第14章 悲劇の絆
夕陽が完全に沈みきり、夜の息吹が街を支配していく。二月も終盤に入ったことで、真冬特有の厳しい寒さは陰を潜めつつあった。だが、夜の風はまだまだ冷たい。日没とともに気温も下がり、本格的に暗くなる頃には、頬を撫でる風の温度はまるで氷のようだ。それでも十二月や一月よりはましだと感じている。
こうして冬は逝くのだ。やがて訪れる新しい春が、息を殺してその終焉を待っている。
亮太は通りを歩きながら、携帯電話で話をしていた。
「うん、俺の用は終わったよ。これからどうなるかは神のみぞ知るだけど、少なくとも俺の気は済んだ。……あはは、そんなに心配しなくて大丈夫だって。それよりそっちはどう?」
まだ宵の手前だからか、駅に近いこの通りは人出が多い。会社帰りのサラリーマン。靴音を高らかに響かせて歩くOL。制服姿でたむろしている中高生。次第に膨れ上がる夜の喧騒を、派手なネオンが煽るように照らしていた。
「ふうん。じゃあ準備万端、いつでもオーケーってわけだね。……俺? 勿論オーケーだよ。あとはあっちがどう出るかだな」
亮太は道行く人々には目もくれず、空を仰ぎながら陽気に話し続ける。
「お膳立てはできた。全てはこれからだ。……浮かれすぎ? ははっ、確かにそうかも。いざという場面で転ばないよう、今から気を引き締めておくよ」
そう言ってみせるが、相手は素直に信じてくれない。亮太はそれすらも笑い飛ばした。
「でもさ、残念だね、決戦が金曜日じゃなくて。もしこれが金曜日だったら、うまいこと締まると思ったんだけど」
あははと笑った亮太は、相手に真面目に問い返されてきょとんとする。
「え、知らないの? 『決戦は金曜日』、名曲だよ。まあ、シチュエーションはだいぶ違うけど。でも、いいと思わない? ……え、俺だけ? 何だよ、つれないなあ。俺は好きだよ、この響き」
かつてヒットチャートを賑わせた曲のワンフレーズを、亮太は電話の相手に向けて高らかに歌ってみせる。行き交う人がすれ違い際に奇異な視線を投げてくるが、彼の眼中には少しも入っていなかった。
「え、今の? だから言ったじゃん、『決戦は金曜日』」
垣内亮太と別れてすぐ、尋人の携帯電話に健人から着信が入った。外で一緒に晩飯を食べないかという誘いだった。
即座に返答を求めてくる兄に、尋人は少し迷って黙り込む。正直なところ、できれば早く家に帰りたかった。垣内亮太から聞かされた話の衝撃を引きずっていたため、部屋にこもって一人で考える時間がほしかったのだ。
しかし健人は沈黙する弟に痺れを切らし、一方的に店の場所と時間を告げると、早々に電話を切ってしまった。尋人は呆気にとられたが、断ると面倒な気がしたので仕方なく従うことにする。
約束の時間まではそれなりに余裕があった。尋人は駅周辺で暇を潰してから、健人に言われた店に向かう。彼が指定したのは駅のすぐ近くにある居酒屋で、名前は知っているが尋人は行ったことのない店だった。
約束の時刻より五分早く店に入り、店員に待ち合わせをしている旨を告げると、すぐ奥の個室へ案内された。夕食時であるためか、店内のそこかしこがわいわいと賑わっていた。
案内された個室の暖簾をくぐると、先に着いていた健人が生ビールで早くも晩酌を始めていた。
「よう、よく来たな。まあ座れ」
「お疲れさま。早かったんだね、兄さん。俺が一番乗りかと思ってた」
「悪いが先に飲んでるぞ。お前もどうだ?」
「警官が堂々と未成年に酒勧めちゃだめだろ。てか兄さん、まず訊きたいんだけど、未成年が居酒屋に入っていいの?」
「何堅いこと言ってやがる。お前はもう高校を卒業しただろうが。大学に入ったらサークルだゼミだで、居酒屋でコンパやる機会なんて山ほどあるぞ。大体今どき、家族で来る奴も多いくらいだ。ほら、突っ立ってないで早く座れ。今日は俺の奢りだ。いくらでも飲んでいいぞ」
既に中ジョッキの生ビールを半分くらい飲んでしまっている健人は、実に陽気そうな顔で鍋をつつく。今夜は男二人でカレー鍋らしい。尋人が来るタイミングに合わせていたのか、肉も野菜もいい具合に煮えていた。
尋人は若干呆れながら健人の向かいに座り、
「兄さん、俺はまだ飲めないよ。てか、さっきも言ったけど、警官がそんな意気揚々と未成年に酒勧めちゃだめだって」
「堅いことばっか言うなあ。堅い。お前、堅すぎるぞ」
「兄さんがだらしなすぎるんだよ。俺、ソフトドリンクでいいや」
「ノンアルもあるぞ。飲み放題だから、いくら飲んでもただだ」
いちいち間違いを正すのに疲れた尋人は、「結構」とだけ言ってぱきんと箸を割る。
居酒屋で食事するのは初めてだが、思っていたよりも美味しくて少し驚いた。健人は尋人に肉や野菜を取り分けながら、自分もしっかり食べている。さすが杉原家の鍋奉行だけあって、鍋に入れる具材の塩梅も、煮えた肉や野菜を取り分けるタイミングも絶妙だ。
「お前、今日は教習所か?」
「ううん、今日は別に」
「出掛けてたんだろ?」
「……ちょっと本屋に。新刊とか見たかったから」
尋人は僅かに言葉を濁した。健人は特に怪しむそぶりもなく、煮えた肉や野菜を互いの器に均等に取り分けては、新しい具材を適度に放り込んでいく。尋人は専ら食べ役に徹することにした。
「そういえば兄さん、今日は何で?」
「ああ?」
「一緒に飯食おうなんて珍しいじゃん。しかも鍋。雪花を呼ばないのも意外だった」
「何、たまには男同士で鍋を囲むのもいいだろう。今日は珍しく、恐ろしいほど早くに仕事が終わったし、ここんとこ忙しくて顔も合わせてなかっただろ。それに俺は、一度お前とゆっくり話がしたかったんだ」
「へえ」
尋人は少し感心する。いつも妹の雪花には激しく甘いが、弟の尋人は放任主義寄りの健人がそんなことを言うとはと意外だ。滅多にない分、楽しく明るい話ばかりではないだろうなと何となく思う。
「言っとくが、別に俺はお前を放置プレイしてるわけじゃないんだぞ。俺は男同士でべたべたしない主義なんだ。雪花が可愛くて可愛くて仕方ないのとは種類が違う。そこんとこ勘違いするなよ」
「……兄さん、人の顔から言いたいこと読んで先に言うの、やめてくれる?」
「ばーか、相手の思考が見抜けてこそだろ。刑事舐めんなよ」
そう言いながら、健人は食べ頃の肉をぽんぽんと尋人の器に放り込んだ。
「お前、入学式いつだっけ?」
健人がまず切り出したのは、春から入学する大学の話題だった。尋人は内心訳もなくほっとする。
「四月一日」
「スーツ買ったのか?」
「それはまだ。今度の日曜、父さんと母さんとデパート行ってくる」
「フルオーダーだっけ。俺も大学入った時と就職決まった時、買ってもらったなあ。父さん、張り切ってたぞ」
「申し訳ないんだけどね。俺は量販店にあるやつでいいって言ったんだけど、記念だから作ろうって。あんまり遠慮するのも悪いし、お言葉に甘えようかなと」
「そうしろ。どんどん甘えてやれ。父さんも母さんも喜ぶ」
健人の中ジョッキが空になったのを見て、尋人は気を利かせて生ビールのおかわりを注文してやる。
「法学部……だっけ。俺と同じ」
「うん。運よくAO入試で入れたんだ」
「面接のみでパスか?」
「ううん。それプラス、小論文。あとは内申書と評定平均値。三年間の部活動と日頃のテストでそれなりに点数は稼いでたから、学校からもすんなり推薦書もらえてさ。まあ倍率はかなりのもんだったから、受かったのは運としか言えないな」
「何でT大だったんだ? 法学部なんて全国どこにでもあるし、何も俺と同じ大学を選ぶ必要なかったろ」
「別に深い理由はないよ。兄さんが通ってたとこだから、他の大学より既に親しみがあったからっていうか。ほら、昔兄さんが在籍してた時に、毎年雪花を連れて大学祭行ってたじゃん? だから他よりある意味行き慣れてたっていうか。それにネームバリューあるし、卒業生が司法関係に就職する実績も他より高かったから」
「お前、将来司法系に就きたいのか?」
尋人は言葉に詰まった。健人は肉をうまそうに頬張りながら、
「司法試験? それとも公務員?」
「……まだ決めてないよ。四年のうちに考えて決めようと思って」
「じゃあ、何で法学部なんか選んだ?」
尋人は今度こそ返答に窮して黙り込む。避けては通れないものが、そこに立ちはだかっていたからだ。
沈黙してしまった尋人をちらりと見やり、健人はよく冷えた生ビールをうまそうに飲みながら、
「お前は俺と、同じ道を歩もうとしているのか?」
軽快な仕草にはまるで釣り合わない、健人の静かすぎる響きの問いに、尋人は形容しがたい気まずさを覚える。どう答えていいか分からず、ただ黙々と器に入った野菜を食べ続けた。
