第15章 終の夜と初めの空
ぴんと張り詰めた夜が、ただ広い倉庫内を支配する。月明かりでやや薄くなった暗闇が、森上の横顔の陰影を僅かに描き出していた。街中の喧騒から切り離されたこの場所には、彼が銃に触れた際に時折立つ微かな音しか響かない。
尋人はぎりと唇を噛んだ。右手に手錠を嵌められた上、それを格子窓に繋がれているせいで思うように身動きできない。殴打された後頭部の出血は止まったようだが、ずきずきと断続的に痛むためか、依然として思惟はぼやけたままだ。
だが、尋人はそれでも精一杯の険を滲ませて、
「おい。俺を、どうするつもりだ」
「殺しはしないさ。君はただ、そこにいてくれればいい」
森上は銃身に指を滑らせると、その銃口を宙に向けた。
「もうじきここにあおいが来る。君を助けるために」
「あおいを、殺すのか」
精一杯の険が滲んだ言葉を、森上は酷薄な微笑でふっと受け流す。尋人は怒りに駆られ、掴みかからん勢いで腰を浮かせた。格子窓と手錠を繋ぐ鎖が、途端にがしゃんと歪な音を立てる。
「あんた、本気なのか。あおいは、あんたの妹だろ!」
「だからどうした」
情や温度が微塵もない言葉を返され、尋人は迸る感情のまま激昂した。
「どうした、じゃねえよ。てめえ、あおいの兄貴だろ。あおいは、てめえの妹なんだろ! 兄が妹を殺すなんて、本気で言ってんのか!」
立ち上がろうと膝に力を入れても、たちまち手錠に動きを制される。次の瞬間、割れんばかりの激痛が脳に走り、尋人は思わず体ごと大きくぐらついた。
「あんたたち兄妹に何があったのか、俺は知ってる。あおいはあんたの親を……実の親を、その手で殺した。あんたがあおいを憎む理由は、分かる。でも、だからって、殺していいなんて本気で思ってるのか!」
何度右手を振りかざしても、手錠は格子窓から外れてくれない。金属と金属がぶつかる耳障りな音が、張り詰めた空気に躊躇なくひびを入れ続ける。
「ざっけんな! 兄は、妹を殺すために兄になるんじゃない。守るために、兄になるんだろ!」
何度目かの激痛が脳を貫き、尋人は耐え切れずにうずくまった。視界が激しく揺らぎ、じんじんとした痛みが奥から響いてくる。
額を押さえて呻く尋人に、森上が感情のない目を向けた。
「君は、恵まれた家庭で育ったんだね」
尋人は目だけを上げて森上を見返す。
「家族を支え、家族に支えられ、兄妹を守り、兄妹に守られ……。君の兄である杉原健人も、妹の杉原雪花も、君を常に守り支えている。君も彼らを同じように支え、守り、かけがえのない存在だと思っている」
森上はパイプ椅子に腰掛ける体勢を少しだけ変えて、
「君は幼い頃に両親を亡くしたそうだね。警察官だった君の父は、かつて自身が逮捕した被疑者に、母とともに殺された。君の兄は、それを憎んで父と同じ職に就いたのだろう?」
尋人は鋭い眼差しで森上を睨めつける。
「……調べたのか、俺たちのことを」
森上は口端を僅かに吊り上げただけで、否定も肯定も明確には示さなかった。
「いわば君は、僕と同じ体験をしているわけだ。血を分けた唯一無二の存在を、残酷な形で奪われるという体験を。君は憎んだことはないのかい? そんなわけはないだろう。君だって両親の死を悼み悲しみ、彼らを死に追いやった人間を殺してやりたいと思ったことぐらい、幾度となくあるはずだ」
「……てめえなんかに、答える謂れはない」
森上は痛みに耐えながらも虚勢を張る尋人を鼻で笑った。
「たとえ君がそうでなくても、君の兄は違ったはずだ。両親を殺した人間を憎み、社会に復讐しようと警官になったお兄さんの気持ちが、僕にはよく分かる」
「勝手なこと言うな! お前と兄さんは違う」
「違わないさ」
「違う。お前なんかと一緒にするな! 兄さんの葛藤を、これっぽっちも知らないお前が」
「だが君の妹はどうかな? 当時既に自我が確立していた君や君の兄と違って、杉原雪花は物心つかない時期に両親を亡くした。彼女は知らないんだろう? 自分の実の親がなぜいないのか、その真相を」
尋人は絶句する。
「杉原雪花……実にいい子だ。世の中の酸い甘いも、闇も影もまるで知らない、太陽のような明るさを持っている。君たち家族は彼女を傷つけないために、両親の死の真相を未だ知らせずにいるんだろう?」
「……てめえ、どれだけ調べたんだ」
「詳しく探らずとも、彼女を見ていればそれぐらい分かるさ。あの子は家族や周囲の愛と温情を一身に受けて育った。君たちが彼女を闇や影から守り、彼女自身も世界の裏側など露も知らない」
森上は一旦言葉を止めて、挑むように尋人を見返す。
「だが、もし彼女が加害者だったら?」
その言葉の意図が掴めず、尋人は眉をひそめた。
「もし杉原雪花が君の両親や兄、姉たちを手にかけたら、君はどうする?」
予想もしていなかった問いに、尋人は息を呑んで瞠目する。
「君の妹である杉原雪花が、君の今の両親や兄妹を殺すんだ。もしそんな現実に遭遇したら、君はどうする? 妹は何も知らなかった、妹が自ら望んだことではなかった……そう言って君は彼女を許すのか? 君の大切なものを奪った肉親を。妹だから、血の繋がった家族だから。そう言って彼女を許し、受け入れ、憎しみすら抱かずに生きることが君にできるか?」
尋人は継ぐべき言葉を失くした。未だ痛みが鳴り止まない脳裏に、雪花の無邪気な笑顔が何度もよぎる。
それと同時に、いくつかの記憶が走馬灯のように駆け巡った。両親の葬式の夜。言葉を覚えたてだった幼い雪花。怒りと悲しみ、憎しみを痛烈なまでに叫んでいた十五歳の健人。そして、両親の死の真相を雪花には黙っておくよう初めて告げられた日。
青ざめて絶句する尋人を見やり、森上は我が意を得たりと微笑んだ。
「そういうことだよ、杉原尋人。大切なものを奪われて、憎しみを覚えない人間はいない。たとえ血縁があったとしても同じだ。奪われたことに対する怒りや憎しみは、どうあっても消えはしない。どれだけ繕ったとしても、そんなものは上辺でしかないんだ。人間は、そんな綺麗な生き物じゃない」
「……だからあんたは、あおいを殺すのか」
掠れかかった低い声音で尋人は問うた。
「血を分けた実の妹を、その手にかけるのか。それであんたは満足なのか? あおいを殺したら、あんたは救われるのかよ」
尋人は激しく頭を振って叫んだ。
「違うだろ! そんなことはない。絶対に違う! そんなのはただ、あんたが自分を納得させるために作った言い訳だ」
尋人は膝に力を入れて腰を浮かし、手錠で繋がれていることも忘れて叫ぶ。
「そんなことで、全てが終わるわけないだろう! あんたが許せないのはあおいじゃない。いや、あおいも許せないんだろうけど、でも本当は違う。あんたが一番許せないのは、あおいを守れなかった自分自身じゃないのか」
それまで能面のようだった森上の表情に、初めて僅かなひび割れが走る。
「あんただって兄で、人間だ。最初から妹を憎んでたわけない。生まれたばかりのあおいが攫われて、あんたは守れなかった自分を責めたはずだ。あんたは、敵に攫われた妹を助けたくて、闇組織に入ったんだろう? そのあおいが自分の親を殺して、あんたはあおいを憎んだだろうけど、何より自分を強く憎んだはずだ」
激痛に脳をぐわんと揺さぶられ、尋人はまた力を失くしてしゃがみ込む。しかし顔だけは上げて森上をきつく睨み、
「俺は、あおいが悪くないなんて言わない。あおいが犯した罪は、間違いなく罪だ。汲むべき事情はあったとしても、俺はあおいを庇う気はないし、一生許されることはないって分かる。あんたが抱える気持ちだって、至極真っ当だと思うさ。俺だって、あんたが言ったように、もし雪花が俺の家族を殺すなんてことしたら、あんたと同じ感情を覚えないなんて言えない。でも……だからって、あんたがあおいを殺すことには納得できない」
割れるように頭が痛い。尋人は額を押さえながら、
「あんたがやるべきことは、妹を殺すことじゃない。向き合うことだろ! 殺して何になるんだよ。そんなことで罪が贖われるとか、救われるとか思ったら大間違いだからな。あんたがやるべきことは、妹と向き合って、一緒に罪を受け止めて、生きていくことなんじゃないのか!」
森上はすっと立ち上がり、無言で尋人に銃口を向けた。心臓が冷水を浴びせられたように竦み、尋人は思わず息を詰めて言葉を呑む。
「随分と分かったような口を聞く。君に何が分かる? いかにも聖人君子のような立派な理屈だが、よもやそれが正論だとでも思っているのか?」
「……残念。俺はそんな、お綺麗な人間なんかじゃないよ。弱くて、ずるくて汚い上に、一端に誰かを守る力もないさ」
刃のような眼差しの森上を、尋人は負けじと睨み返す。
「でもな、負の感情は誰も救わないし、何の解決にもならないってことぐらい、あんたと同じ経験をしてなくても、身を持って知ってるんだ」
その時、森上の顔に初めて怒りが表れた。どこまでも冷え冷えとした眼光が、全身を抉るように刺してくる。
限界まで張り詰めた沈黙が、薄い月明かりをさらに冴え渡らせる。
聞き逃してしまうほど僅かで、極めて小さな音が唐突に立つ。それに呼応して、森上の視線が一瞬だけ下方に滑り、つられた尋人もその仕草をつい目で追った。しばらくじっと凝視していた尋人は、その音の正体を見抜いて驚く。それは、古びたパイプ椅子の上にぽつぽつと滴り落ちる血だった。
尋人は息を呑んで目を見開く。暗闇のせいで不確かではあるが、森上の脇腹に大きな染みが広がっているのが見えた。
「……お前、怪我してるのか」
「ほう。驚いた。目がいいんだね」
「脇腹から、血が出てる」
「この闇の中で、そこまで目が利くとは」
「すかしたこと言ってんじゃねえ。何なんだよ、その傷は」
「掠り傷だよ」
「そんなわけないだろ。明らかに、腹から血が出てるじゃねえか」
「何てことはない。君の与り知らぬところで、思わぬ反撃があっただけさ」
森上は事もなげに言ってのけた。
