第7章 冷たい秘密
清かな夜風がふっと止まり、厚い雲間から弓張り月が覗いた。ピアノ線のような月光が、突きつけられた銃口をほんの一瞬垣間見せる。その邪悪なきらめきに、尋人はさらに青ざめて竦み上がった。
「あおい……冗談だろ?」
ひび割れた尋人の声に、あおいは眉一つ動かさない。
「そんな、嘘……」
「嘘じゃないわ。あたしは人殺し。闇の仕事を請け負う暗殺者」
尋人は愕然と目を瞠る。あおいは感情の滲まない瞳で淡々と告げた。
「あたしは幼い頃からたくさんの人を殺してきた。今も命令を受けて、誰かを殺し続けている」
「嘘だろ」
「嘘じゃないわ」
尋人は激しく頭を振る。
「君は何も覚えてないと言ってたじゃないか! 自分には過去の記憶がないんだって。なのにそんなこと、できるはずが」
「確かに、あたしには過去の記憶がない。それは本当。だけど、殺人術そのものを忘れたわけじゃない」
尋人の目がこれ以上にないほど見開かれる。
「目が覚めた時、あたしはあたしのことが分からなかった。だけど、人の殺し方は覚えていた。あたしのことが何一つ分からなくても、銃やナイフでいとも簡単に他人の命を奪うことはできた。あなただって見てたでしょう?」
突き刺すように告げられた言葉が、尋人の脳裏に鮮やかな記憶を呼び起こす。
止まない豪雨。血と錆と雨が混ざった嫌な匂い。打ち捨てられたように転がるいくつもの死体。その中に佇んでいた一人の少女。
あの夜と同じ冷たさを瞳に宿して、あおいは尋人に銃口を向けていた。
「あたしは人殺し。今までずっと、秘密で仕事をこなしてきた。目が覚めてから何人殺したか覚えてない。数えてもいないくらい、殺してきたの」
「そんなの嘘だ! 君は……君はそんなことできる人間じゃない!」
「あたしは冷酷な人間よ。だって、人を殺しても何も感じないの。悲しくもないし、後悔だって浮かばない」
「そんな……っ」
「あたしは空っぽ。何をしてても誰といても、胸の奥に空いた大きな穴は埋まらない。あたしはあたしが分からない。生きてるなんて、感じない」
あおいは一度だけ瞬きをする。そのつぶらな瞳は予想に反して乾いており、目の前にいる尋人すら映していないように見えた。それが恐ろしさで竦む尋人をさらに凍らせ、打ちのめされる感情の出口を塞いでいく。
「でも、人を殺してる時は違う。銃を握っていると安心するの。それまでずっとあやふやだったものが、ほんの少し形を持って確かな感触になる。あたしにとって、それが唯一の生きてる実感。あたしは空っぽ。何もないから、何も分からない。でも人を殺す時、あたしはあたしなんだって思える」
「そんなことはない! 俺は……そんなこと信じない! 俺は、君を──」
「あたしは人殺し。闇でしか生きられない罪人。知られた以上、もうあなたとはいられない」
あおいは銃を握り直すと尋人の額にまっすぐ向けた。尋人はぞっと青ざめ彫刻の如く硬直する。息詰まる沈黙の後、尋人は無意識のうちに一歩踏み出していた。
「来ないで!」
尋人はびくりと身を引いて固まる。
「来ないで。それ以上近付いたら撃つわ」
「あおい、何を」
「本気よ。今のあたしは、あなたが知るあおいじゃない。あなたが今まで見てきたあおいは偽り。あなたが知ってるあおいは、もうどこにもいない」
「あおい……」
「あたしは今、必死に自分を抑えてるの。あたしの中の殺人衝動が、あなたを見て激しく暴れてる。あたしはあなたを殺したい。殺したくてたまらない」
「そんな嘘……」
「嘘じゃないわ。本気よ。もしあなたが一歩でもそこを動いたら、あたしは躊躇いなくあなたを撃つ。あなたを殺すわ」
尋人はぶるりと震え上がる。しかし激しく頭を振ると、彼女の名を叫んで駆け出した。
木の葉が微かに揺れるだけの深夜の公園に、空気にひびを入れる乾いた音が短く掠める。からんと間抜けな音を立てて薬莢が落ち、銃口から薄く細い煙が一筋立ち昇った。
何が起きたのかを認識するより早く、尋人は後方に大きくよろめいた。膝が砕けて地面に身を崩し、右頬を両手で押さえてうずくまる。顔半分を覆った手に鮮血が滲み、締め忘れた蛇口みたくぽたぽたと零れる。
尋人は痛みを堪えようと呻いた。鼓動がどくどくとやけにうるさく、呼吸困難のように息遣いが荒くなる。尋人は頬を押さえたまま、目だけであおいを仰ぎ見た。
あおいは暗闇でもはっきりと分かるほど蒼白の表情で、しかし瞳は刃のごとき鋭さをたたえたまま、
「本気だって言ったはずよ」
「あおい……っ」
「これで分かったでしょう、あたしが本当はどんな人間なのか。いいえ、もはや人間ですらないってことが」
あおいはくるりと背を向けた。
「追ってくるなら、今度こそ殺す」
ぞっとするほど冷たい言葉を残すと、あおいは闇の奥へ歩いていく。
「待て……っ」
地を這うような唸りに一瞬だけ立ち止まるが、あおいは尋人を振り返らなかった。その場から動けない尋人と、去り行くあおいの距離が確実に開いていく。
「待て、あおい。待って……くれ……!」
あおいは最後まで振り向くことはせず、尋人の制止を打ち消す確かな響きで呟いた。
「さよなら」
その一言が夜風に溶ける前に、あおいの姿は公園から消えた。
「……あおいーっ」
尋人の叫びが悲痛にこだまする。しかしそれは瞬く間に夜の深みに呑み込まれ、誰もいないそこには漆黒にうずくまる尋人だけが残された。
月が灰色の雲に隠された暗がりを、あおいは一人で歩いていた。日付が変わった住宅街を通ってマンションに着くと、エントランスの前に先回りして待っていた亮太の姿があった。
あおいの帰宅に気付いて顔を上げた亮太と視線が絡まる。
「……別れてきた。さよならって言ってきた。もう、彼とは会わない」
「そう。……怒ってる?」
あおいは小さく首を横に振った。
「分かってたから。いつか必ずこういう時が来るって……分かってた、ことだから」
あおいは自動ドアの前で立ち止まる。亮太はエントランスには入らず、ガラスに凭れたまま顔だけをあおいに向けていた。
「分かってた。あたしはずるい。尋人を騙して、嘘をつき通したまま、それでも幸せがほしいなんて。あたしが間違ってることも、ずるいってことも分かってた。こんな日々が続くはずない、いつか知られてしまう日が来るって、心の中ではずっと思ってた。ただ、信じたくなかっただけで」
「覚悟してたってこと?」
あおいは小さく頷いた。
「俺を怒鳴らないの? 何でぶち壊したんだ、最低だって罵らないの?」
「そんなこと、できない。できないよ。だって、悪いのはあたしだもの。亮太が何でこんなことしたのか、あたしちゃんと分かってる。だから、責めることなんてできない。悪いのはいつも……いつも、あたしだから」
あおいは亮太の目を見ることなく、そのまま開錠して自動ドアの奥へ向かおうとする。
「あおい」
あおいは立ち止まる。
「俺たちは闇に生きる人間だ。陽向にいるんじゃない。今も昔も、これからもずっと。人並みの幸せなんて、望んじゃいけない」
あおいは振り返らずにエントランスの中へ入っていった。エレベーターで六階まで昇り、無人の廊下を歩いて部屋を目指す。そして玄関を開けて靴を脱ぎ、手探りで電気を点けようとした。
瞼がじわりと潤んで視界が歪む。涙が次々に溢れ出し、引き結んだ唇から嗚咽が漏れた。
あおいはそのまま崩れ落ちる。うずくまって体を丸め、額を床にすりつけて、誰もいない暗黒の中で慟哭した。
全ての生き物が眠りに就いた闇夜の中、亮太はアパートを目指して車を飛ばした。
人々の眠りを妨げないよう騒音を抑え、慣れた手つきで月極駐車場に止める。車から降りてロックをかけた時、背後に気配を感じて振り返った。ブロック塀に凭れるようにして、黒のスーツに身を包んだ竹田が立っている。
「何だ、竹田さんか。びっくりしたじゃん」
驚きながらも笑い飛ばす亮太を竹田がちらりと見やる。視力がある左目は眼光でまだ分かるが、眼帯を装着した右目は夜と同化して窺えず、亮太はほんの少し薄ら寒さを覚えた。
「もっと普通に出てこれないの? まるでホラー映画の幽霊登場シーンじゃん」
亮太の軽口に竹田は全く反応しない。その意味を亮太は正確に察知した。
「……もしかして怒ってる?」
「何がだ」
