第6章 哀しい裏切り
賑やかだった教室が、吹雪が駆け抜けたように凍りついた。
雪花は口をぽかんと開けたまま、椅子を蹴って立ち上がった左隣の少女を見上げる。他のクラスメイトたちも皆、呆然としつつも好奇と怪訝に満ちた顔であおいに注目する。仲裁に入ろうとした男性教師ですら、その空気に圧されて挙動不審なまでにうろたえていた。
あおいは机に両手を突いてまっすぐ森上を睨めつける。その眼差しに明白な憎悪があるのを感じて、雪花は思わず身を竦ませた。
「どうしてあなたがここにいるの」
あおいの低く凄んだ声に、教室内の誰もが息を呑んで黙り込む。凍りついた空気の重さに耐えかねた雪花は、
「ねえ、あおい?」
いきなりどうしちゃったのと言おうとした。しかし、彼女が放つオーラに気圧されて言葉を呑んでしまう。剥き出しの敵意をぶつけるあおいを見返していた森上は、ふっと口元を緩めると爽やかな笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、あおいちゃん」
クラスメイトたちと男性教師が度肝を抜かれた顔で二人を見る。あおいの眼光がさらに剣呑になり、雪花はその裾を掴んでいた指を無意識のうちに離した。森上は如才なく笑いながら、隣で棒立ちになっている男性教師に説明する。
「近所の子なんですよ」
「へ……近所?」
「ええ、家が近くでして。滅多に顔を合わせないから、僕がここに来ることは話してなくて。だから、だいぶ驚かせちゃったみたいですね」
そう言って、森上は爽やかすぎる笑顔をあおいに向けた。雪花はそうなのかと納得しつつ、改めて森上をまじまじと観察する。
一八〇センチメートル以上はありそうな人だ。家族で一番背が高い長兄の健人でも、彼にはあと一歩届かないだろう。短く癖のない髪は茶より少し薄い色で、理知的に整った面長の顔立ち。確かにこれは世間一般で言う美男の枠組みに当てはまる。クラスの女子たちが色めき立つのも道理だと雪花は思った。
事情を呑み込んだクラスメイトたちが、張り詰めた空気に慣れてきたのか、周囲とこそこそと喋り合う。教室内から重苦しさがなくなっていくにつれて、それは騒がしさを帯びていった。
「はいはい、静かにー。ほら、授業を始めるぞ。話を聞きなさーい。水島、いつまでも突っ立ってないで座りなさい」
男性教師に注意されても、あおいは依然として森上から視線を外さない。その眼光に先程とは違う険を感じて、雪花は内心びくりとした。しかめ面のまま睨み続けるあおいに、森上は怯みや気後れが微塵もない、どこか余裕げな微笑を返す。あおいは眉を吊り上げたまま視線を逸らすと、倒れた椅子を直してようやく席に着いた。
二人の間にほんの一瞬、目には見えない火花が弾けたのを察知した雪花は、胸が氷を投げつけられたように冷たくなる。だが頭を振ってそれを誤魔化すと、
「知り合いだったんだ。あおいってば水臭いな、話してくれればよかったのに。びっくりしちゃったよ」
あおいは雪花の言葉に全く反応せず、開いていたノートや教科書を閉じると、肘を突いて窓の外を眺め出す。その態度は明らかに雪花を拒絶していた。口調が不自然に明るすぎて、わざとらしいと思われたのかもしれない。普段ならもう少し話しかけるところだが、今はやめておくことにした。
紹介のために来た男性教師が、森上に会釈して教室を出ていく。雪花は人知れず小さく息をついて、胸に残る冷え冷えとした感覚を追い払う。そして気分を入れ替えるように教科書を開き、いつも使っているシャープペンやカラーペンをケースから出して並べた。
「では、授業を始めます。教科書三十二ページ、ユニット八を開いて。先生からは宿題が出ていると聞いたので、まずその答え合わせから……」
よく通るバリトンの声が教室全体に適度に響く。クラスメイトたちのお喋りが自然になくなり、授業を受ける空気へと移行していく。
雪花はシャープペンを握って森上の話に耳を傾けながら、横目でちらりとあおいを窺った。あおいは授業を受ける気はないと言わんばかりに校庭や青空を眺め、他には全く目もくれない。雪花は気持ちを切り替えて黒板を写し始めた。
森上は左手に教科書を持ち、右手で黒板に丁寧な筆致で英文を書いていく。クラスメイトは皆それを写すことに集中し、雪花も遅れないようペンを走らせる。
長いセンテンスの英文を書くのに集中していた雪花は、森上がほんの一瞬、針みたく尖った一瞥をあおいに投げたことに全く気付いていなかった。
六時間目の授業が終わったのは夕方四時を廻る少し前だった。あおいはホームルームが終わるとすぐさま教室を出ていった。箒を手に走り回る男子生徒たちや、廊下でお喋りしている女子生徒たちには目もくれず、人気のない南校舎へ足早に向かう。
四階に着いたあおいは、周囲をきょろきょろと見回した。クリーム色の廊下が夕陽に染まり、あおいの影が身長よりも長く太く伸びて映る。
あおいは窓に身を寄せ、制服の胸ポケットから携帯電話を取り出した。登録されている電話番号を呼び出し、通話ボタンを押すと耳に当てる。
「もしもし、竹田? あたしよ。いきなりだけど、訊きたいことがあるの。あたしを襲った男、森上っていう名前の……」
窓ガラスに人影が映り、あおいははっと息を呑む。そして振り向くより早く、背後から伸びてきた手が携帯電話を取り上げた。
「校内で携帯電話はよくないな」
目の前に立つ森上は、穏やかに笑いながら通話を切る。
「携帯の所持は許可されているが、校内での通話は校則違反って聞いているけど。こんなところで人目を忍ぶようにして……。今は掃除の時間じゃないのかい?」
「返して!」
あおいは森上の手から携帯電話をひったくる。
「いつの間に、あたしの背後に」
「さっきさ。前みたいな深夜と違って、今は明るい夕方だっていうのに、君は僕に全く気付いていなかった。こんなにも簡単に君のバックが取れるなんて、驚きというより少しがっかりだ」
「……どうしてあなたがここにいるの」
「仕事だからさ。僕はこう見えても、立派な英語教師なんだ」
「何が英語教師よ。あなたは《M‐R》でしょう」
「表向きは教師だよ。《M‐R》は裏の顔。闇の仕事だけで生活していけるほど、現実はそう甘くはないんだ」
「あたしを襲ってきたくせに」
「隙を作る君が悪いんだ。僕だってあんな簡単に、君に傷を負わせられるとは想像もしていなかった。弱くなったね、あおい」
「あたしを殺しに来たの? あの夜に殺せなかったから、学校まで来て確実に息の根を止めてやるってこと?」
「まさか。そんな真似はしないよ」
森上は大仰に肩を竦め、
「白昼に銃をひけらかして油断した敵を撃つなんて、僕にとってはフェアじゃない。ましてや学校という大衆が集う場所で殺しなんて、正気の沙汰じゃないだろう」
「じゃあなぜここにいるの? あたしを殺すために現れたんじゃないの?」
森上は含み笑いを浮かべたまま返答しない。
「あなたの目的は何?」
森上は答えない。
「答えて」
「僕がそう簡単に、答えると思うかい?」
「……思わない」
あおいはスカートのポケットに手を滑らせてサバイバルナイフを握ると、森上の襟首を掴んで勢いよく壁に押しつけた。そして、後頭部をぶつけて顔をしかめる森上の頚動脈に刃を突きつける。
「携帯電話の次はサバイバルナイフか。これはさすがに見逃すことはできないぞ」
「あなたがあたしを殺す前に、あたしがあなたを殺すわ」
「ここでかい?」
「そうよ」
「本気か? こんなところで僕を殺したりすれば、どんな騒ぎになるかは想像するまでもないだろう。過去の記憶だけでなく、ついに正気までも失ったのかい? あおい」
あおいは森上の襟首をぐいと絞め上げて睨めつける。
「答えて。あなたの目的は何? あたしを殺そうとするのはなぜ?」
「答えたら、離してくれるのかい?」
「訊いてるのはあたしよ。あなたはあたしを知ってると言った。あれはどういう意味? あなたはあたしの、何を知っているというの?」
「そんなこと、訊いてどうするんだ。第一、こんなもので僕を殺せると本気で思っているのか?」
「あたしは本気よ。あなたが動くより先に、あたしはその首を引き裂くことができる」
「大した自信だな」
あおいは森上の襟首をぐいと引き、もう一度壁に強く打ちつける。鈍い音が響くが、森上は呻きすら漏らさない。
「あなたはあたしが殺す。でもその前に答えて。あなたは何者? なぜあたしを知っているの?」
「僕が素直に答えると、本気で思っているのかい?」
「どうしても言わないなら、この場で殺すわ」
「……それは無理だな」