「君を運んできた部下が、僕に向かって発砲してきたんだ。どうやら、僕のやり口が気に食わなかったらしい」
「……そいつをどうした」
「無論、殺したよ。君をここへ運んできてもらった時点で、彼の役目も終わったからね」
何の感情も見えないその言葉に、尋人は訳もなくぞっとした。
「組織なんて面倒なものだよ。僕は、僕の目的を達するためだけに《M‐R》に入った。そして、そのために組織を利用した。僕にとって《M‐R》は、それ以上でもそれ以下でもない。目的を達するめどがついた今、組織がこの先どうなろうと、、また組織がこれから僕をどうしようと、そんなことはもはやどうでもいい」
「裏切った……ってことか? でも、そんなことしたら組織が黙ってないだろ。あんたが仲間を殺したなら、それを知った組織は、あんたをも殺そうとするんじゃないのか」
「そんなこと、考える価値もないよ。僕は、僕の目的さえ達成できれば、後はどうなったっていいんだ」
その言葉で、尋人はようやく森上の真意に気が付いた。彼はあおいを殺した後、自らも命を絶つつもりなのだ。自殺か、組織による粛清か、もしくはそれらと違う方法で、いずれにせよ間を置かずに死を迎えようとしている。
「本気……なのか、あんた」
「僕はいつだって本気だよ。だから君をここに連れてきた。これから始まる終わりの全てを見届けてもらうために。君はそこで、ただ見ていてくれるだけでいい。くれぐれも手出しはしないでくれ。もし君が下手に動けば、僕は殺すつもりのなかった君を、殺さざるを得なくなる。尤もその状態では、何かしようにも動けないだろうけどね」
尋人が言い返そうとした時、森上は視線をふっと別の方向へ逸らした。尋人はその眼差しの先を辿り、思わずあっと声を零す。
倉庫を入ってすぐのところに、あおいが一人で佇んでいた。いつからそこにいたのか。森上とのやりとりに夢中で、他には全く気を配っていなかった。
天井から降り注ぐ薄い月明かりが、あおいの表情を淡く描き出す。それは驚くほど静かで揺らぎがなく、尋人ですら感情が少しも読み取れなかった。
森上は一瞬乾いた笑いを漏らすと、尋人から完全に視線を外してあおいと向き合い、その顔にまっすぐと拳銃を構えた。
「森上さん!」
尋人が叫ぶと同時に、森上は後方に銃口を向けて振り返らずに発砲した。尋人の肩すれすれの軌道を駆けた銃弾が、一秒に満たない体感速度で壁にめり込む。途轍もない戦慄を不意打ちで食らった尋人は、愕然としながら森上と背後の壁を何度も交互に見た。
銃弾は尋人に当たらなかった。だがそれは、不幸中の幸いなどでは決してない。動きかけた尋人を制するため、脅しとしてわざと外して撃ったのだ。
「手出しをするな。邪魔さえしなければ君は殺さない。だが、もしこれ以上騒ぎ立てるのならば、今度はその額を撃ち抜くよ」
先程よりも数度は冷えた声で、森上は尋人を振り返らずに言い放つ。彼の本気を本能で悟った尋人は、頭の中がざっと真っ白になった。
倉庫の入口で立ち尽くしていたあおいは、やがて森上のほうへ一歩ずつ足を進めていく。尋人の位置から見えるのは二人の横顔の輪郭だけで、はっきりとした表情までは窺えない。
森上は銃口をあおいに向けたまま、
「待っていたよ、あおい。よく来てくれたね」
「尋人は関係ない。どうして巻き込んだの。あなたが殺したいのは、あたしでしょう?」
「彼には見届け役を頼んだんだ。僕らの結末を見ていてもらおうと思ってね。そのほうが、君もやりやすいだろう?」
あおいは僅かに眉を吊り上げる。森上はその感情を嗤うように、
「長かった。実に長い道のりだった。ようやくこの時を迎えられたかと思うと感慨深いよ。君にとってもそうだろう? あおい」
あおいは無言で森上を見返す。彼の構える銃口はあおいにまっすぐ向けられたまま、その軌道がぶれる気配は少しもない。
「銃はどうした。なぜ何も持っていない?」
「持っているわ。だけど、あなたには向けない。あたしは、あなたを殺さない」
森上は虚を衝かれたように黙り、やがてくつくつと笑い声を立てる。壊れた人形のようなその響きに、尋人は訳もなく全身がぶるりと寒くなった。
「……あたしは、やっと真実に辿り着けた」
尋人は驚いてあおいを見つめる。
「あたしは二年前、両親を殺した。あたしを産んでくれて、あたしを取り戻そうとしてくれていた、あなたとあたしの実の親を」
「思い出したのかい?」
森上の問いに、あおいは静かに頭を振る。
「記憶としては、何一つ思い出せなかった。あたしが知ったのは事実だけ。二年前、実の両親をこの手にかけたという事実だけ。でも、だからといってあたしはそれを否定しない。言い訳も言い逃れも、罪から逃げることもしない」
あおいは森上を見据えたまま、凛と確かに響く声で告げる。
「ここへ来たのは、尋人を助けるため。そして、あなたと決着をつけるため。だけど、その手段にあたしは銃を使わない」
「じゃあどうすると? 僕に素直に撃たれて死ぬか?」
森上はその決意を嘲り笑い、
「それじゃあ何の意味もない。君が何の後悔もなく死ぬなんて、この上ない贅沢じゃないか。どんな悪人よりも狡猾で、自分勝手極まりない死に方だ。それとも、抗わずに殺される覚悟があるとでも?」
あおいは黙したまま首を振る。
「あたしは死なない。生きて罪を償う。そう決めたから」
「生きて、償う……?」
「あたしの命だけで、背負った罪を贖えるなんて思わない。一生許されることはないし、許しを望んだりもしない。だって、罪は罪だから。あたしの両手は、たくさんの人の血で汚れている。これからもずっと、それは消えない」
芯のある声で紡がれるあおいの言葉が、輪郭のぼやけた闇に響いてはたちまち消える。
「でも、死ぬことは贖いにはならない。罪は生きて償うもの、死を望むことは逃げでしかないって、教えてもらったから。あたしは、あたしを生きなくちゃいけない。あたしを信じて、受け入れてくれた人たちのために。罪を背負って生きていくために」
あおいの言葉に、森上は何も返さない。ただ黙しているのではないと、尋人にはすぐに分かった。彼の纏う気配がみるみるうちに凄絶さを帯び、その感情が臨界点に近いことを声もなく告げていた。
「あなたの憎しみは、とても真っ当なものだと思う。あたしは否定しない。でも」
「……けるな」
森上はその言葉の先を、地を這うような声音で遮る。
「ふざけるな!」
森上の銃口が突如火を噴き、あおいが咄嗟に後方へ身を引いた。
「あおい!」
尋人は思わず彼女の名を叫び、駆け寄ろうと腰を浮かせる。
「やめろ! あおいを撃つな!」
尋人は森上に向かって必死に叫んだ。次の瞬間、再び銃声がこだまする。ぎょっと慄くより先に、気付けば尋人は後ろの壁に吹っ飛んでいた。
己の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。だが、右上腕が焼けるように痛く、どくどくと脈打つ血流が外へ溢れ出しているのを見て、ようやく状況を悟る。
尋人は撃たれた箇所を押さえながら壁に倒れかかる。頭が痛い。腕が痛い。かろうじて保てていたはずの思惟が、いとも簡単に折れて大きく傾いだ。
「尋人!」
駆け寄ろうとしたあおいを、森上は銃口を強く突き出すことで制する。
「ふざけるな。お前なんかが、よくもぬけぬけと……!」
恐ろしく低く凄んだ声音に、あおいが表情を凍らせる。尋人は右腕を押さえたまま横たわり、霞みかける意識を奮い立たせて二人を見た。
森上は瞳に苛烈な怒りを迸らせ、猛り狂わんばかりの激情をあおいにぶつけた。
「父さんと母さんを殺したお前が! どうしてぬけぬけとそんな言葉を口にする! 自分は死なない、罪は生きて償うものだと? よくそんなことが言えるな。お前は父さんと母さんを殺した! 俺から全てを奪った! それなのになぜお前が……お前なんかが生きると言う!」
額に銃口を突きつけられたあおいは、愕然と目を見開いて立ち竦む。
「父さんと母さんは、お前を助けようとしていたんだ! 生まれてすぐに攫われたお前を、二人はいつだって気にしていた。何とかして救い出せないか、毎日そればかり考えながら生きていたんだ。その命を止めたのはお前だ! 実の子に撃たれて死んだ二人の気持ちがお前に分かるか? 生きたかったのはお前じゃない。父さんと母さんだ!」
積もりに積もった憤怒と憎悪が爆ぜる様を目の当たりにして、尋人の脳裏から一切の言葉や思考が消え去った。荒波よりも凄まじく猛る森上の感情が、痛みと出血でなす術のない体に伝染してくる。
彼の気持ちは分かる。それは尋人にも覚えのある感情だ。大切なものを奪われれば、誰もが抱いて当然の思い。胸を抉り取られんばかりに痛く、それでいて誰の目にも映らない、歪な形をした褪せない傷痕。
痛い。痛い。なんて痛くてたまらない。
森上は鬼気そのものの顔であおいを突き飛ばした。そして、よろめきながら数歩後ずさる彼女に銃口を向けたまま、
「なあ、あおい。生きることが償いなんて、そんなのは痛みを知らない人間の世迷言だ。生きて罪が贖われるなら、憎しみなんて存在しない。痛みや悲しみも、後悔すらないはずだ。俺がこの二年をかけて辿り着いた答えは一つ。あおい、お前をこの手で殺す」
尋人は弾かれるように思惟を取り戻した。頭と腕の痛みに耐えながら、左手に渾身の力を入れて上体を起こす。
「や、めろ……」
森上は荒い呼吸をしながら、銃口の照準をあおいの額に定め直す。
「お前を殺す。兄である俺が、死をもってその罪を償わせる。全てを終わらせよう、あおい。そうすることでしか、何も終わらないんだ」
黙したまま森上を見つめていたあおいは、やがて唇を一文字に結んで彼に近付いた。
尋人は息も絶え絶えに片膝を立てる。途端に頭と腕が痛んで体がぐらつくが、それでも左手を地面に突いて必死に耐えた。
「やめろ……っ」
森上が構える銃口の前に、あおいが歩み寄って額を合わせる。森上が柔らかに微笑んだ。
