第5章 過去からの敵

 垂れ込める闇に雨音が低く響いている。

 あおいはマンションまでの夜道を、青い傘を差して歩いていた。傘を少し後方にずらして黒い空を仰ぎ見る。雨粒が一つ、するりと頬を滑り落ちた。

 あおいは瞬きをした。周囲をきょろきょろと見回して首を傾げる。そして電柱の陰にあるものを見つけ、首を傾げたまま小走りして近付いた。

 それは蓋のない段ボール箱だった。あおいはしゃがみ込み、そっと手を伸ばして触れる。

「……猫」

 その呟きに反応するように、タオルに包まれた仔猫がびくりと震えた。あおいは慌てて抱き上げる。小さすぎる体躯の猫は、ジャケットに頬をすり寄せてか細い鳴き声を漏らす。

「お前、どうしたの」

 傘を開いたまま地面に置き、あおいは仔猫の背を撫でた。灰色の毛をした仔猫は、小さく首を動かしながら鳴く。そしてぶるりとまた全身を震わせた。

「寒いの? ……お前、どうしてこんなところにいるの? 捨てられたの?」

 あおいは仔猫をジャケットの中に入れた。左手でしっかりと仔猫を抱き、右手に傘を持って足早にその場を後にする。仔猫はあおいの腕の中で、身動ぎもせずにじっとしていた。

 自宅に戻ると、あおいはバスルームの洗面器に湯を張って、冷え切った仔猫の体を温めてやった。それが終わるとタオルで丁寧に体を拭き、ソファに連れていって寝かせると、新しいタオルを取ってきて仔猫の体を包む。仔猫は時折くすぐったそうにしながら、されるままになっていた。

 あおいはスープ皿に水を入れると、仔猫をカーペットの上に移動させてその前に置く。仔猫はスープ皿に顔を近付けると、小さな舌を出して水を舐めた。あおいはほっと頬を緩め、ソファに座ってしばらくその様子を眺めていた。

 仔猫がカーペットに体を丸めるのを見て、あおいは改めてシャワーを浴びた。パジャマに着替えて、ソファで濡れた髪をドライヤーで乾かしていると、仔猫がじっと見つめてくる。あおいが抱き上げると、仔猫はその膝で丸くなった。

「お前、どこの仔? 名前は何ていうの?」

 仔猫は目を細め、身動ぎしない。

「……名前、分からないの?」

 仔猫は小さく首を傾げ、あおいの手に頬ずりをすると撫でるように舐めた。

「これからどうする? ……ここにいる?」

 仔猫はあおいを仰ぐように目を向けると、先程よりもしっかりした声で鳴く。あおいは目を丸くし、やがて柔和な微笑を浮かべた。

 ドライヤーを終えると、あおいは仔猫を抱えて寝室に向かった。そしてベッドの中に仔猫を入れ、寄り添うようにして眠った。



 三日も降り続いた雨がようやく上がり、雲一つない青々とした秋空が広がった。

 十月最初の日曜日の午後、F野駅前は意外に人が多い。茶色のジャケットにジーパンというラフな姿の尋人は、予想よりも多い人出に戸惑いつつ、行き交う人々に紛れて歩く。

 約束の公園には十五分早く着いた。F野に来ることはあまりないが、一度あおいのマンションを訪ねたことがあるので道は分かる。あの時は夕方近くで人気はなかったが、今日はなぜか親子連れとすれ違うことが多かった。きっと日曜日だからだろう。

 そこは学校近くにある中央公園とは違い、こぢんまりとした児童公園だった。入口近くに幼児向けの遊具や砂場があり、左手側にちょっとした広場と、それを眺める位置にベンチが三つある。幼稚園ぐらいの子供とその親が三組、遊具の付近で歓声を上げている。そこから少し離れた位置にあるベンチに、あおいが一人でぽつんと腰掛けていた。

 尋人に気付いたあおいが、顔を上げて微笑む。尋人は手を挙げて応えた。

「よっ。早く着いたと思ったんだけど、もう来てたんだ。待たせた?」

「ううん、あたしもさっき来たばかり。ごめんね、突然呼び出して。勉強、忙しいのに」

「そんなの気にしなくていいよ」

 そう笑ってみせると、あおいはほっとしたらしい。尋人は彼女の隣に座ると、実は来週の土日が模試で、再来週から中間テスト一週間前に入る上に、冬にはセンター試験を控えている身だから、勉強しないとまずいとは言わないでおこうと思った。

「勉強、大変なの?」

「大変ってこともないよ。俺は進路決定してるから、他の奴らに比べたらまだ楽なほう」

「じゃあ大丈夫なのね。よかった。雪花から毎日テストばかりだって聞いてたから、呼び出していいのかどうか迷ってたの。もうテストは終わったのね」

「いや、終わったわけではないけど、まあ別に問題はないよ。ずっと部屋で缶詰になって勉強しなきゃってことはないし。別にあおいが気に病むことないよ」

 あおいは不思議そうに首を傾げていたが、納得したのかやがてこくこくと頷いた。そして憂い顔になって目を伏せる。

「本当は自分で解決しなきゃいけないんだろうけど、どうしてもできなくて。こんなことを相談できるの、尋人しかいなかったから」

 悩ましげなあおいの言葉に、尋人は眉をひそめる。頼られていることに満更ではない気持ちを抱くが、あえて表情には出さないでおく。

「で、何? 相談したいことって」

 あおいは躊躇いがちに目を泳がせた後、横に置いていた小さなバスケットを開けて中身を出して見せる。

「実は、この仔のことなの」

「猫?」

 あおいは仔猫を抱き上げると、膝の上に寝かせて優しく撫でた。尋人はまじまじとそれを見つめる。

 随分と小さな仔猫だ。仔どもというより、赤ちゃんと言ったほうが正しいかもしれない。明るい灰色の毛並みと、愛らしいつぶらな瞳。あおいにだいぶ懐いているらしく、じゃれつこうとくいくい前足を動かしている。

「この猫、どうしたの? 買ったの?」

 あおいは小さく頭を振る。

「三日前の雨の日、マンションの近くの電柱の下にいたの。段ボールの中に入ってて、薄いタオル一枚に包まれてて。周りには誰もいなかったから、あたしが部屋に連れて帰ったの。置いておいたら可哀想な気がして」

「捨て猫か」

「捨て猫?」

「段ボールに入ってたなら野良じゃないだろう。それでこの仔、どうするの。飼うの?」

 あおいは力強く首肯した。

「だって可哀想だもの。こんな小さな仔、あんなところに置いておいたら、きっと凍えて死んじゃうわ」

 心から哀れむようにあおいは言う。確かに雨の中、こんな小さな仔猫が捨てられていたら、誰だって哀れみを覚えるだろう。しかしあの冷たい雨の中、発見されるまでよく生きていたものだ。尋人は別の意味で感嘆する。

 あおいは上目遣いに尋人を見つめる。どうやら反応を窺っているらしい。

「いや、俺は別に反対はしないよ。あおいが決めたんならそれでいいと思う。でも動物の世話は結構大変だぞ。一人暮らしだとなおきついって聞いたことある。それでもできる?」

「頑張る」

 迷いなく即答するあおいに、尋人はほうと感心した。彼女が何かをきっぱりと言い切るのは珍しい。

「あおいのマンションはペットオーケー? 管理人さんか誰かに訊いてみた?」

「管理人さんはいいよって。他でも犬を飼ってる人、結構いるみたい。時々鳴き声とか聞こえるし」

 なるほどと頷いて、尋人は改めて仔猫を見つめた。とても心地よさそうな顔をして、あおいのスカートをぺろぺろと舐めている。尋人は恐る恐る触れてみた。一瞬噛みつかれるかと思ったが、仔猫はくすぐったそうに身動ぎして小さく鳴いた。とても滑らかな毛並みをしている。

「人に勧められて、近くの動物病院に行ってみたの。この仔、まだ生まれて二ヶ月ぐらいしか経ってないんだって。診察してもらったけど悪いとこはなくて、一応予防接種とかもしてもらったの」

「注射? 高かったろ」

「ちゃんとお金持っていってたから大丈夫。キャットフードとか、世話の仕方も教えてもらったの。あと本も買ったんだ。書店には売ってない本だけど、買ったほうがいいって言われたから」

 そう言って、あおいは布鞄の中から有名なペット雑誌を出して見せる。尋人はそれをまじまじと見て、あおいは本気なのだとようやく実感した。

「でも病院に行ったなら、この仔に問題はないんだろ?」

「ないんだけど……」

 あおいは俯いて、仔猫を撫でる手を止めた。

「名前が……」

「名前?」

「決まらないの、この仔の名前」

 尋人は呼び出された本当の理由を悟った。

「つまり俺に、この猫の名前を考えてくれと」

「だめ?」

 あおいが上目遣いに見つめてくる。尋人は頭を抱えたくなった。彼女はいったい尋人のどこを見て、ネーミングセンスがあると思ったのだろう。適任者は他にもっといるのではなかろうか。

「あたしも悩んだけど、全然思いつかなくて。もう尋人にお願いするしかないと思ったの」

 雪花がいるじゃないかと思った。女の子ならそういうのは得意というか、楽しみながら考えることができるだろう。男の自分はそんなものとは無縁だし、第一ネーミングセンスなんて洒落たものを求められても困る。

 しかし尋人は、喉元までこみ上げてきたそういった言葉を口にするのはやめておいた。「自分で考えたものが一番だろう」と言おうと思ったが、それだと無下に突き放したようで冷たい気がする。

 尋人は人知れず諦めたように嘆息して、

「何かの繋がりにしたらいいんじゃない? 日本語を英語にするとか、フランス語にするとか。うちの犬はリーベっていうんだけど、それはドイツ語で愛って意味だし」

「尋人の家、わんちゃん飼ってるの?」

「ああ、マルチーズのオス。今年で確か七歳かな。あれ、言ってなかったっけ?」

 あおいは小さく頷く。

「人懐っこい犬だよ。誰かが来る度きゃんきゃん吠え立てるけど、たいていの人間にはすぐ懐く。室内犬なんだけど、姉さんが躾したから悪さもしない」

「リーベって名前、誰がつけたの?」

「姉さん。姉さんが大学時代、第二外国語でドイツ語を専攻してて。先代がラブっていうんだけど、母さんが関連づけてほしいって言うからドイツ語で名前つけたんだ。ラブとリーベ、訳して愛繋がりってわけ」