その時、階段を軽快に昇ってくる足音と、「あおいー! どこー?」という声が聞こえてきた。
「雪花っ」
あおいが階段のほうを振り返り、襟首を絞め上げていた左手が緩む。その刹那、森上があおいの左肩を鷲掴んだ。
掃除班長の美希に頼まれ、雪花はあおいを捜していた。
ホームルームが終わるや否や、あおいは掃除当番であるのを無視するように、さっさと教室を出ていってしまった。当番でない雪花は帰り支度をしていたが、美希に頼まれてあおいを追いかけるはめになった。
「雪花、水島さんと仲良いんでしょ。見つけたら何が何でも連れ戻してきて」
つっけんどんにそう言い放った美希は本気で怒っており、気迫負けした雪花は逆らわず素直に引き受けることにした。
廊下は下校する生徒たちで溢れ返っている。雪花は三階の階段を下りていたクラスメイトを捕まえて、
「ねえごめん、水島さん見なかった?」
部活に行く途中の彼女は面倒そうにしながらも、
「南校舎に行ってるのを見かけたよ」
雪花は礼を言ってクラスメイトを見送り、その姿が遠ざかってから小首を傾げる。どうして掃除をさぼって南校舎に行くのだろう。あそこは特別教室しかない上に、雪花のクラスに掃除が割り振られているわけでもないのだが。
雪花は疑問を抱きつつ、二階の渡り廊下を使って南校舎に早足で向かう。
南校舎には人気がない。特別教室の掃除を担当するクラスの生徒たちは、どうやら早々に掃除を終えて教室に戻っていったみたいだ。雪花は階段を昇りながら、
「あおいー! どこー?」
三階に着くなり、廊下の中央に立って左右を見る。周囲はやはり無人だった。
「ってことは、次は四階か」
雪花は再び階段を駆け上がる。
「あおいー! いるのー?」
踊り場に立った時、どんという鈍い音と微かに人の声が聞こえた。雪花は目を輝かせる。
「そこにいるのね! あおい」
雪花は階段を一段飛ばしで駆け上がった。
「もう、あおいってば勝手にどっか行ったりしてー。美希が掃除さぼるなって怒ってたよ」
駆け足で四階に着いた雪花は、意外な光景を目の当たりにすることとなった。
左肩を押さえながら、苦しげに肩を上下させているあおい。その少し離れた位置に、いかにも余裕げな顔で佇む森上がいる。あおいは肩越しに雪花を一瞥した。刃物みたく鋭い瞳に、雪花の胸がすっと冷え込む。二人を取り巻く氷の筵のような空気に呑まれた雪花は、竦む心を奮い立たせて恐る恐る声をかけてみた。
「あのぅ、何してるんですか? こんなとこで」
あおいの纏うオーラがさらに激しく殺気立つ。森上は穏やかな笑みで、
「驚かせてごめんね。少し話していただけだよ。彼女、僕が知らせもなく突然ここに現れたもんだから、相当びっくりしたらしくてね」
懐疑的な雪花を気遣ってか、森上は安心させるように言う。
「そうだったんですか」
雪花はほっと胸を撫で下ろした。
「あおいってば、掃除もしないでどっかに行っちゃうんだもん。そんなことなら言ってくれればよかったのに」
あおいは答えない。左肩を押さえたまま、ただ無言で森上を睨んでいる。
「お友達が心配して来てくれたんだって。だめだろ、掃除をさぼっちゃ」
森上はあおいの視線を受け流し、怒るというより窘めるように言う。雪花はあおいを見てふと首を傾げた。先程からずっと左肩を押さえたままだ。どうかしたのだろうか。
森上はあおいから視線を外すと、改めて雪花を見据える。
「君は確か、三組にいた子だよね」
「はい、杉原雪花っていいます。先生の授業、すごく分かりやすかったです。ノートも丁寧に取ってくださるし、発音も滝川先生より滑らかだってみんなと話してたんですよ」
「はは、ありがとう。僕はまだ初日だから、そんなに褒められても困るな。おだてたって何も出ないよ」
「またまたあ」
雪花はけらけらと笑いながらほっと安堵した。授業であおいとのやりとりを見たせいか、森上には何となくだが怖い印象があったけれど、いざ話してみると気さくで人柄もよさそうではないか。
「雪花、行こう」
背後から声をかけられて、雪花は少し驚いた。いつの間にか雪花の後ろに動いていたあおいは、森上を見やることなく立ち去ろうとする。
「あおい! ちょっと待ってよ」
雪花はその後を慌てて追いかけた。あおいは左肩を押さえたまま、階段へ続く角を曲がろうとする。二人を見送っていた森上が、
「左肩」
あおいが立ち止まる。その背にぶつかりそうになった雪花は、声がした方向にいる森上を振り返った。森上は口端を軽く上げて微笑を作り、
「お大事に」
雪花は思わずあおいの左肩を見た。あおいは何も返すことなく、足早に階段を下りていった。ぽかんとしていた雪花だったが、森上に一礼してからぱたぱたとあおいの後を追う。
「ねえ、あおいってば! 待ってよ。そんなに急がなくていいじゃない」
二階でようやくあおいに追いついた雪花は、
「何をそんなに怒ってるの? 左肩に何かあるの? 怪我でもした?」
あおいは無表情のまま階段を下りきると、渡り廊下を足早に歩いていく。質問に答える気はないらしい。雪花はめげずにもう一度訊いてみる。
「ねえ、何をそんなに怒ってるの? 森上先生、そんなに嫌いなの?」
「その名前を言わないで」
ぴしゃりと返された言葉は、反論を許さないという威圧感があった。あおいは立ち止まると、振り返って雪花を見据える。何かを圧するような強い視線に、雪花は胸が竦むと同時に微かな恐れを覚えた。
「その名前、あたしの前では絶対に口にしないで」
「あおい、でも」
「雪花には関わりないことよ。余計な詮索しないで」
あおいはくるりと背を向けて歩いていった。そして立ち尽くす雪花を残し、突き当たりの角を振り返ることなく曲がると、気配や足音ごと視界から消えた。
あおいの気配が完全に消えた後も、雪花はしばらく棒立ちのままだった。
夕方五時を過ぎると、空のほとんどが藍に染め上げられていく。みるみるうちに濃い夜へ近付いていく空の下、尋人は友人たちと帰路に着いていた。彼らがバスに乗ったのを見送ると、尋人は自宅に向かって歩き出す。
歩道を行き交う人たちは仕事帰りの会社員や学生がほとんどだ。国道を行く車はどれもライトを点けて、徐々に暗さを帯びていく街を駆け抜ける。それらを視界の隅に流しながら、尋人は少し速いぐらいのスピードで歩いていた。
駅に近付くにつれて人の数は増えていく。ちょうど帰宅ラッシュの頃合だ。そんなことを思いながら歩いていた時、人混みの中に見慣れた少女を見つけた。
「あおい!」
名前を呼ぶと少女は立ち止まって振り返る。尋人は彼女に向かって大きく手を振った。それに気付いたあおいが、花が咲いた表情で駆け寄ってくる。
「尋人」
あおいが嬉しそうに見上げてくる。
「今帰り?」
「うん、買物が終わったところ。これから駅に行こうと思って」
そう話すあおいの左手には、スーパーの袋が提げられている。
「尋人も帰り?」
「ああ、今さっき友達と別れたとこ」
あおいは尋人の隣に並んで歩き出す。二人は肩が触れ合う近さで、どちらが言うでもなく駅を目指していた。
「勉強はどう? 大変?」
「いや、それほどでもないな。授業は教科書終わってるから復習的な内容だし、模試とかテストは頻繁にあるけど、俺はもう受験が終わってるから、周りの奴らほど切羽詰まってはいないよ」
あおいは頷きながら聞いているが、実はそれほどよく分かっていないのか、少し首を傾げている。
「まあそんなこと言ったら、まだ決まってない奴らに殴られるけどな」
茶化すように尋人が笑うと、あおいはほっと頬を緩める。彼女が思いの外穏やかな表情をしていることに、尋人は内心で深く安堵していた。
「よかった、元気そうで」
「どうして?」
「いや、学校帰る前に雪花から電話あってさ」
次の瞬間、あおいの表情から微笑がたちまち消える。尋人はどきりとした。
「え……あ、言っちゃまずかった?」
尋人は思わずうろたえる。あおいは我に返ったように瞬きをした後、
「ごめんなさい、違うの。尋人は悪くない」
その言葉にほっとしつつ、尋人は改めてあおいを窺う。気さくに話していた先程までと違い、あおいの纏う空気が冷たさと一抹の鋭さを帯びている。尋人は言葉を選びながら、
「雪花が心配してたよ、あおいの様子がいつもと違っておかしかったって」
あおいは無表情だった。まるで波紋の立たない水面のように静かで、吹き抜ける風のように冷たい眼差しをしている。
「……俺には訊いてほしくないこと?」
あおいは瞑目すると、やがて小さく頷いた。
「ごめんなさい。あたしもまだよく分かっていないの。だから、どう話せばいいのか分からない」
