第12章 破片を握る手、包み込む手

 竹田から新たな命令を告げられた時、あおいは戸惑ってこそいたが、うろたえてはいなかった。その反応は少し意外と言えば意外だが、かといって特別に驚くほどではない気がする。

「尋人を殺さなくていいから、森上智彦をあたしが殺す……」

 向日葵を膝に載せたあおいが、竹田の言葉を反芻する。

「はい、お嬢様」

 一人掛けソファに座る竹田が、畏まるように相槌を打った。亮太はそれを、テーブルに浅く腰掛けて立ったまま見ていた。

 あおいは少し目が泳いでいたが、取り乱している様子はなかった。恋人を殺さなくていいと言われ、とりあえず安堵した風でもない。ただ努めて冷静に竹田の言葉を受け止めようとしている。

「杉原家の人間を手にかけなくていい。ですが、森上智彦を生かしておくわけにはまいりません。旦那様はあおいお嬢様に、森上を殺すようにと仰せでございます」

「……父は、どうして突然そんなことを?」

 あおいからすれば当然の疑問だろう。今まであおいは、杉原尋人を殺せと命じられていたのだ。でなければ、杉原家の人間を《ヴィア》が全員亡き者にすると。彼女はそれを受け入れず、決断を先延ばしにし続けることで何とか事なきを得ようとしていた。

 それが突然、当初とは逆の命令を突きつけられた。唐突すぎる方針転換に戸惑い、何か裏があるのではないかと怪しむのは道理だろう。

 竹田は眉一つ動かすことなく、

「森上智彦は《M‐R》の幹部であり、お嬢様に勝るとも劣らぬ腕を持つ暗殺者でもあります。その存在は《ヴィア》に、危険と脅威しかもたらさない」

「でも、なぜ急に? まるで気が変わったみたいにいきなり、あの人を殺せだなんて」

「おっしゃるとおり、旦那様の気が変わったのであります。森上の我々に対する所業は、目に余るものがございますから。今までその辣腕さゆえに対処できておりませんでしたが、今度とばかりは旦那様の逆鱗に触れたのでしょう。旦那様は大層お怒りで、我々としても看過できぬ屈辱を味わいましたから」

 あおいの眼差しが怪訝なものに変わる。

「……いったい《ヴィア》とあの人の間に、何があったっていうの?」

 竹田は口を閉ざした。亮太はあおいの視線を感じるが、さらりと何気ない顔でやり過ごす。

「お嬢様は、何も知る必要はございません。ただ旦那様の命を、忠実に遂行なさればよいのです」

「暗殺者は、命じられた仕事のこと以外、他に何も知る必要はない……?」

 皮肉めいた響きで返された言葉に、竹田は重々しく頷いた。

「あらかじめ申しておきますが、お嬢様に拒否権はございません。手筈はこちらで整えますので、お嬢様は森上を殺すことのみに集中して──」

「分かっているわ」

 あおいが竹田の言葉を遮る。潔ささえ滲むその響きに、亮太は面白げに頬を緩めた。随分と物分かりがよくなったものだ。

「分かっています。父の命令は絶対だと」

「そのとおりでございます、あおいお嬢様」

「でも、一つだけ条件があるの。その条件を呑んでくれないと、あたしは何があっても、その仕事はやらないわ」

 あおいがきっぱりと言い放ち、竹田の眼光に先程まではなかった鋭さが宿る。

「お受けするかどうかは別として、お聞きいたしましょう」

「受けるのが絶対条件よ。でないとあたしは、その仕事はやりません」

「そうは申されましても、旦那様のご命令は絶対です。それをご承知で?」

「ええ、それでも」

 あおいは頑なな姿勢を崩さない。一見すると意地の張り合いだが、所詮は彼女の一人相撲にすぎないことに、あおい本人は全く気付いていないようだった。

 推し量る目であおいを見ていた竹田はしばらく黙考した後、

「お伺いいたしましょう」

 それを譲歩と受け取ったらしいあおいは、竹田を気丈に睨めつけたまま言い放つ。

「尋人たちに一切手を出さないと誓ってほしいの」

 竹田はその言葉を、眉間の皺一つ動かさずに受け止める。きっと想定範囲内だったのだろう。かくいう亮太も、条件を切り出してきた時点で読めていたので驚きはなかった。

「尋人だけじゃない。彼の家族全員に手を出さない、絶対危険な目に遭わせないと約束して。前に雪花を襲って怪我させたような、あんなことは二度としないと」

「ほう」

「でないとあたしは、何があってもこの仕事はやらないわ」

「ですが、それを旦那様が是と申されるかどうか」

「あなたが説得して。父が何と言っても、あたしの意志は変わらないから。もし父があたしの言葉を撥ね退けて、尋人やその家族に危害を加えようとするなら、あたしは何としても尋人を守るわ。たとえ《ヴィア》と敵対することになっても」

 竹田は目元の険を深くしてあおいを見据える。

「随分と物騒なことを申される。あおいお嬢様、あなた様はご自分の立場を本当に理解しておいでですか? 旦那様の命令に異を唱えるなど」

「異を唱えてるわけじゃないわ。条件を呑んでと言ってるだけよ」

 威圧的な竹田の言葉に、あおいが負けじと言い返す。二人の攻防がどうにもおかしくて、亮太は堪えきれずに吹き出してしまった。途端に刃のような眼差しが二人から飛んでくるが、それが余計におかしさを煽る。亮太はしばらく腹を抱えて爆笑した。

「亮太」

「はいはい、すんませーん」

 竹田は咳払い一つで居住まいを正し、

「承知いたしました。では、こちらがその条件とやらを呑めばお嬢様は任務を遂行なさると、そう解釈してよろしいのですね?」

 あおいは一瞬言葉に詰まるが、毅然と唇を結んで首肯した。

「して、お嬢様。杉原の末の娘御の話をどちらで?」

 思わぬ切り返しだったのか、あおいが目を瞬かせて押し黙る。その視線が忙しなく泳ぎ、明らかに狼狽しているのが見て取れた。なんてあからさまなのだろう。もう少し駆け引きというものを覚えたほうがいいと、亮太は心の中であおいに忠告した。

「いいでしょう。差し出たことを申しました。どうかお気になさいませんよう」

 途端にあおいの肩からほっと力を抜ける。確かに、ここまで分かりやすいとかえって白ける。尤も竹田は、少し試してみただけなのだろう。それは見ていてすぐに分かった。

「分かりました。では、我々はあおいお嬢様が出された条件とやらを呑みましょう。今後ヴィアは、杉原一家には一切手出しをしないということで」

「絶対よ。もし裏切ったら──」

「ご心配には及びません。私は決して嘘は申しません」

 あおいの瞳に一瞬疑惑の色が宿るが、それを言葉にすることは最後までなかった。

「では、我々はこれにてお暇いたします。行くぞ、亮太」

竹田は立ち上がり、恭しく一礼すると部屋から出ていく。亮太も素直にそれに倣った。

「じゃ」

 そう短く告げて背を向けても、あおいは放心した顔でソファに座り込んだまま、見送りには来なかった。亮太としても、そんなことは端から期待していない。玄関に揃えた各々の靴を履いて、二人はあおいの部屋を後にした。

 マンションを出て、駐車場に止めた車に乗るまでの間、竹田はずっと無言だった。亮太は運転席に乗り込み、シートベルトを締めてからアクセルを踏み込む。

 あおいのマンションが彼方まで遠ざかった頃、竹田がようやく口を開いた。

「……随分とおとなしかったな」

「ん?」

 亮太は片手でハンドルを操作しながら、一瞬だけ竹田に視線を返す。

「俺? それともあおい?」

「お前だ。随分とおとなしくしていたじゃないか。常日頃からそうしていればいいものを」

「ははっ。俺、硬い空気をわざと壊すの好きだけど、壊していい空気といけない空気の差ぐらい、さすがにちゃんと見分けがつくさ」

 軽く笑い飛ばしてみたが、竹田は案の定無反応だった。渋い顔つきで腕を組み、その細く険しい目でフロントガラスを睨んでいる。亮太は適当なMDをカーステレオに挿入した。途端にロック色の強い洋楽が、低いボリュームで車内に満ち満ちる。

「お前の予想したとおりになったな」

「え?」

 運転に集中していた亮太は、竹田が言わんとしたことを一拍遅れて悟る。

「ああ、そだね。でも、おかげでこっちもやりやすくなった」

 竹田が重々しく頷く。いついかなる時でも、竹田は表情を崩さない。それは相手に隙を与えないためか、単に気を張り詰め続けているだけなのか。人生の半分以上を共に過ごしてきたが、亮太は彼が頬を緩めた瞬間を一度も見たことがなかった。常に眉間に皺を寄せたままで疲れないだろうか。時折そんな疑問が首をもたげる。

「でもさ、正直なとこ言わせてもらうと、ぶっちゃけどうかと思うんだよね。あおいに森上を殺させて、本当にいいの?」

 平日の昼間だけあって、大通りはそれほど混雑していない。交差点を三つ通り過ぎ、四つ目の信号が黄色になったので、亮太は緩やかにブレーキを踏んだ。

「もし万が一全てを知れば、あおいは今度こそ自ら命を絶つよ。前の投身自殺みたいな生温い方法じゃなく、もっと確実な手段を取って」

 きっぱりと断言する亮太に、竹田は眉間に深く皺を寄せて黙り込む。

「そうなったらもう、取り返しがつかない。あおいが全てを知ってしまったら、何もかもおしまいになるんだ」

 その可能性と危惧を抱いていないわけがないだろう。そう言わんばかりに、亮太は竹田に厳しい一瞥を送る。それは、亮太があおいには決して言わなかった懸念だ。そして同時に、総一朗の耳に決して入れてはいけない本音でもある。だからこそ、亮太は竹田だけに明かしたのだ。彼だって同じ思いのはずだから。

 言いたいことは他にもあったが、亮太はそれ以上何も語らなかった。ただじっと竹田を見つめ、その答えを待つ。

 信号が青に変わる。亮太は車を発進させた。

「お前の言いたいことは分かる」

 その一言だけで、亮太は彼が出した結論を悟った。

「俺の言うこと、杞憂で終わる確率は低いと思うよ」

 せめてもの足掻きのつもりで言ってみる。しかし竹田は渋面のまま首を横に振り、

「それでも、今はただ見守るだけだ」

 静かすぎるその言葉が、想像以上の重さで亮太にのしかかる。そこに含まれている現実と真理が、歯痒さに掻き乱される心の出口を塞いで回った。

「この先たとえ何が起きようとも、どんな現実が待っていようとも、今はただ見守るしかない」

 亮太は唇を噛んだ。本当はもっと言いたかったが、ぐっと我慢して運転に集中する。言い返せば叱られると思ったのもあるが、竹田がそう決断を下した以上、それ以上に言える言葉などあるわけがないと気付いたからだ。

 どう応じるべきか悩んだが、結局、一番簡単なものに留めることにした。亮太は息をついて、左手を小さく挙げてみせる。

「分かったよ。竹田さんがそう言うなら、俺はもうこれ以上何も言わない」

 笑い飛ばすような軽さで告げると、竹田は一度だけ首を縦に動かす。それだけで亮太は充分だった。

 脳裏で小さく渦巻く迷いから目を逸らして、亮太はそれきり無言で運転を続けた。羽虫が飛び回るようなそれを見続けていたら、ただ一つ揺らがずにいる感情までもが、僅かに波打ちそうな気がして嫌だったからだ。恐らくそれは言葉に変える価値すらないことも、亮太にははっきりと分かっていた。