「わんちゃん、可愛い?」

「まあ一応」

 肯定することに若干の気恥ずかしさを感じた尋人は、無意識のうちに言葉を濁してしまう。あおいは仔猫を抱き上げると、尋人にそっと差し出した。尋人は怖々とした手つきで仔猫を抱いてみる。仔猫は抵抗することなく、尋人の掌に頬ずりをして鳴いた。

「今までこの仔のこと何て呼んでたの? 『おい、そこの猫』ってわけにはいかないだろ」

「にゃんこ」

「は?」

 左腕に顎を置かせ、右腕で仔猫の背中を撫でていた尋人は、思わず間抜けな声を返してしまう。あおいは聞き取れなかったと思ったらしく、先程よりも確かな発音でもう一度言った。

「にゃんこ」

「にゃんこって……」

 尋人は言葉を失う。当の仔猫はそんな会話に我関することなく、ごろごろと喉を鳴らして小さな欠伸をした。

「にゃんこはないだろう、にゃんこは。そのままじゃないか」

 半ば呆れ気味の尋人の言葉に、あおいは首を傾げて目を丸くした。

「だめなの?」

「だめっていうか……。いや、ペットの名前や呼び方は個人の自由っちゃ自由だけど、にゃんこはさすがにどうかと思うぞ」

 呆れ果てるというより、どう反応していいか分からず困るというのが正直なところだ。しょんぼりするあおいに、尋人は慌てて言い添えた。

「ああそうだ、どうせなら花の名前にしたらどうだ? あおいも花なんだし、繋がりがあっていいんじゃない」

「花の名前? あたしが?」

「だってあおいの名前って、花の葵のあおいだろう?」

 あおいは驚いた表情になる。

「あたしの名前って、花の名前なの? あおいっていう花があるの?」

「あるよ。どんな花か忘れたけど、結構有名だったと思う。古典とかにも出てくるし。ほら、源氏物語とか徳川の家紋とかさ。……ああ、でもこれは俺の思いつきだから、本当は違うのかも」

 不安になって付け足すが、あおいは納得したように首を縦に振る。

「花の名前……何だか綺麗ね。尋人は何がいいと思う?」

「俺? 俺はあんまり花には詳しくないからなあ。あおいの好きな花でいいんじゃない?」

 あおいは難しい顔をして考え込む。尋人は撫でられるままの仔猫を、持ち上げてみたり肉球に触ったりしていたが、しばしの沈黙の後にあおいががっかりと呟く。

「だめ、分からない。花とかよく知らなくて」

 仔猫が嬉しそうに鳴き声を上げて、尋人の服に爪を引っ掛けた。そのままぐいぐいと掻こうとするので、尋人は慌てて引き離す。

「花か……。俺が知ってるのは、バラとかカーネーションとかチューリップとか、紫陽花とか木蓮とか、椿とか」

「何ていうか、派手じゃない名前がいいな」

「派手じゃない……ってことは、片仮名よりは日本語ってこと? バラは難しいけど、椿や紫陽花なら漢字で書けるよ」

 尋人は適当に挙げてみたが、あおいの表情はどこかぱっとしない。どうやら、どれもしっくりこないようだ。

「他だと桜や桃や梅……って、それは花というよりは木か。あとは向日葵とか菖蒲とか……あっ! あおい、向日葵はどう?」

「ヒマワリ?」

「知らない? 向日葵の花。ほら、夏に咲く背が高くて黄色い大きな花」

 あおいは記憶を探るように目を泳がせる。しかし、やがて力なく頭を振った。

「ヒマワリって向かう日に葵って書くんだけど、ほら、あおいって言葉が入ってるだろ?」

「そうなの?」

「そうだよ」

 尋人はポケットから携帯電話を出して、メール画面に向日葵と入力して見せる。あおいは興味深げな表情でその字に見入った。

「いいんじゃないかな、向日葵。明るいイメージの花だし、日本名でそんなに派手じゃないよ。……まあそれは、俺のイメージでしかないけど」

 尋人から仔猫を受け取ったあおいは、そのつぶらな瞳をまじまじと覗き込む。仔猫は小さく長い鳴き声で、あおいの手に頬ずりをした。

「……向日葵」

 あおいは仔猫を抱き締めて、納得したように何度も頷いた。

「うん、今日からこの仔は向日葵ね。……あたしはあおい。よろしくね、向日葵」

 あおいは鈴のような声音で、優しく仔猫──向日葵の背中を撫でる。その愛おしそうな仕草に、尋人も穏やかに微笑んだ。

「可愛いね、向日葵」

 あおいは花のような笑顔で尋人を見つめる。

「名前、つけてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 その微笑みから目が離せない。心の底から愛おしさが湧いてきて、どうしようもない気持ちに駆られてしまう。尋人は照れくさくなって、ついあおいから視線を逸らした。あおいはきょとんとしていたが、やがてそっと尋人の肩に寄り添う。

 尋人が見やると、あおいはふわりとはにかんだ。二人の掌が惹き合うように重なり、そっと指が絡んで力がこもる。

 向日葵はあおいの指をぺろぺろと舐め、はっきりとした声で鳴いた。



 時刻は午後五時を廻った。あおいはまだ帰ってこない。

 亮太はあおいの部屋の前で、壁に凭れて突っ立っていた。ここを訪れたのは確か三時半頃だっただろうか。それから一時間以上が経過した今になっても、彼女が帰ってくる気配は一向にない。亮太は携帯電話をいじりながら、何度目か分からない嘆息を漏らす。

 今日はバイトが休みだった。その上、《ヴィア》の任務もないという完璧なオフだ。そうあることではないので、せっかくだから自分の時間を楽しもうと街で買物をしていたところ、仕事用の携帯電話に竹田から連絡が入った。他ならぬ彼の頼みだったため、買物を早めに切り上げてここに来たのだ。しかし生憎とあおいは留守で、特に用事もない亮太はその帰りを待つことにした。

だが、それが間違いだったのかもしれない。長くても三十分程度だろうと思っていたが、ここまで待たされるのは予想外だった。

 待ちぼうけの原因は分かっている。あおいが恋人の高校生と会っているからだ。車でここに来る途中、すぐ側の公園に二人がいるのを見かけた。亮太は相手の顔を初めて見たが、その存在は前から知っている。自分とそう年の変わらない少年が、あおいの恋人であり《ヴィア》の人質であることを、竹田から既に知らされていた。

 遠目から見ても二人が親密なのは一目瞭然だったので、亮太はあえて声はかけずに部屋の前で待つことにした。二人の逢瀬を邪魔する理由はないし、自分にそんな権利はない。そもそも、それ自体に興味を惹かれないのだ。本人たちが楽しいならそれでいいだろうというぐらいの、他人事めいた気持ちしか湧いてこない。些か冷たすぎやしないかと我ながら思えてしまうほどだ。

 あおいを待っている間、亮太はウォークマンで音楽を聴いたり、私用の携帯電話をいじったりして時間を潰していた。このマンションはやたらと大きいくせに人通りが驚くほど少なく、周囲はしんとした静寂に包まれている。時計を見て、待ち始めてから一時間が過ぎたことに気付いた時、待ちくたびれたというよりも疑念のほうが渦巻いた。

 たかが十代の男女が公園で会うだけなのに、なぜそんなにも時間がかかるのだ。場所は小さな児童公園、二人きりで過ごすには限界があると思うのは自分だけか。それとも、そんなに話したいことがあるのか。一時間以上も二人きりで、会話が尽きたり退屈になったりはしないのだろうか。亮太は不思議でならなかった。

 亮太は一度も恋をしたことがない。年代問わず、異性に恋愛めいた感情を抱いたことすらない。生まれてからこれまでずっと、そういったものとは無縁に過ごしてきた。だから陽向の人間が浮かれ、夢中になり、時には己の全てさえも捧げてしまえるらしい恋愛というものが、亮太には欠片も理解できないし想像もつかない。 

 知らないのだから、理解しろというのも無理な話だ。第一、プロフェッショナルの暗殺者である自分に、そんな人間めいた感情があるとはとても思えない。今という今まで、闇しか見たことがないのだから。

 考えれば考えるほど、亮太は不思議でならない。まったく恋愛とはおかしなものだ。男女の間に愛があれば、たとえ吹きさらしの小さな公園でも、一時間や二時間ぐらい平気でいられるのだ。陽向にいる人間がすることは全くもって意味が分からない。そんなことに限りある時間を傾けて、いったい何が得られるというのだろう。そもそもそんなことに意味などあるのか。

 そういった理解しがたい感覚を持つ人間の括りにあおいが加わっているという現実が、亮太には何よりも信じがたい。記憶を失う以前の彼女なら絶対にありえないことだった。自分と同じ闇にいたあおいが陽向に足を踏み入れ、人間として生きようとしている。その現実が時折、亮太を激しく動揺させては、知らず知らずのうちにひどく疲弊させる。そして、その感情の意味を亮太は未だ図りかねていた。

 携帯電話を閉じ、亮太は大きく嘆息した。

「帰ろっか」

 いつまで待ってもあおいが帰ってくる気配はない。ここは一旦引いて、夜にもう一度訪ねるほうが賢明だ。九時過ぎに訪ねれば、さすがのあおいも部屋にいるだろう。問題はそれまでどうやって時間を潰すかだ。

 亮太はそれまで凭れていた壁から離れ、エレベーターに向かって歩き出そうとした。その時、こつこつと小さな靴音が聞こえる。期待することなくふっと目を向けたら、意外なことにそれはあおいだった。

 あおいはよほど驚いたのか、口をぽかんと開けて目をぱちくりさせている。

「亮太……」

「よっ。三日ぶり……あ、四日ぶりだっけ?」

 亮太は軽く手を挙げて応える。

「やっと帰ってきたね。悪いけど開けてくれない? 一時間半ずっと立ちっぱなしで、結構しんどいんだ」

「そんな前からいたの? どうして」

「どうしてって、用があるからだよ。ほら早く」

 雑な仕草で急かされて、あおいはドアの鍵を開けて亮太を招き入れる。亮太はあおいと共に靴を脱いで、彼女の部屋に上がりこんだ。

 リビングに入るとあおいは電気を点け、持っていたバスケットとバッグをテーブルに置く。バスケットを開け、あおいが大切そうに抱えたものを見て、亮太は意外そうに笑った。

「あれ、その猫まだ持ってたの?」

「猫じゃない、向日葵」

「ヒマワリ?」

「向日葵。この仔の名前よ」

 あおいは向日葵を床に下ろす。向日葵は細く短い足でとてとてと歩き、ふと立ち止まって亮太を見上げた。灰色の毛並みをした小さな猫で、その華奢すぎる体躯は最初に見た時と全く変わらない。向日葵は甘えた声で小さく鳴いた。

