで時を過ごしていた尋人には、至極当然の身体機能がありがたいというより少し苦々しい。
沈鬱な表情のままの尋人を、佐知子が気遣わしげに見やる。
「あんた、ちゃんと寝てるの? ひどい顔してるわよ」
「寝れるわけないだろ。あおいがあんな状態なのに」
尋人は粗雑に吐き捨てる。しかし佐知子は構わず、
「食事は? 少しは何か口にしてる?」
「少しだけ。あまり食べる気がしない」
「だめじゃない、ちゃんと食べなきゃ。水だってほとんど飲んでないんでしょ。寝てないし何も口にしないしじゃ、あんたのほうが先に参っちゃうわよ」
「そう言われたって、する気になれないんだから仕方ないだろ」
そう言って視線を逸らすと、佐知子は何とも言えない表情になる。彼女の言い分は尤もだと頭では理解できる。だが、納得できるだけの心の余裕が今の尋人にはなかった。
足元に生暖かい感覚がするりと巻きつく。尋人は甘えた声で縋ってきた向日葵を抱き上げて、その全身を丹念に撫でてやった。ガラスコップの水を飲み干し、テーブルに軽く腰掛けるようにしていた佐知子は小さく嘆息し、
「それにしても殺風景ね。年頃の女の子が暮らす部屋とは思えない。家具も食器も最低限。冷蔵庫は飲み物のみ。冷凍庫は氷と冷凍食品とアイスクリームが少々。食料はインスタントや菓子パンばかり。炊飯器なんて使われた形跡がないわ。あの子、よくこんなんで生活できたわね。栄養がものすごく偏ってるんじゃないかしら」
それはあるだろうと尋人も思った。あおいはとても小柄で痩せていて、腕や足は折れそうなほど細い。元から太りにくい体質なのかもしれないが、今思い返してみれば、日頃の生活習慣が如実に表れている気がしてならない。同年代の雪花も小柄で華奢だが、あおいは彼女よりも一回りは細かった。
そういえば、尋人はあおいの食に関する好みを知らない。というより、彼女の趣味や嗜好をほとんど知らないことに今更ながら気が付いた。
尋人はぐるりと室内を見渡し、佐知子の言うとおりだと実感する。寝室もそうだが、リビングも実に簡素だ。家具や家電、食器類や生活雑貨といったあらゆるものが、暮らす上で必要な分だけ置いてある。思春期の少女らしい装飾や、一人暮らしならではの贅沢品は見受けられない。よく言えばシンプル、悪く言えば殺風景としか表せない部屋だ。
「寝室の隣の部屋もね、空っぽなの。引越しの段ボール箱が二つ、ぽんと置いてあるだけ。カーペットも壁時計も何もなし。十七歳の女子にこんなマンションを与えるなんて、一般家庭のサラリーマンが成せる技じゃないわね」
それもそうだと、尋人は心の中で相槌を打つ。
初めてこの部屋を訪れた時、尋人はそういったことをあまり考えなかった。そこまで思い至らなかったと言ったほうが正しい。部屋の内装なんて個人の趣味の領域で、他人が干渉することではないと思ったからだ。しかし今改めて見てみると、この部屋はあおいの人となりを実によく表していた。
必要最低限のものしかない。それ以上はいらないわけでも、最初はあったが今はないわけでもない。単に初めからそれだけしかないのだ。
「姉さん」
一人掛けのソファに座る佐知子が、尋人から向日葵を受け取りがてら視線を寄越す。
「あおいは今まで、どんな生活を送ってきたんだろう」
慣れない来客にも懐く仔猫の顎を触る佐知子の表情が一瞬止まる。しかし何も言わず、ちらりと見やることでその続きを促した。
「この広すぎる部屋で毎日、向日葵と二人きりで、何を思いながら過ごしてたんだろう。よくよく考えてみれば俺、あおいについて何も知らないんだ。好き嫌いとか趣味もそうだけど、家族のこととか生い立ちとかさ。会う前のことは勿論、出会った後のあおいのことも、よく知っているようで、実はほとんど知らないんだ」
窓の外を染めていた夕陽が沈んで、天井の蛍光灯がやけに明るく見える夜になった。呼吸と秒針の音しか聞こえない空間が、息苦しいまでの重さで心にのしかかる。