 たとえそれが、この上なく非情なものだったとしても。



 翌日から、亮太は杉原雪花のガードを再開した。

 実はあおいに頼まれる前から、亮太は彼女に張り付いていた。それを知るのは竹田だけで、《ヴィア》には報告していない。いわば二人の独断行動だ。

 総一朗があおいに尋人を殺すよう命じた時から、亮太は竹田の指示で杉原雪花をガードしている。先日起きた襲撃事件も、二人にとっては想定範囲内の出来事だった。亮太は竹田の指示どおりに雪花を救い、その後処理は彼が極秘裏に済ませてくれた。よって、二人が組織に咎められることはない。むしろ《ヴィア》は、雪花に差し向けた刺客を返り討ちにしたのが亮太であるとは、夢にも思っていないだろう。

 想定外があったとすれば、森上智彦が《ヴィア》の標的の一人だった杉原佐知子を助けたことだろうか。しかし、それは今後に大きく影響を与えるものではないし、どちらかといえば事態を早々に発展させるきっかけになったと捉えている。

 亮太が杉原雪花をガードする理由はただ一つ、竹田にそう命じられたからだ。あおいの頼みは、タイミングが重なっただけのおまけにすぎない。亮太は、表向きには《ヴィア》に属する暗殺者の一人だが、実際の任務内容は竹田が持ってきたものがほとんどだ。総一朗の命令で動くこともたまにはあるが、それも亮太からすれば、組織内での体面を保つためでしかない。亮太が絶対的に信頼し、比重を置いているのは常に竹田だ。その彼がやれと命じるのだから、亮太が拒否する理由は生まれ得ない。

 しかし本音を言うなら、この命令にはあまり気乗りがしなかった。十五歳の少女のボディガードなど、面倒でしかないからだ。いくら護衛という大義名分があったとしても、視点を変えれば単なるストーカーだ。決して楽しい仕事ではないし、大したやり甲斐があるわけでもない。だが、そんな本音を竹田本人にぶつけるほど、亮太はばかではなかった。

 ガードを始めて八日になるが、杉原雪花は亮太に全く気付いていない。仕事柄、尾行することには慣れているし、気取られないよう細心の注意を払っているから当然といえば当然だ。彼女の視界に不用意に入ることがないよう、距離感覚や立ち位置も全て計算しながら動いている。

 この手の仕事というのは、自分がどれだけ影に近付けるかがものを言う。常に背後に存在しているが、気付かなければいないも同じだ。万が一気取られでもすれば、行為そのものが意味を失う。そういった基本を押さえつつやっているせいか、杉原雪花本人は勿論、周囲を行き交う人間ですら、亮太には露も気付いていなかった。

 時刻は夕方の四時を廻った頃だ。クリーム色の校舎にうっすらとオレンジ色が射し、臙脂色の校門から、一日の授業を終えた生徒たちがわいわいと吐き出される。自転車で帰る者、一人で帰る者、何人かと固まって帰る者など、その下校模様は実に様々だ。

 四時半に差し掛かろうかという頃、黒のダッフルコートに身を包んだ杉原雪花が、何人かの友人と校門から出てきた。亮太は腕時計を見る。昨日や一昨日と、下校時刻はそう変わっていない。

 かろうじて校門が見える位置の塀に身を隠していた亮太は、雪花が駅方向へ向かうのを見て、十五メートルほどの距離を置いて歩き出した。周囲の様子に注意を向けながら、気取られないようその後をつける。

 杉原雪花の生活パターンは、二日張り付いたぐらいで大体掴めた。平日の朝はいつも七時半に家を出て、通学路の途中にある駅で友人たちと合流して登校する。昼間はずっと学校で過ごし、夕方四時を廻るぐらいに、友人たちと一緒に校門を出てくる。放課後はまっすぐ帰宅する日もあれば、寄り道して帰る日もある。その頻度は不定期で、駅近くのドーナツ屋やアイスクリーム屋で飲み食いをしたり、駅デパートの本屋やコンビニに寄ったりというのが通例だ。連れ立つ友人たちの顔ぶれは登下校ともに同じで、六時をめどに寄り道を終えて駅で彼女たちと別れた後は、夕方の喧騒を一人で家路に着く。

 見たかぎりでは、雪花の周囲に目立った異変はない。彼女自身も恐らく、亮太の存在など想像すらしていないはずだ。それどころか、雪花の懸念は他にあるように見えた。黒のスーツを着込んだ若い男二人組だ。彼らは亮太とは別の角度から雪花に張り付き、その一挙一動に目を光らせている。そのやり方は見るからにあからさまで、自らの存在が気取られても構わないようだった。

 恐らくあれが、杉原調査事務所の調査員だろう。所長で姉の佐知子が妹につけた護衛だ。雪花はその存在を知らされているらしく、時折彼らを気にするそぶりを見せていた。友人たちの前では何気なさを装ってはいるが、常に見られているので気になるのだろう。亮太としてはいい目くらましになるので、かえって都合がいいのだが。

「……まあでも、あんまり気分のいいもんじゃないだろうな。ずっと見張られ続けるってのは、それだけで相当なストレスだろうし」

 亮太はぼんやりとひとりごちる。大人なら適当に割り切れるだろうが、相手は十五歳の女の子だ。あれこれ思うままに楽しみたい盛りに見張られ続けたら、たとえ護衛といえども息苦しいだろう。亮太はほんの少しだけ、雪花に同情した。

 雪花は友人たちと楽しそうに騒ぎながら、駅を目指して歩いている。その様子はとても華やいでいて、亮太には些か以上に眩しく映った。自分が中学生だった頃、彼女と同じような顔で周囲と過ごしたことなどない。

 亮太は幼い時分から、水島総一朗率いる巨大組織ヴィアの一員だった。小学校に通いながら暗殺者の訓練を受け、八歳で初めて人を殺した。それからは義務教育中の子供という一面と、裏社会で活躍する暗殺者としての一面を、器用に使い分けて生活していた。

 学校では常に成績が上位で、クラスメイトともそれなりに交流していたが、信頼の置ける友人は一切作らなかった。恋愛も同じで、容姿に恵まれていたため人気はあったが、女子に興味を抱いたことや、告白を受け入れたことは一度もない。幼くして一生の仕事に就いていた亮太は、誰にも真の自分を見せる気がなかったのだ。

 小中学校のクラスメイトや教師は皆、陽向で生きる者ばかりだった。彼らは闇を知らない。その周りにあるのは、眩いばかりの太陽の光だ。彼らは常にその中で生活し、それが当たり前かのような一生を送る。彼らにとって闇とはものすごく遠い概念で、よほど不幸な偶然でもないかぎり、垣間見ることすらないまま人生を終えるだろう。

 それに対し、亮太は闇で生きる者だ。殺人が日常で、目的のために他人を欺き、出し抜くことに長けている。陽向で生きる者とは、水と油以上に相容れない。そんな自分はもはや、人間とすら呼べないはずだ。

 杉原雪花も、亮太とは相容れない陽向の人間だ。彼女の生活ぶりや振る舞いから、それがひしひしと伝わってくる。彼女の顔は、闇を知らない人間のそれだ。雪花は眩いばかりの光を纏っていて、見ていると目が焼けそうになってうんざりする。それは誰が悪いというわけではなく、ただ単に生きる世界の差なのだろう。

 奇妙な形のパブリックアートがある駅前広場で、雪花は友人たちとお喋りに花を咲かせている。かれこれもう、二十分以上にはなるだろうか。

 その様子を離れた物陰から見守る亮太は、少し怪訝に思って首を傾げた。年頃の少女が寄ってたかって、同じ場所でよく何分も過ごせるものだ。会話が尽きたり、状況に飽きたりしないのだろうか。

「分かんないな……」

 その時、ブルゾンの胸ポケットに入れた携帯電話が震えた。亮太は二回の振動のうちに応答する。

「はい。……ああ、竹田さん? 今、例の仕事中」

 亮太は眉をひそめた。竹田の声がくぐもって聞こえにくい上に、やけに雑音が多い。画面を見ると、電波が一本も立っていなかった。

「ああごめん、竹田さん。電波悪すぎ、聞こえないよ。ちょっと待って、移動する」

 電話の向こうは依然雑音が多く、亮太は少し苛々した。物陰から出て周囲を見回しながら移動しつつ、通話がクリアになる位置を探す。しかし、なかなか雑音は消えない。

「ごめん竹田さん、ここ電波悪すぎだわ。全く聞こえない。……え? だからもしもーし! 聞こえないんだってば!」

 声を荒げてみても、伝わった様子は感じられない。仕方がない。一旦電話を切って、電波の立つ場所に移動してからかけ直そう。

 そう思った瞬間、背後からいきなりぐいと襟首を掴まれた。思わず仰け反りそうになった亮太はぎょっと振り返る。

 すぐ後ろに杉原雪花の笑顔があった。

「……やっぱり!」

 亮太はあんぐりと絶句した。

「やっぱり当たってた! あなた、あの夜助けてくれた人でしょう?」

 思いもしない展開が降ってきて、咄嗟に言葉が見つからない。驚きすぎて目を瞬かせていた亮太だが、はっと我に返ると襟首を掴む雪花の手を振りほどいた。

「帰ろうとしたら、ふいにあなたの姿が見えたから、もしかしたらと思って追いかけてみたんだけど、よかった、間違ってなくて!」

 手を払われて気を害した風もなく、雪花はにこにこと亮太に話しかける。なぜここにいるのだ。しかもこんなすぐ側に。さっきまで、駅前のあの変な像の近くで、友達ときゃあきゃあ騒いでいたじゃないか。

 言いたいことは山ほどあるが、不思議なくらい言葉が出てこない。開いた口が塞がらなかった亮太だが、ようやく自分が置かれた状況を把握した。電波を探すことに意識を取られすぎて、雪花への注意を忘れていたのだ。まさか隙を突かれるとは思ってもみなかった。己の不甲斐なさに嘆息も出ない。

 そんな亮太の心情を知ってか知らずか、雪花は嬉々とした表情で続ける。

「あの夜せっかく助けてもらったのに、お姉ちゃんが来たせいであなた帰っちゃって、ろくにお礼も言えなかったでしょう? どこの誰かも分からなかったから、会いに行こうにも会えないし。だから」

 そう言うなり雪花ははっと振り返り、頬を引き攣らせて青ざめる。その意味を量りかねる亮太だったが、雪花に手を掴まれて次の瞬間にはその場から走り出していた。

 雪花は亮太の手を引っ張ったまま、商店街の奥へと駆ける。

「ちょ、何すんだよ!」

 振り払おうとするが、その力は意外に強かった。雪花は背後を気にしながら、

「あのスーツの人たち、お姉ちゃんがつけてくれた護衛の人なの!」

「はあ? だから何!」

「あの人たち、悪い人じゃないんだけど、ずーっとあたしのこと見てるの。護衛なのは分かってるけど今は邪魔! だから撒かないと! だってゆっくり話したいのに、見張られたままじゃできないじゃない!」

