第3章 動き出す非情
目を真っ赤に腫らしたあおいを連れて、尋人は佐知子の事務所に向かっていた。失くした記憶を思い出したと言い、取り乱したあおいを連れていく場所といえば、そこしか思い浮かばなかったのだ。本来なら自分の力で慰めてやるべきなのだろうが、情けないことにかけるべき言葉が全く浮かんでこない。それに、彼女は単に悲しいからではなく、人を殺したことを思い出したために泣いているのだ。とても自分の手には負えないと思った。
尋人の後ろをついてくるあおいは、先程からずっと瞼にハンカチを当てている。幾分か落ち着きを取り戻したようだが、泣き止んだわけではないらしい。俯きながら歩くその姿は、突如遭遇した恐怖に怯えるか弱い少女そのものだ。あの雨の夜に目撃した、能面のような顔で殺戮を行った姿とはとても結びつかない。そのことに尋人はひどく戸惑っていた。疑問ばかりが渦巻いて、ため息すらつく気になれない。二人は事務所までの道のりを無言のまま歩いた。
ビルに辿り着くと、事務所にはまだ灯りが点いていた。二人はエレベーターに乗って三階へ向かう。そして降りると、尋人はあおいを促して歩を進めた。ちらりと窺ってみると、あおいの目は相変わらず真っ赤だが、涙は乾いているようだった。
事務所の中に入ると、所長席に座って煙草をくわえている佐知子と、デスクで残業中の美弥が楽しげに談笑していた。他の社員の姿は見えない。来訪に気付いた佐知子が、
「あら尋人、どうしたの? 何か忘れ物?」
にこやかに尋ねた佐知子は、尋人の隣にいるあおいの存在に気付くと一瞬で表情を引き締める。そして、射抜くような目であおいを見つめた。
「あの、姉さん」
尋人が言いかけると、佐知子は軽く手を挙げて制する。そして恐ろしいほど静かな声で、
「思い出したのね」
その言葉は尋人ではなく、あおいに向けられていた。あおいは小さく頷く。美弥が驚いた顔で口に手を当てた。
「話を聞きましょう。一緒に来てくれる?」
佐知子の言葉にあおいが再び小さく頷く。佐知子は煙草を灰皿に押しつけて立ち上がり、思わず腰を浮かす美弥に、
「いいわ美弥、所長室に行くから。悪いけど、終わるまで尋人と二人、ここで待っててくれる? 電話番をよろしく」
美弥は「分かりました」と言って座り直す。尋人は佐知子の言葉に当惑した。
「姉さん、でも」
「いいの。彼女はどうやら、あたしに話があるみたいだから。違う?」
こくりと頷いたあおいを見やると、佐知子は後をついてくるよう促した。
「そんなに心配しなくても、取って食ったりはしないわよ」
冗談めいた口調で言って、佐知子は事務所を出ていく。あおいは尋人に小さくお辞儀し、小走りでその後を追った。尋人はただ見送るしかない。
「大丈夫よ尋人君、所長ならきっと悪いようにはしないわ」
美弥の気遣いの言葉に、尋人は無理に笑みを浮かべて頷いてみせる。そして自分のデスクに座ると、疲れ果てたように突っ伏した。
時刻は二十三時に近付こうとしていた。
所長室はこざっぱりとしていた。ブラインドが下がった窓と、パソコンや電話機が備えられたデスク。背の高い銀色の書棚が並ぶ右側の壁と、真っ青な海の油絵が飾られた左側の壁。そして観葉植物とコピー機に、淡い紫色の応接セットと焦げ茶色のテーブルがある。
佐知子はデスクに凭れ、懐から煙草を出して火を点ける。あおいはソファの近くに立ち尽くした。
「時間は気にしなくていいわ。ゆっくり話しましょう」
白い煙を吐き出しながら佐知子は言う。
「尋人がいたほうがよかった? あなたは嫌だろうと思って遠慮してもらったんだけど」
「いえ、それでいいです。聞かれたくない、です」
「でしょうね」
佐知子はベージュのジャケットを脱ぐと、ばさりとソファに放る。そして手慣れた仕草で煙草を吸いながら、胸まで届くソバージュの髪を肩に払いのけた。
「何を思い出したのか、詳しく話してくれる? 些細なことも全部、包み隠さずに」
あおいは一瞬目を泳がせた後、
「……あの雨の夜、あたしは街を歩いていました。目覚めてからずっと、あたしはあたしが分からなくて。何も覚えていないことが不安で、怖くてたまらなくて。どうしても、あたしという確かなものがほしかった。街を歩いたら、それが見つかるかもしれないと思ったんです。根拠なんてないけれど、きっと何かが分かる気がした」
あおいの目が細くなる。
「あの夜、あたしはT田の街を歩いていました。辺りは真っ暗で雨が降っていたけれど、そんなことはどうでもよくて。ひたすら歩いたら何か見つかるかもしれない、あたしを知っている誰かに出会えるかもしれない……そう思って歩いたけれど、何もなかった。思い出すものも、知っているものも何もなくて。どれだけ歩いても見つからない、分からない、どうしようと思って雨宿りしていた時、知らない男の人たちに囲まれて」
佐知子の目が細くなる。
「その人たちはあたしに逃げるなと言って、どこかへ引っ張っていこうとしました。あたしは暗くて広い場所に連れていかれて。……突き飛ばされました。逃げ道を塞がれて、ナイフを向けられました。あたしは怖いと思った。すごく怖くて、死んじゃうと思った。だから、男の人が覆い被さってきた時、それを突き飛ばして──」
ひゅっという息の音とともに、あおいの言葉が止まった。途端に表情が歪み、瞼から涙が溢れ出す。
「殺したのね、彼らを」
その後を引き取った佐知子の言葉に、あおいは小さく頷いた。
「……あたし、警察に行きます」
「行ってどうするの?」
「自首、します。自首して、罪を償います」
「残念だけど、それは無理だわ。捜査は既に終了してる。今更あなたが自首したところで事態は何も変わらないし、これ以上事件が動くこともない。あなた思いのお優しい方々が、裏でいろいろと暗躍してくれたお陰でね」
「だけど」
「警察は偽装工作された事件現場から、あなたに結びつく物証を見つけることはできなかった。その結果この事件は、揉め事の末に起こった仲間同士での殺し合いとして、その日のうちに処理された。この状況下であなたが自首したとしても、証拠不十分で帰されるのが落ちよ。警察にとってこの事件は既に解決した過去のもの。事の真相を知る者は、被疑者のあなたと唯一の目撃者である尋人、そしてあたしの三人だけ」
「でも」
「あなたに罪を悔いる気持ちはあるの?」
「あ、あります」
「なら、どうして全てを忘れてしまったの?」
佐知子は蒼白になるあおいを見据えたまま、煙草の灰も落とさずに淡々と続ける。
「罪の意識があるなら、どうして記憶を失くしたの? 人を殺すことは罪深いわ。その罪から逃れようとすることも、自殺して楽になろうとすることも、どちらも罪深い。だけどね、罪そのものを忘れようとする心も十分罪深いのよ」
灰色から白に変わっていく灰がカーペットに零れ落ちる。佐知子は灰皿にようやくそれを落とすと、
「罪を忘れるということは、償いを放棄するのとほぼイコールよ。あなたの心は罪の重さに耐え切れずに、一時的にせよその記憶を消去した。その無意識の判断は、あなたを少しは救ったかもしれない。でも、それは逃げたも同じよ。たとえあなたがそう思っていなくても、事実の下では変わりないわ」
佐知子は深く紫煙を吸い、あおいを見据えて言い放つ。
「人は誰しも犯した罪からは逃れられない。自分の意志であってもそうでなくても、一度でもそこから目を逸らした者に、償いを口にする資格はないわ」
あおいの目から涙が一筋、頬を撫でて零れ落ちる。
しばしの沈黙の末、佐知子があおいから目を逸らした。
「ま、それはずっと忘れてた場合の話よ。思い出したことは褒めてあげる。でも、今言ったとおり捜査は終了しているわ。もう誰も、あなたを法の下では裁けない」
「どうすればいいんですか……」
絶望的に呟かれた言葉に佐知子は答えなかった。再び沈黙が流れる。
佐知子は短くなった吸殻を捨てると、新しい煙草に火を点けた。
「あなたのこと、少し調べさせてもらったわ」
佐知子は煙草を口から離すと諳んじるように、
「水島あおい。一九九〇年生まれの十七歳。青葉学園中等部三年に在籍。しかし、本来ならば高等部二年のはずだった。……元々から記憶喪失って聞いたけど、本当に忘れてしまっているの? 自身の生まれも過去についても」
あおいは小さく頷いた。
「そう」
「……疑わないんですか?」
「嘘をついてる人間とそうでない人間の区別ぐらい、簡単につけられるわ」
そう言って佐知子は煙を深く吸い込む。
「水島家は県内きっての資産家で、父親は建設業国内大手の水島コーポレーション会長、水島総一朗。あなた、《ヴィア》の暗殺者ね」
「……そう、言われました」
「誰に」
「執事、という人に」
「そう」
「それで、これを渡されました」
あおいはスカートのポケットから拳銃を出して佐知子に見せる。
「でも、何も覚えていないのね」
あおいは小さく頷いた。
「だけど、それの扱い方は知っている」
「……はい」
佐知子は拳銃から目を逸らし、灰皿に煙草の灰を落とす。
「でしょうね。あなたは《ヴィア》の娘だもの」
「……佐知子さんは、《ヴィア》が何だか知っているんですか?」
「よく知っているわ。仕事柄、個人的にも。あなたは知らないの?」
「……はい」
「そう」
佐知子は煙草を口から離し、腕を組んであおいを見据える。
「あなたが《ヴィア》の娘ときたら、過去に何をさせられていたかなんて容易に想像がつくわ。恐らくあなたは《ヴィア》の暗殺者として、組織の命で何人もの人間を手にかけてきた。あなたは過去の記憶を失っているけれど、幼い頃からその身に叩き込まれた殺人術だけは忘れていない。何とも皮肉な話ね」
「あたしは、どうしたらいいんですか」
佐知子はしばし沈黙した後、
「あなたは《ヴィア》の娘。記憶があろうとなかろうと、それは永遠に変わらない。なら、あなたはこれからもきっと罪を犯すわ。あなたは何も知らないと言うけれど、ずっと無知のままではいられない」
あおいは唇を噛み締める。
「あなたはきっと《ヴィア》から逃れられない。いいえ、《ヴィア》があなたを逃さないわ。恐らく過去のあなたにとって、生きることは誰かを殺すこととイコールだった。あなたの中に今もある殺人衝動が、それを証明している」
「そんな」
「あなたは《ヴィア》の娘として生きてきた。たとえ過去の記憶がなくても、その本質は未だ失われていない」
