第11章 狂いゆく命運

 細やかな雨の音が夜を濡らす。

 コードレスを握り締め、あおいは全身を震わせた。呼吸が喘鳴になり、瞼から溢れた滴が頬を伝い落ちた瞬間、背後でかちゃりとドアが開く音がした。

 あおいはびくりと振り返る。すると、闇一色だった室内にオレンジの光が薄ぼんやりと灯った。

「だめじゃない、床に座ったままじゃ。傷に障るわ」

 ソファの側にあるランプの傘に、佐知子が軽く片手をかざしていた。

「さ、ちこさん……」

 佐知子はランプから手を離すと、柔らかな微笑をあおいに向ける。

「佐知子さん。さっき、父が。あ、あたし……あたしっ」

「落ち着いて。事情は分かってるわ」

「え……」

「悪いけど、さっきのあなたとお父様の会話は盗聴させてもらったわ。あなたには言ってなかったけど、この部屋には盗聴器が仕掛けてあるの。リビングとあなたの寝室、それとファックスとコードレスに」

 あおいはコードレスと佐知子を交互に見つめる。佐知子は悪戯っぽく笑ってみせた。

「気付いてなかったでしょう?」

「いつの、間に……」

「深手を負ったあなたが眠ってた間に。尤も、知ってるのはあたしと部下だけ。尋人には言ってないわ。あなたはともかく、尋人に知られたらいろいろと面倒だからね。こちらの手の内を、相手に勘付かれたくなかったの」

 腰に手を当てた佐知子は、あおいを見下ろしながら淀みなく語る。

「父に尋人を……尋人を殺せと言われたんです。逆らえば、尋人の家族を皆殺しにすると」

「ええ、分かってるわ」

「あたし、そんなことしたくない。もう誰も、誰も殺したくないんです。でも、あたしがしなければ、尋人だけじゃなく、雪花や佐知子さんまで……!」

「ええ、分かってる。だから落ち着きなさい、あおい」

 佐知子はあおいの体を支え、半ば無理やり床から立ち上がらせた。

「こうなることは最初から分かってたわ。あなたには言わなかったけど、《ヴィア》がこのまま尋人を放っておくとは思ってなかった。あなたのお父様にとって、尋人は目の上のたんこぶ。暗殺者のあなたを惑わせる邪魔な存在だもの。いずれ何らかのアクションを起こすと思って、今まで静観してたのよ。その機会を逃さないために、盗聴器まで仕掛けてね」

 佐知子はあおいをソファに座らせると、腰に片手を当てたまま彼女を見下ろす。その顔に笑みはなく、剣呑に光る瞳で切り出した。

「やっとチャンスが巡ってきたわ。手を組みましょう、あおい」

「え……」

「《ヴィア》は本気よ。あなたが動かなければ、すぐにでもあたしや尋人に刺客を差し向けてくるでしょう。あなたがお父様の命令を拒絶しても、事態は何も変わらない。かといって、従ったとしても《ヴィア》は杉原家の人間を殺しに来る。彼らにとってあたしたちは、いつかは処分しなきゃいけない邪魔な存在。要は選択肢なんて最初からないの」

「そんな」

「でも、あたしはじっとしてる気なんてない。これを利用して蜂の巣を突つく。そして飛び出してきた蜂を一匹残らず確実に叩いて、いずれは巣そのものも粉々に潰してやるわ」

「飛び出してくる蜂は、どれだけの数か分からない。……もしも刺されたら、どうするんですか」

「数えるより先に叩けばいいのよ。いずれ出てくるであろう女王蜂もね。……ああ、でもこの場合、女王という言葉はそぐわないかしら」

 くすくすと佐知子は笑う。

「あなたが《ヴィア》に従う必要はない。あたしの力をもって誰も殺させないわ。あなたはそれを、ただ見ていてくれるだけでいいの」

「見ている、だけ……?」

「言ったでしょう。あなたの依頼を受ける代わりに、あなたを利用させてもらうと。幸い、こちら側の準備は滞りなく進んでいるわ。あくまで水面下での話だけどね」

「準備……?」

「ええ。手に入れたのよ。あなたの他にもう一つ、《ヴィア》を潰すための切り札をね。今あたしたちは、極秘裏に準備を進めているところ。遠からず対決の日がやってくる。その時は切り札の一つとなって力を貸してほしいの。それがあなたの望みを叶える、一番の近道になるはずよ。あなたはお父様と決着をつけることで、あなた自身を取り戻す。あたしは《ヴィア》を潰すことで、あたし自身の過去に決着をつける。あたしとの約束、忘れたわけじゃないわよね?」

 あおいは何度も頷く。

「なら、答えは一つのはずよ」

 佐知子はあおいに手を差し出した。

「手を組みましょう、あおい。あたしたちの力で《ヴィア》を潰すの」

 あおいはしばしの間、佐知子の澄んだ肌色の手を見つめる。小雨の音が紛れる沈黙の中、あおいは唇を結んで表情を引き締めた。



 玄関の扉を開けた途端、雨音のボリュームがざあっと上がった。

「よっ」

 気さくな笑顔で片手を挙げる尋人に、パジャマ姿のあおいはぱちぱちと目を丸くする。

「あ、もしかして寝起き? だったらごめん。びっくりしたよな」

 あおいは頭を振った。

「だい、じょぶ。少し、横になってただけ」

 あおいがそう言うと、尋人はほっと頬を緩める。

「傷はどう?」

「大丈夫。塞がったみたい。まだ時々痛むけど」

「熱は?」

「少し、あるかな。あたし、元々体が丈夫じゃないみたい。すぐにしんどくなっちゃうの」

 尋人は心配そうに眉をひそめ、手を伸ばしてあおいの額にぴたりと触れた。

「確かにまだちょっと温いな。横になってたほうがいいかも。もうしばらくおとなしくしてよう。いるものがあったら美弥さんに言えばいい。すぐ買ってきてくれるよ」

「ごめん、立ってばかりだったね。上がって」

「いや、今日はここでいいよ。俺もすぐ戻らなきゃいけないんだ」

 あおいは首を傾げる。

「明日と明後日、センター試験だから。いくら進学先が決まってるから大したことないって言っても、さすがに本腰入れて勉強しないとまずい」

「そっか……。大事な試験なんだよね。なのにわざわざ」

「いいんだ。俺もあおいの顔が見たかったから。心配だったし、ここ何日か会えてなかったろ? またしばらく来れないけど、試験の時以外、携帯はずっと入れてるから。何かあったらいつでも連絡しろよ。すぐに来るから」

「ありがとう」

 尋人は持っていたショップバッグをあおいに渡した。

「これ、雪花から。見舞いだって」

「え?」

「ぬいぐるみ」

 ピンク色をした不織布のバッグに、包装紙で包まれた小さな物体が入っている。テープを剥がして開けてみると、赤いハートを抱いた白ウサギのぬいぐるみが現れた。

「一応学校には、あおいは病気が再発して遠方の病院に入院中で、今のところ面会謝絶って言ってあるんだ。おおっぴらにできない事情があるから、嘘も方便ってことでさ。雪花にもそう言ってあるんだけど、あいつ、君のことをものすごく心配しててさ。直接の見舞いが無理なら、せめてこれを届けてくれって」

