第10章 惑える傷痕

 ほんの僅かな感触に呼ばれたように、尋人はゆるりと目を覚ました。

 この部屋で迎える二度目の朝だ。眠り続けるあおいの手を握ったまま、尋人はベッドの端に突っ伏して寝ていた。眠りは普段と比べて遥かに浅く、途切れることのない緊張感は睡魔への耐性を体に刻み込んだらしい。疲弊した肉体は決して深みに落ちない微睡みに弄ばれ、脳の一部分は熟睡を拒んでひたすら覚醒を続けている。

 尋人は重い瞼を擦る。長い時間同じ姿勢でいたせいで体が痛い。カーテンの隙間から光が射し込んでいるところを見て、どうやら夜が明けたらしいと分かった。

 ふと目を落とした瞬間、掌の中であおいの指がぴくりと動く。尋人は息を呑んで彼女の肩を掴んだ。

 血の気のないあおいの瞼が僅かに震える。小さな瞬きが何度も繰り返された後、その目がゆっくりと開いていった。

「あおい」

 あおいの瞳が鈍く揺れる。虚ろな眼差しが尋人のそれと交錯した。

「ひ……ろ、と……?」

 か細く消える手前の声が名前を呼ぶ。つぶらな瞳の焦点が徐々に定まり、息を詰めて見つめる尋人をはっきりと捉えていった。

 意識を取り戻したあおいに感極まりかけた尋人は、やがて肺が空になるまで息を吐いてぐったりと脱力する。

「よかった……。よかった、目が覚めて」

 尋人はへなへなとマットレスに顔を沈め、破れるくらいに高鳴った鼓動をほっと宥めた。

「あおい、分かる? 俺のこと、分かるか?」

 あおいは小さく瞬いた後、ゆっくりと顎を縦に動かす。そして起き上がろうと身動ぎした。尋人は慌ててあおいの肩に触れ、

「だめだよ、まだ起きちゃ。ひどい怪我なんだ。治るまで寝てないと」

 その言葉の勢いに気圧され、あおいは素直に動くのをやめた。その紙みたく白い肌が、ほんの少しだけ色を取り戻したように見える。あおいは難儀そうに唇を動かした。

「どう、して……あなた、が、ここ、に……?」

「たまたま居合わせたんだ。あ、傷は大丈夫だよ。姉さんが医者を呼んで手当てしてくれた。でも、治るまではじっとしてて。ただでさえ深い傷なんだ」

 目覚めたばかりの虚ろな視線に当惑が宿る。尋人はあおいを安心させるため、精一杯の明るさで笑いかけた。

「よかった、目覚めてくれて。二日も起きないから本当に心配したんだ」

 尋人はあおいの頬に右手を添え、思わず瞳が潤みかけて声が揺れる。

「よかった、本当に……。生きててくれて、本当によかった」

 心からの安堵が滲んだその言葉を、あおいは微睡みの抜けない眼差しで受け止めた。尋人は泣いてしまいそうになるのを堪えながら、

「何があったか覚えてる?」

 とろんとしたあおいの瞳が、記憶を辿ろうとして頼りなく彷徨う。

「誰かに撃たれたんだ。出血がひどくて傷も深いけど、もう大丈夫だよ。でも完治するには時間がかかるから、最低でも一ヶ月は安静にしてなきゃだめだけど」

 その言葉で状況が理解できたらしい。あおいは瞼を閉じて緩慢に頷いた。

「どこか痛む? 悪いけど今は、ここには俺以外誰もいないんだ。俺にできることがあるなら何でも言って」

「ごめ……んな、さい」

 意外な言葉に尋人は戸惑った。あおいは傷が痛むのか、頬や口元を苦しげに強張らせる。

「……どうして謝る?」

「あな、たを……また、傷、つけた」

 尋人は一瞬表情を止めるが、すぐに首を横に振ってみせた。

「俺は傷ついてないよ。あおいが守ってくれたから。……そうだろ?」

 虚ろだったあおいの瞳が、一瞬光を取り戻したように見開かれる。

「俺のほうこそごめん。何も知らずに……知ろうともせずに、あおいを追い詰めて傷つけた。自分のことしか考えてなかった」

 あおいは顎を横に動かそうとするが、身動ぎした瞬間走った痛みに青白い肌を歪ませる。

「あなたは、悪く……ない。悪い……のは、あたし。……あたしは、あなた、に、嘘を……ついた。あなたを、騙した」

「うん」

「巻き込みたく、なかった。……死なせたく、なかった」

「うん」

「好き……だから。あなたはあたし……を、あたしは、あたしだと……言って、くれた」

「うん」

「あなただけ……が、あたしを、分かって……くれた。あたしを、好きだと……言って、くれた。だから、巻き込みたく……なかった。守り、たかった。嫌わ……れ、ても」

「うん。分かるよ」

 あおいの瞼から涙が一筋滑り落ちる。

「あおい。聞いてくれないか」

 あおいが静かに目を開ける。その漆黒の瞳はしっとりと濡れていた。尋人はあおいの瞼に溜まる涙を指で拭いながら、

「俺、やっと分かったんだ。自分が本当はどうしたいのか。どうしたかったのか。……あおい、傍にいてもいいか?」

 あおいの瞼がほんの少し震える。

「傍にいたいんだ。あおいが好きだから。守りたいんだ、あおいを」

「だめ……だ、よ」

「どうして?」

「また、傷つけ……て、しまう。……あたしの罪を、あなたに、まで」

「いいんだ」

「でも」

「それも含めて、背負わせてほしい。あおいが抱えてるものを、一人で苦しまずに、俺にも分けてほしい。一緒に背負いたいんだ」

 尋人を見上げるあおいの目から、やがて幾筋もの涙が頬を伝い流れた。

「傍にいたいんだ。あおいが俺を守ってくれたように、今度は俺があおいを守りたい。あおいが傷つかずに済むように。心が死んでしまわないように。……あおいは嫌か?」

「本当、に……?」

「ああ」

 握った手に力をこめると、あおいの細すぎる指がそっと握り返してくる。尋人はその頬を包むように掌を添えた。

「傍にいる。ずっと、守るよ」

 確かな響きで告げられた言葉に、あおいが涙の滲む目を柔らかに細める。その口元が穏やかに綻んで、青白い頬にほんのりとした赤みが灯った。

「夢、みたい……」

 尋人はあおいの手をしっかりと握り直し、深い安堵とともに笑いかけた。

「夢じゃないよ。だって、生きているから」

 包み込んだ頬には温もりがあり、彼女が死の淵から戻ってきた実感が胸を満たす。幸せそうに目を瞑るあおいを見つめたまま、尋人はしばらく時を忘れてその傍らについていた。



 次に目覚めた時、尋人はいなかった。ベッドに横たわったまま、あおいは目だけを動かして室内を見回す。

 きいという音がして、あおいはドアのほうを見つめた。

「目が覚めたようね」

 襟元がフリルになった薄紫のシャツに、黒のパンツを着こなした佐知子が姿を見せた。

「佐知子、さん……」

「そのままで。起きなくていいわ。傷、見せてくれる?」

 佐知子はシャツの袖を肘まで捲り上げると、ベッドの傍らにしゃがんで布団をめくる。そして、あおいが着ているパジャマのボタンを外し、傷口のガーゼをそっと取った。

「痛みはどう?」

「大丈夫……です」

「正直に言って。強がられちゃ正しい判断が下せない」

「痛い……です。痛くて、動けない」

「でしょうね。傷が塞がるまでしばらくの辛抱よ。今のところ化膿はしてないようだから大丈夫。安静にしてなさい」

「はい……」

「ガーゼ替えて消毒するわね。沁みるだろうけど我慢して」

 佐知子はピンセットで五百円硬貨ぐらいの大きさの綿を摘んだ。それを銀の容器に三秒ほど浸して茶色の消毒液を染み込ませ、傷口を中心に円を描くように塗りたくる。あおいは途端に顔をきつくしかめて呻いた。

