第2章 罪の衝動

 目の前で展開した出来事を、尋人は瞬時に理解できなかった。

 まるで常温の空間から突然、北極並みに寒い冷凍庫へと放り込まれたみたいで、思考そのものが凍りついて動かない。理解することを脳が頑なに拒んでいる。だから、あおいが能面のような顔で銃口を向けてきたことも、現実に起きていることとは到底思えなかった。

 二人は言葉もなく相対していた。一秒経つごとに、あおいの表情から冷酷さが剥がれていき、銃を握る華奢な指が小刻みに震え出す。それは尋人に、床に落ちて粉々に砕ける一枚の硝子板を想像させた。  

 尋人は叫び出したい衝動を必死に堪えた。あおいの周囲では、七人の男たちが様々な形で倒れている。ある者は仰向けになって手を広げ、ある者はうつ伏せの状態で果てている。共通しているのは、そのどれもが事切れた死体であるということだ。その息の根を止めたのは、自分に銃口を向けてくる見知った少女。

「どうしてこんな」

 痙攣みたく震える唇で尋人は問うた。あおいははっと身動ぎし、握っていた銃を途端に取り落とす。そして、わななく己の両手を漆黒のつぶらな瞳で見つめた。

「水島。どうして君が、こんな」

 尋人の問いかけに、あおいはびくりと全身を震わせる。その表情は、先程の酷薄なものとは打って変わって、今にも泣き出しそうなか弱い少女そのもので、命を脅かされた被害者特有の恐怖と錯乱に満ちている。違うのは、あおいは明らかな加害者であり、同時に被害者でもあるということだ。その曖昧で今にも消えてしまいそうな境界線が、彼女をぎりぎりの淵へと追い立てている。

「あたし、どうしてこんな」

 あおいは緩慢に周囲を見回し、その惨状に愕然と表情を歪ませる。彼女のうろたえぶりに尋人は疑問を覚えた。まるで身に覚えのない出来事を見るような目だ。

「こんな、あたし……っ」

 その呟きが終わるよりも先に、あおいは突然駆け出した。思いもよらない行動に尋人は驚く。一瞬より速く工場から姿を消したあおいを、尋人は我に返るなり慌てて追いかける。

「おい、ちょっと待てよ!」

 工場前に置いた傘には目もくれず、尋人はひたすら走った。激しく降りしきる雨のせいで、視界がヴェールで覆われたようにはっきりしない。尋人は元来た道を走り、必死にあおいを捜した。

「水島! 水島、どこだ! 水島!」

 喉から搾り出した叫びを、雨音が瞬時に掻き消してしまう。道を変えようかと考えた時、角を曲がるあおいの姿が視界の隅を掠めた。尋人は全速力で走り、同じくずぶ濡れで駆ける彼女の右腕を掴む。

「水島!」

 腕を引かれて足をもつれさせ、あおいはその場に前のめりになる。地面にぶつかるすんでのところでそれを支えた尋人は、あおいの両肩を鷲掴みにしてこちらへ向き直らせた。

「水島! 何で逃げ」

 問い詰めようとして、尋人は思わず言葉を呑む。あおいの表情が悲痛そのものだったからだ。あおいは震える手で尋人の服の裾を掴み、声を上げて泣きじゃくる。

「あたし……あたしはどうして」

 震える言葉は雨音に潰される。尋人は息を詰めて彼女の口元を見つめた。

「どうしてあたし、こんなことができるの? こんな、ひどい」

 そして次の瞬間、あおいは苦しげに呻いて頭を抱え込んだ。

「どうした? 水島!」

「あ、頭が割れる。痛い……っ」

 肩を掴む尋人の手を振り払い、あおいは立ち上がって走り出そうとする。しかしすぐ、崩れ落ちるように跪いた。尋人は慌てて近寄ると、あおいの肩を強く揺さぶった。

「水島! どうしたんだよ、しっかりしろ!」

「痛い。あ、いや……。くっ、いやあああーっ」

 雨音を割る甲高い悲鳴に、尋人は思わず身を竦ませた。次の瞬間、ふつりと糸が切れたようにあおいの体が傾ぐ。反射的に抱き留めて、尋人は必死に呼びかけた。

「水島! 水島! しっかりしろ!」

 どれだけ揺さぶってもあおいは動かない。気絶してしまったのか。しかしなぜ。今の尋人には分からないことが多すぎた。

「どうすれば……」

 周囲を見回しても、人影は一つも見つけられない。元々人通りの少ない道だ。誰も自分たちの存在はおろか、廃工場で起きた出来事にも気付いていないだろう。 

 尋人はあおいを抱えて、どうすればいいのかを懸命に考えた。この状況をいったい誰に話せばいい。意識を失くしたあおいを、いったいどこへ連れていけばいいのか。尋人の頭に浮かんだ答えは一つしかなかった。

 尋人はあおいを抱え直すと、立ち上がって走り出した。



 雨は止まない。その激しさは一向に衰えることなく、水の礫が地面を叩き続ける。

 所長席の椅子に腰掛けた佐知子は、ブラインドを一瞥して呟いた。

「なるほど、そういうこと」

 そして、目の前に立つ尋人に鋭い眼差しを投げかける。濡れた髪をタオルで拭きながら、尋人はそれを受け止めた。

「あんたはあたしが頼んだ用事に向かう途中で、あの子が男たちに絡まれるところを目撃した。気になったあんたはそれを追いかけた。だけど、辿り着いた廃工場であんたは、あの子が男たちを殺す現場を目撃してしまった」

 淡々とした佐知子の言葉に、尋人は一瞬頷くことを躊躇う。だが事実なので仕方なく頷いた。佐知子はポケットから煙草を出し、火を点けて深く吸い込んだ。

「ばかなことをしたわね」

 意外なほど冷めた響きに、尋人は顔を上げた。佐知子は煙草を吹かしながら、あくまで冷静な口調で続ける。

「殺人現場を目撃したなら、なぜあたしより先に警察に電話しなかったの? しかも、その犯人をここに連れてきたりして。殺人犯を匿ったと取られても文句は言えないのよ」

「だけど、水島は倒れて……」

「それなら救急車を呼べばいいことでしょう。あんたは一番にすべきことよりも、被疑者のあの子を助けることを優先した。それが正しいことだったと本当に言える?」

 尋人は黙り込む。頭を振って否定する気力もなかった。

「殺人現場を見て動揺した? らしくないわね、尋人」

「……だけど、放っておくこともできなかった」

「でしょうね。あんたの性分を考えると容易に想像がつくわ。全く、優しすぎるのよ、あんたは。優しいのは十分にいいけれど、すぎるのはある意味問題だわ」

 呆れたような佐知子の言葉に、尋人は何も言い返せなかった。佐知子もそれ以上責めることはせず、吸っていた煙草を灰皿に押しつけるとコーヒーを啜る。

 あおいが意識を失くした後、尋人は彼女を抱えて杉原調査事務所に駆け込んだ。ずぶ濡れの姿で事務所に現れ、まだ仕事で残っていた佐知子に、あおいを助けてほしいと懇願したのだ。佐知子は最初こそ驚いていたが、事情を知るとまず、あおいを仮眠室に運ぶよう指示した。そして、既に帰宅した事務員の古川美弥を呼び出し、あおいの側についているよう言い渡した。美弥によると、あおいはただ眠っているだけで外傷はないという。あおいが目覚めれば、下階の事務所に連絡が来る手筈になっていた。

「あの子、あんたの知り合い? 名前は?」

 佐知子の問いで我に返った尋人は、しばしの間の後に頷いて答えた。

「水島あおい。雪花と同じクラスの子だよ」

「雪花と? 中学生なの?」

「うん。あ、いや、今は中学生だけど、二年間留年してたらしいから、年は俺より一つ下かな。家は確かF野町で、マンションで一人暮らしだって言ってた」

「どういう知り合いなの?」

 尋人は困った。的確な言葉が見つからない。

「中等部に用事で行った時に会ったんだよ。それで少し話をした」

「もしかして、あんたが言ってた記憶喪失の女の子?」

 佐知子の指摘に尋人は驚く。相変わらず、勘の鋭さは佐知子の天性の感覚だ。うろたえて視線を泳がす尋人を見て、佐知子は彼が言おうとした大体の事情を察したらしい。

「なるほどね。あんたが恋した女の子が殺人犯だったってわけか」

「そんな言い方するなよ。大体あれは、水島があいつらに襲われたから仕方なくやったことかもしれなくて」

「でも殺人は殺人よ。あの子は人を殺した。その事実は揺らがないわ」

 凛然と告げられた一言に、尋人はぐっと黙り込む。

「確かにあんたの言うとおりなら、現場の状況と証言のしようによっては正当防衛が成り立ったかもしれない。だけど、それは警察を呼んで初めて始まることよ。呼ばなかった今となってはどうにもならないわ。それに、本当はそうじゃないかもしれないって言ったのは尋人よ。違う?」