 あおいは愛嬌のある目をしたぬいぐるみに目を落とす。

「自分もお揃いで買ったって言ってた。よかったらどこかに飾ってやって」

 あおいはぬいぐるみと尋人を交互に見て、

「……あたし、雪花に嫌われてると思ってた。随分会ってないから、もう忘れられてると」

 急に涙ぐんだあおいにぎょっとして、尋人は慌てふためいた。

「ああ、いや、そんなことないと思うぞ。あいつ、あおいのこと結構心配してるし、今日は持ち直したのか、大丈夫なのかってしょっちゅう訊いてくるし。まああれだ、事が全部片付いて、また学校に通えるようになったら、その時は仲良くしてやってくれ。若干空気読めないけど、弁えを知らない子じゃないから」

 あおいは白ウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱き締め、

「雪花に、ありがとうって伝えて。大事にするって」

 尋人は涙を堪えて笑うあおいに頷くと、

「じゃあ俺、行くわ。また」

 尋人は玄関のドアノブを握り、そのまま外へ出ていこうとした。

「尋人」

 呼ばれた尋人が、すぐにあおいを振り返る。

「ん?」

「……ごめん、何でもない」

「そう? じゃあまた。無理はするなよ」

 尋人はあおいに軽くキスをすると、手を振りながら颯爽と出ていった。扉が閉まり、明瞭だった雨の音が遮られる。

 あおいはぬいぐるみを抱いたまま、しばらく玄関に立ち尽くしていた。



 その日もいつもと変わらない、ただの平日の夕暮れだった。

 学校帰りの雪花は制服姿のまま、友人の三人とアイスクリーム屋に寄り道をした。新作フレーバーを皆で試しながら、とるにたらない会話の数々に花を咲かせる。食べ終わってからも一時間以上は話し込んでいたことに気付いた時、お気に入りのピンクの腕時計は夜の七時を廻ったところだった。

 門限があるからと急にそわそわし始めた友人たちを、雪花は駅まで見送りに行った。「また明日!」と手を振った彼女たちの姿が、改札の奥へ消えたのを確かめた後、駅前をとてとてと歩きながらどうしたものかと考える。

 思っていたより遅くなってしまった。このまままっすぐ家に帰ろうか。でもこの時間に帰ったら、心配した母に帰りが遅いと小言を食らうだろう。母が嫌いでも、家に帰りたくないわけでもないが、何となくそれは嫌だと思った。

「……お姉ちゃんのとこにでも寄るかな」

 何気なしに呟いた雪花だったが、その名案に思わずぱんと手を叩く。

「そうだ、お姉ちゃんの事務所に行こう! 美味しいものご馳走してもらえるかも!」

 放課後に友人と遊んで遅くなった時、雪花はたいてい姉の佐知子の元を訪ねる。近くのファミリーレストランで夕食を奢ってもらえるし、何かと小言の多い母も、佐知子と一緒に帰ると叱ってこない。佐知子自身も小うるさい人ではないから、妹がふいに来訪しても怒らず気さくに迎えてくれる。

 人通りの多い国道沿いを歩きながら、雪花はさっそく携帯電話で佐知子に連絡した。

「あ、お姉ちゃん? あたし、雪花。ねえ、今からそっち行ってもいい? え、何でって? そりゃあお姉ちゃん、決まってるじゃん。お姉ちゃんとお喋りしたいからだよ!」

 我ながら、なかなかいい理由を思いついたものだ。電話の向こうで佐知子は忙しそうにしていたが、渋ることなくあっさりと許してくれた。

「本当? やったあ! じゃあ、お母さんにはあたしから電話しておくね。ねえねえ、お姉ちゃん。あたし、晩ご飯まだ食べてないんだ。お仕事終わったら連れてってよ!」

 雪花の少し高いはしゃぎ声に、道行く人々がちらりと視線を寄越しては通り過ぎる。だが当の本人は全く気付いておらず、

「どうせ尋兄ちゃんは受験勉強でしょ。明日センター試験だし、最近構ってくれなくて寂しいんだー。健兄ちゃんは相変わらず夜遅くて、最近なんか全っ然顔合わせてないし。あたしの話し相手って、お母さんかお姉ちゃんしかいないんだよねー」

 電話の向こうからは、佐知子の適当な相槌しか返ってこない。「じゃあこれから向かうね!」と電話を切った時、最後まで疲れた気配の姉が少し引っ掛かったが、さほど気に留めないことにした。

 佐知子が経営する調査事務所は、駅から伸びる大通りを十分ほど歩いたところにある。人気は勿論、車通りも多い場所なので、この時間に出歩くと言っても両親が心配しない唯一の寄り道先だ。

 雪花は正鞄をぶらぶらと振りながら、鼻歌を口ずさんで歩道を歩いた。真冬の夜は底冷えみたく寒いが、ダッフルコートとマフラーで防備しているので気にならない。ローファーの靴音を響かせ、雪花は上機嫌で事務所を目指した。

 浮ついた足取りで行っていた雪花は、ふと立ち止まって後方を振り返る。気付けば周囲に人影はなく、時折車が音を立てて走り過ぎていくだけになっていた。

「……何か今日、人少ないな。さっきまで誰か通ってたと思うんだけど」

 小首を傾げてひとりごちるが、結局大して気にすることなく歩き出す。横断歩道の信号は赤だったが、車が一台もいないのをいいことに、無視して渡ってしまうことにした。

 小走りで横断した雪花は、渡り終えたその瞬間、目の前に人影が現れたことに驚く。

「わっ!」

 思わず声を上げて立ち止まり、かろうじてぶつからずに済んだ。雪花はほっと胸を撫で下ろし、自分を見下ろしてくる人影を仰ぐ。

「すいません、前見てなくて」

 自分より頭二個分は高いその男性は、暗がりのせいか顔がはっきりと見えない。それを特に不審に思うこともなく、雪花はその脇をすっと通り抜けようとした。

 次の瞬間、横から伸びてきた手が雪花の襟首をぐいと掴んだ。

「わあっ」

 体が後方へ急激に傾ぎ、体勢が保てなくなる。引き倒されたと気付いた時には、雪花は路上に全身を強くぶつけていた。無意識に頭を庇って下敷きにした腕と、ぶつけた膝小僧が強烈に痛む。雪花はよろめきながらも立ち上がると、投げ出した正鞄を拾うなりすぐ横の路地へ一目散に逃げた。

 そこは普段はまず通らない、恐ろしく人気がない路地だ。両脇にある店舗はどれもシャッターを下ろしていて、その先に建ち並ぶ古ぼけたアパートにも灯りはない。

 すぐ後ろに誰かが迫ってくる。雪花は腕と足が絶えず痛むのを我慢しながら、持てる力を総動員して走った。だがそのうち足がもつれ、びたんと大の字になって転んでしまう。アスファルトに叩きつけた両膝に、叫びたいほどの激痛が駆け抜けた。

 雪花はよろよろと起き上がろうとする。しかし追いついてきた男にすぐさま阻止され、乱暴に髪を後ろへ引っ張られた。払いのけようともがくも、浮かしかけた体をそのままだんと地面に叩きつけられる。

 抵抗しようと空を掻く両手を、もう一人の男が即座に掴む。馬乗りになった男が雪花の口を塞ぎ、顎に黒光りした何かを突きつけた。その正体を本能で悟った雪花は、両手足を必死にばたつかせようとする。だが、動きを封じる大の男たちにはとても敵わない。