 振り返ると、全身を黒のスーツで固めた男が二人、血相を変えて追ってきている。この状況だけを見ると、不審者による連れ去りと誤解されても致し方ないだろう。その不審者とやらがが自分であるのが、何とも不愉快極まりないが。

 亮太の手を掴んで必死に走り続ける雪花は、現状を深く考えるだけの余裕が全くないらしい。一生懸命走ってはいるが、明らかに遅い雪花の足だと追いつかれるのは時間の問題だ。しかし、がむしゃらなまでに前しか見ていない雪花は、その距離が徐々に縮まってきていることに気付かない。

 亮太は舌打ちした。そして雪花の腕をぐいと引っ張ると、転びそうになる彼女の手を掴んですぐ側の角を左折する。状況が呑み込めない雪花はおたおたするが、その仕草が亮太の苛立ちをさらに煽った。

「あいつらを撒きたいんだろう。なら黙ってついてこい!」

 そう怒鳴りつけて、亮太は全速力で走りながら考える。この辺の地理は、隅々まで頭に叩き込まれている。追手と化した彼女の護衛を撒くには、入り組んだ路地にある人気のない場所を目指すのがいい。

 二人はマンションや住宅が建ち並ぶ路地を、脇目も振らずに駆け抜けた。



 無我夢中という名の全力疾走の後、ようやく彼が立ち止まった時、二人は児童公園前の細い道路にいた。

 彼が手を離した瞬間、雪花はへなへなと地面に座り込んだ。心臓が飛び出そうなほど早鐘を打ち、呼吸がまともにできそうにない。肌がしっとりと汗ばんで、胸まで届く長さの髪が首筋に纏わりついた。こんなに走ったのはいつぶりだろう。何度も転びそうになりながら、引っ張られ続ける手の痛みも忘れて、まるで風のように駆けた気がする。

「……で、いったい何」

 彼が不機嫌そのものの顔で声をかけてくる。しかし雪花は、荒くなった呼吸を鎮めるのに必死で返事ができない。ぜえぜえと肩で息をしていたら、ほんの少し気遣うようなニュアンスで、

「……おい、大丈夫か」

 その一言に、雪花は無意識のうちに安堵する。先程の声は、凄んでいるように低くて少し怖かったのだ。

「ははっ、ごめん……。あんなに走ったの、マラソン大会以来だったから、つい」

 首筋に張りついた髪を払って肩を上下させる雪花を、彼は心底驚いた顔で見下ろした。

「あれぐらいで疲れたの? 軟弱だなあ」

 直球すぎるが、嫌味には聞こえなかった。雪花はふふと笑い、

「だってあなた、すごく速いんだもん。あたし、ついてくので精一杯。何度こけそうになったか。あはは」

 ようやく落ち着いてきた鼓動に胸を撫で下ろしながら、雪花は何でもない風に笑ってみせる。困り顔で沈黙した彼は、何かを口にする代わりに雪花の手を引いて立たせてくれた。

「ありがとう」

 素直に礼を言うと、彼は「別に」と呟いて視線を逸らす。

 雪花は辺りを見回した。駅前や商店街から外れた閑静な場所だ。古びた住宅や小さなアパートがいくつかあり、すぐ横にはブランコと滑り台と砂場しかない児童公園がある。夕暮れが迫る今、周囲に人影は一つもない。

 雪花は目の前の少年を改めて見つめる。毛先が跳ねた茶髪に、すらりと無駄のない身のこなし。ストリートファッションを思わせる茶色のブルゾンに、褪せた青のジーンズを穿いている。そして、知らない男たちにいきなり襲われた夜に、危ないところを助けてくれた少年と同じ顔をしていた。暗闇の中で一瞬だけ垣間見たそれは、今は不機嫌そのものだ。

 仏頂面で黙っていた彼は、背後をちらりと見やってから、

「撒いたぞ」

「え?」

「あんたが撒けって言うから、奴ら撒いたぞ。いいの? 後で怒られるんじゃないか?」

 不機嫌そのものの言葉を、雪花は気遣いとして受け取った。

「あはは、ありがとう。ごめんね、巻き込んじゃって」

「全くだ。で、話せるようになったみたいだから訊くけど、いったい何?」

 少年は仏頂面のまま、責めるように問うてくる。怒っているのだろうか。雪花は一瞬怯みそうになるが、

「だってせっかく会えたんだし、お礼も言いたかったし、いろいろ話したかったんだもん。今日を逃すと、次いつ会えるか分からないでしょう?」

「俺は会う気なんて、最初からなかったけどな」

 冷たい響きで撥ねのけられ、雪花はうっと言葉に詰まる。しかし、めげることなくさらに明るい口調で、

「ねえ、あなた名前は? あたしは杉原雪花。助けてくれて、本当にありがとう」

「別に、礼を言われるようなことはしてない。たまたま通りかかっただけで」

「でも、あなたが助けてくれなかったらあたし、きっと殺されてたわ。あの人たち、あたしに銃を突きつけてきたの。ものすごく怖かった。でもあなたが助けてくれたから、あたし無事だったの。擦り傷程度で済んだのよ。ねえ、名前何ていうの? もしかして、ここら辺に住んでるの?」

 突き放すような態度を無視して質問を重ねる雪花に、少年は凍てた眼差しを投げつける。

「お前、何でそんなこと訊くんだ」

「え、だって……」

 あからさまな拒絶にたじろぐと、少年の瞳が一層冷たい色になる。

「陽向の人間に名乗る名なんてない」

「陽向……?」

「それにあんた、俺が怖くないのか?」

「え?」

 少年はブルゾンの裾を少し上げて、腰に装着したものを垣間見せる。ウェストポーチのようなものに隠されたそれは、小さいが邪悪な黒をした物体だった。その正体を一瞬で見抜いて、雪花は思わず息を呑む。

「俺はこれを使ってあんたを助け、あんたを襲おうとした奴らを片付けた。この意味が分かるか?」

 雪花は絶句したまま全身を硬直させる。どう反応すればいいのか分からない。何かを口にしたいと思っても、頭の中が真っ白で単語の一つすら浮かばなかった。

「だろう? だからお前は陽向の人間だっていうんだ」

 少年はブルゾンの裾を戻し、雪花を見据えて言い放つ。

「俺は暗殺者だ。人殺しを請け負って、その金で日々生活してる。これの扱いなんて、俺にとってはお飯事みたいなもんだ」

 先程一瞬だけ見せたものを人差し指で叩くと、彼は雪花に拒絶の刃を振り下ろした。

「お前は闇なんて見たこともないだろう。知ることだってないはずだ。だけど俺は違う。闇で生きて、闇の中を歩き続ける。お前と話すことなんてないし、名を教える気もない。何も知らない陽向の人間は、陽向で一生生きていけばいいんだよ」

 その言葉は文字どおり刃だった。鋭く尖った形なき刀身が、雪花の胸を乱暴な勢いで貫通する。冷たく痛烈な感覚が溢れんばかりに襲いかかり、心の最奥のさらに深くに隠していた膿にまで到達した。見えない切っ先が、かちかちに凝ったそれを惜しげもなく抉り出し、忘却の彼方で眠っていた感情を瞬く間に覚醒させる。

 それは雪花にとって、紛れもない崩壊だった。

「……違う」

 去ろうとしていた少年が、震えた呟きを聞き咎めて振り返る。そして、ぽろぽろと涙を零す雪花を見てぎょっと顔を強張らせた。

 溜まりに溜まった濃が、粉々に砕けた破片となって心に散らばる。それは柔で脆い防御壁に次々と刺さり、どうしたって抜けない上に、痛くてとても触れなかった。

「違う……。そんなこと、言わないで」

 雪花はわななく唇で必死に紡いだ。

「何も知らないなんて……そんなこと、言わないで。知らないかもしれないけど、分かってないかもしれないけど……でも、本当に何も知らないわけじゃない。言わないだけ……言わないだけだよ。いつも笑ってるわけじゃない。いつもにこにこしてるけど、本当は……本当は、そんなんじゃないの」

 瞼が炙られたように熱くなり、大粒の涙がいくつも頬を滑り落ちる。

「笑ってるけど……知らないふりとかしてるけど、何も知らないだろとか、言わないで。そんな風に決めつけて、突き放したりしないで」

 そう言うのが精一杯だった。震える吐息が口から漏れ、涙で前が見えなくなる。雪花は両手で顔を覆い、ひび割れた声でわあっと泣いた。

 少年が激しくうろたえている。彼を困らせたいのではない。引き止めたくて泣いているわけでもない。ただ彼が放った何気ない言葉が、雪花の胸にぐさりと突き刺さって痛いだけだ。それがどうにも苦しくて、悲しくてたまらない。

 号泣する雪花に、少年はうろたえるばかりだった。しかし、やがて諦めたように息をつくと、雪花の右手を掴んでそのまま歩き出す。雪花は泣きながらも、逆らうことはしなかった。

 少年は雪花を連れて児童公園に入り、ブランコの前で立ち止まる。そしてその肩を両手で押さえ、ブランコに無理やりとんと座らせた。

 雪花は驚いて顔を上げる。二人の視線が交錯するが、彼は難しい顔を作って離れると、膝上ぐらいの高さの柵の、雪花の斜め向かいに腰掛けた。

 雪花は目を瞬かせる。彼は渋面のまま雪花と目を合わせないが、かといってそのまま去っていくこともしない。

 収まりかけていた涙が溢れてきて、雪花は両手で顔を覆ってまた泣いた。少年はそんな彼女をちらりと見やるが、ただ黙って柵に軽く腰を置いている。

 どれだけの時間、泣き続けたか分からない。永遠みたく長いような、実は三分もないほど短いような、捉えどころのない感覚だった。だが、夕暮れの橙が確実に深まり、風が一段と冷たさを帯びてきたことが、雪花におおよその時間経過を教えてくれる。

 雪花は泣き腫らした目を擦りながら、少年に向かって小さくぺこりと頭を下げた。

「……ごめんなさい」

「何が」

 少し離れた斜め向かいから、先程よりも棘のない声音が届く。何となくばつが悪くて、雪花は彼の目を見る勇気がなかった。

「いきなり泣いたりして、その……びっくり、したでしょ?」

 びくびくしながらその表情を窺うが、意外にも彼は怒っていなかった。

「別に。ただ、俺が泣かせたんだってことは分かった」

「そんな……ご、ごめん」

 あまりに淀みなく告げられて、逆に雪花のほうがうろたえる。

「俺にしてみれば他意のない、ただの何気ない言葉でも、言われた本人にとっては結構な痛手になることもある。一応、知識としてあるつもりではいたけど、実際に遭遇してみないと分かんないもんだな。傷ついたよな、あんた。ごめん」

「え、いや、その……」

「だから聞くよ、話」

「え……」

「言えよ、言いたかったこと、言おうとしてたこと。今度は何も言わずに、ちゃんと聞くから」

 その言葉に棘はなく、彼なりの厚意らしいと分かった。少年はそれ以上何も言わず、雪花が口を開くのをただ待っている。

 何をどこから、どう切り出していいか分からない。そもそも、どんな言葉を使って話せばいいのか、そこからして分からなかった。こんな状況に出会ったのは初めてなのだ。

 雪花はしばらく逡巡していたが、やがてぽつりぽつりと小さな声で、

「あたし、ね。……親、いないんだ」

 赤茶色の錆が斑に付着した鎖を、雪花は指だけできゅっと握る。

「死んじゃったの。あたしが物心つく前……二、三歳の頃に。今あたしを育ててくれてるのは、従姉のお姉ちゃんのお家なの。あたしは三人兄妹で、上にお兄ちゃんが二人いるんだけど」