「そんなこと、ないです……っ」
「そうかしら。あなたは彼らを殺す時、ほんの少しでも罪悪を覚えた? 彼らが流した血を見て、哀れみや後悔を感じた? 今は心から悔いているとしても、彼らを殺した時のあなたは本当に罪悪を感じていたのかしら?」
あおいは言葉に詰まった。
「そういうことなのよ。あなただって本当は気付いているでしょう? あなたの中にはあなたも知らない、あなた自身も抑えきれない殺人衝動が隠れている。それは《ヴィア》が植えつけたもの。ちょっとやそっとのことで消えるものではないわ。現にあなたは過去の記憶を失っているのに、人を殺すことだけは覚えていた。今回の事件はその延長線上で起きたようなものよ。たとえそれがあなたの望まざることだったとしても、罪深いことに変わりはない」
あおいは小刻みに震える手をぎゅっと握り締めた。
「あなたにそれを受け止めるだけの覚悟はあるの? 罪を償うということは、あなたの中の殺人衝動を消して生きていくということ。それが本当にできる?」
二人の間に長い沈黙が流れた。
「……お願いがあります」
「何かしら」
あおいは潤んだ瞳のまま、佐知子をまっすぐ見つめて細い声ながらも明瞭に告げる。
「あたしの過去を、調べてください」
「調べてどうするの?」
「あたしはあたしを知らなきゃいけない。あたしはあたしから逃げられないのなら、向き合うしかないです。確かに佐知子さんが言うとおり、あたしの中にはぞっとするぐらい恐ろしい、自分でも抑えきれない衝動があります。あの時のあたしは、きっと人間じゃなかった。氷みたいに心が冷たくて、人を殺すことに手応えさえ感じていた。そんな自分……こんなあたしは、きっと誰より罪深い」
瞼に涙が浮かぶ。あおいは零れる前にそれを拭い、佐知子に向き直った。
「あたしはあたしと向き合わなきゃいけない。記憶を取り戻すことは、罪を償う道の一つになると思うんです。もう何からも逃げたくない。あたしはあたしを取り戻して、罪を償いたい。勝手な言い分だって分かってます。こんなこと言う資格、あたしにはないことも。だけど、罪は償わなきゃいけない。警察があたしを裁けないなら、あたしがあたしを裁くしかない」
佐知子は黙ってあおいの言葉に耳を傾けていた。そして沈黙の後、煙草を一度深く吸い込むと、
「いいわ。その依頼、受けましょう」
あおいは弾かれたように目を上げる。
「本来なら、たとえ両親の承諾があったとしても、未成年からの依頼は受けないって決めてるんだけど、今回は内容が内容だし、とある依頼のついでってことで特別に受けてあげる。勿論、依頼料は取るわよ」
「……ありがとうございます」
「その代わり、一つ誓ってほしいの」
佐知子は煙草を灰皿に押しつけると、これまでにないほど真剣な眼差しであおいを見た。
「もう二度と罪を犯さない、二度と誰も殺さないと誓って」
「誓います。もう誰も、殺したりしません」
「その言葉、忘れないでね」
あおいは頷く。
「あの、この銃……」
「そうね。あたしが預かっててもいいけれど、それだとこちら的に都合が悪いわね。それに、あたしはちゃんと自分用のやつを持ってるし。いいわ、あなたが持っていなさい。それに、たとえ持っていても、あなたには必要のないものでしょう?」
そう言って佐知子はにこりと微笑んだ。あおいは少し戸惑った後、スカートのポケットに銃を入れる。
「いいんですか」
「問題ないわ。あたしはあなたを信じているから」
あおいは佐知子に向かって、何も言わずに深々と頭を下げた。佐知子はあおいの肩に手を置き、優しく髪を撫でる。
顔を上げたあおいは、瞳をまだ潤ませながらも、ここに来て初めての微笑みを浮かべた。
事務所を出た時、時刻は深夜零時に近かった。
尋人はあおいと並んで、人気のないオフィス街を駅に向かって歩いた。
「本当にいいの? タクシーで送ってやってもいいよ?」
「平気。まだ電車あるし」
「でも、女の子の一人歩きは危ないよ。時間が時間だし、駅からマンションまで歩くんだろ? だったら」
「歩くのは何てことないわ。歩くの、好きだから」
あおいはそう言うが、それはだめだろうと尋人は思う。夜遊びと勘違いされて補導されるかもしれない。第一、こんな夜中に制服姿の女子中学生が歩いていたら、襲ってくれと言っているようなものだ。
「やっぱだめだ。タクシーで帰れ、水島。こんな時間に一人で歩いてたら何があるか分からない。補導されるかもしれないし、こないだみたくまた変な奴に絡まれるかもしれない」
「だけど、尋人先輩はどうするの?」
「俺は家近いから。こんな時間に帰ることなんてよくあるし、気にしなくていいよ」
尋人が笑ってみせると、あおいも僅かに笑みを浮かべる。
二人は誰もいない歩道を、ゆっくりとしたスピードで歩いていた。
尋人は鞄を担ぎ直すふりをして、ちらりとあおいの表情を窺う。事務所に行く前と比べ、あおいの表情は穏やかだった。まだ少し強張っているようだが、会った時のような悲痛さは消えている。その頬を濡らした涙ももう乾いているようだ。
「なあ水島、姉さんと何話してたの?」
単刀直入に問われ、あおいは困ったように視線を逸らす。尋人は畳み掛けて訊くことをせず、あおいが言葉を選んで答えるのを待つ。本当は訊くべきではないのだろう。しかし自分も事件の関係者であるし、決着を知る権利はあると思った。
あおいは少しの沈黙の後、
「……これからのこと」
「これから?」
「これからどうしたらいいのか、お話してたの。自分じゃ分からなかったから」
鈴のような声で紡がれた言葉は抽象的で、何だか要領を得ない気がした。尋人は深く追及するべきかどうか迷い、かけるべき言葉が浮かばず黙り込む。
「あたしが犯した罪……そこから逃げないために、どうしたらいいのか。佐知子さんはあたしの言葉を、ちゃんと聞いてくれた」
晩夏のぬるい湿気を帯びた風が吹いて、あおいの艶やかな髪を揺らす。その穏やかな表情から、尋人は目が離せなかった。
「怒られたよ。最低だって言われた。だけど目を逸らさずに、あたしの話を聞いてくれた。佐知子さんに話して、本当によかった」
そう言ってあおいは目を閉じる。その表情はどきりとするほど綺麗だった。思わず見惚れていたことに気付き、尋人は慌てて視線を逸らす。
「あー、あのさ」
唐突な切り出し方に、あおいがきょとんとして見上げてくる。
「俺、二人が所長室で話している間、ずっと考えてたんだ。で、決めた。忘れるよ、あの夜のこと」
「え……」
「忘れるよ。これから先、あの夜のことで水島に何かを言ったりしないし、責めることもしない。今日限りで忘れることにする」
あおいの目が驚いたように見開かれる。尋人はその意味を図りかねたが、彼女を傷つけないよう言葉を選びながら続けた。
「何もなかったことにはできないかもしれない。だけど、あれは不幸な出来事だったんだ。元はといえば、水島をどうこうしようとしたあいつらが悪いわけだし、水島は自分を守るために仕方なくやってしまったんだ。それを悪いって言ったら、じゃあどうすればよかったんだって話になるだろ? 不幸な出来事だったんだ、あれは。そう思って、忘れることにする」
「尋人先輩……」
「だから水島も忘れよう。よくよく考えたら、一番つらい思いをしたのは水島じゃん。姉さんに怒られたなら、俺がそれ以上責めたりしたら余計つらいだろうし、何より水島自身のために忘れたほうがいいよ」
「あたしのため……?」
「そう。君のため、そうしたほうがいいと思う」
「……あなたはあたしを責めないの?」
「俺が責める理由はないだろ。むしろ、俺が水島に詫びるべきなのかもしれない。あの夜、水島を見かけた時点で俺が奴らの間に割って入ってたら、こんなことにはならなかった。助けてやれなくて、ごめんな」
あおいはぶるぶると頭を振るが、その瞳から涙がじわりと溢れてくる。尋人は仰天した。
「ああっごめん、悪かった。俺の言い方が悪かった。その、違うんだ。別に水島を責めたわけじゃなくて、傷つけようとしたわけでもなくて」
狼狽する尋人に向かってもう一度頭を振ると、あおいは足を止めて見上げてくる。
「……尋人先輩は、あたしが怖くないの?」
尋人は一瞬言葉に詰まる。
「怖く……なんてないよ。そんなわけないだろ」
何気ない風に笑おうとしたら、引き攣った表情にしかならなかった。尋人は少し躊躇った後、正直な気持ちを打ち明ける。
「……本当は怖いと思った。誰が悪いとか水島がどうだとか、そういうんじゃなくて、ただ単純に、素直に怖いと思ったんだ。俺、人殺しって嫌いだから」
あおいがぎくりとした表情で俯く。尋人は内心うろたえたが、あえて気付かないふりをすることにした。
「俺、両親を殺されてるんだ。俺がまだ五歳の頃、悪い奴に殺されて死んだ。……ああ、雪花には言うなよ? あいつはこの話知らないから。……だからまあ、本音を言うと人を殺す奴なんて嫌いだし、人が人を殺す理由なんて、あったとしても理解できない、したくもないって思ってるんだ」
尋人の言葉に、あおいがみるみるうちに悲しげな面持ちになっていく。
「だけど、あの時……あの夜のこと、覚えてる? 水島はあの時、すごく悲しそうな顔で泣いてたんだ」
「あたしが……?」
「うん。『何であたしこんなことできるの』って言って泣いてた。その時俺は水島のこと、憎めないって思ったんだ。……人を殺してその場から逃げ出した水島は、確かに悪いのかもしれない。だけど、そう言って泣いてた水島は、俺には人間に見えたから」
あおいは瞠目したが、やがて声を殺して涙を流した。尋人はその瞼に触れると、それを優しく拭ってやる。
「さっき会った時もそうだ。水島は自分のしたことを悔いて泣いてた。それは血も涙もない犯罪者にできることじゃない。あの時の水島を見て、俺はそう思った。だから俺は水島を責めたりしない。憎むんじゃなくて、嫌うんでもなくて、信じたいと思うんだ」
あおいは涙を拭って、尋人を見上げる。
「……あたしが何者なのか、訊かないの?」
「訊かないよ。だって水島は水島だろ?」
そう言って尋人は微笑みかける。それ以外の答えは、今の尋人にはない。あるのは恐怖や疑問ではなく、あおいという確かな存在だ。
「あたしは、あたし……」
「そう、水島は水島だよ。俺はそう信じてる」