「大丈夫、君を一人で逝かせはしないさ。僕もすぐ、後を追うよ」
尋人は手錠が繋がれた格子窓を、ありったけの力で蹴りつけた。派手な音とともに格子が外れる。次の瞬間、尋人は駆け出した。
「やめろーっ!」
あおいがぎょっと尋人を見る。尋人は両手を広げて立ちはだかり、全身を盾にして彼女を庇った。
銃声が轟いた。からんと薬莢の落ちる音が響く。背後で膝から崩れ落ちたあおいを、尋人は振り返るなり慌てて支えた。
「あおい、大丈夫か!」
「だ、大丈夫……」
「え」
「撃たれてない……。弾、当たってないの」
あおいは呆然と呟いた。尋人は驚いて森上を見上げる。銃口から一筋の硝煙を立ち昇らせ、何の感情も宿らぬ瞳で見返す彼の体が、やがてばたりと仰向けに倒れてしまった。
色を失くしたあおいがぎょっと駆け寄る。脂汗を浮かべて気絶した森上を揺さぶろうとする彼女を制し、尋人はその頸動脈に触れると短く集中してその脈動を測った。
「大丈夫。脈はある。多分、気を失っているんだ」
「どうして……」
「ここへ来る前に撃たれたんだ。相手は返り討ちにしたらしいけど、腹に深い傷を負ってる。出血がひどいから、下手に動かさないほうがいい」
言葉もなく呆然としていたあおいは、やがて震える指先を森上の片頬へ伸ばしてそっと包む。そしてぎゅっと目を瞑り、
「殺されてもいいと思った。それでこの人の気が済むなら……この人の心が救われるなら、あたしはいいと」
きつく閉じたあおいの眦から、幾筋もの涙がほろほろと滑り落ちる。
「憎まれたままでいい。許されなくても、殺されても構わない。あなたが生きてくれるなら。どうしても、失いたくなかったの。お兄ちゃん……」
か細い声を揺らしながら涙するあおいの肩を、尋人はしばらく支えるように抱いていた。
「……とりあえず、救急車を呼ばないと。このまま放っておくのは危険だ。外に」
そう言って立ち上がろうとした時、がらんと嫌な金属音が響いた。尋人は訝しみながら振り返り、思わずあっと声を上げる。右手首に繋がれた手錠の先に、無理やり蹴飛ばして外した格子窓が繋がっているのを、今の今まですっかり忘れていたのだ。
「尋人」
「大丈夫。大したことないよ」
「でも、頭から血が……」
「平気だから。ほんと」
尋人はあおいに笑いかけると、昏倒している森上の背広の胸ポケットをそっと探る。
「あった。よかった」
見つけ出した小さな鍵で、尋人は手錠を難なく外す。解放された手首には、みみず腫れのような痣がくっきりと刻まれていた。
傷だらけの尋人を見つめていたあおいは、泣き濡れた表情を引き締めてからすくりと立ち上がり、
「尋人。ごめんね。申し訳ないけど、このまま兄を任せてもいいかな」
森上の懐に携帯電話がないか探していた尋人は、凛然とした顔つきに変わったあおいの申し出に面食らう。
「来る前に、佐知子さんにこの場所を伝えておいたの。もうすぐ来てくれると思う」
「あおい」
「行かなきゃいけないところがあるの。あたしは今から、どうしてもそこへ行かなくちゃ」
「それは……」
尋人が言いかけた言葉に、あおいがこくりと頷いた。
「全てを終わらせなきゃいけない。それは、あたしにしかできないことなの」
暗闇の中でもはっきりと分かる。あおいの眼差しは真摯で、どこまでも揺るぎない。彼女がどんな思いでそこへ向かおうとしているのか、言葉で詳しく語らずとも尋人には強く伝わった。
あおいは戦いに行こうとしている。罪や過去を引き連れて、生きると決めた覚悟を貫き通すために。
しかし、それは新たな罪を背負うことにも繋がる。他のそれと同様に、決して許されないものだ。だが、彼女の決意を止める理由を尋人は持たない。
尋人はあおいを強く抱き締めた。
「死ぬな、絶対に。死んだらだめだ。生きて帰ってこい。俺は待ってる。あおいを信じて、待ってるから」
あおいは尋人の背に両手を回して抱擁に応え、
「あたしは、あたしを取り戻す。そして、あなたの元に帰ってくる。お願い。その時まで、待っていて」
二人は声もなく見つめ合う。あおいは一度頷くと尋人の胸から体を離し、闇が刻一刻と深まりゆく外へ駆け出していった。次第に遠ざかっていくその背中が、敷地を出て確実に見えなくなるまで、尋人は立ち尽くしたまま彼女から目を外さずにいた。
やがて、尋人はよろよろとした足取りで倉庫を出ると、老朽化して錆だらけの門を目指して歩を進めた。頭と肩の痛みに耐えながらやっとの思いで辿り着き、開き切った門扉の角に凭れかかっていると、しばらくして闇を派手に切り裂く車のライトが尋人を照らした。
猛スピードで現れた車は、つんのめるようなブレーキで門前に止まり、運転席から血相を変えた佐知子が降りてくる。
「尋人!」
満身創痍の弟を見るなり、佐知子がいつになく仰天した声を上げる。こんなにも激しく動揺した彼女を見るのは、長年共に暮らしていてこれが初めてかもしれない。尋人は努めて明るく笑ってみせて、
「ああ、大丈夫」
「大丈夫って、あんた」
「俺は平気。それよりも、倉庫の中に森上さんがいるんだ。腹を撃たれて、ひどい傷を負ってる。言っとくけど、撃ったのはあおいじゃないよ。でも危険な状態なんだ。救急車は俺が呼ぶから、悪いけど行ってやってくれない?」
その言葉に佐知子は瞠目するが、助手席で美弥が頷いたのを見ると、
「分かった。尋人は車の中にいなさい。あんたも病院に連れてくわ」
そう命じるなり、佐知子は倉庫のほうへ駆けていく。尋人はその背を目で追った後、門扉に凭れたままふいに空を仰いだ。
張り詰め続けていた心の糸が切れ、尋人はそのままぐらりと地面に倒れる。車内で携帯電話を耳に当てていた美弥が、慌てて降りてきては何度も名前を呼んで体を揺さぶったが、尋人の意識はその感触を最後にぶつりと途切れた。
深く果てない夜が満ちている。全ての生き物が眠りに就いた静寂の中、月は分厚い雲に覆い隠された。
あおいは水島邸の前に佇んでいた。暗闇にそびえる巨大な門は閉じられ、周辺に人の姿は誰一人として見当たらない。
あおいはポシェットから拳銃を出して握る。そして僅かに息をつくと、足音を殺して門扉に背を張りつけた。車用のそれからゆっくりと歩をずらし、人一人が通れるだけの門のほうへ体を寄せると、施錠されていないその門扉をそっと突く。
木造の門がぎいと軋みながら開くと同時に、あおいは銃を構えて敷地内へ飛び込んだ。しかし、銃を四方に向けてしばらく待ったが、襲い来る者の姿は全く現れなかった。
あおいは拳銃の引き金に指をかけたまま、漆黒の夜にじっと息を詰めて目を凝らす。玄関まで繋がる縁石の上に、大の字になった死体が三つ横たわっていた。
片眉を険しくひそめたまま、あおいは足音を殺して駆けていく。頬の位置で銃を構え、指先で突くようにして引戸を開け放ち、すぐさま臨戦態勢を取って玄関に踏み込んだ。
静寂に支配されたそこには、ただの闇が広がっていた。折り重なるように倒れたいくつかの死体と、屏風のように豪奢な衝立の前で事切れた死体があるだけで、四方に銃を向けて警戒しても、他に誰かが現れそうな気配は延々に生まれない。
「どういう、こと……?」
あおいは拳銃を構えたまま、土足で屋敷に上がり込んだ。
廊下。広間。居間。仏間。応接間。座敷。どこもあるのは死体だけで、屋敷の中に生者は一人もいなかった。死んでいるのは背広を着た男ばかりで、母屋と離れを繋ぐ渡り廊下に着いた時も、死体だけが目につく光景は変わらなかった。
あおいは銃を構えながら慎重に進み、静寂を破る機会のないまま離れへ入る。
離れは母屋と建物こそ違うが、進めども闇と男たちの死体にしか出くわさないのは同じだった。あおいは生きた人間に一度も遭遇することなく、最奥にある総一朗の部屋まで辿り着いた。
引戸の周囲には物言わぬ肉塊と化した男の体が四つ、手足を不格好に投げ出した形で転がっている。あおいは壁を背にしながら引戸をとんと突き、開け放つと同時に拳銃を構えて中へ飛び込んだ。
遮光カーテンが全て閉められた室内に、背の高いランプが薄ぼんやりとした色を添えている。奥のデスクで背を向けていた水島総一朗が、おもむろに車椅子を動かしてあおいを振り返った。
あおいは総一朗の額に向けて銃を構える。
「ご無沙汰しています、お父様。……いえ、あなたはもう、あたしの父ではありません。そうですよね? 憎むべき、仇」
その言葉を受けて、総一朗の口端が不敵に歪んだ。
「随分と遅かったな。いつ来るかと愉しみにしていたんだが。全て思い出したか、あおい」
「いいえ、何一つ思い出せていません。ですが、事実は全て知りました」
「ほう。それで私を殺すか」
「はい。あたしはあなたが憎いです。どうあっても、あなただけは許せない。十七年前、あなたは己の利得のためだけにあたしを攫った。あなたさえいなければ、あたしや家族の運命が狂うことはなかった。全ての元凶はあなたです」
「……そう言えば、今までの罪業が帳消しになるとでも思っているのか?」
「思いません。でも、言わずにはおれない。それにそんな言葉、あなたに言う資格はないでしょう。あたしはあなたを殺す。そして自首します。あたしの罪は、あたしで贖う。でも、あなただけは絶対に許せない」
「それで殺すか、父である私を」
「あなたは父なんかじゃない。あたしは、あなたから奪われたものを取り戻す。そうして全部、終わらせる」
「取り戻す? 何を?」
「自分を、です。生まれた時からあなたに奪われ続けた、あたし自身を。そのために、あたしはここに来たんです」
あおいは撃鉄を起こし、引き金に指をかける。
「そうか。お前は親殺しの業を、もう一度負おうとしているわけだな」
「あなたは親なんかじゃない。あたしはあなたを、親とは思っていない」
「だとしても、私はお前の親だよ。十七年間、お前をここまで育て上げたのは私だ。お前は私の下で育った。その事実は未来永劫変わらない。お前とて、今の今まで私を父だと思っていたのだろう? 私に育ててもらった恩があるはずだ」