 雪花は深く俯く。その続きを口にするのに、想像以上の勇気がいった。

「死んじゃった、んだ。あたしを産んでくれた、本当のパパとママ。あたしが今よりうんと小さくて、言葉も世界も何も分からなかった時に、車の事故で二人とも死んじゃった。でもね、本当はあたし、知ってるんだ。二人は事故で死んだんじゃない……って」

 胸がずきりと痛み、瞼が再び熱くなる。それでも雪花は、今までずっと言ったことのなかった言葉を口にした。

「殺されたんだ、悪い人に」

 少年がちらりと雪花を見やる。しかし、その視線に雪花は応えられなかった。

「あたし、聞いちゃったの。小六の時の法事の後で、今のお父さんとお母さんが話してたこと。あたしの本当のパパとママ、悪い人に逆恨みされて、車で激突されて殺されたんだって。あたしのパパ、刑事さんだったんだ。今の健兄ちゃんと一緒。パパとママを殺した人は、前にパパが捕まえた人だったの」

 一音ずつ言葉を紡いでいくごとに、あの日の情景が脳裏にまざまざと蘇ってくる。

 家に来ていた親戚が皆帰り、先程までの賑やかさが嘘みたいに静まり返ったリビングで、食卓に座る父と母が声を落として話していた。その会話を、冷蔵庫のサイダーが飲みたくて二階の自室から下りてきた雪花は、たまたま耳にしてしまったのだ。

「お母さん言ってた、あの子たちが可哀想だって。特に雪花は、この先自分の親が何で死んだのかを知らずに、ただ失った悲しみだけを抱いて生きていくのが哀れでならないって。お父さん、二人を殺した人が今ものうのうと生きてるのが許せないって。二人とも静かに怒って、つらそうに話してた」

 あの時の二人の会話を知っているのは雪花だけだ。姉や兄たちは自室に戻っていて、一階には自分と両親以外誰もいなかった。

「あたしね、ちゃんと教えてもらってたの。十歳の終わりに家族から、お前には本当の両親がいるんだよって。その人たちは不幸な事故で死んでしまったんだって。それまでのあたしは、今一緒に暮らしてる人たちが本当の家族だと信じてたから、知らされた時はびっくりして、受け止めるのに結構時間がかかった」

「……ショックだったわけだ」

 それまで何も言わずに聞き入っていた彼が、初めて言葉を口にした。

「うん……」

「その時、詳細を知りたいとは思わなかったの?」

 雪花はふふと乾いた微笑を浮かべ、

「怖かったんだ、詳しく知ってしまうのが。知ってしまうと、今一緒に暮らしてる人たちが、他人に見えてしまいそうで。お兄ちゃんたちとは血が繋がってる。でも、お姉ちゃんやお父さん、お母さんとは親戚ってだけで、実の家族ってわけじゃない。それが自分的にかなりショックで、それ以上知るのが怖かったんだ。だから、与えられた情報だけで満足しようとした。今の家族に、あたしは十分可愛がってもらって愛されてる。それだけで充分、幸せなんだって」

 小学生だった雪花は、ひたすらそう念じることで己の心を守っていた。だが、気を緩めれば一気に崩れてしまいそうなそれは、そんな情報だけで満足するはずがなかった。しかし、そこを必死に堪えなければ、何かが終わってしまう気がした。そうしたらもう取り戻せない。そんな漠然とした危機感を、雪花はずっと抱えて暮らしていた。

 自分の中に潜む危うさに、ようやく折り合いをつけられるようになった頃、雪花は真実を知ってしまった。実の両親の死に隠された秘密。重くて固い楔が、不意打ちを狙った変化球みたく心にめり込んだ。

「今の家族からは、本当のパパとママは不幸な事故で死んじゃった……そうとしか教わってなかったの。だから、お父さんとお母さんの会話には本当にびっくりした。実は事故じゃなかったなんて、寝耳に水もいいとこで。初めて本当のパパとママの話を聞いた時より、そっちのほうが何倍も何十倍もショックだった」

 あの日の衝撃を、雪花は今もはっきりと覚えている。恐らく一生、消えることはないだろう。

「図書館で調べたの、パパとママが事故に遭った時期の新聞記事を。そしたら案外簡単に見つかった。自分を逮捕した警察官に逆恨みして復讐……出所後すぐにレンタカーを借りて襲撃……襲われた警察官とその妻は病院に搬送された後死亡……襲撃犯は重傷を負ったものの命に別状はなく、意識回復後に殺人容疑で逮捕……亡くなった夫妻には十五歳の長男と五歳の次男、二歳の長女がいた……。読んですぐ分かった。ああ、これはあたしのパパとママのことだって。だって当てはまりすぎてるんだもん。びっくりしたよ。あの時読んだ新聞記事、コピーして今も持ってる。一語一句覚えちゃうぐらい、何度も読んだ」

 氷のように冷たい風が、静かに吹いて頬を撫でる。風の音しかない沈黙の後、先に口を開いたのは彼だった。

「……そいつが憎い?」

 淡々とした口調とは裏腹に、気遣いの響きが感じられる。雪花はほのかに苦笑して小首を傾げた。

「分かんないなあ。憎いっていうのがどういう気持ちなのか、実はあんまりよく分かってないの。変な話でしょ? 腹立たしいとか憎いとか、思えたらすごく楽なんだろうな。でも正直言うと、どう思ったらいいのか分からない。パパとママを殺した悪い人なのに、憎いですかって訊かれたら首傾げちゃうし、じゃあ許せますかって訊かれても頷けないし。ほんと、自分でもよく分からない。……あたしがパパとママのことを、覚えてないせいかもしれない。すごく小さい頃にいなくなっちゃったから、写真見てもどんな人だったか、どんな声をしてたかとか、もうほとんど思い出せないんだ。……おかしいよね、こんなの。産んでもらって、優しくしてもらって……確かに、愛してもらったはずなのに」

「憎めない……んだ?」

 雪花は小さく頷いた。

「うん。憎み方が分からない。怒り方とか悲しみ方とか、どう受け止めたらいいのかとか、いまいちよく分からないんだ。新聞記事を見つけた時、泣くかと思ったけど泣かなかった。泣き方が分からなかった。ショックなのは確かなんだけど、どう言ったらいいのかな……そう、戸惑いに近かったかな。驚いたしショックだったし、何より戸惑ったっていうの? 自分がそれまで真実だと思ってたことを、覆されちゃったわけだから」

 雪花は繕うように笑ってみせるが、すぐに表情が歪に固まってしまう。

「でもね、思うんだ。どう思ったらいいのか分からないとか、憎めない悲しめないとかそういうの……そういう自分が何だか悲しい。憎んじゃえばいいのに、悲しいって泣けばいいのに、それがうまくできない自分が、本当は一番悲しいんだ」

 上げようとした視線が、再び地面に力なく落ちる。二本の鎖で吊るされたブランコが、雪花の感情に呼応するように鈍く軋んだ。

「それ、今まで誰かに言ったりした?」

 雪花はぶるぶると頭を振る。

「言ってない。今まで一度も、誰にも言ったことない……よ」

「どうして」

 責めるのではなく、労わるように彼は問うた。それは、泣きたくなるくらい温かな声をしていた。

「言いたくなかったの。誰にも知られたくなかった。今の家族……お父さんもお母さんも、お姉ちゃんもお兄ちゃんたちも、みんなあたしを愛してくれてる。あたしが傷つかないように、悲しむことがないように、パパとママはただの事故で死んだなんて嘘までついて。その気持ちを裏切りたくなかった。……そう思ったら、もう誰にも言えなかった」

 唐突に胸の奥がずきりと痛む。ぱっくりと開いた傷口が、空気に触れてひりついたみたいだ。今まで見て見ぬふりをし続けた、でも本当はずっと前から知っていた痛み。

「もし誰かに言ったりしたら、あたしの中にある何かが、今度こそ本当に壊れちゃうような気がしたの。ずっとひた隠しにして、誰にも知られないように、気付かれないように細心の注意を払ってた。それを誰かに触れられたら……大袈裟かもしれないけど、あたしの中にあるものが……世界が、終わっちゃうような気がしたんだ」

 誇大みたく聞こえる言葉でも、彼は笑ったりしなかった。静かすぎるほど神妙に、ただ一度頷いて受け止めてくれた。

「プライド……だったんだ」

 雪花ははっとする。そして噛み締めるように瞑目すると、

「うん、うん……」

「ずっと、守ってきたんだな」

「うん。誰にも知られたくなかった。気付かれたくなかった。あたしは常に笑顔の明るい、世の中の苦労も何も知らない平和な子。無邪気で人懐っこくて、悲しみとは無縁で……そんな子だって周りには思っていてほしかった。本当のあたしなんて、本当の気持ちなんて……たとえ家族や友達にでも絶対に知られたくなかった。じゃないと耐えられなかったの」

 それが雪花のプライドだった。ちっぽけで弱々しくて、何か一つ間違えばすぐに崩れてしまう脆いもの。それを守るために、雪花は天真爛漫な無邪気さを演じ続けた。そうしないと、胸の奥で息づく不安に全てを呑まれそうで怖かった。

「知らないままでいたかった。世間知らずなあほの子って言われてもいい。何も知らない、ただの雪花でいたかった。……でも知ってしまった以上、あたしにできることは、それを誰にも知られないように努力すること。それしか思いつかなかったんだ」

 本当は知っている。実の両親の死の真相も、ショックのあまり芽生えそうになった憎しみと怒りの感情も、醜いと思っていた復讐心の意味も垣間見てしまった。知らないままでいたかったと思っても遅かった。もう後戻りはできない。だから雪花は、それをきつく抑えつけて封じ込め、胸の奥の奥へと追いやった。せめて、誰にも触れられることのないように。

 全てを告白し終えた時、泣くかと思っていたが、涙は不思議と溢れてこなかった。代わりに、ブランコの鎖を握る指が微かに震える。心が衝撃を埋めようとしているのだと雪花は思った。

「俺はいつも殺す側にいるからさ」

 顔を上げると、いつの間にか少年は雪花の正面にいた。相変わらず柵に軽く腰掛けて、彼は空を仰ぐようにしながら、

「殺した人間の世界とか、考えたことなかったなあ。殺した奴にも過去はあって、悲しむ人間や育てた家族がいるとかさ」

 その言葉は嫌味ではなく、とてもシンプルなものとして響いた。雪花は脳裏に浮かんだ疑問を、そのまま彼にぶつけてみる。

「あなたはどうして、暗殺者をしているの?」

 ストレートすぎる問いかけを、彼は目立った反応もなく受け止める。その眼差しも特に揺らがず、いっそ無関心に見えるほど淡々としていた。

「それが自分の運命だから、かな」

「運命?」

「生きる道と言ってもいい。俺には生まれた時からこの道しかなかった。ガキの頃から暗殺者になるための訓練を積んで、小学生の頃にはもう仕事をしてた。他の生き方とか道なんて、考えたこともなかったな」

