第8話 孤独の闇
あおいと別れてから二週間が過ぎた。十一月に入ると秋らしさは急に陰を潜め、木枯らしがあちこちで吹くようになった。秋の終わりと冬の息吹が同時に訪れたみたいだ。乾いた空気の中に凛とした冷たさが際立ってきたように思う。
尋人は模試が終わった午後、久しぶりに杉原調査事務所に顔を出した。試験勉強に専念するため、十日間ほど休みをもらっていたのだ。
三階のオフィスに入ると、人工的な暖気がたちまち体を包む。尋人は驚いた。もう暖房が使われる季節になったのだ。
尋人はデスクに鞄を置いて、久々に会う所員たちと談笑してから所長室へ向かう。自動ドアを出た瞬間、思わず「寒っ」と呟いて身を震わせた。室内と室外の寒暖差を肌で感じ、尋人は冬が来るのだと改めて実感する。
所長室のドアをノックすると、気だるそうな声が返ってきた。
「入るよ、姉さん」
中はオフィスよりも暖房がよく効いている。そういえば佐知子は極度の寒がりだったと、尋人は今更ながら思い出した。
「ああ尋人、よく来たわね。ほら、さっさと閉めて。冷気が入ってきちゃうじゃない」
「はいはい」
デスクに座る佐知子に急かされ、尋人は慌ててドアを閉める。
「もう暖房の季節か。最近急に冷えたよな」
「だって冬だもん。十一月よ、あんた。もうすぐ年の瀬よ。クリスマスよ」
「クリスマスのほうが年の瀬より早いよ、姉さん」
「どっちも似たようなもんでしょうが」
「時期は近いけど中身は全然違うよ」
佐知子の軽口に適当に付き合いつつ、尋人はどさりとソファに座った。佐知子は分厚い膝掛けを畳んで立ち上がると、
「やっぱこんな寒い時期こそ、淹れたてあつあつのコーヒーよね。尋人もいる?」
尋人はぽかんと口を開けた。返答がないことに佐知子が怪訝な顔をする。
「何よ」
「……いや、珍しいなと思って。姉さんが俺にコーヒー淹れてくれるなんて、滅多にあることじゃないからさ。どうしたの? 何かあった?」
「あんたね、人の親切を無粋な詮索で潰すんじゃないわよ。ここは、ありがとうございますお姉様、謹んでいただきとうございますって頭下げるとこでしょ」
「でも普段、絶対にしない……」
「ああもう、うるさいわね。いるの? いらないの?」
「いります。ありがたくいただきとうございます。ははぁ」
尋人がわざとらしくひれ伏すと、佐知子は「最初から素直に言えばいいのよ」とコーヒーを淹れてくれた。受け取ったマグカップは程よい温かさで、冷え切った掌によく馴染む。尋人は息を吹きかけながら、ブラックコーヒーを急がずゆっくりと味わった。佐知子は自分のマグカップを手にデスクへ戻ると、いつものようにぐいっと煽るように飲む。
「模試、無事終わったよ」
「お疲れ。どうだった? 日々の努力の成果は」
「ぼちぼちかな。特によくも悪くもなく、かといってそれほどひどくもなくって感じ」
「ここんとこの尋人、勉強の鬼だったもんね」
「そんな大袈裟なもんじゃないよ」
「いやいや、あの気迫はなかなかのもんだったわよ。もう必死って感じで」
「そんなことないって。ただ、そろそろセンター試験に向けて本気になったほうがいいかなと思って。周りの奴らの気迫に押されたというか」
「でも、あんたはもう進学先決まってるんだし、それほど頑張る必要はないんじゃない?」
「やるからには結果がほしいじゃん、センターも実力テストも全国模試も。手を抜くぐらいなら最初からやる必要ないし、そもそも受ける意味もないし」
「真面目ねえ。ほんと、あんたらしい」
「もしかしてばかにしてる?」
「褒めてるのよ。あたしでも学生時代、そんなに頑張った記憶ないわ」
「嘘つけ。T大法学部にトップで入ってトップで卒業したくせに。司法試験や国家Ⅰ種受験の勧めを面倒だからの一言でことごとく蹴って、教授陣や大学をさんざん泣かせたって兄さんから聞いたよ」
「遥か遠い昔の話ね。そんな若い頃もあったわ」
ついさっきまで木枯らしの中にいたせいか、温かなコーヒーがこの上なくありがたい。まだ十一月初旬だというのに、外は真冬といっても過言ではないくらい寒かった。そろそろコートとマフラーがいるかもしれない。
「それでさ、姉さん」
「ん?」
「今日はほんと、どうしたの?」
「何で」
「珍しく姉さんが俺に対して優しい。いつも俺をパシリにして、下僕扱いもしくは八つ当たりの対象にする姉さんが」
「やめてよ、他人に聞かれたら誤解されちゃうじゃない」
「事実じゃん。だから何でだろう、コーヒーは確かにありがたいけど、この後が若干怖いなって思うのは俺だけ?」
「失礼な子ね。人の善意は黙ってありがたく受け取るもんよ」
「普段ドSで女王様な人から滅多にない一欠片の愛情をもらうと、ありがたいのは確かなんだけど若干気味悪いんだよな。何か裏とかあったりしない?」
「一欠片はないでしょ、一欠片は。もうちょっと他の表現はないの?」
「じゃあ二欠片」
尋人は真顔で答える。佐知子は心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「人がせっかくなけなしの優しさを与えてやったっていうのに、つれない子ね」
「それは失礼。でもできればなけなしじゃなくて、日頃から少しずつでも与えてほしいな」
「それは無理よ。優しさってのはね、ほんの時折ちらりと見せてこそ効果があるんだから」
「何の効果だよ」
尋人が即座に返すと、佐知子は軽く笑って口元を引き締めた。そして硬い声音で言う。
「……あんた、最近元気なかったでしょ」
尋人はコーヒーを飲む手を止める。
「最近あたしもあんたも忙しくて、なかなかゆっくり話す暇がなかったからね」
マグカップをテーブルに置くと、尋人は自嘲気味に呟いた。
「何だ……やっぱりあったじゃん、裏」
「お姉様の優しい心遣いと言ってちょうだい」
尋人はどういう顔をすればいいのか分からなかった。笑い飛ばそうかと思ったが、どうしてもうまく笑えない。返す言葉を考えあぐねた尋人は、一番シンプルな事実を口にするしかなかった。
「俺さ、別れたんだ……あおいと」
佐知子がコーヒーを飲む手を一瞬だけ止め、ちらりと尋人に視線を向ける。
「あおいは人殺しだった。あの雨の夜の後もずっと、俺の知らないところで人を殺し続けていた。見たんだ、俺……その現場を」
何気なさを装ったつもりなのに、言葉は自然と震えを帯びた。それが恐怖へと連鎖して、あの真夜中の公園での出来事を否応なしに呼び起こす。尋人は歯を強く食い縛り、脳裏で再生された映像を消し去ろうとした。
「あれを見て……あんなおぞましい光景を見て、それでもあおいを好きでいるなんて俺にはできない。見なかったことに……何もかもなかったかのように忘れるなんて、できない」
尋人は頭を抱え込んで、吐き出すように言った。
「人殺しは嫌いだ。今も昔も……大嫌いだ」
痛みと恐怖が混ざり合った言葉を、佐知子はただ黙って聞いていた。低く響く暖房の稼動音が、のしかかるような重さで室内を支配する。
長い沈黙の後、しゅっという音に目を上げると、佐知子がマッチで煙草に火を点けていた。手慣れた動作でマッチを消すと、煙草を口にくわえて深く吸い込む。その目がここではないどこかを見ている気がして、尋人は無意識のうちに恐れを感じた。だからなのか、脳裏に浮かんだ言葉がそのまま口から出た。
「情けないと思う? 逃げ出したって。あおいを捨てて、俺だけ安全な場所に逃げたって」
「後悔してるの?」
ストレートな言葉を返され、尋人は少し黙り込んで目を伏せる。
「……分からない」
佐知子は煙を吐き出した。室内を満たしていたコーヒーの香りが一気に煙たくなる。しかし尋人は、その空気には慣れていた。
「分からないんだ、本当はあの時どうするべきだったのか。逃げ出すんじゃなくて、責めるのでもなくて、受け止めることを本当はしなきゃいけなかったのかもしれない。でも、できなかった」
尋人は膝の上に置いた掌をぎゅっと握り締める。
「騙されたと、思ってしまったんだ。信じていたのに裏切られたって。怖くて、恐ろしくて……。好きだったはずなのに、許せないと思ったんだ」
言葉を止めて、尋人は佐知子の表情を窺う。煙草を吹かす佐知子は無表情だった。関心がないのではなく、思案している時は自然に表情がなくなる。それをよく知っている尋人はほっと胸を撫で下ろした。
佐知子は天井に向かって煙を勢いよく吐き出すと、
「あの子の全てを受け止めて、それから目を逸らさずに向き合うなんて尋人には無理よ」
「……どうして」
淡々とした口調で断言され、尋人は感情の出口を一つ塞がれた気がした。佐知子は煙草をくわえ、背凭れに沈んで天井を見つめながら、
「あんたは優しい子だから」
そして煙草を口から離すと、ふーっと長い一筋の煙を吐き出す。
「誰よりも優しくて、寛大で気が長くて、他人の些細な痛みにも敏感で。それがあんたの美点。誇るべきいいところ。他人に傷つけられる痛みを知ってるからこそ、他人のつらさや苦しみに理解を示せる。……でもね、それも度が過ぎたら困りものだと思うの。だってそれは、相手にはプラスになっても、あんたにとって必ずしもそうだとは限らない」
尋人は佐知子の言葉に耳を傾けながら、ほろ苦い匂いとともに消えていく紫煙に見入る。一筋の軌跡を描きながら吐き出されたそれは、やがて染みみたく大きな靄として室内に広がり、薄汚れた匂いだけを残して空気に溶けていく。漂う紫煙は必ずしも同じようには消えない。形も消え方も、残り香でさえも全て異なる。まるで何事も一つの枠では縛りきれないと言わんばかりだ。
「……俺は優しくなんかないよ」
「それはあんたが自覚してないだけ。あんたは誰よりも優しい心を持ってる。そんじょそこらのことでは折れない強さと、ある程度のものは包み込める寛大さも持ってる。……でもね、それさえあれば全てに対して平等になれるとか、そういうものでは決してないのよ」
尋人は佐知子が吐く煙から目を逸らした。
「俺、さ……」
躊躇して言葉を止める尋人に、佐知子は視線を向けることで続きを促す。やや長めの逡巡の後、
「俺、本当は憎いんだ。父さんと母さんを殺した奴が、憎くて憎くてたまらない。いつも平気なふりして笑ってたけど、本当は死んじまえって思うぐらい憎くてたまらないんだ」