 かちゃりと不気味な音が鼓膜に触れる。息苦しさで意識が朦朧としてきた雪花は、もうだめだと覚悟を決めかけた。

 その時、乾いた音が空気を裂いた。それと同時に両手が自由になり、雪花に跨る男がぎょっと背後を振り返る。すると、不意を突かれたその体が横から勢いよく蹴り飛ばされた。男たちから解放された雪花は、痛みに耐えながら起き上がって緩慢に周囲を探る。

 唐突にぐいと右腕を引かれ、雪花は驚いて悲鳴を上げた。

「大丈夫。怖がるな」

 想像よりも柔らかい声で告げられ、雪花は先程とは違う意味で驚いた。いつの間にか雪花の前に、革のダウンジャケットを着込んだ少年が立っている。彼は雪花を立ち上がらせると、うずくまる男から離れるように数歩下がる。そして己の背後に雪花を隠した。少年が右腕を解放するなり、雪花は膝の痛みに負けてまた地面に崩れ落ちる。

 少年は雪花の前に立ち、すっと銃を構えた。暗闇でもはっきり見えるその銃身に、雪花はひっと竦み上がる。

「大丈夫。俺の後ろに隠れてろ。目を閉じて耳を塞げ。俺がいいって言うまで、そのまましゃがんでろ」

 雪花は彼の言われたとおりにした。ぎゅっと縮こまり、両手で両耳を力一杯塞ぐ。

 次の瞬間、乾いた音が連続して轟いた。それが銃声だと察した雪花は、体をさらに小さくして引き攣れた悲鳴を上げる。全身ががたがたと震え、きつく閉じた瞼が涙の熱に炙られる。

 静寂が完全に戻りきると、少年はふうっと息を吐く。そのあまりに軽やかな仕草が、雪花にはかえって恐ろしく思えた。

 少年は拳銃を握ったまま、背後で小さくなっている雪花の肩に手を置いた。

「終わった。もう大丈夫だ」

 雪花は恐る恐る顔を上げる。目だけを動かして周囲を窺うと、五人の男が手足を投げ出して倒れているのが見えた。

「ああ、見ないほうがいい」

 少年は雪花の視界を遮るように体をずらす。

「あ、あたし……どうして」

「君を襲おうとした輩だ。俺が全部片付けた。だからもう心配ない。立てる?」

 差し伸べられた手を取って、雪花は何とか立ち上がることができた。

「ひどい怪我だな。両膝、擦り剥いて血だらけだ。でも大丈夫。撃たれてはいないだろ?」

 雪花はこくこくと頷く。そして、初めて少年と向き合った。

 端正な顔立ちの少年だ。ところどころ跳ねた茶髪に、細身だが、骨格がいいとすぐに分かる体つき。身長も雪花より頭一つ分は高い。そのどこか幼さの残った笑顔は、つい先程命の危険を退けた人間のものとは思えない無邪気さで、次兄の尋人と変わらない年頃であるように見えた。

「怖かったろ」

 少年は努めて優しく雪花を気遣う。

「巻き込んで、悪かったな」

 慰めるような彼の笑顔に、抑えていた恐怖が途端に溢れ返った。雪花は顔をくしゃくしゃに歪め、少年のダウンジャケットの裾をきゅっと握る。少年は肩を震わせながら泣く雪花に、最初こそぎょっと困惑していたが、やがて躊躇いがちな指でその髪に触れると、

「もう大丈夫。怖かったろ。ごめんな。でも、無事でよかった」

 その言葉を聞いて、雪花の中で緊張の糸がぷつりと切れた。雪花は顔をさらにぐしゃぐしゃにして、彼の裾を掴んだままわんわんと泣いた。少年は困惑極まれりといった顔をしつつも、それ以上何かを言うことはせず、雪花の髪をただ不器用に撫で続ける。

 遠くから何度か、雪花を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、横断歩道で佐知子が雪花を何度も呼びながら捜している。

「迎えが来た。もう大丈夫だな」

「え……」

 少年は雪花の髪から指を離し、足早にそこから去っていく。雪花はぽかんとしていたが、我に返ると慌ててその背に手を伸ばした。

「あ、ねえ待って! あなたは」

「雪花!」

 再び名前を呼ばれ、雪花はつい後方を振り返る。甲高いヒールの音とともに、青ざめた佐知子が駆け寄ってきていた。

「大丈夫? 雪花! 怪我は」

 雪花の両肩をがしと掴んだ佐知子は、派手に血が滲んだその両膝を見て息を呑む。

「いったい何があったの? 銃声がしたから来てみれば」

 姉が来てくれたことに安堵した途端、張り詰めていた最後の糸がぶちっと切れた。雪花は驚愕の消えない佐知子の胸に縋りつき、絶叫と紛う激しさで号泣した。



 すぐ近くの路地で見つけた雪花を、佐知子は調査事務所へ連れ帰った。えぐえぐと泣き止まない雪花を所長室のソファに座らせ、大きく擦り剥いて肉が見える両膝を手当てしながら事情を聞き出す。

 一時間ほど経ってようやく落ち着いてきた頃、佐知子から連絡を受けた健人が所長室に駆け込んできた。それでさらに気が緩んだらしい雪花は、長兄の姿を見るなりまたぼろぼろに泣き崩れた。

 健人は事の経緯を確認するよりまず、壊れたように泣く末妹を力一杯抱き締めた。

「大丈夫だ雪花、怖かったな。兄ちゃんか来たからもう大丈夫だぞ」

「し、知らない人がいきなり襲いかかってきて。逃げても逃げても追いかけてきて、こ、怖かった……怖かったよぅ」

 雪花はぐすぐすと鼻を啜りながら、もつれる舌で健人に必死に訴える。

「じゅ、銃みたいなの突きつけられて、あたしもう訳分かんなくて。悲鳴を上げたくても口塞がれても、ものすごい苦しくて……。死んじゃうと思った。死んじゃうかと思ったあ」

 当時の恐怖が蘇ったのか、雪花は一層激しく泣き濡れる。健人は彼女をしっかりと抱いて、「大丈夫だ、もう怖くないぞ」と根気強く宥め続けた。雪花は健人にひしと縋りついて、なかなか離れそうにない。