「だいぶ元気になったじゃん、この猫。最初見た時は今にも死にそうな面してたけど」

「猫じゃない、向日葵」

「いいじゃん、猫は猫なんだから。おおっ、ちゃんと食わせてもらってるみたいじゃん」

 棚に並べられたキャットフードを見て、亮太はさもおかしそうに笑う。そして向日葵を抱き上げると、ソファにどさりと腰を下ろした。向日葵は抵抗することなく、されるままになっている。

「亮太、向日葵を苛めないでよ」

「誰が」

 亮太は向日葵を自分の隣に下ろす。向日葵はちょこちょこと歩くと、ソファの隅に畳まれた水色のブランケットの上でころんと丸くなる。どうやらそこが定位置らしい。

 あおいはキッチンで二つのマグカップにお茶を淹れて、その一つを亮太に手渡した。亮太は礼を言って受け取ると一口啜る。冷蔵庫で冷やされていただけあって、氷を入れなくてもかなり冷たい。

「学校には行ってるの?」

 あおいはお茶を啜りながら、小さくこくりと頷く。

「調子はどう?」

「別に、問題はない」

 亮太はマグカップをガラステーブルに置いた。ふと目をやると、向日葵がジーパンに小さな足をちょこんと置いてこちらを見上げている。亮太が背中を撫でてやると、向日葵は背伸びしてからぺたりと寝そべった。

 あおいは思い出したように、

「向日葵の病院、紹介してくれてありがとう」

「いや別に、家の近所の病院だったから知ってただけだよ」

「助かったわ」

「それはいいけど、こっちはびっくりしたよ。いきなり電話してきて、仔猫を飼うからやり方教えてほしいなんて言うからさ」

「だって、動物の飼い方なんて知らないもの。何を与えていいかも分からなかったし、長いこと雨の中にいたみたいだったから、風邪でも引いてたら大変だと思って」

「まあ、お役に立てたなら光栄です」

 茶化すように言い、亮太は向日葵の顎に手を当てた。向日葵は心地よいのか、寛いだ表情で喉を鳴らしている。まだ生後二ヶ月らしいが、元来人懐っこい性格の猫らしい。

「それで、今日はどうしたの?」

 さりげなく本題を切り出される。亮太は向日葵から手を離して、

「竹田さんに頼まれたんだよ、明日の任務のことを伝えてくれって。本当なら竹田さんが来るはずだったんだけど、今日は小父さんの検診の日だからどうしても手が外せないって」

「検診? 父は病院に通ってるの?」

「そうだよ。あれ、言ってなかったっけ。ほら、小父さん、車椅子だろう」

「知ってるわ。前に会った時、乗っていたもの。でも、どうしてなのかは知らない」

「そうだっけ。もう知ってるもんだと思ってた。……まあいいや。なんでも事故で下半身不随になったらしいよ。いつだっけ、もう七年ぐらい前かなあ。前すぎて覚えてないや。俺も詳しいことはよく知らないけど、車で事故って、それがひどい大怪我だったらしくて、以来ずっとあんな状態なんだよ。立って歩くことはもうできないって話だ」

「そうなの……」

 あおいは随分と驚いている。どうやら本当に知らなかったようだ。

「そんな感じだから、日々の世話は竹田さんや身近にいる使用人がずっとやってて、二週間に一回の検診には毎回、竹田さんが付いていってるんだ。つまりそれが今日ってわけ。オーケー?」

 あおいはマグカップに口をつけたまま首肯する。

「じゃあ本題に戻ろうか」

「え?」

「任務の話」

 さらりと告げた言葉に、あおいの表情が自然に硬くなる。つぶらな瞳が憂いげに翳ったことに、亮太は気付かないふりをして続けた。

「任務は明晩十時。H本港埠頭の旧倉庫で、ターゲットは現時点では約二十人。場所はG藤物産が所有してた旧倉庫。管理元の会社が倒産してから三年間、ほぼ手付かずで放置されている場所だ。人気はまずない。結構な規模の闇取引だから、いるとしたらそれ関係の奴らかな。とりあえず、その場にいる人間は全員抹殺ということでよろしく」

「その相手は、《ヴィア》にとってどういう存在なの?」

「さあね。別に知らなくていいと思うよ。組織の運営やその他のあれこれは、上にいるお偉方の管轄さ。俺たち暗殺者はその命に従って標的を抹殺するのみ。それ以外の余計な情報を知る必要はない」

 あおいは苦い表情で黙り込む。

「俺たちの任務はあくまで暗殺。対象のデータなんて任務そのものに何の関係もないし、知ってたって邪魔なだけだ。それに目的は暗殺であって、取引への介入や阻止じゃない。後始末やその他のことは、俺たちが引き上げた後で他の奴らがやってくれるよ」

 突き放したような言葉に、あおいが難しい顔をする。納得のいかない部分があるのだろうが、亮太はそれを無視することにした。

「ちなみにこれ、俺とあおいの共同任務だから。ターゲットが多いし、旧倉庫は二つあって意外に大きいから、二人でやったほうが手っ取り早いっていう上からの命令。二人で一つずつ担当して、倉庫にいる連中を全員消しにかかるって感じ。だから必然的に広い倉庫内で一対大勢になるけど、あおいなら別に難しいことじゃないだろ?」

「前みたいに、あたしとあなたが協力してやるってこと?」

「意味的にはそうかな。まあ、前のやつは体慣らしみたいなもんだったから、今回が本格的な実戦版って感じ。現場の規模もターゲットの数も、今回のほうが圧倒的に多い」

 十日ほど前、あおいと亮太は二人で暗殺任務を遂行した。尤も亮太はフォローの役回りで、実際にターゲットを全員殺したのはあおいだ。亮太にとってはほんのお遊び、あおいにとっては復帰直後の準備運動みたいな任務だった。

「前回は俺が軽くフォローしたけど、今回はそういうわけにいかない。お互い別行動で大勢を相手にすることになる。戻りたてには厳しいかもしれないけど、できるよな?」

 あおいは瞬きして黙り込んだ後、やがて確かに頷いた。

「できるわ。必ず、やり遂げる」

 鈴のような声音が冷徹さを帯びて響く。亮太は心なしか安堵した。

 向日葵がソファの端まで歩き、あおいに向かって何度か鳴いた。抱っこをせがんでいるらしい。あおいは向日葵を抱き上げた。

 亮太は話題を変えるように、

「仕事には慣れた?」

 あおいがぴくりと瞼を動かして反応する。

「竹田さんから順調だって聞いたけど、だいぶ感覚は取り戻した?」

「……まあ」

「記憶は? 思い出したこととか、分かったこととかある?」

 あおいは目を閉じて、やがて小さく頭を振った。一応訊いてはみたが、さして期待はしていなかったので、亮太はそれ以上その話題を続けることはしない。

「だけど、分かったことはあるわ」

 亮太は視線だけあおいに向ける。

「あたしは暗殺者だったってこと。何となく分かるの。脳が何も覚えていなくても、手は銃を握る感覚を覚えている。人を殺す感覚を、記憶として確かに思い出せなくても、体はちゃんと覚えていて、考えるよりも早く動くの。誰に教えられたわけでもないのに」

 あおいは向日葵を優しく撫でながら、静かすぎる面持ちで呟く。

「あたしは暗殺者。あなたの言うとおり、あたしは幼い頃から記憶を失くすまで、ずっと人を殺し続けてきた。……これはつまり、そういうことでしょう?」

 鈴のような声音はあくまで静かだった。そこに諦観や絶望の色はない。伏し目がちの瞳は凛としているが、研ぎ澄まされていてどこか冷たい。それは亮太の記憶の中にいるあおいと、遠からず近からず似通っているものが確かにあった。

「そっか。なら安心した」

 亮太の言葉に、あおいが不思議そうに目を細める。

「いろいろ心配してたんだけど、半分は杞憂で終わりそうだな」

「心配?」

「そう。これでも幼なじみでパートナーだから、大丈夫かな、これからどうなるかなって心配してたんだ。でも安心した。一緒に仕事した時も思ったけど、情け容赦が欠片もないところがあおいらしいなって」

「……それ、褒めてるの?」

「勿論。プロフェッショナルには大事なことだよ。敵に情けはかけない。容赦はしない。でないと自分が殺されるから。躊躇いは一番無意味な感情だよ」

 あおいは苦虫を噛み潰した表情で俯く。言い切るだけの度胸を取り戻していないところは些か心配だ。その原因に思い至って、亮太も苦い表情をした。

 向日葵はあおいの膝の上で体を丸めて微睡んでいる。あおいの細い指が梳るようにその背中を撫でた。

「ねえ、あおい」

 呼びかけると、あおいが少し眼差しを上げた。

「向日葵って名前さ、誰がつけたの?」

 予期せぬ問いを受けたからか、あおいの表情がぴしりと固まる。

「あおい……じゃないよな。向日葵なんて名前、あおいらしくないもん」

 あおいはうろたえるように瞬きを繰り返し、やがて俯いて口を閉ざした。

「あの男? 公園で会ってた高校生の彼氏」

 あおいがぎょっと目を剥いた。

「何で亮太が尋人を知ってるの」

 消え入りそうな声音が震えている。どうやら心の底から驚いているらしい。そうか、あの男はヒロトというのか。亮太は心の中でふむふむと頷いた。

「ここに来る途中、そこの公園で二人がいるのを見かけたからさ。ごめんね。俺、視力は二・〇なんだ。遠くからでもちゃんと見えたよ」

 あおいの表情が凍りつく。向日葵を撫でる手が硬直したように止まった。

「そんな驚かなくてもいいだろ。会話を盗み聞きしたわけじゃないんだし。車で通り過ぎる時に、ちらっと見かけたぐらい」

 亮太は嘘をついた。本当は気付かれない位置に車を止め、あおいの隣に座る彼に目を凝らしたのだ。運転席からほんの一分ほど見ただけだから、犯罪やストーカーの部類には入らない。そんなことを考えていた亮太は、心の中で言い訳する自分にうんざりする。