「それなら俺は素直に賛成できんな。俺が刑事になった動機は不純だ。お前だって知ってるだろ」
「……不純だなんて、俺は思わない」
「でも世間から見たら不純だ。親を殺された腹いせに、刑事になって世間に復讐してやるなんて。一般人が聞いたら引くだろ、普通。それを面接で堂々と言ってみろ、即異端児扱いだ」
「でも兄さんは異端児じゃないだろ? ノンキャリアでも必死に仕事して努力して、実績上げて捜査一課に入ったんじゃないか」
健人は普段、家族に仕事の話を一切しない。愚痴も滅多に零さないし、訊かれても多くを語ろうとしない。その傍らで、寝る間を惜しんで仕事に没頭する兄をずっと見てきた尋人は、彼の背中にのしかかる様々な重責を何となくでも察していた。口でこそ言わないが、健人はきっと今まで、たくさんの艱難辛苦を乗り越えてきたのだ。両親を殺された過去だって、幾度となく他人に嫌な形で触れられたことだろう。
「だからこそだよ」
健人はあっという間に飲み干してしまうと、店員を呼んで生ビールの追加をまた頼んだ。ついでに尋人もメロンソーダをおかわりする。
「だからこそ俺は思うんだ。親を殺された憎しみに、お前まで囚われることはない。負の感情を突き詰めたくて法学部を選んだんなら、今からでも遅くないからそれはやめとけ。身を滅ぼすだけだ。俺はお前に、俺みたいな道を選んでほしくはない」
尋人はどう返していいか分からず、ただ黙って食べ続けていた。
「お前ぐらいの年の頃、俺は周りが見えなくてな、そりゃあもうひどかった。家族の反対を押し切って法学部に進んで、親戚中の反対を無視して刑事になった。親を殺された恨みを晴らしてやる、それしか考えてなかった。いわば俺の出発点でもあったわけだ」
健人はおかわりの生ビールをぐいぐいと煽り、
「でもな、お前にまでそれを望んでたわけじゃないんだ。だからお前が俺と同じ道を歩もうとしてるのかと思うと、まあ責任は全て俺にあるわけだが、正直言うとやりきれん」
「……兄さんは後悔してるの? 刑事になったこと」
「自分で決めたことだからな、今も昔も後悔したことはない。そりゃ、悩んだことはいくらでもあるがな」
「俺はすごいことだと思うよ、兄さんが刑事になったこと。責めるようなことじゃないし、きっとものすごく悩んで決めたんだろうなって思ってる。俺だって一時期は憎しみの塊っていうか、感情の行き場がなくてどうしようもなかった時があったんだ。だから兄さんの気持ち、全部とまではいかなくても、少しぐらいは分かる気がする」
尋人はメロンソーダを少し飲んで、
「何ていうか俺、本当にまだ何も考えてないんだ。法学部にしたのは、単に法律を学びたかったからっていうか……。刑事と探偵をしてる家族がいる分、法関係の仕事が他の奴より身近な気がしてたし、実の父さんと母さんの事件があったから、余計そう思ったのかもしれない。うまく言えないけど」
カレー鍋に入れる具がだんだん少なくなってきた。健人は最後の肉をどさどさと投入し、「面倒だから全部入れちまうぞ」と言って、残りの野菜も全部ばさりと入れてしまった。そして火力を一気に上げ、蓋をしてぐつぐつと煮込む。
「将来のこともまだ決めてないんだ。武道が得意だから警察官か、姉さんの仕事を手伝ってきたから、そのままコネで調査事務所に入るか……今んとこ浮かんでるのはその二つぐらい。消防官と自衛官はやめとくよ。訓練とか、どっちも三日で音を上げそうだ。司法試験に挑戦する勇気や覚悟も今のところない。第一、検事や弁護士って柄じゃないじゃん、俺」
尋人がそうおどけてみせると、どこか硬かった健人の表情がふと柔らかくなった。
「そうだな。確かにお前は、検事や弁護士には向いてない。お前は誰に対しても優しすぎるきらいがある。人を裁くことの罪悪感に悩まされて潰れるタイプだ」
「そうかな? 自分じゃ分からないや。てかその言い方、ちょっとひどくないか」
ぐつぐつと煮えたぎるカレー鍋の香りが、頬をぽかぽかと熱くして食欲を増幅させる。健人は互いの器に肉と野菜を均等によそいながら、
「だからあの子だったのか?」
「え?」
「お前があの子と付き合ってるのは」
尋人は絶句して固まった。
「兄さん……何であおいを知ってるの」
「佐知子に聞いた。あの子の素性や事情も、お前との馴れ初めも全部」
開いた口が塞がらない尋人をにやにやと見ながら、健人は明らかに演技と分かるわざとらしい嘆き方で、
「しかし、よりによって何であの子なんだ。他にもいい子はいっぱいいたろ。お前、あの子がどういう子か知った上で付き合ってるんだろ?」
「……兄さん、もしかして、あおいと会ったの?」
ぴたりと箸が止まった尋人を気遣うそぶりは一切見せず、健人は肉をひたすら食べまくる。チャンス到来と言わんばかりの食べっぷりだった。
「ああ、会ったよ。よく気の利くいい子だった。あのおとなしさを見てるだけじゃ、とてもそんな素性の子とは思えないな。猫を被ってるわけじゃないところがまたすごい」
さらりと含みのある言葉を言う健人に、尋人はただただ青ざめるしかなかった。健人があおいの存在を知る。いつかそういう時が来ると思ってはいたが、いざ来てみれば、その覚悟は全く足りていなかったらしい。
「しかしまあ、よくあの子を受け入れたな。何とも思わなかったのか?」
「……思わなかったわけないよ。最初は驚いたし、恐ろしくなって拒絶して、逃げ出したこともある」
「でも、最後は受け入れたんだろ? 何で?」
尋人は箸を動かす手を止めたまま、しばらく押し黙って考える。
「守りたいと思ったから……かな」
時間をかけて深く考えてみたが、どれだけ思い巡らせても、行き着く答えは一つしかなかった。
「俺だって最初から、何もかも素直に受け入れられたわけじゃないんだ。今まで何もなかったわけじゃないし、ただ状況に流されてこうなったわけでもない」
健人は残り少ない鍋の具を互いの器に分けながら、途中で口を挟むことなく尋人の話に耳を傾ける。
「人殺しは嫌いだ。今も昔も、それは変わらない。だから最初は、あおいのことも正直受け入れられなかった」
「でも今は違う……と」
「最初は大丈夫だと思ったんだ。たとえ過去に罪を犯していても、それは状況が彼女に無理やりそうさせたんだ。今のあおいは、過去のあおいとは違う。昔の記憶があってもなくても、今のあおいは確実に、今を生きてるあおいなんだ。だから大丈夫、受け入れられるって思った。好きだから、他に何も考えられなくなるぐらい惹かれたから……今思えば、強引にでも理由をこじつけて、迷う自分を納得させようとしたのかもしれない」
「そんなお前の考えを変えた、きっかけは何だったんだ?」
尋人は正直に話すのを僅かに躊躇うが、
「……去年の暮れに、あおいが大怪我をしたんだ。詳しいこと……は知ってるけど、それについてはあえて言わない。とにかくあおいは重傷を負って二、三日、生死の境を彷徨ったことがあった」
「それはかなりの大事だな。そんでもって俺は初耳だ」
「その時たまたま、本当にたまたま居合わせたんだけど、あおいはものすごい量の血を流して、とにかくひどい怪我を負ってた。虫の息って言葉の意味を初めて知ったと思ったぐらい」
「でもまあ、結果的には助かったわけだな。怪我の程度や経緯は知らんが、正規の方法で命を取り留めたわけじゃあるまい。助かったのはある種、奇跡だったってことか」
健人はいきさつについて深く追及してこない。それは彼なりの優しさだと尋人は思った。刑事としてではなく、兄として尋人の話を聞いてくれているのだ。
「そういえばお前、年末にかけてやたらと家を空けたり、出掛けたりしてたっけな。なるほど、そういうことだったのか。納得した」
健人は得心のいった顔で何度も頷きながら、「正真正銘、最後の肉だ」と尋人の器に肉をぽんぽんと放り込む。
「俺はあおいから逃げて以来、ずっと意固地になってた。分からなくなったんだ、自分の気持ちや、あおいに対する気持ちが。でもあの時……血塗れで今にも死にそうなあおいを前にして、そういうものが頭から一気に全部吹っ飛んだ。それでやっと気付いたんだ。……ああ、理由なんて、最初からなかったんだって」
尋人は肉を食べる手を止めて、
「初めて気付いたんだ。あおいがいる。あおいが俺の隣で息をして、言葉を話して、ちゃんとそこに存在している。……好きになった理由なんて、それだけで充分だったんだって」
躊躇いがちに口にした後、尋人は恐る恐る兄の顔色を窺う。
「……分かる? 俺の言いたいこと」
「言わんとしてるニュアンスは、何となくだが分かる」