「その、今日新しく来た教師のこと? あおいの近所に住んでるっていう」
「あの人はあたしを知ってるの。昔のあたしを、よく知ってるって言ってた」
「あおいの過去を知ってるってこと……?」
「分からない。本当なのか、どうなのか。あたしもよく分からなくて戸惑ってるの。だから雪花には余計話せなくて」
そう呟くあおいの瞳は憂いげだった。先程垣間見えた冷たさはもう見る影もない。
「雪花には明日謝るわ。心配してくれたのに、悪いことしちゃった」
薄い感情しかない言葉の裏に、別の何かが隠れている気がした。しかし、それを気取られまいと振る舞うあおいに、尋人はかける言葉を見つけられない。
「俺にできることはない……?」
あおいは少し考えるように黙り込んでしまう。尋人はその先を続けようとしたが、何だか憚られて結局やめる。踏み込んで問い質すべきか、触れずにそっとしておくべきなのか。しばらく考えた後、尋人は後者を選ぶことにした。
「無理に話さなくていいよ。心配だったから訊いてみただけだし、気にしないで。……俺にできることがあったら、いつでも言って」
尋人は明るくそう言ってその話題を打ち切った。あおいは尋人を見上げるが、何も言わずに視線を逸らす。
二人は夕闇の喧騒をしばらく無言で歩いた。やがて駅の入口が見え、尋人は足を止める。
「それじゃあ、気を付けて帰れよ」
あおいは尋人を見つめ返す。何か言いたそうにしているが、言葉にならないのかなかなか言わない。ここは聞き出さないほうがいいだろうと思って、尋人はあおいの頭をぽんと撫でると、身を翻して歩き出そうとした。
「……もし」
喧騒に掻き消されそうな声が聞こえた気がして、尋人はつい後ろを振り返る。あおいは視線を泳がせながら、
「今は大丈夫。……だけど、もし怖くなったら助けてほしいの。今は大丈夫だけど、もしどうしても……どうしても怖くて、一人じゃ耐えられなくなったら」
尋人は呼吸すら忘れてしまうほど、あおいから目が離せなかった。
「その時は助けてほしいの」
純粋な願いなのに、痛いほど切実な響きが滲んでいる。その言葉の奥にある意味を、尋人はどうしても見つけられない。だから、明るく笑い返すことしかできなかった。
「ああ。俺にできることなら、いつでも言えよ」
あおいはほっとした顔で笑う。泣き笑いにも似た安堵の表情が、なぜか尋人の胸を強く締めつけた。
尋人は手を振ると、今度こそあおいに背を向けて歩き出す。雑踏を早足で歩き、歩道橋を駆け足で昇りきる。そしてふと思い立って、駅の入口が見下ろせる位置に立ってみた。
手すりから遠目に見たそこには、もうあおいの姿はない。きっと改札に入っていったのだろう。そう思って手すりから身を離した時、尋人は一瞬、言葉にならない不安を感じた。
夜の帳が空を覆い尽くした。色とりどりのネオンが闇夜というキャンバスに映えている。それらはあまりに品のない派手さで、いやに眩しくてつい不快感を覚えてしまう。
日中とは違う賑わいを見せる繁華街を少し外れ、人通りの少ない路地にある『クライデール』に佐知子はいた。今日やる仕事を全て終えると、まっすぐ家には帰らずに、馴染みの店で久々に一人で飲むことにしたのだ。
カウンターの隅は佐知子の指定席だ。ジントニックのグラスを玩びながら、お気に入りのドライマンゴーをちまちまとつまむ。仕事用の手帳を広げてはいるが、開けているだけで大して見ていなかった。
「今日も忙しかったのかい? さっちゃん」
カウンター越しにマスターの木野が話しかけてくる。
「お陰様で日々、商売繁盛よ」
佐知子は肩にかかった髪をそっと払う。木野はグラスを一つ一つ丁寧に拭きながら、
「健人君はどうだい?」
「相変わらず、忙しそうにくるくる走り回ってるわ」
「それはあまり穏やかではないな」
「そうね。あたしたちの仕事なんて、何もなくて暇が一番だもの」
白髪が目立ち始めた木野は小柄で優しげな風貌をしているが、実は泣く子も黙る鬼刑事として有名だった人物だ。三十年以上、暴力団担当として活躍した叩き上げの刑事で、五年前に事故で片足に障害を負ったことをきっかけに県警を辞め、長年の夢だったというごく小規模のバーの経営を始めた。それが『クライデール』である。
『クライデール』は宣伝も内装も、慎ましすぎるほど控えめでおとなしい。訪れる客の七割近くが県警の元同僚で、仕事の息抜きや情報交換の場として使っている者も多い。佐知子もその一人で、捜査一課に配属されてすぐ上司に連れてきてもらったのが最初だ。
佐知子は県警を辞めてからも頻繁に『クライデール』を訪れている。こぢんまりとしていて静かで、酒や食事がとても美味しいからというのも勿論ある。しかし一番の理由は、店長である木野の人柄に好感を持っているからだ。礼儀正しくて思慮深く、互いの立場や領域を尊重し、必要以上の干渉をしない。一人で静かに飲みたい時、健人と二人だけでじっくり話し合いたい時にここは最適なのだ。
「疲れているのかい?」
「ええ、いろいろと仕事が山積みで。日々何かしら問題の連続で、息つく暇もないわ」
佐知子がわざとらしく嘆いてみせると、木野は困ったように笑った。
「人気者にされるのは、あまり楽しいことじゃないからね」
「あたしみたいな仕事の場合はね」
「でもさっちゃんは、よほど疲れているみたいだ」
佐知子はジントニックを見つめていた視線を上げる。
「せっかく飲んでいるのに、ちっともうまそうじゃない」
佐知子は目を瞬かせた。そして苦笑いを浮かべて降参の仕草をする。
「……ほんと、マスターには敵わないわ」
木野は佐知子の過去を知っている。その苦悩を垣間見たことも何度かある。だからこそ、彼は佐知子の微妙な変化に気付けるのだ。
「健人君は知ってるのかい?」
「知らないわ。言う気はないし、言うべきことでもないから」
木野は柔らかな微笑を浮かべ、ソーサーの水拭きを始めた。深くまで追及してこないのが、木野なりの気遣いであり優しさだ。佐知子はジントニックを少し飲むと、ドライマンゴーを口に放り込んだ。噛んだ分だけ心とろかす甘酸っぱさに、ついうっとりしてしまう。
「おかわりもらえる? 次はドラフトがいいかな」
木野は頷いてグラスを用意し始める。佐知子は残りのジントニックをぐいと飲み干した。
からんと軽やかな音が響き、ドアが開く気配がする。木製の床に規則的な靴音が響き、それがすぐ側ですっと止まった。佐知子は何気なく顔を上げる。
その人物を見て思わず瞠目した。すらりと背の高いやや年上の男は、爽やかな笑顔で佐知子を見据える。
「こんばんは。杉原佐知子さんですね? 初めまして。僕は森上智彦といいます」
男の顔が記憶にある面影と重なる。忘れたことのないその名を呼びかけて、佐知子は慌てて言葉を呑み込んだ。懐かしさにも似た痛みが生まれ、無意識のうちに瞳が揺らぐ。胸を破らん勢いで鼓動が高まり、激しい動悸に呼吸すらままならなくなる。
二人の視線が絡み合う。森上はふと眉をひそめた。佐知子は我に返ってさりげなく視線を外し、気取られないよう早鐘を打つ心臓を抑える。悟られてはいけない。決して見抜かれてはいけない。
森上は佐知子と一つ間を開けて椅子に座り、
「シングルモルトはありますか?」
呆然としていた木野が、弾かれたように森上と向き合う。
「え、ええ」
「じゃあ、それをロックで」
木野は声もなく何度も頷くと、奥にシングルモルトの瓶を取りに行った。彼も激しく動揺している。無理もないと佐知子は思った。知人と瓜二つの顔をした男がいきなり現れたら、誰だって驚いて言葉を失くすだろう。ましてやそれが今は亡き人間であれば尚更だ。
佐知子はドライマンゴーをつまむふりをして慎重に森上を窺った。目鼻立ちの整った端正な顔立ち。優しげな形をした目。流麗な線みたくすっと引き結ばれた唇。その出で立ちの何もかもが彼によく似ている。
「いい店ですね。小さいけれど温かい。ここにはよく来られるんですか?」
よく通るバリトンの声だ。適度な厚みを持った声が低く流れるジャズとよく合う。ただし、記憶の中にいる彼の声とは明らかに違う。たった一つの決定的な違いに佐知子はひどく安堵した。しかし次の瞬間、痛切な悲しみが脳裏を襲う。
「尾けられてたのかしら。職業上、周囲には気を配ってるつもりなんだけど」
佐知子は動揺を見抜かれないよう細心の注意を払いながら、仕事時の気丈さと平静さ、隙のなさを装って口を開く。
「まさか。貴女の事務所の方に、この店を教えてもらったんです」
「いったい誰かしら。見ず知らずの相手に、簡単にこちらの情報を与えるなと言ってあるのに」