 あおいは激しく動揺し、落ち着きなく目を泳がせている。こんな彼女は珍しい。目覚めてからのあおいは人間の感情を覚えただけでなく、それらの表現も豊かになったようだ。

 しばらくの沈黙の後、あおいが平静を取り戻そうとするように、

「そうよね。亮太が知らないはずないわよね。竹田はきっとそういうこと、抜かりなく伝えていそうだもの」

 亮太は無言を返答にして、マグカップに口をつけた。

 あおいを水島邸に連れていく少し前、亮太はその話を竹田から聞かされた。あおいには青葉学園に通う高校生の恋人がいると。その少年はあおいが記憶喪失であることも、彼女が雨の夜に不良少年たちを殺したことも知っていると。《ヴィア》は彼とその家族を人質に、あおいに暗殺者への復帰を迫るのだということも、竹田は包み隠さず教えてくれた。あおいが目覚めて以後の亮太の複雑な心境を一番よく知っていたからだろう。実に竹田らしい気遣いだ。その話を初めて聞いた時の驚愕と言葉にしがたい気持ちは、今も消えずに亮太の胸の奥で燻り続けている。

「あおいはさ」

 亮太が口を開くと、あおいはびくりと背筋を震わせる。

「そうびくつくことないだろ。俺が取って食うとでも思った?」

「違う。……けど」

「けど、何?」

 亮太が問い返すと、あおいはその先を続けることなく黙り込む。平静を装おうとしているが、内心で怯えているのが手に取るように分かる。亮太は舌打ちしたい衝動をかろうじて堪えた。自分が知っているあおいはこんなにも臆病で、些細なことでいちいち竦むような細い神経をしていただろうか。

 あおいは消え入りそうな声で、

「……亮太は尋人のこと、どれくらい知ってるの?」

「そんなに知らないよ。顔は今日初めて見たし、名前もあおいが言ってるのを聞いて知った。俺が知ってるのはその存在と、青葉学園の高校生だってことぐらい」

「本当に……?」

 亮太は苛立たしげにため息をついた。

「心外だな。そんな嘘つくかよ。生憎と俺は詮索が嫌いなんだ。あおいは本当、俺のことまるで信用してないね」

「そんなこと」

 否定しようとして口を閉ざす。それは肯定よりも辛辣だと亮太は思った。しかし、それを言葉にするほど冷静さを見失ったわけではない。

「どんな奴なの? 彼氏は」

 あおいの表情が硬くなる。

「見た目は俺と同い年ぐらいだよね。そこらにいる今どきの若者って感じだったけど、どんな奴なの?」

 亮太は追い討ちをかけるように畳み掛ける。あおいの表情は硬く、よくよく見ると血の気が引いていた。元々色白の肌が透明を通り越して青白い。

「記憶喪失だってことも、雨の夜の事件のことも知ってるって竹田さんから聞いたけど、あおいが暗殺者に戻ったってことも知ってるの?」

 最後の一言が決定打だったらしい。あおいは瞑目してうなだれた。小刻みに細い肩を震わせ、小さな拳をぐっと握り締めている。しかし亮太には、彼女をそこまで追い詰めたという感覚がなかった。至極当然のことを訊いているだけなのだが。

 二人の会話をよそに、向日葵はあおいの膝の上ですやすやと眠っている。その寝顔は呆れるほど呑気なものだった。あおいは長い沈黙の後、

「……お願い、何もしないで」

 まるで蚊の鳴くような声だった。消え入るように弱々しく、今にも泣き出しそうだ。

「尋人には何もしないで。何も教えないで。殺したり、襲ったり……壊したり、しないで」

 あまりにも切実な響きに、亮太は虚を衝かれて言葉を失う。

「尋人は何も関係ないの。何も悪くない。あたしが……あたしが勝手に巻き込んでしまっただけ。だから……だからお願い、何もしないで」

 あおいの血の気の失せた頬に、一筋の涙が滑り落ちる。亮太は唖然とした。あおいは目を拭うが、涙は止まらずに幾筋も零れ落ちていく。

「そんなに好きなの? あいつが」

 あおいはしばし無言だったが、やがて確かに頷いた。

「どうして」

 無意識のうちに刺々しい言葉が口から出る。あおいは涙を拭うのをやめた。

「あたしのこと、分かってくれたの。空っぽのあたしを……こんなに罪深いあたしを分かってくれて、好きだと言ってくれた。あたしはあたしだって言ってくれたの。あたしのことを分かってくれて、大切にしてくれて」

 言葉を重ねていくごとに、あおいの声が激しく揺れていく。その表情はとても痛切で、今にも決壊しそうな心の激流をぎりぎりで堰き止めているようだった。

「守りたいって思ったの。死なせたくない、あたしの手で守りたいって……。こんな気持ち、初めてなの。失いたくないの」

 亮太は胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。朧気に生まれた苛立ちが形となって渦巻き始める。そうさせるのはあおいの言葉のせいか、彼女にそう言わしめた恋人のせいなのか、考えるのも煩わしいほどだ。

「あたし、今……幸せだから。その幸せを、失くしたくないの。だからお願い、何もしないで。あたしから幸せを奪わないで」

 悲しげに吐き出されたその一言が決定打となった。亮太は涙を浮かべて訴える彼女に、冷え切った眼差しを向ける。嘲るような乾いた笑いが自然に漏れた。

「だけどさ、それはずるくない?」

 亮太から淡々と告げられた一言に、あおいはぴくりと瞼を震わす。

「ずるいんじゃないかな、そういう考え。相手を騙して、自分は幸せがほしいなんて。普通に考えたらそれはずるいだろ。だって、彼氏は暗殺者じゃないあおいが好きなんだろ? 相手はいたって純粋なわけだ。でもあおいは真実を隠してるから、そいつを騙してることになる。罪悪感はないの?」

 突き刺すように言うと、あおいは表情を凍らせた。

「今まで気付かなかったわけないよな。分かってるけど無視してただけだろ。誰にでも分かる簡単な図式じゃないか。だけどそこから目を背けて、自分の気持ちだけを貫こうとするなんて、ずるいしわがままだし身勝手だよ。要するに自分さえよければいいってことだろ? その上俺には何も教えるな、黙ってろって言うわけ。何だよそれ、意味分かんねえ」

 呆れ果てた亮太の言葉に、あおいの表情が悲愴に歪む。亮太は苛立たしげに視線を逸らした。

「……分かってる。だけど、失いたくないの。失ってしまったらあたし、どうしたらいいのか分からない」

 あおいの指が震えている。涙がぽろぽろと頬を伝い、蚊の鳴くような声がさらに弱くなった。

「尋人が好きなの。誰よりも好きで、何よりも大切で……失いたくないの」

 眠っていた向日葵が、ふと目を覚ましてあおいに目を向ける。そしてぎょっと顔を上げ、気遣うように何度か鳴いた。

「だけどそれはずるいよ、やっぱり。俺には理解できない」

 亮太はソファから立ち上がった。あおいが向日葵を置いて腰を浮かす。

「亮太」

 名前を呼ばれ、胸の奥から苦い感情が湧き上がる。亮太はリビングのドアノブに手をかけ、振り返らずに言った。

「今のあおいは、あおいじゃない。俺はそんなあおいは知らない。……いい加減さっさと目を覚ませば」

「亮太……」

「明日の夜九時に迎えに来るから」

 刺々しく吐き捨てて、亮太は足早にリビングを出ていった。玄関で靴を履き、飛び出すように部屋を後にする。一瞬あおいが追ってくるかと思ったが、その気配はなかった。

 振り返ることなく歩いてエレベーターに乗り込むと、亮太は壁に凭れて大きく息を吐いた。低く鈍い音が反響し、耳障りな機械音とともに小さな箱が下りていく。

 亮太は肺が空になるまで息を吐き、ぐしゃぐしゃと髪を掻いた。

「……何か、ばからし」

 心の底から本音が漏れる。沸点に到達寸前だった脳裏が冷めてきても、湧き出てくる苛立ちは依然として消えない。これは単なる嫉妬なのか。それとも、変わってしまったあおいへの失望なのか。どれだけ考えても、その感情に名前を当て嵌めることができない。

「ばからし。まるで八つ当たりだ」

 亮太は憎々しげにひとりごちる。そしてまた大きく嘆息した。

 過去の記憶を失くしたあおいは、亮太や《ヴィア》のことだけでなく、自分本来の姿まで忘れてしまった。それはもはや決定的で、亮太がどうあがいたって翻らない。亮太がただ一人のパートナーと信じた少女は、今となっては忘却の彼方だ。どれだけ言葉を重ねたとしても、亮太がよく知るあおいにはもう戻らない。その過去を突きつけてみたとしても同じで、きっと虚しい一人相撲にしかならないだろう。

 亮太は痛ましげに瞑目し、片目を覆うように右手を当てた。

 こんなことになるなら、あの時あおいを止めていればよかった。あの暑い夏の午後に、何が何でも彼女をこちら側に繋ぎ止めておけばよかった。そうしていれば絶対に、こんなことにはならなかったはずなのに。

「……脆いもんだな、絆なんて」

 心には今も刻みついているのに、形を失えばまるで全てが嘘のようだ。現実に存在していたのか、今となってはそれさえ疑わしい。あまりの虚しさに、亮太は笑うしかなかった。

 エレベーターのドアが開く。地下駐車場に降り立った亮太は、止めておいた車に乗り込むと、アクセルを強く踏み込んで勢いよく発進させた。



 星一つない漆黒の夜空に、くっきりとした満月が浮かぶ。些か明るすぎる深夜に、静かな波音が繰り返される。

 時刻は午前二時を過ぎた。あおいはファスナーを閉めた灰色のパーカーに、紺色のミニスカートといういでたちで立ち尽くしていた。目の前には古びた大きな倉庫が二つそびえている。あおいはしばらくそれを見上げていたが、ポシェットから銃を出すと足音を殺しながら歩を進めた。スライドを引き、トリガーに指をかけてそっと握る。

 満月の光が、出入口のシャッターや窓が全て壊れ、廃墟と化した倉庫の外観を薄ぼんやりと描き出す。壁伝いに歩いていたあおいはシャッターの側で足を止め、月明かりに影が映っていないことを確認した。

 あおいはそっと頬を出し、薄闇にうごめく人影を目だけで数える。すっと銃を構えると、横に飛び出して三発撃った。そして、いくつもの人影が慌てて動き出すより早く駆け出す。

 あおいは倉庫内に飛び込んで、そこにいる人影を片端から撃ち倒す。何発もの銃声がこだまし、いくつもの銃弾が空気を引き裂いて交差する。あおいはそれらを見やることなく、ひたすらトリガーを引き続けた。