その言葉に、尋人は訳もなくほっとした。
「どれだけ考えたって、それ以上の言葉が見つからないんだ。今の説明だって、うまいとは全然思わないけど。でも正直なところ、理屈で動いてるわけじゃないからさ。勿論、感情のみってこともないけど」
どんな言葉を使えば誤解なく伝えられるのか、尋人は苦心しながら話し続ける。
「ただ、全部を知って……あおいの素性というか本性というか、そういうのを全部ひっくるめて目の当たりにした時、それでも傍にいたいと思ったんだ。守りたい。今まで守られてた分、今度は俺があおいを支えたい。体だけじゃなく心も全部、守りたいんだ」
鍋の中がスープだけになり、具材がてんこ盛りだった皿も綺麗になった。健人は頃合を見計って運ばれてきたご飯を全部入れ、その上にチーズを万遍なく振りかけた。
「守ってやりたいじゃなく、守りたい……ね」
健人は独り言のように呟くと、鍋に蓋をして中火にした。
「あおいの抱える罪は知ってる。それがどれだけ悪いことで、一生かけても償いきれないことも。でも俺は何ていうか……それを憎んで目を逸らすよりも、その気持ちを信じたいって思うんだ。逃げずに向き合う、一生背負って償いたいと思ってる気持ちを信じて、俺はこれからもあおいの傍にいたい」
食べたり飲んだりしながらも、真摯に耳を傾け続けていた健人は、尋人の眼前に空になった中ジョッキを突き出す。尋人は慌てて生ビールのおかわりを注文した。
「そこが俺と尋人の決定的な差だな。俺はお前ほど優しくはなれなかった」
「さっきも言ったけど俺、兄さんが言うほど優しくないよ」
「いいや、そんなことないさ。あの子はきっと、お前のその優しさに救われたんだ。一度や二度逃げたとしても、それはあの子をまっすぐ見つめたゆえの行動だ。お前はきっと一時だって、あの子から目を逸らさなかった。あの子はきっと、お前のそんなところに救われて、今をちゃんと生きようと思ったんだろう。顔を見ればすぐに分かる」
そう言って、健人は運ばれてきた生ビールをくいと煽る。尋人は何だか気恥ずかしくなった。
「お前が自分のことをそんなに優しくないと言うのは、自覚がないってのもあるだろうが、驕ってないということでもあるんだ。それはそれで一つの美徳だ。鼻にかける必要はないが、誇りに思ったって罰は当たらん」
「……何か前、似たようなことを、姉さんにも言われたかも」
「佐知子が?」
鍋の蓋がかたかたと揺れ始めると、健人が十から一までカウントダウンしてから火を止めた。蓋を取るとたちまち湯気が溢れ出し、カレーの香りが部屋の隅々まで一層濃く広がった。健人はスープがしっかり染み込んだ米と、とろりと伸びるチーズをよく混ぜ合わせた後、
「ほら、できたぞ。器貸せ」
「うわあ、めっちゃうまそう。すごいや、兄さん」
「だろう? チーズはこれぐらい投入したほうが断然うまいんだ」
「さすが、慣れた人は違うね。火を止めるタイミングもばっちり」
「当たり前だ。職場でも家でも、伊達に鍋奉行やってるわけじゃないんだぞ。褒め称えて、ありがたく奉った上で食え」
健人は得意げに笑いながら、器にリゾットをたっぷり入れて尋人に渡す。香り高いカレーリゾットは、絶品以外の言葉が浮かばないほど美味だった。
「うまい! さすが兄さん」
「だろ? 俺にかかればこんなもん、三度の飯よりちょろいぐらいだ」
「さすがです、鍋奉行。やっぱカレー鍋の締めは雑炊に限るね」
健人は自分の器におかわりを入れるついでに、尋人のそれにも同じぐらいたっぷりよそってくれた。
「まあ、あいつもいろいろあるからな」
尋人は一瞬、健人が誰を指しているのか分からなかった。しかし、数秒してから佐知子のことだと思い至る。
「あいつは誰より意地っ張りで脆いから、周りがちゃんと見ててやらんと。放っといたらなりふり構わず突っ走った挙句、壁にぶつかって自爆する」
「え、姉さんが? 全然そんな風には見えないんだけど」
「そう見せてるだけさ。見栄だけは一人前なんだよ、あいつは。お前と違って素直さも可愛げもないくせして、プライドだけは誰よりも立派ときてる」
随分な言われようだ。尋人は下手なフォローもできずに苦笑いしていた。健人が佐知子をそう評する理由が、尋人にはさっぱり分からなかったというのもある。
「佐知子に限った話じゃない。俺から言わせれば、雪花も似たようなもんだぞ。あいつもあいつで強情だからな、にこにこしてるから元気なんて思ったら大間違いだ。佐知子といい雪花といい、器用に取り繕って弱音なんざ死んでも吐かねえような女は、いろんな意味で厄介だし始末が悪い」
「……何か兄さんって、考えてないようで、実はいろいろ深く考えてるんだね」
今まで姉と妹にそんな印象を抱いた経験が一度もないため、肯定も否定もしきれずちぐはぐな感想を返す弟に、健人は気を咎めた様子もなくリゾットを頬張る。
「やんちゃで気ばかり強い弟妹を持つと、兄貴は必然的に苦労するんだよ。白鳥と一緒だな。一見優雅に泳いでいるように見えて、実は水面下で足をばたつかせてますってやつ」
「……そのやんちゃで気ばかり強いってのに、もしかして俺も入ってるの?」
「弟妹って言ったろ。お前もお前で強情な奴だぞ。一度決めたら、たとえ誰が何と言っても曲げやしねえ。んでもって一見おとなしそうな顔してるから、悩んでるとか傷ついてるとかいう感情が見えにくい。お前みたいに必要以上にものを語らない奴ってのは、心の中で多くを語ってるようなタイプだから、別の意味で厄介なんだ。取り返しのつかないとこまで落ちられたら、引きずり上げるこっちの腕が持たん」
「……実はいろいろ苦労かけてたんだね、俺たち」
「実はって何だ、実はって。……まあいいさ。自覚してくれただけ、お前はまだましだ」
健人は疲れたように笑って、残り少ないリゾットをかき集めて尋人の器に盛る。そして生ビールの残りを一気に煽り、
「問題はあっちだな。あいつもそういう自分の一面を、そろそろ自覚してくれると助かるんだが」
打ちのめされるような夜が明けて、朝が終わり太陽が高く昇りきった。二十四時間のうちのたった半分が過ぎただけなのに、まるで永遠のように果てしなく思えていた。
部下からの報告で真実を知った後、佐知子が向かったのは森上が住むマンションだった。しかしそこは既にもぬけの殻で、賃貸契約も全て解消されていた。勤務先の青葉学園中等部にも、三日前に辞表を出したきり姿を見せていないという。
森上智彦が消えた。その現実は、佐知子を予想以上の混乱へ突き落とした。
佐知子は夜明けからずっと彼を捜し続けていた。事務所で待機している美弥には、今日は戻れないと伝えてある。勘のいい彼女は何かを察しただろうが、詳しい理由を話す気にはとてもなれなかった。
県内を車で駆け回り、思いつく場所を全て当たってみたが、手掛かりは何一つとして得られていなかった。調査員総出で捜させたら恐らく発見できるだろうが、佐知子は頑としてしようとしなかった。己の力だけで森上を見つけ出したい。そして、彼がやろうとしていることを何としても止めたかった。
それは、言うなればただ一つの願いだ。三年前にすんでのところで叶わなかった願いを、今度こそ何としても成し遂げたかった。そのために他人の力は借りたくない。自分だけでやらなければ意味がないのだ。そんな執念にも似た感情が、佐知子をひたすら煽り続ける。
路肩に車を止めて、佐知子は助手席にあるファイルや書類を取る。受け取ってからというもの、穴が開くほど何度も目を通した報告書たちだ。そこには、あおいと森上の過去が詳細に綴られている。
佐知子はそれらの一言一句を睨みながら、行方知れずになった森上の居所を掴む手掛かりを思いつこうとした。冷静に、客観的に、視野を広く持って。呪文のような重さでそう念じながら読み耽るが、乱れた感情が何度も横槍を入れてくるせいで少しも集中できない。
佐知子は前髪を掻き上げ、粗雑な仕草で煙草を吸う。
彼女を焦らせる懸念はもう一つあった。これらの調査報告書のコピーが入った封書が、午後にあおいの部屋に届く手筈になっている。受け取った彼女は、佐知子と同じように真実を知るだろう。その後、あおいがどういう行動に出るかは容易に想像できる。
点と点が線に繋がり、新たな悲劇が生まれる。そうなってしまったら取り返しがつかない。佐知子はその未来を一番恐れていた。
腕時計を見ると、時刻は午後二時半を過ぎている。依頼したバイク便が仕事を正しくこなしていれば、あおいはもう全てを知った頃だろう。
佐知子は乱暴な手つきで髪を掻き上げ、携帯灰皿に煙草を強く押しつける。そしてハンドルに突っ伏して、今にも崩れ落ちそうな心を必死に保とうとした。