「我慢して。沁みるのは当たり前よ。まだ傷口が塞がってないんだから」

 あおいは歯を強く食い縛る。だがすぐに身をよじろうとした。佐知子はすかさずあおいの肩を押さえつけ、

「我慢して。すぐ終わるわ。沁みるのは生きてる証拠。ほら、はい終わり」

 佐知子は茶色の綿をごみ箱に捨てた。あおいは数回に分けて息を吐き出す。佐知子は傷口をガーゼで丁寧に覆うとテープで固定し、パジャマのボタンをつけ直して布団をかけた。

「はい、おしまい」

「ありがとう、ございます……」

 佐知子はてきぱきと消毒セットを片付けていく。

「あの……」

「なあに?」

「尋人は、どこに……」

「ああ。隣の部屋で寝てるわ」

 佐知子はデスクの椅子に腰掛けると、足を組んであおいを見下ろす。

「ここ二日、あなたの看病でろくに寝てなかったのよ。あなたが無事に目覚めて、緊張の糸が切れたみたい」

「そう、ですか……」

「あの子、ずっとあなたについてたのよ。二日前の深夜、あたしのところにものすごい勢いで電話してきてね。驚いたわ、まさかあなたが撃たれるなんて。敵相手に油断でもした?」

 あおいは曖昧に頷いた。

「でしょうね。一瞬でもあなたの隙を突けるなんて大したものだわ。でもよかったじゃない、三途の川から何とかこちら側へ戻ってこれて。一時はどうなることかと思ったけど」

「ごめん、なさい……」

「何で謝るの?」

「……尋人や、あなたを、巻き込んで」

 佐知子は呆れきった顔で盛大に嘆息した。

「あなた、何も分かってないわね」

 あおいは佐知子を見つめ返す。

「あなたが思ってるほど、尋人はやわじゃないわよ。巻き込まれて嫌だなんて、あの子はこれっぽっちも思っちゃいない。尋人はあなたのことをひどく案じていたわ。あなたが死ぬんじゃないかと考えて、夜も眠れなかったみたい。ずっとつきっきりで看病してたの。その意味が分かる? 言ったでしょう。あなたの命は、あなただけのものじゃないのよ」

 あおいは目を瞬かせた。

「確かにあなたは一人だったかもしれない。でもそれは昔の話。今は違う。もう人に……誰かに頼ってもいいのよ。痛い時は一人で抱え込まなくていいの」

 佐知子は柔らかな笑みを浮かべた。

「ありがとう……ございます」

 佐知子は頷いて、あおいの頬にそっと触れる。

「だいぶ落ち着いたようね。でも、しばらくはこうしてて。傷の手当やここの警護は、あたしたちに任せてちょうだい」

「……いいんですか?」

「心配しなくとも依頼料につけとくわ」

 佐知子はすっと表情を引き締めると、先程とは違う硬い声音で切り出す。

「訊きたいことがあるの。答えてくれる?」

 あおいはこくりと頷く。

「あなたを撃ったのは、誰?」

「……森上です。森上、智彦」

「そう。《M‐R》との抗争に関わっていたの?」

「いいえ。あたしが、命じられた任務は、《M‐R》に関わるもの、じゃありません。だけど、あの人が現れた。あたしのことを、つけてたみたいで」

「ということは、あなたが中央公園に来ることを知って現れたのね。どこかから情報を仕入れたのか、あるいは常日頃から尾行していたのか」

「あの人は、あたしが、通ってた、学校に勤めてます。ここの住所もきっと、簡単に手に、入れられるはず」

「でしょうね。問題は彼があなたをどうするか。十中八九、仕留め損ねたことには気付いてるでしょう。とどめを刺しにここへ現れる可能性が高いわ。彼が《M‐R》にあなたの抹殺命令を受けているのなら」

 佐知子は険しい表情でしばし黙考していたが、一つ息を吐いて椅子から立ち上がった。

「考えてても埒が明かないわ。現時点での具体策として、この部屋は部下に固めさせます。マンションの出入りもチェックして、万が一の事態に備えましょう。あと一つ、問題は《ヴィア》のことだけど」

「父や、竹田から連絡があったら、すぐ佐知子さんに伝えます。……命令や、動きがあれば、それも必ず」

「ええ、そうしてちょうだい。ここは部下が控えてるから、何かあったら言いなさい。腕利きの女性だから安心していいわよ」

「ありがとう……ございます」

「どういたしまして。それじゃ、また様子を見に来るわ。お大事にね」

 佐知子は颯爽と寝室を出ていく。あおいは深く息を吐き出すと、そっと目を閉じた。



 数年ぶりにホワイトクリスマスとなった十二月を終えると、新しい一年が気忙しさとともに訪れた。

 見えない何かに追い立てられるような焦燥感を抱きながら、尋人は年末年始の六割以上をあおいの部屋で過ごした。

 家の大掃除やセンター試験対策の追い込み、親戚への挨拶や友人たちとの初詣など、年末年始はめまぐるしいスケジュールで埋め尽くされた。それらを普段と変わらない顔でこなしながら、時間を見つけては臥せったままのあおいを見舞っていた。あおいは無理しなくていいと気遣っていたが、尋人にとっては無理を伴うことではなかったので、気にしなくていいと明るく励まし続けた。

 大晦日と三が日はさすがに見舞うことはできなかったが、佐知子にマンションの警護を任された美弥が、年末年始返上であおいの側にいてくれたらしい。それを聞いた時はさすがに申し訳ないと思ったが、彼女が自ら望んだことだったそうだ。

 二週間もなかった冬休みが終わり、尋人は高校生活最後の始業式に出席するため登校した。教室は相変わらず賑やかで、卒業を控えているためか、普段よりも喧騒に拍車がかかっていた。それは文字どおりばか騒ぎというもので、センター試験の緊張に神経をすり減らしている者には迷惑だろうと思いつつ、尋人も気付けばその輪に楽しく加わっていた。

 学校が始まってからは、帰りにあおいのマンションへ寄り、夜九時過ぎに佐知子に迎えに来てもらう生活を送っている。母は尋人の帰りが連日遅いことを、佐知子の説明どおり、仕事でこき使われているからだと信じているが、父は何か事情があると薄々勘付いているらしい。直接確かめたわけではないが、尋人は何となくそう感じていた。恐らく二人とも、いつも佐知子と一緒に帰ってくるから、何があっても安心だと思っているのだろう。

 常日頃から多忙な健人とはほとんどすれ違いで、年末年始でさえ会話する時間が取れなかった。雪花は、あおいは遠方の病院に入院しているという嘘を信じていて、尋人が毎日見舞いに行っていると思っているらしい。顔を合わせれば決まってあおいの様子を尋ねてくるが、詳しくは話せないのでいつもはぐらかしている。そろそろ詳しく突っ込まれそうだと気を揉んでいたが、雪花にしては珍しく食い下がってこなかった。何か事情があると、雪花なりに察したのかもしれない。そんな彼女らしくない物分かりのよさを、尋人は少しだけ不思議に思った。

 三学期といっても学校へ行く機会はあまりない。三年生の三学期は授業自体がなく、卒業考査も無事に終わっている。あるとすれば二月後半に行われる卒業式の練習ぐらいで、一般入試に備えて学校で自習する者以外、三年生は登校する必要がなかった。尋人は友人たちとの自習に時折参加し、あとはあおいの部屋で過ごすことが多かった。

 自習には週二日ほど参加していて、今日は夕方六時過ぎまで学校で過ごし、その帰りにあおいの部屋へ寄った。

 インターホンを鳴らすと、美弥が鍵を開けてくれた。尋人はソファに鞄を置いてコートを脱ぐ。そして、入れ替わるようにコートを着て玄関へ向かう美弥を見送った。彼女は尋人が来た後、事務所に戻って仕事をこなすのだ。

「じゃあ尋人君、あとはよろしくね。何かあったら連絡してください」

「分かりました。いつもありがとうございます、美弥さん」

 美弥は丁寧に一礼すると、ヒールの音を響かせながら出ていく。玄関が閉まると、尋人は素早く鍵とチェーンロックをかけた。

 リビングに戻ると、鞄から出した三冊の文庫本を持ってあおいの寝室へ向かう。尋人が入ってきたことに気付いたあおいが、ベッドからゆっくりと身を起こそうとした。尋人は慌てて駆け寄ると、