 あおいが太い鉄柱に身を隠すと同時に、何発かの銃弾が柱にぶつかって火花を散らす。銃声が止まった一瞬に躍り出ると、撃ってきた人影に反撃の銃弾を食らわせた。あおいは素早くマガジンを交換すると周囲に目を走らせる。荒みきった倉庫内には、建物を支える剥き出しの鉄柱の他に、錆びた鉄板や運送用の手押し車が雑然と放置されており、壁側には埃の溜まった廃材や鉄材などが積み上げられている。

 あおいは内部を一周するように走りながら、目に入る人影を次々に撃っていく。時折、物陰に身を隠しては躍り出てトリガーを引き、銃弾の軌跡を見切りながら俊敏に駆け回り、己よりも背が高く頑丈な体つきの人影を息一つつかずに殺し続ける。

 目につく人影を一掃したあおいは、立ち止まって周囲をくまなく見回した。次の瞬間、上方から聞こえた足音に銃を連射する。あおいは音が聞こえた方角を仰ぎ見た。

「上があるのね」

 あおいは再び走り出す。途端に何発もの銃声が追いかけてくるが、振り向くことなく撃ち返した。照準を定めることなく放った銃弾たちが、確実に標的の脳や心臓を貫き続ける。

 倉庫の中央部に、今にも底板が抜けそうな錆びた階段がある。あおいはマガジンを交換しながら一気に駆け上がった。二階に当たる上層部は、細いキャットウォークが何方向かに伸びているだけだ。肩幅ぐらいの狭い鉄板の上に立ち、あおいはすっと銃を構える。そして、向こう側のキャットウォークでうごめく人影に向け、手慰みのように何発か撃った。

 突如、大きな足音が鉄板を激しく振動させる。ものすごい速さで駆けてくる足音に、あおいは振り向くなり咄嗟にトリガーに指をかけた。だが、闇から伸びてきた掌にその手をぐいと掴まれ、乱暴な力で捩じ上げられる。

 あおいは呻き声を漏らした。そして、反射的に動いた右足で相手の腹を蹴り飛ばす。呻き声とともに腕を掴んでいた人影が後方に飛ぶと、あおいはすぐさま銃を握り直してその相手を撃った。

 駆けてくる三つの人影に連続して銃弾を撃ち込むと、背後に現れた気配に瞬時に振り返る。あおいは伸びてきた相手の掌が肩に触れる前に、その手首を強く掴んで捻り上げ、吹き抜けとなった下へ突き落とした。落下していく胸めがけてトリガーを引くと、次は突進してきた人影の顎を蹴り上げて銃で撃ち、同じように下へ造作なく投げ落とす。

 キャットウォークに立つあおいを狙って、下から何発もの銃声が響く。あおいは右手で銃を握り、壊れかけたキャットウォークの手すりに登った。そして、天井からぶら下がる太い鎖の高い位置を左手で掴むと、脆く軋む手すりを蹴って空中に躍り出る。宙に投げ出される体を支え、振り子みたく落下しながら右手で銃を撃ち続けた。下にいた人影たちは、降り注ぐ銃弾の雨を浴びて次々に崩れ落ちていく。

 難なく着地したあおいは、手についた錆を払いながら周囲を見回した。

「……終わったのね」

 あおいはくるりと背を向け、開け放たれた出口を目指す。

「亮太は、終わったかしら」

 あおいは銃を握り締めたまま、まっすぐ歩いて倉庫を出た。目の前は何もない開けた空間で、倉庫から離れていけばいくほど海が近付いてくる。

 静まり返った闇夜に、穏やかな潮騒が規則正しいリズムで響く。満月の光に照らされて、小さく揺らめく波が時折きらめいた。

 あおいはふと足を止め、闇に浮かぶ海に魅入った。

「不思議……」

 あおいは呟いた。

「夜なのに、海が光って見える。すぐ側にいるわけじゃないのに、こんなにはっきりと」

 あおいは満月を仰ぎ見た。

「美しいかい?」

 あおいが振り返ったのと、銃声が静寂を引き裂いたのは同時だった。あおいの体が後ろに傾ぎ、左肩から鮮血が弧を描いて飛び散る。

「驚いたよ。気配を消していたとはいえ、こんなに近くにいたのに気付かないなんて。隙だらけだね、あおい。君らしくもない」

 現れた男は歌うように言いながら、靴音を響かせて一歩ずつ近付いてくる。あおいはよろめきながら、銃を握る右手でどくどくと出血する左肩を押さえた。

「そんなにその海が、美しかったのかい?」

 あおいは顔を上げて男を睨む。満月の光が暗闇に佇む男に影を作り、その表情を浮かび上がらせた。黒の背広に黒のネクタイ、長身にすらりとした体躯の男。甘く優しげな表情をしているが、その瞳は冷ややかで笑っていない。

「美しい月夜だ。秋といえどそれほど寒くないし、波音も穏やかで心地よい。両手に余るほどの血と罪に汚れきった咎人が、せめてもの死に花を咲かすには相応しい。……そうだろう? あおい」

 男は満月に心酔の一瞥を投げると、あおいに柔らかな微笑を向ける。あおいは左肩から手を離し、右手で銃を構え直して男に向けた。

「……何者」

「森上智彦、《M‐R》の暗殺者だ。……君を殺しに来たよ、水島あおい」

 その言葉とともに、森上の目がすっと細くなる。あおいは地を蹴って走り出した。倉庫の方向へ全速力で駆けながら、後ろ手に銃で撃ちまくる。しかし照準の定まらない銃弾は、静寂を引き裂きこそすれど、森上には少しも掠ることなく闇に呑まれる。

「逃げるなよ、あおい。久々に会えたんだから、もっと楽しもうじゃないか」

 森上はあおいをゆっくりと追いながら、愉悦に染まった言葉を投げかける。あおいは装弾数を撃ち終えた銃に、新たなマガジンを装填しようとした。しかし、肩を撃たれたために指がうまく動かない。あおいは舌打ちした。

 その時、背後から襲ってきた銃弾が、ひゅっという音とともに空気と右頬を裂いた。あおいは思わず声を上げて立ち止まり、銃を取り落として両手で傷を押さえる。間髪を入れずに銃声が轟き、今度は右足ががくんと折れた。太腿から血が溢れ出し、一直線に流れて靴下に染み渡る。

 前のめりになったあおいは、コンクリートの地面に跪いて右手を突いた。べっとりと血がついた掌で砂利を押さえ、息も絶え絶えになりながら、靴音とともに近付いてくる気配に目をやる。

「弱くなったね、あおい」

 森上は足を止めると、微笑をたたえてあおいを見下ろした。

「前はそんなのじゃなかった。僕の知っている君は野生動物のように俊敏で、氷のように冷たい目をしていた。しかし、今の君は随分と鈍くて生温い目をしている。まるで別人だ」

 あおいは森上をきつく睨みつけたまま、素早くマガジンを交換する。そしてふらつきながら立ち上がり、森上の顔に銃口を向けた。

「二年間にもわたる深い眠りが、君を根本から変えてしまったというのは本当らしい。あの出来事とあの傷は、君という全てのものを君から奪ってしまった」

 突きつけられた銃口に怯むこともなく、面白がるような口調で森上は言う。

「……にしても無様だな。あまり僕をがっかりさせないでくれ、あおい」

 森上は銃口をあおいに向けたまま、ふっと優しく微笑んだ。

「あたしを……知って、いるの?」

「知ってるさ。誰よりもよく、ね」

「でもあたしは、あなたのことなんて、知らない」

「そうか、それは残念だ」

 心から残念そうに森上は言う。

「だけど今となってはもう、そんなことには何の意味もないだろう。だって君は今夜、ここで死ぬんだから」

 森上はぞっとするほど爽やかな笑みを浮かべた。

「あおい、君は僕が殺す」

 あおいは飛びずさるとがむしゃらに銃を連射した。そして傷を庇いながら、二つの倉庫の間の暗闇を全速力で駆ける。すぐ背後から森上の気配と銃声が追いかけてくるが、あおいはそれには目もくれずに走った。

「まだ逃げるのか。往生際が悪いな。それとも、そんなに死が恐ろしいかい?」

 あおいは一目散に走り続けた。足首を銃弾が掠めて、足が絡んで転びそうになる。しかし、すんでのところで体勢を支えたあおいは、やがて足を止めて振り返った。荒くなった呼吸を整えることもせず、近付いてくる森上を睨みつける。

「覚悟はできたかい?」

 あおいはすっと銃を構えた。そして銃口を森上ではなく、左の倉庫の屋根から壁沿いに吊り下げてある何本もの鉄骨に向ける。太くて長いそれらを支える鎖に照準を定め、あおいは三発撃った。銃弾が暗闇に溶けた鎖に命中し、細かい錆が零れ落ちるようにして空気を舞う。そして鉄と鉄が擦れ合う鈍い音とともに、支えを失った鉄骨が音を立てて落ちていく。森上は咄嗟に後方へ飛びずさって鉄骨を回避した。

 あおいは再び一目散に走り出した。何発もの銃声が追いかけてくるが、振り返らずにただ闇を駆け抜ける。

 倉庫が闇と同化するまで遠ざかったところへ来ると、あおいは足を止めてその場にしゃがみ込んだ。その時、乱暴に響くクラクションとともに、目の前に車が音を立てて止まる。

 運転席から顔を出したのは亮太だった。

「あおい、乗れ!」

 あおいは言われるままに立ち上がり、よろよろと助手席に乗り込む。ドアを閉めた瞬間、亮太は極めて乱暴な運転で車を方向転換させる。

 車は猛スピードで夜を駆け抜け、あっという間に埠頭から離れていった。

「危ないとこだったな。大丈夫か? ひどい怪我だ。そこにタオルがあるだろ。それで早く止血しろ」

 亮太はシートベルトも締めずに、いくつもの交差点や横断歩道を信号無視して突っ走る。あおいはダッシュボードにある細長いタオルを掴み、どくどくと血を流し続ける太股をぎゅっと縛り上げる。顔を歪めて呻くと、亮太が怒りを露にして毒づく。

「大丈夫か? ったく森上の野郎! ふざけた真似しやがって。あいつが出てくるなんて聞いてねえよ。とんだ茶番だ。想定外にも程がある。《M‐R》め、今度会ったらただじゃおかねえ」