あおいは瞠目した。
「私に微塵の情も感じていないと、果たしてそう言い切れるのか? 人の心に目覚めたお前が、それを切り捨てて私を殺せるのか? 十七年間、お前を育て上げたこの父を」
あおいは唇を噛む。引き金にかけた人差し指が震え出す。その僅かな躊躇いを総一朗は嗤った。
「じゃあ、俺が殺してやるよ。俺には肉親の情も、恩人の情もないからさ」
唐突に現れた人影に驚く間もなく銃声が轟く。次の瞬間、総一朗が苦しげに呻きながら姿勢を崩した。
あおいは背後にある扉を振り返る。そこには総一朗の腹を笑顔で撃ち抜いた亮太がいた。
「亮太……」
「いいよ、あおい。君がやることない。俺がやる。こんな奴、あおいが手を汚す価値もないよ」
亮太はあおいを後ろに押しやると、激痛に唸る総一朗の前に立ちはだかる。
「びっくりしてんだろ? 何で俺が現れたんだって」
総一朗は口から血を垂らしながら、亮太を上目で睨めつける。亮太はその眼差しに嘲笑を返し、
「飼い犬に手を噛まれるなんて誤算だった? でもごめん。俺、ずっとあんたが嫌いだったんだ。それを隠して、今まで忠犬のふりしてた。気付いてなかったろ? よかった、騙されていてくれて」
「貴、様……なぜ」
「なぜ? 愚問だね。自分の胸に手を当てて聞いてみなって言いたいとこだけど……ああ、できないぐらい痛いのか。仕方ないな。じゃあその痛みは、今まであんたが踏みにじってきた奴ら全員分の痛苦ってことでオーケー?」
「ほ、ざ……け」
「ほざいてないよ。笑っちゃうなあ。まさか今まで本当に、俺のことノーマークでいたの? だとしたらマジ笑える。あんた、仮にも《ヴィア》のトップで裏社会の雄だろう? 反乱分子がいるかどうかぐらい調べとけよ。……ってああ、それをしてなかったから、今こんな状況になっちゃってるわけか」
さも面白げに笑っていた亮太は、瞳に宿る光を瞬き一つで冷徹なものに変貌させる。
「俺の親はあんたに殺された。俺はあんたに復讐するために、竹田さんを頼って《ヴィア》に入った。知ってた? あんたの右腕になりきってた竹田さん、実は俺の身元引受人で同志なんだ」
「何、だと……?」
「そう。つまり、竹田さんもあんたが嫌いだったってわけ。二人で共謀して、《ヴィア》を潰す計画を長年温めていたんだ。実行したのが今日、つまり今。あんたの死をもって、俺らの積年の恨みが晴らされるわけさ。悪いけど、あんたが築き上げた《ヴィア》は終わりだよ。跡形もなくぶっ壊させてもらう。でも、それにあおいを巻き込むことはしない」
そう言い切ると、亮太は背後で愕然としているあおいに、
「あおい。俺がいいって言うまで、目を瞑って耳を塞いでて」
「亮太」
「こんな奴の死に様なんか、あおいは見なくていいよ。見る価値もない。いいから俺の言うとおりにして。早くしないとこいつ、このまま自然に死んじまう」
息も絶え絶えに呻く総一朗の額に、亮太は笑いながらまっすぐ銃口を突きつける。
「それじゃつまんないでしょ。簡単に逝かれたら、長年苦しめられた俺らがあまりに滑稽じゃん」
口を開けてただ呆然としていたあおいだったが、やがてぎゅっと目を瞑ると両手で耳を塞いだ。それを気配だけで確認した亮太は、己の顔から感情を完全に消し去る。
「あんたは仇だ。あんたは俺らから、あおいから、大事なものを奪って奪って奪い尽くした最低野郎だ」
「やめ……」
「やめてくれと命乞いした俺の父を、あんたはいとも簡単に殺しちまった。俺はあんたを許さない。地獄に逝っても恨み続けるよ」
その言葉が終わる瞬間、亮太は引き金を引いた。静寂を裂く銃声と同時に、総一朗の頭ががくんと落ちる。
亮太は短く息を吐くと、立ち竦むあおいの手を掴んで部屋を出ていく。あおいはその背を追うようにしてついて歩いた。
「亮太」
「ごめんな。びっくりしたろ」
「どうして……。もしかして、屋敷にいた人たちを殺したのも」
「俺と竹田さんだよ」
「どうして」
問われた亮太は一瞬沈黙するが、すぐにさっぱりとした口調で、
「俺もさ、あおいと一緒。水島総一朗に親を殺されたんだ」
「え」
「俺の父親は、闇組織とはまるで縁のない、どこにでもいるような一般人A。でも父親が惚れた相手は、水島が贔屓にしてた女の一人でさ。二人は駆け落ちしたけど、最後は捕まって父は水島に殺された。母は水島から逃げ出して密かに俺を産んだけど、その後すぐ父を追って自殺したんだと」
亮太はあおいを振り返ることなく、闇と死体しかない廊下を足早に歩いていく。二人は離れにある裏口から外へ出た。
「俺がそのことを知らされたのは、年齢一桁のガキの頃。施設で暮らしてた俺を捜し当てた竹田さんが教えてくれたんだ。俺は迷うことなく、《ヴィア》に入れてくれって頼んだ。復讐してやりたいと思ったからさ。そのために暗殺者になっても、俺は全然構わなかった」
「竹田は、どうして亮太を……?」
「竹田さんは、俺の母親の兄貴なんだ。つまり伯父。俺と水島に血縁関係はないけど、俺と竹田さんは血の繋がった親戚なのさ。今回のことも俺たち二人で全部やった。杉原調査事務所と裏で組んだのも、杉原健人のいる県警捜査一課にあれこれ情報をリークしたのも竹田さん。両者の間で巧く立ち回って、《ヴィア》を壊すための外堀を埋めてたってわけ。勿論、水島には絶対に気取らせないようにしながら。俺たちだけの企みだから、他に知ってる奴なんかいないし」
亮太は水島邸の裏に広がる鬱蒼とした林を進み、やがてぽっかりと開けた場所に出ると、そこでようやく足を止める。そびえ立つ木々の向こうに車道が見えるその空間には、闇と同じ色をした車が止まっており、運転席の前で竹田が直立不動の姿勢で待っていた。
竹田はあおいに向かって恭しく一礼する。亮太は彼に軽く片手を挙げてみせると、それまで握っていたあおいの指をぱっと離した。
「そういうわけで、俺たちもう行くから」
「え?」
「杉原佐知子を呼んである。じきに警察も来るだろう。あとはあの人に任せたらいいよ。間違っても自分が悪いとか、こいつら全員あたしがやりましたとか言うんじゃないぞ」
「……どうして」
あおいがそう呟くと、亮太はぱちぱちと瞬いた後、あははと軽快に笑い飛ばした。
「だって、そんなの言ったら俺たちの苦労が台無しだろ。最後ぐらい、気持ち汲んでよ」
ひとしきり笑うと、亮太はいつになく穏やかな色をした瞳であおいを見返す。
「亮太は……どこへ行くの?」
「さあね。でも、それを言っちゃ意味ないっしょ」
呆然と言葉を失くすあおいに、亮太は優しく諭すように語りかける。
「分かる? これは俺たちの門出なんだ。あおいはこれから陽向の道を生きていく。俺も今までとは別の道を行くんだ。《ヴィア》に定められていたのとは違う、俺自身が選んだ道を。だからもう、二度と会うことはない。俺たちの生きる道は分かれるから」
「亮太は、どこへ行くの? 一人で、行ってしまうの?」
「一人じゃないよ。ちゃんと、俺のことを分かってくれる人がいる」
「でも」
「これは俺からの餞。だって俺たち、もう自由なんだ。あおいだって、これからは自分で自分を生きていける。だからこれ、俺にちょうだい? あおいにはもう、いらないものだから」
亮太はあおいが握っていた拳銃を、そっと指を解いて取ると懐にしまった。
「泣くのはだめ。謝るのも禁止。だってこれは、俺が望んでやったことだから」
あおいは潤んだ瞳を慌てて拭うと、亮太をまっすぐ見つめて問うた。
「亮太は、どうしてそこまでしてくれるの? あたしは亮太に何もしてあげられなくて、それどころか、ずっと一緒だった亮太を忘れて、ひどいことばかり言ってきて……。なのに、どうして」
「何もしてもらってないなんて、そんなことないよ。知ってる? あおいはさ、俺といる時だけは違う顔をしてたんだ。他の奴らは全然知らない、俺にしか見せない本当の顔。あおいはもう忘れてしまったけど、俺はちゃんと覚えてる。それでいい。あおいは俺の同胞だよ。だから、一緒に自由になれて嬉しいんだ」
亮太はあおいの頭をぽんぽんと撫でる。あおいは唇を強く引き結び、瞼に溜まる涙を何度も拭って零れるのを防いだ。
「じゃあここでお別れ。元気で」
そう言って、亮太は車のほうへ歩き出す。竹田はあおいに深々と一礼すると、無駄のない動作で運転席に乗り込んだ。
「亮太!」
助手席のドアに手をかけた亮太が、少し驚いた顔であおいを見る。
「ありがとう……。ありがとう、亮太。忘れないから。あたし、今度は絶対、絶対に忘れないから。ずっとずっと、覚えているから」
亮太は一瞬瞠目した後、僅かに目を伏せて小さく笑うと、片手を軽く挙げてから助手席に乗り込んだ。
闇を切り裂くライトが灯り、車は林を抜けて車道へ出ると、たちまち急加速して夜の彼方に呑まれていく。そのライトの残滓が完全に消えてしまうまで、あおいは身動ぎもせずそこに立ち尽くしていた。
闇の濃度がふいに和らぐ。分厚い雲から覗いた月の光が、黒い地面にあおいの影を薄く淡く描き出した。
何もかもが終わったのは、漆黒の夜空に暁が滲み出す頃だった。
あおいは水島邸に駆けつけた佐知子によって保護され、杉原調査事務所で警察の事情聴取を受けた。あおいは表情こそ硬かったが、どの質問にもはっきりとした受け答えを返したという。
水島総一朗及び《ヴィア》のメンバーを殺したのかと問われたあおいは、頭を振ってきっぱりと否定した。自分は一切やっていない、自分が着いた時には既に皆死んでいたというのが彼女の答えだった。
警察は、死体だらけの水島邸でただ一人生存していたあおいの言葉を疑ったが、その潔白はすぐに証明された。あおいの衣服や身体から硝煙や血液反応が出なかったこと、彼女が銃器や刃物を所持していなかったこと、家宅捜索で違法な武器が発見されなかったことなど、いくつもの物的証拠が彼女の味方をした。それでも警察は、《ヴィア》の娘である彼女が無関係であるはずがないと徹底的に捜査したが、過去を何年遡ってもその罪状を立証するだけの根拠は何一つ出てこなかった。