「だめじゃないか、まだ横になってないと」

「大丈夫よ。少しなら、起きていられる」

「でもまだ微熱あるんだし、横になってないと。今ここで無理したら治りが遅くなる」

 あおいは目を瞬かせるが、しょんぼりともう一度横になった。尋人は軽く嘆息して、

「食事とトイレの時以外は寝てろって、美弥さんも言ってなかったか?」

「……でも、退屈なんだもの」

「それは体力が徐々に戻ってきたいい証拠。だから万全になるまでもう少し休もう? 下手に動くと、傷が開いてしまうかもしれない」

 あおいはこくんと頷きながらもどこかしょげている。尋人はベッドの端に腰掛け、その黒く短い髪を撫でてやった。

「制服だね。今日も、学校に行ってたの?」

「ああ。友達と勉強会」

「大変だね。楽しい?」

「うん。まあ勉強といっても、結構喋りながらやってたりするし」

「もうすぐ、試験なんでしょう。大丈夫?」

「ぼちぼちね。緊張で固まらなければ何とかいけそう」

 尋人はあおいの枕元に三冊の文庫本を置いた。

「暇潰しに。この前のは読み終わったって言ってたから、また家から持ってきた」

「ありがとう。読み終わった本、机にあるわ」

 尋人はデスクに目を向けた。文庫本が三冊重ねて丁寧に置いてある。

「前のは少し長めだったから、今回は短編集にしてみた。暗くなくて読みやすそうなやつ」

「ありがとう」

 あおいが嬉しそうに笑う。尋人も笑い返すとそっと立ち上がった。

「俺、夕飯作ってるから。何かあったら言って」

 あおいはこくりと頷く。尋人はベッドから離れて部屋を出ていった。

 翡翠色のソファが唯一のアクセントとなっているリビングは、相変わらず全体的に味気がない。尋人はテーブルの上にあった紺色のエプロンを着ると、流し台でまず手を洗ってから調理に取り掛かった。

 冷蔵庫から卵を出し、一個ずつ碗に割って入れる。次に手鍋に水を張って沸かし、その間に卵を菜箸でかき混ぜた。そして沸騰した手鍋の火を一度止め、薄口醤油をたらりと加える。

 そこで尋人はあることに気付き、食器棚やキッチンの収納を調べ出した。一通り見てしまうと、がっくりとしながら途方に暮れる。

「しまった、粉末の鰹だしがない……」

 杉原家では、だし汁の味付けにはいつも粉末の鰹だしと薄口醤油を使う。尋人はそれを覚えて育ったので、逆を言えば粉末の鰹だしを使わないだし汁を作ったことがない。

 尋人は腕を組んで唸り、どうしたものかと思案した。

「なくてもいけるかな。いや、どうだろう。醤油だけの味気ない感じになるんじゃ……」

 尋人は壁時計に目をやる。時刻はちょうど七時を廻ったところだ。今日日スーパーマーケットは当たり前に開いているが、あおいを一人置いて買い出しになど行けまい。

「……仕方ない、醤油だけにするか」

 こうなるなら、買い出しに行ってくれた美弥に頼んでおくのだった。あおいの部屋にはめぼしい食べ物は勿論、調味料も全くなかったので、美弥に必要最低限のものを買ってきてもらったのだ。でないと食事を作ろうにも、食材や調味料がないのでは話にならない。

「料理の基本さしすせそだけじゃ足りなかったか。帰りに姉さんに買ってきてもらうかな。すまし作るのに、鰹だしがなかったら話にならない」

 尋人はひとりごちながら作業を続ける。沸かしただし汁に茶碗一杯半のご飯を入れると、弱火にしてしばらくくつくつと煮る。

「いいよなこのマンション、何もかも最新式で。IHクッキングヒーターなんて、俺の家にもないのに。おまけに床暖房までついてるし」

 ちらと後ろを振り返ると、ソファ横の専用スペースでブランケットにくるまった向日葵が寝ている。そろそろ晩御飯の時間なのだが、当分起きる気配はなさそうだ。

「仔猫ってよく寝るなあ。腹減らないのか?」

 一人で作業しているせいか、つい独り言が多くなってしまう。こんな広い部屋で、話し相手がいないまま手だけを動かしていると、なぜか余計なものまで零れてくるから不思議だ。もし誰かにこの様を見られたら、きっと怪訝に思われるに違いない。

 尋人はフライパンに油を薄く引くと、再び茶碗一杯半のご飯を放り込む。左手で器用にフライパンを持ち、右手に掴んだケチャップでご飯に縞模様を描いた。そしてヘラに持ち替えると強火で素早く炒めていく。ご飯とケチャップがいい塩梅で混ざり合い、少し焦げ目がついたぐらいで火を止めて、テーブルの上に用意しておいた皿に移す。

 もう一つの碗に入れた溶き卵を、別の小さなフライパンにそっと流し込んだ。火を強火から中火に変え、左手首を器用に動かしてオムレツを作る。出来上がったそれを、形を整えたチキンライスの上に移して真ん中に切れ目を入れた。卵がとろりと裾を広げ、尋人は誇らしげに鼻を鳴らす。

 その後も手を休めることなく、煮立ったお粥に溶き卵を円を描くように流し込む。ぐつぐつと食欲を誘う音とともに、卵の柔らかな香りがふわりと室内に広がっていった。

 尋人は鼻歌を軽く口ずさみながら、冷蔵庫から半玉のレタスを取り出して、まな板の上で食べやすいサイズにちぎる。レタスは金気を嫌うので包丁は使わないほうがいいと、初めて料理をした時に母に教わったのだ。

 その時インターホンが鳴った。尋人は手鍋の火を止めてエプロンを外すと、ドアのすぐ横の壁に取り付けられている受話器を取り上げる。小さなディスプレイに映ったのは、背が高そうな三十代前後の見知らぬ男だった。

〈水島あおいさんのお宅ですか?〉

 よく通るバリトンの声だ。尋人は警戒しながら、

「どなたですか?」

〈青葉学園中等部の森上といいます。あおいさんの担任をしている者です。あおいさん、ご在宅ですか?〉

「すいません、どういった用ですか?」

〈長いこと欠席されているので心配になって、授業で使うプリントも持ってきたんですが〉

 尋人は少し逡巡した。何があっても部屋に誰も入れるなと佐知子に厳命されている。たとえあおいの担任教師であっても、それだけで入れるべきではないと思った。

〈あおいさんにお会いしたいんですが、だめでしょうか?〉

 尋人は迷った末に、

「すいません、プリントとかはポストに入れておいてもらえますか。あおいには俺から伝えておきますから」

〈そうですか。困った、どうしようかな……。いや、プリントも用件の一つではあるんですが、もう一つ大事な用がありまして。実は学年主任から、あおいさんのご様子を直接伺ってくるよう言われていまして。少しだけでもお話させていただけないでしょうか? プリントも、直接説明しないと分からないものもありますし。お兄さんがいらっしゃるなら、少しお話できませんかね?〉

 ディスプレイに映る森上と名乗った男は、心底困惑しているらしい。その姿を見て、尋人の良心が揺らいだ。

 せっかく心配してわざわざ来てくれたのだ。部屋に入れることはできずとも、チェーンロック越しにプリントを受け取るぐらいしないと失礼ではないだろうか。このまま無下に追い返すと、学年主任に言われて来たという彼の面子を潰すことにもなる。

 尋人はしばし悩んだ末に決断した。

「分かりました。今開けますんで、ちょっと待ってください」

 受話器を置くと、尋人は足早へ玄関に向かう。そして靴に半分だけ足を入れると、鍵を外してそっとドアを押した。チェーンロックの掛かったドアの隙間から森上の顔が見える。

「ありがとう。素直に開けてくれて」

 ぞっとするほど冷たい声で告げた彼は、黒光りするものを尋人に向けている。それが何かを瞬時に悟った尋人は、反射的にドアを閉め直そうとした。しかしそれより早く、森上がドアの間に足を滑り込ませてくる。

 尋人は慌ててドアから離れる。うろたえながら駆け足でリビングに戻り、叩くようにドアを閉めた。

 肩を激しく上下させた尋人は、背後を振り返って仰天する。ソファに手を置いて、あおいが立っていたのだ。

「あおい、何で!」

「え……」

 きょとんと返すあおいは、近付いてくる足音に気付いて廊下のほうを向いた。

 奴が来る。教師と偽って銃を持った男が入ってくる。どうすればいい。このままでは二人して彼に殺されてしまう。

 恐慌状態に陥った尋人は、ファックスの隣にあった黒い物体を見た。何かあった時の護身用にと佐知子から渡された本物の拳銃。初めは受け取るのを拒否したそれだが、敵は同じものを持って現れたのだ。守るためにはこれで迎え撃つしかない。