インターホンが鳴った時、あおいは靴を履きかけたところだった。玄関を開けるとバイク便の男性が立っており、封書を渡されたので言われるままにサインをしてまた閉めた。
あおいは靴を脱いでリビングへ戻り、受け取った封書に目を落とす。A4サイズの茶封筒には、杉原調査事務所の名前が印刷されていた。
あおいは肩から提げていたポシェットを外すと、はさみで丁寧に切って封書を開ける。
中身はやや厚みのある調査報告書だった。あおいはソファに浅く腰掛け、それらの一枚一枚に目を通した。
書類の端を掴む指先が細かに震える。
わなないた唇から引き攣った喘ぎが漏れる。
激しく揺らいだ瞳から溢れる涙が、幾筋も流れ落ちて頬を濡らした。
あおいは書類をぐしゃぐしゃに握り潰して撒き散らし、ガラステーブルに両の拳を勢いよく振り下ろした。突然立った激しい物音に、ソファで眠っていた向日葵が飛び起きる。
血が滲むほど唇を噛みながら、あおいは両手でテーブルをがんがんと叩いた。そして、中央に飾った一輪挿しを薙ぐようにして張り倒す。細くて白い陶器は音もなく宙を飛び、フローリングに着地すると同時に跡形もなく派手に砕けた。
崩れるように膝を突き、あおいはなおもテーブルを殴り続けた。握り締めた拳が赤紫に腫れて、爪が食い込んだ掌にうっすらと血が滲む。
あおいは泣いた。ぼろぼろと泣きながら、何度も何度もテーブルを叩いた。
「何で……何であたしが生きてるの。何で……何で。何であたしなんかが!」
あおいは絶叫した。
「死ねばよかった。あたしが死ねばよかった! あたしなんか、生きてる価値ない! 死ねばよかった。死ねばよかった!」
あおいは腫れ上がった両手でガラステーブルを大きくひっくり返す。頑丈に造られていたはずのそれはなす術なく縦に割れ、物騒な瓦解音とともに無数の破片をフローリングに飛び散らせた。
「いらない! あたしなんかこの世にいらない! 何で生きてるの。どうして、こんな……っ」
あおいは声のかぎり泣き喚いた。カーペットにうずくまり、真っ二つに割れたガラステーブルを何度も殴る。表面がその拳を受け止める度、幾筋も走る透明なひびに赤い血が葉脈のように広がっていった。
「何で生きてるの。どうして……」
うずくまったあおいは、ガラステーブルに額を押しつけて慟哭した。
路肩に停車してから、さらに二時間が過ぎていた。
何度読んだか分からない報告書を見ていた時、ふとあることに気が付いて、佐知子は郊外にある墓地へ車を急がせた。
そこは広大な市営霊園で、住宅地や国道から離れた閑静な場所にある。四十分ほどかけて着いた頃には、青かった空は深い橙に染められつつあった。
報告書を暗記するほど読んでいながら、気付くのがあまりに遅すぎた。焦燥と後悔に潰されそうになりながら、佐知子はやや乱暴な運転で市営霊園の駐車場に車を入れる。
霊園内は人気がまるでなかった。各区画に繋がる道の両脇に並ぶ樹木は既に落葉し、アスファルトを飾る枯葉が風に反応して音を立てる。
緩やかな傾斜のついた並木道を走っていた佐知子は、坂の中腹にある区画からその身一つで出てきた森上と相対した。
佐知子は転ぶように立ち止まる。森上は驚いた表情で佐知子を見るが、その目元がやがてふわりと和らいだ。
「やっと見つけた」
佐知子はぜえぜえと荒い呼吸を宥めながら、
「あなたを捜していたの。昨日からずっと」
森上は虚を衝かれた目をする。
「報告書を見てて気が付いた。資料にあった出来事の日付と今日が同じことに。それに気付いたら、あなたが現れる場所はここ以外に思いつかなかった。間に合うかどうかは賭けだったけど……よかった、どうやら勝てたみたいね」
暮れなずむ霊園内はひっそりと静かだ。佐知子の声を遮る音は何一つない。あるとすれば、時折冷たく吹き抜ける風が、枯葉を微かに踊らせるくらいだろうか。
「どうしてここに?」
泰然とした面持ちのまま、背を向けることも立ち去ることもしない森上に、佐知子はその理由を予想した上で尋ねる。
「墓参りです。ここは僕の両親が眠る地。今日は二人の命日ですから」
森上は佐知子の意図に気付いた上でさらりと答えた。
「今日が両親の命日というのは、神の思し召しとしか言いようがない。僕は運命を感じたね。まるで神が、全てを終わらせろと言っているみたいだ」
森上は感慨深げにそう語ると、自嘲にも似た苦々しさで薄く笑った。
「何となく、貴女が現れるような予感はしていました」
佐知子はきりきりと痛む胸を抑えながら、
「分かったわ、何もかも。あなたとあおいの関係も、あなたの過去も。そしてあおいも今頃、あたしと同じことを知ったはず」
森上はさして驚いた風もなく、
「貴女が最初に知るだろうと思っていました。本音を言うならあおいよりも先に、貴女に知ってほしかった。予想が外れなくて光栄です」
その言葉に、佐知子のよく知る森上らしさは微塵もなかった。彼が今までよく見せてきた、他人より数歩先を行った視点で現状を眺めながら、相手の真意を丁寧に探りつつも、付け入る隙は決して与えないといった話し方ではない。まるで全てを悟りきったような、淡々とした諦観に彩られた響きをしている。一見しただけでは気付きにくい微妙な差異が、ようやっと見つけ出せたと安堵する佐知子をさらにやりきれなくさせた。
「あなたはあおいの兄ね」
突きつけられた真実を、森上は何の変化もない表情で受け止める。
「あなたは《M‐R》の善人と呼ばれた、須藤武彦とかおりの息子。あおいはあなたの十五歳下の実の妹で、《ヴィア》の命に従ってあなたの両親を殺した」
森上は依然として感情の乏しい表情のまま、何かを口にする代わりに静かに瞑目した。
「前にも言っていたけど、森上智彦という名前は偽名ね。あなたの本名は須藤知彦。森上というのはあなたの母、須藤かおりの旧姓ね」
「ご明察」
そう言って森上は笑う。
「両親がくれた名だけは、どうしても変えたくなかったんです。でも本名で動くのは障りがあるので、音はそのまま、字だけを変えました。苗字については、母の旧姓を知っている人間のほうが少ないので、そちらを使わせてもらうことに」
そう語る森上には、長年の秘密を明かすことへの躊躇や気後れは少しも感じられない。
「母の旧姓まで知っているということは、僕とあおいがどうして敵対することになったのか、そのいきさつまでご存知ということでいいんですよね?」
どこまでも穏やかな森上の言葉に、佐知子は胸を締めつけられるような思いで頷いた。
「十七年前、あなたの両親は《M‐R》の幹部だった。闇組織に属する身でありながら、争い事を嫌い、自身の案件では暴力沙汰や流血は一切起こさせずに対話のみで解決する、組織の中でも異色の存在だった」
「ええ。それでついたあだ名が、《M‐R》の善人です。勿論、誰もがそう思っていたわけじゃない。下の者や、両親をよく知る者はよい意味で使っていましたけど、僻みや嫉みといった揶揄の意味合いも、当然含まれていましたから」
「須藤氏が若くして幹部に上り詰めたのは、人柄もそうだけど、それに相応しいだけの実力を有していたから。とても頭の切れる人だったのね。暴力や武器を使わなくても、組織を動かせるだけの力量と頭脳を持ち合わせていた」
「自慢の両親でした。僕は小さい頃から、両親が普通の会社員として働きながら、闇組織で暗躍していることを知っていた。ああいう人たちじゃなかったら、間違いなく僕は両親を嫌いになっていたな。彼らを誇りに思うこともなかったはずだ。それほどに、彼らは人として正しかった」
「当時の《M‐R》の中でも、須藤氏は実力者として一目置かれる存在だった」
「ええ」
「だけど、そんな須藤氏にもどうしたって太刀打ちできない相手がいた。……《ヴィア》の水島総一朗ね」
その名を聞いて、森上の眦に初めて険が宿る。
「《ヴィア》と《M‐R》……元々から敵対関係にあったけれど、当時は一番熾烈な時期だったようね。何度も抗争が起きては人が死んでる。そして須藤氏は《M‐R》の中でも、《ヴィア》との平和的解決を望んでいた人だった。《M‐R》は須藤氏を交渉役にして、《ヴィア》の有力者だった水島総一朗に引き合わせた。……これが、全ての始まりになった」
森上の表情が、さらに険しく翳のあるものに変わる。彼の中に渦巻く感情を察した佐知子は、己の胸がきりきりと締め上げられる音を聞いた気がした。
「恐らく須藤氏と水島総一朗の間では、何度か話合いが行われたんでしょう。どういった過程を経たかは分からないけど、結果としてそれは決裂し、両者の溝は決定的なものとなった。そして十七年前、水島総一朗は須藤氏の動きを牽制して脅しをかけるために、当時生まれたばかりだった夫妻の娘のあおいを誘拐した」