 あおいは大きく息を吐いて、シートに深く沈み込んだ。

「待ってろ、すぐ部屋に連れてってやるから。怪我の程度はどうだ? 止血は……あおい? おい大丈夫か、しっかりしろ」

 あおいはがくりと頭を垂れた。そしてそれきり、あおいの意識はぶつりと途切れた。



 昼下がり、ブラインドの隙間から矢のような陽射しが射し込む。

 所長室のデスクに座る佐知子は、コーヒーを啜りながら報告書のチェックをしていた。お気に入りのマグカップに入ったコーヒーは、程よく苦いが冷めていてうまくない。時間をかけて飲んでいたせいだ。我慢して半分は飲んだが、結局飲みきれずに残してしまった。

「新しいの淹れようか。でも面倒だわ」

 こういう時に尋人がいてくれたらと佐知子は心から思う。こういう時に尋人がいれば、最新式のコーヒーメーカーと定番の豆を慣れた手つきで操作して、佐知子好みの程よく苦くて火傷するほど熱いコーヒーを淹れてくれるのに。所長たる自分のコーヒーを淹れるのは、アルバイトである尋人の仕事の一つなのだ。

 しかし彼は学校なので、今は叶わぬ夢である。事務所にいるスタッフを呼ぶこともできるが、それはそれで電話する手間が面倒臭い。そう思うと、結局は自分が動くしかない。

「自分のために動くこと、嫌いなのよね」

 佐知子は軽くため息をつく。もし両親や健人がこの場にいたら、我が儘にも程があると呆れられそうだ。普段何かと口うるさい母や、気が短い健人は怒り出してしまうかもしれない。

 佐知子は観念して腰を浮かしかけた。その瞬間、デスクの電話が鳴り響く。出端を挫かれた佐知子は、嘆息して座り直すと素早く受話器を取った。

 相手は事務所にいる美弥で、佐知子宛の電話を受けたがどうするかと尋ねてきた。電話主の名前を聞いて、佐知子の表情がすっと引き締まる。繋ぐように指示をすると、受話器を左手に持ち替えて、右手で煙草を手繰り寄せた。

「お電話替わりました、杉原です」

〈もしもし、こんにちは。あの……佐知子さんですか?〉

 聞き逃してしまいそうなほど小さい、鈴の音のような声が鼓膜に響く。

「ええ」

〈あの……その、水島あおいです。お仕事中にごめんなさい〉

「構わないわ。どうしたの? こんな時間に。今日は平日だけど」

〈今日は学校、お休みしたんです。ちょっと……その、いろいろあって〉

 受話器の向こうにいるあおいが、言葉を選びながら話そうとしている姿が目に浮かぶ。どうやら長い話になりそうだ。

 佐知子は右手で箱から煙草を一本引き抜くと、口にくわえて火を点けた。

〈あの……今、お時間ありますか? お話したいことと、お願いしたいことがあるんです〉

「いいわよ。何となく予感はしてたの。こっちのことは気にしないで、ゆっくり聞かせてちょうだい、あなたのその後の話を」

 言葉とともに吸い込んだ煙がたっぷりと吐き出される。

 煙が空気に溶けないうちに、あおいはぽつりぽつりと語り始めた。佐知子は電話機をデスクの中央まで引き寄せて、椅子に深く腰掛けて長電話をする体勢を取る。そして、彼女の言葉を聞き逃さないよう神経を集中させ、相槌を打つことをせずにあおいの話に耳を傾けた。

 立ち昇る紫煙が室内を満たし、少しずつ燃える灰の音が空気を僅かに震わせる。あおいが話している間に佐知子は二回、零れかけた灰を灰皿に落とした。そして三回目に手を伸ばした時、彼女は全てを語り終えた。

 佐知子は脳内で話を整理しながら口を開く。

「そう。あなたは正式に《ヴィア》の暗殺者として復帰した。そして、先日の任務で《M‐R》のモリカミという男に命を狙われ手傷を負ってしまったと、そういうことね。……傷の程度はどのくらいなの? 病院には行った?」

〈えっと……左肩と右足の太腿と踵、それと頬です。病院には行ってません。その……行ったら警察沙汰になるからって止められて、仲間が手当てしてくれました〉

「結構手ひどくやられたのね。傷は深いの?」

〈大丈夫です。しばらく痛むだろうけど、それほど深くはないって。でも、今朝は起きたら少しふらふらして、大事をとって休むことにしたんです〉

「学校はどうするの? あちこちに包帯していったらいろいろと面倒よ」

〈傷は肩と太腿だから、制服で隠せます。頬はさすがに無理だけど、転んだって言えばきっと大丈夫です〉

「そう。まあいずれにせよ、手当てはまめにすることね。化膿したら後が厄介だし」

 あおいは素直に頷いた。早急に手当てをしたなら問題はないだろう。万が一のことがあれば《ヴィア》が何とかするだろうし、頼まれればの話だが、佐知子も腕の確かな闇医者を紹介することはできる。怪我のその後は手当てと本人の治癒力次第だ。  

「話を変えるけど、あなたを襲ったモリカミって男、何者なの? 詳しく教えてくれる?」

 あおいは少し沈黙した後、小さな声だが確かな口調で説明した。

〈モリカミトモヒコ。《M‐R》の暗殺者だって言ってました。あたしのことをよく知っている、あたしを殺しに来たって〉

「で、あなたは当然知らないわけね」

〈はい……。突然気配もなく背後に立たれて、反応が遅れてしまって。あたしに隙があったっていうのもあるけれど、だけどあの人は全く隙がないっていうか、何ていうか……〉

「相当腕の立つ暗殺者ってこと? 少なくともあなたはそう感じたのね」

〈はい。よく分からないけれど、とても危ない人でした〉

 佐知子はあおいが電話をかけてきた理由を理解した。受話器を耳に当てたままメモパッドを引き寄せると、ボールペンで『モリカミトモヒコ M‐R』と書く。

〈あの人は、あたしをよく知ってるみたいでした。前にあたしと戦ったことがあるみたいなことも言ってました〉

「あなたの消えた記憶を取り戻す鍵になるかもしれない……そういうことね」

〈調べてもらえますか?〉

 佐知子は短くなった煙草を灰皿に投げ捨てた。

「いいわ、受けましょう。依頼にプラスしておくわ」

〈ありがとうございます〉

 あおいがほっと肩の力を抜いたのが分かった。佐知子は思わず笑みを零してしまうが、すぐに表情を引き締める。

「相手が《M‐R》ということは、刺客なのかしら。あなたへの刺客か、それとも《ヴィア》そのものへの刺客なのか……。あなたは何か聞かされてる?」

〈いえ、何も……。あの、佐知子さん。ちょっと変なこと訊いていいですか?〉

「何?」

 あおいは口を閉ざして少し逡巡した後、躊躇いがちに訊いてきた。

〈あの……《ヴィア》ってどんな組織なんですか?〉

 二本目の煙草をくわえようとしていた佐知子は、思わずぽとりと落としてしまう。

〈ごめんなさい。あたし、未だによく知らなくて。何が何だか分からないまま来ちゃって、今更もう誰にも訊けないというか、その……ごめんなさい〉

 あおいはしどろもどろに言い訳し、最後の言葉は消え入ってしまった。まるで両親に悪戯を咎められた子供のようだ。佐知子はふっと笑った。

「いいわ、教えてあげる」

 佐知子は膝に落とした煙草を灰皿に捨てると、受話器を右手に持ち替える。

「《ヴィア》は日本社会の裏に深く根付いた闇組織の一つよ。元々は第二次世界大戦の時代に、水島グループ創設時の幹部が作った組織なの。表向きは大手建設業だけど、裏では武器売買や麻薬売買といった仕事をしていたそうよ。その頃から《ヴィア》は闇社会のトップ的存在で、そっち系の人間で《ヴィア》の名を知らない者はいないわ。水島グループそのものは、戦後の高度経済成長とともに急激な発展を遂げた、今の日本の建設業界の重鎮とも言える存在。あなたのお父様、水島総一朗は創設者の長男であり、《ヴィア》を統帥する闇社会の申し子。彼に逆らう者はまず容赦なく排除され、その力は闇社会だけじゃなく、政界や経済界にも影響を及ぼすと言われているわ」

〈政治や経済……?〉

「社会っていうのはね、綺麗事だけじゃ成立しないの。明るいところには必ず影が存在する。政治や経済も同じ。表向きは正義だったり真摯だったりしても、その裏のどこかには必ず闇の力が存在している。当たり前のことよ。そしてそれは今や、日本社会の暗黙の了解でもある」

 佐知子はちらりとマグカップに目をやった。一瞥しただけで、コーヒーはもはや飲める代物でないことが分かる。

「《ヴィア》はさっき言った武器売買や麻薬売買なんかもそうだけど、今は暗殺業でも有名よ。とにかく危険な組織だから、警察もまともに関わりたがらないわ。触らぬ神に祟りなしってこと。まあ《ヴィア》は神なんかじゃなく、ただの諸悪の根源だけどね」

 受話器の向こうで、あおいが神妙に聞いているのが手に取るように分かる。しかしそれにはあえて触れずに、佐知子は話を続けた。

「そんな《ヴィア》と対立している組織が《M‐R》。《M‐R》の歴史は《ヴィア》より古くてね、はっきりとはしないんだけど、幕末から明治にかけて存在した自警団の今日の姿じゃないかって言われているの。古くから政府の裏番犬みたいな役割をしていた輩の集団って思ってくれたらいいわ。《M‐R》は武力や圧力で日本社会に影響を及ぼしてきた《ヴィア》と違って、政府や社会にとって余計な害虫を粛清する組織なの。勿論、たとえ元は自警団でも警察寄りってわけではないわ。彼らも暗殺業を一つの仕事としてるけど、《M‐R》に害なすというよりは政府に害なす輩を暗殺するの。まあ、やばすぎて警察が関わりたがらないってとこは同じかもしれないわね」

〈政府に害なす……?〉

「そう。分かる? つまり、《ヴィア》は自分たちの目的のために闇仕事を行うけど、《M‐R》は政府や社会のために裏で暗躍している組織なの。二つの組織はそれぞれ異なる目的を掲げている。だからこそ敵対しているの」

 さすがに喉が渇いて、冷えたマグカップに手を伸ばした。一口含むとその不味さに飲む気が失せて、新しい煙草に手をつける。佐知子は飲み物で喉を潤す代わりに、吸い慣れた紫煙で肺を満たした。

「言うまでもないけど、どちらも正義の組織じゃないわ。あくまで悪よ。今のところこの二つの組織が闇社会のトップを争っていて、目的遂行のためにいがみ合っているの。あなたはその《ヴィア》のトップの娘。……どう? 大体分かってもらえたかしら」