「俺がしたこと、余計なことだって怒ってる?」
竹田は沈黙する。亮太は何だか恐ろしくなって、竹田からふいと目を逸らした。
「なぜ目を逸らす」
「いや、だって……」
「何か後ろ暗いことでもあるのか」
「いや、明らか怒ってるじゃん」
亮太は昔から竹田に怒られるのが苦手だ。竹田は決して声を荒げない。だがその代わり、こちらが潰れるぐらいの威圧感と、心臓を何度も抉るような眼光で見据えてくる。その恐ろしさはもはや脅迫よりも強烈だ。《ヴィア》で一番恐ろしい存在は水島総一朗と言われているが、亮太にとっては竹田より怖いものなどこの世にない。この先で待ち受けている展開が容易に想像できて、亮太は珍しいぐらいびくびくしていた。
呼吸すら忘れるほどの沈黙の後、竹田は深々と嘆息した。
「誰が怒っていると言った」
「いや、でも怒ってるんだろ? 余計なことすんな、このばかがって」
「誰もそんなこと、一言も言っとらん」
亮太は驚いて口を開け、まじまじと竹田を見つめた。
「お前の気持ちは分からんこともない。お前が今のお嬢様を見て何をどう思っていたかは、私が一番よく知っている」
「竹田さん……」
「お前はお嬢様と杉原尋人の仲を壊した。お嬢様とかの若者にとって最も残酷な形で幕引きさせた。お前はそれが正しいことだと思ったのだろう?」
亮太は曖昧に首を傾げたが、やがてこくこくと首肯した。
「ならばよい。お前がそう思っているならば、私は何も言わない」
亮太の心を占めていた一番の懸念を、その言葉があっさりと吹き飛ばした。
「あーあ、そうきたかー」
「何がだ」
「訊かなくても分かってるだろ。それが俺には一番堪えるって知ってて言ってるくせに。ずるい大人だよなー、竹田さんも」
「お前に言われたくはない」
「ははっ、全くもってそのとおり」
亮太は乾いた笑いを浮かべ、竹田と並んで歩き始める。ほぼ無音の夜の中に、二人の靴音がやけに大きく反響する。亮太は背伸びをしながら、ひとりごちるように言った。
「俺さ、ずっと悔しかったんだ。忘れられて、突き放されて、冷たくされて……。今まで積み上げてきたもんが呆気なく壊れて、まるで全部が全部嘘だったんですよーって言われたみたいで、すっげー悔しかったんだ」
沈黙していても竹田はちゃんと聞いてくれている。それを空気で感じ取った亮太は、わざとらしすぎる明るさで続けた。
「自分は知ってるのに相手は覚えてないって、すげー分かりやすい図式だけど実は一番残酷なんじゃないかな。責めたくても本人が覚えてないからどうにもできない。そんなのこっちが損じゃんか」
星一つ見えない曇天を仰ぎながら、亮太は後頭部で両手を軽く組んだ。
「今のあおいにとって俺は、ガキの頃から一緒だった従兄の亮太じゃなくて、見ず知らずの他人Aなんだ。よう久しぶりじゃなくて、初めましてどなたかしらなんだ。それで正気を保てる奴のほうがどうかしてる」
竹田は先程から一言も発しない。その気遣いをいつもはありがたく思うのに、なぜか今夜はひりついてたまらなかった。
「そんなもんだから、あいつが無性に腹立たしくて憎らしくてさ。だって奴を前にしたら、俺なんて全然立場ないじゃん」
亮太は言葉を切って、「ははっ」と乾いた声を漏らす。
「……ばかなことしたなと思わなくもないよ。格好悪いと分かってるし、あおいを泣かせたかと思うと、なけなしの良心だって少しは痛んだりするさ。けど」
竹田がちらりと亮太を見やる。
「俺が求めたことのなかったものを求める、あおいが許せなかったんだ」
亮太は言葉を閉ざすと、後頭部で両手を組んだまま歩き続けた。歩調を合わせてついてくる竹田は長すぎる沈黙の後、
「それも一つ、お前の思いだ。お嬢様を気遣う、お前の優しさだ」
「優しさ……なのかな」
「そうだ」
「あおいの幸せをぶっ壊したのに?」
「それも全て、お前がお嬢様を思いやった結果だ」
「……そんな綺麗なもんかな」
「たとえ美しくなくとも、それがお前にとって最善であり真実ならば、私が言うことは何もない」
竹田が確かな口調で告げる言葉に、亮太は素直に頷けないでいた。心の奥を靄のように包む後味の悪さがどうにも消えない。もしかして、人はこれを罪悪感と呼ぶのだろうか。
「何が正しくてどれが間違いかなど、結局は誰にも分からぬことだ。そもそも真実など形なきもの。個人の思いなど、言葉を伴わなければ感じることさえ難しい。だが、それだけが全てというわけでもない。人とはそういう生き物だ」
「へえ……。でも俺、自分を人間だと思ったことはないよ?」
「見てくれは人間だろう」
「へえ……あははっ、そういう切り返しするか」
亮太は笑い転げた。隣の竹田はちらりと亮太を見やっただけで、睨むことも責めることもしない。
「全てはこれからだ、あおいお嬢様もお前も。私にできるのは、ただ見守ることだけ」
「そして、何かあれば手を差し伸べるだけ……。聞き飽きたよ、その台詞」
亮太はアパートの階段を軽やかに駆け上がる。すると、その足取りを見た竹田は途端に顔をしかめ、
「亮太。今は真夜中だ。階段ぐらい静かに昇れ」
「いいってば。どうせみんな夜更かししてるよ。ここの住人はみんな夜型なのさ」
適当に受け流そうとする亮太を、竹田は先程までにはなかった剣呑さでぎろりと睨む。
「……ごめんなさい。俺が悪かったです。もうしません。以後気を付けます」
「分かればいい」
そう言うなり、竹田は音もなく去っていく。その姿が闇に消えるまで、亮太は手すりから身を乗り出して見送った。そしてすぐ部屋に入ることはせず、しばらく夜風に吹かれたままでいた。
夜が明けると、またいつもの一日が巡ってきた。薄く鋭い太陽の光がカーテンの隙間から射し込み、目覚まし時計が空気を破るように鳴り響く。尋人は布団に深く潜ったままそれを思い切り叩いて止めた。
「尋人ー、起きてるー?」
一階から母の声が聞こえる。階段の下から声を張り上げているのだろうと思いながら、尋人は気だるげにゆっくりと体を起こした。時計の針は六時二分を指している。平日の決まった起床時間だ。
尋人は寝惚け眼のままベッドを下りようとして、ふと無意識に右頬に触れる。その瞬間、指がガーゼの感触を捉えて鋭い痛みが走った。尋人は思わず呻いてしまうが、目を強く瞑りぐっと耐え忍んだ。悶えたくなる痛みがじんじんと神経に響き、夜更けに遭遇した出来事が脳裏にまざまざと蘇ってくる。
尋人がどさっとベッドに倒れ込んだ瞬間、部屋のドアが前触れもなく乱暴に開かれた。
「こら尋人っ、起きなさい!」
パジャマ姿の佐知子が、早朝にまるでそぐわない怒声を浴びせてくる。
「尋人、あんた気付いてるわね! 起きなさいよ、このばか!」
佐知子はどたどたとベッドに近付くと、布団を深々と被った尋人を何度も揺さぶる。しかし転がす勢いで揺さぶられても、尋人は頑として起きようとしない。
「起きなさい尋人! 母さんが下でご飯作って待ってんのよ。大体あんた学生でしょ。学生の分際で寝坊なんて生意気な! そんなことで皆勤を潰すなんて、この佐知子様が許さないからね! ほら起ーきーろーっ」
何度も激しく揺り動かされていい加減頭が痛くなってきた尋人は、佐知子の手を荒っぽく払いのけた。
「うるさいな。今日は寝かせてくれ!」
滅多にない語調でそう叫ぶなり、尋人はまたしても布団に潜る。だが、それで引く佐知子ではなかった。
「あんたね、それで引くあたしだと思ってんの? ふざけんじゃないわよ。起きなさい、こら! 雪花はもうとっくに起きて準備してんのよ!」
「あと十分」
「十分とか言って、そのまま八時ぐらいまで寝るつもりなんでしょ!」
「いいだろ、ほっといてくれよ! 今日は行きたくないんだ」
「何情けないこと言ってんの。あんたそれでも男なの? まだ言うなら問答無用で男の看板下ろさせるわよ。ほら、三秒後に蹴り落とされたくなかったら、四の五の言わずに今すぐ起きなさい!」
無視しようと思ったが、一秒も経たないうちに足を振り下ろそうとする佐知子の気配を察し、尋人は観念して飛び起きた。
「分かった、分かったよ! 起きるから出てってくれ!」
本気で蹴り落とそうとしていた佐知子は、明らかに興が削がれた顔で渋々と出ていく。尋人はがっくりと肩を落としてうなだれた。佐知子の目覚まし攻撃に打ち勝てると、少しでも思ってしまった自分はなんて愚かなのだろう。