「そう怒らないでやってください。僕が無理やり聞き出したんです。依頼者として、今日中にどうしても所長にお話ししたいことがあるから、何とか会うことはできないかとね」
怒るなと言われても無理だ。そんな常套句に軽々と乗ってこちらの情報を明かすなど、調査事務所に勤める人間としてあってはならない。今となっては後の祭りでしかないが。
木野が佐知子の手元に注文したドラフトを置く。その仕草から困惑と懸念の色がはっきりと見てとれた。佐知子は心配ないと言葉で伝える代わりに、彼にだけ分かるよう薄く笑んでみせる。木野は小さく頷き、森上にシングルモルトを渡すと店の奥へ姿を消す。彼なりの気遣いがありがたかった。
森上は慣れた仕草でシングルモルトを口にする。その動作はとても自然で、完璧なまでに隙がない。口調こそ穏やかで親しげだが、その心の内は微塵も見せない。佐知子はその仕草や表情から、森上が相当な曲者であると感じた。そして同時に、数々の修羅場を潜ってきた闇の者独特の匂いと存在感も察知する。
油断ならない相手だ。隙を見抜かれれば即座に勝敗が決する。佐知子はドラフトを飲みながら、動揺し続ける心に喝を入れて引き締めた。
低いボリュームのジャズが流れるだけの長い沈黙を、先に破ったのは森上だった。
「最近、僕の周囲を嗅ぎ回っていたのは貴女ですね」
「どうしてあたしだと?」
「貴女が調査員としての人脈を駆使したように、僕も知り合いに頼んで調べてもらったんです。最近僕の周りを嗅ぎ回っている人物は誰か……とね」
佐知子は答えずに、ドライマンゴーを一つ口に放り込んだ。
「僕のこと、どれぐらい調べ上げたんです?」
佐知子はマンゴーを飲み込むまでの間、少し沈黙してから口を開く。
「……森上智彦、三十歳。本籍K県、T大教育学部卒、青葉学園中等部の新任教師。そして、《M‐R》で随一と言われる暗殺者」
「ご名答。さすがですね」
「お褒めの言葉をどうも。あなたは?」
森上がちらりと佐知子に視線を返す。
「そういうあなたは、あたしのことをどこまで調べ上げたの?」
「……杉原佐知子。杉原調査事務所の若き所長にして、業界内で一目置かれる頭脳明晰な敏腕調査員。その腕前は、業界で貴女の名を知らぬ者はいないと謳われるほどであるとか」
森上はシングルモルトを味わうように少しずつ飲んでいる。佐知子は厳しい眼差しで、その表情の奥にある真意を量ろうとした。森上は見透かしたように笑い、
「僕はその人間の身分さえ分かれば、その他の情報に興味はない」
「深くは調べていない、信じろと?」
「そこまでは言いません。ただ、必要以上に警戒することはないでしょう。僕は単に、貴女と酒を酌み交わしたいだけなんですから」
「どうだか」
呆れたように吐き捨てても、森上は柔和な表情を崩さない。それが余計に佐知子の癇に障った。
「貴女は僕について、深いところまで調べ上げたわけですよね?」
試すように森上は言う。さりげない言葉に純粋な興味を滲ませて、こちらの力量と手の内を見てやろうというのか。
「あなたの戸籍と経歴は全て偽造されたもの。公的なものも私的なものも、一見しただけでは虚偽と分からないよう巧妙に作られていた。森上智彦という名も偽名ね?」
「ええ。森上智彦という名義は、表面を繕うためのものにすぎない。普段はこの名前が便利なので使っていますが、本名は別にあります」
「そうしたのは《M‐R》の命令? それともあなた個人の意思?」
「どちらも。僕の戸籍や経歴といった表向きの個人情報は、全て《M‐R》が作ってくれました。そのほうが何かと都合がいいから従っているだけ。僕と組織の利害が一致したと思ってくだされば、それで間違いはないですよ」
「教員免許も偽造ね」
次々と突きつけられる事実に、森上は動揺や驚きの欠片もなく答える。
「ええ。大学には在籍していましたが、授業とか実習には出る暇がなかったので。僕は高校から《M‐R》に従事していましたから」
「どこまでが本当で、どこまでが虚偽なの?」
「中高には在籍していましたよ。といっても名前だけ。貴女もご存知のとおり、金さえ払えば卒業させてくれる名門私立校ですから、周囲もさほど不審には思いません。大学は組織の斡旋です。将来に向けての体裁を作りたいと我が儘を言ったんですよ。そうしたら手筈を整えてくれました」
見事だと感服したくなるほど、森上はいけしゃあしゃあと言う。語られる言葉に嘘がないところに、彼の底知れなさの片鱗を見た気がした。
「《M‐R》の砦と呼ばれるあなたがなぜ、教師なんて仕事をしているの?」
「表の顔を繕うためですよ。社会で生活する以上、世間体はどうしても必要でしょう。それに、闇の仕事だけじゃ食べていくのは大変ですから」
「よく言うわ」
「現実ですよ。《M‐R》も財政だけを見れば、そこらの一般企業と何ら変わらない。資金も人員も、《ヴィア》ほど有り余っているというわけじゃないんです」
森上はグラスを片手に、実に愉しげな表情で語る。酔いが回っているわけではないと、佐知子はその仕草から感じ取った。この余裕綽々な人柄は彼の気質らしい。人当たりのよい笑顔で話してはいるが、実際は相手に付け入る隙を一切与えないのだから大したものだ。
「今の就職先を斡旋したのも《M‐R》?」
「ええ」
「何のために?」
「それは勿論、あおいを殺すためです」
至極当然の事実であるように、森上はさらりと言ってのけた。
「それが僕の、目下の最優先任務です。上もそれを承知してくれている。僕が他のメンバーより自由に動けているのは、《ヴィア》の娘を殺すという目的があるからに他ならない」
「《ヴィア》の娘を殺すというのは、あなたの意志ではなく《M‐R》の望みだということ?」
「それに関しては、ご想像にお任せしますと言っておきましょう」
肝心なところをはぐらかされ、佐知子は舌打ちしたい衝動をぐっと堪える。
「貴女はあおいと関わりが深いようですね。あおいは貴女に何か依頼を?」
「知っていてそんなことを訊くのね」
やり返すと、森上ははにかみにも似た曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「あなたはあおいを、どこまで知っているの?」
「全てですよ。あの子に関することなら全て」
「それは過去も今も知っているという意味?」
「ええ」
「あなたはあおいと、どういう関係?」
森上はシングルモルトのグラスを手にしたまま沈黙する。
「あなたはあおいを殺そうとした。その上、あの子が通う学校にまで現れた。あなたは他の任務のターゲットにも、こんな執拗な手で迫っていくというの?」
「まさか。あおいは特別ですよ。あの子は《ヴィア》の娘だ。それだけで《M‐R》にとっては抹殺対象です」
「でも、それだけじゃないでしょう」
森上は一瞬虚を衝かれたように目を瞠る。そして困ったように苦笑した。
「さすが業界随一と言われる調査員ですね。言葉の裏にある真意を見抜くのに長けていらっしゃる」
「お褒めの言葉をどうも。でも、あたしが聞きたいのはそれじゃないわ。訊いた質問に答えて。あなたがあおいを狙うのは、本当に命令だけが理由?」
「いいえ」
森上は即答し、グラスをくいと煽った。最後の一口を残してグラスを置くと、先程までの余裕げな笑みを消し去り、打って変わった冷たく低い声で言った。
「あおいは許されざる存在です。あの子は過去に、決して許されない罪を犯した」
佐知子は眉をひそめることもせず、その言葉にじっと耳を傾ける。
「その罪を、あおいは自らの記憶を消し去ることで帳消しにした。そして今ものうのうと生きている。僕にはそれが許せない」
淡々とした口調に、隠し切れない憎悪が滲んでいる。それはあまりにも剥き出しの感情で、佐知子の背筋にぞくりと冷たいものが滑り落ちた。
「あおいは許されざる存在。生きている意味も価値もない。その罪は死をもって贖われるべきだ」
刃みたく鋭い切れ味を伴った言葉は、空恐ろしい響きで低いジャズに混ざる。少しの沈黙の後、佐知子は小さく呟き返した。
「でも、あなただって同じよ。あなたも暗殺者。あの子と同じ罪を、いくつも犯してきたでしょう?」
森上の目が佐知子を捉える。糸のように細く研ぎ澄まされた眼差しを、佐知子は怯まずに受け止めた。
「罪に重いも軽いもないわ。罪は罪。一生消えることもなければ、それを何かと比べることもできない」
「ええ。あなたは正しい。だからこそ」
森上は一度言葉を切って、先程よりも強い語調で告げる。
「だからこそ僕は、あおいを殺すんです。それが僕の宿命であり、彼女に科せられるべき罰だから。僕は必ずあおいを殺す。たとえこの先何があっても。彼女が全てを思い出し、《ヴィア》に奪われた自分を取り戻したとしても」