 俺にはそれしかないから、と少年は最後に付け足した。

「……あなたはそれでいいの?」

「いいよ。別に今まで疑問を抱いたことはないし、自分の腕にも自信を持ってる。相当の覚悟がなきゃ、この世界でプロとして食ってはいけない」

「そうじゃなくて」

 雪花の言葉に、少年の表情がほんの少しだけ動く。

「そうじゃなくて、あなたは本当にそれでいいの? それはあなたが選んだ道なの? 他の誰かに命令された道じゃないの? あなたが自分から望んだことじゃないでしょう?」

 悲痛そのものの声で問われ、少年はやや驚いた顔で目を瞠る。

「だってここは日本だよ。戦争もしてない、世界でも珍しいくらい平和な国だよ。なのに、生まれた時から人殺しになることを決められてて、子供の時から人を殺してたなんて……そんなのってない。そんなのってないよ」

 こんなに平和な国にいるのに。自分は周囲の愛に包まれて、人並みの生活を送っているというのに、彼はそれとは逆の場所にいる。雪花の立ち位置をくるりと裏返した場所で、常に死が隣り合わせの環境の中、彼は仕事として人を殺し続けているのだ。

 それを恐ろしいとは思わない。その所業が、許されざる罪であるのも頭では分かる。だがそれ以上に、そのことを表情一つ変えずに言ってのける彼が悲しかった。

 たまらず泣き出した雪花に、少年がぎょっとうろたえる。

「ちょ、ちょっと待て! 何でまた泣くんだ?」

「だって……」

「俺、また何か気に障ること言った? これでもさっきよりは、かなり気を配って言ってたつもりなんだけど。何だ、何がいけなかったんだ?」

「そんなの悲しいよ。だってそれは、あなたの意志じゃないでしょう? 人殺しがしたくて生まれてくる子なんていないよ。生まれてきた子の道を、他人が決めていいはずないよ。それはとても……とても、悲しいことだよ」

 雪花は頬をびしょびしょに濡らす涙を、コートの袖でぐしぐしと拭う。それでも涙は止まってくれず、ストッパーが壊れたみたいに次から次へと溢れ出てきた。

 途方に暮れた様子の少年が、困惑するのも疲れたといった顔で尋ねてくる。

「……なあ、どうして俺のことでお前が泣くの?」

 そう訊く彼は、本当に訳が分からないようだった。その様が余計につらく思えて、雪花は俯いたままほろほろと泣き濡れる。

「あなたが泣かないからよ」

「え?」

「あなたが泣かないから。悲しいって言わないから。そんなつらいこと、何でもないみたいに平然と言うから。あたしはそれが悲しくて、つらいから泣いてるの」

 少年は虚を衝かれた顔で息を呑む。気の抜けた瞬きを繰り返し、その言葉の意味を彼なりに噛み砕こうとしていた。だが、それは雪花の願望でしかないのかもしれない。そう思えてしまうことが、雪花をさらに悲しくさせた。

 雪花は歯を食い縛り、溢れる涙をどうにかしようと肩で息をする。それきり何も言わなくなった彼は、やがて音もなく雪花の前に立つと、そっと手を差し伸べて頬を滴る涙に触れた。

 雪花は驚いて顔を上げる。少年の長い指が、濡れた睫毛から涙を掬い取る。両目の涙を拭った彼の指はしっとりと濡れていた。そしてその片方の掌が、びしょびしょになった頬を努めて丁寧に包み込む。

 雪花はゆっくりと目を閉じて、少年のそれに自分の手を重ねた。ほんの少し汗ばんだ温もりが、涙で熱を奪われた頬にじんわりと馴染んでいく。

 ほの明るくて穏やかな何かが、ひび割れた心をひたひたと満たす。あれほど痛いと叫んでいた胸の中に、嘘みたいな静謐が広がっていった。

 まるで夢の中にいるようだ。どちらからともなく手を離した時、雪花はそんなことをぼんやりと思う。

 少年は雪花の隣で小さく揺れるブランコに座り、両足を大きく投げ出して空を仰いだ。濃い橙をした薄雲に、カラスが不規則な軌跡を描いては消える。

「あんたはさ、俺が怖くないの?」

 少年は視線を空に向けたまま雪花に問うた。

「怖くないよ。だって、あなたは優しい人だもの」

「どうしてそう思う?」

「あなたはあたしを助けてくれた。本当に怖い人なら、そんなことしないわ」

「俺は怖い奴だよ。銃を持ってるし、人殺しを仕事にしてる。今も昔もこれからもずっと、俺は人を殺し続ける。今まで殺した人数なんて、数えたこともないくらい」

 少年は淡々と事実だけを口にする。それは自嘲にとてもよく似ていた。自分を悪者だと思ってほしいと訴えているようだとも思う。

「それでも、あなたは優しい人だよ。だって、あたしの話を聞いてくれた。あたしの言葉を、受け止めてくれた」

 少年の眼差しが雪花のそれと交錯する。黄昏に彩られた少年は見惚れるぐらい端正に、その頬の翳は叫びたくなるくらい哀しく見えた。

「あなたは優しい人だよ。とてもとても、優しい人だよ」

 少年は雪花をしばらく何も言わずに見ていたが、やがてその口元に穏やかな微笑が宿る。

 初めて笑ってくれた。

 雪花はかあっと赤くなり、思わず少年から目を逸らした。

「ほ、ほんとはね。ほんとは、知られたくないって思ってた。ずっとずっと、誰にも気付かれたくない、隠していたいって。でもね、何ていうのかな……今はちょっと違ってるの」

 考えるより先に、唇が勝手に言葉を紡ぐ。その拙さが恥ずかしくて、雪花の視線がおろおろと泳いだ。だが少年は、その続きに黙って耳を傾けてくれている。

「わんわん泣いて、誰にも言えなかったことを誰かに話して……絶対傷つく、嫌な気持ちになるって思ってたけど、そうじゃないの。何だかその、大袈裟かもしれないけど、心が洗われたような……救われたような気持ちなの」

 少年がきょとんと驚いた顔になる。そして、言葉もなく何度も目を瞬かせた。

「ごめんね、変なこと言って」

「……いや」

 そう小さく返した少年の頬が、よく見るとほんの少し赤らんでいる。わざと雪花と目を合わせないようにしているが、それは会ってすぐの頃に見せていた不機嫌や拒絶の仕草とは違うものだ。無言の中でも伝わり合う何かを感じて、まだ頬の紅潮が消えない雪花の面差しが柔らかに緩む。

「……不思議だね。ずっと言いたくなかったことだったのに、誰かに聞いてもらうと、こんなにも気持ちが楽になるなんて」

「うん」

「あたし、本当は気付いてほしかったのかな。自分をちゃんと見てくれる誰かに聞いてほしいって、どこかではずっと思っていたのかな」

「……分かるよ、そういうの」

 雪花は少年の横顔を見つめる。彼はまっすぐ前を見据えて、

「分かるよ。そういう気持ちだって、あるんだってこと」

 シンプルな言葉が、雪花の胸で温かに溶けていく。そして、スローモーションがかかったように、時間経過の感覚が急に熱を宿して曖昧になった。

「ねえ、訊いてもいい?」

「何」

 先程までのぶっきらぼうな棘はもうない。それが、雪花が抱いた最後の恐れをふわりと解いた。

「名前、何ていうの?」

「……アキラ」

「アキラ?」

「フジサワアキラ。フジサワってのは、植物の藤に難しいほうの澤っていう字。アキラは」

 アキラは腰をぐっと屈めて足元の細い小枝を拾うと、地面に大きく字を書いてみせた。雪花は同じように腰を屈め、彼が書いた〝亮〟という字にまじまじと見入る。

「これが俺の本名。藤澤亮」

「本名?」

「普段は別の名前で暮らしてる。日々使う公的あるいは私的な名義も、仕事上の名前も全部、これとは違う偽名」

「その名前は何ていうの?」

「それを教えたら、本名教えた意味がないだろ」

 亮はぷっと吹き出して笑う。その笑みは、年相応の無邪気なものだった。

「教えたのはあんたが二人目。この名前は、俺の育ての親とあんた以外、誰も知らない」

「そうなの?」

「ああ。他の奴らには教えたことない。知られたくないし、教えるつもりもない。だからずっと隠したままだ。でも、あんたならいいよ。だって誰にも言わないだろ?」

 そう言って、亮は雪花に笑いかけた。雪花はすぐさま勢い込んで頷く。

「うん! 誰にも言わない。秘密ね」

「ああ、俺たちだけの秘密だ」

 雪花は嬉しくて思わずにまにましてしまう。亮はそんな彼女を柔らかに眺めていたが、

「なあ。あんたの名前、何か珍しいよな。どんな字書くの?」

「うーんとね、笑わないでよ? 雪の花って書くんだ」

「雪の花? てことは冬生まれ?」

「そうなの。十二月なんだ」

「随分と風流な字を当てるんだな。てかまず、雪の季節に花なんか咲くの?」

「咲くんだよ。えーっとね、スノードロップっていう花。こういうやつなの」

 雪花はコートのポケットから携帯電話を出すと、スノードロップの画像を亮に見せる。画面を覗き込んだ亮は感心した顔で、

「へえ、冬に花なんて咲くんだ。てっきり、寒けりゃ植物は全部枯れてくと思ってたけど」

「でしょ? あたしも由来聞くまで知らなかったんだ。あたしを産んでくれたママが、この花が好きだったんだって。それであたしが十二月に生まれたから、雪の中でも咲くこの花のように、可愛い子になるようにってつけてくれたんだって、健兄ちゃんが教えてくれたの」

 亮はよほど興味深かったのか、画面の中のスノードロップにじっと見入っている。

「サイトから取ってきた画像なの。名前の由来聞くと、それがどんな花なのか見たくなるじゃない? だから」

「なるほど。だからこんなに可愛く育ったわけか」

 思いがけない言葉に、雪花は目をぱちくりさせる。

「だってそうだろ? あんた、結構可愛いじゃん。まさにその名のとおりって感じで」

 それは世辞や虚飾が全くない、とても素直な言葉だった。先程の紅潮がようやく鎮まった雪花の頬が、またしてもみるみる真っ赤に火照る。

「ん? どうしたの?」

 急に視線を逸らして口をもごもごさせる雪花を、亮は小首を傾げて不思議そうに見やる。

「あ、いや、その……。褒めてくれて、ありがと」

「別に。俺は思ったことをそのまま言っただけだよ」

 亮は何食わぬ顔で、再びさらりと言ってのける。その飾り気のなさが、雪花は何だか悔しかった。頬の赤みがなかなか引かず、胸の鼓動がやたらとうるさい。たった一言で、心とはこんなにも快く掻き乱されるものなのか。

 亮はブランコからぴょんと下りると、

「さて、陽も暮れてきたことだし、帰りますか」

「え?」

 亮は雪花の手を取って立ち上がらせると、そのまま歩き出していく。こちらを全く気にしない結構な早足に、雪花は来た時と同じく何度も転びそうになった。それでも繋いだ手に力をこめて、その足取りに何とか必死でついていく。

「早く帰らないと家族が心配するよ。それに、さっき撒いたボディーガードも慌てふためいて、今頃大捜索網が敷かれてるかもしれないし。そうなると俺は捕まっちまうなあ。さっさとトンズラしないと」