「そうだけど……」

「あの子が彼らを殺す現場を見たのは尋人だけよ。その時感じたんでしょう?」

 言い逃れを許さない口調で問われ、尋人は二の句が継げなくなる。しばしの逡巡の後、言葉を選んで答えた。

「あそこで何があったのか、俺にはよく分からない。俺は水島があいつらを殺すとこしか見てないから。けど、まるで映画みたいだった。スパイ映画とか、サスペンス映画とかでよくあるアクションシーンの一つみたいな。動きが目に見えないぐらい早くて、相手は大の男なのにまるで歯が立ってなくて。あんな小柄な女の子が、とても信じられないけど」

「手慣れてるみたいだった? 鮮やかで隙がなくて、まるで訓練されたような正確さで」

 尋人は頷くしかなかった。目を閉じると、脳裏にあの殺戮の光景がまざまざとに蘇る。途端に喉元までこみ上げてきた不快感を、尋人は拳を握り締めることでやり過ごした。

「なるほどねー。まあ、彼女が目を覚まさないことには何とも言えないわ」

 マグカップを片手に、独り言みたく佐知子は言う。尋人は何も答えず、自分の中に広がっていく苦い気持ちを抑えることに必死になっていた。

 雨音に紛れるように流れていた沈黙を、無機質な電話音が破る。一回目のコールで佐知子は素早く受話器を取った。

「あたしよ。ええ……ええ、そう。分かったわ、すぐに行く」

 出た時と同じぐらいの早さで電話を切ると、佐知子はマグカップを置いて立ち上がる。

「あの子が目覚めたわ」

 尋人は弾かれたように顔を上げ、慌てて佐知子についていく。二人は非常階段を足早に昇り、一階上の四階の仮眠室に向かった。

 佐知子は仮眠室の前に立つと、パネルを操作してセキュリティロックを解除した。そして一呼吸置かずにドアを開け、尋人もその後に続く。

 四台あるベッドのうち、右側の奥のベッドに美弥がいる。美弥は佐知子を見るなり立ち上がった。

「所長、お目覚めになりました」

「ご苦労さま。悪いけど、ここはあたしに任せて、美弥は事務所で電話番しててくれる? 話が終わったらすぐに戻るから」

「承知しました」

 美弥は佐知子に一礼し、後ろにいた尋人に目礼すると部屋から出ていく。靴音が遠ざかり、完全に聞こえなくなったのを確認すると、佐知子はベッドに歩み寄った。起き上がり、虚ろな眼差しを泳がせていたあおいが、佐知子に気付いてゆるりと顔を上げる。

「あなたは……」

 雨音に紛れてしまいそうなほど小さな声を、佐知子は聞き逃さなかった。

「初めまして。杉原調査事務所の所長、杉原佐知子といいます。よろしくね」

「初め、まして。……あ、尋人先輩」

 佐知子の背後に尋人の姿を見つけ、あおいの眼差しがほっと和んだのが分かった。尋人は痛ましい思いに駆られ、目を逸らしたくなる衝動をかろうじて堪える。

「……ここは、どこですか」

「駅前にあるあたしの事務所よ。あなたは雨の中で倒れて、偶然それを見つけた尋人がここまで運んできたの。この子とあたしは従姉弟でね、ここは尋人のバイト先でもあるの」

「倒れた……んですか、あたしが」

「そう、あなたが。覚えてない?」

 あおいは少し俯いて考えるそぶりをした後、小さく首を振った。思わず口を挟もうとした尋人を、佐知子が軽く右手を挙げて制する。

「あたし……倒れた、んですか。どうして」

「さあ。詳しいことは知らないけれど。それより調子はどう?」

「頭が……頭が少し、痛いです」

「そう。どんな感じに? じんじん痛いの? それともがんがん来る感じ?」

「刺すような……」

「そう、刺すような痛みなのね。じゃあ横になったほうがいいわ」

 あおいは素直に頷いて横になる。佐知子は近くにあったパイプ椅子に腰掛けた。

 佐知子があおいに向ける眼差しは優しく、事実を知っているのに頭ごなしに責めることをしない。その一方で、時折鋭い眼差しを尋人に投げかけ、口を挟まないよう無言で命じてくる。尋人はただ立ち尽くし、二人の会話の行く末を見守るしかなかった。

 佐知子は不安に縮こまる子供を宥めるように、そっとあおいの髪を撫でる。

「寒くはない? だいぶ雨に濡れたみたいだから、服は悪いけれど替えさせてもらったわ。髪もできるだけ乾かしたの。さっきまでずっとお姉さんが側についてたでしょう? 彼女がやってくれたのよ」

「そう……なん、ですか。ありがとう、ございます」

「それでね、しんどいあなたには悪いんだけど、いくつか尋ねていいかしら」

 あおいはこくりと小さく頷く。だがその表情は青ざめていて、体調的につらい状態であることが見て分かる。佐知子は穏やかな口調で切り出した。

「今日が何日だか分かる?」

「分からない、です」

「何曜日かも?」

「昨日が何曜だったのか……覚えてない、です」

「でも天気は分かるでしょう?」

「雨音が、聞こえる」

「そう、雨なの。すごい雨でね、今も土砂降りで。そんな雨の中、あなたはどこにいたの? どこかへ行っていたの?」

「分からない……。覚えてない、んです」

「何も?」

「はい。何も、分からない」

「そう。いいわ、そんなつらそうな顔しないで。責めてるわけじゃないんだから。じゃあ、覚えていることを話してくれるかしら? 何でもいいわ。些細なことでも構わない」

「ごめんなさい。本当に、何も分からないんです……」

 消え入りそうに呟いて、あおいは目を閉じる。それ以上何も訊いてほしくないと表情で訴えているのを、賢明な佐知子は正確に読み取った。

「分かったわ。何も分からなくて、今一番混乱しているのはあなただものね。そんなに思い詰めないで。思い出せた時にまた話してくれたらいいわ」

「ごめんなさい……」

「今日はここに泊まっていきなさい。深夜を廻ってるし、この雨の中、外に出たら今度こそ風邪引いちゃう。それに、あなたもまだ本調子じゃないようだしね。あたしと尋人は事務所に下りるけど、さっきいたお姉さんをまた呼ぶから。あなたの側にいるように言うから、何かあったら彼女に言いなさい」

「はい……」

 あおいはそっと布団を引き上げる。その時、尋人と目が合った。あおいは虚ろげな瞳に小さな光を灯し、

「尋人先輩……迷惑かけて、ごめんなさい」

 どう返すべきか尋人には分からなかった。答えあぐねているうちにあおいは目を閉じ、すうすうと寝息を立て始める。佐知子は椅子から立ち上がり、靴音を立てないよう慎重な足取りでドアに向かう。尋人はしばし迷ったが、彼女の後に続いた。

 佐知子は廊下に出ると、パネルを操作してセキュリティロックをかける。そして、もう仮眠室には見向きもせずに、非常階段を足早に下りていった。尋人はその後を追いかけ、

「姉さん、いいの?」

「いいのって何が」

「何がって……」

「ロックはかけたし、あそこから逃げ出すことはできないわ。それに、あの子が何も覚えてないのに、これ以上どうしようもないでしょう」

 事務所に入ると、佐知子はデスクでコーヒーを飲んでいた美弥に、仮眠室に行くよう指示を出す。そして美弥が出ていった後、尋人にコーヒーを淹れるよう命じた。尋人は逆らうことはせず、言われたとおりコーヒーを淹れて佐知子に渡す。佐知子は礼を言って受け取ると、うまそうに一口啜った。