あおいは急に立ち止まった。そして、まるで何かのスイッチが切れたかのように、あおいは口を手で覆って泣く。尋人はうろたえて、どう言葉をかけるべきか迷った。
尋人は躊躇った末に、あおいの肩をそっと引き寄せた。あおいは尋人の胸にしがみつくと、声を上げて泣きじゃくる。尋人は言葉をかける代わりに、彼女の髪を優しく撫でた。あおいの涙が止まるまで、ただ何も言わずにそうしていた。
掌から伝わるあおいの温もりが、心を焦がしていくのを感じながら。
鋭くけたたましいベルが耳を劈いた。それまで眠りの底にいた思惟が急に引き戻され、探るように伸ばした手で音の原因を渾身の力で叩く。
垣内亮太は目を覚ました。目覚まし時計のうるさい音が、消えた後もしばらく脳内で残響している。亮太はそれを跳ね除けるように、勢いをつけて体を起こした。目覚まし時計は午前七時三十分を表示している。拳骨が入るぐらいの欠伸をすると、布団をどけてベッドから下りる。
カーテンを開けると、眩しい陽光が視界に降り注ぐ。窓ガラスの向こうは雲一つない青空で、今日も暑くなりそうだと思った。亮太はベランダに出ると、深呼吸をしながら背伸びをし、屈伸や前屈を何度か繰り返した。眠っていた体が、動かしていくにつれて目覚めていく感覚が気持ちいい。
室内に戻ると、まず洗面台で顔を洗った。そして窓際の棚の上の観葉植物に、如雨露に入れた水をそっと注いでやる。
その時、電話がかかってきた。亮太は如雨露をシンクの上に置くと、コードレスを取って通話ボタンを押した。
「はい、もしもし。……おはよう、竹田さん。今? 大丈夫。飯作る前だよ。……いいって、電話しながらでもできるから」
左手でコードレスを持ち、亮太は電話しながら朝食を作る。
「バイト? うん、これからだよ。今日は九時から六時までの予定。残業あるかもなあ。人使い荒いんだよ、うちの店長。駅南店に比べてうちの店は成績悪いらしくてさ、店長が毎日、今日はこれだけ稼げ、これぐらい客を呼べってうるさいんだ。そんなにガミガミ言わなくても、それなりに客は入ってると思うんだけどね。ランチタイムなんて、逃げ出したくなるぐらいわんさか来るんだ。しかも八割が女。うるさいったらありゃしない。カフェのバイトなんてやるもんじゃないよ。……え、そんなことは訊いてない? いいじゃん、少しぐらいは愚痴らせてくれたって」
亮太は小さなフライパンをコンロに置くと、全体に薄く油を塗ってから火を点ける。
「任務? やってるよ、勿論。昨夜も一仕事済ませてきた。心配しなくてもちゃんとうまくやったよ。確認してくれた? ……そう、ならいいんだ。ああ、それはどうも。で、今朝はどうしたの?」
冷蔵庫から卵を一個取り出し、シンクの角に軽く打ちつける。そして、ひび割れたそれをフライパンの上に落とそうとした時、亮太は思わず息を止めた。
「え……あおいが?」
めきっと音を立て、親指が卵の殻に食い込む。力を入れすぎたことに気付き、亮太は慌てて指を抜いた。透明な卵白が親指にねっとりと纏わりつく。亮太はそれを躊躇うことなく三角コーナーに投げ捨て、蛇口を捻って右手を洗った。
「そう、目覚めたの。へえ」
自分でも驚くぐらい冷めた声が口から漏れる。
「別に驚いてないよ。あおいは元々、半年前に目覚めてる。ただ少し昼寝をしてただけだ。まあ昼寝にしては長かったけど、そう驚くことじゃない」
亮太は冷蔵庫から卵を一個取ると、シンクに打ちつけてもう一度フライパンに落とす。黄身の周囲に卵白が広がり、じゅわじゅわと熱が通っていく。今度はうまくいった。
「それで、あおいはどうしてるの? 体は? ……へえ、大丈夫なの。それは意外だね。あんなに長いこと眠ってたのに、頭や体はどうもないの? ……そっか、病院に行ってないなら詳しいことは分からないね。まあ、立ってまっすぐ歩いてたら大丈夫じゃない?」
亮太は卵の殻を三角コーナーに投げ捨て、フライパンに専用の蓋を被せる。そして、インスタント食品ばかりを置いている棚から食パンの袋を取って、軽く縛った開け口を解いて一枚取り出す。
「え、学校? あおいってば、まだそんなとこに通ってるの? 健気だねえ。俺なら絶対に御免だ。……そう、意外に真面目なんだ。まあ、そこがあおいのよさといったらそうなんだろうけど。……うん、うん。で、竹田さんは会ったの? あおいに。小父さんは全部知ってるの?」
食パンをトースターにセットすると、一段落ついた亮太はベッドに腰掛ける。
「うん、うん……。え、マジで? 覚えてないって、ほんとに?」
亮太は思わず間抜けな声を上げる。しかしすぐに合点がいったので、それ以上激しく動揺することはなかった。
「へえ、あれマジだったんだ。覚えてないなんて嘘だと思ってたけど、竹田さんに反応しなかったんならマジやばいね。……別にショックじゃないよ? 半年前に目覚めた時から、あおいは記憶喪失かもしれないって話はあったじゃないか。その時から覚悟は決めてた。マジだったってのにはびっくりしたけど、ショックってほど大袈裟なもんじゃない」
何気ない口調で亮太は言う。室内に目玉焼きとパンの香ばしい匂いが漂ってくる。そろそろ頃合だろう。亮太は立ち上がった。
「うん……うん、分かってるよ。あおいは《ヴィア》の娘だ。小父さんだって大事な一人娘……いいや、唯一の跡取りの一大事を放ってはおかないだろう。……え、ああ、何だ。そうなんだ、それも面白いね。自分や周りのことは何も覚えてないのに、殺しだけはちゃんと覚えてたの? 律儀だねえ。……不謹慎? 心外だなあ、俺は感心してるんだよ。あんなことがあっても、所詮あおいは《ヴィア》の娘ってことだ。それは神様も変える気はないってわけだろ?」
チンという音とともに、パンがトースターから飛び出す。亮太は皿にパンを載せ、冷蔵庫から出したバターを塗った。そしてコンロの火を止め、目玉焼きを皿に移す。右手だけの作業だが、慣れているのでそれほど苦ではない。
「そっか、じゃあ今のあおいは人間なんだね。それはあまりよくないな。嬉しくない。……うん、そうだよ、俺にとっても《ヴィア》にとっても。そうだろ? みんな思うことは一緒だ」
亮太はパンと目玉焼きの皿を、正方形のプラスチックテーブルに置く。冷蔵庫から水のペットボトルを持ってくると、皿の上に箸を置いた。
「じゃあ俺はどうすればいいの? うん、うん……そっか。好きにしていいって言うなら、その言葉どおり俺は好きにさせてもらうよ。……そうだよ、それがあおいのためだろ? ……うん、分かってる。あおいをみすみす人間になんかさせないよ。だって、俺とあおいは暗殺者なんだから」
言葉に自然と力がこもる。知らず知らずのうち、亮太はスコープ越しに狙いを定めるような鋭い目つきをしていた。
「竹田さんもいつもご苦労さま。いろいろ教えてくれてありがとう。うん……うん、じゃあ何かあったらまた連絡して。小父さんによろしく。じゃ」
短く別れの言葉を告げると、亮太は電話を切った。そしてコードレスをベッドに放り、手を合わせてパンにかぶりついた。腕時計を睨みながら、勢い込んで平らげていく。あっという間にパンを食べ終わると、目玉焼きに箸をつけた。白身をきれいに食べてしまった後、固まりきっていない黄身を割らないように持ち上げ、素早く口に運んだ。亮太はもぐもぐと咀嚼しながら難しい顔をする。
「今日のはまだ柔らかい。俺はもっと固いほうが好きだ」
ペットボトルの水をごくごく飲むと、亮太は手を合わせて立ち上がった。皿をシンクに置いて、スポンジに洗剤を含ませて軽く洗う。それが終わると、息つく暇もなく服を着替えた。寝巻き代わりのタンクトップとカーゴパンツから、外出着の黄土色のプリントTシャツと黒のジーンズに着替え、上に白のシャツを羽織る。そしてもう一度洗面台に行くと、歯磨きをしてから寝癖だらけの髪をムースで整えた。最後に、いつも使っている黒のショルダーバッグに財布や携帯やタオルなどを入れたら、外出の準備は終了だ。
時計を見ると、八時十五分を過ぎた頃だった。今日は電話があったせいで少し遅くなったが、慌てて飛び出すほど切羽詰まった時間ではない。
亮太はガス栓と戸締りを確認すると、電気を消して部屋を出た。外に一歩出た途端、眩しい光の矢に思わず目を瞑ってしまう。肌を蒸らすような熱気が全身を包み込んだ。
「うわー、今日も暑そう」
うんざりしたようにひとりごちながら、亮太はアパートの階段をリズミカルに下りる。そして自転車に跨ると、通い慣れた道をバイト先目指して駆け抜けた。日光を含んだ風を真っ向に受けながら、亮太は脳裏で竹田との会話を反芻していた。
溜まっていた仕事をフルスピードで片付けると、佐知子は夜七時に事務所を後にした。
普段は十時ぐらいまで仕事に追われているが、今日は約束があるため早々に切り上げたのだ。無論手を抜いたわけではなく、普段よりも迅速に処理しただけにすぎない。
佐知子は駅前から少し歩いたところにある繁華街に足を向ける。華やかなネオンに彩られたメインストリートの裏に、小さなバーやスナックが軒を連ねているのだ。暗闇にひっそりとネオンが光るこの場所に、佐知子が常連として通っている店がある。
佐知子は地下に続く階段を下りると、『クライデール』の扉を開けた。
『クライデール』はカウンターと三つのテーブル席だけの、こぢんまりとしたダイニングバーである。ぼんやりと薄いオレンジの光に包まれた、古めかしいが品のある木造倉庫を思わせる内装で、従業員はマスターの木野駿三と、アルバイトの女の子の二人だけだ。
「いらっしゃい、さっちゃん」
白髪混じりの初老の男性が、皿を拭きながら優しい笑顔で声をかけてくる。
「こんばんは、マスター。今日も暑かったわね」
佐知子はにこやかに応じた。木野はカウンター席の隅にちらりと目配せをする。それに気付いた杉原健人がグラスを上げた。佐知子は軽く頷いて応じ、ジャケットを脱いでその隣に座る。
「遅かったじゃん。七時っつーから急いで来たのに、いざ着いてみたらまだいないし。マスターと喋りながら先に食ってたぞ」
「あら、せっかちね。こっちだって仕事があるの。多少の遅刻は大目に見てもらいたいわ。マスター、あたしまだ食事してないの。高菜ピラフとドラフトをお願い」
木野は笑顔で承ると、グラスに水を入れて渡してくれる。佐知子は一口飲んで、乾いた喉を潤した。