一階に下りると、朝食の匂いとモップみたくもこもこなリーベが迎えてくれた。尋人はリーベを撫で、手を洗ってから食卓に座る。そして朝の挨拶を交わした時、味噌汁をいれようとしていた母が仰天した。
「まあ尋人! そのほっぺどうしたの?」
その言葉に、先に朝食を食べていた父と雪花、食卓で新聞に顔を突っ込んでいた健人、ソファでふんぞり返っていた佐知子の視線が一斉に尋人に注がれた。
「昨夜、階段下りる時に派手にこけちゃってさ」
「まあ! 大丈夫なの? ぶつけたの?」
「ちょっと痣ができちゃって、みっともないからガーゼ貼ったんだ。治るまで着けとくから、いちいち見る度にびっくりしないでもらえるとありがたい」
「びっくりも何も、心配するじゃないの。何で起こしてくれなかったの?」
「だってみんな寝てただろ。姉さんも兄さんも帰り遅かったしさ」
あらかじめ言い訳を考えていた尋人は、何気なさを装って朝食を食べ始める。
「心配ねえ、病院に行ったほうがいいんじゃない? ねえお父さん」
「尋人が大丈夫と言うんだから大したことはないだろう。いちいち騒ぐんじゃないよ」
動揺が消えない母を、父が味噌汁を啜りながら窘める。雪花が卵焼きをぱくぱくと食べながら、
「それにしても、ほんと派手に転んだんだね、尋兄ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫だよ。大したことない、すぐ治るから」
尋人がそう言って笑うなり、なおも心配そうな顔の雪花の隣に座っていた健人が、いきなり新聞を放り投げて妹をぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「偉いっ、偉いぞ雪花! 一人前に尋人の間抜けすぎる怪我を心配してやるとは、なんて優しい子なんだ。雪花よ、兄ちゃんはお前の優しさが嬉しくて涙が出らあ!」
「健兄ちゃん、暑いよ。ていうか、ご飯食べらんない……」
「いい子だ雪花! 兄ちゃんはお前の雪のように白くて綺麗な心根が何よりも誇りだ!」
見ているこちらがうんざりするほど雪花を抱き締め頭を撫で回した健人は、途端に口調をがらりと変えて尋人に命じる。
「おい尋人。お前、雪花にくだらん心配かけるような真似はするな。階段は駆け足で下りるもんじゃない、忍び足だ! そして一段飛ばしはするな! 今度そんな間抜けな傷、もしくは取るに足らない心配事を少しでも雪花に見せてみろ、俺様がお前をリーベのリードに括りつけて近所中を引きずり回してやるからな」
「健人、ばかなこと言ってないで雪花を離してあげな。てか、興奮して新聞投げるのやめてくれる? あたしの頭にすこーんと直撃したんですけど」
佐知子の冷たすぎる突っ込みも健人は全く気にしない。尋人はそんなやりとりを全力で無視し、普段より早いスピードで黙々と食べ終えた。
「ご馳走さま。着替えてくる」
「ええーっ尋兄ちゃん、もう食べ終わっちゃったの? いつもより早いよー」
「おいこら尋人。貴様、雪花が終わるまで待っててやらんか!」
雪花と健人の声が飛んでくるのも無視して、尋人は洗顔と歯磨きを済ませると、そそくさと二階に上がった。自室に入った瞬間、雪花がばたばたと階段を駆け昇り、同時に健人の「雪花ーっ、兄ちゃんを放っていくのかーっ!」という情けない絶叫がこだまする。それらはどれも、もはや恒例となっている杉原家の朝の風景だ。
何の変哲もないその一つ一つが、今朝はやけに尋人の心を絞め上げる。その痛みに気付かないふりをしながら、尋人は素早く着替えを済ませた。鞄に教科書やノートを次々と投げ込み、スポーツバッグに体操服と友人に借りた参考書や小説を入れる。そして自転車の鍵を掴むと、尋人は部屋から飛び出していった。
玄関で靴を履いていると、リビングから出てきたリーベが足元に纏わりつく。
「こらリーベ、出てきちゃだめだろ。散歩は後で母さんに連れていってもらえ」
それでもリーベはなかなか尋人から離れない。見送るつもりらしいと思えるだけの心の余裕を、今朝の尋人はとても持つことができなかった。
「行ってきます」
リビングにいる両親まで聞こえるよう声を張ると、尋人はリーベを玄関に残して外に出た。自転車に鍵を挿し、正鞄を荷台に括りつけてスポーツバッグを籠に入れる。そしてサドルに跨った時、雪花が玄関から飛び出してきた。
「もう! 尋兄ちゃんったら、ちょっとは待ってくれたっていいじゃない」
尋人は仕方なく自転車から下りて歩き出す。雪花はむくれたままその横に並んだ。
「いつになくせっかちな尋兄ちゃん」
「別にいいだろ。たまには早く行きたい時だってあるさ」
尋人がぶっきらぼうに返すと、雪花はさらに口を尖らせた。
「もう、何をそんなに苛ついてるの?」
「別に苛ついてなんかないよ」
「嘘。今の尋兄ちゃんのオーラ、すっごいぴりぴりしてるよ。ご飯の時だってそう」
「してないよ。大体オーラなんてもん、目に見えるのかよ」
「感じるものだってあるでしょう?」
「ねえよ」
「うわあ、いつにも増して乱暴な口調の尋兄ちゃん」
尋人はあからさまにむっとした顔で、雪花をぎろりと睨みつけた。
「何だよお前、いちいち突っかかってくるなよ。ちょっとは空気読めよ。俺は今ものすごく機嫌が悪いんだ」
「分かるから訊いてるの。何をそんなに怒ってるの?」
「お前には関係ない」
「うわあひどい、せっかく心配してあげてるのに!」
「誰が心配してくれって言った」
冷淡を越えたそっけなさで言い返すと、さすがの雪花も絶句する。明らかに傷ついた面持ちになけなしの良心がちくりと疼くが、尋人はそれを顔には出さずにさっさと歩いた。早足の尋人に追いつこうと必死な雪花が、頬を膨らませてとどめを刺すように言ってくる。
「そんなに感じ悪く怒ってたら、あおいに嫌われちゃうよ!」
尋人はぴたりと足を止めた。
「……その名前を口にするな」
自分でも内心驚いてしまうほど、今までにないくらい冷徹な声音が喉から出た。
「え?」
「その名前を二度と言うな」
「え……何で?」
何気なく訊き返した雪花が目に見えて青くなる。
「どして? 何でそんなこと言うの? だって尋兄ちゃんとあおいは」
「別れた」
「えええっ」
耳を劈く雪花の声に、尋人は反射的に怒鳴り返した。
「うるさいな! 近くで大声出すなよ」
「だだだ、だってそんな、別れたって何で?」
「何でもいいだろ。お前には関係ないよ」
「何で? 何でなの? あんなに仲良かったのに、喧嘩でもしちゃったの?」
先程までの明るさは彼方に消え、雪花はひどく困惑した目で言葉を重ねてくる。
「どうして? 別れちゃうなんて、そんなの悲しいよ。何があったの?」
「別に何でもないよ。とにかくその名前は、俺の前では二度と出さないでくれ。もう聞きたくもないんだ」
それだけ言うと、尋人は自転車に跨った。
「じゃあ俺、先に行くから」
呆然と立ち尽くす雪花をその場に残して、尋人は全速力で自転車を漕いだ。頬に当たる風が冷たく傷を刺激したが、速く駆ければ駆けるほど心を刺す痛みが遠のく気がした。
学校に行ってみると、あおいは欠席していた。何となく予想はしていたものの、雪花は心からがっかりした。今朝、出掛け間際の次兄の言葉に雪花は激しいショックを受けた。だから、せめてあおいから何があったのかを訊きたいと思っていたが、その本人が欠席しているならどうしようもない。
昼休み、雪花は何度目か分からないため息を深々とついた。
いつも一緒に昼食を食べている友人たちには、図書室に行ってくると言って教室を出てきた。だが実際は一人になりたかったからで、図書室へは行かずに人気のない南校舎の三階の廊下に佇み、サッシに両肘を突いてぼうっと窓の外を眺める。
「あーあ、別れちゃった……んだあ」
実際に言葉を口にしてみると、現実が思った以上に重くのしかかってくる。
「あーあ……」
雪花はサッシに両手を置き、その上に額を載せて打ちひしがれた。
「杉原さん?」
雪花はびくりと飛び上がる。
「森上先生」