「知っててもいいはずなんだ。訊く機会だって何度かはあった。訊こうと思えば多分いつだって訊けたんだ。……だけど訊かなかった」
「どうして?」
静かな響きで佐知子が問うた。
「怖かったんだ、知ることが。あおいの本質に触れることが、何となくだけど怖かった」
「何がそんなに怖かったの?」
佐知子の言葉はあくまで優しい。尋人は宙を少しだけ仰いで、まるで内なる自分に話しかけるように言葉を紡ぐ。
「……あの雨の夜、たった一つの小さな武器で何人もの男を殺すあおいがたまらなく恐ろしかった。でも、俺に縋りついて泣いたあおいも本当で、自分が何者か分からないと言って悩んでたあおいは、とても人間らしいと思ったんだ。理由はうまく説明できない。どれだけ突き詰めて考えても、道理に適うだけの言葉が浮かばないから。でも確かに感じたんだ。そこに惹かれた。気付いたら、好きになってた」
佐知子は膝の上で丸くなった向日葵を撫でながら、途中で口を挟むことなく尋人の話に耳を傾ける。
「でもその一方で、あおいを怖いと思うこともあったんだ。惹かれて、愛しいと思って、好きだっていう気持ちも確かにあるのに、それと同じぐらい、あおいを恐れてもいた。好きだと思いながら実は怖がってる。それが何なのか分からなくて持て余し気味だった。でも突き詰めて考えたり、あおいに直接尋ねたりするのも嫌だった。触れたくなかったんだ。本質に触れないままでいたかった」
そうすれば、胸の中で渦巻く思いに気付かないふりを続けていられる。あおいを愛する気持ちだけを信じていれば、恐れなんていつかは消えてなくなる。そう考えることで尋人は己と折り合いをつけていた。いつまでもそのままではいられないと、どこかではちゃんと気付いていながら、心の均衡を保ちたいために答えを先延ばしにした。
今になって思う。それは目を背けていたも同義だったのだ。
佐知子は黙したまま尋人の話を聞いている。言葉にしきれない心情を察しながら、聞き役に徹してくれている。その心遣いに、尋人は救われた気がした。
「だから知ってしまった時、ものすごくショックだった。あおいが人殺しを続けてたこと、俺に銃を向けて撃ってきたことがショックすぎて何も考えられなくなった。裏切られた気がして、憎しみすら覚えて……。でもその反面、ああやっぱりとも思った。だからずっと怖かったんだって、素直に納得した自分がいたんだ。それが何よりもショックだった」
あおいに別れを告げられた後、尋人は必死に彼女を忘れようとした。何事もなかったかのように毎日を過ごし、いつも以上に学校と勉強に没頭した。あおいの名前を悪気なく口にした雪花に、きつい言葉を浴びせたこともある。目の前の現実を夢中で過ごせば、いつか全てがなかったことになる。尋人は衝撃で抉られた心を埋めることに必死で、あおいと向き合う気にはとてもなれなかった。愛しているはずの、愛したはずの存在が憎らしさへ変わっていくことに少しも抵抗しなかった。
しかしそんな気持ちも、脇腹から血を流して苦しむあおいを見た瞬間、呆気なくどこかへ消え失せた。その代わり、尋人が痛烈なまでに感じたのは、今にも消えてしまいそうなあおいの命の鼓動だった。
「なあ、姉さん」
佐知子は視線を寄越す。
「あおいは何に苦しんでいたんだ? あおいが人殺しを続けたのには、何か理由があるんだろ?」
ずっと訊きたくても訊く勇気のなかった疑問が尋人の口から零れる。
「知りたいんだ。あおいが今までどんな人生を送ってきて、今も昔も何に悩んで苦しんでいるのか。どうして人を殺し続けてきたのか。……俺、思うんだ。人殺しは確かに最悪だけど、あおいが喜んでやっていたとはどうしても思えない」
「知ってどうするの?」
問い返した佐知子の言葉に、棘のようなものは欠片もない。ただ素直に、尋人の覚悟を問うているのだ。