 亮は明るく笑いながら、雪花の手を引いてすたすたと先を行く。先程までいた児童公園が遠ざかり、スローモーションみたく感じていた世界が、突如めまぐるしく動き出した。その変化についていけない雪花は、亮の歩調に合わせようと懸命になりながら、

「また会えるよね?」

 直接見ていなくても、亮の表情がぴたりと止まったのが一瞬で分かった。

「またいつか会えるよね? だってまだ話し足りないもの。話したいこと、聞いてほしいこと、いっぱいあるもん」

 急に無言になった亮に不安を感じ、雪花はさらに言葉を重ねる。

「今日だけなんて言わないよね? また今度会えるよね?」

 この一帯の地理に明るいらしい亮は、足早に抜け道を歩いて大通りへ向かう。彼の眼差しはずっと前を向いたままで、それが後ろを歩く雪花の不安を一層煽った。

 人気のない路地を抜けて、行き交う車や家路を急ぐ人々が溢れる大通りに着いた。亮はそれまで握っていた手を離し、立ち止まってくるりと雪花を振り返る。

「もう俺に会わないほうがいいよ」

「……どうして」

 何の変哲もない言葉の語尾が僅かに震えた。亮は雪花から微妙に視線をずらし、

「俺とあんたとじゃ、住む世界が違うから」

「そんなことないよ」

「いいや、そうなんだ。俺はあんたをこの道に巻き込む気はない。俺たちはもう二度と会わないし、それぞれの生きる道が交わることもない」

「そんな……」

 亮の眼差しは揺るがない。彼はもう決めてしまったのだ。多くを訊かずとも、雪花にはすぐに分かってしまった。

「あたしはもう一度、亮に会いたい」

 雪花は泣きたくなるのを必死に堪える。これ以上彼を困らせたくない。だが、言わずにはおれなかった。

「また会って、話がしたい。たくさんたくさん、亮と話したいよ」

「だめだよ、雪花」

 そう告げる彼の瞳を見て、雪花ははっと息を呑んだ。

「雪花は俺を人だと言ってくれた。どうしたって泣けない俺の代わりに、悲しいと言って泣いてくれた。俺はもう、それだけでいい。それだけもらったら、もう充分なんだ」

 亮は一度だけ雪花の両手を握り締めると、

「さよなら、雪花」

 そう言って背を向け、颯爽と歩き去っていく。名前を呼んだ次の瞬間、最後に呟いた言葉は雪花にしか聞こえなかった。

 人波が増える。車のクラクションがうるさい。遠ざかっていく亮の背が、帰宅ラッシュの雑踏に紛れて見えなくなる。

「亮……。亮!」

 その背が完全に消える瞬間、亮は片手をすっと挙げた。それきり彼は見えなくなり、代わりに耳障りな喧騒が鼓膜を満たした。

 雪花はしばらくそこから動けなかった。追いかけたいと思ったのに、両足は頑として動いてくれない。だがそれ以前に本当は、追いかけてはいけないのだと気付いていた。

 迫り来る夕闇が、夜の濃さで街を覆わんとしている。

「亮……」

 小さすぎる呟きは、雑踏の中で反響せずにたちまち消えた。



 帰宅すると、家族がとても心配していた。雪花は玄関に入るなり、佐知子から連絡をもらったらしい母に、「危ないことはしてはいけない」と説教された。一緒に出てきた父は何も言わなかったが、同じぐらい心配してくれていたのは顔を見ればすぐ分かった。雪花は両親に詫びると、足元に纏わりつくリーベを抱いて自室に引き上げた。

 ベッドに荷物を置くなり、携帯電話に佐知子から着信が入った。護衛を撒いたことを叱られたが、いつになく覇気のない語調だったので、かえって何だか心配になった。

 雪花はルームウェアに着替え、ベッドの上でリーベと遊んだ。リーベは雪花に構ってもらえるのが嬉しいらしく、終始興奮してころころと動き回っている。雪花はそれを微笑ましく見ていたが、やがてリーベを床に下ろすと、机の引出しから一枚の写真を取ってベッドに戻った。

 この写真を見る度、嬉しいような泣きたいような気持ちになる。

 これは、育ての母でもある叔母が作ったアルバムにあったものだ。そこから内緒で取り出して、普段は鍵つきの引出しに隠してある。そして、人知れず時々ぼうっと眺めるのだ。

 雪花によく似た面差しの母が、まだ乳飲み子の自分を抱いている。その左には父と十五歳の健人がおり、右には五歳の尋人が写っていた。父と長兄は白い歯を剥き出しにして笑い、次兄は雪花の頬をちょんと触り、母はふっくらと穏やかな微笑でカメラを見ている。自分が生まれた頃から愛されていたことを証明する家族写真だ。

 産みの両親の顔は写真でしか知らない。声も仕草も覚えていないし、抱き締められた感触も記憶にはない。だがこの写真を見ると、忘れてしまったはずの彼らの何かが、靄みたくぼんやりと浮かび上がってくる気がするのだ。覚えていなくても心の中に、愛されて育った記憶がちゃんと残っている。それは雪花にとって優しい家族の愛の証であり、心をちくちくと刺す悲しみでもあった。

 今まで誰にも言ったことがなかった。知られないように、気付かれないように細心の注意を払ってきた。本当の自分を見抜かれたくなくて、いつも無邪気で明るい雪花を演じていた。そこに見え隠れする感情に、ずっと蓋をし続けながら。

 砕け散った心の破片は、涙だけでは到底流しきれなかった。破片を握る手を包み込む手がなければ、もう一度しゃんと立つことなどできるはずもないほどに。

 あの手の温もりが忘れられない。時折見せてくれた笑顔が脳裏から消えない。誰かの温もりを愛しいと思ったのは初めてだ。誰かの笑顔をこんなに恋しく思うことも。

「亮……」

 隠し続けていた秘密に手を重ねた。他の誰も知らない、二人だけの秘密だ。それは互いの中だけで生き続ける、甘く切ない痛みを伴う二人の証。きっとこれからも、変わることはないだろう。

 写真をそっとベッドに置いて、雪花は両膝を抱き締める。

「亮……会いたいよ」

 叶うならばもう一度、彼に会いたい。でもそれは二度とないと、雪花はちゃんと知っていた。だから亮は、最後に雪花の名を呼んで言ったのだ。「どうか幸せに」と。

 雪花は膝小僧に額を埋める。泣きたいわけではない。ただただ切なかった。

 ぬいぐるみと戯れるのに飽きたリーベが、ベッドに上がってきて雪花の足の指をくいくいと踏む。顔を上げると、リーベが腰にぴたりとくっついてきた。

「だめだよ、リーベ。たとえあんたでも、教えてあげない」

 くしゃくしゃと撫でてやると、リーベはもっとと言わんばかりに尻尾を振る。その仕草が愛くるしくて、抑えようとしたものが一片、胸の奥に零れ落ちた。

 そんなつもりはなかったのに、雪花はリーベを撫でながら少しだけ泣いた。



 雪花と別れてすぐ、亮太は行動を起こした。

 帰宅するなり、ベッドにあるノートパソコンの電源を入れる。検索エンジンにキーワードを入力すると、目当ての情報は一分もしないうちに見つかった。

 クリックして展開した情報いわく。

 一九九六年九月、一台の普通乗用車が大型ワゴン車に追突された。普通乗用車は側にあった電柱に激突して大破、炎上。乗っていたK県警警察官とその妻は病院に搬送後、間もなく死亡が確認された。追突した大型ワゴン車に乗っていた男は、全身打撲の重傷を負ったものの命に別状はなし。調べによると、男は死亡した警察官が過去に検挙した人物で、服役を終えて出所したばかりだった。男は自分を逮捕した警察官を強く恨んでおり、妻もろとも殺してやろうと企み、制限速度を遥かにオーバーして追突したと供述。男が殺意を持って犯行に及んだことから、K県警は彼を殺人と道路交通法違反、器物損壊の容疑で逮捕した。

 ざっと読んだだけで事件のあらましは掴めた。亮太はさらに検索を繰り返し、事件の関連記事を集められるだけ集めていく。インターネットを駆使した情報収集には慣れているので、十年以上前の事件といえども苦労はなかった。亮太は側に置いたペットボトルも飲まずに、集中してひたすらノートパソコンを操作し続ける。

 被疑者は退院後に起訴され、裁判で懲役十二年の実刑判決が下った。双方が控訴しなかったので判決は確定し、被告人はそのまま刑に服すこととなった。

 そこまで情報を集めて、亮太はあることに気が付いた。

「……懲役十二年、執行猶予なし?」

 プラウザを操作していくつか前のページに戻り、事件の裁判記事にもう一度じっくりと目を通す。

「やっぱり」

 事件が起きたのは今から十三年前。その翌年すぐに裁判は終了している。つまり順当に考えれば、被告人は既に刑期を終えて出所していることになる。

「……いや、模範囚だったとしたら、もっと早くに出てきてるかもしれないな」

 詳しい出所時期を調べるまでもない。とにかくこの事件を起こした超本人は、既に社会復帰を果たしているのだ。亮太の顔が冷徹なまでに引き締まる。

 このことを彼女は知っているだろうか。いや、恐らく知らないだろう。知っていたなら、あの時話してくれたはずだ。

 雪花はきっと何も知らないのだ。両親を殺した男が、既に世に放たれていることを。憎むことも悲しむこともできないでいる彼女は、そんな現実は露も考えていないだろう。

 亮太はポケットから携帯電話を出して耳に当てた。

「こんばんは、総一朗小父さん。夜分遅くにすみません。ええ……ええ、ちょっとお願いしたいことがあって電話しました。ええ……はい、はい。僕なんかがこんなこと言うのは至極恐縮なんですけど、今回限りの一世一代の我が儘なんで、許してもらえませんかね?」

 亮太は酷薄な笑みを浮かべて言った。

「殺したい奴がいるんです。超個人的なんですけど、どうしても生かしておけない奴が」



 亮太の申し出に、竹田はすぐに動いてくれた。彼は《ヴィア》の仕事をこなすのと同じ流れで、ターゲットの住所の特定から事後処理の手筈まで、短時間で全てを整えてくれた。

 深夜二時を廻った頃、亮太はアパートを出た。月極駐車場に止めてある車に乗って、竹田から教わった住所へ向かう。ターゲットは隣のH市に住んでいるらしい。車通りの恐ろしく少ない国道を、亮太は制限速度を少しオーバーしながら駆け抜ける。

 目的地には三十分ほどで到着した。全六室の小さなワンルームアパートだ。深夜の闇に包まれていても、本来の安っぽくて殺風景な外観はすぐに想像がつく。

 アパートの住人は皆、眠りに就いているようだ。一階に住んでいるのはターゲットだけで、他の住民は二階に居を構えているという。

 ターゲットは一階の真ん中、一〇二号室を借りている。竹田によると、彼は半年前に刑期を終えて出所していた。以降はここで一人暮らしをしており、現在は仕事もなく、家賃を二ヶ月滞納しているらしい。近しい親族や仲の良い友人、恋人といった存在も見受けられないという。つまり、死に逝くには好都合な生活をしているわけだ。