森上はシングルモルトを飲み干すと、かたんという音とともに椅子から立ち上がった。
「今日ここに来たのは、貴女に一つ忠告をと思ったからです」
「忠告……?」
森上はカウンターの段差を下りると、振り向いて佐知子を見据える。
「今後一切、あおいと関わらないでください。そうすれば貴女の命は僕が保証しましょう」
「どういう意味?」
「言葉のとおりです。僕はあおいを殺すためなら手段を選ばない。しかし、だからといって関係のない人間を巻き込むのはポリシーに反する。任務遂行のために無関係の人間を巻き込むのはフェアじゃないんでね」
「あたしに、あおいから手を引けというの?」
「そうしてはくれませんか」
二人はしばし無言で見つめ合う。やがて佐知子は頭を振って、
「忠告はありがたいけど、呑むことはできないわ」
森上の眉がぴくりと上がる。
「あなたがあおいを殺したいように、あたしにも成し遂げたいことがあるの。何も興味本位だけであの子と関わったわけじゃないわ。あおいはあたしに動くきっかけをくれた。あたしはそれを利用して、自分の目的を達成する」
森上は些か険を帯びた表情で佐知子を見る。
「……《ヴィア》を潰す気ですか」
「ええ。それがあたしの目的」
「本気ですか?」
「ばかげていると言いたい?」
「ええ、正気を疑います。勝ち目のない戦争に志願して、自分から死にに行くようなものだ。あなたは確かに有能な調査員だが、闇組織の恐ろしさを分かっていない」
「知ってるわ。誰よりもよく……ね」
「《ヴィア》は冷酷無慈悲で容赦という言葉を知らない。組織の妨げとなる者は、たとえ一般人であっても躊躇いなく殺す。それを承知で?」
「無論よ」
「命の危険を承知していて、それでも貴女を突き動かすものは何です? それは果たして命を懸けるに値するものでしょうか」
信じられないといった風に森上は言う。その瞳が記憶の中の面影と再び重なり、佐知子は瞬きをしてさりげなく視線を逸らした。二人の間に先程とは違う色をした沈黙が流れる。
「《ヴィア》はあたしの手で潰すわ。そしてそれを、あおいもちゃんと承知してる」
「あなたは己の目的のためにあおいを利用すると?」
「あの子はそれを承知した上であたしに依頼してきた。あたしは自分の意志であおいと関わっているの」
「死にますよ」
「あなたがあたしを殺すの?」
「……いいえ」
「あたしがあおいを庇うと言ったら?」
森上は答えない。それは迷いや躊躇などではなく、単に返す気がないからだと気付くまでに数十秒かかった。
「忠告はしました。後は貴女次第だ。あおいに関わり続けると言うならその勇気は称えますが、命の保証はしませんよ」
「望むところだわ」
森上はやや驚いた目で佐知子を見る。しかしすぐに視線を逸らすと、懐から財布を出して紙幣を一枚カウンターに置いた。
「ご馳走さまでした。また来ます」
奥に控えていた木野が出てきて、小さく礼を言って頭を下げる。
「今夜はこれで。随分と面白い人だ、貴女は」
佐知子に向かってそう言うと、森上は静かに『クライデール』を出ていった。
ドアが閉まる微かな音を聞いて、佐知子は途端にぐったりとうなだれた。木野がカウンター越しに、突っ伏す佐知子に声をかけてくる。
「大丈夫かい? さっちゃん」
「……んっと、心臓に悪かったわ。あたしともあろう者が情けない、動揺を隠すので精一杯。ねえマスター、テキーラサンライズちょうだい」
「いいのかい? こんな時間に。明日があるんだろう?」
「いいの。今は思い切り酔っ払いたい気分だから」
佐知子はカウンターに肘を突くと、顔にかかった髪を大きく掻き上げる。そして残りのドラフトを一気に煽り、ドライマンゴーを三つ同時に頬張るもすぐに激しく咽せた。
「無茶だよ、さっちゃん」
木野の気遣いに、佐知子は何でもないと軽く手を振ってみせる。マンゴーの甘さとドラフトの苦味が、喉の奥につんとした痛みを呼び起こした。それを掻き消そうとして、佐知子はドライマンゴーをさらにもう一つ口に入れる。
木野はそんな佐知子を痛ましげに見つめていたが、やがて言葉を選びながら口を開く。
「さっちゃん、さっきのは淳平君の……」
「違うわ」
佐知子は即座に否定した。
「淳平に双子の兄弟なんていない。淳平と彼は全く関係ない、赤の他人よ」
「健人君は、このこと……」
「知らないわ。言うつもりもないの。修羅場は御免だからね」
憂いげな眼差しを向ける木野に、佐知子はわざとらしい明るさで笑ってみせた。
「びっくりしたでしょ? マスター」
「ああ……本当に。我が目を疑ってしまった」
「あたしもよ」
「まるで生き写しだ。本当に、淳平君が還ってきたのかと思ったよ」
「ほんと。あそこまでいくと、もう笑うしかないわよね」
佐知子は木野が作ってくれたテキーラサンライズを受け取り、ゆっくりと喉に流し込んだ。アルコールが食道を強く刺激し、全身の血管が熱く脈打つのを感じる。普段なら爽快に思える感覚が、今夜はなぜか痛々しくてたまらない。
佐知子は左手でグラスを回しながら、右肘を突いて掌に顎を乗せた。
「世界には同じ顔をした人間が三人はいるって言うけど、本当ね」
独り言のような言葉に、木野が痛ましげに瞑目する。
「本当に……試練なんだわ」
午後一時半を過ぎた頃、尋人はようやく学校を出ることができた。下駄箱で素早く靴を履き替えて、友人の明俊と足早に門を出た時、何とも言えない解放感が胸を満たした。
「くーっ、やっと帰れるぜこの野郎―っ!」
明俊が気持ちよさげに背伸びをしながら、毒づくように叫んだ。
「土曜に模試で呼び出した挙句、居残りでぐちぐち進路指導なんかしやがって」
「進路指導っていうより、あれはもはや説教だよな」
「腹減ったー。模試終わってから三時間も残しやがって。しかも二時間はプリント整理の手伝いだぜ。働いた分、昼飯ぐらい奢れっつーの!」
口々に文句を言いながら、二人は駅までの道のりを足早に歩く。秋に入って涼しくなったせいか、日中外を歩くことに夏ほどの苦痛を感じない。ブレザーの下のシャツがほんの少し汗ばむぐらいだ。
「なあ尋人、吉野家で食おうぜ。俺、今月使いすぎちまってよー」
「珍しいな。飯食うっていったら、お前いつもマックじゃん」
「ばーか、それほど金がねえんだよ。それとも何だ、既に進路決定してるよしみでお前が奢ってくれんのか?」
「何だよ、よしみって。用法違うだろ。つーか友達にたかるな」
「何だよお前、尋人のくせに生意気だぞ!」
「明俊、腹減りすぎだからって荒れすぎ。分かったからいい加減離せ」
傍目では仲が良いのか悪いのか分からないやりとりをする二人の前に、曲がり角から突然人影が現れて行く手を塞いだ。尋人は反射的に足を止める。
「あんた、杉原尋人?」
現れた少年が開口一番、不躾にそう問うてくる。倣って立ち止まった明俊が、
「誰? こいつ。知り合い?」
「いや……」
尋人も困惑して首を振る。明俊は少年に奇異な眼差しを投げた。
背丈も体格も、年も自分とさほど変わらない少年だ。無造作に跳ねた明るい茶髪に、ダメージ加工が施されたジーンズとドクロ柄のTシャツ。その上に丈の長い袖なしのパーカーを羽織っている。初めて見る顔だ。少なくとも、近所の者でも学校の者でもない。
「俺は垣内亮太。ハジメマシテ、だな」
そう言って、亮太は尋人ににやりと笑いかける。
「オトモダチと仲良くしてるとこ悪いけど、あんたに話があるんだ。いい?」
「……見ず知らずの奴と話すことなんて、ないけど」
尋人が警戒心を露に答えると、亮太はさもおかしそうな顔で切り返す。
「あおいに関する話……って言っても?」
驚き言葉を失う尋人に、亮太はしてやったりといった笑みを浮かべる。
二人の間で困り果てていた明俊は思い立ったように、
「俺、先に行くわ」
手を振って走っていく明俊を、尋人は呆気にとられた顔で見送る。それが彼なりの気遣いだと思い至るまで数秒ほどの時間を要した。
明俊の背中が見えなくなり、路地には尋人と亮太の二人だけになる。一方通行のそこを車が三台走り抜け、それが彼方に消え去るまでの間、尋人は言葉もなく亮太を睨んでいた。
「そう警戒するなよ。俺、十八。あんたと同い年。学校の奴らとさほど変わんないだろ?」
「そう言われても、俺はお前なんか知らないよ。いきなり名前で呼ばれて、話があるって言われたら、不審に思うのは当たり前だろ」
「それは道理。……学校帰り?」
「ああ」
「土曜なのに?」
「模試があったんだ。俺たち受験生だから」