「久しぶりだな、お前と二人で飲むのは」
「しかもこんな時間にね。相変わらず忙しいの? 夜勤明け?」
「夜勤じゃないが、二日ほどまともに寝てないな。忙しいも何も連日連夜、事件、事件、事件の連続。連中は俺らのこと、人じゃないってぐらいにこき使いやがる」
さらりとした黒髪に、モデルと見紛うぐらい端正な顔立ちをした健人は表情に些か覇気がない。普段よく見る研ぎ澄まされた眼光も、今は陰を潜めているようだ。何気なさを装ってはいるが、どうやら疲労困憊しているらしい。健人は大きくため息をついて、バーボンのグラスを軽く回した。
「連中って上のこと?」
「分かりきったこと訊くな。それ以外に誰がいんだよ。ったく、毎回捜査に好き放題口挟んできて、いざとなると、それは警察のメンツに関わるっつって尻込みする。エスカレーター式に出世していく奴なんざ、現場を報告書でしか知らないんだ。上司が何だ、東大卒が何だってんだ。俺たちは盤上の駒じゃねえ」
「上層部のキャリア組なんて、天よりも高いプライドと、海よりも深い見栄を持つ奴の集まりだもんね。それを毎日相手にお疲れさま」
佐知子は心から労ってやる。そして出されたドラフトを受け取ると、健人のグラスに軽く合わせて飲んだ。
「元はといえばお前のせいだぞ。お前が辞めるから、そのしがらみやら後始末やらが全部俺にのしかかってきたんだ」
「もう三年も経つんだから、その八つ当たりは賞味期限切れよ」
佐知子が慣れたようにあしらうと、健人は「うるせえ」と唸ってバーボンを煽る。生来の口の悪さに三割増で拍車がかかっている。どうやら相当ストレスが溜まっているらしい。
二人は従兄妹であり、同じ県警捜査一課に務める同僚でもある。尤も佐知子は三年前に職を辞したので、現在は元同僚と呼ぶべきであるが。
健人は捜査一課の刑事として凶悪事件の捜査に明け暮れる日々を送っており、その多忙さは寝食すら犠牲にするほどであるようだ。大雑把な性格で口が悪く、やや粗暴な印象があるが、刑事としての手腕は確かなもので、頭の切れもなかなか鋭い。空手や剣道といった武道にも秀で、銃の腕も相当なものであるため、現場でも重宝されているのだ。尤も本人はそれが大いに不満らしく、「もっと暇がいい。代わりを寄越せ。もっと楽させろ」とばかり言っているが。
カウンター越しに高菜ピラフを受け取って、佐知子は食べ始める。健人はフライドポテトをつまみながら、
「課長がお前のこと恋しがってるぞ」
「吉田一課長が? 何でまた」
「戻ってきてほしいんだとよ。もう復帰しないのかってしょっちゅう訊かれる」
「復帰しないのかと言われても、警察自体をとっくの昔に辞めてるんですけど」
「お前が辞めて以降、お前以上の技量を持ったデカに巡り会っていないんだと。何かヤマがあれば口癖のように、『佐知子君がいればあっという間に解決してくれるだろうに』なんて言うんだ。しかも俺の目を見て。失礼だと思わねえか? そんなに俺たちじゃ不満なのかっつーんだ。こっちを過労死寸前までこき使ってんのはどこの誰だ」
佐知子はスプーンを片手に笑い転げる。健人は不機嫌そのものの顔で、佐知子のこめかみを軽く小突いた。
「てめえ笑いすぎだ。ちったあ俺に気を遣え」
「ごめんごめん。でもそれ本当? 三年も経つのに、課長まだそんなこと言ってんの?」
「お前を持ち上げるために嘘なんか言うかよ。あのじいさん、毎日上と下に挟まれてもみくちゃにされて、ぼけだしたんじゃないのか。まあ要するに、お前が築き上げた伝説は今も健在ってこった」
「伝説?」
「ノンキャリで女なのに、交通課から半年で捜査一課にスピード出世。その後三年間、検挙率ナンバーワンを保ち続けた美人デカ。まあ伝説っつっても三年も昔だから、そろそろ廃れてもいい頃だわな」
「あんたが言うな」
佐知子は苦笑しながら健人の頭を小突き返す。
「まあ、課長にはよろしく伝えといてよ。お年なんですからお体を大切に、何かあったらお力になりますってね」
「了解」
高菜ピラフを食べ終えると、佐知子はドライフルーツとシングルモルトを注文した。自家製ドライフルーツは、この店の裏メニューの一つなのだ。注文してすぐ、一口サイズに切られたマンゴーとラズベリーのドライフルーツが差し出される。それを二人でつまみながら、ゆったりと味わうように酒を飲んだ。小さなボリュームのジャズとともに、心地よい雰囲気の沈黙が流れる。
バーボンのグラスを傾けながら、健人が陽気さを打ち消した声音で口を開く。
「その後、どうだ?」
シングルモルトに口をつけながら、佐知子は彼が尋ねんとしていることを正確に察する。
「大体のことは分かったわ」
「というと?」
「詳しくは調査中。悪いけどまだ話せる段階じゃないわ。だけど、どうやら厄介事になりそうよ」
二人を取り巻く空気が音もなく引き締まる。健人の表情が険しさを帯びた。
「厄介ってのはどういうことだ」
「あまり詳しくは言えないわ」
「言えないっつーのはどういうことだ。どういうレベルの厄介なんだ」
はぐらかそうとする佐知子に、健人はしぶとく食い下がる。佐知子はマンゴーを一切れ口に放り込むとしばし黙り込んだ。噛むごとにマンゴーの甘味が口全体に広がっていく。佐知子は果肉がなくなるまで噛んで、その甘さを心ゆくまで味わった。『クライデール』の自家製ドライフルーツは飽きのこない美味しさだとしみじみ思う。佐知子は中でもマンゴーが一番のお気に入りだった。
「おい佐知子」
「なあに? せっかく味わって食べているのに」
「マンゴーはいいから俺の質問に答えてくれ」
「だから、まだ話せないって言ってるでしょ。そう先を急がないでよ。健人、職場でせっかちだって言われない?」
「うるせえ。くだらねえ突っ込み入れてないで、さっさと事のあらましを話せ。そのために今日俺を呼んだんじゃねえのか」
「今、呼ばなきゃよかったって後悔してるとこ」
「ああ?」
健人は佐知子の返答に、口をへの字に曲げてしかめ面をした。酒の席にはおおよそ不釣合いな、不機嫌で威圧的なオーラを纏って睨みつけてくる。
「そんな怖い顔で睨まないでよ。周りの女の子全員に『きゃああ獣!』って逃げ出されたらどうするの。何より、マンゴーとお酒が不味くなっちゃう」
「それ以上くだらねえことぬかすと、今日の支払全部お前に押しつけるぞ」
「もしかして、いつもそんな悪人面で仕事してるの? 普段は一応イケメンで通ってるのに、表裏ある男は嫌われるわよ」
「うるせえ。一応って何だ、一応って。いい加減話しやがれ。俺は引かねえぞ」
「健人、しつこい男は嫌われるって知ってる?」
健人は言い返す代わりに、刑事ドラマの悪役俳優も顔負けの形相で睨んでくる。こんな一面を知らない雪花が見たら、泣いて一生口を利かなくなるだろうと佐知子は思った。
「分かったわよ。話すから、そんなに睨みつけないで。お酒を飲む気が失せちゃうわ」
佐知子は根負けして白旗を揚げた。分かればいいと言わんばかりに、健人はふんと鼻を鳴らす。佐知子は嘆息して口を開いた。
「詳しいことはまた時機を見て話すわ。今はまだ全部は話せない。教えられるのはこれだけ。《ヴィア》が絡んでいるの」
健人は音を立ててグラスを置き、
「何だと?」
「言ったとおりよ。このヤマには《ヴィア》が絡んでる。事は慎重を要するから、今の段階で全てを話すことはできない」
その言葉だけで健人は全てを察したらしい。意外な事実に驚きを隠せないらしく、視線をあちこちに泳がせながら、何かを言おうとしてはやめるという仕草を繰り返す。剛胆な性格で何事にも滅多に動じない彼が、ここまで明らかな動揺を見せるのは珍しい。無理もないと佐知子は思った。
健人は内心の動揺を抑え込んだ表情で、
「それで、お前はどう動く」
「どうもこうも、一世一代のチャンスなのよ。このままじっとしてるつもりなんてないわ」
「追うのか、《ヴィア》を」
佐知子は力強く首肯する。予想に違わぬ答えを受けて、健人はがっくりとうなだれた。
「俺としたことが迂闊だった。お前がこのヤマについて問い合わせてきた意味に、今更ながら気付いたよ」
一生の不覚と言わんばかりの勢いで落ち込む健人に、佐知子はかける言葉に困ってしまう。彼は事実上解決した事件に疑問を持ったことではなく、図らずも佐知子が《ヴィア》と関わるきっかけを作ってしまったことを悔やんでいるのだ。それが意味するところを、佐知子はきちんと理解している。
「深く考えることなく見逃すんだった。俺ともあろう者がやっちまった。この依頼はなかったことにっつっても、聞き入れてはくれないよな」
「当然よ。図らずもあなたがくれたチャンス、ありがたく使わせてもらうわ」
佐知子はラズベリーを一切れつまみ、しかめ面の健人の口に放り込む。健人は無言でもぐもぐと噛んだ。ラズベリーの甘さとは裏腹に、苦々しさ極まりないといった面持ちの健人に、佐知子はわざとらしくにこりと微笑んでみせる。その裏で、実は尋人も事件に関わっているということは、今は言わないでおこうと思っていた。今この時点でそれを話して、事のややこしさと健人の心に追い討ちをかける必要はない。
健人はラズベリーを飲み込むと、苦々しい表情のまま口を開く。
「お前一人で《ヴィア》を追うのは荷が勝ちすぎる。いや、お前の力を軽んじてるわけじゃない。だが実際そうだろ? また三年前みたいな事態になったら……」
「大丈夫よ、うまく動くわ。あなたのそれは懸念じゃなくて取り越し苦労。それとも警察が動いてくれるの?」
佐知子が返すと、健人はいつになく難しい顔になって黙り込んだ。
「ほらね。《ヴィア》の相手なんて、警察は何が何でも御免被るでしょう?」
「上は嫌がるだろうな。《ヴィア》や《M‐R》なんて、そこら辺のやくざや右翼なんかよりたちが悪い。特に《ヴィア》なんざ、触らぬ神に祟りなしもいいとこだ」
「でしょう? それにあたしは、このことに健人を巻き込むつもりはないわ。あなたはあくまで依頼人。依頼人の身柄を守るのも調査員の仕事の一つよ」
佐知子はシングルモルトをちびちびと飲む。健人は難しい顔をしたまま、何やら黙って考え込んでいるようだ。どうやら酒に手をつける気分ではなくなってしまったらしい。
「心配しないで。あなたが思うような悪いことにはならないわ。油断ならない相手ではあるけれど」