「信じるの? 水島が言ったこと。何も覚えてないって……」

「あの子は嘘を言ってない。本当に忘れてしまっているのよ」

 尋人は驚いて佐知子を見た。その意外そうな眼差しに、佐知子は気分を害して睨み返す。

「あんたね、あたしを誰だと思ってるの。これでも元県警捜査一課の刑事、今は調査事務所の所長よ。相手の言葉が嘘か真実かぐらい一目で見抜けるわ。侮らないでちょうだい」

「別に侮ったわけじゃなくて、信じるのかって訊いてるの」

「信じるも何も、あの子がそう言うんだから仕方ないでしょう」

「だから、そういうんじゃなくって……」

 なおも言い募る尋人に、佐知子はコーヒーを飲みながら答える。

「事件の当事者はあの子。現場には殺された男たち以外、目撃者はあんたしかいなかった。しかも被疑者は未成年で記憶喪失。警察はともかく、あたしですら頭を抱えたくなるようなややこしい状況なの。そもそも、殺人犯逮捕ってのは物証があってこそ成り立つもので、裏付けなしの証言だけなら、それは正確な証拠とは言えないわ。事件直後にあんたが警察を呼ばなかったんだから、現行犯逮捕も正当防衛の成立も現時点では不可能。つまり、今のあたしたちにできることはないの。分かった?」

 尋人が渋々頷くと、佐知子は満足したようにコーヒーを一気に煽る。その癖を咎めるだけの気力が今の尋人にはなく、ただ深々とため息をつく。

 佐知子はコーヒーを飲み干すと、思い出したかのように言い出した。

「ああそうだ。尋人、あんた今日はもう帰りなさい。アクシデントでこんなに遅くなっちゃったけど、あんたはまだ高校生なんだから」

「こんな時に言うのは何だけど、俺が高校生だって意識はあったんだね、姉さん」

「駅前でタクシー捕まえて帰りなさい。はい、タクシー代。これだけあれば足りるでしょ」

 千円札を二枚渡され、尋人は素直にそれを受け取る。思いもかけなかった事態を目の当たりにし、言葉にこそしないが尋人は疲労困憊していた。すぐにでも自分のベッドに飛び込んで眠ってしまいたいというのが、今の尋人の正直な本音である。

「じゃあ俺は帰るけど、何かあったら教えてね、姉さん」

「教えられることならね」

 その微妙な言い回しの裏にある意味を、尋人はちゃんと読み取った。今後の成り行きによっては、公にできない事態に発展するかもしれないということだ。そうなれば、一般人で未成年の尋人は関わることすらできなくなる。状況の深刻さに、改めて苦い気持ちになった。しかしそれを口にはせず、尋人は黙ってドアに向かう。

「あ、尋人。言うまでもないと思うけど、このことはオフレコだからね。父さんにも母さんにも、雪花にも健人にもよ。もし健人が何か訊いてきたら、自分からは言えないからあたしに訊けって言いなさい。分かった?」

 尋人は返事をする代わりに、右手をすっと挙げて了承の意を伝えた。そして事務所を出て、エレベーターに乗って一階に下りる。深夜一時を廻ったビル内は人の気配が微塵もなかった。外は雨が絶え間なく降りしきっており、激しさは幾分か収まったものの止む気配はない。

 尋人は傘立てにあった適当なビニール傘を掴み、ばっと広げて歩き出した。そして、両肩にのしかかってきた目には見えない重さを実感し、ため息を吐き出す代わりに深々とうなだれた。



 夜から明け方にかけて降りしきっていた雨は、朝になってようやく上がった。外は昨夜の雨が嘘のような陽気で、人通りの多い駅前のビジネス街は活気に満ちている。まるで全ては夢だったと言わんばかりの変わりようだ。

 時刻は午前十一時を廻った。八時頃にあおいが目覚めたので、佐知子は少し話をした後、彼女を家に帰した。あおいは体調が優れないらしく、今日は学校を休むと言った。言われてみれば彼女の顔色は青白く、全体的に生気が薄いような印象を受けた。しかし、そんなことは佐知子にとっては瑣末なことだった。

 あおいが帰ってから、佐知子は所長室で調べ物をしていた。あおいの素性を調べてみたのだ。人物調査の場合、名前と住所さえ分かっていればそう難しいことではない。案の定、パソコンのモニターにはあおいに関する情報がすぐに映し出された。

 コーヒーを飲みながらそれに目を通していた時、佐知子宛に電話がかかってきた。相手は杉原健人である。佐知子にとっては同い年の従兄であり、尋人にとっては十歳上の兄である彼は、県警の捜査一課に勤務している。若いが有能な刑事として警察内で顔が利く彼に、佐知子は昨夜の事件について問い合わせていたのだ。親族として普段から仲が良く、警察から極秘に調査依頼が来る時のパイプ役である健人は、二つ返事で了承してくれた。

 佐知子は椅子に座り直すと、挨拶もそこそこに話を切り出した。

「それで、警察はこのことをどう収拾つけるつもりなの?」

 受話器の向こうから聞こえてきた答えに、佐知子は一瞬言葉が詰まった。だが、それを気付かせないよう意外そうな反応を示してみる。

「へえー……そうなの。仲間内の揉め事、ね」

〈分かっていたのか?〉

「分かるわけないでしょう。こうして訊いてるぐらいなんだから」

〈そりゃそうだな〉

「で、どうしてそういうことになったの? 根拠は?」

 受話器の向こうで健人は一瞬黙り込んだ。情報漏洩にならないよう、言葉を選んで慎重に話そうとしている。従兄妹同士で親しくはあるが、踏み越えてはいけない職業柄の線を守ろうとしているのだと分かった。

〈この事件は俺たち一課の管轄じゃないが、上がってきた報告書を見たらそうとしか言いようがないな。所轄は少なくとも、これを仲間内の揉め事で片付けるつもりらしい〉

「グループの中で何かしらの諍いが起こり、揉めて揉めた末に銃やナイフでの殺し合いに発展した……そういうこと?」

〈ああ、それが一番有力だ。凶器からはホトケの指紋も出てるし、ホトケ以外の誰かがいた形跡も残っていない。現場は人通りのない道にある、もう随分前に潰れた廃工場だ。近所の人間も、柄の悪い奴らの溜まり場になってるって、気味悪がって近寄らないらしい〉

「銃声は聞こえなかったのかしら。派手にドンパチやったんじゃないの?」

〈花火か何かだと思ったんだそうな。随分と平和な奴らだ。誰があんな雨の夜に花火なんかするかっての〉

 毒づくような健人の物言いに、佐知子は思わず笑ってしまう。だが、すぐに表情を引き締めた。

「つまり、有力な目撃情報はないってことね。通報者は?」

〈どこのどいつかは分からん。公衆電話からかけられていて、男の声だったらしいが、何かくぐもって聞こえたんだと〉

 佐知子は少し考え込んだ。

〈ホトケは近所じゃ有名な不良グループで、中には麻薬や拳銃に足突っ込んだ輩もいたらしい。八人中五人は未成年だったが、高校中退やらで学校にはまともに通ってない。残りの三人もまだ二十歳そこらで、定職には就いてないな。悪いことも相当やってたらしくて、サラリーマンをボコボコにしたり、若い女を襲ったりして何度かしょっぴかれてる。成人してる三人のうち、二人は少年院に入った経歴もある。まあ要するに、筋金入りのワルだってこった〉

「仲間内で揉めたって言うけど、その根拠はどこに? そういう噂でもあるの?」

〈ああ。そこらの不良グループにちょいと話を聞いたとこによると、仲良しグループってわけじゃなかったらしいな。利害一致と金によって繋がってたらしい。それもほとんど綻びかけてて、仲間内で殴り合いの喧嘩なんてしょっちゅうだったとか。まあそれも全部、憶測の範疇を出ないがな〉

「じゃあ捜査はそれで終了したのね?」

〈ああ。そう難しい事件じゃないし、状況は誰が見ても明白だ。よって捜査本部が作られることなく、その日のうちに終わったらしい〉

 佐知子は黙り込んだ。片手でメモを走り書きしながら、頭の中で情報を整理していく。

〈……なんだがなあ〉

「え?」

 ペンを走らせることに神経を集中させていた佐知子は、危うく健人の呟きを聞き逃すところだった。

〈どうも納得がいかん〉

「珍しいじゃない、あなたがそんなこと言うなんて。どういうこと?」

〈珍しいこたぁないさ。俺の日常の八割は多忙と不条理でできてるぞ〉

「茶化さないで。ほら、話しなさい。何が納得いかないの?」

 冗談に取り合わない佐知子に苦笑した健人だが、ふと口調が真剣なものになる。

〈言ったとおり、このヤマは俺らの管轄じゃないから、お前に頼まれて初めて報告書に目を通したんだが、どうも変な感じがしてな。このヤマはどう考えても一個だけ、納得がいかないおかしなことがある〉