「怖かったな、雪花。でももう大丈夫だ。兄ちゃんも来たし、お姉ちゃんも助けてくれただろ。もう怖いことなんて起きないぞ」

 泣き止む気配のない末妹を、健人は辛抱強く慰め続ける。滅多なことでは泣かない雪花が、ぜえぜえと声を枯らして泣く姿を見て、佐知子の胸もいつになく痛んだ。

 所長室のドアが遠慮がちにノックされる。すると、雪花を抱いたままの健人が剣呑な視線を扉に投げた。佐知子はそれを目で諌めると、「どうぞ」と答えて入室を促す。

 現れたのは、事務員の美弥と尋人だった。雪花の一件を家に連絡したところ、佐知子より青ざめた様子の母が、尋人を事務所へ寄越すと言ってきたのだ。

「雪花!」

 ひどく強張った顔の尋人が呼ぶと、雪花は一瞬だけ泣くのをやめて振り返る。健人は雪花を離し、

「ようやっと来たか。遅いぞ、このばか」

「ごめん。タクシーで来たんだけど、道が少し混んでて」

「尋兄ちゃん!」

 立ち上がろうとしてよろめいた雪花を、慌てて駆け寄った尋人がすかさず支える。雪花はそのまま尋人の胸にしがみつき、

「うわあああん! 怖かった、怖かったよ尋兄ちゃん!」

「大丈夫か? いったい何があったんだ。母さんから、暴漢に襲われたって聞いたけど」

 掻い摘んだ事情しか知らない尋人に、泣いてそれどころではない雪花に代わって、ソファに座る健人が不機嫌そのものの顔で答えた。

「ああ、たちの悪い奴だ。銃で脅してきたんだと」

「銃?」

 健人の言葉に、尋人は愕然と呟き返す。

「雪花、怪我は?」

 雪花は尋人の胸に顔を埋めたまま首を振り、

「だ、大丈夫。転んだ時に擦り剥いただけ。お、お姉ちゃんに手当てしてもらったの」

 いつも無邪気な彼女らしくない、可哀想なまでに震えた涙声だ。尋人は唇をぎりと噛み、

「とにかく無事でよかった。知らせを聞いた時は、ほんと……」

 しゃくり上げる雪花の頭を撫で、尋人は佐知子に視線を向ける。それを受けた佐知子は片手で軽く髪を掻き上げながら、

「尋人。来た早々悪いけど、雪花を連れて帰ってくれない? 家まで美弥に送らせるから」

「姉さんたちは?」

「あたしと健人は、今から大人の話をするわ」

 尋人は神妙に頷くと、雪花の肩を抱いて扉に向かう。そして、すぐ側で控えていた美弥に先導され、二人して所長室を出ていった。

 三人の気配が遠ざかり、二人だけになった室内に、先程とは違う色の緊張が立ち込める。佐知子は懐から煙草を出し、口にくわえるとライターで火を点けた。ソファで足を組んでいた健人が、いつになく険しい顔でそれを咎める。

「おい、呑気に吸ってる場合か」

「吸わなきゃやってらんないのよ」

「何だと。てめえ、ぬけぬけと」

「喧嘩腰にならないで。余計頭が痛くなるわ」

 雑にあしらわれた健人が、さも腹立たしそうな舌打ちをする。佐知子はブラインドの下りた窓から離れ、やや乱雑なデスクの端に浅く腰掛けた。

「雪花があんな目に遭ったんだぞ。なのにお前は平然としやがって」

「冷静になってると言ってちょうだい。あたしまで怒ったらどうにもならないでしょう。雪花の不安を煽るだけだわ」

 凄んでも無駄と悟ったのか、健人は深々と嘆息して佐知子を睨む。

「答えろ。なぜ雪花が襲われた」

 煙草を吹かしてすぐには答えない佐知子に、健人は怒気だけでなく殺気をも孕ませてさらに凄んだ。

「お前、知ってるんじゃないのか。大の男が銃片手に、中学生のガキ相手に五、六人がかりで襲いかかるなんて、単なる暴漢の所業とは思えん」

「ええ、そうでしょうね。尤もその大の男五、六人は、雪花を助けたらしい少年が全員片付けていってくれたけど」

「何?」

「撃たれそうになったところに突然現れたらしいわ。あの子の話によると彼も銃を持っていて、雪花を助けるために、そこにいた全員を撃ち倒したそうよ。雪花は彼に言われるまま目と耳を塞いで、詳細は目撃してないそうだけど」

 泣くのに必死だった雪花からは聞けていなかった事実を知って、健人の瞳がこれ以上ないほど愕然と見開かれる。彼はガラステーブルをがんと殴りつけた。

「なぜだ。なぜ俺の家族が……雪花がそんな目に遭わなきゃならない。いったいどこのどいつが、そんなふざけた真似を……!」

 烈火の如く燃え盛る怒りを隠そうともしない健人は、憎々しげに声を震わすと佐知子を睨みつけた。

「お前、知ってるんだろう」

 佐知子は煙草を吹かしたまま、視線も合わさず答えない。

「しらばっくれんなよ」

「隠してるつもりはないわ。ただ、言おうかどうか迷ってるだけ」

「迷う? 何をだ」

 問い詰めようとした健人が、何かに気付いた顔ではっと息を呑む。

「まさか、《ヴィア》が絡んでるのか?」

「こちらも想定外よ。いろいろと固めつつあったけど、まさか雪花にまで危害が及ぶなんて。あらゆる事態を想定し損ねたあたしのミスだわ」

「佐知子、てめえ……!」

 健人は射殺さんばかりの眼光で佐知子を責める。その圧の強さに負けた佐知子は、煙草を灰皿に押し潰すと両手を挙げて降参した。

「分かった。話す、話すわ。もうこれ以上は隠し切れないでしょうし」

 諦め顔で嘆息する佐知子に、健人は剣呑なしかめ面を崩さない。気疲れが倍になるから凄まないでほしいという本音を隠し、佐知子は一連の出来事を詳らかに語って聞かせた。健人は厳つい眼光で両膝に肘を突き、途中で口を挟むことなく佐知子の話に耳を傾ける。

 全てを語り終えた佐知子は、口が寂しくなって二本目の煙草に火を点けた。

「……つまり、こういうことか」

 健人は目元の険と眉間の皺を深くして、努めて冷静に話を整理する。

「俺が依頼した事件の犯人は、水島あおいとかいう十七歳のガキだった。そいつは《ヴィア》の娘で、あろうことか尋人と付き合い始めた。人並みに戻ろうとした娘の目を覚まさせるために、《ヴィア》は俺たち杉原家の人間にも照準を向け、見せしめにまず何も知らない雪花を狙った」

「ええ」

「お前はそれを全部把握していた。把握した上で、俺に黙っていた」

 佐知子は相槌を打たずに、そこだけは渋面で黙り込む。

「なぜだ。なぜ今まで黙ってた。一人で片付けられるヤマだとでも思ったか。今のお前は刑事じゃない。ただの民間人だ。民間人が仕事で扱う範疇を明らかに超えてるだろう」

 健人の語調が、熱を帯びてみるみる荒くなっていく。

「お前なら分かってたはずだ、これがどれだけ危険なヤマか」

「ええ、分かっていたわ」

「なら、なぜ手を引かなかった。なぜもっと早いうちに、俺たち警察を頼らなかった」

 冷静にと思っていても、どうにも感情を抑えられなくなるのだろう。予想はしていたが、健人の言葉の後半は明らかに詰問ではなく叱責だった。

 居心地の悪い沈黙の後、佐知子はあえて反省の見えない気丈さで返す。

「チャンスを逃したくなかったの」

「何がチャンスだ。世の中には選んでいいチャンスと、捨てるべきチャンスがある。小学校のガキじゃあるまいし、お前にその分別がつかないわけないだろう」

「チャンスはチャンスよ。捨てるべきチャンスなんてそもそも存在しないわ。元よりあたしは、手段を選ぶつもりなんて初めからなかった」

「《ヴィア》に近付くための橋なら、探せば他にいくらでもあるだろう。なぜこんな危険な橋にした」

「一番手っ取り早いからよ。チャンスの神様は、前髪を掴み損ねると二度と同じものには巡り会えない。危険だからどうとか言って、選り好みしてる場合じゃないの」

 健人は突然ソファから立ち上がると、平然と言ってのける佐知子から煙草を乱暴に奪い取った。

「いい加減にしろ! 命の危険を天秤にかけて得たチャンスに、価値があると本気で思ってるのか! なぜ今まで言わなかった。一人で勝手に危ない橋渡りやがって。下手したら雪花だけじゃなく、お前まで死んでたかもしれないんだぞ!」