 そう言って佐知子は煙を深く吐き出す。あおいはしばらく沈黙した後、

〈……あたしはどうして、記憶を失くしてしまったんでしょう〉

 独り言のような響きの問いだ。佐知子は少し考えて、

「さあね。何かの事故か、事件に巻き込まれたためか、はたまた他の理由なのか……。いずれにしろ、あなたが思い出さないことには何も分からないわ。あれから何か思い出したことはある?」

〈いえ……〉

「そう。まあでも、思い出そうとしてすぐ思い出せるものでもないでしょうし、とりあえず、鍵が一つ見つかっただけでも良しとしなさい」

 そう言いながら、佐知子はメモパッドに書いた『モリカミトモヒコ』をボールペンでぐるぐると囲む。そして、その文字の下に何本も線を引いた。

「対象の名前が分かってるなら調べるのは容易いわ。この男が何者なのか、詳しいことが分かったら連絡してあげる。まあ万が一偽名とかだったら少し時間がかかるかもしれないけれど、それはご愛嬌ということで。あなたもくれぐれもお大事に」

 あおいが丁寧に礼を言い、二人の電話は終わった。

 佐知子は受話器を置くと、電話機を元あった位置に戻す。そしてマグカップを手に立ち上がり、中身を流し台に捨てて洗うと、コーヒーメーカーに豆を入れてスイッチを押した。鈍い機動音とともにランプが点灯し、しばらくするとかぐわしい香りが空気に染みていく。

 佐知子はコーヒーメーカーを見下ろして、その香りをゆっくりと吸い込んだ。



 弁当をあおいが持っていくから校門前で待っていてほしいと、雪花からメールが届いたのは四時間目の授業中だった。それまで弁当を家に忘れてきたことすら、尋人は気付いていなかった。今朝は珍しく寝坊して、慌てて家を飛び出したから、弁当を気にかける暇がなかったのだ。

 尋人は授業が終わると、友人たちに「先に食べててくれ」と告げてから校門に向かった。

 真っ昼間の校門は人気がなく、尋人は壁に凭れて空を仰いでいた。

「尋人」

 名前を呼ばれ顔を上げると、青の包みの弁当箱を抱えたあおいが寄ってくるところだった。尋人は笑顔で応えたが、彼女の顔を見て思わず息を呑む。

「どうしたんだ、その頬」

 その硬い声音に、あおいはきょとんと目を丸くする。そして得心がいったように頷いて、右頬に貼った四角形のガーゼに手を当てる。

「ちょっと転んでしまったの。でも大丈夫。びっくりさせたら悪いと思って黙ってたの。ごめんね」

 あおいは申し訳なさそうに言う。尋人は首を振った。

「いや、驚いただけだから。弁当、届けてくれてサンキュ」

 理由を知ってほっとしたが、胸の奥はまだひやりとしたままだ。本人はそう言っているが、きめ細やかな色白の肌に貼られたガーゼは見ていて痛々しい。よほど派手に転んだのだろう。気になったが、追及するのは無粋だと思い、尋人は別の話題を振ることにした。

「あおい、昼は食ったのか?」

「ううん、まだ。これから雪花と食べるの」

 そう言ってあおいは笑う。その表情を見て尋人は、そういえば彼女と会うのは数日ぶりだと思い当たる。 

「最近、雪花と仲良いの?」

「うん。よく一緒にいるの。いろいろ気遣ってくれたり、分からないことを教えてくれたりして」

「そうか。それはよかった」

 恋人が妹と仲が良いと聞いて、尋人としても安心した。クラスに馴染めているだろうかと心配していたが、それはどうやら杞憂に終わりそうだ。あおいとしても、話し相手が一人でもいたら心強いだろう。

「あれからどう? 向日葵、元気?」

「うん、すごくいい仔なの。いつもあたしの帰りを待っててくれて、帰ってくるとすごいじゃれついてくるの。でも最近、ソファで爪を研いだりするから大変。バスタオルとマット、三枚ぐらいボロボロにしちゃった。また会いに来て。向日葵、きっと喜ぶわ」

 あおいは朗らかに言った。その表情はとても明るく、一片の曇りもない。彼女がこんな顔を見せるようになったのはつい最近のことだ。知り合って間もない頃は憂いげな表情ばかりだった。微笑んでいてもどこか悲しげで、心からの明るさは陰を潜めていた。そうさせる原因はきっと、あの雨の夜の出来事と、失われたまま戻らない記憶にあるのだろう。

 尋人はふいに言いようのない不安に駆られた。脳裏にあの雨の夜、縋りついて泣き崩れたあおいが目に浮かぶ。そのせいか、無意識のうちに言葉が口から出た。

「……最近どう?」

 あおいはきょとんと首を傾げる。

「記憶……何か思い出したこととか、ある?」

 それまで明るかった彼女の表情に一瞬痛みが走った気がした。あおいは少し目を伏せて、

「今はまだ、何も思い出せない。だけど大丈夫。尋人がいるから」

 その翳を追いやるように笑い、あおいは確かな口調で言う。

「尋人がいるから、あたしは大丈夫。何も怖いことはないの。思い出せなくても不安じゃない」

 その微笑は迷いを消し去ろうとしているのか、それとも自分に強くそう言い聞かせているのか、尋人には分からなかった。その言葉の奥にある本心を量ることはできない。尋人にできるのは、あおいの言葉を信じることだけだ。

 尋人は不思議そうに見つめてくるあおいを抱き寄せた。あおいは少し驚いたように瞬きするが、すぐに目を閉じて尋人の胸に頬を埋める。体を離して見つめ合うと、あおいは照れくさそうにはにかんだ。

「早く戻らないと、雪花が待ちくたびれる」

「うん。……またね」

 あおいは名残惜しそうにしながら、儚くも穏やかな微笑を残して去っていく。その姿が見えなくなるまで、尋人は校門の前から動かなかった。

 やがてあおいの姿が中等部の校舎に消え、それまであった空気までもが溶けて消えると、尋人はようやく高等部の校舎に戻っていった。

 誰よりも愛しいと思うのに、心はすぐ傍にあると確かに感じるのに、なぜこんなにも不安になるのだろう。形の見えない何かが訳もなく恐ろしく思えて、知らず知らず危うい何かに足を突っ込んでいるような、言い知れぬ不安が胸の奥を静かに蝕む。

 それを認めてしまうことがひどく怖くて、心に押し迫るように広がっていく靄から目を逸らし、尋人は気付かぬふりを貫くことにした。



 高等部の制服を着た少年と、中等部の制服に身を包んだ少女が、短い抱擁を交わして去っていく。

 その一部始終を中等部校舎の五階の窓から見下ろしていた男は、微笑ましい光景に唇を緩めた。二人は死角から見下ろす彼に気付くことなく、それぞれが在籍する校舎の中に消えていく。

 耳に当てた携帯電話の向こうから、相手が急かすように名前を呼んだ。

「ああ、聞いているよ。少しよそ見をしていただけだ」

 そう言って男は腕を組み直し、窓ガラスに凭れかかる。

「今どきの若者は純粋だなと思って」

 笑みを含んではいるが、どこか斜に構えた響きだ。すらりと無駄のない体躯をした長身の男は、グレーのスーツに藍のネクタイを締め、特別教室棟の廊下の隅で電話をしている。

 昼休みで校内は賑やかだが、特別教室棟には誰一人としていない。尤も、この五階は視聴覚室と準備室、そして屋上に繋がる階段しかないために、音楽室や図書室といった使用頻度の高い教室がある階に比べて利用者がいない。おかげで真っ昼間だというのにまるで夜のように静かだ。人目を忍んで秘密の連絡をするには好都合である。

「おかげさまでさっそく今日から勤務だ。よほど人手が足りていないんだろう、書類審査も面接もあっという間だったよ。常勤といっても担任は持たないから、必要最低限のことさえしておけば大丈夫。本業のほうに障りはない。ボスにも許可は取ってある」

 電話越しに懸念の言葉が聞こえてくる。

「何だ、その台詞は。どうやら僕は随分と信用されていないらしい。心外だね」

 そう言うと相手は慌てて否定する。

「分かっているよ。冗談さ。君の懸念は尤もだ。だが単なる杞憂にすぎない。僕の能力を見くびってもらったら困る」

 男は乾いた笑みを漏らした。

「首尾は上々だよ。全て計画どおりだ、心配はない。万が一妨げる者がいたとしても、排除すれば問題ないだろう。思わぬ頓挫からようやくここまで来たんだ。楽しませてはくれないか」

 それでも相手はなかなか引き下がらず、懸念の言葉ばかり募らせてくる。男は少し苛立ち、突き放すように告げた。

「心配性だな、君は。僕が問題ないと言っているんだから問題ない。僕を誰だと思っているんだ」

 相手はようやく口を閉ざす。男は語調を変えて、取り成すように言った。

「彼女の現在の状況を調べ上げてくれたのは君だ。その働きには感謝している。だが、ここから先は僕の仕事だ。君は一切手を出さないでくれ」

 相手は渋々納得し、電話を切った。男は懐に携帯電話をしまうと口端を吊り上げた。



 あおいが教室に戻ると、雪花が机を並べて待っていた。

「お帰り。遅いよー、待ちくたびれちゃった」

 あおいは席に着いて、鞄の中からコンビニで買ったパンと紙パックの紅茶を取り出す。雪花は弁当を机に広げ、「いただきまーす!」と手を合わせて食べ始めた。

「机が隣同士だと、お昼にくっつけやすくていいよねー。ねえ、窓際の席ってお昼から眠たくならない? あたしはまだなったことないけど、リカとか立石とか、お昼過ぎたら寝だすんだもん」

 あおいは頷きながら卵のサンドイッチを少しずつ頬張る。雪花は二段重ねの弁当箱の、握り飯の段から食べていた。

「ねえあおい、尋兄ちゃんとはどう?」

「どうって……」

「仲良くやってる? 喧嘩とかしてない?」

 あおいが小さく頭を振ると雪花はほっとした表情で、

「うまくいってるならよかったあ。ラブラブなんだねっ」

「ら……?」

「仲良しだねってこと!」

 卵のサンドイッチを食べ終わったあおいは、次にミニクロワッサンの袋を開ける。雪花は握り飯を食べ終え、おかずをぱくぱくと口に放り込んでいく。

「尋兄ちゃん、優しいけどあれでいて結構不器用なんだよね。女の子の気持ちに鈍感なとこあるし、健兄ちゃんほどものをはっきり言わないし。外見がかっこいいからもてるけど、後輩の子の憧れをスルーしちゃって泣かせるなんてこと、何度かあったんだよ」