「何?」

 佐知子の口調も、自然と硬いものになる。健人は声を潜めるようにして話した。

〈ホトケの中に一人、延髄をナイフで刺されて死んだ奴がいるんだ〉

「延髄を?」

〈ああ。ナイフで一突き、鮮やかなもんだ。報告書によると、離れた場所から投げつけられたような刺さり具合だったらしい。勿論ホトケは即死だ〉

「直接押さえつけるなり何なりして刺したものではないと」

〈そうだ〉

 佐知子は沈黙をもって続きを促す。

〈俺にはそれがどうも気になってな。離れた場所からナイフを投げつけて延髄を一突きなんて、そうそうやれる芸当じゃない。少なくとも、好奇心だけで悪さに手を出すような輩にできるようなもんじゃないだろう。相当手慣れたプロの技だと俺は思うんだが〉

「はっきり言いなさいよ。あんたの勘がやばいって告げたんでしょう? これは何か裏があると」

〈そう歯に衣着せぬこと言うな。こっちは立場上、言葉を選んで言ってるんだから〉

「あら、あたしとあんたの間でそんな気を遣うことある? はっきり言ってくれないと、こっちのほうが焦れちゃうわ」

〈忍耐力のない女だなあ、お前〉

「これでも我慢したつもりよ」

 あっさりと返されて、健人は言葉もないようだ。受話器の向こうで苦笑いしている。

〈それでお前からの電話ときた。お前が俺たちに情報提供を求めてくるなんて、事態がやばい方向に発展したか、厄介なヤマを持ちかけられた時ってのが相場だろ。んで、このもやもやする謎を、お前がいつものとおりさくさくっと解決してくれたらなってのが、俺の淡い希望なわけよ〉

「それは個人的依頼と取っていいのかしら?」

〈誰にも言うなよ〉

「この事件の裏を調べてほしいってことね」

〈そのとおり〉

「個人的だから一課長は知らないのね? 周囲にはオフレコ?」

〈オフレコだ。これはあくまで俺の個人的疑問だからな。たかがそれだけに探偵使うのは気が引けるが、殺しが絡んでるということで目を瞑ってくれ。それに、表沙汰にするといろいろややこしい〉

「でしょうね。県警が所轄の捜査に口を出すとか言って、現場の奴らはごねるでしょう。特捜本部もなしで終わった事件を今更ってね」

〈それもあるが、何となくそんな気がするんだ。なるべく穏便に済ませたほうがいい。俺の勘違いならそれでいいし、違うなら事を荒立てずに運びたい。このヤマは何かきな臭い感じがする〉

「あなたがそこまで言うってことはよほどね」

〈ああ。頼めるか?〉

 佐知子はしばし考え込むそぶりをした。

「いいわ、分かった。その依頼、受けましょう」

〈助かる。依頼料はどうする?〉

「『クライデール』での食事代っていうのはどう? 飲み代、おつまみ代を合わせて全部」

〈そんなんでいいのか?〉

 健人は意外そうな声を上げた。佐知子は思わず笑ってしまう。

「面白いこと言うわね。そんなのって、何だと思ってたの」

〈いや、普通に金かと思ってた。いくら親族であろうとお前、ビジネス面ではシビアにいくだろ。これまでもずっとそうだったし〉

「今回だけ特別よ。正直、健人から依頼があって助かってるところなの。動くための大義名分がほしいなと思ってたところだったから」

〈どういう意味だ? まさかお前、またやばいことに首突っ込んでんじゃないだろうな〉

「あら、似合わない台詞ね。あんたもあたしも、危険なんて隣り合わせな仕事でしょう?」

〈そりゃそうだが……〉

「大丈夫。必要になったら健人にも言うわ。とりあえず依頼は受けました。報告は事が進み次第、随時『クライデール』でどう?」

 その時、受話器の向こうで〈杉原さん、出動ですー!〉という声が聞こえ、慌てた健人が〈じゃあよろしく〉と言って電話を切った。

 佐知子は受話器を置いて、温くなったコーヒーを啜る。そしてマウスを操作して、一度閉じたファイルを開いた。瞬時に表れた文字の羅列を、佐知子はひとりごちるように読み上げる。

「水島あおい、一九九〇年五月二十日生まれ、本籍地K県、血液型O型。建設業国内大手の水島コーポレーション会長、水島総一朗の一人娘。……まさか《ヴィア》にこんな形でまた出会えるとは思わなかったわ」

 これは神の啓示だろうか。佐知子は無宗教であるし運命論者でもないが、こうも偶然が重なると疑わざるを得ない。昨夜起きた殺人事件、そしてこのデータ。偶然にしてはできすぎている。

 尤も本人はそれを知らないだろう。あおいは嘘を言っていない。記憶を失くしていると言うのだから、恐らく何も知らないし覚えていないだろう。彼女は生まれたての赤子のように無知で、危ういほどに純粋な心を持っている。それは時として無条件で異性の気を惹く魅力になるが、一方では諸刃の剣にもなりかねない危険性を持っている。

 あおいは、外見だけでは世間一般の十代の少女と何ら変わらない。しかし決定的に違っている一面がある。《ヴィア》の娘ときたら、その素性は火を見るよりも明らかだ。

「神があたしに動けと言っているのね」

 さもおかしそうに佐知子は呟くが、その表情は言葉とは裏腹に冷徹なものだった。モニターに映る、どこか焦点の定まらないあおいの写真を、冷笑を浮かべて睨みつける。

 まさかこんなところで再びまみえるとは思っていなかった。佐知子にとっては一世一代のチャンスだ。これを逃す手はない。しかし、こんな形で出会うとは予想外だった。人生一寸先は闇、何が起こるか分からないとはよく言ったものだ。

「問題はあの子が記憶喪失なことと、尋人が恐らく何も知らないであろうこと。困ったわ、どうしようかしら」

 本当に困ったという風に、佐知子はため息をついた。しかしその仕草とは裏腹に、愉快でたまらないといった表情である。胸の中に去来するのは過去の憎しみではなく、ようやく巡り合えた喜びだった。我ながら裏表のある性格だと思わなくもないが、正直な気持ちなのだから仕方がない。

 佐知子はモニターの画面を閉じて、懐から煙草を出して火を点ける。そして背凭れに体を預け、肺いっぱいに深く吸った。

 ふと思い立ってコーヒーカップに触れると、まるで水のように冷え切っている。その冷たさに指を引いた佐知子は、首元で光るシルバーリングのネックレスを、温もりを求めるかのようにそっと握り締めた。



 眩い太陽の陽射しに貫かれ、あおいは思わず目を手で隠した。

 杉原調査事務所から帰宅してから、あおいは昼も夜もベッドの上で過ごした。一日目は帰宅してすぐ、パンを少しとオレンジジュースを口にしたが、一時間もしないうちに全部吐いてしまった。深夜になってふらつきながら近くのコンビニまで行き、カップスープを買ってきて食べた。その後はすぐ眠り、次に目が覚めた時は夜が明けていた。翌日も学校を休み、コンビニで買ってきたスープだけを口にし、同じようにしてまた夜を明かした。そして朝から学校に出掛けた。

 あおいは授業中も、休み時間も窓の外を眺めていた。時刻は昼休みを廻り、周囲は活気に満ちていて賑やかだが、あおいは席に座ったまま、クロワッサンをちびちびと齧っていた。あおいのすぐ横を男子が走り抜け、それを追いかけてまた別の男子が声を上げて走っていく。少し離れた場所で女子が固まって、きゃあきゃあと会話に花を咲かせている。

 あおいはクロワッサンを袋に入れると、椅子から立ち上がった。教室を出てひたすら廊下を歩く。一階に下りて少し歩いていると、黄緑の芝生が鮮やかな中庭があった。

 あおいは中庭に続く扉を開け、コンクリートの階段に座る。そしてクロワッサンを一口齧って上を仰いだ。中庭には芝生と一本の常緑樹以外は何もなく、真っ青な空に時折鳥が一筋の軌跡を描いては消えていく。

「あれ、ここで何してるの?」

 振り返ると、紺色の小さなトートバッグを提げた女生徒がいた。

「ああ、何だ、あおいじゃない。びっくりした」

「誰……?」

「誰って、杉原雪花よ。クラスメイトの杉原ゆ、き、か。何回目かの対面なんだから、いい加減顔と名前覚えてくれたっていいじゃない。こんなところで何してるの?」

「別に」

「ここでお昼食べてたの? 一人で? なんて寂しいことしてるの。教室で食べればいいのに」

「だってあそこ、うるさいもの」

「うるさいのが嫌いなの?」

「嫌い……ってわけじゃないけど、静かなほうがいい」

「だからって一人はないでしょ、一人は。寂しすぎるわ。いーい? お昼は一人で食べるもんじゃないの。みんなと一緒に騒ぎながら食べるもんなの。友達いないの? 誰か一緒に食べる人いない?」