唐突に強い風が吹き抜ける。佐知子は激しく髪を乱されるが、頬や耳に纏わりつくそれを、頭を一度振ることで軽く払った。
「あおいの出生について調べたわ。十七年前、県内のある病院から生後三日の女児が攫われた。事件は即座にもみ消されて公にはならず、被害者である新生児の両親も警察には届けなかった。攫われた子供の消息は未だ不明。……その新生児が、あおいね」
「ええ」
森上は静かすぎる表情で首肯した。
「両親にとって待望の女の子でした。僕にとってもそうだった。僕があおいを見たのはたった一度だけ。生まれてすぐ、母の隣で眠るあおいでした。抱いた時はとても小さくて、触れたらすぐに壊れてしまうんじゃないかと思ったぐらい、か弱い生き物だった。生まれて間もない妹を見て、この子を守るのが僕の役目だと強く実感しました。
佐知子は否定も肯定もせず、その続きを促すように見つめ返す。
「父は東山魁夷のファンでした。特に、魁夷の描く青の色がとても好きだった。青を表す漢字や言葉は山ほどあるが、そのどれを使っても表現しきれない唯一無二の色。娘にはそんな深みのある心を持った人になってほしいと、父があおいと名付けました。だけど、あの子が両親の元にいたのは、たった三日だけでした」
森上の表情に深い険が浮かぶ。
「生後間もない娘を誘拐され、両親は混乱に陥りました。母は半狂乱になり、父は《M‐R》に幾度となく救出を願い出ていた。だけど、それは結局叶わなかった。ただでさえ危うい両者の均衡を、壊してしまうような真似はできない。あおいはそれを保つための人質だったんです。善人と呼ばれる平和主義の父は、どうあっても《ヴィア》に斬り込みになど行けなかった。下手をすれば、助けるよりも先にあおいが殺されてしまうかもしれない。《ヴィア》が目の敵である両親を暗殺しなかったのも、殺すより生かしてじわじわと苦しめたほうが、付け入る隙を見つけられるという魂胆だったんでしょう。両親はまんまと罠にはまった。水島総一朗は父の優しさを突いて、その弱さも全て見透かした上であおいを攫ったんだ」
「……だからあおいを、助けには行かなかった?」
佐知子が問うと、森上は自嘲的に口元を歪める。
「父は水島に脅されていたんですよ、《ヴィア》に楯突けば娘を殺すと。両親は水島に斬り込んであおいを連れ戻すより、危うい均衡を保つことで娘を生かすほうを選んだ。臆病だと言われればそれまでです。だけど両親は、勇気を出した代償として娘を亡くすことのほうが怖かったんでしょう。結果、あおいは水島の下で育てられた」
「でも、あなたは会いに行ったことがあるわよね?」
森上の瞼が僅かに動く。
「東山魁夷の画文集。冬景色をテーマにした本よ。それには、あなたの両親があおいに宛てたメッセージが書かれていた」
その言葉で、森上はようやく得心がいったように、
「そうですか。なるほど、それを使って貴女は真相に辿り着いたわけだ」
「あの本をかつてのあおいに渡したのは……あなたね?」
「ええ、僕ですよ。二年前のことです」
森上の目が細くなる。
「両親に頼まれたんです。組織に気付かれないよう、あおいに渡してほしいと。僕は《ヴィア》と《M‐R》の目の届かないところで彼女に接触しました。僕が最後に見たあおいは生まれたての赤ん坊だったが、彼女は十五歳にまで成長していた。学校帰りのあおいに、僕は偶然を装って近付き、あの本を渡しました。その時、言葉は交わさなかった。あおいは明らかに不審がっていたが、受け取ることを拒みはしなかった。……まさか、後生大事に持っていたとは思いませんでしたけど」
「あおいはきっとあの本を見て、自分の出生の秘密に勘付いたんでしょうね。自分は水島総一朗の実の娘ではない。他に生みの親がいると」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、今となってはどうでもいいことだ。だってあの子はその後、暗殺者として両親の前に現れ、驚愕する彼らを何の躊躇もなく殺したんだから」
森上は情の欠片も見えない口調で切り捨てる。
「僕が《M‐R》に入ったのは、偏に妹を《ヴィア》から救い出すためでした。両親は反対したけど、僕から言わせれば、両親の下に生まれた時点で、組織に入る運命は決まっていたようなものだ。僕は中高大と通いながら訓練を受けて、《M‐R》の仕事に従事した。全ては妹を救い出すため。そして、家族を壊した水島総一朗に一矢報いるためだった。だが、あおいはその全てを裏切った」
「……あおいはきっと、二人が実の親だとは教えられてなかったのよ。彼女の心を乱すような情報を、《ヴィア》が任務の前に与えるわけない。あおいはきっと任務の後に真実を知り、その同じ年の夏に自殺を図った」
「それは後日談だ。両親はずっと心を裂かれるように安否を気遣い続けた娘に殺された。その事実は変わらない。たとえ後にあおいが真実を知ったのだとしても、彼らを殺した罪が許されることは決してない」
森上は強い語調で言い切った。
「二年前のあの日、僕は絶望した。ずっと案じ続けた娘に殺された両親。彼らの無念を思うと、今も胸が潰れそうだ。だから僕は心に決めた。あおいは僕が殺す。彼女の罪は、僕がその死をもって贖わせると。その決意を《M‐R》に伝えたら、意外にもあっさり了承してくれたよ。僕は組織にあおいを殺すこと、そして《ヴィア》の水島総一朗を討ち取ることを約束した」
「死ぬことは償いにはならない!」
佐知子の叫びに、森上が一瞬言葉を詰まらせる。
「あなたが殺そうとしてるのは他人じゃない。妹よ。血を分けた実の家族なのよ」
「そうだ。だからこそ、あおいの罪は兄である僕が断罪する。それが殺された両親への、僕からのせめてもの手向けだ」
「違う。そんなの絶対に違う! それにあなた、嘘をついてる。殺すのはあおいだけじゃない。あなた自身もでしょう?」
森上の顔から表情が消える。言葉を失った彼の瞳が、悲痛に訴える佐知子を映した。
「あおいを殺して、あなたも死ぬつもりでしょう? あの子の罪を、あなたも背負うために。あなたは水島総一朗から妹を守れなかった自分が許せなかった。あおいが両親を殺す悲劇が起きた時も、あなたは事態を防げなかった自分を責めたはずよ。だからあなたはあおいを狙った。ただひたすら、あおいを殺すことにこだわり続けた。それは憎しみだけが理由じゃない。妹を殺して自分も死んで、全てを終わらせようとしているからじゃないの?」
佐知子は森上の両腕を掴み、
「それはだめ。絶対にだめ。そんなこと、悲しすぎる。そんなことをしたってあなたは救われない」
佐知子は森上の腕を握る手に力をこめて、
「お願い。行かないで。そんな悲しいことしないで。互いの心を殺すようなことはやめて。あたしはあなたに傷ついてほしくない。あなたが死ぬのは嫌なの」
森上は声もなく佐知子を見つめていたが、やがてふっと微笑むと、腕を掴む彼女の掌に己のそれを重ねた。
「……驚いた。そこまで見抜かれていたなんて。本当に、貴女は最後まで僕を揺さぶり続ける」
己の腕を掴む手を強く引いて、森上は佐知子を抱き締める。思いがけない温もりに触れた佐知子は、胸の奥でぴんと張り続けていた糸が切れる音を聞いた途端、意識するより早く彼に縋りついていた。
森上は佐知子を抱く腕に力をこめる。佐知子は彼の瞳を見上げて、
「お願い……行かないで。あなたは死なないで」
抑えていた感情が溢れ出す。瞼がふいに熱くなって、佐知子は顔をくしゃくしゃにしながら訴えた。
「死んでほしくないの。お願い、行かないで。あなたを失いたくない」
佐知子は森上の背中に腕を回す。二人の抱擁が、より強固で離れがたいものに変わった。
森上は佐知子の髪に触れながらその耳に唇を寄せると、
「なぜ貴女が泣くの」
厚く大きな掌で佐知子の頭を包みながら、森上は壊れ物を扱うかのような優しさで言葉を紡ぐ。
「貴女が失いたくないと願うのは、僕じゃないだろう?」
違うとすぐに返せない佐知子は、一度だけ強く頭を振る。胸の奥でせめぎ合う感情は、否定も肯定も導き出してくれないまま、ついに言葉にはならなかった。
「ありがとう」
埋めていた胸から顔を上げ、佐知子は潤みきった瞳で森上を見つめる。いつになく柔和な形をした彼の目は、しかし佐知子の願いに最後まで応えてはくれなかった。
「だけど僕は行くよ。何もかも終わらせなくちゃいけない。あおいの罪も、僕の罪も、全ては神の下で等しく裁かれ、召されるべきだ」