「受け止めたいんだ。俺が今まで知ろうとしなかった、あおいの本当の姿を。目を逸らさずに、ちゃんと向き合って知りたいんだ」
硬い面持ちで尋人の眼差しを受け止めた佐知子は、軽いため息を一つして向日葵をそっと床に下ろす。そして足を組んで姿勢を正した。それは彼女が真剣な話をする時のポーズだと、尋人は幼い頃からよく知っている。
「あの子……あおいはね、《ヴィア》の娘なの」
「《ヴィア》?」
尋人は一瞬、真新しい外来語だと勘違いした。
「闇社会を牛耳る一つの大きな勢力。俗に言う闇組織ってやつよ」
「闇、組織……」
尋人は佐知子がさらりと告げた言葉を反芻する。単語の意味を知識として知っていても、身をもって触れたことがないから現実感がまるで伴わない。
「そんなものが、本当に……?」
「信じられない? でもあるのよ、現実に」
尋人の反応にさして驚くこともなく、佐知子はただ淡々と告げる。
「確かに単語を聞いただけじゃ、いまいちぴんと来ないでしょう。でも、あるのよ。いつの世にもどんな国にも、確かにそれは存在してる。たとえば、光り輝く場所に立つと必ず影ができるでしょう? 表には必ず裏があるというたとえでもいいわ。一見何の変哲もない日常でも、その裏では尋人みたいな一般人がそうそう目にすることない闇がうごめいている。映画やドラマで出てくる闇組織は、実態を直接見ることがまずないというだけで、フィクションでは決してないのよ」
確かにそうかもしれないと尋人は思う。目に見えないものは、単に目にする機会がないというだけで、必ずしも存在していないわけではない。理屈としてそれは分かる。だが実感がやはり伴わず、むしろ何だか空恐ろしい心地だった。
「《ヴィア》っていうのは、闇でもとりわけ強い勢力を持つ組織よ。闇には数えるのが面倒なくらい様々な組織が存在するけど、闇社会の人間で《ヴィア》の名を知らない者はまずいない。いろんなやばい犯罪に関与してる組織だけど、危険すぎて警察ですら相手にしようとしないわ」
「そんなに危ないの?」
「ええ。《ヴィア》の名を聞いた一般人は、まず生きてはいられないでしょうね。彼らの存在は、決して陽向に出てはいけない。全く関係ない一般人がそれを知れば、すぐさま《ヴィア》の暗殺者が秘匿主義の下、消しに来るわ」
動揺もなく語られる佐知子の言葉に、尋人は薄ら寒いものを感じて顔を強張らせる。
「あおいはそんな《ヴィア》の長の、ただ一人の子供なの。水島コーポレーションって知ってる?」
「ああ、あの大手の建設会社」
「そこの会長の水島総一朗があおいの父親。《ヴィア》のトップであり、会長職に退いたとはいえ、表でも闇でもまだ絶大な影響力を誇ってて、政財界や警察にもコネクションがあると言われてる。その父親が、ただ一人の子供であるあおいに跡を継がせるため、暗殺者として育て上げた」
「父親が娘に人殺しを強いたっていうのか?」
尋人は愕然と呟く。にわかには信じがたい話だった。
「実の子供を闇で働かせるために、殺人術を教え込んだっていうのか」
震える語調に怒りが滲む。尋人は拳を強く握り締めて、
「信じられない、親が子供にそんなことを……。許されるわけがない! 自分の子供を犯罪者に育てるなんて」
「常人には信じがたいことでしょう。でもね、闇じゃある意味当たり前なのよ。同族会社と理屈は同じ。親が子に跡を継いでほしければ、それを目標に幼い時分から教育するでしょう。それを闇組織に置き換えると、暗殺者として育成することになるってわけ」
尋人は言葉を失う。
「恐らくあおいは、《ヴィア》のただ一人の後継者として、暗殺術やら護身術やらを徹底的に仕込まれて育ったんでしょう。将来は父親の跡を継いで、闇のトップに君臨するために。物心ついた時分から非合法な教育を受けていたとしたら、殺人に手を染めた年頃も恐らく早かったでしょうね」
尋人は唇をぎりと噛んだ。そして言葉を口にする代わりに、わななく拳をがんと膝に振り下ろす。