 あおいはふいと顔を背ける。すると、雪花がしまったという顔になった。

「ごめん。あたしってば言いたい放題言っちゃった。こんなこと言われたって嫌な気持ちになるだけよね。ごめん、気にしないで。あたし口悪くて、思ったこと何でも言っちゃうの。悪い癖。だからごめん」

 雪花は慌てて言い募り、最後にぱんと両手を合わせて拝んでくる。

「……別にいいよ。怒ってないから」

 雪花はほっとしたように笑った。あおいは彼女の横をすり抜けて、そのまま廊下を行こうとする。

「そうだ。ねえ、あおい。これから一緒に高等部に行かない?」

 振り返るあおいの手を取って、雪花は懇願の眼差しを向けてくる。

「尋兄ちゃんにお弁当持っていくの。尋兄ちゃん、朝持っていき忘れてさ。あたし一人で高等部行くのもつまんないから、あおいも一緒に行こうよ。あおい、尋兄ちゃんと知り合いなんでしょ?」

 あおいが黙っていると、雪花は手を取ってつかつかと歩き出した。

「あ、あの」

「高等部はこっち。早く行かないとお昼休みが終わっちゃう。あたし、まだご飯食べてないのよ」

 雪花はあっけらかんと言いながら、あおいの手をぐいぐいと引っ張る。

「あの」

「ん、どうしたの?」

「どうしてあたしに構うの? 一緒に行く子なら他にいるでしょう。それに、どうしてあなたはあたしのことを名前で呼ぶの?」

「え、名前で呼ばれるの嫌い?」

 雪花はきょとんと目を丸くする。

「だって、友達って名前で呼び合うものでしょ? あたしはみんなに雪花って呼ばれてるよ。あおいは嫌なの?」

「嫌、じゃないけど。友達なの? あなたは」

 その言葉に、雪花が初めて立ち止まる。

「嫌……なの?」

 傷ついた表情の彼女に、あおいは目を逸らす。やがてあおいが首を振ると、雪花はぱあっと明るくなった。

「ああ、よかった。嫌われたのかと思った。あたしね、周りに積極的すぎだってよく言われるの。下手したらうざいキャラだぞって。だからそう思われたのかと思った。よかったあ、ほっとしたよ」

 雪花はにこにこと笑いながら、

「あたしはね、あおいと友達になりたいの。せっかく同じクラスで席も隣なんだもの。これも何かの縁でしょ? 留年の話とかあたし気にしてないし、周りの子が何を言ったってあたしはあたしだから、そんなの全然気にしないよ」

 雪花の屈託のない笑みに、あおいは初めて微笑み返した。雪花はますます嬉しそうにはにかむ。

「さあさ、行きましょ。時間がどんどん過ぎてっちゃう」

 雪花はあおいの手を引いて再び歩き出す。あおいもついていった。

 二人は下駄箱で靴を履き替え、道路を挟んで真向かいにある高等部へと足を急がせた。あおいは中等部と比べて少し大きめの校舎と、赤みがかかった葉をつけた桜並木を見やりながら、ひたすら雪花の後に続いて歩く。

 桜並木の奥にある昇降口の前で、尋人と四人の男子生徒が壁に凭れていた。雪花は尋人の姿を見つけると、声を張り上げて大きく手を振った。

「尋兄ちゃーん!」

 その声に気付いた尋人たちの視線が、まっすぐ雪花に向けられる。雪花はあおいの手を離すと、尋人の元に駆け寄っていった。

「尋兄ちゃん、はいこれ、お弁当」

「おお、悪いな」

「ほんとだよー。尋兄ちゃんが出てった後にお母さんが気付いたの。追いかけるの面倒くさいから持っていけって言われて」

「俺も出た後に気付いたんだ。ありがとな」

 にこやかに兄妹の会話を交わす二人を、側にいた男子生徒たちが「いいなあこの野郎」「雪花ちゃん久しぶり」と言いながら囲んでいる。

 その様子を、あおいは少し離れた場所に立って見ていた。雪花や仲間たちと話していた尋人の視線がふと流れて、その向こうにいるあおいを捉える。その瞬間、尋人の表情が止まった。それを不思議そうに見た雪花が、視線を追ってその理由を納得する。

「ああ、途中であおいと一緒になってね、ついてきてもらったの。尋兄ちゃん、あおいと知り合いでしょ? だから」

 雪花の言葉に、男子生徒たちの目の色が変わった。

「雪花ちゃんの友達? 初めて見る子だなあ」

「おい尋人、あんな可愛い子と知り合いなのかよ」

「抜け駆けしやがってずるいぞ!」

「俺にも紹介しろや」

 口々に言う仲間たちを適当に流して、尋人がこちらに歩み寄ってくる。しかしその表情は硬い。仲間たちはそんな彼を不思議そうに見ていたが、すぐにまた雪花と喋り出した。

「こんにちは」

 尋人は一瞬迷った後に頷く。あおいは小さく首を傾げた。尋人は少し沈黙して、

「あれから調子はどう?」

「大丈夫です。あの日は本当に、迷惑をかけてしまってごめんなさい」

 あおいはぺこりと頭を下げた。

「まだ少ししんどい時がありますけど、ほとんど大丈夫です。学校にも何とか来られたし。そういえばちゃんとお礼言ってなかったなと思って、一緒についてきたんです。助けてもらったのに、あの時言えなかったから」

「本当に……」

「え?」

「本当に、何も覚えてないの?」

 あおいはきょとんとした。尋人は硬い表情のまま、もう一度同じ言葉を口にする。

「本当に覚えていないの? あの雨の夜のこと、何も」

 あおいは目を瞬かせた。何度も視線を泳がせて俯く。

「ごめんなさい、何も……」

 そう言うと、尋人は硬い表情に苦渋を深めた。

「あの、あたし、何かしたの……?」

 あおいの言葉に、尋人はぎくりと反応する。しかしそれは一瞬だった。

「いや、覚えてないならいいよ。体、お大事に」

 尋人はそのまま背を向けて仲間たちのところに戻っていく。そして雪花にもう一度礼を言うと、彼らとともに高等部の校舎へと向かう。

「じゃあねー、尋兄ちゃん!」

 雪花の声に応えるように手を挙げると、尋人たちの影は校舎の中へ消えた。雪花が「帰ろっか」と言って歩き出す。しかしあおいは立ち尽くしていた。

「尋人先輩、怯えてた。あたし、何かしたの……?」

 いつまでもついてこないあおいを見かねて、雪花があおいの手を引っ張る。行きと同じく連れられる形で歩いていたあおいは、中等部の門に入った瞬間に立ち止まり、もう一度だけ高等部を振り返った。



 昼休みの出来事の後、尋人は一気に口数が少なくなってしまった。普段からそう多いほうではないと自分では思っているが、午後からは無口に近い状態だった気がする。

 その変化に、昼休みに一緒にいた友人たちから「彼女が来たからって照れるなよ」「隠しやがってこの野郎」とさんざんからかわれたが、それに対応することすら正直煩わしかった。授業が終わると、尋人は「バイトがあるから」と友人に掃除当番を替わってもらい、そそくさと学校を後にした。いつもと明らかに違う態度だったから、しばらく話の種にされるだろうが、そんなことはどうでもよかった。

 あおいの態度が信じられなかったのだ。五日前にあんな凶行を演じておいて、本人はまるで何事もなかったかのようにけろりとしている。いや、実際彼女の中では何もなかったのだろう。記憶がないというのは、つまりはそういうことだ。だが、惨劇としか言えない出来事を目の当たりにした上、それが今なお脳裏から消えない尋人からすれば信じられないことだった。あおいの正気を疑いたくなる。

 尋人が見たあおいはどこまでも普通の少女だった。可憐な容姿だがおとなしく、どこか存在感の薄い少女。その印象は最初に出会った時も、先程会った時もさほど変わらない。彼女の瞳は純粋で、交わした会話は平穏そのものだった。あおいは何も気付いていないようだったが、それが尋人に与えた衝撃は大きい。記憶がないのだから仕方ないと思おうとしても、あれだけのことをしておいてなぜという気持ちのほうがどうしたって勝る。

 尋人は足早に街を歩き、佐知子の事務所に向かった。いつものように顔を出すと、顔馴染みのスタッフたちが声をかけてくれる。しかし、尋人は彼らとの会話もそこそこに所長室へと向かった。