「相手は《ヴィア》だ、楽観はできねえ。事態がどう転んでくかなんて誰にも分からない」
「だからこそ恐れは無意味なのよ。これはチャンスだわ。逃したらきっと二度と巡り会えない。神があたしに動けと言っているのよ。あの時のけりをつけてみせろってね」
佐知子はマンゴーの最後の一切れをつまんで食べる。その甘味をじっくりと味わいながら、シングルモルトをうまそうに飲んだ。
「やっぱりお前一人じゃ危険だ。俺も動く」
「だめよ健人、そんなことしたら死ぬわよ」
恐ろしく冷静な響きで告げられ、健人は言葉を呑んだ。佐知子は一瞬見せた険しい表情を一転させ、明るく笑い飛ばしてみせる。
「これはあたしの仕事。あたしがやるべきことなの。健人の力が本当に必要になったら、遠慮なく呼ぶから安心して。あたしは大丈夫よ。事態がどう転んでも、簡単には負けてやらない」
にこりと微笑む佐知子に、ついに健人は根負けしたらしい。再びがっくりと肩を落とし、諦めたように深々とため息をつく。
「無茶はするな。何かあったらすぐ俺に言え」
これ以上、佐知子を説得することは無意味だと悟ったのだろう。健人はそんなことを言った。相変わらずぶっきらぼうな口調ではあるが、心から懸念していることが窺える。
「あの時できなかったことを、今度こそやってみせる。あたしの力で《ヴィア》を潰すわ」
佐知子は静かな微笑を浮かべつつ、凄絶さを帯びた声音で呟いた。その表情を見ていた健人はしばらく低く唸っていたが、
「深みに嵌まるなよ。あいつの二の舞なんてこと、俺は絶対に御免だからな。いいか、何かあったら絶対俺に言え」
それは先程よりもさらに重い忠告だった。佐知子は確かに首肯してみせる。しかし健人の表情は険しいままで、
「やばくなったら手を引け。何でも一人で抱え込まずに、いざって時は俺に言うんだぞ」
佐知子はぷっと吹き出した。
「やあね、心配しすぎよ。あたしをそんじょそこらの柔な女と一緒にしないで。大丈夫、うまくやるわ」
佐知子はシングルモルトを煽り、ジントニックを注文する。健人は険しい目つきで佐知子を見ていたが、やがて視線を逸らしてラズベリーを一切れつまむ。佐知子は心地よい酔いに浸りきっていたせいか、健人の最奥にある本心に最後まで気付くことはなかった。
「ばかが、無理しやがって」
毒づくような健人の微かな呟きも、佐知子の耳には届かなかった。健人はバーボンを煽ると、ラズベリーを三個つまんで口に放り込む。そして甘さに顔をしかめ、それらを流し込むようにバーボンをぐいと飲み干した。
佐知子はジントニックを飲み終えると、今度はスクリュードライバーを注文する。その隣で健人は、言葉にして佐知子に告げる代わりに、人知れず大きなため息をついた。
腕時計を見ると、時刻は七時を廻っていた。
あおいはスーパーの買物袋を持ってマンションに帰ってきた。六階までエレベーターで昇り、部屋に向かっていた時にふと足を止めた。
部屋の前で誰かが凭れている。それは私服姿の少年だった。あおいは眉根を寄せながら、部屋に向かって歩を進めた。
少年は近付いてくる靴音を聞き咎めて顔を上げる。そしてあおいが立ち止まると、彼はからりした笑顔で「よっ」と手を挙げて挨拶した。
「久しぶり、あおい」
「……誰」
「垣内亮太。俺のこと、覚えてない?」
あおいは頭を振った。亮太はがっかりとため息をつく。
「やっぱりそうかー。いや、いいんだ。分かってたことだし、責めてるんじゃないから気にしないで。それよりも、意外に元気そうでほっとしたよ。顔は青白く見えるけど、元々あおいは色白だから問題ないよな」
「……あなたは誰? あたしを知っているの?」
「知ってるよ。誰よりもよーく知ってる。だって俺らは同胞なんだから」
「あなた、まさか竹田が言ってた……」
「ピンポーン、正解です。何だ竹田さん、俺のことちゃんと話してたんだ。じゃあ話は早いね。まあ立ち話も何だから、部屋に入れてくれない?」
あおいはしばし目を泳がせた後、玄関の鍵を開けて亮太を招き入れた。
靴を脱いでリビングに向かい、亮太がその後ろをついてくる。リビングの電気を点けると、亮太は二人掛けソファにバッグを放って部屋を見回した。
「相変わらずいつ来ても広い部屋だなあ。二LDKなんて羨ましいよ。俺なんかワンルームだぜ。まあ、小父さんからしたらここの購入費用なんて、自販機の缶コーヒーと大差ないんだろうけど。でも、あおいにはちょっと広すぎじゃね? 一人暮らしにはワンルームがちょうどいいよ。俺は嫌だなあ。こんなに広いと、贅沢というより孤独に苛まれそう」
そう言いながら、亮太は二人掛けソファにどさりと座る。あおいはスーパーの袋をテーブルに置き、一人掛けソファに座って亮太を見つめた。
「制服、着替えてきなよ」
「別にいい。いつもこの格好だから」
「家でもずっと着てるの? それってまずいんじゃね? 制服はほったらかしだと皺になるし、汚れたりしたら大変だろ。着替える間ぐらい待ってるよ」
「気にしない」
「心配しなくても俺、あおいを襲ったりなんかしないよ。そんな趣味ないから」
「そういうことじゃない。別にいいの。あなた、あたしのこと知ってるって言ったわよね」
「あなたなんてやめろよ。他人みたいだ。前みたいに亮太でいいよ」
「……申し訳ないけど、あたし、あなたのことを覚えてないの」
「知ってる。竹田さんから聞いたよ。全部忘れちゃってるんだって?」
亮太の問いに、あおいは小さく頷いた。
「あなたはあたしのこと、よく知ってるみたいね。あたしが何者か、知っているの?」
亮太は視線を泳がせてしばし黙り込む。あおいはじっと彼を見つめた。
「……飲み物」
「は?」
「この蒸し暑い中、バイト先から全速力で来たから喉がカラッカラなんだ。悪いけど飲み物くれる?」
「……そんなこと言われたって、お茶かお水しかないわ」
「どっちでもいいよ。俺、どっちも好きだから。ああでも、お茶なら冷たいほうがいいなあ。九月といってもまだ夏だし、猫舌だから熱いのは勘弁。そうだなあ、もっと言うと麦茶だと嬉しいな。番茶や烏龍茶も嫌いじゃないけど。あ、でも緑茶は勘弁ね。俺、苦いのあんま好きじゃないんだ。水は水道水以外なら何でもいいよ。適度に冷たかったらオーケーだから、氷は別に入れなくても大丈夫」
あおいは口をへの字に曲げて立ち上がる。そして冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、ガラスコップに注ぐと無言で亮太に渡した。
亮太はごくごくと音を立てながら飲むと、すぐさま「おかわり」と言って突き返す。あおいは苦い表情で受け取ると、今度は溢れんばかりに麦茶を注いで、亮太の顔の前に無言で突きつけた。
「淹れすぎだよ、これ。こんなんじゃ零すよ」
「淹れろと言ったのはあなたよ」
「ここまでとは言ってないよ」
「注文が多すぎよ。言われたとおりに淹れたんだから、文句言わないで」
亮太は渋々といった体で受け取り、零さないよう慎重に飲む。
「随分と気の強い感じになっちゃったなあ。俺が知ってるあおいは繊細で穏やかで、そんなきつい物言いはしなかったんだけど。あれかな、記憶を全部忘れちゃうと、人って生まれ変わったのかっつーぐらい変わるもんなのかな」
「そんなこと知らない。あたしは、あなたがあたしのこと知ってるって言うから部屋に入れたの。お茶を飲ませるためじゃない。お茶ほしさに来たなら帰って」
「たかだがお茶でそんなに怒るなよ」
「お茶のことを言ってるんじゃない。あなたの態度に怒ってるの!」
「まあまあ、そんな怒るなって。心が狭いぞ」
「見ず知らずのあなたに、そんなこと言われたくない!」
きっと睨みつけて言い放つと、亮太はため息をついた。
「……あおいってこんなに怒りっぽい子だったっけ」
「知らないわよ、そんなこと。あなたが怒らせたんでしょう」
あおいがさらに眦を吊り上げると、亮太はようやく口を閉ざした。あおいは一人掛けのソファに座り、改めて亮太を睨みつける。
「せっかく会えたのに、怒らせちゃ意味ないよな。ごめん」
「別に、いいけど」
あおいは改めてまじまじと亮太を眺める。すらりとした背格好に、ところどころ跳ねた少し長めの茶髪。白シャツの下に黄土色のプリントTシャツを着て、やや崩れた黒のジーンズを穿いている。
「あなたは何者なの?」
亮太はグラスをガラステーブルに置き、
「垣内亮太、十八歳。誕生日は十月九日、血液型はA型。表向きはカフェのバイトで食ってるフリーター」
「表向き?」
「俺の本来の仕事は《ヴィア》の暗殺者。あおいと同じだよ」
軽い口調で告げられた言葉に、あおいは愕然とした。
「あおいとは物心ついた時からの付き合いかな。何だかんだで、水島の家にはガキの頃からしょっちゅう出入りしてたんだ。そんなこんなで俺たち、表向きには従兄妹ってことになってる。実際には幼なじみって言ったほうが正しいんだけどね」
亮太は一旦言葉を止めてお茶を一口飲む。そして凍りついた表情のあおいを、見て見ぬふりをしながら言葉を続けた。
「何だかんだ言って実は天涯孤独な身の上だから、あおいの親父さん、総一朗小父さんの世話になって育ったんだ。執事の竹田さんは、俺にとっては育ての親みたいなもん。二人にはガキの頃からよくしてもらってるよ。学校は中学までしか行ってない。中学卒業してからはずっと、カフェのバイトと《ヴィア》の任務で食い繋いでる。昼はただのフリーター、だけど夜は《ヴィア》の暗殺者って感じ。だって高校なんて面倒くさいじゃん? 合わないんだよなー俺には、学校っていう雰囲気っつーかシステムが。学校なんて義務教育の九年間だけで十分」
亮太はそこで言葉を止めてあおいを窺うが、反応が返ってくるのを諦めて話を続ける。
「あおいとは物心ついた時からの付き合いだから、もう何年目になるだろうなあ。気付いた時から一緒にいたから、いちいち数えたことないや。それぐらいずっと前から、俺とあおいは一緒にいた。ガキの頃から一緒に、《ヴィア》から銃とかナイフとか護身術とか、暗殺術を徹底的に叩き込まれて育ったんだ。正式にメンバー入りしたのは中学入ってすぐの頃。あおいは俺より一個下だから、その翌年の同じ時期」
「……嘘、そんなの」
「嘘じゃないよ。俺は嘘なんて言わない。俺とあおいは《ヴィア》の暗殺者だ。あおいは《ヴィア》トップの総一朗小父さんの娘で、ゆくゆくは《ヴィア》を背負って立つ人間。それを生涯補佐していくのが俺の役目。つまり俺たちはペアってこと」