振り返ると、すぐ側に気遣わしげな表情の森上が立っていた。いつからそこにいたのだろう。雪花は心臓に悪いと思いながらもほっと胸を撫で下ろし、
「び、びっくりしたあ。先生、いつからそこにいたんですか?」
「いや、さっきからずっといたんだけど、気付いてなかったみたいだね。驚かせてすまない。君が寄りかかっているのを見て、どうしたのかなと思って。具合でも悪いのかい?」
「いえいえそんな、ちょっとぼうっとしてただけです」
苦笑いで繕いながら雪花が言うと、森上はそれ以上追及してこない。しかし本当に驚いた。いつからそこにいたのだろう。近付いてくる足音はおろか、その気配すら全く感じていなかった。
「そうかい? まあ、顔色はそんな悪くないから大丈夫かな。でも、何かあったらすぐ誰かに言うんだよ」
「ありがとうございます」
森上はふっと薄く微笑むと、そのまま歩き去ろうとする。その後ろ姿を見送っていた雪花は、ふとあることを思いついて呼び止めた。
「森上先生!」
森上が足を止めて振り返る。雪花は小走りで駆け寄った。
「あの、すいません。ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「何かな? 僕で答えられることなら」
柔和な笑顔で森上が言う。雪花は思いがけず見惚れてしまった。こんな微笑を向けられてときめかない女子がいるだろうか。思考が一瞬ついあらぬほうへ逸れてしまうが、雪花は軽く頭を振って余計な感情を追い払う。
「あの……先生はその、あおいと親しいんですよね?」
森上は一瞬、虚を衝かれたように瞬く。
「水島さんのことかな?」
「はい。仲良いんですよね?」
「前に言ったかもしれないけど、彼女は近所に住んでいる子だよ。まあ、仲が良いといっても、僕は彼女に嫌われているけどね」
そう言って森上は少し肩を竦めてみせる。
「何で嫌われてるんですか?」
「さあ。それは僕がこんな性格だからじゃないかな?」
漠然とした答えを返されて、雪花は意味が分からず首を傾げる。
「詳しいことが知りたいなら、彼女に直接訊いてみるといい。まあ、ちゃんと答えてくれるかどうかは保証しないがね」
「……先生は教えてくれないんですね」
試すように尋ねてみるが、森上は軽く微笑むだけだ。はぐらかされたと雪花は思った。
「まあいいや。じゃあ先生はあおいのこと、あまりよく知らないってことですか?」
「よくっていう言葉の基準にもよるけどね」
「基準?」
意味が分からず訊き返すが、森上は微笑むだけで具体的には続けてくれない。雪花は言いようのないもどかしさを感じだ。まるで彼の掌の上でうまく転がされているようだ。遊ばれていると言っても間違いではない。
「彼女のことは、親友の君が一番よく知っているんじゃないのかい?」
「親友? あたしがですか?」
「違うの? 君は彼女と、とても親しげに見えたけど」
雪花はどう答えるべきか迷う。確かに他のクラスメイトからも、あおいと一番仲が良いのは雪花だとよく言われる。しかし周囲や自分がそう思っていても、あおいがどう思っているかは分からない。むしろ友達とは思われていない可能性のほうが、今は高い気がしてならなかった。
「……分かりません。あたしはあおいを友達だと思ってるけど、本人がそう思ってくれてるかなんて訊いたことないし。あおいはあたしの話をちゃんと聞いてくれるけど、自分の話は全くと言っていいほどしないし、むしろ干渉してくるなって感じのオーラだし」
雪花は少し目を伏せる。
「あおいは頑なっていうか、孤独主義っていうか、あたしや周りを自分のテリトリーには入れてくれないんです。唯一受け入れた尋兄ちゃんとも別れちゃったみたいだし……」
「尋兄ちゃん?」
雪花は余計な話を口走ったことに気付き、慌てて頭を振った。
「いえ、ごめんなさい。違うんです。忘れてください」
森上は怪訝そうに眉をひそめたが、それはすぐに表情から消え去る。
「とにかく、最近あおいに何があったか知りませんか? 近所でトラブルがあったとか、誰かと喧嘩したとか、何でもいいんです」
「そうは言われても、生憎と僕は、君が期待してるほど彼女と仲良くはないんだ」
「でも……」
「僕が赴任してきた時の彼女の反応を見ただろう? 僕はあの子に嫌われているんだよ」
「何でですか? 喧嘩でもしたんですか?」
森上は曖昧な顔つきで困惑しながらも、じっとまっすぐ雪花を見据える。その視線は言い知れぬ威圧感を放っているようで、雪花は思わず言葉を呑んだ。
「彼女が誰と仲が良くて、何を考え、何を抱え、何に悩んでいるのか……それは僕が知りたいぐらいだよ」
これ以上訊いても望む答えは得られないと悟り、雪花はしょんぼりと肩を落とした。
「……ごめんなさい。厚かましく、いろいろ訊いちゃって」
「いや、こちらこそすまない。期待に添えなくて」
雪花はふるふると首を振り、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「気にしないで。また僕で力になれることがあったら、いつでも言っておいで」
「はい……ありがとうございます」
森上は雪花の肩にぽんと手を置くと、背を向けて颯爽と去っていった。その姿が角を曲がって消え、階段を下りていく足音がやがて聞こえなくなったことに、雪花は自分でも意外なほど安堵していた。
森上は、肝心なことは何一つ教えてくれなかった。何も知らないから教えられなかったのか、知ってはいるが教えるつもりがなかったのか。どちらかといえば後者である気がする。恐らく何度尋ねてみたとしても、彼は同じ言葉や反応を繰り返すだけだっただろう。
雪花は嘆息した。結局、自分はあおいのことを何も知らないのだ。家庭の事情も抱えている悩みも、誰と仲が良いのか、何が好きなのかもまるで知らない。彼女の心の内なんて想像もつかないし、この先知ることができるとも今はとても思えない。
ただ、友人と信じているあおいが、次兄と別れてしまったのが残念でならなかった。二人が付き合い出したと知った時はとても嬉しくて、できれば少しでも長く続いてほしいと願っていたのに。きっとよほどの何かがあったのだろうが、その事情を知る由もない雪花はどうにも信じられず、そして受け入れがたかった。
もう可能性は残されていないのだろうか。出しゃばりすぎと分かっていても、そう思わずにはいられない。何かできることはないだろうか。せめてあおいが、少しでもいいから何か打ち明けてくれたなら。
「……ああ、でも無理か」
雪花は自嘲するようにひとりごちる。
「あたしにだってあるもんね、そういうこと」
誰にも言いたくないこと。決して踏み込まれたくない領域。家族にさえ知られたくない思い。周囲の誰にもまだ打ち明けていない秘密が雪花にはある。それはこの先何があっても明かさないだろうし、たとえ心を許した人にでも、それだけは絶対に触れられたくない。
きっと誰もが皆、他人に踏み込まれたくない領域を一つは必ず持っている。あおいだって例外ではない。たとえ血の繋がった兄妹でも、恐らくは尋人だってそこには踏み込まれたくないだろう。
あおいと尋人の結末にまつわる事情は、きっと二人しか知り得ない秘密だ。そこに雪花が入り込む余地はないし、そもそも不躾に入り込んでいいわけがない。
第一、誰にも言えない秘密を持つ雪花に、あおいと尋人のことをどうこう言う資格などないのだ。
「お互い様かな、きっと」
予鈴が鳴り響く。雪花は何かを振り払うような素早さを纏い、南校舎から小走りで教室に戻っていった。
太陽は沈みかけている。黄昏特有の濃い色で射し込む光が、電気の点いていない室内にくっきりと陰影を描き出す。
あおいは紺色のワンピースに身を包み、リビングのソファに深く沈み込んでいた。短い丈から覗く右膝には包帯が巻かれ、左膝では向日葵が丸まって寝息を立てている。
あおいは身動ぎしないよう手を伸ばし、ガラステーブルにある子機をそっと取った。登録していた番号を押して耳に当てる。コール音が三回に差し掛かる前に相手が出た。
「……水島あおいといいます。所長さんに繋いでいただけますか」
保留音がワンフレーズ流れた後、電話の向こうからきびきびとした声が返ってくる。
〈お電話替わりました、杉原です〉
「……水島、あおいです。突然すみません」