 所長室をノックすると、中から「どうぞー」と気だるそうな声が聞こえた。ドアを開くと、デスクに座った佐知子がパソコン作業をしていた。

「あら尋人、学校帰り? 毎度毎度、学生はご苦労なことね。でも今日はバイトの日じゃないでしょ。どうしたの?」

 作業の手を止めて、佐知子が笑顔を向けてくる。尋人は鞄を置いてソファに座り込んだ。

「今日、水島に会った」

 その一言で、佐知子の顔が硬くなる。

「覚えてないって言うんだ、本当に。あの雨の夜のこと、全然覚えてないって。『あたし何かしたの』って訊くんだ。俺、何て答えたらいいのか分からなかった」

「そう……」

 消え入るような佐知子の呟きが、紫煙臭い部屋の空気に溶ける。

「俺、頭がおかしくなりそうだ。何で何も覚えてないんだ。あんなことをしたのに、自分は全部忘れてて俺しか覚えてないっておかしいだろ。まるで俺の妄想みたいじゃないか」

「妄想じゃないわ。事件は確かに起こって、あんたが見たとおり確かに人も死んだ」

「だけど水島は覚えてない。当事者が何も覚えてないんだ。こんなことってあるのか。こんなのおかしくないか」

 午後の間中ずっと胸の中を渦巻いて消えなかった疑問をぶちまける。佐知子の表情はあくまで冷静だった。

「じゃあ尋人は、あの子が嘘をついてると思うの?」

 尋人は佐知子を見た。

「責めてるんじゃないわ。純粋に訊いているだけ。尋人はあの子が嘘をついていると思う? 記憶がない、何も覚えてないという嘘を」

 真正面から問われて、尋人は口を閉ざした。しばしの逡巡の後、

「……ついてない、と思う。だから余計に不気味で、怖い」

「そうね、怖いわ。あたしもそう思う。現実だから尚更ね」

 佐知子は椅子から立ち上がり、煙草に火を点ける。ちらりと見ると、灰皿には相当な量の吸殻が溜まっていた。しかし、それを咎めるだけの気力が今の尋人にはない。

 佐知子は尋人と向かい合わせでソファに足を組んで座ると、煙草の煙を深く吸い込む。

「事件の経過を教えてくれって言ってたわね」

「え?」

「言ってたでしょ。聞きたい?」

「そりゃあ気になるけど。やっぱり水島が逮捕されるの?」

 佐知子は煙を吐き出し、首を振った。

「されないわ。あの事件の捜査は終了してる。仲間内で揉めた末の凶行として、その日のうちに片付けられたそうよ」

 思いもよらない言葉に尋人は驚愕した。

「そんな……どういうこと」

「言葉のとおりよ」

「そんなのおかしい。何を根拠に」

「現場がそうだったらしいわ。彼らが仲間内で争い、殺し合ったようにしか見えなかったそうよ。指紋や硝煙反応といった証拠も残ってる。それに、あの現場に第三者がいたという痕跡は見つけられなかったとも聞いたわ」

 尋人は言葉を失った。そんなはずはない。背丈も体格も圧倒的な七人の男たちを、あおいがたった一人で殺す場面を尋人は間近で見たのだ。それに、自分だってその場にいたのだ。殺された彼らはともかく、自分やあおいの痕跡すらなかったなんて。

 佐知子は煙を吐き出し、絶句する尋人の言葉の先を継いだ。

「誰かが偽装したのね、きっと。他殺の現場に手を加えて、あんたやあおいといった第三者がいた形跡まで消して、事件そのものを別のものに偽装する。並大抵の人間にできることじゃないわ。まさにプロの技よ。素人がやると必ずどこかにミスや矛盾が残っているものなんだけど、それもたった一つだけだったそうよ」

「たった一つ?」

「そう、たった一つ。それは本当に瑣末なもので、気付いたとしてもそれでどうなるってことはない。今後、警察の疑いがあおいに向かうことはないわ。偽装した何者かは、あの子の存在や犯行の証拠を消し去るだけでなく、何があってもあの子に疑いがかからないよう工作もしていた」

「そんなことできるの」

「不可能ではない。といっても、完璧ではないけれど。つまり捜査は終了していて、あの子が現場にいた、もしくは犯行を行ったという証拠が得られない以上、警察はあおいに近寄るどころか目を向けることもできない」

 佐知子の言葉は事実である分、必要以上に冷徹に響いた。しかしそれが尋人の心に、混乱という重石となってのしかかってくる。尋人は頭を抱えた。

「じゃあどうなるんだよ、これからいったい」

「さあね。予測不可能だわ。ただ、これだけは言える。あおいの背後には不穏な何かがうごめいているわ。それは間違いない。あの子自身、今は何も知らなくても、覚えていなくても、きっと気付かないままじゃいられない。動き出すわ、そのうち」

「……何が」

 尋人の問いかけに、佐知子は無言で応じた。背筋に薄ら寒いものを感じる。それはきっと錯覚などではない。

 目を伏せたままの尋人に、佐知子は優しい声音で語りかけた。

「そうよね。あんたは人が死ぬことのつらさ、人が殺されることの悲しみをよく知ってる。今回のことはあんたにとって、伯父さんや伯母さんの時ぐらいのショックだったんでしょう。分かるわ」

 視線を上げると、柔和な表情をした佐知子が目の前にいた。彼女が時折垣間見せる、家族を心配し思いやる表情だ。

「だからこそ言うわ。あんたはもう、このことには関わらないほうがいい。あおいには近寄らないことね」

 そう言って、佐知子はソファから立ち上がった。モニターのすぐ側にある灰皿に、短くなった吸殻を押しつける。そしてマグカップに口をつけた。尋人はようやく頭を起こし、大きく息を吐いた。

「姉さん、兄さんはこのこと知ってるの?」

 一瞬の間の後、佐知子は首を横に振った。

「いいえ。この事件に県警は関与してないわ。捜査を処理したのは所轄よ」

「そっか……よかった」

「分かってるでしょうけど、このことはオフレコだからね」

「うん」

 尋人は鞄を持って立ち上がった。

「ごめんね姉さん、忙しいのに駆け込んできて」

「いいわよ、別に。珍しいものが見られたからいいわ」

 そんな不謹慎なことを言って、佐知子は悪戯っぽく笑う。尋人は「ひどいなあ」と苦笑して、そのまま部屋を出ていった。

 佐知子は手をひらひらと振って見送ってくれたが、扉が閉まる寸前、その表情が一転して厳しいものになったことに、尋人は気付いていなかった。



 夕闇が藍色に染まる頃、あおいは帰宅した。

 右手に学生鞄、左手にスーパーの袋を持ったあおいは、鍵を開けて部屋に入ろうとした。しかし玄関は施錠されていなかった。あおいは眉をひそめ、慎重にドアを開ける。

 室内は真っ暗だった。玄関の電気を点けると、下駄箱に寄せて男物の革靴が一足揃えられているのを見た。

 あおいは靴を脱ぎ、廊下を歩いてリビングのドアを開けた。電気を点けた瞬間、ソファに座っている人物を見つけて思わず息を呑む。

「お帰りなさいませ、あおいお嬢様」

 どさりと音を立ててスーパーの袋が床に落ちた。

「あなた、誰なの」

 男はすくりと立ち上がり、直立不動の姿勢であおいに一礼する。

「お帰りなさいませ、あおいお嬢様」

 あおいは険しい表情で男を睨む。男は白髪の混じった短い頭髪で、白いワイシャツに黒の背広を着ている。その頬や目尻には皺が刻まれており、右目を黒の眼帯で隠している。

 男は立ち竦むあおいを見て、表情に困惑の色を浮かべた。

「これは、驚かせてしまって申し訳ございません。夕方頃に参りました際、お嬢様はまだ帰宅なさっていなかったので、待たせていただいていたのです。電気を点けていると驚かれると思い、消したままでいたのですが」

「あなたは誰なの」

「これは失礼いたしました。私は竹田稔と申す者。水島家の執事でございます」

「執事……」

「はい、あおいお嬢様がお生まれになった頃からお世話させていただいていました。……覚えてらっしゃいませんか」

 あおいは首を横に振る。

「そうでございますか……。いえ、よろしいのです。お嬢様が全てをお忘れになっていること、私も重々承知しております。無礼なことをお訊きました、申し訳ございません」

 そう言って竹田は深々と頭を下げる。

「やめてください、竹田さん」

「竹田とお呼びください、お嬢様。私のような者に敬称など恐れ多い」

「そんなこと言われても」

「実は本日、旦那様の命で参ったのです。二週間前にお電話いただいた時、恥ずかしながら仰天してしまいまして。お嬢様がお目覚めになられたと旦那様に報告しましたところ、詳しい状況を調べよとの命が下りまして、お嬢様の現在の生活を調べていたのです。そのため訪問するのが遅くなりました。すぐに参れず申し訳ございません」