 尋人は拳銃を乱暴に掴むと、安全装置を外してドアに向けて構える。そして、身を盾にするようにしてあおいの前に立った。

「尋人?」

 あおいが驚いて声を上げるのと、片手で拳銃を構えた森上が現れたのは同時だった。尋人は両手で握った銃を向け、自分の背にあおいを隠す。ソファに凭れるように立つあおいが、闖入者の姿を見てひっと小さく息を呑んだ。

「悪いけど、チェーンロックは破らせてもらったよ」

 酷薄なバリトンの声で森上が言う。

「お前……!」

「まさかこんな簡単にうまくいくとは思っていなかった。鍵をこじ開けてでも入るつもりでいたけど、その必要は初めからなかったらしい」

「黙れ! 青葉の教師だなんて嘘つきやがって」

「教師なのは本当だよ。僕は青葉学園中等部の非常勤講師だ。あおいや君の妹、杉原雪花のクラスの授業も担当している」

「何だと?」

 尋人は愕然とあおいを振り返る。あおいは青ざめた表情でこくこくと頷いた。

「尤も担任ではなく教科担当。そこのところは、君の言うとおり嘘だったわけだが」

「教師が何で、銃持って生徒の家に押しかけてくるんだよ。おかしいだろ」

「僕は表の顔は教師だが、裏の顔は某組織に属する暗殺者だ。彼女を殺すことは、僕に課せられた最重要任務」

「させない! あおいは俺が守る。お前なんかに、あおいは殺させない!」

 尋人の背中を小さな指がきゅっと掴む。それが微かに震えているのを感じて、尋人は銃を握る手に一層の力をこめた。

「尋人……」

「大丈夫だ、あおい。君は俺が守る」

 森上を睨めつけたまま、尋人は背後に隠したあおいを励ます。森上はそんな尋人をあからさまに嘲笑し、

「守る? どうやって? それが玩具じゃないとしても、そんな震えた手でいったい何ができるというんだ」

「うるさい!」

「見るのも扱うのも初めてといった体じゃないか。震えが止まらない姿は情けないが、愛する女性を命懸けで守ろうとする心意気は素晴らしい」

「何が素晴らしいだ、思ってもないことをぬけぬけと。今すぐ俺たちの前から消えろ。さもないと……!」

 尋人は引き金に指をかけた。しかし挑発的な言葉とは裏腹に、銃を握る手はがくがくと震えて、気を抜けば今にも取り落としてしまいそうだ。

 森上は余裕をたっぷり滲ませた冷徹な表情で、

「彼女は僕にとって殺すべき敵。生かしてはおけない存在だ。粛清を受けてもなお生きながらえたのなら、撃った僕がもう一度屠らなければならない」

「撃った? お前まさか、あおいを」

 森上は口端を吊り上げて不敵に笑う。尋人はかっとして叫んだ。

「あおいを撃ったのはお前か? あんなひどい傷を負わせて、もう一度だと? 分かってるのか。お前のせいであおいは死にかけたんだぞ!」

「当然だ。腹を撃ち抜かれて平気で立っているようなら、君の彼女はもはや人間ですらないということになる」

「てめえ、好き放題言いやがって……!」

「仕留め損ねたまま生かしておくのはルール違反だ。生憎と、失態を放置して平気でいられるほど、僕は腑抜けちゃいないんでね。しかし」

 森上はふと目を細める。

「関係ない者を手にかけるのはフェアじゃない。僕が殺したいのはあおいだけ。君ではない。今すぐ僕の前から消えるというなら、見逃してやっても構わない」

「ふざけるな! 誰がそんな」

「じゃあ君は僕に殺される……そういうことでいいんだね?」

 尋人は慄然と息を呑む。

「憐れだな。偶然か必然か、運悪く彼女に関わってしまったばかりに、君は今その命を無駄に散らそうとしている。……こんな感傷は、君の男としてのプライドを傷つけてしまうかな?」

 背後ではあおいが、縋るように尋人に隠れて森上を窺っている。尋人は彼女の視線を遮るように体を動かすと、銃を構え直して森上に向けた。

 森上が撃鉄に触れた瞬間、余裕そうな表情がふいにぴたりと止まった。

「何事かと思って来てみたら」

 開けっ放しだったリビングのドアのすぐ横に、片手で拳銃を構える佐知子が立っていた。

「姉さん!」

 尋人の言葉には反応せず、佐知子は不敵な笑みを浮かべて挑発的に言う。

「あたしがいない間に、好き放題しようとしてくれたみたいね」

 尋人はほっと気が緩みそうになるが、慌てて銃を構え直す。佐知子は森上の背後に立ち、その頭に銃口を向ける。

「予想どおり、やっぱり来たわね。マンションを固めといてよかったわ。でも、少し来るのが遅かったんじゃない? あれからすぐに現れると思っていたけど」

「こちらにもいろいろとありましてね。それに、やっと今になって隙ができたんで」

 冷静すぎる二人のやりとりに、尋人は薄ら寒さに似た緊張感を覚えた。

「ここに張らせてた所員をボコボコにしてくれたようね。これはあたしへの挑戦と思っていいのかしら?」

「痕が残らない程度にしてますよ」

「どうだか。でも、もう逃げられないわよ。応援も呼んで、既に出入口も固めてある」

 佐知子は銃の撃鉄を起こし、凛とした口調で告げた。

「両手を挙げなさい。そして跪いて」

 森上は素直に両手を挙げる。佐知子は照準を森上の後頭部に定めたまま、じりじりと距離を詰めていく。二人の攻防を、尋人は瞬きも忘れて見つめていた。

「跪いて。そして銃を渡しなさい」

 佐知子の手が届くまでの距離になった瞬間、森上は目にも留まらぬ早さで身を翻すと、意表を突かれて息を呑む彼女の鳩尾に拳を叩き込んだ。

「姉さん!」

「佐知子さん!」

 青くなった尋人とあおいが同時に叫ぶ。次の瞬間、尋人の頬の真横を何かがひゅっと駆け抜けた。森上の投げたナイフが背後の壁に突き刺さっている。振り返った尋人はぞっと言葉を失った。

 佐知子が苦しげに呻いてうずくまる。尋人がもう一度向き直った時には、既に森上の姿は室内から消えていた。尋人は一瞬迷うが、すぐさま追いかけようとする。

「やめなさい、尋人」

 激しく咳き込みながら佐知子が制する。その傍らでは、青ざめたあおいが佐知子に手を差し伸べていた。佐知子はあおいに導かれるまま、ソファに座って腰をくの字に曲げる。

「でも、姉さん」

「だめよ。追いかけたら、今度こそただでは済まない。あの男の腕は確かよ」

「でも……」

「下にはあたしの部下が駆けつけてる。彼らに任せておけば大丈夫」

 佐知子は苦しげに何度も咳き込む。あおいは引き攣れた顔で彼女の背をさすっていた。それを呆然と見つめていた尋人は、やがてがくりと脱力して床に座り込む。騒ぎに目を覚ました向日葵が、もぞもぞとブランケットの中から出てきた。