〈構わないわ。そろそろ連絡がある頃だと思ってたから〉
「……今、お忙しいですか」
〈大丈夫、気にしないで。話があるからかけてきたんでしょう? ちょうどよかった、あたしもあなたに連絡入れようと思ってたのよ〉
「あたしに……?」
〈ええ。でもまあ、こちらの用件を話す前に、まずあなたの話を聞きましょうか〉
向日葵の背を撫でるあおいの手が静かに止まった。
「……ごめんなさい」
〈何に対して謝っているの?〉
「あたしは尋人を傷つけた。……怪我を負わせてしまった」
〈尋人の頬の傷、やっぱりあなただったのね〉
「ごめんなさい……」
〈それがあなたの答え?〉
佐知子はあくまで淡々と訊く。
〈尋人は全てを知ったわけじゃないでしょう。何があってそうなったのかは知らないけど、あたしにはあなたが尋人に全部話したようには思えないわ〉
「たとえ全てを知らなくても、あたしの正体を知られてしまった以上、もう一緒にはいられない。このまま一緒にいたら、今よりもっと傷つけることになる。隠してたことで、尋人をたくさん傷つけてしまったのに」
〈それはあなたの意志? それとも《ヴィア》の命令?〉
「あたしの意志、です」
あおいはほんの少しだけ息を吸うと、
「あたしがいけなかったんです。尋人が好きで、ずっと一緒にいたくて、傍にいてほしくて……本当のことを言えなかった。言いたくなかった。言えばきっと、尋人はあたしを嫌いになる。それが怖くて、でも一緒にいたくて……。言わなければ、一緒にいられると思った。好きだから、離れたくなかった。離れてほしくなかった。でも任務の現場を見られて、嘘をついてたことがばれて……。もうこれ以上、隠し通せない。嘘を重ねて気持ちを裏切って、それでも一緒にいてほしいなんて言えない。あたしの存在は……あたしの罪は、きっと尋人を潰してしまう。これ以上傷つけるのは、もう耐えられない」
〈あなたはそれでいいの? 自分で自分を押し殺して、心が潰れてしまってもいいの?〉
「悪いのはあたしです。いくつもの命を奪って、許されない罪をたくさん犯して、罰せられるべきなのに、幸せを求めてしまったから。自分の我が儘を貫こうとして、尋人を巻き込んで、傷つけて……。悪いのはあたしです。だからもう、これ以上望んじゃいけない。心が潰れるなら、それはあたしへの罰です」
佐知子はしばらく沈黙していたが、やがて深々と息を吐いた。
〈あなたってほんと、不器用な人ね〉
あおいは両目をごしごしと擦り、しっとりと濡れた頬を掌で拭う。
〈自己犠牲から幸せは生まれないって理屈、知ってる? 今のあなた、痛々しくて見てられないわ。尋人がどういう反応だったかは大体想像つくけど、だからってそこまで自分を殺すこともないでしょうに。あの子にどこまで話したの?〉
「いいんです、もう。これが一番、いい選択です。尋人はもう、あたしのことで傷つかずに済む。それでもう、いいんです」
膝で眠る向日葵が寝返りを打つ。その体を撫でながら、あおいは涙が滲む目を閉じた。
〈まあ、あなたがそう言うんなら、あたしが何言ったって仕方ないわよね。あたしのフォローはいらない?〉
「いいです。もし言うなら、あたしのことはもう憎んで忘れろって言ってあげてください」
〈いいわ、この件は了解しました。話を変えましょう。あたしの用件を話していいかしら?〉
あおいは両目の涙を拭い去ると、「はい」と小さく頷いた。
〈あなたから依頼されてた調査の件、途中経過を報告します。……といっても、今のあなたにはシビアかもしれないわ。またの機会にしましょうか?〉
「いいえ、あの……その、今でいいです。お願いします」
〈そう? じゃあ覚悟して聞いてね。あなたの過去が分かったわ〉
「……え」
〈正確にはその一端。あなたが記憶喪失になった原因を突き止めました。あなた、自分がどうして記憶喪失に陥ったのか知ってる?〉
「いえ、知りません」
〈思い出してはいないのね? 誰かから聞かされてもいない?〉
「はい、誰からも……」
〈そう。じゃあ言うわ。あなたが記憶喪失に陥った原因は、ある出来事によって脳を強く損傷したため〉
「ある出来事……?」
〈あなた、自殺未遂してるのよ〉
「え」
〈二年前の夏、ちょうど十五歳の夏休み時期ね。とある日の夕暮れに、小高い丘の上にある公園のフェンスから飛び下りたの。つまり投身自殺。目撃者がいるから確かよ〉
「自殺、未遂……」
〈一年半にも及ぶ昏睡状態は十中八九これが原因ね。記憶喪失もそれに起因してるはず〉
「飛び下りたんですか? あたしが……」
〈ええ〉
「飛び下りて、死のうとした……?」
〈恐らくね。目撃者の証言によると、あなたは一人でその公園に佇んでいて、自ら柵を越えて飛び下りたそうよ〉
「どうして……?」
〈さあ。そこに至るまでの詳しい事情は、恐らくあなたしか知らないでしょうね。これはあたしの推測なんだけど、その公園は水島邸は勿論、あなたが今いるF野のマンションからもかなり離れた場所にあるの。そんなところへ一人で行って自殺未遂を図ったぐらいだから、よほどのことがあったんじゃないかしら。件の公園も搬送先の病院も分かってるわ。目撃者は引っ越してしまってるけど。どうする? あたしが現時点で分かってることを全て話しましょうか? それとも自分で足を運んで確かめてみる?〉
「……行きます」
〈そう。なら住所を言うわ。メモはある?〉
腰を浮かした瞬間、膝で眠っていた向日葵が飛び起きる。あおいはソファの端に寝かせてから、キッチンカウンターにあるペンを掴んでメモパッドを手繰り寄せた。そして佐知子が告げる住所と名称、人名を走り書きして復唱する。
「……ありがとうございます。また何か分かったら、教えてもらえますか」
あおいは電話を切り、子機をキッチンカウンターに置いてメモを見つめた。黒色で書かれた文字の羅列を人差し指でなぞる。そしてメモを折り畳むと、そっと掌で包み込んだ。
佐知子が教えてくれた病院と公園は、T田市の隣に位置するS山市の郊外にあった。F野から電車とバスかタクシーを乗り継いで約二時間の距離であることも調べ上げた。
佐知子と電話で話した翌日、あおいは十時過ぎにF野駅へ向かった。一時間半近く電車に揺られた後、到着した駅の前に止まっていたタクシーに乗り込み、
「すみません、N島総合病院までお願いします」
あおいは運転手にそう告げると、窓の外の景色を眺めることに集中する。運転手は、白と紫色のワンピースにデニムジャケットを羽織り、ポシェットを提げただけのあおいを何度も訝しげに見やっては、どこから来たのか、学校は休みなのかと訊いてきたが、そのうち黙って運転に専念するようになった。
目的地には四十分ほどで到着した。あおいはタクシーを降り、目の前にそびえる病院を仰ぎ見る。
「……ここが、N島総合病院」
横に大きく広がる乳白色の建物に、何人もの老若男女がひっきりなしに出入りしている。すぐ前の道路は車通りも多く、そのうちの何台かは病院の駐車場へ吸い込まれていった。
「あたしが、眠っていた場所」
ロビーや受付は大勢の患者で混雑していた。あおいは行き交う人々の間をすり抜け、受付の手前にある案内ブースへまず向かう。
「すみません」
「はい、何でしょう」
年配の女性事務員がにこやかに応対する。
「楠田先生にお会いしたいのですが」
「楠田先生? どちらの科か分かりますか?」
「脳外科の、楠田先生です」
「失礼ですが、患者様ですか? それとも」
「以前こちらに入院していた、水島あおいといいます。楠田先生と、お話がしたいんです」
「畏まりました。少々お待ちください」
そう言うなり女性事務員は子機を取って電話を始める。そして一分も経たないうちに終えてしまうと、
「先生、お時間が取れるということで、東館のカフェでお待ちくださいと」
「東館のカフェ、ですか」
「ええ。そちらの通路をまっすぐ行かれた突き当たりの右手側にカフェがあるんです。そこで二十分ほどお待ち願えないかと」
女性事務員は通路を手で示しながら説明する。あおいは礼を述べて案内ブースを離れた。