握り締めた掌が小刻みに震える。模様みたくぽつぽつとあったかさぶたの一つを、躊躇いながらも剥ぎ取った気分だ。治癒したはずのそれは思いがけない痛みで心を貫く。表情を繕う余裕はなく、尋人は握り締めた掌にさらに力をこめた。
脳裏にまざまざと蘇る光景がある。
両親の告別式のことだ。右と左がようやくちゃんと分かり始めた五歳の時、尋人は生まれて初めて葬列を経験した。親戚や近所の誰かのものではなく、自分を産んでくれた両親に最後の別れを告げるための儀式だった。白と黒を基調とした祭壇の中央で、その日の朝に笑顔で保育園へと送り出してくれた彼らの顔が、二つの黒い額縁の中に収まって尋人を見ていた。その無言の笑顔を見て、両親はもう二度と帰ってこないのだと幼心に悟った。
その瞬間、尋人の中に言葉ではとても表せない感情が生まれた。荒れ狂う渦と化して全てをなぎ倒すような、夜よりも濃い闇の底に突き落とされたような、当時持っていた語彙では到底表せない激情が、つむじから爪先まで一気に駆け抜けて脳を支配した。言葉にできたなら少しは楽だったかもしれない。しかし当時は、自分さえも壊してしまいそうな感情の荒波を、小さな体の中に抑え込むことで必死だった。
あの感情を忘れることは一生ない。何年後かに、その名前が憎しみであることを自然と知ったが、一度開いた傷口を塞ぐのは容易ではなかった。抹消することも塗り潰すこともできず、見て見ぬふりをすることが精一杯だった。幼心に刻まれたそれは、年を重ねるごとに確かな痛みと形を伴って、時折激しく疼き暴れることがある。しかし尋人は、その思いを誰にも言ってこなかった。
「本当はずっと憎かったんだ。許せなくて、許したくなくて……。どれだけ考えても、許すことなんてできない。本当はずっと誰かにぶつけたかった。兄さんみたいに、あいつが憎い、殺してやりたいって大声で叫んでしまいたかった」
当たり散らすように泣き喚いた兄の姿をよく覚えている。両親の通夜の後、健人は二人の棺の前で号泣していた。当時中学生だった健人は、宥めに入った親戚を突き飛ばし、棺に縋りついて叫びながら泣いていた。大人になったら殺してやる、絶対に仇を取ってやると呪文のように繰り返していた姿を、幼かった尋人は襖の隙間から密かに見ていた。その記憶はあまりに痛々しく、網膜に焼きついたまま今も消えない。
「俺は人殺しが嫌いだ。大嫌いだ。今も昔も……これからもずっと、ずっと嫌いだ」
ひりつくような沈黙が流れる。佐知子はずっとくわえていた煙草を口から離し、時間をかけて深々と煙を吐き出した。
「健人はあの時中学生で、気持ちの出し方を知っていたから。でも、あいつだってあんたと同じよ。今でこそ一端に刑事なんてやってるけど、あんたと似たようなものを抱えたまま、何年経っても捨てられずにいる。でも健人と違って、それを言わないのがあんたの優しさ」
「そんないいものじゃない。俺は逃げたんだ。だって許せないのに……父さんと母さんを殺した奴を今でも許せないのに、あおいを許すことなんてできない。何も見なかったふりをして、そのまま好きでいるなんてできない。それなら死んじまった父さんと母さんはどうなるんだ。俺が人殺しを許したら、人殺しに殺された父さんと母さんはどうなるんだよ」
尋人は握り締めた掌で膝をがんと強く叩いた。佐知子はそれをちらりと見やり、目を閉じて黙り込んだ。やがて立ち上がり、短くなった煙草を灰皿に捨てるとソファの背に軽く腰を置く。
「それも全て、あんたの優しさ。誰かを思いやって、誰かのために心を砕く、あんたの優しさよ」
尋人は顔を上げられなかった。佐知子は労るように語りかける。
「ねえ尋人……あたし思うの。あんたは昔っから優しい子で、遊んでて怪我した子を家までおぶっていったり、悪戯した雪花の代わりに叱られることだって何度もした。伯父さんと伯母さんの事件の時だって、あんたは恨み言一つ言わずに雪花の面倒を見て、ただじっと健人の傍についてた。あたしも父さんも母さんも、あんたは本当に優しい子だよねって何度も話したわ」
あやすように見下ろす佐知子の手が、そっと尋人の髪を撫でる。
「でもね、あたしはそれが不安だったの。あんたが他人に無償で与える優しさ……他人の非も傷も、悩みも痛みも全部受け止めようとするあんたの優しさが、いつかあんたを潰してしまうんじゃないかって。他人を思うあまり、あんたが自分の心を殺し続けて、いつか取り返しのつかない傷を負ってしまうんじゃないかって、ずっと不安だった。……正直に言うと、あんたがあおいと付き合うって言った時、こうなるんじゃないかって薄々は感じていたの。あおいの存在が、知らず知らずのうちにあんたを潰していくような気がして、何だか怖かった」
優しく髪を撫でる佐知子に何も言わず、尋人は俯いてされるままになっていた。
「ねえ尋人。お姉ちゃんはね、あんたが悩み抜いた末に選んだ道を妨げることはしないし、非難したりもしない。でもね、やっぱり傷ついてほしくないとは思うの。あんたも健人も、雪花だってそう。子供の時に、あんなつらい目に遭わされたんだもの。憎む気持ちも、許せないと思う気持ちも当然だし、きっと誰にもそれを否定する権利はないわ」
「俺はあおいから逃げた。憎むよりも信じたいって思っていたのに、信じ抜くことができなかった。あの雨の夜のことも、許したつもりでいて、本当は忘れることができなかったんだ」
「だとしても、お姉ちゃんはそれが悪いとは思わないわ。あんたの心が死ぬよりましって言ってあげる。人間はね、キャパシティオーバーしそうになったら自動的に投げ出す仕組みになってるの。それができない人間は潰れてしまう。お姉ちゃんは、いくらあおいのためだからって、あんたにそうなってほしくはないわ」
佐知子は尋人の頭をぽんと軽く叩くと、テーブルに置かれたマグカップを取った。
「おかわり、いるでしょう?」
そう言って、佐知子はほんの少し残っているマグカップの中身を洗面台に捨てると、軽くゆすいでからコーヒーメーカーを再度温めて、自分と尋人のものに新しく注いだ。
「ねえ尋人、何が正しくて何が間違ってるかなんて、結局のところは神様にしか分からないのよ? 答えが見えなくても、あんたがあおいを思う気持ちに嘘はなかった。今はそれでいいんじゃない? もやもやした気持ちの整理は、時間を置くと自ずとできてくるわ」
マグカップを受け取ると、掌の温度がほのかに上昇した。先程よりも熱いマグカップから立ち昇る湯気のかぐわしさが、がんじがらめになった尋人の心をゆっくりと解いていく。
「とりあえず今は、そういうことにしておきなさい」
「それ……命令形?」
「そう、お姉ちゃんの命令よ」
佐知子は悪戯っぽい笑みを浮かべる。尋人は凝り固まっていた肩から力を抜いた。
「……やっぱり、今日の姉さんはおかしいや」
「何で?」
「だって、いつもの倍以上優しい」
佐知子はぷっと吹き出し、面白そうにころころと笑う。尋人もつられて笑みを零した。
「言ったでしょ、なけなしの優しさをあげたのよって」
そう言って佐知子はコーヒーを煽る。尋人は慎重に飲もうとしたが、あまりの熱さに思わず「あちっ」と言ってしまった。それを見た佐知子がまた吹き出す。尋人は一瞬仏頂面になるが、すぐにどうでもよくなって笑った。
二人はコーヒーを飲みながら、先程よりも少し和やかな空気の中にいた。
冷たい雨が降っている。傘を差しながら歩いていたあおいは、ぶるりと大きく身を震わせた。丈の長い白のニットカーディガンの前を閉じ、跳ね返って靴を濡らす雫に目をやることなく足早に歩く。
薄い光が広がり、雨粒が宙に浮かび上がる。前から来る車に気付いたあおいはそっと路肩に避ける。しかし、車は制限速度を超えた速さで走ってきた。あおいはブロック塀に駆け寄ろうとするが、車がすぐ脇を駆け抜けていくほうが速かった。
背後から鋭いクラクションが響き、激しいブレーキ音とともに車体があおいの斜め前に滑り込むようにして急停車する。窪んだアスファルトに入ったタイヤが耳障りな音で軋み、そこに溜まっていた雨水が高く跳ね上がってあおいを襲った。あおいは咄嗟に両手で顔を庇うが、水をもろに被ったせいでニットカーディガンに泥の模様が描かれた。
「ああ……」
あおいは泥と雨水で汚れた服と、ブロック塀のぎりぎり手前で止まった車を見てぽかんとする。光のような速さで駆けていった対向車はもういない。
あおいが呆然と立ち尽くしていると、急停止した車から男が降りてきた。
「ごめんね、大丈夫?」
長身でがっちりとした体躯の男は、濡れたあおいと自分の車とを交互に見やり、額に手を当てて深いため息をつく。
「ああ……。怪我はない?」
あおいは無言で首肯する。黒のスーツに身を包んだ男の表情が、車のライトを浴びて暗がりにくっきりと浮かび上がる。
「本当にごめん。どこもぶつけてない?」
そう言った男の目が、あおいと視線が合うなり大きく見開かれる。
「君は……あおい?」
あおいは息を呑んだ。
「どうして君がここに? ……まさか、目覚めたのか」
「あの……あたしのこと、知ってるんですか?」
男が当惑と怪訝の混じった顔で見返す。
「あたしと、会ったことがあるんですか?」
「何を……」
眉根を寄せる男から視線を外し、あおいは小さく俯いた。
「……ごめんなさい。あたし、記憶を失くしてて、過去のことを何も覚えてないんです」
「記憶を?」
「はい……」
「それは本当か? どうしてそんな……」
「分かりません。でも本当に、覚えていないんです」
あおいは俯いた。男はしばらく絶句していたが、すぐ側で響いた車のクラクションで我に返り、
「ここで話すのは何だな。君が風邪を引いてしまう」
「いえ、あたしは」
男は懐から名刺入れを取り出し、その中の一枚をあおいに渡した。
「また今度連絡もらえるかな。僕から君の連絡先を訊いてもいいんだけど、あちらの車が待ってはくれなさそうだ」
男は対向車に片手を挙げて合図すると、財布から千円札を三枚抜いてあおいに差し出す。
「これ、クリーニング代。服を汚してしまったお詫びに」
「そんな、いいです。お金をもらうなんて悪いです」
「いいんだよ。元はといえば制限速度を無視した対向車が原因だが、携帯をしながら運転してた僕にも非はあるからね。君が気にすることじゃない」