 本気の形相で怒鳴られ、佐知子は返す言葉を見失う。煙草を奪われた指がぶらんと力なく下がった。

 健人は灰皿に煙草を押し潰し、苛立ちを抑えようとしてぐしゃぐしゃと頭を掻く。そしてソファに座り直すと、

「その水島あおいってガキを、今すぐここに呼べ」

「……呼んでどうするの?」

「俺が自白させる。自白させて、殺人容疑で逮捕する。尋人とも別れさせる」

「それは無理よ」

「なぜだ」

「尋人はもう全部知ってる。あおいが《ヴィア》の娘ってことも、何人もの人間を殺めてきたことも全部。あの子はあおいの身の上も、その罪も全部承知の上で傍にいるって決めたの。あなたがどう言ったって尋人は揺らがないわ。それに、あおいはもう《ヴィア》には従わない。あの子はあたしに協力すると言ってる。その約束があるからこそ、あたしはあの子の依頼を受けたの」

「それを破らない保証がどこにある。いつ掌を返すか、分かったもんじゃないだろう」

「あの子は裏切らないわ、絶対に」

 健人はぎろりと佐知子を睨む。

「会ってみれば分かるわ。あおいは純粋な子よ」

「けっ。暗殺者のガキに、純粋もクソもあるかよ」

 健人は考える余地なしと言わんばかりに吐き捨てる。佐知子は薄く微笑むだけで、それ以上は言わなかった。

 その態度に不機嫌が倍増した健人は、乱暴な舌打ち一つでそれを抑え込むと、昂った気を紛らすために煙草を取り出す。そして、紫煙を深々と吸ったことで少しは冷静になれたのか、先程よりも幾分か落ち着いた口調で切り出した。

「佐知子。お前、もうこれ以上ヴィアには関わるな」

 彼に倣って煙草をくわえた佐知子は、深刻な響きの言葉を軽く笑い飛ばす。

「笑い事じゃねえ。俺は本気で言ってるんだ」

 即座に語気を荒げた健人につられ、佐知子の表情がすぐにほんの少し強張った。

「今回のことはあたしの誤算が招いた結果よ。反省してる。明日から雪花と尋人には護衛をつけるわ。もう二度と、こんなことは起こさせない」

「それを言ってるんじゃねえ。確かにそれもあるが、俺が今言いたいのはそういうことじゃない」

「じゃあ何?」

 苛立ちの滲む響きで返され、健人は言葉を選ぶように少し黙る。

「お前、ここんとこ様子がおかしかったろ」

「え……」

 思いがけない角度から飛んできた指摘に、佐知子は虚を衝かれてつい戸惑う。

「気付いてないとでも思ってたのか、このばかが。いったい何年、一緒に暮らしてると思ってるんだ」

 佐知子は健人に背を向けて煙草を吹かす。健人は灰皿に煙草を押し捨てると、その腕をぐいと掴んで自分のほうに向き直らせた。

「もう《ヴィア》を追うのはやめろ」

「……嫌よ」

 その言葉には、いつもの気丈さが欠けていた。健人は佐知子の両肩を強く掴み、逃れようと揺れる瞳をまっすぐ見据える。

「お前の気持ちは分かる。《ヴィア》を潰したい気持ちも、奴らを憎む気持ちも。だが、いい加減分かれ」

 その先を聞きたくない佐知子は、健人の手をぱんと振り払った。しかし健人は構わず佐知子の両肩をまた掴み、真正面から容赦なく現実を突きつける。

「そんなことをしたって、淳平はもう戻っては来ないんだ」

 佐知子は健人の手をばしんと払いのけ、嫌悪感を露わに言い返す。

「そんなこと分かってる」

「いいや、分かってない」

「分かってるわよ!」

 佐知子は健人をどんと突き放した。健人は胸を突かれた痛みも、声を荒げられた動揺も全く見せない。

「そんな当たり前すぎる正論で、全部から手を引けって言うの? 復讐は何も生まない、ただ憎しみと悲しみを連鎖させるだけだって。だから全て忘れて、憎むよりも許して生きろって、そう言いたいの?」

「違う。そうじゃない。誰もそこまで言ってないだろ」

「じゃあ何よ!」

 佐知子はそれまでの冷静さを忘れて荒く喚いた。だが健人は怒鳴り返すことはせず、どこまでも静かに彼女の動揺を受け止める。それが佐知子の苛立ちをさらに煽った。

「俺が心配してるのはお前のことだ。そんな気休めにもならないこと、言うつもりはさらさらない。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」

「何!」

「お前が《ヴィア》にのめり込めばのめり込むほど、命が危険にさらされていく。それだけじゃない。きっと心が追い詰められる。たとえ《ヴィア》を潰すことができたとしても、それはお前の救いには繋がらない。ただずっと、いや、余計に苦しいままだ」

 その言葉を否定したくて、佐知子は顔を逸らして健人を拒絶する。健人はそれでも両肩から手を離さず、

「淳平の死がお前にどれだけの苦しみを与えたのか、俺には想像してもなお余りある。だがな、だからといってお前が自分を追い詰めるように奴らを追いかけたって、お前が救われることはないんだ」

「あたしは別に、自分が救われたくて《ヴィア》を追ってるわけじゃないわ」

「ああ、分かってる」

「あたしはあいつらが許せないの。憎んでも憎み足りない。どうしたって許せない。許せるわけない。だからあたしが」

「ああ、分かってるよ。だが、お前だって気付いてないわけないだろう。《ヴィア》に深入りすればするほど、お前は淳平の死以上の傷を負ってくことになるんだ」

「彼を失って、あたしがそれ以上にどんな傷を負うっていうの? 彼の死以上のことがこの世にあるの? あいつら以上に許されないものが、この世のどこにあるっていうのよ!」

「佐知子」

「許せないのよ、どうしても。納得できないの。淳平が死んだことも、《ヴィア》と《M‐R》が今ものうのうと存在してることも、何もかもが許せないの」

 健人はそれ以上の言葉で宥める代わりに、肩から手を離すと佐知子を強く抱きすくめた。唐突に生まれた感触が、激情に支配された佐知子の脳を音もなく止める。

「お前の気持ちは分かる。あの時側にいた俺が一番よく知ってる。だから言うんだ。《ヴィア》のことは俺に任せろ。俺は刑事だ。悪人を取り締まるのが俺の仕事だ。お前はもう、自分から傷つかなくていい」

 健人は半ば懇願するように、背中に回した腕に力をこめる。

「俺に任せてくれないか。お前の傷も淳平の死も、俺が決着をつけてやる。だからお前はもう、傷つかなくていいんだ」

 泣きじゃくる末妹を慰めたのと同じ優しさで、健人は佐知子をしっかりと抱く。その掌の温もりが佐知子の感情の荒波を収め、かつてこの愛情表現を何度もくれた、今は亡き恋人の記憶の片鱗を呼び起こした。