素性や状況がどれだけ怪しく見えたとしても、確たる証拠がなければ逮捕や起訴はできない。あおいは容疑者として県警で一週間、様々な取調べを受けた後に、証拠不十分として捜査から解放された。
彼女の取調べに何度か立ち会った健人が言うには、あおいはどの話題にも嘘を語ることはしなかったが、かといって真実ばかり話したわけでもない印象だったそうだ。捜査に当たった刑事たちは皆同じように感じていたらしいが、証拠が出てこない以上はどうにもできなかったという。彼らの中では、裏で彼女を庇っている者がいるとの見方も当然あったとのことだが、それについてあおいは「分かりません」と答えるだけで、その真偽も結局は突き止められなかった。
彼女が《ヴィア》の娘としてどれだけの犯罪に関わっていたのか、警察は最後まで何一つ解明できなかった。彼らが欲した真相は全て藪の中に葬られ、拭い去りようのない疑惑の後味だけが苦く留まる形で捜査は終結した。
しかし森上智彦は違った。深手を負った彼は警察病院に搬送され、一週間生死の境を彷徨った後に、殺人や殺人未遂などの罪で逮捕された。森上は容疑を全て認めているそうで、今も病室で取調べが続けられているという。
そういった後日談を知らされたのは、尋人が警察病院を退院して少し経ってからだった。後頭部と右腕に負った怪我は全治二週間で、そのうち一週間は病院で過ごすよう命じられた。精密検査の結果、幸い脳に異常は見られず、腕も出血こそ多かったが動脈は傷ついていなかったので、痕は残るが日常生活に支障はないと言われた。
入院中、尋人も警察の事情聴取を受けたが、あおいや森上のそれに比べると圧倒的に短く済んだ。内容も事件についての確認作業がほとんどで、それから後にまた警察に呼ばれることもなかった。
怪我の回復が意外に早く、当初は一週間の予定だった入院は五日で終わった。自宅療養の期間も経て、警察の捜査が一通り終わった頃には、蕾だった桜も見事に咲き誇っていた。気付けば季節は春の只中に突入していたのだ。
四月の最後の日曜日、尋人はあおいに付き添って成田空港に来ていた。
「搭乗手続はこれで終わりよ。次は保安検査場ね。今日は人が多いから、はぐれないよう気を付けてね」
淡い色合いのパンツスタイルを着こなし、搭乗手続をてきぱきと済ませた古川美弥が、どこか堅い面持ちをしてついてくるあおいに気遣いの言葉をかける。あおいは尋人と寄り添うように歩きながら、周囲の喧騒に目を泳がせつつもしっかりと頷いた。
「本当、すごい人ですね。さっきのチェックインカウンターも、結構並んでいたし」
「そりゃあ国際線のある空港だからね。今日は日曜で、連休が近いからってのもあるかも」
「そういうものなんだ……」
そう小さく呟いたあおいは、絶えず行き交う人の群れにやや圧倒されているようだ。その慣れない様が何だか可愛らしくて、尋人は手を繋いだままつい頬を柔らかに緩める。
スーツケースを預けて身軽になった美弥は、青い花柄のワンピースに白ブラウスを羽織ったあおいを振り返り、
「あおいちゃん、私は両替やらその他諸々やってくるから、時間になったら尋人君に保安検査場まで連れてきてもらいなさい」
「はい、分かりました」
「尋人君、大学頑張ってね。留年なんかしちゃだめよ。お姉さんに一生ネタにされちゃうから」
「肝に銘じます」
「応援してるわ。じゃあ後でね」
美弥はひらひらと手を振ると、スプリングコートを颯爽と翻して離れていく。
彼女の背が人混みに紛れて見えなくなると、尋人はひと息つくためにあおいを待合スペースへ誘導した。誰もいない三人掛けソファに彼女を座らせてから自販機へ行き、缶コーヒーを二本買って戻ると、
「はい。熱いから気を付けて」
「ありがとう」
あおいはか細い指先で受け取ると、暖を取るように缶を両手で包んだ後、中身を飛ばさないよう慎重に蓋を開ける。
尋人は彼女の隣に腰掛けて、微糖の缶コーヒーを冷めないうちに半分ほど飲んだ。
「緊張しちゃうな」
「何が?」
「飛行機なんて、覚えてるかぎりじゃ初めてだもの。しかも海外なんて」
早朝に迎えに来てくれた美弥の車で、事件後ずっと暮らしていた杉原家を出てからというもの、あおいの頬はずっとぴしりと強張っていた。尋人はその緊張をできるだけ和らげたくて、努めて気さくな響きで話題を広げる。
「ニューヨークかあ。街並みは映画やテレビで見たことあるけど、実際に行ったことはないな」
「尋人は、海外旅行したことあるの?」
「小さい頃に一回、家族でハワイに行ったのと、高校の修学旅行で韓国に行ったぐらいかな」
「飛行機は?」
「国際線に乗ったのはそれぐらい。国内線だと家族旅行で行った九州、沖縄、北海道とか。そういえば、中学の修学旅行でも乗ったっけ。あの時は関空と伊丹、どっちだったっけ」
「そっか……。すごいね。結構乗ってるんだね」
「まあね。最初はおっかなびっくりだろうけど、慣れれば結構快適だよ。今回は長時間のフライトだから、本読んだり映画観たり、音楽聴いたりして過ごすといい。眠ければ寝ちゃって大丈夫。ずっと座りっぱなしだと体に悪いから、時々立って機内をぶらぶら歩くのも大事だよ」
あおいは神妙な面持ちで頷いた後、尋人とは違う銘柄の缶コーヒーをゆっくり味わうように飲む。そしてしばらくすると、肩にぴたりと頬をつけて凭れかかってきた。僅かな隙間も埋めるように寄り添うその肩を、尋人は片手を回してしっかりと抱く。
あおいが警察の捜査から解放され、尋人が思いの外早く退院し、一時は危篤だった森上が意識を取り戻すまでの間に、健人と佐知子は警察官と調査員としてではなく、杉原家の兄妹として話合いをしたそうだ。それは、あおいの今後をどうするか、二人だけで考えるためのものだったという。
あおいには両親がおらず、親類縁者と呼べる存在もいない。彼女が属していた《ヴィア》は、長だった水島総一朗の死をもって壊滅したので、あおいにとっての寄る辺は何一つなくなってしまった。
文字どおり天涯孤独となった彼女の今後について、佐知子と健人が話合いの末に出した結論は、あおいを尋人の将来の家族として杉原家に住まわせ、杉原調査事務所で仕事をさせるというものだった。
佐知子は今も活用している仕事のつてを使い、あおいに二年間にわたる調査員研修を受けさせることにした。この春からあおいは、佐知子の知人が住むニューヨークに補佐役の美弥と渡り、アパートで二人暮らしをしながら現地の学校に通い、学業と並行して調査員に必要な知識と技術も習得する。あおいがその話を即座に受け入れると、佐知子は出立に必要な諸手続や準備を急ピッチで整えていった。
尋人がそれを知らされたのはほんの二日前で、驚いたり異議を唱える隙は全く与えられなかった。あおいが留年生として在籍していた青葉学園中等部の退学手続も、それまで暮らしていたマンションの処分も、あっという間に佐知子が全て片付けてしまったと、後で美弥が補足情報として教えてくれた。
「現地のアパートは確保済みだって姉さんが言ってたな」
「うん。着いたらまずベッドを組み立てて、本格的な荷解きはそれからしようって、美弥さんが」
「引越し作業も急だったもんなあ。最初にスケジュール聞いた時は大丈夫かなって思ったけど、無事に何とか出発のめどが立ってよかったよ」
「向日葵のこともありがとう、預かってくれて」
「いいんだよ。うち、動物好きだから。幸いリーベも向日葵にすぐ慣れてくれたし。また写真撮ってメールするよ。寂しいだろうけど、盆と正月は会えるからさ」
「うん、ありがとう」
相槌を打つあおいの頬からは、先程までの強張りがいつの間にか消えていた。その柔らかな微笑を嬉しげに見て、尋人は缶コーヒーをぐいと飲み干す。
「でも本当、ここまであっという間だったな。春からどうするのかなって心配してたけど、まさか渡米とは思わなかった。でも、意外に向日葵より雪花のほうが寂しがってたな。夏休みは絶対ニューヨークへ行くってさっそく言い出してる」
「待ってるって伝えておいて。雪花には昨夜プレゼントももらったの。お揃いのクマのぬいぐるみ。部屋に着いたら一番に飾るわ」
あおいは尋人の肩に深く寄り添ったまま、忙しなく行き交う人波をぼんやりと眺める。
「……本当に、感謝しているの。佐知子さんと、健人さんに。自分ではとても切り開けなかった、新しい道をもらえたこと。これからは、その気持ちに少しでも応えられるように、生きていかなきゃって思う」
「あおいなら大丈夫だよ」
尋人は励ますように頷いてみせるが、微笑み返したあおいの瞳の色を覗いた時、次の言葉が途端に浮かばなくなってしまう。
「いろいろ考えてるの、あれからずっと。分かったことと、分からなかったこと。見えたものと、まだ見えないもの……」
そう呟くあおいの声が、周囲の喧騒に溶けるように止まる。彼女が紡ごうとしている言葉の先を、尋人は静かに待ってみようと思った。
「うまく言えないけど、忘れたくないって、ただ思う。今感じてることを、忘れないでいたい」
「そうだな……」
尋人はあおいの肩から手を離し、その細い指先に己のそれを絡めて優しく握る。二人はしばらく何も言わずに寄り添ったまま、互いの温もりだけに心を寄せていた。
どれぐらいそうしていただろう。尋人は腕時計に目をやってからおもむろに立ち上がり、
「行こうか」
二人は待合スペースから離れ、手を繋ぎ合ったまま保安検査場を目指す。
「チケットは持った?」
「うん」
「パスポートは?」
「大丈夫、持ってる」
「忘れ物はない? もしあったら連絡して。なるだけ早く送るから」
「うん、ありがとう」
「乗ってて耳がおかしくなったら、何か飲んだり飴を舐めたりするといい。そしたら少しはましになる」
「そうなの?」