「でも」
「いいんだ。君は風邪を引く前に、早くマンションに帰りなさい」
「どうしてあたしがマンション暮らしだって……」
「詳しい話はまた今度しよう。名刺には携帯番号が書いてあるから、またいつでも連絡しておいで。無論強制じゃないし、君がただ一度のすれ違いということにしたいと言うならそれでも構わない」
男は早口にそう告げて車へ戻っていく。そして運転席に乗り込むと、少しバックしてから走り去っていった。
残されたあおいは、男の車が闇に遠ざかっていくのを見た後、受け取った名刺に目を落とす。そして車が走り去った方向をもう一度振り返り、しばらくそこに佇んでいた。
玄関を開けると室内は明るかった。靴箱に沿う形で男物のスニーカーが揃えてあり、廊下や奥に続くリビングにも電気が点いている。あおいは傘をドアの隅に立てると靴を脱いで上がった。
リビングでは、ソファで亮太が向日葵と遊んでいた。
「あ、おかえり。邪魔してるよ」
亮太は一瞬あおいを見やるとすぐ顔を逸らし、向日葵の前足をぐいぐいと引っ張ったり、肉球をつんつんと押したりする。向日葵はくすぐったそうに身をよじって鳴いた。
「……何してるの」
「何って遊んでるんだよ、このちびと」
「ちびじゃない、向日葵。どうして部屋にいるの。鍵は?」
「竹田さんに借りた。様子見てこいって言われたからさ」
「……どうして勝手に入るの」
「鍵もらったからさ。鍵があるってことは要するに、中入って待っとけってことだろ?」
あおいは仏頂面でニットカーディガンを脱ぐと、テーブルに向かってばさりと投げた。亮太がその所作に目を丸くする。
「随分荒っぽいなあ。何怒ってるの? てか何、その汚れ。泥塗れじゃん」
「関係ない」
「転んだの? それとも、どぶにでも突っ込んだ?」
「亮太には関係ない」
「早く洗わないと染みになるよ。てか、その生地だとクリーニングかなあ」
「関係ない。シャワー浴びてくる」
バッグと名刺をテーブルに置き、あおいはすたすたと自室に向かう。そしてバスタオルと着替えを抱え、亮太を見ることなく脱衣所に入った。
乱暴な動作で服を脱ぐと、バスルームに入りシャワーのコックをひねる。すると、高い位置に差したノズルから温かな湯が降り注いだ。あおいはしばらく浴びた後、ボディーソープで全身を洗い、髪全体をシャンプーでくしゃくしゃと泡立てる。そしてもう一度頭から湯を浴びてそれらを流した。コンディショナーを済ませてしまうと、シャワーを止めて早々にバスルームから出る。
バスタオルで全身の滴を拭い、髪を拭いて青いワンピースを着る。あおいは肩にタオルをかけて洗面台に立つと、ドライヤーで素早く髪を乾かした。
リビングに戻ると、てとてとと向日葵がやってくる。あおいはしゃがむとその頭を優しく撫でた。向日葵は膝によじ登ってこようとするが、あおいはそっと立ち上がって冷蔵庫に向かう。
あおいが冷蔵庫から水のペットボトルを出して飲んでいると、ソファに座る亮太が唐突に声をかけてきた。
「なあ、あおい。こいつと会ったの?」
亮太は手にした名刺をひらひらとあおいに見せる。
「……どうしてそんなこと訊くの?」
「会ったの? こいつと」
「……さっき、帰ってくる途中の道で、偶然。あたしは知らない人だと思ったけど、その人はあたしのことを知ってるみたいだった」
「もしかして、そのニットカーディガンを汚した奴もこれ?」
亮太は名刺を突き出して訊いてくる。あおいは頷いた。
「事故よ。たまたま水溜まりの飛沫がかかっただけ」
その言葉に相槌を打つことなく、亮太は名刺をじっと睨んで押し黙る。
「その人、誰なの? 亮太が知ってる人?」
「知ってるも何も、こいつは……」
言いかけて亮太ははたと表情を止め、再び顔をしかめて考え込んだ。
「どうしようか。さすがにこれは想定外だ。竹田さんに話していいかって聞いてないや」
「何よ。言いかけたなら教えてよ。誰なの? その人。あたしをよく知ってる人?」
亮太はしばらく沈黙し、深々と嘆息して足元にいた向日葵を抱き上げ、
「フィアンセ」
「は?」
「婚約者だよ、こいつ。木瀬彰一はあおいの元婚約者」
あおいはぽかんと口を開けた。
「木瀬彰一、三十歳。有名IT企業のシステムエンジニア。しかしそれは表の顔で、裏の顔は
亮太は名刺をテーブルめがけてぴんと投げた。そして、固まったままのあおいにわざとらしい笑顔を向ける。
「おーい、あおいさーん、生きてますかー? あれ、そんなにびっくりした?」
「……驚いた。あたしに婚約者なんて人がいたの」
「元だよ、元。今は破談って形で白紙に戻ってる」
「どうして?」
「どうしてってそりゃあ……二年前にあおいが眠っちまったからさ」
些か気まずそうに亮太は言う。
「亮太は知ってるの? その人のこと」
「いや、別に。顔と名前を知ってるぐらいだよ。元々他の組織の奴となんて、そうそう交流があるわけじゃないし」
「どういう人なの?」
「腕利きの暗殺者ってことは人づてに聞いたことあるね。でも、実際にお手並み拝見したわけじゃないから、俺としては何とも言えないな」
「……あたしのこと、よく知ってる人なのかな」
「さあね」
亮太はそっけなく言うと、向日葵を膝の上に下ろした。
「そんなに気になるなら、俺に訊くより自分で確かめればいいじゃん。名刺あるんだろ?」
「でも、どうやって訊けば……」
「食事やらデートに誘えばいいんじゃね? 現役女子高生ですって言えば相手は喜んで飛びついてくるよ」
「……どういうこと?」
亮太は一瞬絶句すると、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「冗談が通じないって、別な意味で結構痛いんだな。そんなさらっと流されたら、俺ってば何か変な人みたいじゃん」
「……何? 聞こえなかったんだけど」
「いやいい、さらっと流して聞かなかったことにして」
そう言った後、亮太はふと思い出したように付け足す。
「でも、もし木瀬と会うなら竹田さんにちゃんと連絡しておけよ」
「……どうして」
「小父さんに報告する必要があるからさ。昔は仲良しこよしだったけど、今もそうってわけじゃないし、敵対関係がないとはいえ、相手は一応別組織の奴だから」
「……どうしてそこで父の名前が出てくるの?」
「そんなこと、訊くまでもないっしょ」
「あなたから伝えておいて」
「俺が? 冗談、御免被るよ。面倒臭いし、報告ぐらい自分でしなよ。電話一本で三分もあれば楽勝だろ」
「人の部屋に勝手に上がり込んで、断りもなく好き放題してるくせに」
「それはそれ、これはこれ。言っとくけど俺、このちびの相手してただけで、冷蔵庫やその他諸々には一切手つけてないぞ」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「自分のことは自分でやりなよ。後々の面倒事を避けたいなら尚更」
亮太は黒のショルダーバッグを肩から提げると、向日葵を一度撫でてからリビングのドアに向かった。
「また来るよ。湯冷めしないうちに早く寝たら? そんじゃお邪魔さまー」
言葉とともにドアが閉まり、数十秒後に玄関でがちゃりと音が立つ。
規則的に響く低い雨音が室内を包む。あおいはしばらくシンクに凭れていたが、緩慢な動作でソファに腰掛けるとテーブル上の名刺を手に取った。その足元で、向日葵が甘えるように小さく鳴いた。
それから一週間が経った日の午後、あおいは木瀬彰一に連絡を入れた。
名刺に印字されていた番号にかけると、会議中で席を外していると言われた。伝言を頼んで電話を切ると、あおいは夕食の買物に出掛けた。そして夕方に帰宅した時、留守番電話に木瀬からのメッセージが入っていた。来週の夜に食事をしないかという内容で、待ち合わせの日時と場所、一方的な連絡になったことに対しての謝罪が吹き込まれていた。
それからさらに一週間後の夕方過ぎ、あおいは指定された場所に向かった。F野駅からタクシーに乗って二十分ほどで着いたそこは、壁が全面赤レンガの瀟洒なレストランだった。あおいはぽかんとして、ライトアップされた店の看板を見上げる。そして、クリスマスイルミネーションで彩られた周囲の街路樹をきょろきょろと見回した。
あおいは桜色のマフラーを外し、黒のダッフルコートを右手に掛けると、そっと店のドアを押した。来客に気付いたボーイが中から素早くドアを開け、恭しく頭を下げてあおいを招き入れる。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか」
「いえ、あ、あの……その、人との待ち合わせで来たんです。その、木瀬さんという人で」
「木瀬様のお連れ様でございますね。畏まりました、こちらへどうぞ」
あおいは先導するボーイの後に、怖々とした面持ちで続く。
「木瀬様はあちらの席でお待ちでございます」
ボーイは会釈してあおいから離れると、木瀬の席に近付いてそっと声をかけた。手帳に目を落としていた木瀬は顔を上げ、あおいに手を振って笑いかける。あおいは強張った表情で小さく頭を下げた。
「やあ、こんばんは。そんなところに立ってないで、こっちにおいで」
木瀬は立ち上がり、気さくな笑顔であおいを迎えた。
「初めまして……というのは少し変かな。改めまして、僕が木瀬彰一です。先日はとんだ無礼をしてしまったね」
「いえ、そんなことは。あの、初めまして。その……水島あおい、です」
たどたどしいあおいに、木瀬は大らかな笑みを浮かべた。
「そんなに緊張しないで。……というのも無理な話か。とりあえず座ろうか」
あおいはコートとマフラーを椅子の背に掛け、ポシェットを奥に置くと浅く腰掛けた。木瀬は手帳を鞄にしまい、メニューを取ってあおいに渡した。
「今日は僕の奢りだから、好きなものを頼むといい。遠慮はいらないよ」
「え、でも、それは悪いです」
「気にしないでくれ。僕がそうしたいんだから」
あおいはかくかくと頷いて、メニューをそっと開いた。一枚一枚そっとめくっていたが、やがて困惑顔で木瀬を見る。
「あの、ごめんなさい、何を頼んでいいのか……。こういうお店、慣れてないんです」
木瀬は虚を衝かれたようにあおいを見るが、すぐに得心のいった表情になる。