「あの子は幼い頃から記憶を失くすまでの間、《ヴィア》の娘としての教育を受ける傍ら、暗殺者として数々の仕事をこなしてきた」
「どうして……。嫌だと言えばよかったじゃないか。逆らうことだってきっと」
「そんな生易しい世界じゃないの。闇で抗うこと、イコール死。《ヴィア》だって例外じゃない。……ううん、それを体現してる組織こそ《ヴィア》なのよ。《ヴィア》は命令や方針に異を唱える者を、たとえ身内でも容赦なく排除する。恐らくあおいには、普通の人間として陽向で暮らす選択肢はなかった。それこそ、生まれた時からね」
「……望んだわけでもないのに?」
「望もうが望むまいが、あの子の道は《ヴィア》の娘として生まれた時点で既に決められていた。それに異を唱えることは即座に死を意味する。あおいはそれを承知した上で、暗殺者として生きていたのよ」
明瞭に告げられた言葉の全てが、重石となって尋人の心を潰す。それは今までに感じたことのない重量だった。気を抜けば呼吸さえままならなくなるほどで、胸を圧迫されて息苦しいというよりも、心を跡がつくほど締め上げられて痛いという感覚に近い。
「……どうしてあおいは、記憶を失くしてしまったんだ?」
佐知子は一つ息をつくと、
「死のうとしたからよ」
「え?」
「自殺を図ったの。二年前の夏の夕暮れ、S山郊外の小高い丘の上にある公園から飛び下りて。だけど結局、未遂に終わったわ。あの子は頭に大怪我を負って、一年半にわたる昏睡状態に陥った。そして目覚めることはできたけど、生まれてからそれまでの記憶を全て失くしてしまった。当然、それまで犯してきた罪業の数々もあの子の中から消去された」
「自殺未遂……どうしてそんなことを」
「さあ。それはあの子が思い出さない以上、真実は誰にも分からないわ」
淡白だが当然の見解だと思った。しかし、そこに見え隠れする感情の切れ端が、尋人の心に絶えず痛みを与え続ける。
自分は空っぽなのだと話した、あおいの姿を思い出す。彼女はこんな痛みを抱えて日々を過ごしていたのだろうか。抜いても消えない何本もの棘が刺さったまま、その心は蝕まれ続けていたのか。
だとしたら哀しい。痛みと孤独を人知れず抱えて生きるのは、とてもつらくて哀しいことだ。今こうして想像しただけでも胸がずきずきする。尋人が思い巡らせてもなお及ばないものを、あおいはずっと抱えていたというのか。
尋人は歯を強く食い縛る。気付けなかったことが、今まで知らずにいたことが悔しい。痛みを堪えるように瞬きをし、尋人は心に浮かんだ疑問を口にした。
「あおいはどうして、俺を突き放したんだろう。分かってくれと言わずに、悪者のように振る舞って」
「あんたを守るためよ」
佐知子が間髪を入れずに返した言葉は、尋人にとってとても意外なものだった。
「あおいはあんたに嘘をついて、裏で暗殺業を請け負い続けてた。それは《ヴィア》にあんたの命を握られていたから。暗殺者に戻らないと、関わった人間を全て殺すとでも脅されていたんでしょう。《ヴィア》はそれを躊躇なくやってのける組織だから、それを知ってるあの子も否とは言えなかった。だから《ヴィア》に……父親に、あんたや周りの人間には手を出さないという約束を取りつけ、暗殺任務に手を染めていた。いわば人質だったのよ、あんたは」
尋人は絶句した。想像すらしていなかった真実に、頭の中から色と熱が瞬く間に全て失せる。
「あの子……あおいは、尋人を守りたいって言ってたわ。《ヴィア》に従順になることであんたを守る。そうしてあんたを傷つけずに、自分だけ咎を背負う覚悟でいたんでしょうね。だから知られてしまった時、あんたをわざと突き放した。これ以上傷つけるのは耐えられない、自分の罪はきっと尋人を潰してしまう……そう言って泣いてたわ」