「調べるって、何を」

「順を追ってお話いたします。どうぞお掛けくださいませ」

 ソファを手で示され、あおいは斜め前の一人掛けソファに座る。竹田はあおいが座った後、会釈して二人用のほうに腰掛けた。

「突然のことで、お嬢様も混乱されていることと拝察いたします。お嬢様のほうから、何かお訊きになりたいことはございますか?」

「旦那様……とは父のことですか?」

「敬語などはよろしいです、お嬢様。ええ、そうでございます。あおいお嬢様のお父上、総一朗様の命で参りました」

「つまり、父はあたしのことを知っているのね? あたしが全てを忘れてしまっていること、二年間のブランクがあること」

「はい、全てご承知でございます」

「教えて。あたしはどうして全てを忘れてしまったの? どうしてこの部屋の時間は二年間も止まっていたの?」

「お嬢様。お嬢様が混乱なさっているのも無理ないことと思います。差し支えない程度に申し上げます。どうか心を鎮めてお聞きください。あおいお嬢様は二年前に不慮の事故に遭い、半年前まで意識不明の状態だったのでございます」

 あおいは目を大きく見開く。

「二年前、お嬢様は不慮の事故に遭われました。医師の懸命な措置の末、お命は取り留めましたが、脳に甚大な影響が及んだために、一年半近く昏睡状態だったのでございます。お目覚めになられたのは半年前、それは奇跡のような僥倖でした。しかしお嬢様は、お生まれになってから事故に遭われるまでの、全ての記憶を失っておいでだったのです」

 言葉を切って、竹田はあおいを窺う。あおいは「続けて」と小さく呟いた。

「三ヶ月間のリハビリの後、お嬢様は無事退院されました。その後、この部屋に戻って生活を始められたのですが、ある日突然、連絡が取れなくなったのです。私が訪れてみると、ベッドでお嬢様は深く眠っておいででした。しかし一向に目覚める気配がなく、我々はどうしたものかと狼狽しました。旦那様に報告しますと、騒ぎ立てず事態を見守るようお達しが下ったものですから、病院には連絡せずに、時折私や亮太がお見舞いしておりました」

「リョウタ?」

「あおいお嬢様の同胞でございます。じきにまた、まみえることもございましょう」

「つまりあたしは事故に遭って、今までずっと眠っていて、それで全てを忘れてしまっているの?」

「左様でございます、お嬢様」

「あたしの父はどんな人なの? 会いに行ったほうがいいのかしら」

「それはお嬢様の判断にお任せいたします。お嬢様がお会いになりたいと望まれるならお連れしますし、気が進まないと申されるならそれでも構いません。お嬢様のお父上、総一朗様は大変お忙しい方でございます。お仕事もさることながら、その存在は我々だけでなく、社会においてもとても重要であります。旦那様なくして、水島コーポレーションも《ヴィア》も成り立ちませんから」

「《ヴィア》……?」

 竹田はアタッシュケースを引き寄せた。竹田はそれをソファの上で開け、中身をガラステーブルの上にそっと置く。

「本日お訪ねした用向きはこちらでございます」

「何、これ」

 それは一丁の拳銃だった。竹田はその横に茶色の小さな箱を三つ並べる。竹田がそっと開けてみせたその箱には、鉛の銃弾が詰められていた。

「ワルサー。以前のお嬢様が愛用されていたものと同じ品でございます。これをお嬢様にお渡しするよう、旦那様から託ってまいりました。どうぞ」

 絶句するあおいを見て、竹田は眉をひそめる。

「ああ、そうでしたね。今のお嬢様は何も覚えてらっしゃらないとのことでした。これは大変失礼いたしました。もう少し説明を付け加えるべきですね」

 竹田はあくまで紳士的な態度で告げる。

「あおいお嬢様は、旦那様のただ一人のお子であると同時に、《ヴィア》の暗殺者でもあります。かつてお嬢様は旦那様の命に従い、幼い頃から訓練を積み、《ヴィア》のために数多くの任務をこなしておいででした」

「暗殺者……あたしが?」

「はい、左様でございます。あおいお嬢様は《ヴィア》のトップに君臨する総一朗様のただ一人の跡取りであり、天賦の才を持った暗殺者でございます」

「嘘よ!」

 あおいは立ち上がった。

「嘘よ、そんなの! 人のことを暗殺者だ人殺しだって、そんなひどいことってないわ。あなたはいったい何者なの? 父の命とか執事とか言って、そんな嘘であたしを騙そうとしているのね」

「お嬢様、違います。どうか落ち着いてください」

「呼ばないで! ひどいわ、そんな嘘をつくなんて。あたしが暗殺者だなんて、いったい誰がそんな嘘を言うよう命じたの。あたしを騙してこんなものを渡して、いったい何をしようとしているの!」

 あおいはテーブルの上の拳銃と銃弾の箱を力任せに払いのけた。銃が音を立てて投げ出され、銃弾がカーペットや床といった広い範囲に散らばり落ちる。

「帰って。これを持って今すぐ帰って。そして二度とあたしの前に現れないで!」

 あおいは荒い呼吸のまま竹田を睨みつける。竹田はやがて静かな表情で口を開いた。

「お嬢様は、《ヴィア》の暗殺者にございます」

「まだ言うの!」

「お嬢様自身も、それを思い出されたのでしょう。ですからあの雨の夜、彼らを殺したのではないですか」

 あおいは瞠目した。

「彼らって何。誰のことを言ってるの」

 竹田は言葉を詰まらせるが、ああと得心のいった顔をする。

「それもお忘れなのですね。では私が教えて差し上げましょう。一週間前の雨の夜、お嬢様は人を殺しているのです。この近所にたむろしていた不良グループの七名の男を、お嬢様はその手で殺めました」

「そんなの、嘘……」

「嘘ではございません。私がお嬢様に嘘を申し上げるなどありません。これは事実でございます。我々はお嬢様から電話をいただいた後、ずっとお嬢様のお側におりました。あの雨の夜、お嬢様は傘も持たずに街を歩いてらっしゃいました。その時不良グループに囲まれたのです。彼らはお嬢様を人気のない廃工場に連れ込み、あろうことか凌辱しようとしました。その憎き輩は武器を持ってお嬢様を追い詰めたのです。お嬢様は御身を守るため、武器を奪い取って彼らを倒されました」

 あおいは声を上げて頭を抱えた。縮こまるように身を抱き、頭を床に擦りつけ、あおいは声のかぎり嗚咽した。

 目の前に立つ影に気付いて、あおいはようやく顔を上げる。竹田が静かな表情で見下ろしていた。

「あおいお嬢様、これを」

 差し出されたのは、先程払いのけた拳銃だった。あおいは無言で頭を振った。

「ご心配は無用です。お嬢様が罪に問われることはありません。我々が事件をうまく片付けました。あれは既に終わったことでございます」

「どういう、こと……」

「警察の捜査は既に終了しています。お嬢様に疑いがかかることは決してございません。ご安心なさいませ」

「……あなたはいったい何者?」

「旦那様とあおいお嬢様にお仕えする執事でございます。そして、お嬢様は《ヴィア》で最も強いお方」

 竹田は拳銃を受け取るよう促すが、あおいは激しく頭を振って拒む。すると竹田が強い力であおいの腕を掴み、無理やりその手に握らせた。竹田はそのままあおいの手をぐいと引っ張り、立ち上がらせる。そして懐からハンカチを出し、あおいの顔を優しく拭く。

「少しお出掛けしましょうか、お嬢様」

「……どこへ」

「ついてくれば分かります」

 そのまま引いていこうとする竹田の手を、あおいは振りほどいた。しかし、竹田の鋭い視線を受けて身を竦める。

「真のご自分を知りたいのでしょう?」

 あおいはしばし俯いた後、竹田について部屋を出た。

 誰もいないマンションの廊下に、靴音が不気味に反響する。地下駐車場に辿り着き、あおいは竹田に指示されるまま、黒いクラウンの助手席に乗った。竹田はシートベルトを締めると、白い手袋を嵌めてハンドルを操作する。