「ああ、そうか。ここには二度ほど一緒に来たことがあるんだが……そうだったね、すまない。こちらの配慮が足りなかった」
「いいえ、そんな」
「じゃあ僕が決めようか。好き嫌いはある? 苦手な食べ物とか、アレルギーとか」
あおいは小さく首を横に振る。木瀬はあおいからメニューを受け取ると、ほんの少し思案顔になった後、片手を軽く挙げてボーイを呼んだ。
「季節の食材のAコースを二つ。僕は手長海老のモッツァレラトマトソースのパスタで。クリームソースとトマトソース、どっちがいい?」
「ク、クリームソースで」
「じゃあ彼女は渡り蟹のクリームソースのパスタで。ジェラードとコーヒーゼリーとパンナコッタ、どれがいい?」
「ジ、ジェラード……」
「じゃあデザートは木苺のジェラードで。僕はいらない。あと飲み物は、僕はコーヒー。コーヒーと紅茶とオレンジジュース、どれがいい?」
「こ、紅茶で……」
「じゃあ彼女は紅茶のホットで。飲み物はいずれも食後で」
注文を復唱したボーイが素早く去っていく。あおいはますます縮こまった。
「ごめんなさい、何も分からなくて……」
「いや、構わないよ。気にすることはない。もっと楽に……というのは無神経だろうか」
「そんなことないです。いろいろ気を遣わせてしまって、ごめんなさい」
俯くあおいを見ていた木瀬は、ふと視線を逸らして口元に薄い笑みを浮かべる。そして怪訝そうなあおいに気付くと、
「ああ、すまない。気を悪くしないでくれ。ただ少し、驚いているんだ」
あおいはきょとんと目を丸くした。
「君とこんなに会話できるとは思わなかったからさ。二年前の君はとても無口でね、いつも無表情で、会話のほとんどが相槌だったから。だから少し、驚いた」
「無口……だったんですか?」
「ああ。だけど僕にだけというわけじゃなく、誰に対してもそうだったみたいだ。根っからの人間嫌いというより、あえて自分から一線を引いていたような感じかな」
木瀬は水の入ったグラスに口をつける。
「前はせっかく連絡をもらったのにすまなかったね。ここのところいくつか新しいプロジェクトを抱えていて、会議やら打ち合わせやらでてんてこ舞いなんだ。昨日も深夜まで仕事していてね、明日が約二ヶ月ぶりの一日オフだよ」
「そんなに忙しいんですか?」
「大した仕事をしてるわけじゃないけどね」
木瀬は軽く肩を竦めてみせる。
「あの、お金ありがとうございました。どうしようかなって思ったんですけど、ありがたく使わせてもらいました」
「気にしないでくれ。あれはこっちが悪かったんだ。汚れは落ちたかい?」
「はい、大丈夫でした」
「ならよかった」
その時、二皿のシーザーサラダが運ばれてきた。あおいは目の前に置かれたそれをしげしげと見つめる。
「前菜のサラダだよ。さあ、いただこう」
あおいは手を合わせてからフォークを取り、フレンチドレッシングで彩られたサラダを少しずつ食べ始める。木瀬は慣れた手つきで、あおいのスピードに合わせながら口に運んだ。しばらく黙々と食べていたあおいだが、やがて躊躇いがちに話を切り出す。
「あの……その、いろいろ聞きました。木瀬さんと、あたしのこと」
木瀬は食べながら、視線だけあおいに寄越す。
「婚約者だった……って聞きました」
「そうだよ。もう過去形だけどね」
「どうして……ですか?」
残り少ないサラダを見つめながら、木瀬は少し思案顔になる。
「大人の事情、かなあ」
「大人の事情?」
木瀬は苦笑を浮かべる。
「もうこの際だからいいかな。まあ歯に衣着せぬ言い方をすると、家同士の政略結婚だったんだ。君ももう知っているだろうが、僕はとある組織のメンバーでね。僕の父がその長だったんだ。今はもう他界していて、組織をまとめているのは僕だけどね。僕のところと君のところは、昔から仲が悪いわけじゃなかった。お互いがお互いを、よくも悪くも利用していた、そんな感じかな。君のお父さんは、僕のところとの協力関係をより強固なものにしようとして、僕に君との結婚話を持ちかけてきたんだ」
「父が……」
あおいはフォークを動かす手を止める。努めてさりげなく現れたボーイが、二枚の小皿にフランスパンを二個ずつ載せて去っていく。木瀬はパンの表面に丁寧にバターを塗ると、小さくちぎって口に放り込む。
「これは僕の憶測で、でも間違いはないだろうけど、君のお父さんはきっと僕のところを取り込んで、自分のところの勢力を増大させたかったんだろう。今もだけどその時僕は独身で、女性とも付き合っていなかったからね」
「あなたは承諾したんですか?」
「結果的にはね。しかし初めは驚いた。思いもしなかった提案だったし」
「相手は中学生だった……」
「それもまああるね。だから今すぐというわけではなくて、入籍は君が二十歳の誕生日を迎えてからという話だったんだ」
あおいは木瀬の見様見真似でパンを食べる。
「どうして承諾したんですか?」
「どうしてと訊かれると、答えは一つしかないとしか言えないね」
「組織のため……ですか?」
「どちらにとっても悪い話じゃない。双方の未来を考えると結論は既に決まっていたんだ」
パスタの皿を二つ持ったボーイが、あおいと木瀬の前にそれぞれの料理を置き、空いたサラダの皿を持っていく。あおいの前に置かれたのは、クリームソースの白と中央に飾られた渡り蟹の赤がよく映えるパスタだった。
「この店はパスタが評判なんだ」
木瀬はそう言い、フォークとスプーンで器用に食べ始める。あおいも彼の所作に倣い、フォークで絡めたパスタをスプーンの上でまとめるようにして食べる。
「……美味しい」
「それはよかった」
二人はしばらく黙々とパスタを味わう。低くたゆたうように流れるクラシックが彩る、長く穏やかな沈黙を先に破ったのはあおいだった。
「破談になったのは、その……あたしのせい、ですか?」
遠慮がちに紡がれた言葉に、木瀬はパスタを絡める手を少し止める。
「あたしが二年近く眠っていたこと、ご存知だったんですよね?」
「知っているよ。君がどうしてそうなってしまったのかも。でも、記憶喪失のことまでは知らなかった。だから先日は本当に驚いたよ。よくよく考えてみれば、あそこは君が一人暮らしをしていたマンションの近くだったね。まさかあんな形で会うとは思いもしなかったけど」
「あたしのことを知ってますか?」
木瀬は言葉の意味を量りかねた顔であおいを見る。
「あたしの過去を……あたしがどうして死のうとしたのか、何に追い詰められていたのか、木瀬さんは知っていますか?」
木瀬はフォークとナイフを皿の上に一旦置くと、
「それを聞いてどうするんだい?」
「あたしは、あたしを知りたいんです。失ったのなら、取り戻したい」
「だけどそれは、必ずしも君が望む結果に繋がるとは限らない。せっかく癒えた心をまた傷つけて、かえって君自身を追い込む結末になりかねない」
「だとしても、逃げるわけにはいかないんです。失ったのなら、取り戻さなきゃいけない。奪われたのなら、取り返さなきゃいけない。そのためにあたしは、戦っているんです」
「なぜ? 君をそこまで駆り立てるものは何だい?」
あおいは一瞬、言葉を詰まらせる。
「生きているから……です。生きているから、自分から逃げちゃだめなんです。何を背負ったとしても、それがあたしを苦しめるだけのものでも、失うのは嫌です。……空っぽな自分は、もう嫌なんです」
沈黙が流れた。あおいはパスタを食べる手を完全に止めて、力なく目を落とす。木瀬は黙したまま見つめていたが、やがて優しく宥めるように言った。
「食べなさい。せっかくの料理が冷めてしまう」
二人は再びフォークとスプーンを手にパスタを食べ始めた。残り少ないパスタを丁寧に絡める木瀬がおもむろに語り始める。
「僕は君の全てを知っているわけじゃない。さっきも言ったけれど、君は他人に多くを語らないタイプの人間だった。だから僕は、君の詳しいことは何も知らない。……ただ、二年前の君が何かにひどく追い詰められていたことは、僕も知っている」
「何かって、何ですか?」
「僕も詳しくは知らない。きっと知る人はいないんじゃないかな。君は自分の弱いところを決して見せないタイプだったから」
「でも木瀬さんは、あたしのことをよく知ってるように思えます。事情とか過去とか、そういうのとは違う、あたしそのものに近いことを」
「ただ単に見ていただけだよ。君と一緒にいてもほとんど会話にはならなくてね、いつも僕の一人相撲に近い状態だった。だから自然と君の表情や仕草に目がいくことが多かった。ただそれだけのことさ」
木瀬はパスタを綺麗に食べ終わり、フォークとナイフを右斜めに揃えて置く。そしてグラスに入っていた水を飲み、メニューの隣にあったボトルで注ぎ足した。
「君が僕とまともに会話したのは、湖に行った時ぐらいだったよ」
「湖?」
「そう、湖」
木瀬はあおいのグラスに少しだけ水を注ぎ、
「一度だけ、二人で遠出したことがあるんだ。君がどうしても行きたいって言ってきたものだから」
「湖に……ですか?」
「覚えているかい?」
あおいは沈黙するが、やがて小さく首を振る。
「……ごめんなさい」
「気にすることはない。野暮なことを訊いたね」
「あたしから言い出したんですか? 湖に行きたいって」
「ああ」
「それはいつ頃?」
「確か二年前だったかな。二年前の一月後半か、二月初旬だったと思う。当時は会社で大きなプロジェクトを抱えていて、休暇を取るのに苦労した覚えがあるから」
木瀬はナプキンで軽く口元を拭い、
「確か、絵を見たんだと言っていた」
「絵?」
「冬の湖の絵。雪に閉ざされた群青の山々の中に、鏡のように澄んだ水面の湖が描かれた絵だと言っていた。誰のものだったかは失念してしまったが。確か、そうマイナーな画家の絵ではなかったと思うんだが」
「それを見てあたしが、湖を見たいと言ったんですか?」
「ああ。珍しく君のほうから連絡をくれてね。当時は連絡するのは決まって僕だったから、何事かと驚いた覚えがある。君は僕が電話に出るなりこう言ったんだ、冬の湖は本当に鏡なのかってね」
「鏡……」
「だから僕が連れていったんだ。平日だったか休日だったかは忘れたが、山奥の湖に二人で出掛けた」
「山奥?」
