第7節:寸前
ある人が言った。「神は死んだ」と。
僕にとって、それは当たり前だったのかもしれない。ただ自明の理だった。いや、これは自惚れなのだろうか。誰もが神の死を認知しているのかもしれない。しかし、誰もがそれを事さらに口にすることがないだけなのかもしれない。だがそれなら、この比喩を、誰もが理解しているというなら、なんと脳天気な者の多いことだろうか。
人は神を殺せても、善悪そのものを殺すことなど出来はしない。
君たちはきっと思う筈だ。これは単なる悪の物語に過ぎないのだと。
しかし出来ることなら、僕だってそう思いたかった。
彼女を夜の街で見つけたこと。これはあまりにも出来すぎていた。
その日、僕は彼女を夕食に誘ったが断られた。
「今日は先約があるんだ」という彼女の言葉に、僕は一瞬で思いを巡らした。それは、どういう先約なのか。僕の思考は崖っぷちまで進んでいった。
彼女の左目は、どこか浮ついていたような。
すっかり気がおかしくなっていた僕は、大学が終わって彼女と分かれると家にも帰らずただふらふらと歩き始めた。大学の近くの住宅街をあてもなく歩いた。僕を見かけたご婦人方は不審者か何かだと思ったに違いない。僕は呆けた顔をしていただろうから。それを自覚していながらも、僕はもうどうしようもなかった。
ゾンビのようにすり足していた僕はいつの間にか住宅街を抜け、橋を渡って、日も傾いた夜の繁華街に到達していた。徒党を組んで歩くサラリーマンや、自分と同じくらいの陽気な大学生の群れが闊歩する。それを見て、僕は無性に腹が立ってきた。
ガヤガヤとした話し声。笑い声。無秩序な足音の洪水。やめろ、やめてくれ、今日だけは。なんだか吐き気もしてきた。
こんなところに居たらおかしくなる。ついに僕が踵を返し帰ろうとしたそのとき、あの後ろ姿が目に入った。
腰まで届く長い黒髪、上品で落ち着いた服装。
「"彼女"だ」と僕は無意識に口にしていた。そして彼女は、隣を歩く男に腕を絡めていた。後ろ姿で顔や齢はわからないが、背広を着ていてガッシリとした体格の男である。
僕はゾンビから夢遊病者になったように、さらにフラフラとなって後を追い始めた。
ああ、ここから先は事実だけ述べよう。僕が見たありのままを。
二人はそれから繁華街から少し外れたコインパーキングに行った。そして黒い高級外車に乗り込んだ。走り出して、郊外の方の道に出ていった。僕は小走りに追いかけた。追いつくかどうか、追いついてどうするかなんて考えていなかった。
黒い車の後ろ姿を見失ってから2時間ぐらいが経っていただろうか。僕は橋の上に居た。街を流れる川の、小さな橋だ。左右には暗く寝静まった家々が広がっている。ここから見える街灯は、川に沿った細い道の一本だけ。僕は橋の手すりに寄りかかって、ただぼーっとしていた。
そのとき、その川沿いの道の街灯の奥に、僅かながら鈍い光を見つけた。目を凝らすと、普通車が止まっているんだと気づいた。「まさか」とつぶやいた気がする。僕はその車に近づいていった。ゆっくり、すり足するように。
街灯の下まで行くと、たしかに彼女が乗った車だとわかった。偶然というのは、本当によく出来すぎている。
僕はそのまま近づいて、車の左横に立ち、中を――。
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