初めて知ったあおいの本心に、尋人はただただ言葉を失うしかない。あおいの本心。彼女と別れてから、それを気にかけたことが一度でもあっただろうか。
気にかけずに突き放した。唐突に訪れた現実から目を逸らすのに必死で、そこに秘められたあおいの本音を推し量る気持ちなど、尋人の脳裏には欠片も浮かんでいなかった。
長い沈黙が流れる。佐知子は尋人が口を開くのを待っていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「尋人」
名前を呼ばれてから数秒経って、尋人はゆるりと視線を上げる。
「あまり、思い詰めないようにね」
佐知子が慮るように言う。尋人は黙した後、沈みきった表情で僅かに頷いた。
佐知子はジャケットを羽織り、首に纏わりついた長い髪を無造作に払った。そして、ソファの横に立てかけていたバッグから出したものをガラステーブルに置く。それを視界に入れた尋人は、ぎょっと目を剥いて佐知子を見上げた。
「護身用に置いてくわ」
「そんな、こんなの……」
尋人は言葉にならないほどうろたえる。テーブルに置かれた拳銃は、透明なガラスにはおよそ似つかわしくない異物として尋人の瞳に映った。黒々とした銃身が蛍光灯に反射して邪悪にきらめく。ただあるだけで空気を押し潰すような不気味さが、それが玩具や偽物ではないことを無言のうちで主張していた。
動揺しすぎて二の句が継げない尋人に、佐知子は恐ろしく感情の見えない響きで諭す。
「あたしたちが守ってるとはいえ、ここが危険であることに変わりはないわ。あおいを撃った追っ手がいつやってくるとも限らない。万が一の場合はこれで対抗しなさい」
「でも、こんなの」
「言ったでしょ、護身用だって。確かに銃を撃てば人が死ぬわ。でも、これはあんたを守るものでもあるの。今は非常事態よ。あんたにも命の危険が迫ってるの。……分かるわね?」
有無を言わせない佐知子に圧され、尋人はただ頷くしかなかった。佐知子は淡く笑って尋人の頭を撫でると、バッグを肩にかけてリビングのドアノブに手を伸ばす。
「あたしは仕事に戻るわ。何かあったらいつでも連絡しなさい。すぐ駆けつけるから」
そう言葉を残して、佐知子は足音を立てずに出ていった。
深夜を廻っても、あおいは眠ったままだった。
ベッドランプだけの暗がりの中、尋人は彼女が眠るベッドに凭れて座っていた。時折額の熱さを確かめ、時間を見てタオルを交換する。あおいの頬は生気の抜けた白さで、呼吸していなければ死人と見紛うほどだ。しかし、触れればほんの僅かではあるが温もりを感じられるので、尋人はその度ほっと胸を撫で下ろす。
尋人はあおいの汗ばんだ頬をタオルで拭い、氷水に浸して絞ってから額に置き直す。
「あおい……痛いのか? 傷が痛むのか?」
言葉をかけても、あおいは眉一つ動かさない。それが尋人の不安を一層煽る。死なないでほしい。どうか目を覚ましてほしい。尋人にはただ祈るしかできなかった。
透き通るように白いあおいの左手を、尋人はそっと両手で包み込む。彼女が今三途の川にいるのなら、こちら側に引き戻そうと思いをこめて。
夜は長い。今は冬だから夜明けも遅い。刻一刻と動く時計の針を見つめていても、感覚としては永遠と間違うぐらい果てしなかった。当たり前に繰り返す一晩を、こんなにも長いと思ったのは初めてだ。夜が明けてもあおいが目覚めなければ、当然の如く訪れる新しい一日が彼女の体力をまた奪っていく。尋人はそれが怖くてたまらなかった。
「あおい、目を覚ましてくれ……!」
尋人は目を瞑り、あおいの手を強く握り締めた。
こんな形で再会するとは思っていなかった。その現実が情け容赦なく胸に刺さる。だがきっと、彼女が負った傷のほうがもっと痛い。
刻一刻と秒針が進む。長針が動けばやがて短針も動いて、時間はいつもと変わらぬ早さで過ぎていく。