「ここから大体二時間あれば行ける場所だよ。この時期人気はまずないが、山一つが余裕で映り込むぐらいの大きな湖があってね。二年前はかなりの大雪が降ったから、行くのも帰るのも大変だった」
「そこにもう一度、あたしを連れていってもらえますか?」
水を飲もうとしていた木瀬は驚いた顔で手を止める。
「連れていってもらえますか? 過去のあたしが見たがった、その湖に」
虚を衝かれて目を瞠る木瀬を見て、あおいはやがてしゅんと視線を落とす。
「……ごめんなさい、いきなりこんなこと言って。お仕事だってあるのに」
「いや、違うんだ。そういうわけじゃないよ。ただ少し驚いて」
あおいが目を上げると、木瀬が困惑したような苦笑を浮かべる。
「君の口からまたその台詞を聞くことになるとは思っていなくてね。思えば当時もそうだった。君は時々、突拍子もないことをして僕を驚かせる。意外性があるというか、感情に動かされるままというか」
そう言って木瀬はくつくつと笑い出す。あおいはおどおどとうろたえた。
「いや、すまない。笑っては失礼だね」
木瀬はすっと口元を引き締めた。
「いいよ。また二人で行こう。今すぐ予定は決められないが、空いた日が見つかったら僕から連絡しよう。君は学校には行ってるの?」
あおいは小さく頭を振った。
「いいえ……最近は、もう。多分これからも、行かないと思います」
木瀬はほんの一瞬眉をひそめたが、それ以上は言及しなかった。
「分かった。じゃあそういうことで。ところで、どうしたんだい? もうお腹いっぱいかな?」
あと少し残っているあおいのパスタを見て、木瀬が悪戯っぽい笑みを浮かべる。あおいは真っ赤になって俯いた。
「いいよ、そのままにしておきなさい。デザートを持ってきてもらおう」
「ごめんなさい……」
「気にすることはない。そういえば君は小食だったね。今思い出したよ」
木瀬は手を挙げてボーイを呼び、パスタの皿を下げさせる。あおいは頬を赤らめたまま俯いていた。ボーイが去った後、あおいは恐る恐る視線を上げる。木瀬は言葉を口にする代わりに笑ってみせた。強張っていたあおいの頬がほっと緩む。
デザートを食べ終えると、二人は店を後にした。入口の前でコートを羽織ると、あおいは木瀬について歩く。漆黒の帳が包む夜の街は、華やかなクリスマスイルミネーションと、肩を寄せ合い歩く男女で溢れていた。
「車で来てるんだ。家まで送るよ。あのマンションまでで大丈夫かい?」
あおいは頷きながら、遠慮がちに口を開く。
「あの、すみません、お食事代を払っていただいて」
「気にすることはない。初めからそのつもりだったんだから。店は気に入ってもらえたかな?」
「はい、美味しかったです。ご馳走さまでした」
あおいはぺこりと頭を下げる。
「それにしても、今日は驚いた」
白い吐息とともに木瀬が言う。
「君は変わったな、本当に。あの頃とは全然違う」
あおいは顔を上げて、木瀬の表情を見ようとした。
「こんなに君と会話をしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。本当に驚いたよ。だからつい、変なことを考えてしまった」
「変なこと?」
「今僕の隣にいるのは、本当に水島あおいなのかどうか」
あおいは目をぱちくりとさせた。
「今こうやって隣を歩いている少女は、本当に水島あおいなのか。単に名前と顔が同じというだけで、実は何ら関係のない赤の他人なんじゃないか」
あおいはしばし目を泳がせ、やがて俯いて自分の靴を見つめる。
「くだらない妄想だと分かってはいるけどね。でもつい、そんなことを考えてしまった。……気を悪くさせたかな」
あおいは首を横に振る。そして黒い空を仰ぎながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「木瀬さんの考えは、間違ってないと思います。あたしも時々、そう思ってしまうから」
木瀬は歩く速度を落とすことなく、ちらりとあおいを見やった。
「きっとあなたのよく知る水島あおいは、二年前に死んでしまったんだと思います。今ここにいるあたしはきっと……よく似た姿をしただけの、空っぽの人形」
「どうしてそう思うの?」
「何もないから、です」
「それはまだ分からないよ、きっと」
あおいは視線だけ上げた。しかし前を向いている木瀬の表情は、あおいには見えない。
「きっと君にも僕にも分からないことなんだと思う。分からないから余計にそう感じてしまう。だけど結局のところ、本当に空っぽかそうじゃないかなんてきっと、本人ですら容易には掴めないものだと思うよ。だから悩んでしまう。人ならば、尚更」
木瀬はあおいにここで待つよう告げると、狭いコインパーキングに入っていった。そして三分もしないうちに黒色の車で出てくる。木瀬は助手席のロックを解除し、乗り込むよう目配せをする。あおいは素直に従った。
あおいがドアを閉めた瞬間、車は音を立てずに急発進する。車窓を流れるように過ぎていく大通りを眺めながら、あおいはビルに見え隠れする三日月に目を凝らしていた。
仕事の合間に携帯電話をチェックすると、数分前に着信が一件入っていた。森上はほんの少し逡巡した後、職員室を出て足早に南校舎へと向かう。青葉学園中等部に勤務するようになってから二ヶ月が過ぎようとしていた。
人当たりのよさを適度に振りまき、同僚や生徒から仕事に困らない程度の信頼を得ることには早いうちから成功している。本業でもある裏の仕事を並行してこなすために、人目を気にせず電話できる場所も見つけておいた。頭を悩ませる問題は今のところゼロだといっていい。
南校舎の最上階、人気が全くない屋上の扉の前で森上は電話を始める。今は授業中なので生徒が来る心配はまずない。他の教師たちも、職員室を抜けた森上を追ってくるほど暇ではない。周囲は恐ろしいほど静かだった。
着信履歴の番号にかけ直すと、三秒もしないうちに相手が出る。
〈やあ森上、久しぶりだね〉
明るい挨拶が聞こえる。森上はあえて低い声音で問うた。
「何の用だ」
〈そう凄むことはないだろ。僕も暇じゃない。用がなきゃ電話なんかしたりしないさ〉
「その用とは何だ。手短に言ってくれ。俺は今、滅多に見ないお前の名前を見て気分を害したところなんだ」
〈そう言うなよ。本当に機嫌が悪いんだな。かけ直そうか〉
「ぬかせ。お前からの電話が二度もあってたまるか。それにここをどこだと思ってる。俺が今何をしているか、お前が知らないわけないだろう」
苛立ちを装ってはいるが、実際に苛立っているわけではない。単なるポーズだ。
「用件を単刀直入に言ってくれないか。三秒だけ待ってやる。それまでに言わないと──」
〈水島あおいに会ったよ〉
思いがけない言葉に、森上は瞠目する。だが瞬時に冷静さを取り戻した。
〈実に面白い偶然によってね。事情も聞いた。記憶喪失だそうじゃないか〉
「……それで?」
〈彼女は僕のことを覚えていなかった。ということは、君も忘れられているんだろう?〉
「……だから?」
〈そう凄むなよ。心配しなくても彼女には何も言ってないし、気取られてもいないさ。ただ純粋に驚いてしまってね。本当に何もかも忘れてしまったと言うじゃないか。まあ、あれだけの怪我から生還したんだ、命があるだけ奇跡ということか〉
「報告してくれるのか。それはありがたい」
〈殺すのか? 彼女を〉
「当たり前すぎることを訊くな」
〈そうだな。無粋だった。しかし彼女はどうだ? あおいは何も覚えていない。彼女からすれば、なぜ君に命を狙われなければいけないといったところか。彼女は君の本意も知らないんだろう?〉
「庇うのか」
〈まさか。僕は中立だよ、森上。君に逆らうつもりもなければ、邪魔するつもりも毛頭ない。ただ、どうやらあの子は思い出そうとしているらしい。失った自分を取り戻したいと言っていた。それを伝えておこうと思ってね〉
「だから何だ」
〈迷いはないのか? あおいをその手で殺すことに。だって──〉
「迷いなどない。俺たち闇で生きる者に、そんなものは初めからなかったように。俺はただ、俺の正義に基づいてあおいを葬るだけだ。誰よりも罪深い、許されない存在の彼女を」
〈そうか〉
「お前の手出しは無用だ、木瀬。俺とあおいのことは、お前には関係ない」
〈分かってるよ。君たちのことに首を突っ込むつもりはない。ただ、僕が彼女と会ったことは、伝えておいたほうがいいと思ってね。それだけだ。邪魔をしたね〉
電話はそこで終わった。ツーツーという無機質な音が耳に響く。森上は携帯電話を閉じ、ジャケットのポケットに入れるとその場を後にした。
木瀬彰一と食事をしてから十日が過ぎた。
あおいは白のニットカーディガンに黒のミニスカート、紫色のタイツに茶色のブーツという出で立ちでマンションの前に立っていた。木瀬の車は定刻どおりに現れ、あおいは一礼してから助手席に乗り込む。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日はまた一段と冷えるね。ちゃんと着込んできたかい? コートじゃなくて大丈夫?」
水色のシャツに黒のベストを合わせた木瀬が、あおいの服装を見て心配そうに尋ねる。
「……コートのほうがよかったですか?」
「中に着てる服にもよるけどね。山は街中よりもぐっと寒いよ」
「大丈夫です、これで。……多分」
「そうか。なら行こうか」
木瀬はそう言って笑うと車を発進させる。あおいはニットカーディガンを脱いで膝の上で畳むと、シートベルトをかちゃりと締めた。
「高速を使って二時間ぐらいかな。途中で休憩も挟むから、着くのは昼過ぎになるだろう。着いたら起こすから眠ってていいよ」
片手で器用にハンドルを操りながら木瀬は言う。あおいは小さく頷いた。
車は大通りを抜けると高速道路に入った。ビルが建ち並ぶ街中の景色から一変し、防音壁に囲まれた無機質な道を一〇〇キロ以上で駆け抜ける。あおいは灰色の防音壁をしばらく眺めていたが、そのうち視線を空に向けた。
「鏡……」
あおいの呟きに、木瀬がちらりと視線を寄越す。あおいは小さく頭を振り、
「何でもありません」