佐知子は激しく頭を振りながら、森上の腕をなおも強く掴み続ける。
「貴女は僕を見ると、いつも泣きそうな目をする。でも、貴女だけが僕をまっすぐ見つめてくれた。僕はもう、それだけで充分だ」
そう告げて、森上は佐知子の額に深い口づけをした。そして腕を握る手を優しく離させ、霊園の出口に向かって歩き出していく。
呆然と立ち尽くしていた佐知子は、我に返ると慌てて振り向いた。
「だめ……行かないで。行かないで!」
声のかぎり叫びながら、佐知子はその背を追いかけようとした。だが意思に反して、足は縫い付けられたように動かない。森上の後ろ姿が確実に遠ざかって消えていくのを、佐知子はただ愕然と見ているしかできなかった。
やがて佐知子は、膝が砕けたように崩れ落ちた。震える喉から嗚咽が漏れる。脳裏を駆け巡る感情は、何一つとして声にならない。
佐知子は地面に両手を突いて、肩を震わせながら声を上げて咽び泣いた。
健人と居酒屋に行った翌日、尋人は午後からずっとあおいを捜し続けていた。
いつもならすぐに繋がるはずの彼女の携帯電話は、何度かけても電源が切られたままだ。何度か送ったメールにも反応がなく、自宅の電話も留守電になっている。佐知子を頼ろうかと思ったが、生憎こちらも連絡が取れず、事務所にいる美弥に問い合わせたら、外出したまま今日は戻らない予定だと言われた。日頃よく佐知子に付き添っている彼女も、その行き先は聞かされていないらしい。
その現状に、尋人は焦りを覚えていた。昨日までは普通にメールが返ってきていたのに、なぜか今朝からあおいと一向に連絡が取れない。傍から見れば単なる杞憂なのだろうが、尋人には何かよくないことが迫ってきている兆候にしか思えなくて、いても立ってもいられなくなってしまった。
幸い今日は他に予定がない。教習所も残すところは卒検のみだ。両親には友達と会ってくると伝え、尋人は最初にあおいが住むマンションを訪ねた。
合鍵で部屋に入ったが、いたのは飼い猫の向日葵だけで、あおいの姿は見当たらなかった。リビングで一時間ほど待ってみたが帰ってくる気配はなく、尋人は仕方なく部屋を後にして、とりあえず近場を捜し回ってみることにした。
コンビニ。スーパーマーケット。児童公園。マンション周辺。F野駅界隈。徒歩でひたすら捜してみたが、めぼしい収穫はなかった。その後もう一度あおいの部屋へ行ってみたが、最初に訪ねた時と同じで室内には向日葵しかいない。それからまた三十分ほど待ってみたが、あおいが帰ってくることはやはりなかった。
尋人はF野を離れてT田へ戻り、今度は青葉学園の周辺を捜してみることにした。中等部や高等部。駅デパート。中央公園。大通り。杉原調査事務所近辺。一人でひたすら歩き回ったが、どこも空振りで終わってしまった。
当てがことごとく外れ続けた尋人は途方に暮れていた。思いつく場所は全て足を運んだので、これ以上どこを捜せばよいか分からない。あおいの携帯電話は相変わらず繋がらないままで、メールも何度か送ってはいるが、返信が来る気配は一向になかった。
尋人は休憩がてら駅前の自販機で水を買い、ベンチに座ってこれからどうするか考える。己の勘だけを頼りに、闇雲に捜し回るのはもう限界だ。あおいの部屋にまた行って、今度は彼女が帰ってくるまでどこへも行かず、向日葵と遊びながら延々と待っていようか。水を飲みながら、尋人はもうそれしかないと思っていた。
時刻は午後三時を過ぎている。飲み干したペットボトルを捨て、尋人は駅の券売機でF野までの切符を買った。そして改札へ向かおうとした時、
「あれ、尋兄ちゃん!」
聞き慣れた声に振り返ると、そこには制服姿の雪花がいた。
「雪花。お前、今日学校は?」
「明日から期末だから午前中で終わりー。でも、友達と喋ってたから遅くなっちゃった」
「そっか、期末か。早いな」
「だってもう二月も終わるよ? うちの学校、終業式が他よりちょっと早いから、テストも毎年この時期じゃん」
「そうだっけ。俺もう卒業したから、いまいち感覚がないな」
「尋兄ちゃん、今からどっか行くの?」
自然な流れでさらりと問われ、尋人は思わず言葉を濁した。
「え、や……ちょっとな、F野まで」
「F野? 何で?」
「……ちょっと野暮用」
雪花は不思議そうに首を傾げる。その眼差しは、明らかに怪訝そうな色をしていた。追及を恐れた尋人は思いついたように、
「お前さ、中等部の森上先生って知ってる? 非常勤の」
「え、うん。……まあ」
雪花は目を点にする。唐突に森上の名前が出てきて驚いたのか、先程まで浮かんでいた怪訝さは一瞬で消えた。
「話したことある? 森上先生と」
「……尋兄ちゃん、何でいきなりそんなこと訊くの?」
話題転換半分、情報収集半分で訊いた尋人は、適当な答えを用意し忘れていたのでつい焦る。だが、雪花はそんな次兄の内心には気付かずに、
「森上先生、格好いいし授業分かりやすいってみんな言ってたけど……正直あたしはあんまり好きじゃないな」
「へえ、何で?」
「何ていうか、完璧すぎて逆に近寄りがたいっていうか、笑顔とか言葉が何か嘘っぽいっていうか。……ごめん、嘘っていうのはちょっと違うかな。何ていうか、得体が知れない感じがするの。評判はよかったみたいだけど、あたしはそれが何かちょっと怖かったっていうか……ぶっちゃけ苦手だったかな」
尋人は少し驚いた。雪花は意外に深いところまで森上を観察していたらしい。そこまで詳しい人となりが聞けるとは思っていなかった。
「それに、あおいとも仲悪かったみたいだし。あおいから聞いてるかもしれないけど、森上先生が初めて学校に来た日、あおいと喧嘩一歩手前までいってたの。一触即発っていうの? びっくりしたよ。でも、今になってよくよく考えてみれば、森上先生があおいを挑発したのかも。先生、明らかに態度が上からだったし」
そう言って、雪花はさらに表情を曇らせて尋人を見つめる。
「もしかして、あおいと森上先生が何かあったの?」
「……どうしてそう思う?」
「何となく。訳を訊かれたら困るけど」
雪花が本当に心配そうな顔をしたので、尋人は何でもない風に明るく笑ってみせた。
「大丈夫だよ。あまり詳しくは言えないけど、俺に何とかできたらと思って。本当、大したことじゃないんだ」
「やっぱり。何かね、関係あるんじゃないかと思ってた。あおいは学校に来る気配ないし、森上先生は突然辞めちゃうし」
森上が青葉学園中等部を退職したことは尋人も知っている。今朝、中等部時代の担任に電話をかけて、森上についてそれとなく聞き出してみたのだ。佐知子の見様見真似とも言うべき付け焼刃の話術を尋人なりに駆使した結果、彼の大まかな人柄や学歴、現住所といった情報を仕入れることができた。
「大丈夫だよ。尋兄ちゃんが二人の間に入るなら、きっと何とかなるって」
そう言って雪花は朗らかに笑う。二人にまつわる詳しい事情について、これから根掘り葉掘り訊かれるだろうと身構えていた尋人は、妹があっさり話が終わらせたことに拍子抜けしてしまった。
「……珍しいな、お前が首突っ込んでこないなんて。どうしたの」
「何よぅ、その言い方。あたしがまるで空気読まないお節介焼きみたいじゃない」
「いや、いつもそうだろ」
「失礼ねー。あたしだって大人になったの。だって春から高校生だよ? いつまでもきゃぴきゃぴの世間知らずじゃないもん。その場の空気ぐらい読めますぅ」
雪花はぷうっと頬を膨らませるが、すぐに白い歯を見せてころころと笑う。そういえば最近、雪花の長所でもあり短所でもあった、周囲の空気を読まずに感情の赴くまま話す癖や、遠慮会釈もなく他人の事情に首を突っ込む性分が、いくらか陰を潜めているような気がする。さらに言えば、彼女が纏う雰囲気も、以前と比べて何となく変化しているようにも思えた。
「……雪花。お前、もしかして何かあった?」
「何かって何?」
「たとえば彼氏ができたとか、仲の良い友達と喧嘩したとか」
「何かその言い方、ちょっと感じ悪いなあ。あったらどうするの?」
「いや、はねっ返りが随分落ち着いたなあと思って」
「尋兄ちゃんってば、ほんと失礼しちゃう。大人になったって言ってよねー」
「で、そこんとこどうなの? 彼氏でもできた?」
もし本当にそうなら、自分より健人が黙っていないだろう。健人は重度のシスターコンプレックスだ。きっと愕然と青ざめて号泣するより先に、その彼氏とやらの家に奇襲をかけるだろう。尋人にはその未来がありありと目に浮かんだ。
雪花は唇に人差し指を当てて少し考えるそぶりを見せた後、
「うふふ。教えてあげなーい」