「へえ。そのモシってやつ、進路が決定済みの奴でも受けなきゃいけないもんなの?」
尋人はあからさまに顔を歪めた。
「そんな怒ることないだろ。あんたたちのさっきの会話を聞いてたら誰だって想像つくよ」
「……ずっと側にいたのか」
「いいや、ずっとここさ。この道が通学路だっていうから、あんたを確実に捕まえるために待ち伏せしてたんだ。そしたら聞こえてきた。俺、耳と目はずば抜けていいからさ」
自慢げに笑いながら亮太は言う。尋人は警戒する目で亮太を睨んだ。
「あおいに関する話って、いったいどういうことだ」
「そのまんまの意味さ」
「だから、それはどういうことだと訊いてる。具体的な内容を話してくれ」
「それはそうと、立ち話は何だから移動しない? ここは直射日光もいいとこだし、もっと涼しい場所に行きたいな。あ、そうだ。そこの大きな公園はどう? 広いし綺麗だし、日陰もいくつかあるだろうし」
よく喋る奴だ。若干辟易しながらも、尋人はいつの間にか亮太のペースに乗せられていることに気付いた。このままでは流されてしまう。
「あのさ、俺」
「ん? 何、行かないの? 置いてくぞー」
亮太は尋人の言葉などお構いなしにさっさと歩いていく。尋人は珍しく舌打ちしたい衝動に駆られたが、かろうじて堪えると亮太を追いかけた。ああ言えばこう言うといったタイプだが、物事の主導権は譲らないという頑固さが垣間見える。尋人は苛立ちを抑えつつ、相手の出方を窺おうと思って彼に従うことにした。
中央公園は賑わっていた。土曜日であるためか、ペットや子供連れの人が普段より多い。夏が終わって陽射しが和らいだから、日光浴もしやすいと思っているのだろう。噴水の周りのベンチにはどれも先客がいたので、二人は芝生の中にある藤棚へ移動する。亮太は丸太のベンチの左端に腰掛けた。尋人はその右端に座ると、鞄からペットボトルを取り出して少し飲む。
「だいぶ涼しくなってきたな。これでもうちょっと陽射しが柔らかかったら言うことないんだけど」
「そんなこと話しに来たわけじゃないだろ」
世間話めいた亮太の軽口を、尋人はぴしゃりと切り捨てる。
「さっさと本題を話せよ」
「どうでもいいけど、何か苛々してない?」
「うるさい。俺は昼飯の機会を奪われて怒ってるんだ」
「短気だなあ。カルシウム足りてないんじゃない? もしかして魚や牛乳嫌いとか?」
そのとき尋人の頭の隅で、何かがぶちっと音を立てて切れた。
「うるさいな! そんなこと訊いてるんじゃないだろ。人をここまで連れてきた挙句、さんざんからかい倒して最後にははぐらかすつもりか? 大体な、知らない相手に自分のこと知り尽くしてますみたいな態度とられると、誰だって不快になるだろ! さっきから言いたい放題言いまくって、自分の都合のいいほうばっかに持っていきやがって──」
尋人の怒りをまともに受けた亮太は、最初こそぽかんと口を開けていたが、やがて腹を抱えて笑い出す。
「あっはっは、おっかしー。ああ、笑える。マジで笑える!」
「てめえっ、いい加減ふざけるのやめないと──」
「ごめんごめん、俺が悪かった。そんなに怒るなよ。別にばかにしたわけじゃないんだからさ」
「ばかにしたわけじゃないなら何だよ! 大体な、それが初対面の人間にする態度か? 礼儀知らずもいいとこだぞ」
「悪い悪い。だって、あんたがあんまりにもあおいと似たようなこと言うから、俺としちゃおかしくておかしくて……。ああやべっ、マジ腹痛くなってきた」
蹴り飛ばして殴り倒して縛り上げてやろうか。尋人は柄にもなく、そんな物騒なことを本気で考えた。普段は周囲から温厚で真面目だと言われるように、尋人はそうそう滅多なことでは怒らない。どちらかというと沸点は高いほうだと自覚している。それが今は、自分でも驚くほど心の中がぐつぐつと煮えたぎっている。これを相手に全てぶつけてしまわないだけの理性を、あとどこまで保ち続けられるか自信がないほどだ。
亮太はようやく笑いが収まったらしい。尋人は射抜くような目で彼を睨んだ。
「そんな怖い目で見ないでくれよ。般若みたいだぞ、お前」
「見知らぬ輩に般若呼ばわりされる覚えはない。不愉快だ。俺は帰る」
尋人は怒りも冷めやらぬといった体で立ち上がった。足早に藤棚を出ようとした時、背後から亮太が言葉を投げる。
「なあ。あんた、あおいと付き合ってるんだろ?」
尋人は足を止め、振り返らずに答えた。
「それがどうした」
「ここからが真面目な話。座ってくれない?」
「今までさんざん人で遊び倒した奴が、何だって?」
「すみませんでした、どうぞ座ってくださいませ」
「帰る」
「あおいのこと、どこまで知ってんの?」
いきなり直球で投げられた問いに、尋人は少し言葉に詰まる。
「……どこまでってどういう意味? お前はあおいの何を知ってるっていうんだ」
「座らないの?」
「座らない。聞いたらすぐに帰る。どうせ大したことじゃないんだろ」
嫌味をこめて尋人は言い返した。慣れないことをしたせいで、自分は悪くないと分かっていても苦い気持ちになる。本心を言えば、知った風な口で言いたい放題言いまくる奴の前から、一秒でも早く立ち去りたかった。しかし、ある言葉が尋人の足を地面に縫いつけ、立ち去りたい気持ちをぐっと憚らせる。
あおいのことをどこまで知っているのか。
亮太は諦めたように口をすぼめ、
「まあいいや、そのままでも。俺としては、下手したら話が長くなるかもだから、あえて席を勧めたんだけどね」
どこまでも口の減らない奴だ。尋人は今度こそ本気で舌打ちしたくなる。亮太は足を組むと、膝に肘を突いて掌に顎を載せた。そして尋人を見上げ、
「あおいは人殺しだよ」
思いがけない言葉に、尋人は咄嗟に言葉が出なかった。
「あんたは知らないだろうけど、あおいは今も人を殺し続けてる」
「お前、何を……」
「でたらめだと思う? だけど残念、これは真実なんだ。あおいは人殺し。あんた、あおいのことどこまで知ってるの?」
試すような口調で亮太は問う。
「じゃあ質問を変えよう。あんたはあおいが人殺しだって事実自体、知ってるだろう?」
それは質問というより、確認に近い響きだった。
「とある日の雨の夜、あおいは廃工場で不良グループを全員抹殺した。あんたはそれの一部始終を目撃した。違う?」
「あれは事故だ! あおいはあの日、奴らに襲われそうになって」
「正当防衛。表向きはそう片付けられた。でも実際はそうじゃない」
「何だと?」
「あおいは自ら進んでそいつらを手にかけた。あんただって一部始終を見てたなら分かったはずだ。あれは自分を守るための殺し方じゃない、自分が愉しむための殺し方だって」
「何ふざけたことを……!」
「ふざけてなんかいないさ。俺はあおいの殺しを側で一番よく見てきた。あおいは人を殺す時、無表情になるんだ。冷酷無慈悲、無表情で無口。ただ殺しを愉しむために、余計な感情は一切排除する。その有り様ってば見事なもんでさ、身内でも怖がって口が利けない奴がいるほど」
先程の軽い口調から一転して、亮太の言葉は心臓を抉りまさぐるナイフと化した。確実に痛みを与える正確さと、言葉がより効果的に突き刺さるための辛辣さを兼ね備えている。尋人は亮太の真意が分からず混乱した。
「あおいは襲われたから、仕方なくやってしまったんだ。好き好んでやったんじゃない!」
「それはあんたの思い込みだ。あんたが勝手にそう思って、あおいを美化しようとしてるだけ。けど実際は違う。あれは正当防衛なんて綺麗なもんじゃない。殺人衝動を満たすためだけの単なる殺戮さ」
尋人は亮太に駆け寄ると、その胸倉を両手でぐいと締め上げる。互いの呼吸がかかるほど近付き、視線が真っ向からぶつかり合った。
「ふざけるのもいい加減にしろ! 彼女を侮辱するな! あおいは……あおいは好きで人を殺したんじゃない!」
「好きでやったんじゃないなんて本気で信じてるのか? あおいは被害者で無実だと? 他人に運命を捩じ曲げられた哀れな女の子だと?」
亮太は尋人の手首を掴むと、ぐいと捻り上げて突き放した。まるで骨を曲げられたような痛みに、尋人は思わず呻いてうずくまる。
「あははっ、これは傑作だ。笑うね。恋は盲目って世間では言うらしいけど、本気で信じてるばかを目にするとはな」
「何……だと……っ」
じんじんと痛む手首を握ったまま、尋人は上目で亮太を睨みつける。亮太は尋人を見下ろしながら、感情の欠片もない声音で告げた。