「嘘だわ!」
あおいは唐突に立ち上がる。
「そんなの嘘よ。あなたもあの竹田って人も、どうしてあたしをそんな残酷な嘘で騙そうとするの。あたしが暗殺者だなんて、そんなのありえない!」
「ありえないなんて、どうしてそんな風に言い切れるの?」
冷静な口調で切り返され、あおいは言葉を詰まらせる。
「あおいが単に覚えてないってだけで、全ては嘘じゃないよ。現にあおい、殺しの術はちゃんと覚えてるんだろう? それが何よりの証拠だよ。あおいは《ヴィア》で一番の腕を誇る暗殺者。俺はそれをよく知ってる」
「嘘よ、嘘! そんなの信じない」
「信じないなんて言われても、事実は動かないんだからどうしようもないだろ。それがあおいの真実なんだから」
「真実なんて、どうしてあなたにそんなことが分かるの。何を根拠にそんなこと言うの!」
「俺はあおいをよく知ってる。誰よりもずっと側にいたから。竹田さんだって」
「言わないで! あたしは暗殺者なんかじゃない。あたしは水島あおい。たとえ過去の記憶がなくても、他の人と何ら変わらない、ただの人間なの。《ヴィア》なんて知らない。あたしは人殺しなんかじゃない! 帰って。あなたなんか知らない。二度と会いたくない。帰って。帰って!」
涙が滲んだ目で、あおいは亮太を睨みつける。亮太はしばし黙っていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「仕方ないね。今日は帰る」
あおいはその姿を見送ろうとせず、亮太から視線を逸らしたまま肩を震わせていた。亮太はそんなあおいに、悲しげな視線を投げかける。
「変わったな、あおい。正直さ、竹田さんに話を聞いた時から、こうなるんじゃないかとは思ってたんだ。今のあおいは、俺の知ってるあおいとは程遠い。まるで人間みたいだ」
「あたしは人間だわ。記憶がなくても心はある。嬉しいと感じたら笑うし、悲しいと思ったら泣く。つらいことを言われたら心だって傷つくの。人を殺しても何も感じない、心のない暗殺者なんかじゃない」
「違うよ。俺の知ってるあおいは、人間の感情なんて持っちゃいなかった。誰よりも冷徹で、誰よりも強かった。俺はそんなあおいに憧れた。早く戻ってほしいよ、あの頃のあおいに。それがあおいの本来の姿なんだって、《ヴィア》の誰もが知っている」
あおいは激しく頭を振り続けた。震える体を抱くようにして、亮太を振り返らない。亮太は深くため息をついた。
「ねえ、あおい。あおいは《ヴィア》の娘だ。それがあおいの歩む道だし、アクシデントはあったけど、それは一生変わらない。運命なんだよ。今は分からなくても、すぐに分かる時がくる。認めなくちゃならない時が」
あおいは振り返り、亮太をきつく睨みつけた。
「あたしは《ヴィア》なんて知らない。暗殺者でもない。あなたと一緒にしないで。……帰って。もう二度と、顔も見たくない」
亮太はあおいの視線に怯むことなく、ふっと乾いた笑みを漏らした。そして背を向けると部屋を出ていく。
「また来る」
「来ないで!」
亮太の足音が答えることなく遠ざかり、やがて玄関のドアが静かに閉まる音がする。
あおいはしゃがみ込んで身を抱くと、歯を食い縛って泣いた。
キンコーンと気の抜けるようなチャイムが響く。
尋人は友人とともに、ホームルームが終わるなり教室を後にした。くだらない話で笑い合いながら、下駄箱で靴を履き替えて昇降口を出る。そして、塾に行くと言う友人と別れると尋人は一人、家路を歩き出した。
歩道を行くのは帰宅途中の青葉学園の生徒ばかりだ。尋人は携帯電話を取り出して、さっき来ていたメールに返信を打ち始める。画面に釘付けになっていた尋人は、視界の隅に映ったあおいの姿を危うく見逃すところだった。
校門を出てすぐにあるポストの前で佇んでいたあおいは、立ち止まった尋人に歩み寄ると小さく会釈した。
「こんにちは」
尋人は少し驚きつつ、携帯を閉じてポケットにしまう。
「水島じゃないか。どうしたの?」
「今、学校が終わって、待ってたの。もしかしたら出てくるかなと思って」
そう言って、あおいは少しはにかんで俯いた。その仕草につられて、つい照れそうになった尋人だが、あおいの纏う雰囲気が静かすぎることに気付く。
「……何かあった?」
試しにそう尋ねてみると、あおいはびくりと肩を震わせた。尋人は何かいけないことに触れた気がしてうろたえる。
「あ、ごめん。考えなしに訊いたりして」
慌てて言い添えると、あおいはふるふると頭を振った。泣き出すかもしれないと思っていた尋人は、ほっと胸を撫で下ろす。
あおいは少し迷うようなそぶりをして、
「少しお話がしたくて、待っていたの。ここに来たら、会えるんじゃないかと思って。連絡したらいいんだろうけれど、あたし、携帯電話を持ってないから」
そういうことかと尋人は納得した。
「立ち話も何だし、とりあえずどこかに行こうか。行きたいとことかある?」
「ううん。えっと……ああでも、静かな場所がいい、かも」
「分かった。じゃあ近くに公園があるからそこにしよう。街中だけど広くて結構静かだよ」
尋人がそう提案すると、あおいは躊躇いがちに頷いた。尋人が「行こう」と声をかけて歩き出すと、あおいはその隣にすっと並ぶ。終始俯き加減で歩くあおいは、顔色こそ悪くないが、面持ちがどこか暗く硬かった。
尋人はあおいの表情を窺いながら、その原因を少し考えてみる。何か過去の出来事を思い出したのか。それとも、前にあったような恐ろしい事件にまた遭遇してしまったのだろうか。理由は分からないが、今のあおいには何だか危うい雰囲気がある。今にも泣き出しそうな、触れたらたちまち壊れてしまいそうな、何かに追い詰められた者独特の繊細さを感じる。
そういえば、あおいは自分と会う時、いつもこんな表情をしている。会うタイミングに問題があるのかもしれないが、そんな彼女しか尋人は知らない気がした。微笑を見たことがないわけではないが、それはかろうじて微笑と判断できるようなものであり、心からの笑顔はまだ一度も見たことがない。それは過去の記憶を全て失っているからだろうか。それとも、以前感じた恐怖を未だ拭い去れずにいるためか。
そんなことに思いを巡らせているうち、二人の足は目的地に到着していた。
学校から徒歩五分のところにある中央公園は、広くて緑の多い静かな場所である。園内中央には大きな噴水があり、そのビューポイントを囲むようにしてベンチが設置されている。他にも芝生や運動スペース、遊歩道などがあり、散歩や子供連れで訪れる人が多いここは、人気がなくなって不気味なほどに静まり返る夜以外、いたって平和な場所だった。
尋人はあおいをベンチで待たせて、自販機で二人分の缶コーヒーを買ってくる。あおいはチョコレート色のベンチにちょこんと腰掛けて、時間差で立ち上ったり小さくなったりする噴水を見つめていた。
「水島、お待たせ」
尋人は缶コーヒーをあおいに手渡すと、彼女との間に少しだけ空間を作ってベンチに腰掛けた。あおいは礼を言って受け取ると、蓋を開けてゆっくりと一口啜る。尋人も倣うように、素手で持つには些か熱いそれに口をつけた。
「すごいね、この噴水。見応えがあって綺麗」
「昔からずっとあるよ。確か俺が保育園に入る前からあったはず」
「そうなんだ。……ここは静かね。何だかほっとする」
「俺も時々来るんだ。単にぼーっとしたい時とか、何となく一人になりたい時とかに」
時刻は夕方に近いが、陽が沈む気配はまだない。二人の周囲に人影もなく、他のベンチも無人だった。噴水が発する涼やかな空気が、心に積もった塵を爽やかに洗い流していく。
「それで、どうしたの?」
尋人が尋ねると、あおいは表情を曇らせて目を落とした。
「また困ったことがあった? 水島、何かつらそうだ」
「そう、かな」
「うん。つらそうというか、何か危うい感じがする。何かを必死に我慢してるっていうか、痛いことに必死で耐えてるみたいな」
そう言うと、あおいはふふと小さく笑った。
「尋人先輩には、何でも分かっちゃうんだね」
その表情は笑っているのにどこか悲しげで、尋人はなぜかどきりと魅せられた。何気なさを装おうとして、コーヒーをごくごくと飲んでみる。喉を刺激する熱さに思わず咽そうになるが、かろうじて我慢することができた。
そうしているうちに、あおいの表情から微笑がすうっと消える。
「あたしね、不安になるの。あたしはいったい誰なんだろう……って」
尋人は黙ったまま、水音に消えてしまいそうな呟きを逃さないよう、あおいの言葉に耳を傾ける。
「あたしはあたしが分からない。だから、他の誰かが、前のあたしはこんなのだったよって言ってきても、自分では本当かどうか分からないの」
「他の誰かって……誰?」
あおいは口を閉ざす。言いたくないのだと察して、尋人は慌てて言い添えた。
「話したくないならいいよ。ごめん、変なこと訊いて」
あおいは頭を振り、缶をきゅっと握り締める。そして立ち上る水の柱に視線を向けた。
「時々、自分がとても怖くなるの。過去の記憶がないから、あたしは何も分からない。だけど、あたしのことを知ってるって言う人に会う度、あたしはあおいじゃない、今のあたしは偽者なんだって突きつけられて、揺さぶられているみたいで。怖くて不安で、心もとなくてたまらない」
「水島は水島だよ。だって、ちゃんとここにいるじゃないか。偽者だなんて、そんなこと誰が言ったの」
あおいは頭を振る。尋人は困惑した。彼女は自分を傷つけた相手を庇おうとしているのか。それとも、単に触れられたくないだけなのか。尋人には判断がつかなかった。
「あたしはあたしを知らない、それが怖くてたまらないの。今のあたしは、昔のあたしとイコールじゃない。何も覚えてなくても、そうなんだって認めなくちゃいけない。それが怖くてたまらない。本当は嫌なの。認めたくないの。今のあたしが本当だって信じていても、また誰かに否定されたら、崩れてしまいそうで」
あおいは缶を左横に置き、小刻みに震える手でそっと身を抱く。その表情は、今にも泣き出しそうだった。
「あたしは誰なんだろう。水島あおいって、本当は誰のことなんだろう。本当のあたしって何なんだろう。……分からない。怖いの。怖くてたまらないの」