そして、あははと無邪気な笑い声を立てると、気付いたように電光掲示板を指差した。
「あ、尋兄ちゃん。F野方面の電車、あと五分で出ちゃうよ」
「え、マジ? じゃあ俺、行くわ。お前も気を付けて帰れよ」
「うん。あっ、今からミスド行くの。尋兄ちゃんの好きなやつも買っとくねー!」
雪花は尋人に向かって大きく手を振ると、ドーナツ屋のほうへぱたぱたと駆けていく。尋人はその背中に目元を和ませると、小走りで改札を抜けてホームへ向かった。
程よく空いた電車の中で、尋人は扉付近に立って車窓を眺める。定刻どおりに出発した普通電車は、徐々に加速してビルやマンションが建ち並ぶ街中を走っていった。
昨日、垣内亮太から教えられた話で、尋人は脳内でずっと散らばったままだったパズルのピースが、ようやく繋がって一枚の絵になっていくのを感じていた。投身自殺を図った末、昏睡状態に陥って記憶喪失になったあおい。彼女がそうまでして消したかった過去は、実の両親をその手にかけた事件だった。
──あおいは知らなかったんだ。
垣内亮太の言葉が脳裏に蘇る。
──俺たち暗殺者が仕事を請け負う時、教えられるのは相手の顔と出没地点だけだ。殺す奴の名前なんて知る必要ない。そういう方針なんだよ。だからあの時のあおいにも、ターゲットの顔と現れる場所だけ教えられた。名前や素性は一切知らされなかったと思う。ましてや自分を生んだ実の親だなんてことはさ。あおいにスムーズに仕事させるため、《ヴィア》は須藤夫妻の素性をあおいにはひた隠しにしてたんだ。
何も知らなかったあおいは、命じられるままターゲットの二人を殺した。屠った彼らが、実は自分の生みの親だったと知ったのは、それからしばらく経ってからだったという。何がきっかけで彼女が真実を知ったのか、垣内亮太には分からないらしい。しかし、全てを知ったあおいは、街外れの小高い丘の上にある公園で飛び下り自殺を図った。
実の両親を殺してしまったあおい。血を分けた彼らに銃口を向けた時、真実を知らなかった彼女は何を思ったのだろう。そして後に全てを知った時、彼女はどんな思いに駆られたのか。昨日からずっと思い巡らせているが、それらはどれも尋人の想像の範疇を遥かに超えていて、答えには到底辿り着けそうになかった。
尋人は幼い頃に両親を殺された。逆恨みで二人を殺した犯人は既にこの世にいないと、つい最近健人に教えられた。その時生まれた感情の名前を、尋人は未だに思いつけていない。きっと一生持て余したままだろう。
幼少期に死別したとはいえ、尋人は両親に愛されていた記憶がある。もはや朧気にしか覚えていないが、彼らに可愛がられて育った時期は確かにあった。だが、あおいにはそれが全くない。生まれてすぐ病院から攫われ、《ヴィア》の暗殺者として育てられたあおいには、実の両親との記憶は皆無だ。しかしそれでも、彼らを手にかけた現実は彼女の心を押し潰した。
そして、その事件に心を潰された人間がもう一人いる。十五歳上の実兄である森上智彦だ。彼は両親を殺された復讐を遂げるために、血を分けた妹をずっとつけ狙っていたのだ。
垣内亮太の話では、二年前の事件の後から二人は争い続けているらしい。何度も銃を撃ち合い、命を秤にかけた戦いを繰り返しているのだという。実際に、去年の暮れにあおいは森上に撃たれ、深手を負って生死の境を彷徨った。その後、彼女が助かったことを知った森上は、とどめを刺すためにあおいのマンションまで乗り込んできた。
傍から見るかぎり、そこに肉親としての情はない。森上はあおいを憎んでおり、実の妹という現実がそれを凌駕する可能性はほぼないだろう。そんなものが歯止めになるなら、二人の争いはとうの昔に終わっているはずだからだ。
──近いうち……ってか、本当の本当にすぐ近いうち、森上はあおいを今度こそ仕留めるために動き出す。あおいもそれを分かってるはずだ。二人は必ず、徹底的にやり合うだろう。そうなる前に、できるならお前が止めてやって。
俺にはできないからさと、垣内亮太は薄く笑った。そうして彼は、全てを尋人に託したのだ。
電車がF野駅に到着する。尋人はドアが開くと同時に降りて足早に改札を抜けると、あおいのマンションへ続く道を選んだ。
あおいと森上が住むのは同じF野町内だ。それも恐らく偶然ではない。森上が住んでいた部屋にも行ってみたが、既に退去していたらしく、何もかも引き払われた後だった。
時刻は夕方に差し掛かっている。もし買物などに出掛けていただけなら、戻っていてもおかしくない頃合だ。まだ帰っていないようなら、退屈を持て余している向日葵の相手をしながらあおいを待とう。彼女の姿を目にするまで、何時になってもそこから動かない決意でいた。
尋人は脇目も振らずに早足で歩く。なぜこんなにも気が急くのだろう。熟考せずとも、その答えはすぐに分かる。
焦っているのだ。得体の知れない嫌な予感が、胸の中で刻一刻と大きくなる。それはもはや、無視できないほど不吉に膨れ上がってしまっていた。
全てのきっかけはあの本だった。冬景色をテーマにした、東山魁夷の画文集。何かの理由によりあおいの手に渡った、実の両親が綴ったメッセージが書かれた一冊。彼女が長く昏睡していた間も捨てられることなく、引越しの段ボールの底で息を潜めるようにして存在し続けた本。それが今になって、事態を大きく動かす鍵に姿を変えた。
あおいに画文集を渡された時のことを、尋人はよく覚えている。受け取った際、これは何度も読まれてきた本だと瞬時に思った。本そのものに汚れや破損はなかったが、ページの開き具合に幾度となく読み古された跡が残っていたからだ。
そういえば、付箋が貼られていたページもあった。確か二ヶ所だっただろうか。詳しい内容はうろ覚えだが、そのうちの一枚である『白馬の森』は、尋人の心に今もやたらと強い印象で焼きついている。
蒼い森に佇む一頭の白馬。添えられた詩の始まりは、『心の奥にある森は誰も窺い知ることは出来ない』。
初めて目にした時は、浮かんではたちまち消えた感情の切れ端の正体を、最後まで掴むことができなかった。しかし、あれから時が経過した今なら、それが何だったのかはっきりと分かる。
初めて『白馬の森』を見たあおいはきっと、絵に何かしらの強いシンパシーを感じたのではないだろうか。脳裏をよぎったその感情を忘れないために、もしくは開けばいつでも思い起こすことができるように、付箋を貼って目印まで残したのだとしたら。そんな想像が瞬時に駆け巡っては消えてしまい、ざらついた後味だけが胸を掠め続けていたのだ。
もやもやと心を乱し続けていた謎が解けた時、尋人はずっと見つけられなかったパズルの最後の一ピースを、やっと掴むことができた気がした。
時間をかけて出来上がったそれが正解であるのかどうか、今となってはもう確かめようがない。あおい自身も、当時の記憶をまだ思い出せてはいないだろう。だが、二年前と同じ絶望をもう一度抱かせるのは嫌だ。そうさせないためにも尋人は、最悪の事態へ転がる前に、何としてもあおいを見つけ出さなければならない。
尋人はマンションに着くと、あおいの部屋番号を入力してインターホンを押す。一瞬期待してみたが、応答や開錠といった反応はやはりなかった。
エレベーターで六階に上がり、今度は玄関のインターホンを押してみるが、予想と違わずこちらも無反応だった。尋人は合鍵で開錠すると、靴を揃える間も惜しんでリビングに駆け込む。しかしそこにも、人の気配はまるでなかった。
尋人はため息をついてソファの周辺を見やる。そこには惨状といっても過言ではない光景が広がっていた。
ガラステーブルがひっくり返って大きく割れ、細かな破片が広範囲に飛び散っている。テーブルに飾られていたはずの一輪挿しも壊れ、ひしゃげたバラが床に無残に打ち捨てられていた。
昼過ぎに訪れた際に初めてこの状態を目の当たりにした尋人は、ぎょっとしてうろたえると同時に肝が冷えた。強盗か、はたまた森上の急襲かと思って慌てたが、ソファに投げ捨てられた茶封筒を見て、この光景が生まれた経緯を察した。A4サイズのそれは杉原調査事務所の業務用定形外封筒で、周囲に散乱した書類はどれも、あおいの出生にまつわる調査報告書だった。
恐らくあおいはこれに目を通した後、部屋から姿を消したのだろう。来るのが一歩遅かった。尋人は苦々しく唇を噛んだが、後悔したところで状況は変わらないと無理やり気持ちを切り替えた。
尋人はリビング全体をぐるりと見渡す。室内の様子は、何時間か前に来た時と変わりはない。あるとすれば、カーテンが開けられた窓に夕陽が射していることだろうか。