ふと目を開けた瞬間、光が視界に入ったのを認めて、尋人はいつの間にか眠っていたことに気が付いた。ベッドの横に座り込み、あおいの手を握ったまま突っ伏していた。身動ぎすると鈍い痛みが全身に伝わる。
尋人は顔をしかめながら、あおいの手を置いてゆっくりと立ち上がった。体を包んでいた毛布がぱさりと落ちる。様子を見に来た誰かがかけてくれたものだろう。尋人は拾い上げると、丁寧に畳んでベッドの隅に置いた。
カーテンを開けると眩しい光が射し込んでくる。窓の外に雪が積もっているのが見えた。鈍色の空には雲が多いが、その隙間からか細く光が零れている。
あおいはまだ眠っている。尋人は静かに近付くと、額に置いたタオルで頬の汗をそっと拭ってやった。そして洗面器にタオルを入れ、水を替えるために部屋を出ようとする。
その時、尋人の視界にあおいのデスクが入った。黄土色の木目が鮮やかなそれは、使い込まれているというより新品に近い印象を受けた。
小さなブックスタンドとライトだけがある整然としたその真ん中に、書店のブックカバーがかかった文庫本が置いてある。尋人は洗面器を置き、濡れた指先を服で拭ってからそれに手を伸ばした。まず見開きを見ると、ブックカバーを破らないよう丁寧に外す。
それは、藍色の空をバックに浮かぶ白い階段の頂上に立つ女性が、扉のノブに触れている絵が表紙に描かれた小説だった。美術館にある絵画を思わせるそれが、尋人の脳裏に何となく引っ掛かって離れない。首を傾げてしばらく考え込むが、思い出すと同時に「あっ!」と声を上げた。
尋人があおいと初めて会った場所。賑わう大型書店の文庫本コーナー。
「あの時の本だ……」
あおいが取ろうとしていた本。たまたま二人が同時に手を伸ばしたせいで、一瞬だけだが指先が触れ合ってしまったのだ。ほしくもない本を見ようとしたことを訝る尋人に、あおいはこの小説の内容を尋ねた。そして聞いた後、消え入りそうな声でこう言ったのだ。
──あたしと同じ。あたしも……あたしが分からない。だから惹かれたのね。あたしはあたしを知らないから。
尋人は文庫の表紙に目を落とした。これは最近話題のミステリー作家が三年前に発表した作品で、記憶喪失の女性を巡る長編サスペンス小説だ。尋人はこの作家の本が気に入っていたので、ハードカバーが発売された当初に図書館で借りて読んだ。なかなか面白かった印象は残っているものの、その詳しい内容まではあまりよく覚えていない。
あおいもこの小説を文庫で購入していた。抽象的なカバーイラストに惹かれたからか、好意的な感想を話した尋人に触発されたからか。
ぱらぱらとめくってみると、付属の栞が十ページに挟まっていた。本の手触りから推察するに、最後まで読み終えているわけではないようだ。
尋人はいたたまれない気持ちになって、ブックカバーを直して文庫本をデスクに戻す。知らなかったあおいの一面が棘となって胸に降る。彼女が抱えていた孤独は、尋人などには到底計り知れない。それを尋人はたまらなく悲しいと思った。
初めて会った時のあおいを今でも覚えている。触れればたちまち壊れそうなほど儚げな佇まいで、消え入る手前の声で躊躇いがちに言葉を紡いだ。
初めてちゃんと話した時、抱いたものは同情に近かったと思う。今まで生きてきた記憶がないと語るあおいはとても危うく、だけどその中にちらりと見えた何かに強く惹きつけられた。それはきっと、芽生えた瞬間から既に愛情の形をしていたのだろう。
あおいと会話を重ねていくうち、そんな何かをより強く感じるようになっていた。だが、それを表すだけの言葉を当時は思いつけなかった。あおいが愛しい。もっと彼女の傍にいたい。守りたいと願う理由なんてそれだけで充分だった。
あおいが人を殺す現場を目撃しながら、その傍を離れていかなかったのは、情が消せなかったからだ。消えるどころか、ますます深くなっていった。あおいを心のどこかで恐れながらも、愛することはやめられなかった。