 延々と続く沈黙を断ち切って、佐知子は健人の腕の中で小さく頭を振る。

「……だめよ」

「何が」

「あたしが、やらなきゃいけないことだわ」

「なぜ」

 佐知子はすぐに答えられなかった。躊躇したのではない。本当に、継ぐべき言葉が見つからなかったのだ。

「それはお前が傷つくためか」

「違う」

「ならなぜ」

「……それが、あたしの望みだから」

 健人が顔をしかめたのが気配で伝わる。佐知子は一瞬挫けそうになるが、

「誰にも譲れないの。譲りたくないの。どうしてもあたしがやらなきゃいけない。たとえ何があっても」

「命を投げ出すのか」

「違う。あたしは死んだりしない、絶対に。あたしは死なない。誰も巻き込まないし、これ以上誰も傷つけさせない。あたしの力をもって《ヴィア》を潰すわ」

 だからお願い、どうか許して。やめろなんて言わないで。あなただけはあたしの味方でいて。

 そう続けようとしたが、とても声にはならなかった。

 どこまでも頑なな佐知子に、健人は根負けしたように嘆息した。

「お前はつくづく意地っ張りだな。素直じゃない女は嫌われるぞ」

「うるさい」

 佐知子は小さく返し、その広く逞しい胸板に額を押しつける。

「困った奴だ、本当に。俺が何を言っても聞きやしない」

 心の底から困ったように健人は言う。そこに非難の響きがないことが、行き場を失いかけた佐知子を少しだけ救った。

「一人で抱え込まないと約束しろ。無茶はするな。助けがいる時はいつでも呼べ。守れないなら俺も勝手にするぞ」

「……それは困る」

「なら約束しろ。でないと俺は、お前を離すことができない」

 張り詰めていた感情が、その一言で溢れかける。佐知子はぎゅっと瞼を閉じて、ぎりぎりのところでそれに耐えた。

 やがて僅かに頷いたら、健人が安堵とも呆れとも取れる長い息を吐く。その温度を鼓膜に感じ、佐知子はもう一度彼の胸に顔を埋めた。



 このマンションを訪れるのはいつぶりだろう。入口前に立って、亮太はそんなことを考えた。

「そんなに目まぐるしかったっけ、ここ二ヶ月」

 そう小さくひとりごちて、亮太はマンションの中に入る。エントランスに人気はなく、駐車場も含めて全体が閑散としていた。土日の午後というのは、こんなにも誰も出歩かないものなのか。亮太はそんなことをぼんやりと思いながら、非常口や監視カメラといった隅々にまで意識を張り巡らせる。

 エレベーターで六階まで昇り、足早にあおいの部屋へ向かう。インターホンを押してから、四十秒ぴったりでドアが開いた。

「よっ。久しぶり。元気してた?」

 思いがけない訪問者だったのか、あおいが目を丸くしている。亮太はにかっと笑ってみせると、素早く玄関に身を滑り込ませた。

「……どうしたの」

「見舞いだよ、見舞い。ここんとこ会えてなかったろ? 上がるよ」

 そう断ると同時に、亮太は靴を脱いで上がり込む。やや戸惑っていたあおいだが、その不躾さを咎めることはせず、ずかずかとリビングへ進む亮太の後をついてきた。

「その格好、もしかしなくても寝てた?」

「……どうして」

「そのグレーのワンピース、部屋着だろ? それに髪も跳ねてるし、まだ寝惚け眼」

 亮太はどさりとソファに腰を下ろす。すると、端のほうで毛繕いをしていた向日葵が驚いた顔で振り返った。亮太は向日葵を抱き上げ、両前足を掴んでだらんとぶら下げる。

「このちび、だいぶ大きくなったな。今で何ヶ月? まだ一歳にはなってないだろ?」

 あおいはテーブルに軽く凭れ、警戒の覗く瞳で亮太を見ている。亮太はそれに気付いていたが、あえて触れることはしなかった。

 向日葵はしばらくされるままになっていたが、やがて嫌そうに後ろ足をばたつかせる。亮太は己の両膝に仰向けで寝かせると、その腹を指先でこちょこちょと撫でてやった。向日葵はくすぐったそうに身をよじらせ、甘えた声で何度も鳴いてじゃれついてくる。そのあまりに素直すぎる反応に、亮太はついぷっと笑ってしまった。

「座れば? まだ体調、回復してないんだろ?」

「……今日は、どうしてここに?」

「見舞いとご機嫌伺い」

「あたしのこと、知ってるんでしょう?」

 亮太は少し驚いてあおいを見やる。

「へえ、随分と珍しい。単刀直入に言ってくるんだね」

「父か、竹田に言われて来たんでしょう?」

「小父さんは関係ないよ」

「じゃあ、竹田の指示?」

「いいじゃん、誰だって。俺が心配して見舞いに来ること、そんなにおかしい?」

 あおいは言葉に詰まったのか、ふいと亮太から目を逸らす。亮太はなおもじゃれてくる向日葵の相手をしながら、

「怪我の具合は?」

「……もう大丈夫。まだ少し熱があるけど、傷自体は塞がったから」

「そう、それは何より。これでも一応、心配したんだぞ。森上に撃たれたって聞いて、俺としてはすぐにでも駆けつけたかったけど、ここのガードが思ったよりも固くてさ。ようやっとガードが緩くなったから来れた次第だけど」