 咳が収まった佐知子は、背中をさすってくれていたあおいに礼を言うと、背凭れに身を預けて深呼吸を繰り返した。そして尋人をきっと睨んで怒鳴りつける。

「このばか! 誰も入れるなってあれほど言いつけておいたでしょう!」

「ごめん。だって、学校の教師だって言うから……」

「相手の口車に簡単に騙されてどうするの! このばか。あんたもあおいも今死ぬとこだったのよ。あたしが来なかったらどうするつもりだったの」

 尋人は力なく俯いた。情けないことに頭の中が未だ真っ白で、ありきたりな謝罪の言葉しか浮かばない。

「ごめん。……ほんと、ごめん」

「終わったことだから仕方ないわ。二人とも怪我はないわね?」

 尋人はうなだれたまま頷くが、佐知子の隣にいるあおいは反応しない。その華奢な肩が細かく震えているのに気付き、尋人は慌てて彼女の傍に駆け寄った。

「あおい、大丈夫か?」

 尋人が声をかけると、あおいは蒼白すぎる顔で瞳を潤ませていた。

「ごめんなさい。あたしのせいで、また巻き込んで……」

 あおいは歯を食い縛って必死に涙を堪えている。尋人はその肩を強く抱いて、

「大丈夫。そんなこと言うな」

「でも、尋人も佐知子さんも、危険な目に……」

 あおいは両手で顔を覆ってしゃくり上げた。尋人は途方に暮れてしまう。

「大丈夫……大丈夫だよ。だから泣くな。……ごめん。ほんとごめん。俺が悪かった。言われてたのに、簡単に油断して奴を入れて……」

 必死に宥める尋人を一瞥し、佐知子はため息とともに立ち上がる。そして壁に刺さったナイフを抜き、

「これに懲りたら、もう不用意に玄関を開けないことね」

 叱責にも似た厳しい言葉に、尋人は己の失態を心から悔やんだ。あおいは肩を震わせたまま泣き止みそうにない。佐知子はぐしゃぐしゃと髪を掻くと、

「ああもう、そんなにへこんだってどうしようもないでしょう。ほらあおい、泣かないの! 泣くぐらいなら、顔を上げて笑いなさい」

「姉さん、そんな無茶な……」

「無茶じゃないわ。気持ちを切り替えなさいって言ってるの。危険な目には遭ったけど、何とか無事に凌いだんだから。ほら、あおいってば泣き止みなさい。あたしが言ったこと、もう忘れたの?」

 あおいは泣きながらもふるふると頭を振る。

「なら泣き止みなさい。尋人もほら、情けない顔してないで。あんたたち夕飯は食べたの?」

「あ……」

 その一言で、尋人は夕飯の準備が終わっていないことを思い出した。キッチンを見ると、作りかけで中断された光景がそのまま残っている。

「あたしは下にいる部下と話してくるわ。あんたたちは早く夕飯を食べてしまいなさい」

 佐知子はナイフを手にしたまま、つかつかとリビングを出ていった。極限まで張り詰めた空気が、たちまち引き潮みたく消えていく。尋人は泣き濡れるあおいを抱いたまま、胸を冷やした恐怖がなくなるまで動けなかった。



 星さえ見えない漆黒の空を、煌々と浮かぶ満月が照らす。その色合いは黄より赤に限りなく近く、不吉の象徴そのものといった邪悪さと、蠱惑的にも見える妖艶さを孕んでいる。

 まるでジャックローズのようだと思った。

 繁華街から外れた路地を森上は行く。時刻は深夜零時を廻ったところか。表の仕事はとうに終わっていたが、裏の仕事をこなしていたためこんな時間になった。尤もどれだけ遅い時間であろうと、森上にとっては少しも気にするに値しない。むしろ深夜に動き回ることのほうが多いくらいだ。

 森上は黒のカシミアコートを着込み、白い息を吐きながら歩き続ける。周囲の人影はまばらだが、闇を彩るネオンを見ると、街はまだ眠っていないと分かる。街には陽向の世界で生きる者と、闇の世界で生きる者が混在しているからだ。陽向で暮らす者が夜に眠ったとしても、闇を生きる者をも受け入れる街まで眠ることはない。

 小さなバーやスナックが密集する鄙びた建物の群れに『クライデール』はあった。森上は地下へ繋がる階段を下り、店のドアをそっと押し開く。来店を告げるベルが小さく響き、淡いオレンジに満ちた店内が現れる。客は他に誰もいなかった。

「やあ、こんばんは。いらっしゃい」

 気さくに挨拶したマスターは、しかし森上の姿を見た瞬間、驚愕に顔を強張らせて息を呑む。森上は一瞬怪訝そうに眉をひそめるが、こういった反応が初めてではないことを思い出し、さして気に留めないことにした。

「こんばんは。シングルモルトをお願いできるかな」

 初老のマスターはしばし呆けていたが、やがて我を取り戻して動き出す。森上はカウンターの真ん中の席に座った。そして鞄を置き、コートを脱いでさりげなく店内を見渡す。

 一昔前の木造倉庫の思わせるそれは、こぢんまりとしているが温かみがあり、どこか郷愁を誘う雰囲気を醸している。その演出を邪魔しないためか、流れるジャズのボリュームは低い。

 森上の手前に、マスターが言葉もなくシングルモルトのグラスを置いた。森上はくいと煽るように少し飲む。心地よい低さで流れるジャズのメロディーが、二人しかいない沈黙にほんの少し色を加える。

「……あんた、どこの人?」

 些か険を含んだ渋い声で問われ、森上はマスターに目を向ける。

「どこの人……とは?」

「どこに属しているかと訊いてるんだ」

 森上は僅かに意表を突かれた。マスターはグラスを磨きながら、

「隠したって分かる。あんたは陽向の匂いをしていない」

 シングルモルトのグラスを置いて、森上は微苦笑を浮かべた。

「驚きましたね、これは」

「つまらんことを。大して驚いてもいないだろう」

 見抜かれている。彼の言うとおり、さほど驚いてはいなかった。森上は困惑めいた仕草をポーズにして、相手の様子をさりげなく窺う。

「一目見ただけで分かるんですか? もしやあなたも」

「いや。ただ仕事柄、そういう人間の見分けはつくんでね」

「この店には、そういった人間が多く訪れるとか?」

「いや、むしろあんたの敵が多いな」

 森上は得心のいった顔をする。なるほど、ここは刑事たちの溜まり場であるらしい。シングルモルトを口に含みながら森上は黙考した。

 己の立場を考えるとあまり長居するべきではないが、かといって即刻立ち去る気にもなれない。せっかくこうして酒を愉しんでいるのだ。こんな瑣末なやりとりでやめるのは白けてしまう。それに、彼は自分をすぐさま警察に売るような真似はしないだろう。むしろその点に関しては無関心である気さえした。確証のない直感ではあるが、間違っていない自信はある。

 マスターは慣れた手つきでグラスの一つ一つを曇りなく磨き上げながら、

「……あんた、さっちゃんを知っているね」

「さっちゃん?」

「杉原佐知子。前にあんたがここで待ってた女の子だよ」

 ああと相槌を打ちながら、森上は心の中で首を傾げる。実際に問うたことはないが、彼女は見た目でいうと自分より少し年下ぐらいだ。女の子と呼べる年齢ではないだろう。しかしその響きには親愛がこもっていたので、あえて触れることはしなかった。

「彼女、よくこの店に来るんですか?」

「何を言う。あんた、知っててここで待っていたんだろう?」

 森上は苦笑する。このマスター、かなりの切れ者らしい。穏やかそうな見た目に騙されてはいけない。

 明確な答えを示さない森上に一瞥を送るも、マスターは深く追及してこない。ボーダーラインを弁えているのか、訊く必要がないと思っているからか。もしかしたら、答えそのものに興味がないのかもしれない。どちらにしろ、腹の探り合いに慣れた曲者だ。表情や語調から窺える変化を慎重に見極めながら、裏の裏をかいて応酬する必要がある。

「あんた、何でさっちゃんに近付く?」

 次の言葉は意外にも直球だった。変化球で来るだろうと予想していた森上は、思わず小さく笑ってしまう。

「マスターは、彼女のことを随分と気にかけてらっしゃるんですね」

「可愛い部下だ。現役の頃は私の片腕でもあった。泣く姿は見るに耐えんだろう」

「泣く姿?」

 マスターは少し驚いたように目を丸くする。

「あんた、何も知らないのかい」

「何も、というと?」

「知らないであの子に近付いたのかい。何と罪作りな」

 深いため息をつきながらマスターは言う。それが嘆きのニュアンスであることに、勘の良い森上は一瞬で気付いた。しばしの沈黙の後、マスターは突きつけるように告げた。

「さっちゃんのフィアンセは、あんたと瓜二つの顔をしていた」

「え?」

 想定外の台詞だったのでさすがに驚いた。

「あの子の婚約者、早川淳平は私の部下だった。だが若くして殉職した。《ヴィア》と《M‐R》の抗争に巻き込まれて、殺されてしまった」

 シングルモルトを飲む森上の手が完全に止まる。

「さっちゃんは今も彼の死を引きずっている。助けることができなかったと、ずっと悔やんでいる」

 マスターは森上には目もくれず、グラスだけを見つめて淡々と語る。

「そこにあんたが現れた。淳平と瓜二つのあんたが。あんたに双子の兄弟はいないそうだが、その似ようはもはや犯罪だよ」

 グラスを磨く手を止めて、マスターが鋭利な目つきになる。温和な面立ちにはおよそ似つかわしくない、強く濃い険がありありと表れた眼差しだった。

「分かっただろう。どういう巡り合わせで出会ったのかは知らないが、もうさっちゃんの前に現れないでほしい。この店にも、もう来ないでくれないか」

 それきりマスターは無言になる。森上も言葉を発することはしなかった。

 シングルモルトの酔いを仄かに感じながら思い出していた。初めて佐知子と会った時の情景が、記憶の糸を手繰り寄せるごとに鮮明に浮かんでくる。

 あの時抱いた疑問の答えに辿り着けた。視線が絡み合ったほんの一瞬、焦げ跡のように刻まれた感情の欠片が、確かな手応えに触れて氷解していく。痛みでも苦しみでもなく、ほんの僅かなひりつきを伴った感情が。