あおいは外科や眼科の外来がある通路を怖々とした面持ちで歩く。奥へ進んでいくにつれて外来が減っていき、やがていくつものソファが並ぶ広い休憩スペースに出た。三階まで吹き抜けになっているそこには、有名な全国チェーンのコーヒーショップがあった。
店内はやや混雑していた。あおいはミックスジュースとハムサンドを載せたトレーを手に、唯一空いていた窓側の二人席に座る。そして外の芝生をしばらく眺めた後、ハムサンドをほんの少しだけ齧った。
「やあ。待たせてすまなかったね」
あおいはハムサンドをくわえたまま顔を上げる。声をかけてきたのは白衣を着た若い男性だった。
「いやあ驚いたよ。変わってないね。一目見ただけですぐに分かった」
「あの……あなたが、楠田先生ですか?」
楠田が驚いたように目を瞠る。だが、すぐに得心のいった顔で笑った。
「ああ、僕が楠田だ。そうか、君はまだ記憶が戻っていないのか。なら仕方ないね」
「あたしが記憶喪失だってこと、知ってるんですか?」
「ああ、知っているとも。とりあえず座っていいかい?」
あおいが頷くより早く、楠田はコーヒーとトマトサンドのトレーをテーブルに置く。
「ああ、君も食べなさい。僕も昼から仕事が立て込んでいてね、少しの時間で申し訳ないが、話は食べながらするとしよう」
そう言うなり楠田はトマトサンドをがつがつと食べる。あおいは少し面食らいながらも、ハムサンドをちびちびと齧った。
「随分と久しぶりだね。最後に顔を合わせたのがいつだったか……すぐには思い出せないレベルで久々だ」
「……あの、先生があたしの担当医だったんですよね?」
「ああ、君が退院するまではね。その後は検診にも全く来ないから、気にはなってたんだ。それで今日は突然どうしたんだい? アポもなしに」
「アポ……?」
「ああ、いや、いいんだ。くだらないことを言った。忘れてくれ」
その言葉が終わる前に、楠田はトマトサンドの最後の一つまみをぽいと口に放り込む。
「それで、今日は僕に何の用かな?」
あおいはミックスジュースを飲むのをやめ、躊躇いがちに口を開いた。
「あの……あたしのことを、教えてほしいんです」
「君のこと?」
「二年前のことです。あたしがどうしてこの病院に来たのか。一年以上も眠っていたと聞きました。高いところから飛び下りて、自殺しようとしたからだって。先生はそういうこと、知ってるんですよね?」
「それはまあ、搬送後の緊急オペを行ったのは僕だし、その後も僕が担当してたから、知ってることは知ってるけど……」
「けど……何ですか?」
「いや、驚いただけだよ。いきなり訪ねてきてそういうことを言われたからね。今日ここへ来ること、お父様はご存知なのかい?」
「……どうして父のことが出てくるんですか?」
あおいは怪訝が滲んだ低い声音で問い返す。
「父を知ってるんですか? もしかして、あたしが来ても何も話すなと口止めされてるんですか?」
「いや、違うよ。ただ、お父様はあの時すごく心配されてたから、少し気になっただけさ」
「……父が、あたしを?」
楠田はコーヒーを啜るふりをしてあおいを窺っていたが、やがてわざとらしい咳払いで誤魔化した。
「いいよ、分かった。順を追って説明しよう。……でもいいのかい? これから僕が話すことは、もしかしたら君が知りたくないことかもしれないよ」
「構いません。どうか、知ってることを全部、あたしに教えてください」
楠田は少し渋面を作った後、もう一度咳払いをして語り始めた。
「君がうちに運ばれてきたのは二年前の夏、確か八月の末だったかな。カルテを見れば正確な日にちは分かるが、まあいい。その八月末の夕方頃、君は救急搬送されてきたんだ」
あおいはミックスジュースをほんの少しだけ口に含む。
「丘の公園から飛び下りたらしく、頭を強打し意識不明の重体でね。搬送されてきた時点ではもう、かなり危険な状態だった」
「頭を打っていただけなんですか? 他に腕や足は……」
「幸い木の茂みの上に落ちたらしくてね、右足と左上腕にひびが入っていただけで、大事には至らなかったんだ。だけど頭は、打っただけと言うにはひどい状態だった。頭蓋骨が折れていて出血量も多かった。それで僕はすぐ緊急オペに入ったんだよ」
「オペ……?」
「緊急手術。五、六時間……いや、それ以上だったかな。よくは覚えてないけど、とにかく五時間は超えるオペでね。幸い君は一命を取り留めたが、その後も危篤に陥っては持ち直すっていうのを何度か繰り返してね、一ヶ月か一ヶ月半はICUに入っていたはずだ」
「ICU……」
「集中治療室。重篤患者専用の病棟だと思ってくれればいい」
「あたしはそのまま、一年半も意識が戻らない状態だったんですか?」
「そうだよ」
「それでも、生きていた……」
あおいが呆然と呟くと、楠田はしみじみとした顔つきでうんうんと頷いた。
「まあそれに関しては、君の生命力の強さが一番ものを言った感じかな」
楠田はコーヒーカップが空になっていることに気付き、通りすがりのウェイトレスに「コーヒーおかわり」と声をかけた。あおいはミックスジュースに口を近付けるが、一口も飲まずにすぐ離す。
「さっき、父の話をしてましたよね」
「え? ……ああ、まあ」
「父があたしのことで、先生に何かお話したんですか?」
「そりゃあ君の親御さんだからね、術後の経過とか今後についてお話することはあったよ。でも、実際にお会いしたのは一度だけだったけどね」
「父とどんな話をしたんですか?」
「どんなって……」
「最初にお会いした時、先生言いましたよね。父は今日ここに来たことを知っているのかって。それは先生にとって、父は厄介な存在だったということですよね。あたしの耳に入れたくないことを父と話していて、そのあたしがいきなり訪ねてきたから……」
「違うよ、そういう意味じゃない。君は何か誤解している」
楠田は慌てて否定した。あおいは怪訝に眉をひそめる。
「僕の言葉が君に誤解を与えたようだから弁解するけど、僕は別に君のお父様とやましい話をしたわけじゃないよ。お父様は君の治療に対して積極的だった。血を分けた一人娘が生死の境を彷徨っていたんだ、父親として心配しないはずがないだろう。そういうことだよ。まあ、今だからこそぶっちゃけた話をするけど、水島総一朗さんといえば有名な方じゃないか。その威光に僕たちが恐れをなした面があったことは確かだ。もし敵に回そうものなら、僕なんか簡単に医師免許を剥奪されてしまう」
「そんな……」
「一種のたとえだよ。剥奪は大袈裟かな。せめて地方の無医村へ左遷ぐらいにしといてほしいな。勿論、御免被るけど。……って失礼。娘さんを前にして言うことじゃないね」
あおいは小さく頭を振ってみせる。楠田はほっとした顔で、ウェイトレスが持ってきた新しいコーヒーに口をつけた。
「まあ、僕が君のお父様にお会いしたのは一度だけだよ。君の見舞いや諸々の手続等は、君の家の執事って方が全てされてたし。えーっと、何ておっしゃったかな、あの人」
「竹田……」
「そう、竹田さん。その竹田さんが、君に関するあれこれを全てやってらしたんだ。もう隠す必要もないだろうから言うけど、君のお父様がうちに見えたのは、君がうちに搬送されてきてから最初に危篤に陥った時の一度だけだったよ」
「そうなんですか……」
「まあでも、だからといって心配じゃなかったわけじゃないと思うよ。有名な方だけにお仕事が忙しかったんじゃないかな。その代わりと言っちゃ何だけど、執事の竹田さんはよく見舞いにいらしてたし、時々君と同い年ぐらいの男の子も一緒に来ていたよ。尤も僕は、その男の子のほうと話したことないから名前は知らないけど、君は彼を知ってるかい?」
あおいは少し視線を泳がせるが、やがてこくりと小さく首肯した。
「……さっき、父はあたしの治療に積極的だったって言いましたよね」
「ああ」
「どういう風に積極的だったんですか?」
「どういう風、ねえ……」
楠田は頭を少し掻きながら、忙しなく瞬きを繰り返しては考え込む。
「父はあたしが危篤になった時、一度だけ病院に来たんですよね。その時、先生とどんな話をされたんですか?」
楠田は渋面を深めてしばらく沈黙するが、コーヒーを半分ほど飲むと両腕を組み直し、