「ああ。困ったことがあれば、キャビンアテンダントの人や美弥さんにちゃんと言えよ。それで、あっちの空港でもニューヨークでも、美弥さんから離れちゃだめだぞ」
「うん」
「あと、夜に一人で出歩いたりするなよ。治安が危ない場所もあるんだから」
尋人がそこまで言った時、あおいが急にぷっと吹き出して小さな笑い声を立てた。
「尋人ってば、心配しすぎ」
「な、何だよ。当たり前だろ、心配なんだから」
言い返す様もおかしかったのか、あおいはなおもくすくすと笑っている。尋人は頬が赤くなるのを誤魔化すように、
「笑うな、こら。恥ずかしいだろ、俺が」
保安検査場の周辺は、搭乗客の群れでやや混雑していた。そこかしこに様々な年代の人々いて、皆それぞれのやり方で親しい人との別れを惜しんでいる。
「ほら、この列。あそこに美弥さんがいる。保安検査っていっても、そんな構える必要ないよ。自然にしてたらすぐ終わる」
「うん、ありがとう」
尋人が繋いでいた指を離すと、あおいが途端に寂しそうな顔になる。しゅんと睫毛を伏せてしまった彼女を励まそうと、尋人は分かりやすすぎる明るさで言葉をかけた。
「渡米してても連絡は取り合えるから。電話はそう頻繁にはできないだろうけど、メールはいつでも大丈夫。俺からもまめに送るよ」
あおいは頷く。そして、ふいに真面目な面持ちに変わるとぺこりと頭を下げて、
「お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「うん。治療の経過とか裁判のこととか、何かあればちゃんと報告するよ」
あおいはほっと口元を緩めると、薄いベージュ色をした尋人のジャケットの裾を小さく、だがしっかりとした強さで摘んだ。
「ありがとう」
あおいのつぶらな瞳が、少し高い位置にある尋人のそれをまっすぐ見上げる。
「あたしを信じてくれて……信じていてくれて、ありがとう。あたしがあたしを取り戻せたのは、尋人のおかげでもあるんだよ」
あおいは眩しげに細めた瞳でそう言うと、咲きたての花のように笑ってその先を継いだ。
「あたしは今までのあたしを背負って、須藤あおいとして生きていく。そこに尋人がいてくれたら、すごく嬉しい」
一片の陰もない笑顔に胸を衝かれ、尋人はあおいをぐいと引き寄せた。唐突に抱きすくめられて驚くあおいだったが、すぐに両手を背中に回して全身を委ねる。
それは、これまで二人が交わしてきた中で、一番強くていつまでも離れがたい抱擁になった。
「いるよ。しばらく離れることになるけど、気持ちはいつでもあおいの傍にあるから。俺はいつでもあおいを思いながら、無事に帰ってくるのを待ってるよ」
尋人がそう囁きかけると、胸に顔を埋めるあおいが声もなく涙ぐむ。尋人は抱き締める腕を緩めると、潤んだ瞳で見つめてくるあおいにキスをした。応える彼女の眦から涙が零れる。二人はもう一度固く抱き合うと、先程よりも深くて甘い口づけを何度も交わした。
熱を帯びた唇を惜しむように離し、互いの頬を両手で包みながら額と額を合わせると、あおいは尋人にそっと背を向け、美弥の待つ保安検査場のほうへ歩き出していった。
長く伸びた列の中で無事に合流を果たしたあおいは、彼女と二、三言話した後に振り返り、離れた位置から見送る尋人に向かって何度も手を振った。その笑顔につられ、尋人も破顔しながら大きく振り返す。
絶えず行き交う人混みの中、尋人は二人が保安検査場の奥へ進んで見えなくなるまで、そこから動かずに手を振り続けていた。
あおいと美弥を乗せた大型旅客機が飛び去っていくのを、尋人は国際線旅客ターミナルに併設された展望デッキから見晴るかしていた。眼前に横たわる巨大な滑走路では、大きさやロゴの異なる旅客機が絶えず行き交い、轟音を響かせながら青の深みへ離陸していったり、遥か彼方から勢いよく滑らかに着陸したりする光景が繰り返されている。
「二人は行ったか」
背後から届いた声に振り返ると、そこには煙草をくわえた健人がいた。尋人は思わず頬を綻ばせ、
「兄さん」
スーツをラフに着崩した健人は、尋人の後ろにあるベンチに腰を下ろし、
「見事に晴れたな。最近は春の嵐が激しかったから、今日もどうかと思っていたが」
「うん。晴れてよかった」
尋人は健人が座るベンチの端に腰掛け、しばらく滑走路と青空をぼんやりと眺める。開放的な造りをした展望デッキには、フェンスの前やベンチで滑走路を眺めながら談笑する人の姿が多くあり、休日らしい賑々しさに満ち溢れていた。
尋人は時折響く旅客機の轟音に掻き消されないよう、はっきりとした声と発音を意識しながら、
「あおい、行ったよ」
「知ってる」
「見送りに来たの?」
「ばーか、たまたまだ。たまたま仕事が空いたから、お前のしけた面を見に来てやったんだ。しかし意外だな。てっきり地の底まで落ち込んでるかと思ってたが」
「さすがにそこまでは落ち込んでないよ」
健人はふんと鼻を鳴らして煙草を吹かす。
「ただ、思うとすれば……怒涛だったなあって感じ。いろんなことが一度に起こりすぎて目が回った。気付けば俺だけ蚊帳の外な場面もあったし」
健人は紫煙を空に向かって吐き出しながら、尋人の言葉の続きに耳を傾ける。
「……俺さ、ずっと不安だったんだ。全てが終わったら、兄さんがあおいを逮捕するんじゃないかって」
「ああ、そのことか」
「姉さんはどうだかよく分からないけど、兄さんはきっとあおいを許さない。だから全てが終わったら、絶対あおいに手錠をかけると思ってた。それが正直、ずっと怖かった」
「予想が外れてほっとしたか?」
「うーん、どうだろう……。一概には言えないなあ」
悩んだ末に、尋人は苦笑いしながら言葉を濁した。
「俺は勿論その気だった。あの子だって覚悟していたはずだ。だが、結局は状況があの子を守った。あそこまでとことん巧妙にやられちゃあ、俺たち警察は手も足も出せないさ。全く、大したもんだ。後のことを全部想定しきった上で、あれだけうまく立ち回ったんだからな」
「垣内亮太と、竹田さん……」
尋人はベンチの背に凭れかかり、眩い晴天を仰ぎながら二人のことを考える。
垣内亮太。軽口ばかりの飄々とした少年だった。しかし今になって思えば、あの相手の苛立ちばかりを誘う口ぶりの裏には、彼にしか知り得ない様々な本音が隠されていたのだろう。まだ風が寒い冬の昼下がり、大きく立ち昇って飛沫を散らす噴水を眺めながら、亮太は初めて見せる穏やかさであおいへの思いを語ってくれた。もう二度と会わないだろうが、彼本来の人柄に直接触れる唯一の機会となったあの午後は、大切な出来事の一つとして尋人の中にあり続ける。
水島家の執事だったという竹田なる人物には、尋人は結局一度も会うことはなかった。健人によると、彼は随分前から佐知子や警察に《ヴィア》の情報を秘密裏に提供していたらしい。それだけ聞くと策士のイメージしか湧いてこないが、あおいや亮太から聞いた話も踏まえた上で考えてみると、闇組織の幹部には似つかわしくないほど、実は義理堅い人だったのではないかと思った。
水島邸での事件の後、二人の行方は杳として知れない。あおいも全く知らされていないそうだ。二人とも身分を偽って生活していたらしいので、その正体すら今となってはもう突き止められないだろう。
「お前、あの子から聞いた?」
唐突な健人の話題転換に、尋人は一瞬面食らう。
「あの子な、最後の取調べが終わった後、俺が県警の玄関まで送っていった時、深々と頭を下げてきたんだ、ごめんなさいって」
そう言って、健人はふっと乾いた笑みを漏らす。
「毒気を抜かれたよ。あの子は俺が前に言ったことを覚えてて、それに最後まで応えようとしてたんだ。あの子とともに《ヴィア》に属していた少年と執事とやらを、警察は結局素性すら何一つ掴めなかった。今回の件にその二人が関わっていた確たる証拠がない以上、真偽は永遠に突き止められない。だが、あの子はそれについて嘘は語らず、否定も肯定もしなかった。随分と頭の良い子だよ」
車が恐ろしく少ない高速道路を、亮太は制限速度をオーバーしながら走っていた。助手席の竹田は終始、苦虫を噛み潰した顔でフロントガラスを睨んでいる。
「亮太」
「ん?」
「スピードを出しすぎだ」
「当たり前じゃん。こんなとこで制限速度を守ってたら事故るよ。他の車だってそうだろ」
「限度があるだろう。落とせ」
「いいじゃん、これで。そのほうが早く着くんだし」
「落とせ」
「……分かったよ。じゃあ、一二〇から一一〇に落とします」
亮太は渋々といった体で僅かに減速する。それを横目で睨んでいた竹田は、やがて深々と嘆息した。
「しっかしさー、よく見つけてきたね、俺たちの再就職先」
「……再就職?」
「《ヴィア》を潰した俺らを受け入れるなんていう怖いもの知らずな組織、日本にまだあることにまず驚いたけど。ぶっちゃけ俺は、高飛びする覚悟決めてたんだよねー。ユーロマフィアと手を繋ぐとか」
「ばかは休み休み言え」
「ひっでー。俺、ちょっとは本気だったのに」
「向こうも《ヴィア》に引けを取らない規模の組織だ。実力は劣るが将来性はある。あちらも我々を歓迎している。お前の名は、この界隈ではよく知られているからな」
「ははっ。まあ、あおいほどじゃないですがねー」
亮太は陽気に笑いながら車を飛ばし続ける。こうして高速道路を駆け抜けるのも、時折休憩を挟みつつではあるが、かれこれ五時間は優に超えていた。
しばらく沈黙していた竹田が、おもむろに口を開く。
「亮太」
「何すかー?」
大きな声で返す亮太を、竹田はうるさそうに一瞬睨むが、
「……お前、本当にこれでよかったのか」
「といいますとー?」
「お前はあおいお嬢様を陽向の道に戻した。だが、お前とてその機会はあった。私がそれを作ってやることもできた」
「何を今更。これは俺が自分で決めたことだよ。竹田さんが気に病む必要ないって」
亮太はあははと陽気に笑い飛ばし、