尋人は缶を右横に置くと、あおいを強く抱き寄せた。あおいは一瞬身を竦ませるが、たちまち全身からすっと力を抜けていく。尋人はあおいを抱き締め、そっと囁きかけた。
「大丈夫だよ」
あおいが縋るように、尋人の胸に顔を埋める。その温もりに、尋人は胸が熱くなった。
「怖がらなくていい。水島は水島だ。それ以外の何者でもない。誰が何を言ったって、それは絶対に変わらないよ。水島は水島だってこと、俺が一番よく知ってる。だから大丈夫」
尋人の腕の中で、あおいが細かく体を震わせる。泣いているのだとすぐに分かった。尋人は体を離すと、そっと瞼に触れてあおいの涙を拭う。そして、その手を包むようにして握った。
「大丈夫だよ」
あおいは瞳を潤ませると、堰を切ったように泣き出した。尋人は何も言わずに、その華奢な体を抱き締める。震えるような涙声に、いつになく乱され掻き立てられる自分がいた。
理性の片隅に残っていた一抹の恐れを、こみ上げる愛しさが覆い隠していく。今まで一度も感じたことのない熱情に、躊躇っていた心がぐいと突き動かされる。誰よりも繊細で寂しげで、今にも壊れてしまいそうなあおいを、守ってやりたいと強く思った。
尋人はあおいから体を離すと、指先でもう一度その涙を拭ってやる。そして惹き合うように口づけを交わした。
「好きだよ、あおい」
嘘偽りない気持ちのはずなのに、言葉がなぜか震えを帯びた。何を恐れているのだろう。尋人にも分からなかった。
「あたしのことが、怖くないの?」
あおいの言葉も震えている。彼女は何を恐れているのだろう。尋人には分からなかった。
「怖くないよ。怖がることなんか、ないじゃないか」
あおいが僅かに俯く。泣いているのか。それとも怯えているのだろうか。だとしたら、何に。
「尋人先輩……」
「尋人、でいいよ」
その言葉に、あおいが息を呑むのが分かった。驚きよりも震えに近いそれは、しかし今の尋人にとっては瑣末なものだった。心を満たすのは、掌から伝わるあおいの温もり。それ以外のものなど、今は何も必要ない。
「尋人……。尋人……っ」
尋人の腕を握るあおいの手に力がこもる。応えるように、尋人も強く抱き締めた。二人は言葉を口にする代わりに、感じ合う互いの温もりを心に刻もうとする。手を離してしまうと、あおいがどこかに消えていってしまいそうな気がして怖かった。
やがて体を離すと二人はもう一度、今度は長く味わうようなキスをした。甘く柔らかな感触に脳がうっとりとする裏で、言葉にならない切なさがほんの少しだけ胸を刺す。
あおいは尋人を見つめると、まるで蕾が綻んだようにはにかむ。恐れや憂いが一つもないその笑顔を、尋人は何よりも愛しいと思った。
二人はまるで世界が流れを止めたような、そんな幸せな錯覚の中にいた。
街が夜に包まれた頃、尋人は杉原調査事務所に駆け込んだ。所長室にいるという佐知子を訪ねるため、急ぎ足で四階に昇ってドアをノックする。
ドアを開けるなり、佐知子の「遅いっ!」という怒声とともに低反発クッションが顔に投げつけられた。
「一時間の遅刻! ついに来たのね反抗期が!」
顔面に走る鈍い痛みに耐えつつ、クッションを受け止めた尋人は佐知子に謝った。
「ごめん。その、忘れてた」
「ほーう。バイトを忘れて遊び呆けるとは、いい度胸してるじゃない。その緩んで捩れただらしない性根を叩き直してやる! ちょっとこっちに来なさい!」
所長席で叫ぶ佐知子はどうやら本気のようだ。尋人は引き攣った表情で立ち尽くす。まずいことをしてしまった。触らぬ神に何とやらという格言は、この人のためにあるのも同然なのに。尋人は戦々恐々として、額に冷汗が浮かべた。
「まあまあ所長、そんなに怒らないであげてください。尋人君、ちゃんと来たんだからいいじゃないですか」
書棚の整理をしていた美弥が、ほけほけと笑いながら助け船を出してくれた。
「尋人君が遅刻なんて、今までなかったじゃないですか。きっとどうしても抜けられない用があったんですよ。今回限りということで、お手柔らかにしてあげてください」
そう言って、美弥は尋人に片目を瞑ってみせる。小柄で黒縁の眼鏡をかけた彼女は、職場における尋人の一番の理解者だ。二十歳そこそこと正社員の中では一番若いのだが、その仕事ぶりは的確かつ迅速で穴がない。美弥は尋人の指導係であるとともに、腕は立つが生活態度がやや悪い佐知子の部下兼お目付け役でもあるのだ。
「美弥は尋人に甘いのよ。もっと厳しくいかないと、これ以上歪んだら困っちゃう」
「あはは。大丈夫ですよ、所長。尋人君は所長ほど歪んでません。若いし純粋だし、多少歪んでいても、矯正の余地がちゃんと残ってます」
美弥は笑顔でさらりと言ってのける。部下が上司に対して、面と向かってそんな物言いをしていいのかと思わないこともなかったが、その疑問を尋人はあえて口にはしない。
「歪みは見た目じゃ分からないわよ。いい機会じゃない、遅れた罰として屋上からぶら下げてみようか。『僕、杉原尋人はバイトに一時間遅刻しました。清水の舞台から飛び下りる覚悟で反省しています』って札を首にかけて」
「所長、屋上からぶら下げられたら人間は死にます。第一ここは京都じゃないし、慣用句の用法も間違っています。というより所長、それは罰でも見せしめでも弟贔屓でもなくて、単なる自己満足という名のドSです。警察に捕まりますよ」
にこにこと朗らかに笑ったまま、美弥は冷静にすぱすぱと切り返す。二人のやりとりに、尋人は別の意味で冷汗を浮かべた。
美弥は書棚の整理を済ませると、佐知子にぺこりと一礼する。
「では所長、あたしは事務所に戻りますね。尋人君、めげずに頑張って」
尋人に軽く手を振って、美弥は部屋を出ていく。手を振り返しながら見送った尋人は、ぴんと背筋を正して佐知子に向き直った。
「尋人、コーヒー淹れて」
先程の美弥の発言を受け流した佐知子が、命令口調で尋人に告げる。尋人は文句を言わずにコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「全く、今日の給料は半額だからね」
「ごめん姉さん、本当に。今度から気を付ける」
「今度遅刻したら、一ヶ月間給料三分の一カット。肝に銘じておいて」
尋人は素直に頷いた。バイト代を日々の小遣いにしている尋人にとって、給料カットはかなり痛い。
尋人はコーヒーを淹れると佐知子に手渡した。佐知子は礼を言って受け取ると、いつもの癖で煽るように飲む。
「毎回思うんだけど、姉さん。熱い飲み物を煽るその癖、直さないといつか喉頭癌か食道癌になるよ」
「それにしても尋人が遅刻だなんて、珍しいこともあるもんね。普段は十分前行動で抜け目ないくせに。明日辺り、雪か霰でも降るんじゃない?」
「姉さん、今はまだ夏と秋の間だよ。雪か霰が降ったら異常気象じゃないか」
忠告を冗談でかわされ、尋人はため息をつく。しかし佐知子は平然としていて、聞き入れる気は全くないようだ。今に始まったことではないので、尋人は別の話題を口にした。
「それで、今日は何をすればいい? 姉さん」
「ねえ尋人、今日は何かあったの?」
質問とは全く関係ない質問を返され、尋人はつい文句を言いそうになるが、今日の己のミスを考えてぐっと堪える。
「……ちょっと人と会ってた」
「人ってあの子?」
佐知子が誰のことを言わんとしているかを正確に読み取り、尋人は度肝を抜かれた。
「何であおいだって分かるの」
佐知子がコーヒーを飲む手を止めて、尋人をちらりと見やる。しばしの沈黙の後、それに深い意味があったわけではなく、当てずっぽうに近い鎌かけであったことに気付いた。
佐知子はコーヒーをうまそうに味わいながら、
「ふーん、あおいちゃんねー。へえ、そうだったの、尋人。お姉ちゃん全然知らなかった」
静かな声音の中に、底知れぬ冷たさが漂っているのを感じて、尋人は思わず逃げ出したくなった。気まずそうに視線を逸らす尋人に、佐知子は「おかわり」と言ってマグカップを押しつける。尋人は素直に従った。
「惚れた弱みってやつね。まあ、いずれこうなるとは思っていたけど、意外に早かったわね。あたし何日目に賭けたんだっけ」
「意外にってどういう意味さ。しかも姉さん、俺を出しに賭け事なんてしてたの? いったい誰と」
非難の目つきで見やるが、佐知子はどこ吹く風だ。尋人はコーヒーメーカーの前で、ふつふつとこみ上げてくる百万語を呑み込む努力をした。
「まあ、そんな冗談はさておき」
「冗談だったのか」
即座に返す尋人を、佐知子は面白がる目つきでにやにやと見つめる。しかし、尋人は遅刻した責任を感じているので、彼女が言うことに文句があっても反論できない。むしろ佐知子はそれを承知した上で思う存分、気が済むまでからかい倒そうとしているのだ。薄ら笑いが浮かぶあの表情は、それ以外の何物でもない。
なんて底意地が悪いのだろう。表面は周囲の信頼も厚い腕利きの女調査員かもしれないが、尋人に言わせればただの折り紙つきのサディストだ。しかし元凶は自分の遅刻であるから、佐知子を責めることは筋違いである。いくら従姉弟といっても、事務所の中では上司と部下の関係であり、家で顔を合わせた時と同じ感覚で楯突くことは許されない。
言葉もなく悶々としていた尋人は、佐知子の表情が冷徹なものへ変わったことに気付いていなかった。
「あの子、今どうしているのかしら」
コーヒーをマグカップに注ぐことに集中していた尋人は、内心の不満がある程度滲んだ刺々しさで返す。
「別に何も問題はないみたいだよ。記憶を取り戻せないことは相変わらず不安らしいけど、変わったことは特にないみたいだった」
「どうかしらね」
尋人は振り返った。佐知子は椅子の背凭れに身を預け、足を組んで宙を見つめたまま煙草に火を点ける。尋人はマグカップを佐知子の前にそっと置いた。
「たとえあの子がどう望もうと、万に一つ記憶が戻ったとしても、きっと逃れられずに呑み込まれていくわ。死に物狂いで足掻いたとしてもきっと、自らを取り巻くしがらみからは逃れられない」
「姉さん……?」
尋人はその言葉の意味を図りかねた。先程とは打って変わって、佐知子は恐ろしいほど静かな表情をしている。どうやら冗談を言っているわけではないらしい。
「どういうこと。あおいを取り巻くしがらみって何?」