「君がうちに搬送されてオペを受けてるっていう連絡を受けて、まず最初にいらっしゃったのが執事の竹田さんだったんだ。僕は術後に竹田さんとお会いして、君の状態やら今後のことやらを一対一で説明した。その時にまず竹田さんが仰ったことがね、お嬢様は決して死なせてはなりませんだったんだよ」
あおいは目を瞠った。
「あおいお嬢様は我らが水島家のたった一人の後継者、絶対に死なせてはならない。これは旦那様、水島コーポレーションの会長でもある水島総一朗様のお言葉ですってね。僕はもうびっくり仰天さ。それまでは君がどこの誰の娘かなんて全く知らなかったからね」
「竹田が、そんなことを……」
「万一のことがあれば総一朗様が黙っていませんぞって、あれは確実に脅しだったな。今でもリアルに覚えてるよ」
あおいは視線を泳がせて下を向く。
「いや、違うんだ。誤解しないでほしい。僕は別に、君のところの執事さんを悪く言ったわけじゃなくて、ただ当時あった事実をありのまま話しただけで」
「あたしのことは、どうか気にしないでください。それよりも続きを」
楠田は半ば拍子抜けした顔になるが、わざとらしい咳払いをして言葉を続ける。
「まあ、その後君が一度目の危篤状態に陥ってね。詳細は失念してしまったが、とにかく危険な状態だった。これ以上の治療を行うべきか、続けたとして君の体が果たしてそれに耐えうるか、医者として決断を下さなければならない場面だった。僕は君の容体を冷静に分析し、あらゆる事柄を踏まえた上で延命処置の中止を進言したんだ。そしたらその時訪れていた君のお父様が、僕の言葉にものすごい剣幕でお怒りになってね」
「父は何て……?」
「病院内に響き渡るぐらいの怒号を食らったよ。お前はあおいを殺す気かってね」
あおいは息を呑んだ。
「あおいは水島家の未来を背負って立つ人間。それをお前は、医者でありながらその任を放棄してあおいを見殺しにするというのかって。烈火の如くって言葉そのものみたいに、車椅子から立ち上がらんばかりの勢いで怒鳴って」
楠田は深々と嘆息した。
「僕も看護師もみんな呆然さ。金はいくらでも出す、だから決してあおいを死なせるな、もしものことがあってみろ、こんなちっぽけな病院の一つや二つ、握り潰すぐらいわけないぞって。別室にいたスタッフが何事かって飛んでくるぐらいの声で喚き散らして、そこにたまたま院長も現れたもんだからさあ大変。俺は後々、院長から理事長にまでものすごい説教を食らったよ」
楠田は腕組みをしたまま、しみじみとした表情で苦笑する。
「父が、あたしを死なすなと……」
目を見開いたまま呟くあおいに、楠田は何度も頷いてみせる。
「そんな感じでまあ、君が昏々と眠っている間に、大人たちの間でいろんなやりとりがあったのさ。何はともあれ、君は奇跡的にこの世に留まることができた。しかし、容体が安定した後もずっと昏睡状態が続いた。腕と足のひびが治癒した後も、君は一向に目覚める気配がなかった」
「……そういうことって、医学的にはよくあるんですか?」
「あるよ。よくという頻度で語れるかどうかは置いといたとしてもね。現に僕もそういう方を診た経験あるし」
「……あたしが目覚めない原因は何だったんでしょう」
「簡単に言えば打ちどころが悪かったんだ。噛み砕いて説明するならその一言に尽きる。人間の脳っていうのはね、みんなが思っている以上に緻密かつデリケートなんだ。ほんのちょっと頭を軽く打っただけでも大事に至る場合は十分にある。君の場合は落ちた際に頭を強打して、その度合いがかなり重かったんだよ」
楠田はコーヒーを全部飲んでしまうと、通りすがりのウェイトレスに次は水を頼んだ。
「……それからずっと、あたしはこの病院に入院してたんですか?」
「ああ。執事の竹田さんからお父様の伝言として、君を何としても目覚めさせてほしい、絶対に死なせることのないようにと再三言われていてね、治療はそのまま継続していた。ICUの後、君は特別室に入っていたんだ」
「特別室……?」
「この病院で一番値が張る病室さ。あとお父様の依頼で、眠っている君の筋肉が凝り固まってしまわないよう、マッサージも入念に行っていた。でも、こう言っちゃまた誤解されそうだけど、僕ら病院側としては、君が目覚める確率はかなり低いと考えていたんだ。ゼロとまでは言わないが、五分五分とはとても言えない。医学的に見て、君は一年半そういう状態だったんだ。だから君の意識が戻った時は、僕もスタッフもみんな本当に驚いた」
「目覚めた時、あたしはどんな状態だったんですか?」
楠田は水が入ったコップをくるくると回しながら考え込んだ末、
「しいて言うなら……魂が抜けてしまったような感じだったかな」
「魂が……?」
「問診しても全く反応がなくて、目も天井の一点を見上げたままずっと虚ろな感じで。でも失語症ではなかった。肝心なことには、か細く一言だけではあったけど、ちゃんと答えてくれたから」
「……その時から、あたしは記憶を失くしていたんですか?」
「そうだね。何も覚えてないって言ってたから。でも僕は、それについて詳しく知ってるわけじゃないんだ。君は常に無口で無表情で、誰に対してもめぼしい反応を返すことがなかったから。その時のこと、覚えているかい?」
あおいは静かに首を横に振った。
「そうか。ならいい。無理に思い出す必要はないさ。きっと君だって、あまり思い出したくはないだろう?」
「……分かりません」
あおいはミックスジュースを飲もうとするが、結局口をつけることはしなかった。
「その後、あたしは退院したんですか?」
「一ヶ月ほどリハビリをした後にね。退院後はちゃんと検診に来るようにって言ってあったんだけど、予約の日に君は来なくて、それから今に至るってわけさ」
その時、楠田の白衣の胸ポケットに入っていた携帯電話が鳴った。楠田はすぐに出ると、何度か相槌を打った後に電話を切って立ち上がる。
「悪いね、呼び出しだ。午後の仕事があるからこれで」
あおいは慌てて立ち上がると、
「忙しい時にすみませんでした。教えてくださって、ありがとうございます」
深々と頭を下げるあおいに、楠田はからりと笑って手を振る。
「そんな畏まらなくていいよ。また何かあったらいつでも来なさい。じゃあ」
そう言って、楠田はトレーを返却口に戻すと足早に店を出ていった。残されたあおいはしばらく棒立ちのままでいたが、やがて腰掛けると氷が溶けたグラスを指でなぞり、俯いて目を閉じた。
昼食時の喧騒が過ぎ去った頃、あおいはN島総合病院を後にした。外に出ると陽は少し陰っており、携帯電話の画面は十四時四十七分を表示していた。
あおいは病院から遠ざかり、閑静な住宅街の中を歩いた。幅が狭いアスファルトの路地の両脇に、似たような外観の家が何軒も並んでいる。時折すれ違う人がいればほんの少しだけ視線を向け、犬の鳴き声が響く家に気付けばちらりと振り返り、車が近付いてくれば端にそっと避けたりしながら、あおいはひたすら歩き続けた。
住宅街を抜け、建設中の工事現場や小さな工場に挟まれた緩やかな坂を登り、岩肌が剥き出しになった小山のほうへ歩いていく。カーブを通り過ぎる時、小さな石碑と地蔵が視界の隅を掠めた。そびえ立つ木々はどれも幹が細く、枝葉は全て落ちてしまっている。あおいはそれらを見やりながら、歩を止めることなく坂道を登っていった。
土と薪でできた長い階段に差し掛かる頃、あおいの息は上がりかけていた。登り切った後に初めて立ち止まり、荒くなった呼吸を時間をかけて整えていると、目の前が広く開けていることに気が付いた。
「やっと、着いた……」
そこは小高い丘の頂上にある公園だった。遊具やベンチは一つもないが、向こうにはミニチュアみたく敷き詰められた町並みが見える。
あおいは丸太でできた柵に手をかけ、眼下に広がる眺望を見晴るかした。水色と橙を均等に混ぜ合わせた空が広がり、沈みゆく太陽の光が景色の一つ一つを際立たせる。あおいは口を開けたまま、その風景にしばらく釘付けになっていた。
「あれんま、珍しい。ここに人がいるなんて」
階段のところに立つ小柄な老婆が、大仰に驚いた顔であおいを見ていた。あおいが小さくお辞儀をすると、老婆の足元にいた茶色の仔犬がきゃんきゃんと吠え立てる。
「これ、おやめなさい。ごめんねえ。この仔、人見知りなの」