休日の高速道路はそれほど混んでいなかった。一時間ほど走った後、サービスエリアで食事と休憩を取り、再び走り出してから十分もしないうちに車は高速道路を下りる。そして防音壁ばかりだった先程までとは違い、長閑な風景が広がる国道をひたすら走った。
「随分と、静かなんですね」
沈黙に慣れていたらしい木瀬が少し驚いた反応を見せる。しかしすぐ合点がいった顔で、
「田舎だからね、ここは」
「ビルとか駅とか、ないんですね」
「駅は小さなものならあるだろうけど、ビルはないだろうね。T田やF野に比べたら随分と静かで平和な町だよ。退屈かい?」
「いいえ。ただ、見慣れなくて」
「水島の屋敷には帰ってないの? あそこもだいぶ田舎だろう」
「目覚めてから一度だけ。それ以降は、行ってないです」
「お父様にお会いすることは?」
「いいえ、会ってません。必要なことは全部、竹田や亮太が教えてくれるから」
あおいは視線だけで木瀬を窺う。それに気付いた木瀬と目が合うが、あおいはすぐに逸らしてしまった。しかし木瀬は何も言わず、淡々と運転に集中している。
「……あの、訊きたいこと、訊いてもいいですか?」
「どうぞ」
「木瀬さんはあたしのこと、どう思っていたんですか?」
「どう、とは?」
「あたしのこと、好きだったんですか?」
木瀬は驚いた目で絶句するが、すぐにぷっと小さく吹き出した。あおいはきょとんとしながら、おかしそうに笑う木瀬を見つめる。
「ああ、すまない。君があまりにも直球だったから、おかしくてね」
「……何か、悪いこと言いましたか?」
「いや、そうじゃない。以前の君では考えられない直球さだったから、つい」
そう言いながら、木瀬はなおもくつくつと笑い続ける。
「ああ、すまない。こんなに笑っては失礼だね。君はいたって真面目なのに」
軽く片手を挙げて詫びると、木瀬はようやく表情を引き締めた。そして思案顔でしばらく黙り込んでしまう。
車は住宅街を抜け、背の高い枯れ木が群れを成す山道へ入っていく。木瀬はスピードをやや落とし、カーブと傾斜の多い道路を慎重に走る。そして、枯れ木と常緑樹が均等に広がる風景を食い入るように見つめるあおいに、ようやくぽつりぽつりと語り出した。
「正直に言うと、僕は君を女性として愛することはできなかった」
あおいは車窓の景色から目を離し、ちらりと木瀬に視線を寄越す。
「気を悪くしないでほしい。君が女性としての魅力に欠けていたという意味じゃない。ただ、君と僕は十歳以上離れていたからね、女性というよりは妹という感覚に近かったかな。君との婚約話が持ち上がった時、僕は君を女性として見ようとした。婚約者として接しようとそれなりに努力はしたんだ。でも無理だった。それは愛情があるない、男女としてどうこうという以前に、もう仕方のないことだったんだ」
「年の離れた妹……」
「たとえるならばそういうことだね」
「あたしも、そうだったんでしょうか。年の離れた兄……のような」
「恐らくね。もしくは君を取り巻く大人の一人。君は元から多くを語らない、どちらかというと寡黙で、一人でいるほうが好きな性格だった。それはすぐに分かった。君も明らかに、僕にどう接するべきか、どう振る舞うべきか困っているように見えたよ」
低いエンジン音に混じって、野鳥の甲高い鳴き声が響く。あおいは運転席側の向こうに、山河が流れていることに気付いた。
「だけど、君の内面にはとても興味を惹かれた。それだけはちゃんと覚えている」
「十五歳だったあたし……?」
木瀬は首肯した。
「常に無口で無表情で、でも何も考えてないわけじゃない。淡々としていて、一見何物にも揺るがない無関心さを感じるけれど、実は言葉にしないだけで、感受性はとても豊かなんだってこと。今にして思えば、君はあの年でいろいろ悟っていたんだろうね」
「悟る……?」
「そう。たとえば生きること。《ヴィア》の娘として闇に生きること。他人とは違う自分。他者とは決して相容れない溝があること。たとえば死ぬこと。過酷な任務の末に、課せられた役割の果てに、死は案外自分のすぐ側にあるんだってこと。そういったことを理屈抜きで、本能として悟っていたんだろうね。そこにある、言うなれば虚無かな」
「虚無?」
「あるようでないもの。ないようであるもの。生きることと死ぬこと、自分という存在……そこにある虚無を君は肌で感じていたんだろう。だからこそ無関心を装った。何も感じていない、感じないと装うことで、君は周囲から自分を守っていた」
「装うことで……?」
「そうしないと持たなかったんじゃないかな。《ヴィア》の娘として生きる闇と、本来の自我との間にある溝に橋を渡して、足場の悪い中で安定を保ちながら立ち続けるには」
「木瀬さんには、それが分かったんですか?」
「何となくだけどね。なぜだろう……その時の僕は、君のそんな危うい虚無感にとても心惹かれたんだ。女性としてではなく、同じ闇に生きる人間として。それはとても自分に似ている……ってね」
冬に染められつつある山林が急に開けて、目の前に何もない空間が現れた。木瀬は車を止め、エンジンを切ってロックを解除する。
「着いたよ」
あおいはシートベルトを外し、ニットカーディガンを羽織って外に出た。途端に凛と冷たい空気が頬を撫で、あおいは思わずぎゅっと目を閉じる。
「寒いだろう。やっぱりコートのほうがよかったんじゃないか?」
後部座席にある黒のコートを羽織りながら、木瀬が気遣わしげに声をかけてくる。
「いいえ、大丈夫です」
「そうか。おいで、こっちだよ」
足早に歩く木瀬の背を、あおいは慌てて追いかけた。
剥き出しの土が枯葉に埋もれた地面はでこぼこで、あおいはたちまち転びそうになる。前のめりに倒れかけたあおいを、木瀬がすかさず手を差し伸べて支えた。あおいは驚きながらも、小さく頭を下げて礼を言う。木瀬は微笑み返すと、あおいの手を取って歩き出した。あおいは黙ってそれに従う。
先程通ってきた山林は、大きく開けたこの場所を囲むように広がっていた。地面は水を含んでいて、泥みたく緩みきった箇所もある。しかし周囲はとても静かで、空は青を通り越してうっすらと白みを帯びていた。
「どうやら僕たちだけみたいだな。人気がまるでない。野生動物すらいるかどうか」
あおいはきょろきょろと周囲を見渡しながら、怖々とした面持ちで木瀬についていく。長い鳴き声につられて見上げると、黒い翼の鳥が雲一つない大空をまっすぐ横切っていた。その軌跡を目で追っていたあおいは、木瀬が立ち止まったことに気付くのが少し遅れた。
「ここだよ」
見渡すかぎり雄大な湖が、波一つない静寂をたたえてあおいの前に悠然と現れた。
「これが、湖……」
あおいは木瀬から離れ、ぱたぱたと駆け足で岸辺に近寄る。ほんの少しの風ぐらいでは揺らぎもしない透明な水面が、枯葉色と緑が混ざる山々と薄色の空をそのまま映し込んでいる。あおいはしばらくの間、無言でその風景に魅入っていた。
「本当に、鏡なのね」
微かすぎるさざ波が、規則正しいリズムで寄せては返す。あおいは靴が濡れないぎりぎりの位置にしゃがみ込むと、その透徹しきった水にそっと手を差し伸べた。色のない水面に映る己の顔を見て、あおいはすっと息を止める。
音もなく肩に手が置かれ、振り返ると木瀬の姿があった。
「冷たいよ。指が凍えてしまう」
木瀬はあおいの手を軽く引いて立たせると、岸辺から数歩遠ざかった。
「驚いた。こんなに、何もないなんて」
「そうだね。この時期だからかもしれない。真冬になると雪が降って、春になると野花が咲く。夏の緑が褪せて秋が終わった今のような半端な時期に、ここを彩るものは何もない」
「海とは違うんですね。波がなくて、果てはあるけれど、こんなにも静かで」
「今日は風がないから、特にそう感じるのかもしれないね。湖だって、風があれば海と同じように波立つさ」
庇うように手を取る木瀬から離れ、あおいはもう一度、岸辺のぎりぎりまで近付いた。足元に寄ってきた小さな波が、ブーツの爪先をほんの少しだけ濡らす。しかしあおいは動かなかった。
「まるで凍ってるみたい……。揺らぎもなくて、音もなくて、何もない。ただ、景色をそのまま映してるだけ」
「まるで鏡?」
あおいは振り返った。コートのポケットに両手を入れた木瀬が、
「二年前も同じことを言っていた。まるで鏡、心を見透かされているようだと」
あおいはこくりと頷いた。
「風もなくて、音もなくて、普段はそう聞こえないのに、自分の鼓動がはっきり聞こえてくる。ここまで静かだと……何だか怖い」
「それがいいんだと言っていた。見透かされて、不安になって……それでもいいからこの景色を見たいと。なぜそう思ったのかは知らないが」
「二年前のあたしも、同じことを感じていたんですね」
あおいは岸辺に沿ってゆっくりと歩き始めた。木瀬もそれに倣いながら、
「閉ざされた世界に置いてきた何かを見たい……そう言っていたっけ。二年前に来た時は大雪だったけど、雪がなくてもここは何も変わってない。懐かしいな、本当に」
あおいは遠くに見える山々を見つめながら湖の畔を歩く。
「不安かい?」
あおいはゆるりと木瀬に振り向いた。
「あの頃の君も、不安だと言っていた。自分が不安だと。だからこそ湖が見たいんだと」
木瀬の静かな言葉に、あおいは少し目を泳がせる。
「君は何を恐れているの?」
あおいは短い沈黙の後、小さく呟いた。
「空っぽの自分を、です」
あおいは振り返り、真正面から木瀬を見た。少し離れて歩いていた木瀬も足を止める。
二人は互いの瞳を見つめ合った。
「木瀬さんは、恐ろしくはないですか?」
「何が?」
「人を殺すこと。敷かれたレールを辿るように、ただ無機質なまま闇の世界に生きること。恐ろしいと感じたことはないですか?」
「ないね」
「あたしには、あります。恐れが、不安がずっとずっと、心の中で渦巻いています」
目を閉じるあおいを、木瀬は無言でただ見ている。
「命じられて誰かを殺す度、あたしはいつも思う。引き金に慣れきった指。歓びや愉しささえ感じる脳。考えるより早く動く体。そこにあたしの意思はない。意思よりも先に、体が記憶してるからです。暗殺者として育てられた過去を。何人もの人を手にかけた経験と、その罪を。それを当たり前と思う自分と、恐ろしいと思う自分。どちらも本当にあるはずなのに、確かな感覚として捉えられない。何が本当でどれが嘘なのか、何が確かでどれがまがいものなのか、それすら分からないまま全部消えていく」