 亮太はアパートの死角に車を止め、髪の毛を全て覆い隠すニット帽を被って外に出る。任務時に使う黒の革手袋を嵌め、ホルスターに入れた拳銃に三発の弾を装填した。状況からみて一発で充分という自信はあるが、念を入れておくに越したことはない。消音機も忘れずにつけておく。銃声で周囲に事態を気取られないためだ。

 亮太は足早にアパートへ向かうと、一〇二号室のドアノブをそっと捻った。意外にも鍵は開いていた。無用心すぎることこの上ないが、失うものなど何もない御仁の辞書に、防犯意識といった言葉を載せる必要はないのだろう。

 音を立てずにドアを開け、靴を脱いで上がり込む。ワンルームの室内は、暗闇の中でも乱雑としているのが見てとれた。スポーツ新聞や衣服がそこら中に散らばり、小さすぎるシンクはカップラーメンと酒類の缶で溢れ返っている。それにこの部屋自体、随分と長い間掃除をしていないようだ。こんな状態でも平気で暮らせる人間の神経が、亮太にはさっぱり理解できない。

 いや、違う。亮太はすぐに思い直した。奴はもはや人間ではないのだ。自分と同じように、人の皮を被った悪魔でしかない。

 廃品みたくぼろぼろのベッドで、ターゲットは寝息を立てている。亮太が近付いてもびくともしない。呑気なものだと嗤いたくなった。

 ホルスターから銃を抜き取ると、亮太は一瞬の動作でベッドに飛び乗った。男の腹に膝を食い込ませ、手袋をした左手で口を塞いで全体重をかける。突然のしかかった重さに目を覚ました男は、抵抗のつもりなのか手足をばたつかせた。驚きで見開かれた眼光と、一瞬だけ視線が合った気がした。亮太は今度こそ嗤った。

 右手に握った銃を男のこめかみに突きつける。そして一瞬の躊躇もなく、亮太は引き金を引いた。銃弾は消音機を通って男の頭蓋を貫き、マットレスに絵の具をぶちまけたような赤が飛び散る。

 亮太はベッドから素早く下りた。死に顔を拝む気などさらさらない。ふうっと一度だけ息を吐いて振り返ると、玄関のところに竹田が立っていた。

「終わったのか」

 漆黒の闇と同化するような出で立ちの竹田は、いつもより数段低い声音で問う。

「ああ、終わった。悪いけど後始末よろしく」

 軽く右手を挙げてそう告げると、亮太は竹田に持っていた拳銃を渡す。そして静かに靴を履いて部屋を出た。男の死が他殺だと悟られないよう、竹田がこれから精巧な偽装工作を施してくれる。

 亮太は周囲が静まり返っていること、人気がないことを確かめると足早に車に戻った。運転席に乗り込むとすぐに手袋を外し、乱暴な所作で帽子を取って髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。そしてしばらく闇を見ていた。携帯をいじるでもなく、ラジオや音楽を流すこともせず、亮太はただ暗いだけの夜を凝視し続けた。

 十五分ほどして、助手席に竹田が乗り込んできた。彼がシートベルトを締めるのを見てから、亮太は車を発進させて闇に溶けるように走り去る。

「お前の望みどおりに仕上げてやったぞ。これで奴の死は周囲にも警察にも、ただの拳銃自殺としか見えまい」

「それはどうも。悪かったね、こんな夜中にこき使って。また今度、酒でも奢るよ」

 亮太はからりと返した。竹田がそれ以上何も言わなかったので、亮太もあえて何も語らなかった。

 長い沈黙の後、最初に口火を切ったのは竹田だった。

「……いったいどういう風の吹き回しだ」

「何が?」

「今回のことだ。お前がこんなことを言い出すのは前代未聞だろう」

「んな大袈裟な。小父さんは電話の向こうで面白がってたよ」

「茶化すな」

 威厳ある声音で一喝され、亮太は口を閉ざす。

「なぜあの男を殺した? 奴は《ヴィア》とは何ら関わりない人間だ。そんな存在を屠ったところで、我々が得るものは微塵もない。奴を手にかけて、いったい何の意味がある?」

「でも、生かしておく価値もないだろ」

 亮太は冷淡に言ってのけた。

「そういうことではない。お前は《ヴィア》と関わりのない人間の暗殺を、自ら旦那様に申し出た。しかしその真意を、最後まで明かそうとしなかった」

「別に隠してたわけじゃないよ。特に訊かれなかったから言わなかっただけ」

「はぐらかすな」

 竹田は厳しい口調で言い放つ。彼の問いは至極真っ当だ。亮太はこの件について、総一朗に許可を求めた後に竹田に助力を乞うたが、二人にその理由を一切話さなかった。恐らく総一朗と竹田は、訊いたとしても亮太が答えやしないことを、ちゃんと見抜いていたのだろう。総一朗はそれに気付いた上で、面白がって許可してくれたのだ。

 亮太は苦笑いしながら頭を掻く。

「手厳しいなあ、竹田さんは」

「言え、亮太。お前の真意はどこにある?」

 竹田はあくまで厳しく問い質す。理由を話すまで、引き下がる気はないのだろう。亮太は再び苦笑した。

 すぐには答えようとしない亮太に、竹田がまたしても鋭い視線を投げつける。亮太は諦めたように肩を竦め、ハンドルを右手だけで操作しながら、

「別に真意とか、そんな大層なもんはないよ。ただあの子が……雪花が泣いていたから」

 竹田は虚を衝かれた顔になる。

「本当は両手では収まりきらないぐらい重たいものを抱えて、でも誰にも心配かけないように笑顔でいようと努力してた雪花が、泣いていたから。悲しいのにそれがいまいち分からず、憎むこともできないと言って泣いていたから」

 亮太の眼差しが、すっと糸のように細くなる。

「だから殺した。あいつは、雪花を苦しめる害虫でしかないから」

 車窓を過ぎていく夜の街には、目立った騒音も異変もない。だが、静かな眠りに就いていると見せかけて、実はどこかでじっと息を潜めて目を開いている気がした。ほんの少しでも隙を見せれば、たちまち果てしない闇に堕としてやるぞと言わんばかりの存在感で。

「あの子は陽向を生きる子だ。普通の人と出会って、普通の人の輪の中で、普通の幸せがある人生を生きていく子なんだ。そんなあの子に一欠片でも翳を与えるあいつの存在が、どうしても許せなかっただけ」

 他車が一台も見えない大通りを、亮太は制限速度を守って駆け抜ける。

「あの子のために俺ができることは、これくらいしかないからさ」

 自嘲めいた笑みを浮かべる亮太の言葉を、竹田は何も言わずに聞いていた。

「……お前はいいのか」

「何が?」

 沈黙の後に発せられた言葉の意味を、亮太はすぐには量りかねた。

「お前はそれでいいのかと訊いているんだ」

「いいも何も、俺にはこれしかできない」

「雪花なる娘御は、何も知らぬまま、これからを生きていくことになる。お前が奴を殺したことも、もしくは奴の死そのものも知らぬままに」

「それでいいんだ。知らなくていい。あれ以上の苦しみなんて、あの子は知らなくていいんだ」

「……全てを知れば、泣くかもしれんぞ」

 亮太はははっと乾いた笑みを漏らす。

「泣くだろうなあ、雪花は優しいから。だとしても変わらないよ。俺はあの男が許せなかった。罪を償おうがどうしようが、あいつがこれからものうのうと生き続けて、雪花の人生に一欠片でも影響を与えると思うと、どうしても生かしちゃおけなかったんだ」

 亮太は顔から笑みを消し去る。そしてほんの少しだけアクセルを踏み込んだ。

「竹田さんの言いたいことは分かるよ。これは俺の単なる自己満足。それ以上でも、それ以下でもない。許されるつもりなんて初めからないよ。たとえ雪花に憎まれることになっても、俺は迷わずあいつを殺した」

 淀みなくきっぱりと言い切る亮太を、竹田はただじっと見つめる。

「……お前はよかったのか」

 亮太は黙った。

「お前の心は、本当にそれでよかったのか?」

「いいも悪いも、俺には分からないよ。それに不思議なくらい、何も感じていないんだ。後悔も迷いも、悲哀も罪悪感も。あいつを殺したら、そういう何かに苛まれるかと思っていたけど、実際は普段の俺と何ら変わらなかった」

 繕うことなく話す亮太に、竹田は眉間の皺をさらに深くする。それは、怒っている時とはまた別の、実に複雑で重苦しい面持ちだった。

「でも、考えてみればそれが当たり前なんだ。だって俺は闇の人間だから。心なんてないから。……あったとしても最初で最後だ。もう二度と、揺さぶられることはない」

 亮太はきっぱりと言い切った。そこに痛みや嬉しさはない。言うなれば無に近いだろう。心に何も存在しないから、言い切ることに躊躇はない。ただ一つだけ浮かぶとしたら、細い肩を震わせて泣きじゃくる雪花の姿だ。

「雪花はさ」

 竹田の眉が僅かに動く。

「泣いてくれたんだ、俺の代わりに。俺の話を聞いて、そんなの悲しいと言って泣いてくれた。それで、俺は優しい人だと言ってくれた。俺の名を呼んでくれたんだ。だから」

 亮太は柔らかに目元を和ませる。あの時胸を満たした感情は、心に焼きついたままずっと消えない。初めて自分を人間だと思えた瞬間だった。

 竹田は何も言わない。一瞥もくれることなく、ただ深く瞑目している。光の少ない夜を見つめたまま、亮太はほんの少し頬を緩めて微笑んだ。

「思ったんだ。それでいい……俺にはそれだけで、もう充分なんだって」



 二月も中旬を過ぎた頃、卒業式が無事終了した。

 高校生活最後のビックイベントを終え、尋人はようやく肩の荷が下りた気がしていた。卒業式の前週は剣道部の追い出しコンパで大騒ぎし、その翌週は友人たちに、連日のようにカラオケへ連れていかれた。それらは全て、はめを外すという言葉以上の賑やかさで、普段どちらかといえばインドア派の尋人も今までにないくらいはしゃいでいた。

 高校生でなくなった尋人を待つのは、四月一日にある大学の入学式だけだ。一ヶ月強の春休みは課題やテストに追われることなく、自分のためだけにひたすら時間を満喫できる。

 今朝も平日なのに、尋人は出掛ける準備をしていた。「また遊びに行くの?」と半ば呆れ顔な母に、「今日は友達ん家でゲーム。誘われてるから仕方ないんだよ」と苦笑いを返す。内心は、高校を卒業しても誘ってもらえることが嬉しくて仕方がなかった。

 尋人は玄関までついてきたリーベをわしわしと撫でると、靴を履いて扉を開ける。車庫に止めた自転車に跨ろうとした時、背後から「おい」と凄むような声が飛んできた。振り返ると、車に凭れて健人が煙草を吹かしている。