「何も知らないようだから教えてやる。あおいは人殺しだよ。物心ついた時からずっと暗殺の訓練を受けて育った。十歳で組織入りしてから、両手に余るほどの人間を殺してきた。アクシデントで二年間ブランクがあったけど、最近やっと暗殺者に復帰したんだ。それからの仕事ぶりは見事なものさ。そうだな……この前はとある廃墟の倉庫で任務があったんだけど、そこにいた二十人近くの男をあおいは一人で全部片付けたんだ。すごいだろ?」
まるで身内自慢をするように、亮太は誇らしげに語ってみせた。尋人は愕然として、返す言葉を見つけられない。
「ちなみに俺はあおいのパートナー。物心ついた時からずっと一緒に訓練を受けてきたんだ、暗殺者として生きるための訓練を。俺はあおいの過去を知ってる。お前が知らないあおいのこと、俺は全部知ってるんだ」
尋人はようやく立ち上がり、座ったまま自分を見据えてくる少年を睨みつけた。怒りがありありとこめられた視線を、亮太は鼻で笑って受け流す。
「さっき、俺があおいの何を知ってるんだって訊いたよな? 過去だよ。俺はあおいの過去を知ってる。あんたはあおいの今しか知らない。偽りのあおいしか知らないんだ」
「偽り……?」
「そうさ。あおいはあんたに嘘をついてる。人殺しはしてないっていう嘘を」
「そんな」
「ないって言い切れる? それは無理だよ。誰も殺さず生きるなんて、あおいにできるはずがない。だってあおいは俺と同じ、人を手にかけないと生きていけない人間なんだから」
尋人は今度こそ言葉を失った。何もかもが吹き飛んで、頭の中が真っ白になる。亮太に対する怒りや苛立ちさえも、一瞬で色を失ってどこかへ消えた。
「俺とあおいは闇に生きる人間だ。闇社会で育ち、闇社会で生きて、闇社会のために死んでいく……それが俺たちに課せられた運命。あおいが今、陽向にいるのはほんの小さなアクシデントのためさ。全てが整えばまた闇に戻ってくる。……いいや、そこにしか戻れなくなる。あんたはこれが何だか知ってるだろ?」
亮太は丈の長いパーカーをそっと捲って、茶色の革製のホルスターを垣間見せる。そこにしまわれた黒光りする銃身に、尋人はこれ以上ないまでに目を見開いた。
「俺の相棒。あおいも同じのを持ってるぜ」
亮太は一瞬の動作でそれを隠すと、不自然なくらい明るい笑みを浮かべる。
「元々あおいは、俺たちの中でも随一の腕前を持ってる。これを使いこなすことなんて、たとえ記憶を失ってたとしてもわけないさ」
尋人はがくがくと震える足に、必要以上の力を入れて立っていた。そうしないと、今にも膝が砕けてしまいそうで怖い。亮太の語る全てのことが、尋人には衝撃が大きすぎた。あおいの壊れそうな微笑や、消え入りそうな声音が脳裏に浮かぶ。この手で抱いた温もりや、しっかりと握った掌の感触もはっきりと思い出せる。
信じられない。信じたくない。
「俺はあおいを……あおいを信じるって決めたんだ。あの時あおいが……っ、あおいがどんな思いで泣いていたか、お前は知ってるのか!」
裂けんばかりの痛みを孕んだ声を、亮太は冷え切った目で受け流す。尋人はそれ以上言葉を続けられず、唇を噛み締めて拳をきつく握る。自分の肩に寄りかかって幸せそうに笑う、あおいの表情が浮かんでは消えていく。
亮太は尋人をしばらく無言で見ていたが、ふいにベンチから立ち上がって歩き出した。
「今晩二時、ここで任務がある」
尋人ははっと顔を上げた。
「あおいが来る。信じられないって言うなら、その目で確かめればいい。いったいどっちの言い分が真実か、あんた自身が見極めればいい」
尋人は疑わしげな眼差しで亮太を見返す。亮太はそれを笑い飛ばした。
「表に出ると巻き添え食うから、そこの茂みにでも隠れてるんだな。関係ない一般人を殺したとなると、こっちとしてもさすがに後処理が面倒だ」
亮太は芝生と歩道の間にある茂みを指差すと、尋人には目もくれずに背を向ける。
「あんたがあおいを信じるって言うなら尚更、真実は身をもって知るべきだ」
その言葉が風に溶けるより前に、亮太の気配は公園から消えていた。
尋人はわななく足でベンチに座ると、そのまま両手で頭を抱え込む。心の中で砕け散った支柱の欠片を、もう一度集めて修復する気力さえなかった。
デジタル時計は一時十分を表していた。周囲はしんと静まり返り、空気すらも眠る沈黙が漂う。尋人は暗がりの中、ベッドに寝転んだまま眠ることができなかった。
亮太が言う時刻まであと五十分を切った。刻一刻とその時が迫ってきていることに、尋人は未だうろたえたまま現実を直視できずにいる。
垣内亮太がぶつけてきた言葉は、尋人に受け止めきれないほどの衝撃を与え、絶対と揺るがなかったはずの心をいとも簡単に揺さぶった。全てを嘘だと流してしまえばよかった。尋人は自分の情けなさを呪い、心の中で砕かれたものをもう修復しようと努めた。
だが、できなかった。そうしようと思う度、どうしても消えない疑念が首をもたげる。あおいを信じると決めたはずなのに、疑念が心に濃くこびりついて拭いきれなかった。
亮太はあおいの過去を知っていると言っていた。そして、尋人が知っている今のあおいは偽りだとも言った。その言葉にまず怒りを覚えた尋人だったが、よくよく考えてみれば彼が言ったことは当たっている。尋人はあおいの過去を知らない。あおいが時折ぽつりと語る今以外、尋人が彼女について知っていることはないのだ。それは果たして、尋人があえて深く追及しないからという、ただそれだけの理由なのだろうか。
あの雨の夜の事件から何日後かに、尋人は泣いているあおいを杉原調査事務所まで連れていった。それは彼女が望んだからだ。あおいと佐知子の間で約束事が交わされたらしいが、尋人はその内容について詳しくは知らない。その時のあおいは深く傷ついていた。それがとても痛ましくて、それ以上傷つけたくなかったから追及しなかったのだ。
だが、今になって疑念が湧いてくる。あの時、あおいは佐知子と何を話したのだろう。佐知子はあおいの過去を知っているのか。そうだとすればなぜ、尋人に話してくれないのか。佐知子に訊けばきっと、守秘義務の一言で片付けられてしまうだろう。しかし、果たして本当にそれだけなのか。
気になることはもう一つある。亮太の言葉を聞くまで忘れていたことだ。
あおいを事務所に連れていった夜、尋人は駅前で彼女を見つけた。その時、あおいの手には拳銃が握られていた。しかし、佐知子と話し終えたあおいを送った際、彼女はそれを持っていなかった。尋人が見て思わず息を呑んだあの拳銃は、果たしてどこにいったのか。
それを思い出した時、尋人は佐知子が処分したのだろうと思うことにした。しかし疑念は一向に消えず、靄のように広がっていくばかりだ。
こんなことを今更思い出した自分を嗤いたくなる。そして、たった一つの疑念が生まれただけで、あおいを信じられなくなった己の脆さがひどく愚かしい。
「何してんだろ、俺……」
嫌うのでもなく、憎むでもなく、信じたい。そう言ったのは自分だったはずなのに。その気持ちは今でも本当なのに、心はみっともないぐらい崩れている。
「笑い飛ばせたら、きっと楽なんだろうな……」
デジタル時計を見ると、数字は一時二十七分に変わっていた。
もう猶予がない。尋人は飛び起きると、壁に掛けていたジャケットを手に取った。
廊下に出ると、全ての部屋から寝静まった空気が伝わる。佐知子と健人が帰ってきた気配はまだない。きっと今日も仕事で遅いのだ。尋人は足音を殺して階段を下り、自転車の鍵を取りに行った。
そっとリビングのドアを開け、尋人は忍び足で中へと入る。
「尋人?」
暗がりから名前を呼ばれ、尋人は文字どおり飛び上がった。
「何してるの? こんな時間に」
振り返ると、シンクに凭れて缶ビールを煽っている佐知子のシルエットが見えた。
「姉さん。驚かさないでくれよ、もう」
「それはこっちの台詞よ。いきなり忍び足で入ってくるんだもの、危うくビール吹き出すとこだったわ」
「知らないよ、そんなの。今帰ってきたの?」
「少し前よ。どうでもいいけど尋人、声のトーン下げて。リーベが起きちゃう」
尋人は口を手で隠した。リビングの隅に目をやると、モップみたくもこもこしたマルチーズが、ケージの中ですうすうと寝息を立てている。起こしたわけではないらしいと感じて、尋人はほっと胸を撫で下ろした。
「それで? あんた何してるの?」
佐知子が声のトーンを抑えて問うてくる。尋人はなぜかしどろもどろになった。
「何って……別に。ちょっと近くのコンビニまで、ジュース買ってこようと思っただけだよ。自転車で行けばすぐだし」
「危ないわよ」
「大丈夫だって。ほら、テスト前とかよくやってるじゃん。とにかく大丈夫、すぐに帰ってくるから。父さんや母さんには黙っててくれよ、心配するだろうから」
「別にいいけど……」