「……心配してくれたの?」

「当たり前だろ。何年来の付き合いだよ、俺たち。……ってああ、覚えてないんだっけ」

 あおいが気分を害したように眉をひそめる。

「嫌味じゃないよ。単に事実として言っただけ」

 あおいはじっと押し黙る。膝の上で身をよじらせて喜ぶ向日葵が、亮太の指を甘噛みしようと何度も顔を突っ込んでくる。

 食卓の椅子に腰掛け、神妙な顔で考え込んでいたあおいが、ふいに自ら沈黙を破る。

「……今日、ここに来たこと」

「ん?」

「父は知らないって言ったよね」

「ああ」

「それ、本当?」

「嘘なんて言うかよ。てか、そんな嘘ついて、俺にどんなメリットがあるっていうわけ?」

「頼みがあるの」

 意外な切り返しが来たので、つられて亮太は顔を上げた。あおいはいつになく真剣な面持ちで、

「守ってほしい人がいるの」

「は?」

「あたしは今、満足に動くことができない。彼女がまた《ヴィア》に狙われても、あたしが動くと父に伝わる。でも、亮太なら」

「ちょっと待って。いったい何の話? 趣旨が全く見えないんだけど」

 あおいが難しそうに口を閉ざす。亮太は小指でぽりぽりと頭を掻いた。

「どゆこと? まず俺に、誰を守ってほしいっていうのさ。だいだい、守るってどういう意味で? 護衛とかそういうこと?」

 あおいはこくりと頷く。亮太は大仰にため息をついてみせた。

「何を言い出すかと思えば」

「友達なの。彼女は《ヴィア》と何の関係もない。ただあたしのクラスメイトで、あたしを気にかけてくれてるってだけで、《ヴィア》に命を狙われているの」

「それって誰さ。組織が何の理由もなく、一般人を標的にするわけないだろ。いったい何がどう転んで、そういうことになっちゃったわけ?」

 必死に訴えてくるあおいに、亮太は至極冷静な言葉を返す。あおいはまた黙ってしまうが、やがて苦虫を噛み潰すように呟いた。

「彼女は……雪花は、尋人の妹なの」 

「ああ、なる……そういうこと」

 その一言で、亮太は全ての事情を察した。

「昨日、路上で五、六人の男に襲われて怪我をしたらしいの。事無きを得たって聞いたけど、これで済むとは思えない。もしかしたら、また狙われることだって」

「だとしても、何で俺なわけ?」

「あたしは今、動けない」

「何で? 傷がまだ完治してないから?」

「それもある。……けど」

 あおいは消え入るように黙り込む。その沈黙がやけに長かったので、その先を続ける気はないのだろうと亮太は解釈した。

「あおいさあ、自分がどれだけやばいこと言ってるか自覚ある?」

 俯きがちだったあおいの視線が、ゆるりと亮太に向けられる。

「《ヴィア》の娘がそんなこと言って、反目と取られたって文句は言えないぞ」

 あおいが言葉に詰まったように息を呑む。

「そんなこと……言って、ない」

「俺に反目の手伝いをしろっての? 小父さんに盾突くような真似して、勘違いでもされたらいい迷惑なんだけど」

「亮太……」

「都合のいい時だけ人を頼るなよ」

 最後に放った一言が、見事に効果覿面だったらしい。あおいはしおしおとうなだれた。

「ごめ……ん、なさい」

 気まずい沈黙が立ち込める。向日葵を撫でながらさりげなく窺うと、予想に反してあおいは泣いていなかった。ただ、相当落ち込んでいるのは訊かずとも分かる。

 亮太は深く嘆息した。

「分かったよ」

 あおいの瞼がぴくりと動く。

「その雪花って子を、要は俺たちの抗争に巻き込まなければいいんだな?」

「……やってくれるの? 本当に?」

「あおいが動けない以上、俺がやるしかないだろ。組織にばれたくないなら尚更」

 亮太は両手を組んで大きく背伸びする。

「あーあ、何かとんでもない面倒事に巻き込まれたなあ。俺、これでも平和主義者なのに。万が一に備えて、今後の身の振り方も視野に入れておくべきだよな。……なーんて、冗談」

 表情がみるみる翳っていくあおいを、亮太は悪戯っぽく笑い飛ばした。あおいはぱちぱちと面食うが、そのうち弱々しい笑みを浮かべるだけの気力を取り戻す。

「ただし、これは小父さんには内緒だぞ。俺もまだ死にたくないし」

 あおいはこくりと頷いた。

「……ありがとう、亮太」

 思いがけない言葉に、今度は亮太が目を丸くする。彼女の口から感謝の言葉が出るとは露も思っていなかった。びっくりしていると、あおいが不思議そうに見返してくる。亮太は誤魔化し笑いで切り抜けた。

「気にしないで。そんじゃ、俺は長居せずに帰るよ。病み上がりだろ?」

「いいの?」

「どんな風にしてるかなって見に来ただけだし。とりあえず生きてるみたいで安心した」

 亮太は向日葵をソファに放すと、立ち上がって玄関へ向かう。後をついてきたあおいが気遣わしげに、

「雪花のこと、詳しく言わなくていいの?」

「構わないよ。こっちで調べる。心配しなくても、うまいことやるさ」

 靴を履いて振り返ると、あおいが何か言いたそうな瞳で立っていた。亮太はふっと笑いかけると、指を伸ばしてその頬にほんの少しだけ触れる。

「……ちょっと熱っぽい」

「え?」

「早く横になりなよ。起こして悪かったな」

「そんな……。あたしは大丈夫」

「俺相手に、今更強がる必要なんてないよ。それじゃ、お大事に」

 そう言って、亮太はあおいの部屋を後にした。背後でがちゃんと扉が閉まるのを聞きながら、無人の廊下をエレベーターのある方向へ歩いていく。

 亮太がボタンを押すと、エレベーターの扉はすぐに開いた。たまたま六階に止まっていたらしい。乗り込んですぐに閉めると、縦長の箱は鈍い機動音とともに下降していく。

 亮太は大きく息を吐いて壁に凭れる。乗っている間、脳から思考がさあっと消え去った。

「そろそろ、きついなあ……」

 無意識のうちに本音が漏れ、亮太は薄ら笑いを浮かべる。

「だいぶ、きつくなってきたかも」

 忘れられた現実を受け止めながら、何気ない顔であおいに接することが。

「おかしいな。傷ついた自覚、なかったんだけど」

 一階に到着したエレベーターが動きを止める。扉が開いても、亮太はしばらくそこから動けなかった。



 数時間ぶりに外へ出ると、周りは月すら見えない漆黒の夜だった。

 佐知子は今日も、日付が変わった後に事務所を出た。最近は特に忙しく、どれだけ片付けても終わりの見えない日々が続いている。よって必然的に、深夜を過ぎてから帰宅するパターンが急増していた。仕事が絶えないのは経営者としてありがたいが、許容量を超えてしまうと体がいくつあっても足りやしない。

 凝り固まった肩を解しながら、佐知子は煙草をくわえて歩いていた。寝静まった深夜の街は、人影はおろか通り過ぎる車もまばらだ。誰もいない歩道を行く靴音が、やたら大きく響いては闇に吸い込まれる。

 佐知子は煙草を吹かしながら、目だけで背後を窺った。路肩にいる黒塗りの車は、今日ずっと事務所の前に止められていたものだ。佐知子はその正体を察しつつも、足を止めることなく駐車場へ向かう。

 無人の月極駐車場にある自家用車に乗り込むと、エンジンをかけてアクセルを強く踏む。大通りに出ると、事務所の前ではびくともしなかった黒塗りの車にライトが灯り、佐知子の後を追うようについてきた。

 佐知子は苦笑する。なんてあからさまなのだろう。

「まあ、分かりやすいのはありがたいけど、すぎるのはどうなのかしら」

 余裕めいているのは言葉だけで、脳では緊迫した思考がいくつも飛び交っている。このまま自宅まで尾行されるのは困る。相手の目的は確実に自分だ。周囲を巻き込まずに片付けるなら、やはり自宅から離れた人気のないどこかに、こちらから誘い込むしかない。

 佐知子はハンドルをぐいと捻って交差点を乱暴に曲がった。タイヤが激しく軋むのも厭わずに、アクセルを踏み込んで無人の大通りを駆け抜ける。追いかけてくる黒塗りの車をバックミラーで捉えながら、佐知子はハンドルを巧みに操って港を目指した。

 制限速度を明らかにオーバーしながら向かった先は、港に隣接する古びた倉庫街だ。佐知子は車を止めると、助手席に置いたトートバッグから拳銃を取り出す。そして弾丸が装填されているのを確認すると、新しい弾倉を三つポケットに入れてから降りた。

 すぐ近くに件の車が音を立てて停車する。佐知子は降りた男が構える前に撃ち倒し、倉庫の中へと一目散に走った。

 臨戦態勢を取り、物陰に隠れて周囲に神経を集中させる。何台もの車が集まってくる音が聞こえる。佐知子はほんの少し顔を出して、倉庫の前に次々と止まる車を数えた。

 今のところ、全部で八台だ。ぞろぞろと人影が降りてくるのが見える。

「女一人を片付けるのに大層なものね。さすがは《ヴィア》、手段選ばずといったところかしら」

 佐知子は物陰に隠れたまま、視認した人影を次々に撃つ。それと同時に、激しい銃声が豪雨みたく鼓膜を叩いた。佐知子は壁を盾に銃弾を避け、頃合を見計らっては的確に撃ち返す。

 これでも元警察官だ。射撃訓練は定期的に受けていたし、調査員に転身してからも最低限の護身術は体得している。幸いというべきか、佐知子の銃の腕前は警察学校時代から折り紙つきだ。