「気遣いはありがたいけど、俺はやっぱりこういう生き方しか知らないからさ。今更陽向の道を生きろと言われても、眩しすぎてやってらんないんだよね。それに、これから新しい組織に入ることも、俺が自分で選んだ道だし、悔いとか迷いは全然ないんだ。今の時代、手に職があるほうがいいって言うだろ?」
竹田がまた苦虫を噛み潰したような顔で押し黙る。亮太はそれを横目で見やるが、どこまでも快活な笑顔できっぱりと言った。
「いいんだ、俺はこれで。これからは、《ヴィア》にいた時よりずっと自由だ。それに俺、竹田さんが思うほど可哀想じゃないよ。だって俺はもう、一人じゃないからさ」
竹田はなおも難しい顔で黙していたが、やがて車窓へと視線を滑らせる。その隙に、亮太は僅かにアクセルを踏んでスピードを上げた。
恐ろしく空いた高速道路を、二人を乗せた車が延々と駆けていく。それは彼らにとって、かつていたところから地続きのまま伸びている、永遠に先の見えない闇路を目指すものでもあった。
「それで兄さんは納得したの?」
尋人が恐る恐る訊くと、健人は煙草を吹かしたまま少し黙り、
「納得、なあ……。ぶっちゃけその範疇を超えてるから、どうとも言えないな」
徐々に短くなる煙草をくわえながら、健人は目線をフェンスの向こうへ投げる。
「あの子の犯してきた罪が、今後司法の下で裁かれることは一切ない。つまり、あの子は永遠に社会的制裁を受けないってことだ。でも当然だが、だからといってそれで全部が帳消しになるわけじゃない。案外そっちのほうが、あの子にとってはより過酷なのかもしれないな」
尋人はその意味を掴みきれずに首を傾げる。
「それはつまり、どういうこと?」
「人間ってのは人の間で生きる以上、誰かに許されたがるんだ。たとえば他人に。たとえば法に。または、社会という名のシステムや常識に。罪人は裁判によって一つの山を越える。それが直接の許しに繋がらなくても、そこに己の罪の行く先を見出すんだ。司法の裁きがあるかないか、それで犯罪者の心の持ちようも大きく変わってくる」
「心の持ちよう?」
「そう。答えがあるかないか。法の下で裁かれ、審判が下されることによって見出される、ある種の道標みたいなもんだ。有罪か無罪か、情状酌量の余地はありかなしか、刑期はどれぐらいか、罰金はいくらか……まあ、物差しとなるものは他にもいろいろあるがな」
健人は短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、ひと息つく仕草もなく二本目に火を点けると、
「だが、あの子にはそれが全くない。あの子の罪は社会的に明らかにならず、あの子が罪人と知るのはごく僅かの人間だけだ。何の事情も知らない者からすれば、裁きや罰からいいように逃れたとしか見えないだろう。だが、本人にとってはある意味、逮捕や裁判よりも厳しく過酷な道になる」
「過酷?」
「誰も自分の罪を知らない。つまりそれは、誰からも永遠に許してもらえないってことだ。人間誰しも生きていたら、他人から責められたほうがいっそ楽だって場面に遭遇することが何度かあるだろ? 逮捕や裁判、あるいはその他の社会的制裁というのは、実はそういった役割も多分に果たしているんだ」
健人は宙に向かって勢いよく紫煙を吐き、
「たとえばお前が仮に、あの子の罪を全面的に許してやったとする。でもそれは所詮、お前またはあの子という個人の中だけに限った話だ。真実の意味での制裁や許しには到底成り代わらないし、そもそも成り代わるわけがない。なぜか? 答えは簡単。それは、裁判やその他の社会的制裁を経て得たものではないからだ。証拠不十分で落ち着いたあの子は、社会からの非難や糾弾を受けることは今後もない。言うなればつまり、他人からの許しや救いを当てに生きることは一生できないわけだ」
澄み渡った空を仰ぎながら紡がれる兄の言葉に、尋人は相槌以外に何も返せなかった。
「裁かれることはないが、許されることもないってのは、一見都合よく見えて実はものすごく重たいんだ。決して楽で甘い道にはならない。あの子はそれを全部分かった上で、罪を背負って生きると言った。それ以上、俺が言うことはないだろ」
尋人は旅客機が絶えず現れては飛び去っていく滑走路を眺めながら、健人の言葉の意味にじっくりと思いを巡らす。それらは全て、尋人の心に重石となってずしりと沈み、いつまで待っても浮上してくる気配がなかった。きっとあおいも、同じような思いを抱いているのだろう。確信のない想像ではあるが、不思議と間違っている気はしなかった。
「……森上さんは、どうだったのかな」
実はあおいの兄だった森上智彦。十七年という長い間、妹の安否に心を砕き続け、二年前の悲劇をきっかけにそれを憎しみへ変えてしまった人。あの時ぶつけられたいくつもの言葉と、目の当たりにした激情は今も生々しく覚えている。森上の撃った弾があおいを貫くことはなかったが、果たしてそれは単なる偶然だったのか、それとも彼の意図したことだったのかは、今も尋人には見当がつかない。
だが、それでよかったと思う。森上が妹殺しの業を負うことはなかった。これ以上、その心を傷つけずに済んだのだ。
「俺さ、あの人のこと怖いと思ったけど、よくよく考えれば森上さんだって、運命を無理やり捩じ曲げられた一人なんだよな。水島総一朗があおいを誘拐するなんてことしなきゃ、あの人の親も闇組織の人ではあったけど、家族でずっと一緒に暮らせてたわけだし」
「ああ、あいつか……」
それまで黙って煙草を吹かしていた健人の声音が、途端に物騒で剣呑なものに変わる。
「あいつね。あの野郎……ぶっ殺してやろうかと思った」
「えっ、何で?」
「殴ろうとしたら止められたんだ。だからしょうがなくやめたけど、どうせなら誰もいない時に一発ぶん殴ってやるんだった」
「何で? どうしてそういうことになるわけ?」
訳が分からず仰天する尋人の隣で、健人は憤懣やるかたないと言わんばかりに紫煙を燻らせる。いきなり態度を豹変させた兄に、弟は当惑のあまりただおろおろと狼狽するしかなかった。
健人は膝に片肘を突き、実に腹立たしそうな顔で不穏に毒づく。
「あの野郎、佐知子を泣かせやがって……」
病室のブラインドは上げられていて、ベッドからでも青空が見えるようになっている。
佐知子はドア付近の壁に凭れて、体を横たえたまま窓を眺め続ける森上を見ていた。
全治二ヶ月の重傷を負った森上は、集中治療室から個室に移されて人工呼吸器も外れたが、しばらく絶対安静であるのは変わらず、面会も捜査関係者は謝絶となっている。佐知子は捜査一課時代の元同僚に頼み込んで、十分だけ二人きりで対面する許可をもらった。
しかし、今こうして彼を見ていても、浮かんでくる言葉や感情は不思議とない。自分でも驚くぐらい平静で、姿を目にしただけで泣いてしまうと思っていたのに、いざ意識が戻った彼と相対してみたら、瞳が潤んで困る瞬間は一度も訪れなかった。その理由を、実は佐知子自身もよく掴めていない。きっと言葉にするだけ野暮なのだろうと思うことにした。
「……てっきり、死んだものと思っていた」
長い沈黙の果てに森上が呟いた。佐知子は静かな響きで問い返す。
「後悔してる? 生き長らえたこと」
森上は答えない。しかし、その沈黙に否定のニュアンスは感じられなかった。
「あたしはよかったと思ってる。あなたが息を吹き返してくれて」
佐知子は努めて静かな靴音でベッドに近付く。そして、失いたくないと泣いて縋った男に緩やかな微笑を向けた。
「あおい、無事に出立したわ」
「……そうですか」
「あなたが撃った銃弾は、あおいには当たらなかった」
「そう、らしいですね」
「あの子は無事よ。でも、心まで無傷なわけじゃない。今回の件で、あの子もあの子なりに新たな業を背負った。……それでもあなたは、あおいが憎い?」
穏やかに投げられた問いに、森上は視線を窓の外から天井へと移し、ゆっくりとした呼吸と声で答えを紡ぐ。
「……正直、分からない。あの子を殺さなくてよかったと、思える自分がいることに驚いています。長い間、押し殺してきたからかもしれません。絶望から逃れたいあまり、妹を憎むことで己を支えようとしていた。……でも、今となってはもう、何もかもが遠いような気がして。どれが確かで、どれが本音だったのか……よく分からない」
「それでいいのよ」
ぼんやりと宙を漂っていた森上の瞳が、まっすぐ見下ろしてくる佐知子のそれを捉える。
「もう、それでいいの」
包むように響いた言葉を、森上は瞑目して受け止める。その力の抜けた表情を見て、佐知子はなぜだか無性に泣きたくなった。
「これからはあなたの人生を生きて。あなたとしての人生を、他の誰かじゃなく、あなただけのために」
森上は何も言わずにいたが、やがて代わりに一度だけゆっくりと頷く。佐知子は本当に涙が溢れそうになる己を咄嗟に抑えた。
「……貴女は後悔していますか? 僕に、会ったことを」
二人の眼差しが絡み合う。佐知子は少し沈黙した後、ゆるりと首を横に振った。
「僕は、貴女が求める人の代わりにはなれなかった」
「それでいいの。あなたはあなたしかいない。あおいにとっての兄が、あなただけであるように」
「……そうですね。確かに、それは愚かな思い違いだ」
「傍から見れば愚かかもしれない。でも、あなたに出会って、あたしはやっと心の出口を見つけられた。それに、あたしがあなたに惹かれた理由は、単に彼と似ていたからだけじゃないの」
「それは、なぜですか」
口端を僅かに上げて問う森上に、佐知子は悪戯っぽい笑みで答えた。
「秘密よ。誰にも教えてあげないの」
そう言って笑う佐知子を見返す森上の瞳には、この上なく優しい色と光が宿っていた。窓から射し込む陽光が、二人の間に流れる空気を柔らかに彩る。
こんこんと遠慮がちなノックが響く。佐知子はドアを短く振り返り、
「そろそろ、行かなきゃ」
「ええ、分かっています」
「さよなら、ね。もう二度と、会うことはないでしょう」