だからこそ、再び殺人現場を目の当たりにした時の衝撃は大きかった。信じていたものが音を立てて崩れた。愛情よりも疑念や怒りのほうが勝って、他に何も考えられなくなった。だからあおいが呟いた言葉の意味の、最奥の部分をいとも容易く見逃した。
一度は目を背けた。怒り憎むことで全てを忘れようとした。だが、今になって思い知らされる。一度芽生えた愛情は、理屈だけで消せるほど軽く薄いものではなかった。あおいの命が危機に晒された今、尋人はその奥に押し込んだ本心にやっと気が付いた。
守りたかったのだ。守られるのではない。自分があおいを守りたかった。恐れや不安から、虚無や孤独から、彼女を蝕む全てのものから守り抜きたかった。
己の本心を見た尋人は今、あおいを失いたくないと痛切に思う。同情でも憐れみでもなく、はっきりと抱いたこの心が、失いたくないと叫んでいる。
だからどうか──。
用件を切り出されるなり、亮太は食べていた煎餅を思わず取り落とした。
「え……あおいが撃たれた?」
アパートにやってきた竹田が無言で重々しく首肯する。
「それで、どうなったんだ? あおいの容態は? 無事なのか?」
「落ち着け亮太、あおいお嬢様は恐らくご無事だ」
竹田は我を失って問い質してくる亮太を宥め、
「先日あった任務の最中、森上智彦に襲われたようだ。偶然その場に居合わせた杉原尋人がお嬢様を救った。恐らくお嬢様はご無事だろう」
亮太は珍しく度肝を抜かれて絶句した。雑然とした狭い室内で、いつもと変わらぬ黒のスーツに身を包んだ竹田は、背筋を伸ばしたまま亮太が口を開くのを待っている。
「無事……なんだな? あおいは。本当に」
竹田は無言のまま頷くも、
「しかし少々、厄介な状況になっている」
「厄介?」
「あおいお嬢様を救ったのは杉原尋人だ。彼は調査事務所を経営する姉の佐知子に連絡し、彼女がお嬢様をF野のマンションに連れ帰り保護している」
亮太は唖然とした。
「部外者が《ヴィア》に介入したっていうのか……?」
竹田は厳つい渋面で首肯する。
「今、F野のマンションは杉原佐知子の部下たちが固めている。あおいお嬢様がどのようなご容態なのか、我々には確かめる術がない。杉原佐知子は刑事の兄を持ち、自身が長を務める杉原調査事務所も様々な横の繋がりがある。下手に動いて事が露見すると厄介だ」
「……つまり俺たちは、今しばらくあおいに近付けないってわけ」
苦々しさが濃く滲んだ亮太の呟きに、竹田はさらに眉根を険しく寄せて押し黙る。
「小父さんは何て? 俺にそいつらを始末しろって?」
衝撃が抜けて冷静になった亮太が好戦的に笑うも、竹田がそれに応じて首を縦に振ることはなかった。
「今しばらく事態を見守るようにと」
亮太はかっと目を見開き、思わず竹田に食ってかかった。
「動くなっていうのか? 何もせずに静観してろと!」
「落ち着け亮太、旦那様のご命令だ」
「でも、部外者に《ヴィア》を知られたからには、そいつを生かしておくなんてできない!」
「落ち着け。今ここでお前がいきり立っても、事態は何も動きはせん」
竹田は亮太の腕を強く引いて黙らせる。亮太は落とした煎餅を思い切り踏みつけた。
「大丈夫だ亮太、あおいお嬢様は恐らくご無事だ。杉原尋人に救われたのであれば、それなりの施しを受けているはず。私は杉原調査事務所の動きに探りを入れながら、時機を見てお嬢様と接触を図るつもりだ。お前はそれまで待ちなさい」
諭すような語調ではあるが、竹田の眼差しはいつになく鋭い。独断で動いて波風を立てるなと、言葉ではなく醸す圧力で伝えてきていた。亮太は乱暴に舌打ちする。
「あんな奴に、いったい何ができるっていうんだよ……!」
忌々しげに吐き捨てられた言葉を、竹田は渋面のまま何も言わずに受け止めた。
日曜日の朝になってようやく雪が止んだ。休日の学校は恐ろしく閑散としている。生徒たちの足音も、笑い声もまず聞こえてこない。普段からこれだけ静かであればいいのにと、森上はほんの少しだけくすりと笑った。