「それは迷い? 暗殺者を否定したい躊躇い?」
木瀬はただまっすぐあおいを見据え、
「君はどうして確かなものをほしがる? 持っていても役に立たないがらくたなのに」
「……木瀬さんは、ほしくありませんか? 確かな自分が。曖昧なものじゃなく、すぐ傍で触れられるような。木瀬さんは、迷うことはないですか? たくさんの人を殺すことに。闇を生きることが自分に課せられたものだと、迷いなく言い切ることができますか?」
「できるよ。それが僕の道だから。僕が僕の意志で選んだものだから」
「あたしには……できません。人を殺すことを、肯定するなんてできない」
「だから迷うの? 罪悪感と使命の間で、身を削るように」
「あたしは《ヴィア》の娘。だけどそれは、あたしが望んだからじゃない。人殺しに慣れたあたしは、何よりも罪深い悪です」
あおいは木瀬から目を逸らし、僅かな波紋すらない湖を見つめた。
「それが今の、君の虚無か」
木瀬は責めるでも嘲るでもなく、何の感情や温度も宿らぬ独り言のように呟く。
「以前の君では、抱き得なかった感情だな。罪悪感、人間としての葛藤……。僕たちにとっては役にも立たないがらくただ」
木瀬はあおいの前に立つと、その眦にそっと触れて涙を拭った。
「それは君の優しさであり弱さだよ、あおい。君は何も迷う必要はない。僕たちのような人間は、確かな自我を掴んだら死んだも同然だよ。そんなもの、君にはいらない」
「……それは諦めですか? 心を捨てるための」
「覚悟だよ。誰よりも強く生きるための」
木瀬はふっと微笑むと、感情の滲まない声で告げる。
「迷いは捨てなさい。自分など求めても意味がない。でないと、その感情は君の心を食い潰し、君自身をいつか殺してしまうよ」
あおいは一瞬目を大きく見開く。木瀬はもう一度あおいに微笑みかけた。
ひゅるりと音を立てて木枯らしが吹いた。木瀬は寒さに身を抱くあおいの掌を掴んで、
「さあ、もう行こう。風がだいぶ冷たくなってきた」
木瀬に導かれるままあおいはついていく。足早に遠ざかる湖を、あおいは最後に一度だけ振り返った。それまで僅かな揺らぎもなかった水面に、風が小さな波紋を描くのを見た。
暖房の熱が冷めた車に乗り込み、あおいはニットカーディガンを脱いで丁寧に畳んだ。後部座席にコートを置いた木瀬は、運転席に乗り込むと車をバックさせ、元来た道を戻っていく。あおいはサイドミラー越しに遠ざかっていく景色をただ見つめていた。
車は山道を慎重に走る。通り過ぎる木々を眺めるあおいに木瀬が声をかけた。
「着いたら起こしてあげるから、眠ってていいよ」
あおいはシートベルトを締め、窓にそっと凭れて流れる景色を目で追う。そして山道を抜けないうちに、うとうとと眠りに落ちていった。
任務の連絡を受けたのは夜中の二時だった。寝惚け眼で電話に出て、覚醒しない脳で話を聞いていたが、内容が内容だったのですぐに眠気が吹っ飛んだ。
亮太は急いで服を着替え、漆黒に包まれた街を車で走り、指定された場所で荷物を受け取る。そしてアパートに戻って仮眠を摂った後、渡された荷物を手に出掛けていった。
亮太は指示された時刻より一時間早く、目的地である廃ビルに到着した。人目につかない位置に車を止め、崩れかけのような外観のビルの階段を駆け上がる。最上階の五階に着くと周囲をくまなく見て回り、自分以外に誰もいないことを確認した。そしてアタッシュケースからライフルを出し、慣れた手つきで素早く組み立てていく。
周囲の壁は剥き出しのコンクリートで、中には崩れて外が丸見えになっている箇所もある。亮太は朝陽で影ができないよう、光が射し込まない位置をあえて選んだ。ライフルを組み立て終わると、銃弾を装填して壁の穴から銃口を突き出し、スコープを覗いて目標をすぐに見つけ出す。
懐で携帯電話が震える。亮太は片手で取ると、左肩で挟むようにして応答した。
〈亮太か。首尾はどうだ〉
低く唸るような竹田の声が聞こえる。亮太は声を潜めて答えた。
「上々。ちゃんと見えるよ、署の裏口」
スコープ越しに見ているのはT田警察署の裏口だ。関係者のみが利用できる通用口で、今のところ周辺に人影はない。
〈ターゲットは分かっているな〉
「勿論。《蒼の咎》の幹部A、B、C。県警へ移送される前に始末……だろ?」
〈周囲の状況はどうだ〉
「今のところ人っ子一人いないね。署員もまだ寝てるんじゃないの。護送車もまだだよ」
〈指定ポイントはどうだ〉
「距離にして三〇〇ってとこか。まあまあ狙いやすいんじゃないかな。余計な障害物もないし、裏口が駐車場と隣接してる分、広いからやりやすいよ。それよりもさ、俺がやる前に口割られてたら話にならないんだけど、そこんとこはどうなの?」
〈案ずるな。三人とも黙秘を貫いているという話だ。今のところ、まだ我らに火の粉がかかる事態は免れている。分かっているだろうが、失敗は許されんぞ〉
「周りの警官は撃つなってことだろ? 分かってるって。こういう仕事に関しちゃ、俺はあおいよりも専門なんだから心配無用っすよ、竹田さん」
〈ターゲットの顔はちゃんと覚えているな?〉
「もらった写真がある。でも側にあったら邪魔だし、覚えたから見る必要ないよ」
その時スコープに入ってくる車があった。灰色の護送車だ。ライトバンよりも少し大きいそれが、駐車場を横切って裏口のすぐ前で止まる。
「車来たよ。そろそろ時間だ」
亮太は通話を切ると、左肩に挟んでいた携帯電話を払い落とす。そしてスコープの中に意識を集中させた。
ポイントは三〇〇メートル以上離れた地上。ターゲットは警察署から移送される三人。チャンスは一度きり、裏口を出て護送車に乗せられるまでの数秒間。盾のように三人を取り巻く警察官を撃ってはならない。
難易度の高い任務だが、亮太に恐れは微塵もない。この類の仕事は何度もこなしてきたし、何より暗殺者としての己の手腕を信じているからだ。必ず全員を一発ずつで仕留めると決めていた。
スコープの中で状況が変化した。護送車の扉が開いたのだ。
「午前七時二十一分、開始」
亮太はきつく目を細めて照準を睨む。両脇を刑事に挟まれ、コートで顔を隠した三人の姿を認めると、瞬時に連続して三回引き金を引いた。一人につき一秒にも満たない速さで放たれた銃弾が、コートで覆われた三人の脳天をそれぞれ正確に貫く。即死の彼らは相次いで地面に倒れ、驚いた刑事たちが騒然と周囲を警戒する。しかし三〇〇メートルは離れた亮太の位置が、地上にいる彼らの肉眼で確認できるわけがない。
「午前七時二十一分三十五秒、完了。ターゲットは全員死亡。周囲の警官は全員無傷。以上により任務完遂を確認」
亮太はライフルを素早くばらしてアタッシュケースに入れると、痕跡を残していないことを瞬時に確認するなりその場を離れる。そして、人目につかないよう細心の注意を払って車に戻ると、何食わぬ顔で廃ビルから走り去っていった。
漆黒の空に月が高く昇った頃、訪ねてきた竹田と亮太が告げた言葉にあおいは絶句した。
「……そんな」
長い沈黙の後、あおいはそれだけ呟いた。
「嘘でしょ」
ソファに座って向日葵をぶら下げたり、その肉球を押したりしていた亮太が無言であおいを見やる。竹田はゆるりと頭を振り、先程と同じ言葉を繰り返した。
「嘘ではございません、お嬢様。申し上げたとおりです。《蒼の咎》を率いる木瀬彰一とその一派を全員、今夜中に抹殺するように。旦那様がお嬢様に下された任務でございます」
「どうして。何で急にそんな……。《蒼の咎》は《ヴィア》の味方じゃなかったの?」
「状況が変わったのさ」
膝の上で仰向けになった向日葵の腹を撫でながら、亮太が至極当然のことのように言う。
「《蒼の咎》は闇取引に失敗して警察に尻尾を捕まれた。ドジ踏んだ奴らは今朝方、俺が消してきたけど、このままだと遅かれ早かれ《ヴィア》にも火の粉が飛んでくる。そうなる前に片付けろって小父さんは言ってるのさ」
「それに、《蒼の咎》と友好関係にあったといっても既に過去の話。今の《蒼の咎》は組織そのものも衰退の一途を辿り、木瀬様だけのお力ではどうすることもできません。どのみち、こうなる前から《ヴィア》と《蒼の咎》の協力関係は廃れていました」
「どうして? たった一度の失敗ぐらい、いくらでも修正したらいいじゃない。切り捨てるなんて」
「そんなの不可能だよ。どんな些細なことでも失敗は失敗。逃げ切れたならともかく警察に捕まるなんて、俺たちには絶対にあっちゃならないんだ。そんな失態を犯した奴らなんて、たとえどんなに力のある暗殺者でも一気に足手纏いで最悪な邪魔者に格下げさ。生かす意味もないし、挽回のチャンスを与えてやる価値もない」
「亮太……!」
あおいの非難を亮太は完全に無視した。
「大体どうしてあたしなの? 亮太か他の人がやればいいじゃない」
「旦那様のご命令です」
「どうして!」
「お嬢様のお役目であるからでございます。旦那様は、お嬢様こそが任務の適任者であると判断されました」
あおいは潤んだ瞳で竹田を睨みつける。しかし竹田は泰然と言い放つ。
「否のお答えは聞き入れられません。あおいお嬢様、今すぐお支度を」
あおいはただ黙り込んだ。しかし長い沈黙の後、充血した目を擦ることなく機械的に支度を始める。黙々と動くその後ろ姿を、亮太は無言で見つめていた。竹田は何も言うことなく、リビングの壁を背にして立っている。
あおいは水玉模様のワンピースにレギンスを履き、白のニットカーディガンを羽織ると、ポシェットに拳銃と銃弾だけを入れて竹田と部屋を出た。マンションの外に止まっていた彼の車に乗り込み、導かれるまま目的地へ向かう。
車が走り出してすぐ、ぽつぽつと雨が降り始めた。やがてそれは激しいものへ変わっていき、到着して停車する頃には豪雨になっていた。
「ひどい雨ですね。お嬢様、ビニール傘でよければございますが」
「……いいわ。いらない」
「ですが」
「傘なんて差していったら目立つわ。このままでいい。濡れたって構わない」
竹田はただ無言で頷く。
「任務内容は先程申したとおりでございます。ご不明な点はございますか?」
「ない」