「どうしようかな……。このガラステーブル、片付けたほうがいいかな」
ガラスや一輪挿しの破片が飛び散っていて、迂闊に近寄ると足の裏を怪我しそうだ。一刻も早く掃除したほうがいいのだろうが、それよりも他にやるべきことがあるとも思う。
ソファで眠っていた向日葵が、目を覚ますなりとてとてと尋人に擦り寄ってきた。
「危ないぞ、向日葵。ガラスが飛び散ってるんだ。怪我しちゃいけないからソファにいろ」
そう言いながら向日葵を抱き上げた瞬間、ポケットの中で携帯電話が震えた。出てみると、相手は健人だった。彼は尋人が応答するなり、
〈尋人。お前、今どこにいる?〉
「どこって……あおいの部屋だけど」
〈本人、そこにいるのか?〉
「いや、いない。出掛けたみたいだ。携帯も繋がらない」
電話の向こうで荒々しい舌打ちが聞こえたかと思うと、
〈今、佐知子から連絡があった。様子がおかしかったんで問い質したんだが……尋人、今から俺が言うこと心して聞けよ。いいか、あの子は──〉
「うん、知ってる」
〈は?〉
尋人はおとなしく抱かれたままの向日葵をソファに戻すと、
「あおいの過去ならもう知ってる」
〈知ってるって、お前〉
「あおいが実の両親を殺したことも、森上智彦の妹だったってことも全部」
〈お前、それ誰から聞いた?〉
「……言えないけど、姉さんじゃないよ」
〈いつ聞いた?〉
「……昨日」
〈昨日だとぉ?〉
鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声に、尋人は思わず携帯電話を耳から離した。
昨夜健人と一緒に夕飯を食べた際、尋人はその話は一切していなかった。尋人が既に真実を知っていたことは、健人としては寝耳に水だったのだろう。どうやら本気で激昂しているらしく、電話の向こうの空気がおっかないことこの上ない。
〈……まあいい。言いたいことは百万とあるが、今はそんな場合じゃない。いいか、あの子が消えたということは、森上って奴と会ってる可能性が高い。あの子がどういうつもりか知らんが、森上のほうはあの子を殺すつもりだ。尋人。お前、何としてもあの子を捜し出せ〉
「捜してるよ、昼間からずっと。でも見つからないんだ。心当たりのあるところは全部行ったけど空振り。他にどこを当たれば」
そう言った時、背後に突然誰かの気配を感じた。尋人は反射で振り返ると携帯電話を投げ、伸びてきた腕を掴んで勢いよく背負い投げを食らわせる。
判断するより先に、体が勝手に動いていた。尋人は肩で息をしながら、壁に全身を強打し大の字になった男を見つめる。いったいいつ、この部屋に入ってきたのか。全く気付いていなかった自分の愚鈍さが呪わしい。
「お前、誰だ」
男はよろよろと起き上がると、尋人をめがけて再び突進してくる。その手にはスタンガンが握られていた。尋人は突き出された手を瞬時に避け、相手の鳩尾を渾身の力で蹴り飛ばす。そして、再び壁に激突した男には一瞥もくれず、一目散に玄関へ走って靴を引っ掛けて外に飛び出た。
エレベーターに駆け込んで、閉ボタンを叩くように何度も押す。幸いドアが閉まると、縦長の狭い箱は一階までノンストップで下りてくれた。
尋人は荒くなった呼吸を整え、今更ながら気付いて青ざめる。
「しまった、携帯投げちゃった……」
恐らく健人は電話越しに、尋人に危機が降りかかったことを察しただろう。しかし、これでは助けの求めようがない。これからどう動くにしても、携帯電話がないのはあまりに不便だ。
エレベーターの扉が開く。尋人は足早にマンションを出て振り返り、先程の男が追いかけてきていないことを確かめた。
ほっと気を緩めた次の瞬間、後頭部にがつんと衝撃が走った。視界がぐらりと歪み、平衡感覚を失った体が前のめりに倒れる。アスファルトにぶつかる直前、誰かの腕が乱暴に腹を支えたのを感じたが、回路が遮断されたように尋人の意識は闇に呑まれた。
橙の夕陽が沈み、空が群青の宵に染まる。
あおいはもぬけの殻となった森上の部屋にいた。電気やガス、水道が止められた室内には、暗闇に染まりきった壁と床だけが存在している。
「どれぐらい、経ったんだろう……」
リビングで立ち尽くしていたあおいは、ポケットから携帯電話を出して電源を入れる。
メールを受信した携帯電話が震える。十通近いそれらの送信者は全て尋人だった。
あおいはメール一通ずつ開いて読む。そして四通目を開いた時、携帯電話がまた震えた。今度は着信で、画面には未登録の番号が表示されている。
あおいは通話ボタンを押して耳に当てた。
〈やあ〉
あおいは目を上げる。
〈やっと出てくれたね。何度かけても出ないから、今日はもう無理かと思っていたよ。今から言う場所に一人でおいで。全てを終わらせようじゃないか〉
「森上さん……」
〈実に長かった。だけどやっと、僕らに終焉が訪れる〉
音一つない闇の中で、あおいは彼に言葉を返すために息を吸った。
ゆるりと目を開いた途端に、刺すような痛みが頭に走る。尋人は思わず左手で額を押さえて唸った。掌が何かでねっとりと濡れる。それは額からたらりと流れる自分の血だった。
「気が付いたかい?」
よく通るバリトンの声が響く。薄い闇の中央に置かれたパイプ椅子に、森上が足を組んで座っていた。
尋人は反射的に腰を浮かそうとする。その時初めて、右手が使えないことに気が付いた。膝より低い位置にある鉄製の格子窓に、手錠で繋がれているからだった。
尋人は右手を強く引っ張ってそれを外そうと試みる。だが、激しい痛みが脳をまた駆け巡り、思わず体を横に倒してぐったりと呻いた。
「動かないほうがいい。部下が少々、無茶なことをしたらしくてね」
「何だ、これは……」
「本当はもっと手柔らかに連れてきてもらう予定だったんだが、君に返り討ちに遭って急遽手段を変えたらしい」
「あの時、俺を後ろから殴ったのは……あんたか」
「僕じゃないよ。だが、部下への指示が行き届いていなかったのは事実だ。君が武道に長けていることを伝え忘れていたからね。手荒な真似をして悪かった。悪化するといけないから、そこでじっとしててくれると助かる」
尋人は地面に倒れながらも森上を精一杯睨めつけて、
「何が手柔らか、だ。頭殴れば、人は死ぬんだぞ。考えれば分かることだろ。……お前、本気で俺を殺そうとしたな」
「誤解だよ。今君に死なれちゃ、ここへ連れてきた意味がなくなる」
「いけしゃあしゃあと、言いやが……って」
激しい痛みと鈍い痛みの繰り返しで、意識がだんだん朦朧としてくる。尋人は左手で力なく額を押さえ、ごろりと仰向けに転がった。
森上は拳銃の手入れをしながら、
「君と会うのは二度目だね、杉原尋人君。僕のことは、当然知っているだろう?」
尋人は森上を睨みながら、体を横たえたままで周囲を観察する。
朽ち果てた倉庫のような場所だ。四方の壁際は古びた廃材などで雑然と埋まり、何も置かれていない中央がやたらと広く感じられる。天井付近に等間隔で嵌め込まれたガラス窓が、倉庫内に垂れ込める闇を僅かだけ薄くしていた。この暗さからすると、時刻は夜を確実に廻っているだろう。外では月が明るいからか、暗いが全く何も見えないわけではない。
先程からずっと頭が痛い。じんじんと響く痛みに思考が持っていかれそうになる。尋人はゆっくりと上体を起こし、気丈さを保ったまま森上を見返した。
「……知ってる。あんたが誰なのかも、あんたがあおいと、どういう関係なのかも」
「そうか。なら話は早い」
「俺をどうするつもりだ。人質にして、殺すのか」
「まさか。君を拉致すると決めたのは僕だが、ここまで痛めつけるつもりはなかった。それについては詫びるよ」
「何が詫びだ。連れ去ったら、何もかも一緒だろうが。おまけに、思い切り殴りやがって。……それに、この手錠は何だ。外せよ、今すぐ」
「それは無理だ。こうでもしないと君は、僕とあおいの間に割って入ってくるだろう?」
森上は拳銃に弾倉を装填し、撃鉄を引いて片手で構える。
「君は傍観者だ。これから始まる終末を、ただそこで見ていてほしい」
「何……?」
「見届けてほしいんだ、僕とあおいの結末を。あの子に一番深く関わった君に」
そう言って森上は、暗闇でもそれと分かるほど酷薄な微笑を浮かべた。尋人は思わずぞっと息を呑む。今まで感じたことのない戦慄が背筋を滑り、痛みの治まらない頭がくわんと揺れた気がした。
夜の闇がさらに濃くなる。天井近くの窓から入る薄い月明かりが、氷のような色でその暗がりを冷酷に際立たせていた。
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