尋人は手探りでファックス機の横にある小さな箱から自転車の鍵を取ると、忍び足でリビングを出ていこうとした。そして思いついたように、
「ねえ姉さん、兄さんはまだ?」
「さあ。まだなんじゃない? あいつも連日連夜、仕事の鬼だし。心配しなくても生きてるわよ」
「別にそういうのを訊いてるんじゃないよ。じゃあ俺、行ってくるから」
「お土産よろしくー」
佐知子の言葉に返事はせず、尋人は玄関で静かに靴を履くと、そっとドアを開けて出た。音を立てないように門を開くと、自転車に鍵を挿して跨りペダルを漕ぎ出す。
星さえ見えない暗闇の道を一筋のライトが走っていく。尋人は周囲に最低限の注意を配りながら、中央公園を目指して自転車を漕いだ。中央公園は自宅から徒歩で十五分はかかるが、自転車だと五分で行ける。今は深夜で人通りも全くないからすぐ着けるだろう。
大通りに出ると、街灯や時折走る車のライトで暗闇に多少の光が加わった。人影のない歩道を、尋人は風のように駆け抜ける。そして信号に引っ掛かることなく、中央公園の駐輪場に辿り着けた。
尋人は駐輪場の奥に自転車を止め、鍵をかけてから公園を目指す。亮太が指示した場所へ行くには、この南入口が一番近かったはずだ。
園内を努めて静かに歩きながら、尋人はふと自嘲する。全ては尋人を試すための、亮太の策略かもしれない。むしろそうであってほしいと強く願った。
同時に、己の心の弱さをひしひしと感じる。今までは、あおいが話したい時に話してくれればいいと言っていたのに、そのきっかけを与えられたら簡単に食いついた。それほどまでに、自分はあおいを信じていなかったのか。彼女が秘密を明かしてくれないことに、知らないうちにもどかしさを感じていたのか。
それとも、自分は亮太に嫉妬しているのだろうか。自分よりもあおいをよく知っていると言い切った彼を、憎むのと同じ強さで妬んでいるのか。
尋人は激しく頭を振った。どちらでもいい。どう言われても構わない。嗤われることなど怖くない。あおいを信じられないこと、あおいを信じたいと思うのに疑ってしまうこと、それが消えない今の自分のほうがよほど恐ろしい。
歩みを止めた尋人は、亮太に言われた場所であるツツジの茂みを肉眼で見つけ出す。周囲に人影は全くない。草木が風に揺れる微かなざわめきと、今は止まった噴水の水面が小さく揺れる音が、暗黒の夜にほんの少しの刺激を与えるだけだ。尋人は茂みの高さまで身を屈めて腕時計を見た。時刻はあと五分で深夜二時を廻ろうとしている。
どくどくと鼓動が脈打つ。首筋を一筋の冷汗が伝う。知らず知らずのうちに全身が震えていた。脳裏をよぎる恐れを振り払うように、尋人は強く拳を握り締める。
その時、呻き声とどさりという不穏な音が空気を裂いた。茂みに隠れていた尋人は、息を呑んでツツジの隙間に指を突っ込んだ。無理やり拳一つ分の空白を作ってさらに身を低くすると、その間から見えるものに目を凝らす。
噴水の周囲に十人の影が立っている。それに囲まれた小柄な影が一つ見えた。その姿は傍から見ても堂々としていて、圧倒的に背の高い人影たちに囲まれても物怖じしていない。
尋人は瞠目した。小柄な人影──あれはあおいだ。周囲が闇と同化していても、それが後ろ姿でもはっきりと分かる。あれはあおいだ。見間違えるはずがない。
尋人は音を立てないよう移動して、茂みが途切れた部分にしゃがみ込んだ。噴水の周りに展開するあちら側からすれば、見つけようと思えば見つけられる位置だ。しかし今は、その危険に気を配るだけの余裕が尋人にはなかった。
一つの人影があおいに何かをまっすぐと向ける。それが銃だと尋人が認識するより先に、その影が後ろ向きに吹っ飛んで倒れた。次の瞬間、それを目の当たりにした九人が同時にあおいを襲う。
あおいは右から伸びてきた男の手を逆に掴み、難なくぐいと捩じ曲げて振り払うと、その腹を蹴り飛ばして喉仏に銃を撃つ。左から襲いかかった男の胸に目をくれることなく撃ち込むと、その事切れた襟首を掴んで前に突き出し、襲いくる数多の銃弾の盾とする。そして、相手が仲間を撃ったことに驚いて怯んだ隙に、散開する人影めがけて弾倉が空になるまで連射した。
尋人は離れた位置で繰り広げられる光景に、言葉も忘れて見入っていた。あおいの獣みたく俊敏な動き、何人もの男を単身で圧倒する力量、そして微塵の躊躇もなく銃を撃ちまくる姿。その何もかもが、あの雨夜に見たものと重なる。
嘘だと言いたかった。やめろと叫びたかった。だけど言葉はどうしたって声にならず、見ているもの全てを否定し覆すだけの力もない。現実が望まない形でどんどん進んでいくのを、尋人は息継ぎも忘れてただ見ているしかなかった。
あおいを襲う人影がみるみるうちに倒され減っていく。銃声はどれも空気を掠る程度で、耳を劈く轟音ではない。消音機を使っているのか。そう思い至った時、生き残った人影は一つになっていた。
噴水の周りに男の死体がいくつも転がっている。暗闇の中、遠目でもはっきりとそれを捉えた尋人は、胃から喉元に何かが逆流する悪寒を感じて思わず口を押さえる。
残ってしまった男は、圧倒的な力を見せつけたあおいから逃げるように後ずさった。あおいは男の顔に銃口を向けてにじり寄る。
「や、やめ……た、助けてくれ」
涙と恐怖に滲んだ男の嗄れた声が、音のない闇をわなわなと震わせる。
「お願いだ、見逃してくれ……。頼む! 助けてくれ」
あおいは男を噴水まで追い詰めると、無言で引き金を一度引いた。空気を裂く音と同時に男の頭ががくりと垂れる。尋人は絶叫しそうになるのを必死で堪えた。よろけた体がツツジの茂みにぶつかり、がさりと大きな音が立つ。
あおいが弾かれたように振り返った。
「誰!」
尋人はびくりと身を竦ませた。足ががくがくと震え、今にも膝が壊れてしまいそうだ。恐怖と驚愕で呼吸すらままならない。あおいが足早に近付いてくるのが分かった。
「そこにいるのは誰。出てきなさい」
温かみの欠片もない、冷たく厳しい誰何の声が聞こえる。尋人は茂みの陰から現れた。
銃を手に近付いてきたあおいが、驚いて息を呑むのが分かった。尋人は言葉を返す代わりに、ゆらりとした感情のない目をあおいに向ける。
あおいの顔から冷徹さが剥がれ落ち、狼狽に頬が引き攣っていく。銃を握る右手が、力が抜けたようにだらりと下がった。
「尋人……どうして」
鈴のような声音が色を失っている。尋人はあおいの向こうに点在する、ただの物体と成り果てた男たちに目を向けた。もう二度と動くことのない、たった今目の前で奪われた命たちだ。奪ったのは紛れもなく、目の前に佇む少女。
愛しているはずの。愛していたはずの。
「尋人……どうして、ここにいるの」
尋人は答える気がなかった。今、心を支配するのは後悔でも憐憫でもない。明確な形で突きつけられた裏切りへの怒りと悲しみだけだった。
「尋人……」
「俺が呼んだのさ」
二人から少し離れた位置に亮太が立っていた。いつからそこにいたのか、尋人にはそんな疑問すら浮かばない。亮太は突きつけるように言った。
「俺が呼んだんだ。真実を見せてやるって言ってさ」
「そんな……」
「あおい」
二人の会話に割って入るように尋人は口を開いた。
「君は殺人者だったのか」
あおいの表情が凍りつく。
「俺の知らないところで、ずっと人を殺していたのか」
「ひろ……」
「俺には、ずっと隠していたのか」
「尋人」
「俺を、騙していたのか」
自分のものとは思えない、冷徹な声音が咽喉から漏れた。あおいの肩が大きく震えているのが分かる。しかしその仕草や言葉の全てが、尋人の心に全く響いてこなかった。
「俺を、騙していたのか」
あおいは目を伏せたまま、何の反応も返さない。それが明確な答えだと尋人は感じた。
永遠のような沈黙が夜を支配する。尋人はじっとあおいを見つめたまま、身動ぎすらしなかった。木々の微かなざわめきが、やけに大きく鼓膜に触れる。あんなにも近かったはずの互いの距離が、今は異国よりも遠く感じられた。
嘘だと言ってほしい。全ては幻だったと言ってほしい。しかし、あおいは何も言わずにうなだれたままだ。尋人は耐え切れずに叫んだ。
「何か言ってくれ、あおい!」
あおいはびくりと肩を震わせたが、じっと押し黙ったまま動かない。だが、やがてゆるりと目を上げた時、尋人は心に凍てた風が吹いたのを感じた。
あおいは何も映さない人形の瞳で尋人を見据え、下ろしていた銃を握り直すと、言葉を口にする代わりにそれを尋人に向けた。
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