 それからしばらくして、森上は店を後にした。店のドアが閉まる最後まで、マスターがこちらを見ることはなかった。

 時刻は午前一時になろうとしている。外の闇の濃さは相変わらずだが、人影はごく僅かになっていた。森上はコートのポケットに手を入れて大通りを目指す。今夜は思いの外苦い酒だった。帰ったら、買い置きのウィスキーでも一本開けようと思う。

 大通りは人気がなく、日中に比べて車の量も遥かに少なかった。それでも街灯やネオンで充分明るく、物騒な雰囲気は欠片もない。

 賑わいをなくした静けさの中に、靴音がやたらと大きく反響する。森上は駅まで行ってタクシーを捕まえるつもりだった。煌々とした街灯が照らす歩道を、誰ともすれ違うことなく歩き続ける。

 ふと目を向けた反対車線の先に、見知った顔を見たような気がして足を止める。目を凝らしてみると、その直感は正しかった。森上は渡るつもりのなかった横断歩道を渡り、それに近付こうと歩を進める。

 目的の人物が視界にはっきりと入ったところで、森上は静かに立ち止まった。ベージュのトレンチコートに身を包んだ佐知子が、路肩に止めた車の上に肘を突いて缶コーヒーを啜っている。森上は彼女が気付くまで、そのまま無言で佇んでいた。

 肘を突くのをやめて身を翻し、ドアに凭れようとした佐知子がようやく森上に気付く。視線が絡み合った瞬間、彼女の瞳が大きく揺れた。

 ああ、この瞳だ。あの時と同じ色をしている。

「こんばんは」

 森上が癇に障らない程度の軽やかさで声をかけると、佐知子ははっと我に返って目を逸らした。

「仕事帰りですか? 今日はまた一段と冷えますね。確かにコーヒーでも飲まないとやってられない」

「どうして。いつから、そこに」

 冷静さを装ってはいるが、佐知子の声音は微かに震えていた。森上はそれには気付かないふりをして、

「先程から。向こうの通りでお見かけしたので、ご挨拶でもと思って。いつ気が付くのかなと待っていましたよ。なかなかこちらを振り向いてはくれませんでしたから」

 佐知子の目が忙しなく泳ぐ。思いがけない遭遇に殊の外動揺しているらしい。

「残業ですか?」

「仕事が毎日山積みでね。小さな事務所だけど、ありがたいことに結構繁盛してるの。毎日毎日どれだけこなしても減りやしない」

 動揺を消し去った気丈さで佐知子は言う。感情の動きを悟らせない語調だが、ほんの僅かな震えを隠そうとしていることを森上は見抜いていた。

「先日は失礼しました。女性の貴女に手痛い仕打ちをしてしまって」

 森上が詫びると、佐知子は怒りを滲ませたきつい眼差しを向ける。

「よくもやってくれたわね」

「想定外だったもので。ああでもしないと逃げられなかった」

「随分と手荒な逃亡だったわね。捕らえようとしたうちの所員に、ボクサー並みの鉄拳を食らわせたそうじゃない」

「すみません。どうしても捕まりたくなかったものですから」

 佐知子は恨みがましそうに森上を睨む。森上は微苦笑を浮かべてやり過ごした。

「またあの子を襲いに来るつもり?」

「いいえ。もうあんな危ない真似はしませんよ。あれじゃ無関係の者まで巻き込みかねない。貴女の弟さんも」

「……尋人を知ってるの?」

 彼女の瞳に宿る険が深くなる。

「ええ。妹さんに伺いました。二番目のお兄さんであると」

 佐知子は顔をしかめると、あからさまに舌打ちした。

「そうね。あなたは青葉学園中等部の人間だった。教師としての顔を装えば雪花に近付くのは容易いでしょう。あの子にまで手が及ぶことを想定してなかったあたしのミスだわ」

「そう怒らないでください。雪花さんの純粋さにつけ込んで、いろいろと聞き出したのは僕です。彼女を巻き込むつもりは毛頭ない」

「よく言うわ。どの口がそんな戯れ言を」

「本心ですよ。言ったでしょう? 関係ない者を巻き込むのはフェアじゃないと。本当なら、貴女だって巻き込みたくはなかった」

 佐知子は冷え冷えとした眼差しを森上に投げる。森上が口端を少し緩めてみせると、それがさらに険しくなった。車の上に置いた缶コーヒーには手をつけずに、佐知子は森上を睨んだまま問う。

「あなた、あおいを相当憎んでるのね」

「というと?」

「あなたの行動は、確かに《M‐R》の命令でもあるんでしょう。でもそれ以上に、あなたは個人的にあおいを殺したがってる」

「ええ」

 繕う気が起きなかったので、森上はあっさりと認めた。

「それはなぜ? どうしてあの子を執拗なまでに狙い続けるの?」

 少し黙り込んだ後、森上ははぐらかすように笑ってみせた。

「それは貴女がこれから突き止めるのでしょう? あおいの過去を暴くことで、僕の秘密をも明らかにし、それを《ヴィア》を潰すことに繋げる。それが貴女の望みなのでは?」

 佐知子は押し黙る。素直に頷きたくないらしく、忌々しげに目をすがめた。

「僕も一つ、伺ってもいいですか?」

 佐知子の凛とした瞳に、ありありと警戒の色が宿る。

「僕はそんなに似ていますか? 貴女の愛した人に」

 これまでにないくらい見開かれた佐知子の目が、涼やかに佇む森上を愕然と捉える。

「《クライデール》のマスターに言われました。もう貴女には会わないでほしいと。僕は貴女が愛した人に瓜二つだからと」

 先程までの気丈さが大きく揺らぎ、佐知子は明らかに狼狽していた。森上から顔を背けると、震える両手を握り締めて胸に当てる。

「その人は死んでしまったと聞きました」

「……ええ」

 いつも凛々しく自信に溢れている彼女にしては、意外なほど頼りない響きの首肯だった。

「《ヴィア》と《M‐R》の抗争に巻き込まれて殺されたと」

 佐知子の横顔が一瞬で翳る。痛ましげに瞑目しながらも、気丈さを崩すまいと努めているのが、森上には手に取るように分かった。

 長い沈黙が風に流れる。夜の凍てた空気が二人の間に漂う緊張を支配した。

 佐知子はため息を一つつくと、諦めたように薄く笑って車のドアに背を預けた。

「県警にいた時の同僚よ。交通課時代から互いを知ってて、結婚の約束もしていた。気さくで優しくて頼り甲斐があって、誰よりも正義感が強い怖いもの知らず。警察官とは何たるかを絵に描いたような男。間違ったことが許せない、一本気な性格の人だった」

 遠い記憶を手繰り寄せる眼差しで佐知子は語る。感情を抑え込んだその表情は、思い出につられてかとても穏やかだった。

「結婚するはずだったの。追いかけてるヤマが終わったら、式を挙げて籍を入れて。あたしは刑事を辞めるつもりだった。家庭に入って、妻として彼を支えようと決めていた。ずっと一緒に生きていくものと思ってた。……彼を、愛していたの」