あおいは車を降りた。途端に激しい雨が全身を叩く。あおいは濡れて貼りつく髪を払うことなく歩いていった。
五分ほど歩くと二つの大きな倉庫が現れた。朽ちる寸前のそれらはコンクリートで建っているが、窓ガラスは全て割れている。
あおいはぐっしょりと水を吸い込んだポシェットから拳銃を出し、安全装置を外してレバーを引いた。そして駆け足で倉庫に近付き、鉄扉に凭れて中に銃口を向けると五発撃つ。乾いた銃声が雨音に紛れ、それと重なって人が倒れる音がする。
あおいは倉庫内に踏み入ると、うごめく影を視界の端に捉えるなり撃つ。あおいは俊足で駆けながら、四方八方にぶれなく銃弾を放って人影を倒していく。突進してくる男を蹴り飛ばして心臓を撃ち抜き、横から掴みかかってきた男を背負って頭から落とすと投げ飛ばした。骨が砕ける粗雑な音とともに倒れ込んだ男に銃弾を浴びせると、あおいは背後から襲ってきた男に回し蹴りを食らわせ、その体が地面にぶつかる前に脳天めがけて撃つ。
周囲に気配がなくなったのを確かめると、あおいは倉庫の外へと駆け出した。すぐ隣の倉庫に移るまでの短い間、土砂降りの雨に靴まで濡らされる。あおいは鉄扉から中を窺い、足音を殺しながら踏み込んだ。
引き金に指をかけて周囲に目を走らせていたあおいは、突き当たりの壁を背に佇む影に気付いて銃を構える。だが、暗がりに薄く浮かぶ顔を見て息を呑んだ。
その人影は木瀬彰一だった。
あおいは瞠目したまま一歩一歩、踏み締めるように木瀬へと歩み寄る。木瀬は泰然とあおいを見返した。二人の距離が徐々に縮まり、木瀬は懐から出した銃をあおいに向ける。
「来ると思っていたよ、あおい。君は僕を殺しに来る。初めからそう確信していた。だからここで待っていたんだ」
あおいは僅かに表情を歪める。
「さっきも激しくやり合っていたね。聞こえていたよ。尤も、彼らでは敵いやしないと分かっていた。ここまで来たということは、僕を殺しに来たと理解していいのかい?」
あおいは否定も肯定もしない。その様子に眉をひそめた木瀬が嘲笑にも似た響きで、
「どうした? 銃が震えているぞ。そんな泣き顔で任務を遂行するのが《ヴィア》の娘か?」
あおいは構えていた銃を下ろし、
「……逃げてください」
「何?」
「あたしには、あなたを殺すことなんてできません。今すぐここから逃げてください」
木瀬は唖然と言葉を失い、やがて毒気が抜かれたように笑い出した。
「何を言い出すかと思ったら。君は敵に情けをかけるのか? 父上に命じられて僕を殺しに来たんじゃなかったのか?」
「それはあたしの意志じゃない!」
木瀬はやや目を見開いて言葉を呑んだ。
「あたしは、本当は誰も殺したくない。誰も巻き込みたくないし、誰も傷つけたくない。望んで《ヴィア》の娘に生まれたわけじゃない。そんなことのために、あたしは生まれたんじゃない!」
泣き叫ぶあおいを、木瀬は白々とした顔で見返す。
「あたしは、本当は普通に生きたかった。誰かを殺すなんて、そんなことしたくなかった。父はあたしを、ただの殺人マシンとしか見ていない。父の命令は絶対で、《ヴィア》に逆らうことは許されないって分かってます。それでもあたしには、あなたを殺すなんてできない! あたしはあなたを殺せない。同じ瞳をしたあなたを、あたしの孤独を……暗殺者の孤独を分かってくれたあなたを、殺したくなんてない」
長い沈黙が流れる。泣きじゃくるあおいを無言で見つめていた木瀬は、ふっと乾いた冷笑を零した。
「そうか。じゃあそれで、君が死ぬことになってもいいんだな?」
あおいははっと顔を上げる。次の瞬間、背後から突進してきた四つの影があおいを捕らえた。羽交い絞めにされ、両脇から腕を掴まれた上に銃を叩き落とされる。遠くへ転がる銃を見るより早くあおいは押し倒され、埃塗れのコンクリートに全身をぶつけた。唸りにも似た呻き声を上げた瞬間、こめかみに冷たい感触が突きつけられる。
あおいは唯一拘束を逃れていた左足を振り上げ、腹に跨ろうとしていた男の股間を蹴り上げる。男たちが驚いた一瞬の隙を突き、自由になった右腕で一人の腹に容赦ない肘鉄砲を食わらせ、左の拳でもう一人の顎を下から思い切り殴り飛ばす。
あおいは男たちが離れると同時に起き上がり、遠くに転がった銃めがけて走った。銃を掴んで引き金を引くのと、男が追いついてきたのはほぼ同時だった。あおいは男の喉仏を真正面から撃ち抜き、背後から伸びてきた別の男の手首を逆方向に捩じ上げ、仰け反ったその脊髄に踵落としを炸裂させた。
よろよろと逃げようとする男に銃口を向けた瞬間、後方から響いた銃声があおいの右頬を裂く。あおいは腰からサバイバルナイフを抜き取ると、振り返ることなく背後へ勢いよく投げつけた。そして、逃げようとした男を再び向き直って撃ち、背骨と手首を折られてのたうち回る男の息の根を銃弾で止める。
額に風穴が開いた男の肉体が地面にぶつかるのを最後に、倉庫内は濃い雨音に満たされる。あおいは肩で呼吸をしながら、頬を伝う血を拳で乱暴に拭い取った。
振り返った時、腹を押さえて壁に凭れかかる木瀬を見た。
「木瀬さん!」
「来るな!」
あおいはびくりと身を竦ませる。木瀬はナイフが刺さった腹を押さえながら、壁伝いにずるずると崩れ落ちた。足を動かそうとするあおいを、息も絶え絶えに睨みつける。
「来るなと、言っているだろう……」
あおいは呆然と立ち尽くす。
「さすがは《ヴィア》の娘……いや、《M‐R》の善人の娘、と言うべきか。油断も隙も、あったもんじゃない」
あおいはほんの一瞬だけ眉をひそめる。
「それが君の強さでもあり、脆さでもある。言ったろう、それは僕たち……闇の人間、暗殺者には、必要ないのだと」
「木瀬さん……」
あおいは二、三歩だけ足を動かした。
「君が抱える、それは、弱さだ。弱さは……人を、救わない。いつか、いつか君自身を食い潰し……やがて、殺す。僕や、そいつらを躊躇いなく殺した君は……間違いなく、闇の人間だ。それが君の本能で、それが君の、生き筋だ。決して、逃れられない。決して二度と、戻れない……。なぜ泣く、あおい」
あおいは溢れる涙を拭わずに告げる。
「悲しいから、です。悲しい、痛い……。あなたはあたしを、分かってくれた。あなたは教えてくれた。あたしに孤独を。あたしがかつて、人間だったと」
「それが、どうした。それが君を救ったと……いうの、か。甘いな、君は」
「でも、あなたはあたしと同じ。同じ孤独を抱えて、だからこそ、あたしの話を聞いてくれた。……あたしを、救おうとしてくれた」
「幻想だ、ただの……。君だけの、夢にすぎない」
あおいは頭を振る。木瀬は乾いた微笑を零した後、苦しげに呻いて顔を歪めた。
「君が、失ったものを……父親に奪われたものを取り戻したいと、願うなら……それは修羅の道だ。孤独よりも、死よりも、なお残酷な」
「木瀬さん」
あおいは駆け寄ろうとした。しかし木瀬は首を横に振る。
「行きなさい。僕はもう……じきに、死ぬ」
「木瀬さん」
「後悔、するな。振り返るのもだめだ。……君は、決して、後ろを見るべきじゃない。生きるなら……尚更」
「木瀬さん!」
木瀬はほんの少し顔を上げると、柔和な表情で微笑かけた。あおいは息を呑み、幾筋もの涙を零す。
「行きなさい。僕は……死ぬところを、誰にも見られたくは、ない」
あおいは木瀬に背を向けるとその場から駆け出した。
銃撃戦の気配が跡形もなく消えた頃、森上は廃れた倉庫に足を踏み入れた。雨音だけが満ちた闇を、森上はただ一点を目指して迷うことなく歩を進める。
壁を背にうずくまる男の姿が見える。命の終焉を目前にした木瀬彰一は、腹に刺さったナイフを力を振り絞って抜いた。呻き声を上げて横に倒れた時、森上と木瀬の視線が初めて交差する。
「……やあ、森上」
木瀬は微笑みかけた。鼓動が止まる寸前の挨拶を、森上はあえて無言で受け流す。
「驚いたな。君が、来るとは。任務……かい?」
「いや」
「じゃあ、なぜ」
「これが最後だからだ」
愛想の欠片もない口調で森上は告げる。冷淡とも取れるその響きに、木瀬は安堵したように頬を緩めた。
「……そうか、手向け、か」
「そうだ。俺に看取られて逝くなんて、永遠の屈辱だろう?」
「……いや、そうでもないよ。あの子に、看取られるよりか、随分とましだ……」
「恨んでいるのか?」
「まさか……」
木瀬は笑みを浮かべて否定し、次の瞬間咳き込むように血を吐いた。
「あの子に……あおいに、伝えておいてあげたよ」
「何を」
「そんな、怒らない……で、くれ。肝心なことは……言っちゃ、いないさ。ただ、一つだけ、ヒントをあげたんだ。余計な、こと、だろう……。君に、とっては」
「そうでもないさ。感謝するよ、友の最後の善意に」
「はは……」
森上は木瀬の傷を見つめた。腹部に負った刺し傷は、暗闇の中でも致命傷だと一目で分かる。出血はひどく、未だ止まる気配がない。木瀬の鼓動が消え始めているのを、触れてもいないのに肌で感じていた。
「お前は死ぬ。俺にはもう、どうすることもできない」
「構わない、さ。僕が生きる……目的は、達した。あとは、お前だ、森上。お前と、あおいだ」
木瀬の瞼が徐々に閉じられていく。体から命が抜けようとしている様を、森上は目を逸らさずに無言で見下ろす。
「な……あ、森上。救いは……き……っと」
言葉は終わらないうちに雨音に掻き消され、それから木瀬の目が再び開くことはなかった。その鼓動が止まり、体温が徐々に氷の冷たさへと変わっていき、傷口から流れる血が止まったことに気付くまで、森上は事切れた木瀬をずっと見下ろしていた。
片膝を立ててしゃがむと、呼吸すら忘れた静けさで瞑目する。空に昇った魂に祈りを捧げたのはほんの短い間だったのに、それは永遠と勘違いするほど濃い時間に感じていた。
雨は降り続いている。
「ごめんなさい……」
びしょびしょになった目を左手で拭いながら、あおいはうわ言のように繰り返す。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
拳銃を握ったまま、あおいは泣きながら夜道を行く。その周囲は光つすら存在しない漆黒だった。
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