 だが、相手の人数を把握しきれないまま一人で戦うのは骨が折れる。体力は勿論だが、手持ちの銃弾にも限りがあるのだ。四方八方から感じる気配に、佐知子は忌々しげに舌打ちした。

「ったく、いったい何人いるのよ!」

 このままでは圧倒的にこちらが不利だ。いくら実戦経験があるといっても、大人数を一人で相手するのは無謀すぎる。途絶えることのない銃声と迫り来る気配を感じながら、佐知子は延々と続く銃撃戦の突破口を探していた。

 空になった弾倉を落とし、新しく交換して撃ち返す。撃つ度に銃弾が人影のどれかに命中しても、間髪を入れずに次が何発も飛んでくる。こちらの都合のよい場所へ誘い込んだつもりが、いつの間にか袋小路に追い詰められている気がしてならない。

 その時、唐突に背後で気配が動いた。振り返ろうとした瞬間、首元に細く冷たい感触が纏わりつく。その正体を察するより早く、佐知子はものすごい力で絞め上げられた。

 思わず銃を取り落とし、両手で首を引っ掻いて必死に抵抗する。しかし、ぎりぎりと絞め上げる力に敵うはずがなかった。意識が急激に遠ざかり、喘ぐことすらできなくなる。

 もうだめだ。負ける──。

 白んでいく脳内にその言葉が浮かんだ刹那、一発の銃声が轟いた。すると、それまで絞め上げていた力が途端になくなり、佐知子は咳き込みながら崩れ落ちる。薄く血が滲む首元を押さえ、思惟が戻ってくるまで激しく咳き込む。解放されたのだと自覚するまで、数十秒の時を要した。振り向くと、すぐ後ろで男がこめかみから血を流して死んでいた。

 どうやら間一髪のところで救われたらしい。その死体を見て、佐知子はようやく状況が理解できた。

 痛む首をさすりながら顔を上げると、一人の男が周囲の気配を撃ち続けていた。弾けては散る一瞬の火花が陰影を描き、悠然と立つその顔を僅かだけ浮かび上がらせる。佐知子は息を呑んだ。

「淳平……!」

 すぐさま立ち上がろうとするが、両膝が思うように動いてくれない。男は倉庫内の敵を一掃したのか、佐知子を見やることなくその場からすっと離れていった。

「待って……待って! 淳平!」

 佐知子はおぼつかない足取りで、必死に男を追いかけた。途端にまた銃声が轟き、咄嗟に鉄柱に姿を隠してやり過ごす。脳が靄に包まれたようで、足元が頼りない上に思考も何だかはっきりとしない。銃声はまだ断続的に響いているが、その数は次第に減っているようだった。佐知子は胸に手を当てて、荒くなった呼吸を抑えようとする。

 助けてくれた。淳平が危機を救ってくれた。愛する彼が現れたのだ。その思いが曖昧なままの脳を満たし、早鐘を打つ鼓動にさらなる拍車をかける。

 いつの間にか銃声が止んでいた。倉庫を取り巻いていた気配が失せ、打って変わった沈黙が闇を覆う。佐知子は倉庫を飛び出して、漆黒の下で佇む男に駆け寄ろうとした。

「淳平!」

 佐知子の呼び声に、男がゆるりと振り返る。灰色の薄雲に隠れていた半月が、その顔を僅かだけ照らし出した。

「やあ、こんばんは」

 よく通るバリトンで、森上智彦が声をかける。佐知子は魂が抜けた顔で立ち尽くした。

 森上は目元に険を宿すと、佐知子に向けて銃を構えるなり引き金を引いた。驚いた佐知子が振り返ると、背後で大の字になった男が息絶えている。

「すみません。まだ残党がいたようで」

 森上は銃を懐にしまう。

「どうして……」

 震えを帯びた声音で問われ、森上は佐知子を見つめ返す。

「どうして、あなたが」

 森上は言葉を返す代わりに、一瞬だけ淡く微笑んでみせた。

 それを見た途端、佐知子は何も言えなくなった。とても優しい微笑なのに、胸が裂かれるほど痛くて切ない。

 だから佐知子は気付いてしまった。彼は早川淳平ではない。佐知子が愛した男はもうどこにもいない。たとえ見た目が瓜二つでも、森上智彦は単なる別人なのだ。

 認めたくなくて、受け止めるのが嫌で目を逸らし続けていた現実が、佐知子を思い切り殴りつける。その音なき衝撃が、危うくも保たれていた均衡を無惨に砕いてしまった。

 静かな風が佐知子の髪を揺らす。森上は濁りなき光の月を一瞥すると、

「貴女を襲おうとした《ヴィア》の面々は僕が片付けました。貴女のご家族を、なおも狙おうとしていた輩も全て。もう心配はいりません」

「どうして……」

 ひりつく首に触れながら、佐知子は同じ問いを繰り返す。

「我々の抗争に、無関係な貴女方を巻き込むのはフェアじゃない。僕が殺したいのはあおいだけ。それ以外の血が流れる必要はない。あおいを殺すのは僕だ。他の誰にも譲らない」

 それだけ告げて、森上はその場から去っていく。月夜に溶けて遠ざかる気配を、佐知子はすぐさま呼び止めたかった。しかしそれはついに叶わず、声すらとてもうまく出せない。

 佐知子はがくりとしゃがみ込む。そして地面に両手を突いて歯を食い縛り、襲いくる感情の荒波に耐えた。



 「返り討ちだと?」

 闇しかない空間で、総一朗は訊き返した。

「返り討ちとはどういうことだ。あれだけの人数を、あの女一人で片付けたというのか」

 彼にしては珍しく語気が荒い。背後に立つ竹田は畏まって、

「いえ、杉原佐知子ではありません。森上智彦が、我々が差し向けた刺客を一掃したのでございます」

何故M‐Rが出てくる。関係ないだろう」

「恐らく、あおいお嬢様に手出しするなという、彼なりの意思表示かと。森上智彦は常日頃からあおいお嬢様を狙い、殺すためには手段を厭わぬ面がございます。我々が杉原家に照準を定めたことに対し、余計な気を起こすなと牽制してきたのでしょう」

「忌々しい。森上め、つくづく癇に障る男だ。恨みだか何だか知らんが、何を今更」

 存在そのものを忌むように、総一朗は憎々しげに呟く。竹田は直立不動の姿勢で佇み、その言葉に応じることも、異を唱えることもしなかった。

「竹田よ」

「は」

「杉原家はもういい。あおいに森上を殺させろ」

「よろしいのですか?」

「構わん。興が削がれた。たかが陽向に生きる鼠など、我々が気にかけてやる価値もない」

「……よろしいのですか?」

「何がだ」

「あおいお嬢様に、森上智彦を殺させてよいのですか?」

 念押しのこもった言葉を、総一朗はひどく酷薄な冷笑で切り捨てた。

「構わん。あの男は目障りだ。うるさい蠅は、殺してしまえば事足りる。それに、あの二人に今更何の情がある。あおいは全て忘れているし、森上はあおいを憎んでいる。私はそれを、望むべき終末へと導いてやるだけだ」

 竹田は総一朗の言葉を黙して受け止める。総一朗は目だけで竹田を振り返り、

「あおいに森上智彦を殺させろ。これは命令だ」

 竹田は首肯すると、無言のまま頭を下げた。

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