「ええ。あなたも、お元気で」
視線が静かに交わると、自然と時が止まったような心地がした。どこまでも温かな沈黙を名残惜しく思いながら、佐知子は靴音を響かせてドアの取っ手に指を伸ばす。
「ありがとう」
背後から届いた言葉に、心が思いの外激しく揺さぶられる。動きを止めてしまった指先に無理やり力を加え、佐知子は部屋を出ると後ろ手にそっとドアを閉めた。切なさの余韻が胸を乱し、迷いがなおも衝動を駆り立てようとしてきたが、最後の最後に森上を振り返ることはしなかった。
廊下では元同僚の男性刑事が待っていた。彼は病室から出てくるなり、ドアの横の壁に凭れたまま動かない佐知子を訝しげに見る。
「分かっているわ」
足早に近付いてきた元同僚は、しかし牽制を受けて反射的に立ち止まる。
「もうここへは来ない。彼の捜査はあなたたちに任せるわ。でも今は」
佐知子は壁で背を支えたまま、言葉を止めて目を閉じた。
「今はもう少しだけ、祈らせて」
彼の未来を。彼の生きる道を。彼がこれから歩む日々の先に、救いとなる光が少しでも多くあるように。
狂おしいほど心を寄せた男のために、佐知子はそう強く願いを馳せた。
「森上さん、これからどうなるのかな」
尋人の呟きに、健人が実に不機嫌そうな語調で返す。
「どうもこうも、起訴されて裁判だ。実刑は免れんだろう」
「そうじゃなくて。……まあ、それも大事だけどさ。てか、そもそも何で森上さんの話で姉さんが出てくるわけ? 俺、そこにまつわるあれこれを、全く知らされてないんだけど」
「知らなくていい。あいつのプライドをいちいち刺激するな。後々俺が面倒だ」
「そういえばあの事件の日、姉さんが泣きながら兄さんに電話してきたんだよね?」
「そう。泣かした犯人、森上智彦」
「それが分かんない。何でそこで森上さんと姉さんが繋がるわけ?」
「お前は知らなくていいんだよ。それであいつの心の均衡が保たれるんだから。知りたきゃ佐知子に直接訊け。何言われても俺は知らねえぞ」
「……やめとく。俺、長生きしたいもん」
尋人がぼそりと呟くと、健人は盛大に吹き出した。そしてひとしきり笑った後、
「あの子と奴のことなら、俺たちにできることはそうないさ。心配しなくても、奴はもう二度と、あの子を手にかけようなんて思わんよ。憑き物が落ちたみたいな顔してたからな」
「そうだね、確かに」
「いろんな災厄が重なって仲違いしたが、兄妹は死んでも兄妹だ。今すぐ仲直りってのは無理だろうが、時間をかければ見えてくるものもあるさ」
健人の言葉に、尋人はほっと胸を撫で下ろす。
「それに、佐知子だっていい年した大人だ。てめえらの落としどころは、てめえらで決めるさ。あいつはもう、それができる」
大型旅客機がまた一機、轟音とともに青の彼方へ飛び立っていく。それがたちまち濁りなき空に吸い込まれ、やがて点より小さくなって見えなくなる様を、二人はしばらくただぼんやりと眺めていた。
「俺……さ」
躊躇いがちに切り出す尋人に、紫煙を宙に吐いていた健人がちらりと視線を投げる。
「全てが終わったら、あおいは記憶を取り戻すだろうって思ってたんだ。確証なんかない。ただ、何となく。……でも、そうはならなかった。あおいは、過去にあった出来事は全部知ったけど、でもそれは単に事実として知ったってだけで、記憶としては何一つ思い出せていないんだ。あおいの記憶は空っぽのまま、今だけがただ積み重ねられていって」
尋人はフェンスの前をゆっくりと横切る旅客機を見つめながら、
「俺だけの、勝手な思い込みだったんだ」
「がっかりしたか?」
「……そういうのとは、ちょっと違う。でも、どう思ったらいいか分からなくて、正直まだ戸惑ってる」
「過去を知らされたからといって、それがすぐさま記憶に結びつくとは限らない。頭を強打して、二年近く昏睡状態だったんだろう? だったら尚更だ。人間の脳は、紀元後二千年以上経った今でも謎だらけなんだ。いつか思い出せる日が来るかもしれんし、何一つ思い出せないまま一生を終えるかもしれん。それはあの子自身にも分からない。誰にもどうにもできないことなんだ」
「うん、分かってる。……でも、だから余計に分からなくなるんだ。あおいはいったい何を失って、その代わりにじゃないけども、何を得たんだろうって。失くした末に得たものがあったとしたら、それはあおいの心を少しでも埋めたのかな」
尋人はそこで少し言葉を止めた後、ぽつりと本音を零した。
「……俺はあおいを守れたのかな」
無言で耳を傾けていた健人は、やがて煙草を口から離して紫煙を大きく長く吐き出した。
「それもこれも全部、今はまだ分からない。これからだってそうだろう。一緒にいたって同じことだ。それも全部分かった上で、お前はあの子を選んだんだろう?」
尋人はこくりと頷く。
「絶体絶命のピンチに現れて命を救うことだけが守ることじゃないさ。あの子はお前がいなければ、ここに辿り着くことはなかった。あの子が死なずに今も生きているのは、運とかそんなものとは別に、お前の心があの子を守っていたからだ」
健人は煙草をくわえ直し、
「なあ尋人、何かを守るっていうのはな、行動ばかりが全てじゃないんだ。その心に触れて、その中に存在し続けるってのも、守ることの一つになる。あの子にとってお前は、そういう唯一の存在なんだよ。なら、答えは初めから一つじゃねえか」
「そう、だね。……うん」
健人は煙草を持たないもう片方の手で、尋人の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。その乱暴な手つきに顔をしかめながらも、尋人は気付けば笑っていた。
「俺も、頑張らなきゃな」
「ああ、頑張れ」
「しかし二年かあ……。長いな」
「盆と正月は帰国するって言ってたろ」
「うん。でも何か、長いなあ……」
空を眺めながらぼんやりと呟く尋人に、健人は意地の悪い笑みを浮かべる。
「寂しいか?」
「……そりゃあまあ」
「ガキが生意気に惚気やがって。大学生になったからって、そこらの可愛い女子大生と浮気すんなよー」
「ばっ、そ、そんなことするわけないだろ!」
尋人は顔を真っ赤にして言い返す。健人はげらげらと笑い転げていたが、ふいに紫煙が気管に入ったのか、いきなり何度も激しく咳き込んだ。その様を見て、今度は尋人があははと笑い声を立てた。
笑いながら見上げた空は変わらず青く、だがほんの少しだけ、先程までにはなかったきらめきが放たれている気がした。尋人はその彼方に広がっているだろう深い青と、異国の地へ旅立っていったあおいを思う。
先のことは誰にも分からない。だが、明日はこれからも変わらず訪れ続け、やがて太く長く伸びる一本の道へ繋がっていく。目には見えないというだけで、確かなものは未来の中にきっとあるのだ。そして、そこへ辿り着くまでの道のりは、独りで歩むものでは決してない。
尋人は青空へ向かって手を伸ばす。広げた指の隙間から眩い陽射しが零れ落ち、見上げた青はどこまでも晴れやかに澄み渡っていた。
飛行機の窓から覗く空は、初めて目にする種類の青さをしていた。雲の上を行く感覚は何とも形容しがたい不思議さで、いつまで経っても体にしっくりと馴染んでくれない。
「あおいちゃん」
隣の美弥に話しかけられ、あおいは我に返って振り向いた。
「大丈夫? 酔っちゃった? 飲み物、頼もうか」
「いえ、大丈夫です。乗る前に飲んだ酔い止めが、ちゃんと効いてくれてるみたい」
「そう? さっきからずっと窓ばかり見てるから、心配になっちゃったわ」
「ごめんなさい。飛行機初めてだから、珍しくて」
「飽きない?」
「はい、全然。ずっと見ていたいくらい、綺麗で」
「ならよかった。長旅になるから、眠くなったら寝ちゃっていいからね」
美弥はそう笑いかけると、ブランケットを胸まで引き上げた。どうやら眠りに入るらしい。あおいは再び窓の外に目をやった。
大型旅客機の中は静かだ。座席の座り心地も、思っていたより悪くない。サービスも丁寧で、ベルトサインが消えるとすぐにブランケットと飲み物がもらえた。
あおいはしばらく窓を眺めていた。空の青に目を奪われ続けるあまり、時間の感覚をつい忘れてしまいそうになる。
無意識に膝に手を置いた時、そこに本があることを思い出した。あおいは窓から視線を外して、両手で持ち上げたそれを見つめる。
冬景色をテーマにした、東山魁夷の画文集だ。何度も読み返した跡のある、あおいにとって数少ない宝物の一つ。
あおいは付箋の貼られたページを開いた。音を立てないようそっとめくると、鬱蒼と茂る森の中に一頭の白馬が佇む絵が現れる。
心の奥に、焦げ跡のようにこびりついて消えない感情があった。この絵を見るといつも、まるで鏡に映る自分と対峙しているような、白馬に心のひだまで見透かされているような気持ちになって胸が詰まる。
あおいは白馬の額にそっと指先を滑らせた。群青に染まったその森には、見る者の心をちりちりとひりつかせる何かが眠っている。その感傷は瞳に映った途端音もなく目覚め、誰にも聞こえない声で何かを微かに語りかけてくるのだ。
錯覚にも似た形なきそれを、あおいはとても大切なものだと思った。忘れてはいけない、失くしたくない何かがそこで息を潜めている。そんな風に思えてならなかった。
「とても、大切……」
あおいは画文集をぎゅっと抱き締めた。窓の外に目を向けると、そこには空の爽やかな色が広がっている。その深みに目を凝らすと、体だけでなく心の底までが瑞々しい青で澄み渡っていく心地がした。
やっと取り戻した。あたしを。あおいを。
どこまでも続く曇りなき空に、あおいは淡く微笑みかける。ひたひたと胸を満たすその色は、生きているかぎり消えない痛みと切なさを、安堵よりも優しく柔らかに包んでくれていた。
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