「いえ……」
「あんた、こんなとこで何してるの?」
「何を、って……景色を見てたんです。ここ、すごく綺麗だから」
「ああ、そうかえ。あんた、よその人だね?」
「どうしてですか?」
「地元の人間はこんなとこ、誰も来たりしないからね。来るのはわしみたいな、物好きなばばあだけさ」
老婆はふうふうと息を吐きながら柵へ近付く。あおいは咄嗟に駆け寄ろうとしかけたが、老婆は片手を軽く挙げてやんわりとそれを制した。
「若い人が見て面白いもんなんてないでしょう」
「そんなこと、ないです。すごく綺麗な景色ですね。そこまで高い場所じゃないのに、空と町がよく見える。静かで落ち着いてて、見晴らしがよくてとてもいいと思います」
「でもここは痴漢やら何やらが出るよ。若い女の子の来る場所じゃあないね。それにここは危ないよ。ほれ、下を見てごらん。結構な高さだろう」
柵に手を置き顎でしゃくる老婆の仕草につられ、あおいはほんの少し身を乗り出して真下を見てみる。
「ほんと……高いですね」
「だろう? 落ちたらひとたまりもないよ」
老婆は柵から離れ、「おお怖い」と顔をしかめる。あおいは真下に広がる木の群を見つめ、
「ほんと……あんなにたくさん、木があるのに」
「木ぃ?」
あおいは軽く頭を振った。
「ううん、何でもありません。葉っぱ、もう全部落ちちゃったんだなと思って」
「ああ、そうだねえ。もう冬だしねえ。近頃は冷えてきたし、陽が落ちるのも早くなってきた」
「そうですね」
「今年は寒い。下手したら去年より寒いかもしれないね。困ったもんだ」
「おばあさん、寒いですか?」
「ああ、だいぶ冷えてきたね。お前さんも早く家に帰りなさい」
「ありがとうございます。でももう少し、ここにいようと思います」
「何でだい?」
「……夕陽が」
「夕陽ぃ?」
「夕陽が、とても綺麗だから。まるで全てを染めていくように、広がっていくから……。だからもう少し、ここで見ていたいと思うんです」
「お前さん、変わった子だねえ。そんなにここが好きかい?」
「好き……っていうのかどうか、分かりませんけど」
あおいは不思議がる老婆に背を向けて、柵にそっと両手を置いた。
「多分ここが、あたしが死んだ場所だから」
夜の帳が空を覆い尽くした頃、竹田は総一朗の部屋を訪れた。水島家の当主である総一朗は生活の拠点を離れに置いており、外へ出掛けることは滅多にない。特に昼間は一人で過ごすと決めているため、ごく僅かな使用人しか彼の元を訪れることができない。
しかし竹田にそういった制約はない。彼は総一朗が最も信頼している部下であり、水島邸の全てを取り仕切る執事だからだ。だが竹田は、個人的に総一朗の元を訪ねる時間は夜と決めている。その理由は誰一人として知らないし、また詳しく尋ねる者もいなかった。
灯り一つない廊下を、竹田は足音も立てずにまっすぐ歩く。その片目は既に光を失っているが、彼にとって何の妨げにもならない。たとえ隻眼であろうと、その気になれば銃で標的を正確に仕留めることなど容易いくらいだ。
竹田は扉の前で足を止めると、直立不動の姿勢で三回軽くノックをした。
「旦那様、竹田でございます。ただ今参りました」
中から聞こえた返答に一つ頷くと、竹田は音を立てずに扉を開く。
「失礼いたします」
室内は暗い。分厚いカーテンを閉め切っているせいで、外より闇が濃いような錯覚が生まれる。竹田は静かに扉を閉めると、暗闇に溶ける影に向かって深々と一礼した。
「お待たせいたしました。……灯りは、いかがいたしましょう」
「そこのランプでよい」
重低音みたく渋い声が響く。竹田は壁側に立つランプスタンドの傘にそっと触れた。すると、それまで黒だけだった室内にほんのりと色が生まれる。その淡すぎる光が、奥のアンティークデスクで肘を突く人影を描き出した。
禿げ上がった頭皮に、僅かに生え残った白髪が光る。年恰好は竹田に近いが、刻まれた皺の数は明らかに彼より多い。見る者に畏怖を与える厳つい面差しと、心臓を射抜けるほど鋭利な眼光は、建設業界と闇社会の頂点を極める総一朗しか持ち得ないものであった。
「竹田。経過を、話してくれるか」
「は。あおいお嬢様はその後もお変わりなくお過ごしでございます。件の若者とは袂を分かち、ようやく《ヴィア》の娘としての道を歩まれる決心をなされた模様」
「別れたのか、あの少年と」
「はい」
「何故だ。あおいが自ら別れを告げたのか」
「元は亮太の計らいによるものでございます。ですが、お嬢様はご自分の意志で杉原尋人から離れました。お嬢様はその後、かの若者とは一切会っておらず、また彼の妹が在籍する中学校にも登校しておりません。今後お嬢様と杉原尋人がまみえることはないでしょう」
竹田の報告を深く吟味するように、総一朗は瞑目したまま重々しく何度も頷く。
「それともう一つ。あおいお嬢様は今、失われた記憶を取り戻そうと行動を起こしておられます」
「記憶を……か」
「はい。本日お嬢様はN島総合病院を訪れ、かつての執刀医である楠田医師から当時の話をお聞きになられました。恐らくお嬢様は、二年前の一件をお知りになったのでしょう」
「N島総合病院を教えたのは誰だ。あおいが一人で突き止めたわけではないだろう」
「は。杉原調査事務所の所長、杉原佐知子でございます」
「杉原……」
「かの杉原尋人の従姉に当たる人物で、頭脳明晰で有能な調査員と聞きます。去る雨夜の事件の折、お嬢様を保護したのも彼女であるとか」
総一朗はデスクに肘を突き、瞑目したまましばらく押し黙る。
「……その女」
「は」
「目障りなのか」
「そのご判断は、旦那様が直接下されるべきかと」
室内に再び沈黙が立ち込める。竹田は眉一つ動かさず、総一朗をじっと見据えたまま答えを待った。
「……いいだろう、泳がせておけ。あおいも杉原尋人も、その調査員の女とやらも」
「よろしいのですか」
「構わん。蝿の如く飛び回るなら、その時にまた消せばいい。たかが二人、殺すのは造作もないことだ」
「あおいお嬢様に関しても、よろしいのでしょうか。動かれるお嬢様をこのまま放っておけば、いずれは失った記憶を取り戻し、さらには真実に辿り着いてしまうやもしれません」
「構わん。全てを思い出すならそれも一興」
「お嬢様が再び壊れてしまうやもしれません。よろしいのですか」
総一朗は目を開き、車椅子を動かして背を向けた。
「あおいが心配か? 竹田」
竹田は答えることなく沈黙する。
「お前のそれが杞憂というのだ。壊れるならばそれで構わん。だが二年前、あおいは自ら身を投げたが、ぎりぎりの淵に留まり結局は死ななかった。それがあおいの運命ということだ。過去の記憶の喪失など、単なる足枷払いにすぎん」
総一朗は分厚いカーテンに手を伸ばし、ほんの少しだけ隙間を作る。しかし窓の外で広がる夜に、やはり光は欠片もなかった。
「あおいは私の娘だ。私が《ヴィア》の後継者とするため、手塩にかけて育て上げた。あおいは己が名と過去を失っても、《ヴィア》の娘としての素質と技能を失うことはなかった。これを運命と呼ばずに何と言う。今更何を恐れるというのだ、竹田よ」
竹田は重々しく頭を下げた。
「愚問でございました。どうかお許しくださいませ」
「構わん」
背を向けた総一朗の表情を竹田が知ることはできない。しかしその言葉の響きから、竹田には彼の感情の全てが手に取るように分かった。
「年端もいかぬ小童や一介の調査員ごときが、どうしてあおいの道を妨げることができる。それは《M‐R》の森上であろうと同じことよ。いずれ全てが白日の下に晒される時が来るとしても、そんなものは杞憂にすらならぬ瑣末事だ」
総一朗の言葉はどこまでも低く凄みがあり、そして乾いた嘲笑の響きも含んでいた。
「あおいの道はただ一つ。それは既に決まったものだ。あおいは《ヴィア》の娘、私の跡を継いで闇を背負う者」
総一朗は皺の深い口端に薄く鋭い笑みを宿す。
「そのために、あおいは生きているのだ」
竹田は目を閉じてそれを受け止めた。そして言葉を返す代わりに、深く頭を垂れることで肯定を示した。
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