 流れゆくネオンを見つめながら、あおいは膝の上で拳銃を握り締めていた。あおいは現れては遠ざかり、やがて少なくなっていくネオンを見ながら、

「……《ヴィア》って何?」

「この世界に手を広げる組織です」

「世界?」

「世界と言っては大袈裟でしょうが、我々にとっては世界です」

「人殺しばかりしている、そんな組織なの?」

「時にはそれも止むを得ません。だからあおいお嬢様たち暗殺者がいるのです。そしてそれは、決して悪ではない」

「悪ではない? 人を殺すのに?」

「何が悪で何が正義かなど、誰にも定義できませんよ。我々にできるのは、ただ己が是としたものに従うのみ」

「あたしは人殺しで、記憶を失うまでずっと人を殺していた。だけどあたしは、それを覚えていない」

「無理に思い出す必要はございません。人の記憶など瑣末なもの。それに己が支えられているなどという考えは幻想にすぎません。お嬢様は取り戻せばよいのです。記憶ではなく、御身に刻まれた感覚を」

「感覚?」

「到着いたしました。ここです」

 その言葉と同時に車が動きを止める。フロントガラスには漆黒の闇が広がっていた。

「海……?」

「埠頭でございます」

「どうしてこんなところに」

 竹田はその問いには答えず、シートベルトを外してドアのロックを解除した。

「お嬢様はこちらで」

「どういうこと」

「じきに分かります。それまでしばしお待ちを」

 そう言うと、返事を待たずに竹田は車を降りていった。その姿が闇へと溶けていく。あおいは呆然としたが、追いかけることはしなかった。

 エンジンが切られて無音になった空間に、晩夏の夜の湿った空気が生まれていく。周囲は闇に囲まれ、目を凝らした先には漆黒の海しかない。

 あおいは銃を握り締めた。

「あたしは、水島あおい。あたしは、人殺し。尋人先輩……っ」

 その時、一発の乾いた銃声が轟いた。あおいは顔を上げ、シートベルトを外して外に飛び出す。

再び銃声が響き、あおいはその方向へ駆け出した。

「竹田さん! た……竹田! どこにいるの?」

 あおいは漆黒の闇を走る。次の瞬間、銃声が続けて二発轟いた。

「竹田! どこなの!」

 その時、背後に立った気配にあおいは呼吸を止めた。右腕を鷲掴みにされ、頭に何かが突きつけられる。

 あおいはすぐさま身を翻して気配を蹴った。掴まれていた手がその反動で解放されると、一秒も置かずにそれに向かって銃を撃つ。乾いた銃声と同時に何かが倒れる音がした。

「弾が入ってるの? これ」

 その呟きが空気に溶ける前に、あおいは銃を握り直して撃った。闇の中で揺れる影に銃口を向け、機械的に引き金を引く。

 銃声が空気を切り裂く度に、どさりという無造作な音が響く。横から突然伸びてきた腕を反射的に掴み、ナイフを叩き落とすと反動をつけて投げ飛ばす。その影が起き上がる前に弾を撃ち込み、次々と現れる気配にただ引き金を引き続けた。

 最後の影を撃ち倒し、あおいは肩を上下させた。

「お見事でした、あおいお嬢様」

 声が響いたほうを振り返ると、闇と同化した竹田がいた。

「お嬢様はただ今、旦那様が下された任務を見事に遂行されました。感覚を取り戻していただけましたか?」

「……騙したのね。最初からあたしに人殺しをさせるために、こんなところに」

「全てはお嬢様のためでございます。旦那様はお嬢様のことを思われ、この任務をお嬢様に下されました。それに、彼らは《ヴィア》に害なす輩。お嬢様が罪悪感を覚える価値もありません」

 竹田は地面に倒れるいくつもの影を、汚らわしいもののように一瞥する。

 あおいはわなわなと震える手で、握られた拳銃に初めて気付いた顔をする。

「あ、あたしはいったい」

 あおいは地面に膝を突いて、わなわなと震える体を抱く。

「なんて、ひどいこと。あたし、どうして……どうしてこんな、ひどいことができるの」

 ひび割れた声に嗚咽が滲む。竹田は身動ぎもせずにそれを見ていた。

「それがお嬢様の本質でございます。そして、それこそがあおいお嬢様なのです」

 迷いや感情が微塵もない冷徹さで竹田は告げる。

「取り戻していただけましたか? 我らが《ヴィア》の娘、水島あおい様」

 遠くから船の汽笛が響く。それと重なって、あおいの叫びが空気を裂いた。



 夜十時を過ぎた頃、駅前の人通りはまばらだった。十代の若者の姿はごく僅かで、道行く人は会社帰りの二十代以上が多くを占めている。その中で、ブレザーの学生服姿の尋人はかなり目立つ存在と言えた。

「うん、そう。仮定法はareじゃなくてwereだから。……おい待てよ、何でbeなんて出てくるんだ? 違うって、wereだよ。……え、had? 違う違う、wereだって。何度言えば分かるんだよ。大体hadなんて一度も出てきてないだろ、その文章。……え、何でIなのにamじゃなくてareなのか? 知るか。それが決まりなんだから仕方ないだろ」

 携帯越しに聞こえてくる友人の言葉に、尋人は苛立ちを抑えながら答えていた。さっきから仮定法の解き方を何度も説明しているのに、英語が大の苦手な彼はちっとも理解してくれない。ちなみにこの質問は今で三度目だった。

「分かった。明日ノート見せてやるよ。電話じゃ埒が明かないだろ? え、メール? 嫌だよ。俺、今やっとバイトから解放されたんだぜ。今から帰って寝るの。……薄情者? ふざんけんなよ、そんなこと言うならノート見せてやらないぞ。……そうそう。人間、物分かりが大切だ。ははっ、そうそう」

 尋人は笑いながら友人と軽口を叩き合う。その時、ふと視界の端をよく知る姿が掠めた。尋人は立ち止まり、もう一度よく目を凝らしてみる。一瞬見間違いかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

「ごめんテツ、電池が切れかけだ。うん……うん、また明日。最後まで諦めずに解けよ。じゃあな」

 尋人は電話を切ってそのままポケットにしまう。そしてしばし逡巡した後、時計台の下のベンチでうなだれている、雪花と同じ中等部の夏服を着た少女に声をかけた。

「水島?」

 細くて小柄な少女の肩がびくっと震える。そして、あおいはゆっくりと顔を上げた。尋人を見て驚きの表情になる。

「尋人、先輩……」

「どうしたの、こんなところで。こんな時間に何してるの?」

 あおいは気まずそうに視線を逸らした。一拍置いてぎこちない仕草で立ち上がると、尋人の元に歩み寄ってくる。その表情は尋人が息を呑むほど悲痛なもので、暗闇でもはっきりと分かるほど目が赤く充血していた。

「どうしたの」

 尋常ではないあおいの様子に、尋人は戸惑っていた。そして、ふと見た右手に拳銃が握られているのに気付き、思わず言葉を失ってしまう。

「あたし、人を殺したの」

 消え入りそうなほど小さい呟きは、ざわめきの消えない夜の空気に紛れる。しかし尋人の耳にはしっかりと届いていた。

「今も昔も、あたしは人殺しなの。記憶がなくても、頭が覚えていなくても、体にはちゃんと刻み込まれてる。あたしは人殺し。罪深くて、最低な……」

「水島」

「あの雨の日の夜、あたしは人を殺した。尋人先輩の前で、あたしは」

 尋人は瞠目した。金縛りに遭ったように、体が言うことを聞いてくれない。

「……思い出したのか」

 声を絞り出して尋人は尋ねた。あおいは小さく頷く。

「だから先輩は、あたしを避けていたのね。あたしを見て、怯えていたのね。分からなかったの。本当に、覚えていなかったの。……だけど思い出した。あたしは、人殺し」

 あおいは顔を上げた。瞳から涙が溢れ出し、上気した頬はびっしょりと濡れている。整った顔立ちが悲痛そうに歪み、それが尋人の心をきつく締めつけた。

「あたしはあたしを知らない。なのに、あたしは人を殺せるの。何も分からないのに、人を殺すことは知ってるの。こんな、あたし」

 言葉は震えを帯びて、やがて泣き声に変わる。零れ落ちる涙を拭わないあおいを見て、尋人は彼女が心から悲しんでいることに気が付いた。

「あたし、どうしてこんなことができるの? あんな、ひどいこと。分からない。本当に何も、何も分からないの」

 あおいは尋人に駆け寄ると、その胸に強くしがみついた。そして声を上げて激しく泣きじゃくる。

 行き交う通行人が好奇の目で通り過ぎていく。尋人はただただ驚き、頭の中が真っ白になった。上手い慰めの言葉が浮かばず、その華奢な体を受け止めることしかできない。

 晩夏の夜の湿っぽい空気は、二人の周囲だけ震えを帯びて流れていた。

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