 佐知子は漆黒の頭上を仰ぐ。薄雲に覆われた夜空には星がなく、少し前まであったジャックローズの月も今は見えない。

「彼は《ヴィア》が絡んだ麻薬密売を追ってた。それには《M‐R》も絡んでて、とても複雑で危険なヤマだった」

 さらさらと語る彼女の声音は、恐ろしいほど静かで揺らぎない。悲しみも憎しみも滲んでいないそれは、しかし抜けない棘に触れるような痛みを伴っている気がした。

「あたしたちは止めたわ。とても一介の刑事の手に負えるヤマじゃない。上層部は《ヴィア》に関わることを恐れて、彼に捜査の中止を厳命した。それでも彼はやめなかった。あたしがどれだけ止めても、健人や木野さんや周りのみんなが説得しても、決して首を縦には振らなかった。正義感が人一倍強かった彼だから、《ヴィア》という悪が世に蔓延ることが許せなかったんでしょう」

 森上は黙したまま佐知子の言葉に耳を傾ける。泣いているのかと思ったら、意外なことに彼女の瞳は乾いていた。決して森上を見ようとしないその瞳は、潤んで揺れているのではない。悲しみの色で揺れているのだ。

「タレコミがあったの。《ヴィア》と《M‐R》が取引を行うと。みんなで止めたけど、彼はその現場に一人で飛び込んでいった。……そして殺された」

「……どちらが殺したんです?」

「今となってはもう分からない。彼を撃ったのが《ヴィア》なのか、《M‐R》なのか。分かったとしても、もうどうしようもないこと」

 言葉では諦めたように語っているが、その響きが本音は別にあることを暗に告げている。

「彼は殉職した。上層部は彼の死に目を瞑り、それ以上の捜査をしなかった」

 佐知子の言葉は実に淡々としている。滲み出そうな感情を殺して、悟られることを拒んでいるかのようだ。

「もう、三年も前の話よ」

 白く小さな息を吐いて、佐知子はほんの少しだけ目を伏せる。森上は短い沈黙の後、

「だから貴女が《ヴィア》を?」

 佐知子はすぐには首肯しない。しかし否定の仕草も見せなかった。

「仇討ちしたいわけじゃない。そんなこと、きっと彼は望んでないだろうから。でも彼が殺されたのに、《ヴィア》が今ものうのうと存在してることは許せない」

 矛盾するその言葉は、憎悪とも呼べる悲しみを孕んでいた。

「……あなたには、知られたくなかった。あなたの言葉をそのまま鵜呑みにしたわけじゃないけど、あたしの過去を深く調べてないと言うのなら、このまま知られないでいてほしいと思ってた」

「なぜ?」

 単純な響きで投げかけられた問いに、佐知子は一瞬沈黙した後に小さく笑う。

「……だって、どうしたらいいか分からないじゃない」

 知られたことを悔やむというより、自らの感情を嘲る微笑だった。

 佐知子は口を閉ざしたまま、凍てた空気に支配された闇を見つめる。彼女の本質を垣間見たようで、森上はそっと息をついた。

「だからだったんですね。貴女は僕を見ようとしない。僕を見る時は、いつも悲しそうな瞳をする。悲しいというよりも絶望している、打ちのめされているような。なぜあなたなの……と」

 森上の言葉に、佐知子は明確な反応を返さない。一向に自分を見ようとしない彼女に、森上は静かすぎる響きで問うた。

「それが貴女の孤独ですか」

 佐知子は瞠目する。その横顔がすっと色を失った。

 長い沈黙の後、微かに震える彼女の唇がようやっと言葉を紡いでくれる。

「あなたは、淳平じゃない。それは分かってる。あなたには関係のないこと」

 何もない空間を見つめながら、努めて気丈に佐知子は告げた。それが森上の最奥にある琴線に触れる。そんな己を嘲って、今度は森上が微かに笑った。

「だから貴女を巻き込みたくなかったんだ」

 ずっと逸れていた佐知子の視線が森上に向けられる。見えない何かに惹きつけられて、二人はしばらく言葉も忘れて互いを見つめた。

 靴音を響かせて、森上は歩を進める。佐知子との距離が少しずつ狭くなっていく。

「貴女と初めて会った時に感じました。言葉では表せない何かを。敵と味方、立場の違う者同士……そんな陳腐な言葉じゃない、形ではきっと表せないだろう何かを」

 佐知子の瞳が森上を追う。森上は彼女の前で足を止めて、その表情に目を向けた。

「僕と貴女はよく似ている。生い立ちや過去、歩んでいる道……そんな確かなものとは違うけれど。心の奥に、とても近いものがあるからかもしれない」

 彼女の眼差しが大きく揺れる。先程とは違う色が、その瞳を鮮やかに彩った。

「だから惹かれる。こんなにも違うというのに、どうしても目を背けられない」

 佐知子の唇が動いた。何か言おうとしているのを目で制して、森上は彼女だけに見せる優しさを声にする。

「貴女は強い。そして同じくらい、脆い人だ」

 はっと息を詰めて、佐知子が森上を見つめ返す。森上は邪気のない微笑を残すと、再び歩を進め始めた。

「だから僕は、貴女を壊したくはない」

 それだけ告げると、森上は振り返ることなく歩いていった。背後で一瞬引き攣れた呼吸の音を聞いた気がしたが、空耳だと思うことにする。

 凍てた空気が頬を刺す。森上は駅に着くまで一度も立ち止まることなく、振り返らずに歩き続けた。



 血のような夕陽が空を染める。だが、その光は分厚い遮光カーテンで隠された窓の隙間から弓矢みたく射し込むだけで、灯りのない室内の闇の濃さにはとても敵わない。

 水島総一朗は手を伸ばしてカーテンを少しだけ開けた。人一人分の幅だけ開かれたそこに、鮮やかな橙に隅々まで照らされた石庭が現れる。夕空の下で眩いまでの輝きを放つそれは、刻一刻と経つごとに印象を変えていく。その緩やかな移り変わりを眺めるのが彼の唯一の愉しみだった。

 車椅子を窓際まで寄せて、総一朗は石庭を凝視する。その側には竹田が直立不動で控えていた。すぐ後ろに立つのではなく、かといって離れすぎる位置でもない。総一朗の威厳を損ねない絶妙な距離感を、竹田は身に刻むように弁えている。

「……よくないな」

 他を押し潰すほど重厚な声は、隠そうともしない嫌悪を孕んでいる。竹田は無表情でそれを受け止めた。

「は」

「そうだろう、竹田。お前の報告が真実ならば、非常によくない。私はな、竹田。あおいを人間として育てた覚えはないんだ」

 そう語る総一朗の言葉には、情け容赦や人間味を思わせる温もりは微塵もない。

「感情を覚えた人形など、壊れた機械よりも始末が悪い」

 総一朗が忌々しげに吐き捨てる。そこには黒い憎悪がはっきりとこもっていた。

「……少し、泳がせすぎたようだ」

 竹田の左目に鋭く昏い光が宿る。

「あおいには私から伝える。お前はいつでも事を動かせるよう、準備を整えておけ」

「は」

 竹田は慇懃に頭を下げた。総一朗は口端を邪悪に吊り上げる。

「そろそろ、再び気付かせてやらねばならんな」

 刃みたく研ぎ澄まされたその声に、竹田は畏まるように瞑目した。



 密やかな雨の音が聞こえる。佐知子は深夜遅くにあおいのマンションへ赴き、その寝室の隣の空き部屋で夜更けを待っていた。

 真夜中に森上と偶然遭遇してから三日が経った。あれから佐知子は一度も自宅に帰っていない。山積みの仕事に日夜没頭し、ほとんどの時間を事務所で過ごした。それでも仕事が片付くと、どうしても自由な時間ができてしまう。そんな時は決まってあおいのマンションを訪れ、護衛という名目で長時間居座り続けた。尋人は学校と受験勉強の関係でそれほど来ておらず、あおいも特に何も言わないし訊いてこない。そのどちらもが、今の佐知子には好ましかった。

 一人の時間がほしくない。少しでも自由な時間ができると、抑え込んでいた感情で胸が埋め尽くされてしまう。それは徹夜で仕事をこなす何十倍も息が詰まって仕方がないことだった。しかしどれだけ逃げようとも、一人で過ごす時間は否応なく生まれてくる。

 カーテンの隙間から窓の外に視線を寄越す。先程と変わらない夜の色を、まばらな小雨が濡らしていた。佐知子はカーテンを掴む指を離し、胸元のポケットから煙草を取り出す。慣れた仕草で口にくわえ、ライターで素早く火を点けた。暗闇の室内にほんの一瞬光が灯り、紫煙がゆっくりと充満していく。