「兄さん」

「お前、朝っぱらから今日もどっか行くのか」

「ああ、友達の家に呼ばれてて」

「どこの奴だ」

「え? ああ、隣町の……」

「なら乗れ。出勤がてら送ってやる」

 尋人は迷った。送ってくれるのはありがたいが、夕方に帰る時はどうすればいい。徒歩では遠いから、自転車で行こうとしているのだが。

 やんわりと断ろうかと思ったが、兄が放つ無言のオーラに気圧された尋人は、人知れずため息をついてから仕方なく助手席に乗り込んだ。

 運転席に座った健人が、慣れた手つきで車を発進させる。この車は杉原家のものだが、使っているのは主に健人だ。姉の佐知子は自分用の車を別に持っている。

 健人は煙草を吹かしながら、滅多に使うことのない路地を選んで走る。

「兄さん、この道違うよ。遠回りになる」

「いいんだ」

 そうは言っても俺がよくない。言い返そうとした尋人は、しかしすぐに言葉を呑んだ。健人がやけに硬い面持ちをしていたからだ。

「父さんと母さんはもう知ってる。佐知子もだ。だが、これから言う話はオフレコだ。絶対に雪花には言うな」

 命令口調で念押しする健人に、尋人は悪い話が始まるらしいと瞬時に察する。だが車に乗った以上、逃げ出すことはできない。尋人は呼吸一つで覚悟を決めた。

 まるで時間稼ぎのように、健人は右折と左折を器用に繰り返して走り続ける。

「あの野郎のことだが」

「あの野郎?」

 唐突に切り出され、尋人は一瞬誰のことだか分からなかった。

「名前は出すな。聞くだけで吐き気がする」

 憎々しげに吐き捨てる健人を見て、尋人はようやく彼が指す人物が誰かを悟る。自分たち兄妹の実の両親を殺した男のことだ。

 朝からなんて嫌な話だ。はしゃいだ気分が途端に沈んで、尋人は窓の外に視線を放る。

「あの野郎は死んだ」

「えっ?」

 思いもよらない言葉に、尋人は心の底から驚きの声を上げた。

「あいつはもうこの世にはいない。死んだ」

「死んだって……何で。どうして?」

「十日ほど前に拳銃自殺したそうだ」

「自殺?」

「ああ、そう報告を受けた。所轄の調べじゃ事件性はなく、遺書はなかったが、その場の状況から自殺として処理された。拳銃の入手ルートも判明してるし、奴自ら手に入れたと見て間違いない」

 尋人は絶句したまま、ハンドルを握る兄の横顔をただ呆然と見つめる。

「とにもかくにも、俺たちを苦しめる要素は、これでもうなくなったわけだ」

 至極さっぱりとした語調で健人は言う。しかし言葉とは裏腹に、その表情はちっともさっぱりしていない。

「……父さんと母さんは、何て?」

「ほっとしたってのが正直なとこなんじゃねえか。自殺ってのは後味悪いが、そのままのうのうと生き続けられるよりかはだいぶいい」

 尋人は渋い顔になる。確かにそれが被害者である自分たち家族の本音だろう。恨んでも恨みきれない、憎んでも憎み足りない人間がこの世から消えてくれた。喜ぶ道理はあるとしても、悲しむ理由は到底見つけられない。

 だが尋人は、素直によかったとは思えなかった。胸の奥で、何かがまだもやもやと燻っている。その感覚の名前が分からなくて、尋人は苦々しい形に眉を歪めた。

「これで俺たちの人生を妨げるものはなくなった。俺たちは自由だ。お前ももう、苦しまなくていいんだ」

 健人の言葉は晴れやかではあるがどこか重く、尋人に対して話しているのに、まるで自分に言い聞かせているように聞こえた。無理もないと尋人は思う。実の両親の事件について、兄妹の中で一番苦悩したのは彼なのだから。

「終わったんだ、これで全部。……ようやっと、終わったんだ」

 その言葉は解放を意味しているはずなのに、全然晴れ晴れとしていなかった。それがいたたまれなくて、尋人は前を睨んで運転する十歳上の兄の横顔を直視できなかった。

 多分この先も苦悩は続く。悲しみが消えることはないし、憎しみは恐らくずっと燻ったままだ。でも、一つの区切りがついたのは確かだろう。喪ったものは二度と還ってこないとしても。

「……雪花には、本当に何も言わなくていいの?」

 尋人が尋ねると、健人はくわえていた煙草を携帯灰皿に捨てながら、

「当たり前だ。雪花は何も知らないんだ。だから、これからもそのままだ。真実なんて、知らないほうが幸せなこともある」

「……そっか」

 尋人は小さく呟くと、やがて何度か首肯する。

「うん。兄さんがそう言うなら、俺はそれでいいよ」

 雪花を傷つけたくない。それは家族全員の思いだ。雪花は二歳の時に実の両親を亡くした。物心つく前だったから、恐らく二人の顔も声も覚えていないだろう。産みの親が既に死んでいることは伝えてあるが、逆恨みの末に殺されたという真実までは告げていない。健人が言う、知らないほうが幸せだという言葉の意味も、尋人なりによく理解しているつもりだ。

「兄さん」

 健人が一瞬、視線だけを寄越してきた。

「ありがとう、教えてくれて」

 健人は少し黙り込んだ後、「ああ」とだけ返した。

 それからずっと、二人は黙ったままだった。どちらもそれ以上の話はせずに、健人は前を睨みながら運転を続け、尋人はずっと車窓の景色を見ていた。

 尋人は駅前で降ろしてもらった。運転席の窓を半分だけ開けた健人は、新しい煙草に火を点けながら、

「帰りは歩いて帰ってこい」

「何だ、迎えに来てくれないの?」

「ばか言ってんじゃねえよ。卒業直後の暇なガキと違って、大人はいつだって忙しいんだ。若者は若者らしく、家までぐらい歩いて帰れ」

 ぶっきらぼうを絵に描いたような顔で、健人は乱暴に言い捨てる。いつもの彼らしい態度に、尋人は内心でほっと安堵していた。

「あんまり遅くなるんじゃねえぞ。門限守らないとぶっ飛ばすからな」

「分かってる。じゃあ、兄さんも気を付けて」

 その言葉が終わらないうちに、健人は運転席の窓を閉めて車を発進させた。その影が見えなくなるまで見送った尋人は、歩き出す前に一つだけ深いため息をついた。



 久しぶりに見に行くと、雪花は普段と変わらない生活を送っているようだった。学校終わりに友人たちと、きゃいきゃいと盛り上がりながら通学路を歩いている。

 亮太はその様子を、離れた物陰から見ていた。夕暮れの街は人出が多く、歩道を行き交う群衆に雪花は違和感なく馴染んでいる。彼女が友人たちと何を話しているかは分からない。ただ、雪花はとても楽しげに笑っていて、傍らにいる三人の女の子も同じようにはしゃいでいた。

 帰宅ラッシュの雑踏に、雪花たちの姿が紛れていく。少しずつ開いていく距離を埋めることなく、亮太はただその後ろ姿を見つめていた。そしてふっと微笑を浮かべる。

 雪花は笑っている。とても朗らかな明るさで、いきいきと。あれが本来の姿なのだ。雪花はずっと、陽向の中を生きていく。

 どうかその笑顔が、いつまでも在るように。悲しみや憎しみ、闇の暗さで染まることなく、穏やかな世界でずっと生き続けられるように。亮太はただそれだけを純粋に願った。

「どうか……幸せに」

 あははと笑う雪花の後ろ姿に微笑を残して、亮太はくるりと背を向ける。そして、彼女とは逆方向の人混みに紛れて消えた。



 ふと何かを感じた気がして、雪花は足を止めた。背後を振り返ってみたが、そこには大して何もなかった。

 見知らぬ人々が行き交う歩道には、雪花の心に引っ掛かる何かは存在しない。見てすぐに分かるような不審者も、人の興味を惹くような交通事故も起きていない。何の変哲もない黄昏時の街並みがただあるだけだ。

 それでも一瞬、誰かの視線を感じた。邪念や悪意のあるものではなく、ただ純粋に温かい誰かの眼差しが、つい先程まですぐ側にあった気がしたのだ。

 突然立ち止まった雪花を訝しんで、三人の友人たちが足を止める。

「雪花、どうしたの?」

「何かあった?」

「何、誰か知り合いでもいたの?」

 口々に問われた雪花は我に返り、慌てて首を横に振ってみせた。

「ううん、何でもない」

「そうー? 突然立ち止まるんだもん、何かと思ったじゃん」

「ごめん。ほんと、何でもないの」

 雪花は繕うように笑ってみせたが、すぐにまた後ろを振り返ってしまう。そんな彼女の様子を、友人たちは互いの顔を見合わせて不思議がった。

「……ううん、違うの。ほんとはね、誰かの視線を感じた気がしたんだ」

「ええーっ」

 友人の一人が仰天した声を上げる。雪花は慌てて片手を振り、

「違うの。変な意味じゃないよ。ただ、そこに知ってる人がいた気がしたんだ」

「知ってる人?」

「誰? あっ、まさか男? ねえねえ、男なんでしょ!」

 興奮した二人の友人が雪花の肩に手を回し、「このこのっ!」とぐいぐい揺さぶる。雪花は笑いながら抵抗した。

「ちょっとやめてよー、痛いってば」

「ねえねえ、誰なの? 雪花ってば、今好きな人とかいたっけ?」

「隅に置けないなあ、こいつめっ」

 友人たちに頬やら腹やらを小突かれ、雪花は笑いながらやんわりとその手を振り解く。そしてようやく自由になった体で、もう一度だけ後ろを振り返った。

 そこにはやはり何もない。建ち並ぶビルと、風の速さで行き交う車。足早に通り過ぎる人たちと、暮れなずむ空があるだけだ。彼の姿はどこにも見えない。

 いなくて当然なのだ。彼と自分は、もう二度と会うことはない。

 分かってはいたが、やはり寂しかった。もしかしたら、また会えるかもしれないと思ったのだ。あの日の夕刻、今と同じような雑踏の中から、たまたま彼を見つけ出せたように。

 その時のことを思い出して、雪花はほんの少し切なくなった。

「会いたい人がいるの。もう二度と会えないけど、視線を感じた気がしたから、もしかしたらまた会えるかなって思ったの。でも、気のせいだったみたい」

 そう言って、雪花は友人たちに笑い返した。彼女たちは当惑し、どう気遣えばいいか分からないといった顔をしている。

「さあさ、行こ行こっ。ミスドのドーナツ百円キャンペーン、今日までなんだから!」

 そう言って友人たちを急かし、雪花は再び歩き出した。四人の女子中学生は、きゃいきゃいと夕方の街を行く。

 本音を言うと寂しかった。二度と会えないのは哀しいし切ない。彼の笑顔が恋しかった。もう一度だけでいいから、その温もりに触れたかった。しかしそれは叶わぬ夢だ。

 しばらくはきっと、この街並みのどこかに彼がいないだろうかと、無意識のうちに捜す日々が続くだろう。だが雪花は、それほど落ち込んではいなかった。二度と会えないのはつらいけれど、この広すぎる世界のどこかで、今日も彼が生きてくれていたらそれでいい。

 だってあたしたちは、二人だけしか知らない秘密で繋がっている。

 雪花は友人たちと喋りながら、心の中では亮を想っていた。砕けた心の破片に触れ、包み込んでくれたその温かさを思い出す。

 まるで夢のようなひとときだった。二人の周りだけ時が止まったような、甘く切なく、ほんの少し哀しい時間。これから先、何があったとしても忘れることなどないだろう。

 大丈夫だよ。あなたの上にも、太陽はちゃんと存在してる。だからどうか、生きていて。

 雪花は心の中で亮にそっと語りかけた。声として言葉にしなくても、きっと届くだろうと信じた。

 胸に根付いた一欠片の希望と秘密を、心でぎゅっと抱き締める。それだけで、雪花にはもう充分だった。

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