「……でも、尋人は優しいよ」

「うん。優しいよ、尋兄ちゃんは。でも、優しすぎたりするからなあ」

 クロワッサンを食べながら、あおいは首を傾げて瞬きを繰り返す。

「ま、ラブラブみたいでよかった。安心したよ。尋兄ちゃん、あまり多くを語るタイプじゃないから心配してたの。ほら、妹としてはお兄ちゃんの恋路がうまくいってほしいって思うのは当然じゃない?」

 二段の弁当箱を空にした雪花は、ペットボトルのお茶をごくごくと飲むと、「ご馳走さまでしたーっ」と手を合わせる。あおいはその隣で、三個入りのミニクロワッサンの一個目をまだ頬張っていた。雪花は机に頭を伏せ、大きな欠伸をする。

「眠たいの?」

「ううん、お腹いっぱいで少し眠いだけ」

「寝てていいよ」

「ううん、寝ない。だってあおい、食べてるじゃない」

 雪花は上目遣いにあおいを見て笑う。

「雪花は優しいね」

「そう?」

「うん。優しいし、明るいね」

「そうかな」

「だって、いつも優しいし、いつも笑ってるじゃない」

 あおいの言葉に、雪花は考えるように視線を動かす。

「前から思ってたの。いつも楽しそうに笑ってて、みんなと楽しそうにお喋りしてて、すごいなあって。……あたしにはできないから」

「あおいは笑えないの?」

 あおいはミニクロワッサンを噛む口の動きを止める。

「分からないの。笑い方とか、周りとの接し方とか。あたしには分からないことが多いし……あたしそのものも、よく分からない」

 あおいは紙パックのストローをくわえ、少し含んでパンを飲み込む。雪花は短い沈黙の後、微睡むように目を閉じて、

「自分のことが百パーセント分かる人間なんて、きっといないよ」

 あおいは雪花を見つめる。

「あおいがそう言ってくれるのは嬉しいけど、あたしはいつも楽しいわけじゃないから」

「え……」

 雪花は小さく瞬きすると、寝言を呟くように言う。

「確かにいつも明るくしてようとは思ってるけど、ずっとそればっかじゃないから。家族とか友達とか先生とか、みんなあたしのこと、明るくて元気な子だって言うけど、本当はそんなんじゃないから。あたしはみんなが思ってるほどいい子でもないし、明るい子じゃないよ」

 ミニクロワッサンを食べるあおいの手が完全に止まる。

「誰も知らないだけ。……誰にも、見せてないだけ」

 消え入るように呟くと、雪花はそのまま眠ってしまった。すうすうという小さな寝息が、騒々しい教室の空気に溶けていく。あおいは欠片になったミニクロワッサンを口に入れた。

 黒板の上のスピーカーから予鈴が響く。その途端、眠っていた雪花が飛び起きたので、あおいはぎょっと彼女を見やった。

「はぁー、十分間だけ寝たぞーっ! ……ん? あおい、どうしたの、ぽかんとしちゃって。まだ食べれてないの? おやつにとっとけばいいんじゃない?」

 にかっと笑う雪花は、唖然としたあおいを不思議そうに見つめる。あおいはミニクロワッサンを片付けると、紙パックの紅茶を飲み干して後ろにあるゴミ箱に投げ入れた。

 それまで賑やかに騒いでいたクラスメイトたちが、机を元に戻して次の授業の準備を始める。あおいと雪花も机を離し、昼食の後片付けをした。

「ねえあおい、英語の宿題やってきた? あたし、やったことはやったんだけど、三番がいまいち分かんなかったんだよね。今日当たったらどうしよう。あの先生、いつも気紛れに当てていくからやんなっちゃう」

 あおいは鞄から英語の教科書とノートを出し、今日の授業でやる予定のページを開いた。そしてぼうっと空を見ていると、すかさず雪花が覗き込んでくる。

「……あれ、あおいってば宿題やってないじゃん」

「だって、分からないもの」

 ぽかんと口を開ける雪花に、あおいは気まずそうに目を逸らして返す。

「やばいって。あの先生、宿題してこないとめっちゃ機嫌悪くなるんだよ。あたしの見せたげるから、今のうちに写しちゃいなよ。それならもし当たった時でも答えられるでしょ」

「壁際の一番後ろの席よ。当たることないんじゃないかな」

「だめだめ。あの先生、その時のフィーリングで当てていくんだから。いいから写しちゃいなって」

 雪花はノートを渡すと、写す箇所をシャープペンでぐるぐると囲んでみせる。あおいは渋々それを受け取った。丁寧な字でまとめられた雪花のノートを、一語一句そのまま自分のノートに書き写していく。そうしているうちに本鈴が鳴った。

 教室のドアが開き、出席簿と教科書を手にした男性教師が教壇に立った。委員長が号令をかけて全員が起立し、授業開始の挨拶をする。あおいは形だけのお辞儀をすると、誰よりも早く椅子に座った。

「えー、今日はまず、この学校に新しく英語教師として赴任された、新しい先生を紹介するぞー。今日からこのクラスの英語を新しく担当される先生だ」

 前のほうに座っていた生徒たちが、「先生、日本語おかしい」と笑い合う。当の教師は意に介すことなく、廊下にいる人物に向かって、教室に入ってくるよう促した。そして、グレーのスーツに身を包んだ若い男性が、すたすたと入ってきて教壇の横に立つ。生徒たちがどよめいた。

「お前たち、静かにしろー。今日からこの学校の新しい先生としていらっしゃった、英語の森上智彦先生だ」

 あおいは凍りついた。雪花がわあっと歓声を上げて、周囲の女子たちと喋り出す。

「ねえちょっと、あの先生かっこよくない?」

「三十前後? でも意外に若く見えるー。背高いし、何か芸能人みたい」

「中等部で一番美形じゃない? 指輪してないよ。独身なのかな」

 教室内のざわめきが一層大きくなる。

「こらー、お前ら静かにしろって言ったろー。えー、森上先生は先日結婚退職された井上先生の代わりに、急遽お勤めいただくことになった先生で、T大教育学部を出られた優秀なお方でー……」

 教室から感嘆の声が上がる。ざわめきが収まってきたのを見計らって、自己紹介を促された森上が教壇に立った。

「初めまして。皆さん、こんにちは。今日からこちらでお世話になることになった、森上智彦といいます。担当科目は英語です。中途半端な時期ではありますが、これから皆さんと一緒に授業を行っていきたいと思います。どうぞよろしく」

 森上が一礼すると、生徒たちが拍手をした。雪花は惚れ惚れとした眼差しで森上を眺め、

「かっこいい先生だねー、あおい。……あおい?」

 あおいは乱暴に立ち上がった。がたんという大きな音に、拍手に包まれていた教室内が突如しんと静まり返る。あおいは机に手を突いて森上を睨みつけた。

「あ……あおい?」

 突然のことに驚いた雪花が目を丸くする。生徒たちの視線があおいに集中した。紹介をした教師が泡を食った顔で絶句している。

 しかし教壇に立つ森上はただ一人、動揺することなく悠然とあおいを見返す。

「どうして……」

 あおいの凄むような低い唸りが、鋭さを帯びて森上に投げつけられる。

「どうしてあなたがここにいるの」

 その場にいる誰もがぎょっとした顔で、あおいと森上を交互に見やる。張り詰めた空気に耐えかねた何人かの生徒がぼそぼそと話し出す。それを見て我を取り戻した教師が、初めてあおいを注意した。

「こら水島、いきなりどうしたんだ」

 あおいはそれに答えることなく、ただ森上を刃みたく睨み続ける。そして語気を強めて繰り返した。

「どうしてあなたがここにいるの」

 教室内の空気が再び凍りつく。雪花が強張った表情で少し身を引いた。沈黙を貫いていた森上が、ふっと頬を緩めて爽やかな笑顔をあおいに向ける。

「久しぶりだね、あおいちゃん」

 周囲が度肝を抜かれたように息を呑む。森上はそれを全く気にせずに、あおいにもう一度笑いかける。あおいの瞳の奥がぎらりと燃え上がった。



 夕陽が射し込む所長室で、佐知子は所長席の椅子に深く沈んでいた。

 デスクには仕事関係の書類が散らかっており、報告書のファイルが山積みになっている。灰皿には何本もの吸殻が積まれ、マグカップのコーヒーは冷え切って泥のような液体と化していた。

 佐知子は手元にある一枚の書類を手に取ると、深く嘆息して力なく目を伏せた。凝り固まった肩にさらに重石が載ったようで、疲労感とやりきれなさが全身を支配する。目を閉じたまま、佐知子はそれをデスクに戻した。

 あおいに依頼されたモリカミトモヒコを調べるのは、そう難しいことではなかった。彼女から電話があったその日中に突き止められた。有能な調査員なら朝飯前と言っていい仕事である。

 だが、その調査結果が佐知子の心に重くのしかかる。調査員としての冷静さや仕事意欲は全て消え失せ、滅多にない衝撃で心臓が止まりかけたほどだ。こんな気持ちは久方ぶりで、ぐったりと途方に暮れてしまっていた。

「森上智彦、三十歳。本籍K県、T大教育学部卒、青葉学園中等部新任教師。そして、《M‐R》で随一と言われる有能な暗殺者……か」

 佐知子はマウスを操作してデータを立ち上げる。手元にある書類と同じものが映し出されると、その顔写真をクリックして拡大した。

 焦げ茶に近い色の短い髪に、目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ち。優しげな形をした目、すっと引き締められた唇。その瞳はまっすぐ前を向いているが、ここではないどこかを見つめているような印象を抱かせる。

「これも試練、なのかしら」

 佐知子はディスプレイの側にある写真立てを取り、憂いの眼差しで見つめた。愛おしげに指でなぞり、深々と長いため息をつく。そしてそれを手にしたまま、痛みを堪えるように目を伏せて、首に下げたシルバーリングのネックレスを握り締めた。

 ディスプレイに映った森上の写真が、悲しげに瞑目する佐知子を見つめている。そして写真立ての中では、彼と瓜二つの面差しをした青いポロシャツ姿の男性が、淡い紫のワンピースを着た今より若い佐知子の肩を抱き、幸せそのものの顔で笑っていた。

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