 佐知子はその苦い香りを、肺が満たされるまで深く吸い込んだ。そして、しばらく窓に凭れて煙草を吹かした。

 波立つ気持ちが平穏を取り戻すまで、誰にも会いたくなかった。仕事の場合はそうも言っていられないが、家族や友人に会うことは極力避けていた。仕事が忙しいと言って家にも帰らず、健人からの電話も何かと理由をつけて後回しにしている。

 佐知子の過去や性格を知り尽くしている人たちはきっと、顔を見ただけで今の気持ちを容易く見抜いてしまうだろう。それだけは絶対に嫌だった。佐知子の周りの人々は優しい。だが、それは同時に諸刃の剣でもある。ぎりぎりの瀬戸際で保ち続けている、精一杯の気丈さだけはどうしても貫き通したかった。それが佐知子のせめてものプライドだからだ。

 佐知子は嘆息するように紫煙を吐き出す。そして悼むように瞑目した。

 ──貴女は強い。そして同じぐらい、脆い人だ。

 優しすぎる声音で本質に触れた、森上の言葉が脳裏から消えない。

「……情けないわね、ほんと」

 自嘲めいた独り言が慰めになるわけはなく、佐知子の心はあれからずっと痛いままだ。

「気付かれてたんだ……最初から、きっと」

 気付かれまい、見抜かれまいと必死に繕った平静さはきっと、森上からすれば剥き出しだったのだろう。今まで触れてこなかったのは、彼なりの温情だったに違いない。だが触れられた今となっては、それは細く小さな針となって心を刺し、悲しみにも似た痛みで佐知子の傷を延々と抉る。

 佐知子は煙草をくわえたまま、胸元を飾るリングのネックレスに触れた。大きく開いた襟を適度に飾り立てるこれを外したことは一度もない。肌に触れるほんの一瞬に生まれる感触が、佐知子の口元を少しだけ綻ばせる。

 ──結婚しよう、佐知子。きっとっていうか絶対に、幸せにするよ。

 そう言ってこのリングを嵌めてくれた、懐かしい笑顔が脳裏に浮かぶ。恐れを知らない快活な言葉が、ともに叶えてくれる未来を信じていた。

「淳平……」

 消え入りそうな呟きが漏れる。

 早川淳平。同い年で同期採用だったこの男を、佐知子はそれまでに出会った誰よりも深く愛した。県警捜査一課の刑事として日夜走り回っていた頃、思えばずっと彼が近くにいてくれた。正義感溢れる有能な刑事で、人当たりもよく周囲の評判も上々だった。そして佐知子を、同僚としてもそうだが、異性としても誰より理解し愛してくれた。

 しかし、同時に恐れてもいた。怖いもの知らずで、なりふり構わずに突っ走る彼の気性を人として好ましく思う反面、不安に駆られることもよくあった。理想とされる警察官像を絵に描いたような彼は、いつか己の力では打ち破れない闇にぶつかるだろう。その時、持ち前の正義感が仇となって、取り返しのつかない事態へ発展してしまうのではないか。

 その思いは佐知子だけではなく、彼をよく知る同僚たちも一緒だった。ただ、本人に面と向かって言わないだけだ。そんな不安や危惧はいつも抱いていたが、万が一の事態が起きた時は、持てる力の全てを使って助ければいいと思ってやり過ごしていた。

 ただ、その万が一が本当に起きてしまうとは思ってもいなかった。

 徐々に短くなっていく煙草を見つめ、佐知子はゆっくりと紫煙を吸い込む。癖になるが健康にはよくない味が、眠りを拒否する思惟の覚醒をかろうじて保ち続ける。あとどのくらいで夜が明けるだろう。待ち遠しい気もするが、永遠に夜のままで構わないとも思う。

 佐知子は煙草を口から離し、小さく声を立てて笑った。森上が告げた些細な言葉に、自分でも意外なほど打ちのめされている。

 本音を言うなら、素性を調べた時から森上本人とは会いたくなかった。彼の顔写真を見た時、心の傷を覆っていたかさぶたを勢いよく剥ぎ取られた気がしたからだ。

 同時にその時、思い知らされてしまった。忘れたつもりでいても、実は片時も忘れていなかった。早川淳平という男を愛し、彼を失った痛みと悲しみは、三年という時が経った今でも鮮やかに残っている。ただ、それに何とか折り合いをつけようと、目を逸らし続けていただけのことだった。

 嫌だったのだ。森上と会うことで、淳平はもうこの世にいないと痛感するのがたまらなく嫌だった。淳平の死を未だ認められずにいる佐知子には、たまたま彼と瓜二つの男に会う勇気すらなかった。仕事に私情を持ち込んで情けないとは思ったが、やっと癒えかけた心のかさぶたに触れられるよりは、調査員失格と言われるほうが何十倍もましだった。

 だから、森上が自ら会いに来るなど想定外だった。ずっと隠し通してきた気持ちをいとも簡単に見抜かれ、触れられるなど思ってもいなかった。

「情けないなあ、あたし。ほんと、情けない」

 力ない呟きが口から漏れた。落としていなかった灰がはらはらと落ちる。佐知子は首から下げたリングに触れ、何気ない仕草で玩ぶ。

「誰にも、言ったことなかったのに」

 ──それが貴女の孤独ですか。

 静かすぎる声音で紡がれた言葉には、憐憫でも嘲笑でもなく、佐知子の心に寄り添う優しさがあった。言葉にならない感情が溢れ、返す言葉が見つからなかった。

 きっとあれを悲しみと言うのだろう。確かに森上の言うとおり、自分と彼はよく似ている。そう感じてしまった心を孤独と呼ぶのだ。できればそれを知らないままでいたかった。

 佐知子は深く嘆息した。短くなった煙草を煙草入れにしまい、床に落ちた灰は明日にでも掃けばいいと思うことにする。そろそろ眠ったほうがいい。目は冴え冴えとしていて、眠らずとも体はきっと機能するだろうが、三日連続それだとさすがに仕事に支障を来す。

 部屋の隅に敷かれたマットレスに近付こうとした瞬間、リビングからファックスが鳴り響く音が聞こえた。

 佐知子は息を詰めて神経を尖らせる。足を止めると腕時計を確認し、先程にはなかった緊迫した表情で、懐に入れていたイヤホンを耳に当てた。



 灯りを消した暗闇の中で、あおいは天井を見つめていた。蛍光塗料が塗られた目覚まし時計の針は一時半を指している。

 リビングのファックスが唐突に鳴った。あおいはびくりと瞼を震わす。手で腹を押さえながら起き上がり、緩慢な動作でリビングに向かう。

 電気の点いていないリビングを忍び足で歩き、呼出音とともに光るファックスに辿り着く。そしてコードレスの受話ボタンを押し、息を潜めながら耳に当てた。

〈あおいか〉

 あおいは息を呑んで瞠目した。

〈あおいだな〉

「お父様……。どうして、こんな時間に」

〈尋ねるな。お前に問う権利はない。お前はただ私の言うことを、何も訊かずに是と答えればよいのだ。今、お前は一人か〉

「……はい」

〈そうか。ならば好都合。お前に任務を命じる〉

「え……」

〈森上智彦による傷が癒えてなくとも可能な任務だ。杉原尋人を殺せ〉

「……え」

 あおいは目を見開いた。

「お父様。今、何て……」

〈杉原尋人を殺せと言ったのだ。かの少年は今、お前の部屋を頻繁に出入りしているのだろう。隙を見て息の根を止めることぐらい、造作もないはずだ〉

「お父様、それは」

〈否は許さん。お前が答えるべき言葉は是。それ以外は存在しない。逆らえばこちらで手を回し、杉原尋人のみならず、その家族をも皆殺しにする〉

「そんな!」

 声を上げた瞬間、あおいは顔を歪めてしゃがみ込む。腹に手を当てて唇を強く噛み、呻くように息を吐いて喘いだ。

〈私の命は絶対だ。分かっているな。返答は行動で示せ〉

 ぶつりと音を立てて電話が切れる。室内が再び闇と沈黙に満ち、あおいはコードレスを握り締めたまま硬直した。

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