「あんたが知らないもの。そしてきっと、今のあの子もそれを知らない」
尋人は眉をひそめた。佐知子の言葉には真実を射抜く鋭さがある。しかし、尋人にはさっぱり要領を得なかった。
「あの子の意思ではどうにもならないのよ。それは運命だから。あの子が望もうと望むまいと、運命はあの子が逃げることをきっと許さない」
佐知子は紫煙を吐くと、煙草の灰を灰皿に落とす。そしてマグカップを取り、コーヒーを煽るのではなくそっと啜った。
「守ってあげなさい、尋人。あの子にはきっと、あんたみたいな人が必要だわ」
「どういうことだよ、姉さん。あおいの身に、また何かが起こるっていうの?」
焦れた尋人が声を上げると、佐知子はそれを制するように片手を挙げた。
「もしもの話よ。予定は未定。先のことなんてあたしにも分からないわ。あたしにできるのはただ一つ、見守ることだけ」
「見守る……?」
「そう、然るべき時が来るまで」
「さっきから姉さんの言ってること、さっぱりわけ分かんないんだけど。あおいにいったい何があるっていうのさ」
混乱しかける思考を抑えて、尋人は問いかけた。しかし、佐知子は無表情で煙草を吹かすだけだ。どうやら明確な答えをくれるつもりはないらしい。
「もしもの話。仮定の話よ。忘れてちょうだい」
「意味深なことばっか言っといて、それはないだろ」
尋人の抗議にも、佐知子は顔色一つ変えない。話は終わりと言わんばかりに、佐知子はデスクの隅にある分厚いファイル三冊を指差した。
「これ、今日中にデータ入力して。三冊全部、ミス厳禁。終わるまで帰っちゃだめよ。これを見事九時までに全部仕上げたら、今日の遅刻はチャラってことにしてあげる。言っとくけど、美弥の手を借りたら今日分の給料はなしだからね」
「九時って、あと二時間しかないじゃないか! これだけの量を二時間でやれって本気?」
「本気よ。頑張ってー。ちなみに、今日のあんたに拒否権は一切なし」
「拒否権なんて、今も昔もあったことないじゃないか。ったく、姉さんはいつも無茶ばかり人に押しつける!」
「救済措置を与えてると言ってちょうだい。ほら、さっさと取り掛からないと、時間は刻一刻と過ぎていくわよ」
慌てふためく尋人を、佐知子は人の悪い笑みを浮かべて眺めている。尋人の性根が緩んで捩れてだらしなく曲がりきっていると言うのなら、佐知子の性根は既に歪みきっていて修復不可能なのではないか。文句を言ってやりたいのは山々だが、今日の失敗のことを考えて我慢するという賢明な判断を下すと、尋人はファイルを抱えて足早にドアに向かった。
「行ってらっさーい。頑張ってねー」
ひらひらと手を振る佐知子を顧みることなく、尋人は所長室を出ていった。階段を駆け下りて事務所に戻り、自分のデスクに座ると急いでパソコンを起動させ、時計と睨めっこをしながら作業を始める。
それまであった余裕が全て吹っ飛んだ尋人は、佐知子の言葉の意味を深く考える暇すらなかった。
陽がすっかり暮れた頃、あおいはマンションに帰ってきた。
玄関に入って電気を点けると、男物の革靴が隅に揃えられていた。暗闇の廊下に目を凝らすと、リビングのドアの嵌め込みガラスに薄ぼんやりとオレンジ色の光が見える。
あおいは靴を脱いで上がった。そして足音を殺して廊下を歩き、リビングのドアを音もなく開ける。テレビデッキの隅に置かれたランプが、室内を淡い光で照らしていた。
ソファには誰もいない。怪訝な表情で見回したあおいは、カーテンの隅の人影に気付いて持っていた鞄を落とした。
物音に気付いた人影が、ゆるりと振り返ってあおいを見やる。
「お帰りなさいませ、あおいお嬢様」
白のワイシャツに黒のネクタイとスーツを纏った竹田がそこにいた。
「驚かせてしまいましたか。申し訳ございません。以前訪れた際、暗闇の中でお待ちしていましたら、お嬢様が大層驚かれたご様子だったので、今日はランプを点けてお待ちしていたのですが」
「あ、あなた、何でここにいるの。もう来ないでって言ったでしょう」
「は。しかし、旦那様の命とあらば致し方ないことでございまして」
あおいはリビングの電気を点けると、鞄を拾い上げてテーブルに置いた。
「悪いけれど、あたしはあなたの顔も見たくないの。帰ってくれない」
「そういうわけには参りません。お嬢様にお会いして言伝をと、旦那様から直々に仰せつかっております。旦那様の命は絶対。違えるわけには参りません」
「言伝……?」
「お嬢様、どうぞお掛けくださいませ。大切なお話がございます。お嬢様の今後に関わる重大なお話でございます。お話しなければ、帰れと申されても帰ることはできません」
あおいはしばし黙り込んだ後、一人掛けのソファに座った。竹田は会釈して二人掛けのソファに腰掛け、咳払いをしてから重々しく口を開く。
「今日私が参上した理由は、先程申し上げたとおり、旦那様からの言伝をお嬢様にお伝えするためです。どうか心してお聞きくださいませ」
あおいは竹田を睨む。竹田は淀みない口調で話し始めた。
「先日の任務の件、旦那様はお嬢様に労いの言葉を申されていました。記憶を失くされているとはいえ、お嬢様の手腕が今も健在であることを、旦那様は大層喜んでいらっしゃいます。そして、あおいお嬢様が正式に《ヴィア》の暗殺者として復帰できるよう、早急に手筈を整えると仰っておられました」
「ちょ、ちょっと待って。《ヴィア》に復帰ってどういうことなの。嫌よ、そんなの。あたしは暗殺者なんかじゃない、人殺しはもう二度としないって言ったはずよ」
「お嬢様がどう仰せになられても、旦那様の命は絶対でございます。あおいお嬢様は《ヴィア》にとってかけがえのないお方。その手腕は旦那様や私、亮太を始め《ヴィア》の誰もがよく存じております」
「そんなこと言わないで! あたしは暗殺者なんかじゃない。たとえ記憶を失う前はそうだったとしても、もう一度なるなんて嫌よ。人殺しはしないって誓ったの。もう二度と罪は犯さない、生きることで償うって決めたの!」
「それはなりません、お嬢様」
「どうして!」
「あおいお嬢様は《ヴィア》の娘だからでございます。お嬢様は《ヴィア》トップに君臨する総一朗様の娘御、ゆくゆくは《ヴィア》を継がれる御身にあらせられます。お嬢様が否とされても、それは決して許されることではございません」
「どうしてなの。あなたたちにあたしをそこまで縛りつける権利が、いったいどこにあるっていうの。父だから? あたしが《ヴィア》の娘だから? そんなことあたしは知らない。どうしても人殺しをしろって言うなら、あたしは水島あおいをやめる。水島の名を捨てて生きていく!」
「水島の名を捨てるなど、そのようなことは戯れでも申されますな、お嬢様」
「あたしは本気よ。人殺しなんてしたくない。あなたたちの思いどおりなんかにならない」
あおいは立ち上がり、リビングのドアを指差して言い放つ。
「帰って。あなたなんて大嫌い。もう来ないで。二度とあなたの顔は見たくない!」
あおいは竹田をきつく睨み、震える肩を上下させていた。竹田は目を伏せて黙り込み、身動ぎすらしない。あおいは口を開きかけるが、竹田がすっと手を挙げてそれを制した。
「致し方ない。旦那様には最後の手段、どうしてもという場合にのみと仰せつかっておりましたが、お嬢様がそこまで頑なでいらっしゃるなら止むを得ません」
竹田はあおいを見据えると、ふとあらぬほうに視線を逸らした。
「……何と申しましたかな、あの少年」
「え?」
「杉原尋人と申したか」
あおいは息を呑んだ。
「お嬢様が《ヴィア》に戻ることを否とされた場合、杉原尋人を亡き者にするようにと、旦那様から仰せつかっております」
あおいは愕然とした。
「杉原尋人はお嬢様が懇意にされているお方。あと、その妹御でお嬢様のご学友、確か名を雪花といったか。そして、その二人の兄上と姉上。これの名は健人と佐知子であったか」
「どうして、知っているの……」
「《ヴィア》はいつもお嬢様のお側におります。お嬢様の現在について、我々が知らぬことなどございません。お嬢様の日常は無論、ご嗜好や人間関係に至るまで、全て把握しております」
「どうするの。尋人や雪花を、佐知子さんを、どうするっていうの……」
「もしお嬢様が《ヴィア》に戻ることを否とされるのであれば、お嬢様のこれからを妨げる者たちとみなし、彼らを我々の手で即座に抹殺いたします。しかし、お嬢様が《ヴィア》に戻ることを是とされるのであれば、彼らの命は旦那様が保証します」
「そんな……卑怯だわ!」
「卑怯ではございません。これは全て、あおいお嬢様のためでございます」
「卑怯よ! そんな風に脅して」
「我々は本気でございます、あおいお嬢様。戯れでこんなことを申し上げているのではございません。全てはお嬢様を思う旦那様のお心遣いでございます」
「嫌よ、そんなの。あたしは人殺しなんかしたくない! 暗殺者になんてなりたくない!」
「では、彼らをただちに抹殺します。お嬢様に害なし、お嬢様の歩まれる道を妨げる輩を生かしておくことなどできません」
「やめて!」
「お忘れかもしれませんがお嬢様、あなた様は《ヴィア》の娘でございます。総一朗様のたった一人のお子であり後継者。そして、《ヴィア》の数ある暗殺者たちの中でも飛び抜けて天賦の才を持ったお方、それがあおいお嬢様でございます。お嬢様が歩まれる道は修羅以外にございません。お嬢様は旦那様の娘として生まれ、《ヴィア》とともに生き、やがては《ヴィア》を背負って立たれるお方なのです。それ以外の選択肢など、初めからお嬢様には存在しません。ですがこれは、記憶を失くされたお嬢様にいきなりこの道を歩ませるのは酷だとお考えになった旦那様が、唯一無二とされた選択肢なのです。冷酷なのではありません。旦那様の慈悲なのです、あおいお嬢様」
あおいはテーブルに寄りかかる。そして言葉もなく咽び泣いた。
「三日間の猶予を差し上げます。その間に答えをご用意ください。三日後、また参ります」
竹田はそう告げると、立ち上がってリビングを出ていく。やがて玄関のドアが閉まると、あおいはその場に崩れ落ちた。
「尋人……尋人……っ」
あおいは頬を濡らす涙を拭うことなく、声を上げて泣き続けた。
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