音楽室の前の廊下で、窓に肘を突いて鼻歌を口ずさむ少女がいる。冬生地の制服を着た雪花が外を眺めていた。
「杉原さん」
森上が背後から声をかけると、雪花は文字どおり飛び上がった。
「はいっ。……何だ、森上先生か。びっくりしたー。誰かと思っちゃった」
「驚かせてごめんね。今そこを通ったら君がいたから。日曜日にどうしたんだい?」
「今日、友達が部活で。その後遊ぶ約束してるから、ここで待ってるんです」
「わざわざ制服を着て?」
「はい。だって、学校で待つなら制服しかないでしょ? ちょうど暇だったし、制服嫌いじゃないから。それにブラバンって結構知り合いが多いから、一緒にお昼食べる約束もしてるんです」
「音楽室で部活動してるの?」
「ええ、ブラバンが」
「日曜日なのに頑張るんだな」
「そりゃあ先生、決まってるじゃないですか。青葉のブラバン、全国区ですよ。日曜日なんてあってなきが如しです」
部員でもないのに、雪花は誇らしげに言ってのける。森上はそれを適当に受け流した。この学校の吹奏楽部が全国区だろうが地区レベルだろうが、自分にとってはどうでもいい。
「森上先生こそ、どうして今日は学校に?」
「やり忘れた仕事があってね。それより」
森上は自然な表情で話題を変えた。
「水島さんを知らないかな?」
「あおい……ですか?」
雪花の表情がみるみるうちに曇る。なんて分かりやすい子だろう。森上は内心で嗤った。
「最近全く学校に来てないね。近所でも見かけないから、少し気になって」
雪花は忙しなく目を泳がせる。どう答えたらいいか迷っているのだ。森上には彼女の心の内が手に取るように分かった。
「担任の先生も気にかけていらっしゃった。前も病気で長いこと休んでいたらしいし、少し心配だっていう話になってね。友人の君なら、何か知ってるかと思って」
これだけ言葉を揃えれば、雪花は何かしらの答えをくれるだろう。くれないのなら訊き方を変えればいい。だが、今のやり方が雪花には最適だと森上は確信していた。以前あおいの身を案じ、わざわざ探りを入れようとしてきたぐらいだ。あおいを心配するそぶりを見せ、その感情を逆撫でしない程度に訊いてやれば、良心のある雪花ならこちらが望む答えをすぐにくれるはずだ。
しばらく沈黙した後、雪花は森上が予想したとおりの動きを見せた。
「あの……あおいは今、入院してるらしいんです」
「入院?」
「はい、病気が悪化して遠くの病院に入院してるとか。あたしもあおいのことは気になってて、昨日尋兄ちゃんに訊いたらそう教えてくれたんです」
「尋兄ちゃんっていうのは、君のお兄さん?」
「はい。二番目の兄で、今高等部の三年生です」
「そのお兄さんは、水島さんと何か関わりが?」
雪花は一瞬言葉を詰まらせるが、
「その、付き合ってるらしいです。一時期喧嘩してたみたいだけど、最近仲直りしたっぽくて」
「そうか。じゃあ、その病院の名前は分かる? 一度お見舞いに行こうかと思うんだけど」
雪花は申し訳なさそうに頭を振る。
「いいえ、そこまでは教えてくれなくて……」
「そうか。ありがとう」
森上は雪花に微笑み返すと、背を向けて立ち去ろうとした。
「あ、あの! 尋兄ちゃんに、詳しいこと訊いておきましょうか?」
森上は足を止めて振り返ると、
「そうだね。お願いしようかな。じゃあまた」
軽く手を挙げて、森上はその場を後にした。階段を下りて職員室に向かう。人の気配が微塵もない廊下を歩きながら、森上は歌うような軽さでひとりごちた。
「そうか、生きていたのか」
森上は口元を綻ばせる。
「俺も、詰めが甘かったかな」
愉しげに呟かれたその言葉は、校舎を包む濃い静寂に溶けて消えた。
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