第4節:侵食
彼女と"友達"になって一ヶ月半ぐらいが経った頃、僕は彼女と"デート"をする決意をした。
いつものように、一緒にランチを食べながら、僕はその話をいつ切り出そうか迷っていた。ほんの些細なことにも関わらず、僕は優柔不断になっていた。ただ一言、今度遊びに行きませんかと言えば良いのだ。僕はなんと小心なんだ。目の前で実に美味しそうにサラダを食べている彼女の方が、よっぽどハキハキとしていて男らしいのではないか。こんなことではいけない、とついに切り出そうとしたとき、不意に彼女が口を開いた。
「柳、うちの大学の良い点は何だ」
「良い点?」
「そうだ。利点と言ってもいい」
「うーん、そこそこ名前の通りが良いから、学歴としてはまずまずなところ」
「はは、たしかに」
「宮前さんは?」
「私が思うに」
すっ、とフォークを僕の顔の前に出した。
「博物館や美術館に無料で入れるところだ」
「え、そうなんだ」
「知らなかったか?」
「行かないから」
「もったいない」
彼女はハンドバッグからスマートフォンを取り出して操作し始めた。ちなみにハンドバッグはダークブラウンの小振りなもので、スマートフォンは黒で手帳タイプのカバーが付いている。どちらも"可愛さ"とは無縁で、"格好いい"部類だ。
「見ろ」
彼女はスマートフォンをこちらに寄越した。
「このT大が提携している博物館と美術館の一覧だ」
そこには数十の名前が並んでいた。
「こんなに。知らなかったよ」
「うん。ついては…今週末にその中のどこかに行かないか、という相談だ」
「えっ」
彼女の左目は、少し上目で僕を見ていた。
「ダメかな…?」
「そんな、とんでもない!行こう、ぜひ行こう」
それから、僕たちはどの場所に行くか話し合った。僕は嬉しくて仕方がなかった。だって、あの彼女の方から誘われたのだから。僕の心配は全て吹き飛んで、もう今週末に彼女と過ごす一日のことだけで頭が一杯になった。
僕が上野の国立西洋美術館に行ったことがないと知るや、彼女は随分と驚いていた。理由は?
「あなたはインテリに見えたから」
彼女は僕にそういう性質を期待していたのだろうか。
「なら行こう。ちょうど特別展で面白そうなものをやっているしな」
とにかく僕たちは、土曜日に"デート"することにした。
金曜の夜、僕は夢を見た。
静寂に包まれた小高い丘の上に、赤い屋根の小さな家が有る。そこには彼女と、"ガイコツ"が住んでいるのだ。二人は家の外にあるテラスのテーブルに着いて座っている。僕の視点は、その様子を遠くに感じるほど丘を下ったところにあった。でも彼女の声だけははっきりと、耳元に感じるのだ。彼女は真っ白なワンピースを着ていた。
「人間が"生きている"と言えるのは、どの時点からだと思う?こんなことで悩むのは人間だけだと思う。馬鹿らしいことだ。だが考えずにはいられない」
ガイコツは何も返事をしない。いや、できないのだ。
「ある人は出産されたときからだと言う。またある人は妊娠22週以降から生きているのだという。卵割を始める前の受精卵の段階から生きていると言う人もある」
ガイコツはギシギシ音を立てながら腕を動かすと、テーブルの上で手を組んだ。
「それらはくだらない、無意味な考えだ!なぜならそれらは、ある事物との相対的な生を示しているに過ぎない!死んでいないから生きているというのと同じ無茶苦茶な論理だ」
ガイコツはガタガタと貧乏ゆすりを始めた。
「私は思う。人間とは意志だ。意志の生き物だ。自我を、意志を持つことこそが生なのだ。では意志とは?私たちはどこで、いつ、自分を認識するのだ?」
ガイコツは不意に貧乏ゆすりをやめた。
彼女は椅子から立ち上がって叫んだ。
「私は覚えている!私が私を生たらしめた瞬間を!私が、私自身を呼んだとき!そのときに私が始まったのだ!」
「ハハハハハ!」
ガイコツは突如笑い始めた。彼のむき出しの喉にもちろん声帯は無い。
「自我無き人間は人間に非ず!いや、自我こそが人間なのだ!!」
「うわあああああ!!うううわああああああ!!!」
ガイコツは叫びだした。まるで脚を地雷で吹き飛ばされた兵士のように。
「そうだろう、柳!?」
彼女の両目と、ガイコツの空虚な眼孔が僕を刺したとき、あやふやだった世界がくっきり見えた気がして、たまらず僕は跳ね起きた。
時計は午前四時半を回ったところだった。壁に掛かったその時計の下には、今日のため買っておいた新しいコートが掛けてある。
「…我ながら、どうかしているな」
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